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2025年8月30日 (土)

ブログを始めて20年、平和への思い Part2

戦後80年という節目の夏を迎え、多くのメディアが戦争の悲惨な実相を伝えていました。つい最近、NHKプラスでcocoon~ある夏の少女たちより~』というアニメを視聴しています。沖縄戦、ひめゆり学徒隊の悲劇を着想に描かれた物語でした。

壕の中の病院に看護隊として動員された少女たちが、住民を守るべき軍隊から壕の外に追い出され、砲弾が飛び交う中、自力で逃げなければならなかった過酷な末路を描いています。視聴者の評判は、たいへん美しい映像を評価しながらも、ストーリーに関しては賛否が分かれていました。

私自身の評価も「今一つ、感情移入できなかった」というものとなります。物語の最終盤では手榴弾を持った少女を囲み、皆で自決しようとする光景が描かれていました。沖縄戦での史実を下敷きにし、戦争の理不尽さや悲しみを随所で伝えている作品であることは確かです。

ただ銃弾で撃たれた時の血飛沫は、カラフルな花びらが散るように描かれています。死体の描写も皆無に近かったと言えます。動画『月桃の花』の中で映し出されているようなモノクロの記録映像をはじめ、沖縄現地の記念館で当時の写真や資料等を見聞きしてきた一人として抱いてしまった今回のアニメに対する感想です。

幼い子どもたちに対し、刺激の強すぎる描写は避けるべきという考え方もあり、これまで漫画『はだしのゲン』の取扱いが議論されがちでした。このあたりについて12年前に「漫画が語る戦争」という記事を投稿し、私自身の思いを次のように書き添えていました。

戦争のことを考える時、戦争で実際に起こった事実を知ることが大切です。私自身、『はだしのゲン』の連載が始まる数年前、『ある惑星の悲劇』という漫画に出会っていました。その漫画を通し、初めて原爆のことを知りました。小学校の低学年のことでした。

原爆投下後、建物の下敷きになって、生きたまま焼かれていく子どもたちに「熱かったろうな」と感情移入していたことを覚えています。その漫画との出会いが「戦争は嫌だ、戦争は起こしたくない」という思いの原点だったかも知れません。

このような実体験があり、小学校低学年でも原爆の事実と充分向かい合えるものと思っています。そのため、NHKが放映した今回紹介したアニメも、もう少しリアルさを追求したほうが良かったように受けとめていました。

前回記事「ブログを始めて20年、平和への思い」の中で、戦争の悲惨さや実相を知り、絶対起こしてはならないという思いだけで決して戦争を抑止できないという現状の悩ましさを訴えていました。今回「とは言え」という主旨の内容を書き進めてみるつもりであり、記事タイトルに「Part2」を付けています。

2020年11月に投稿した記事「グローバルな話題に一言二言」の中では「地球温暖化や感染症対策など自国中心主義では解決できない地球規模の問題に直面している今、よりいっそう国際的な連帯が強く求められているはずです」という言葉を残していました。残念ながら真逆な流れの現状です。

前回の記事でも触れた問題意識ですが、大地震や感染症など自然界の脅威は人間の「意思」で抑え込めません。しかし、戦争は権力者の「意思」や国民の熱狂によって引き起こされるため、人間の「意思」によって抑えることができるはずです。平和を願う際、このような思いを強めています。

敗戦必至だった対米戦争も、メディアや国民の後押しする声がありました。読売新聞の『戦時中の新聞投書が伝える「平等主義」の圧力』という記事では、国民側に敵国への恐怖や憎しみがあり、「日本が負けるはずはない、勝つまで戦い抜く」という空気に覆われた時代だったことを伝えています。

現在の国際社会で、ウクライナが強いられているような自衛のための戦争は認められています。一方で、ロシアの軍事侵攻は国際法違反であり、明らかな侵略戦争です。そのため、ロシア側は「軍事作戦」と称し、さらに様々な言い分のもと自ら犯している行為の正当性を主張しています。

ちなみに1928年、日本は不戦条約に調印していました。1931年の満州事変から日中戦争に突入し、1945年8月の終戦までを十五年戦争とも呼びます。しかし、国際的には「戦争をしない」と表明していたため、1937年の盧溝橋事件以降も決して戦争と認めず、当時の日本は「事変」と称していました。現在のロシアの姿勢に重なるような詭弁でした。

1941年12月に真珠湾を攻撃した後、日本は盧溝橋事件以降を改めて「大東亜戦争」と自称するようになっています。太平洋戦争が勃発するまでのアメリカは中立政策を取っていたため、戦争当事国に石油などの物資を輸出しない方針でした。アメリカからの石油に依存していた日本は、このような事情もあって「戦争」と言えなかったようです。

週刊文春の「戦後80年を紡ぐ」という特集記事で、このような経緯などを池上彰さんが徹底解説していました。その記事の冒頭では、参政党の神谷宗幣代表が「日本は中国で自衛のために戦っていた」と発言していたことを取り上げ、驚くべき認識であると批判し、次のように語っています。

当時、日本軍は中国大陸にいたのです。なぜ日本軍は中国大陸にいたのでしょうか。中国での権益を求め、中国の関東州に軍を置いていたからです。他国の領土に、その国の許可を得ないで軍隊を送りこむことを「侵略」と呼ぶのではないですか。他国の軍隊が侵略してきたら、それに対抗しようとすることは自衛の権利です。それを神谷代表は「テロ工作」と呼んでいるようです。

参政党の他の議員も『「信じてる人がまだいるのか」参政党・初鹿野議員 国も認めている「南京事件」を否定で批判続出…専門家は「歴史事実を誤魔化してはいけない」と警鐘』という記事が伝えていますが、過去の日本の行為を全面的に肯定するような歴史認識を示しています。

歴史は変えられません。しかし、猛省すべき事例があったとすれば、二度と同じ過ちを繰り返さないよう教訓化していくことが重要です。それにも関わらず、戦争の記憶を身勝手な解釈で都合良く書き換えてしまえば、歴史から学ぶべき教訓が活かされず、過ちを繰り返していくことになりかねません。

反戦平和を唱え、戦争の悲惨さを伝えていくだけでは戦争を防げません。とは言え、実際にあった戦争による悲劇の数々を継承していく試みが途絶えれば、過去を教訓化する機会そのものが薄れていくことになります。ブログを始めて20年が過ぎ、ますます戦争の実相を知った上で、戦争について語ることが大事な時代になっているように感じています。

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2025年8月23日 (土)

ブログを始めて20年、平和への思い

前回記事「ブログを始めて20年」の最後に「20年という節目を迎え、いろいろ書き記したいことが思い浮かんでいます」と記していました。戦後80年という節目の年でもあり、今回の記事は「ブログを始めて20年、平和への思い」というタイトルを付けて書き進めていきます。

8月に入ってからテレビ、新聞、雑誌で戦後80年にちなんだ特集が多く組まれていました。他に興味を覚えた話題の記事が載っていたため、久しぶりに週刊ポスト週刊文春を購入しました。「あの戦争の真実」「戦後80年を紡ぐ」という特集記事があり、それぞれ興味深く目を通しています。

NHKスペシャル『シミュレーション~昭和16年夏の敗戦~』はNHKプラスで前後編を視聴しています。『雪風 YUKIKAZE』は小説版を手にして最近読み終えたところです。その前に読み終えていた『財閥、最後の日』も戦争の理不尽さを伝える小説でした。

なぜ、戦争は防げず、敗戦必至の対米戦争に突入したのか、戦前戦中だった時代の空気感を感じ取っていました。一つ一つ掘り下げていけば、途方もない長さのブログ記事となります。今回、記事タイトルに掲げたとおり20年前から現在という時間軸に焦点を絞り、私自身の平和への思いを書き起こしてみるつもりです。

ブログを始めて1か月が過ぎた2005年9月18日「組合の平和運動」という記事を投稿しました。このブログで初めて平和に関わる題材を取り上げた訳ですが、それ以降平和の話、インデックスⅣ」があるとおり膨大な数の記事を投稿しています。初回となる記事の中では下記のような問題意識を伝えていました。

武力によって平和は築けないことを教訓化すべき国際情勢の中、徹底的な平和主義を謳った日本国憲法の理念を世界へ発信することが重要だと考えています。しかし、残念ながら改憲論議が高まる中、世界に誇るべき個性的な平和憲法が「戦争ができる普通の国」の憲法と同じように変えられてしまう危機を迎えています。

大多数の人は戦争に反対し、反核平和を願っているはずです。一方で多様な価値観や情報があふれる中、旧態依然の平和運動だけでは何か行き詰まっている気がしています。個別的自衛権、国際貢献のあり方、北朝鮮の拉致や強制収容所の問題など、平和は大事だという総論は共通しても、各論への解決方法については人それぞれ考え方が分かれてしまいそうです。

上記のような問題意識を示した後「このような時代だからこそ、組合の平和運動は、ともに感じ、ともに考え、ともに行動できるスタイルが大切だと考えています」と続けていました。20年前と比べ、変わったこと、変わっていないこと、様々な事柄が思い浮かんでいます。

まず私自身の考え方です。基本的な考えは変わっていませんが、このブログを長く続けてきた中で、より鮮明に見えてきたことがあります。「大多数の人は戦争に反対し…」と記していましたが、「誰もが…」という見方に変わっています。

誰もが戦争は避けたいと願っているはずであり、例えば集団的自衛権に関わる安保関連法を推し進めた安倍元総理も決して例外ではないという認識を深めています。憲法9条を改めようとしている人たちも戦争を肯定的にとらえている訳ではなく、平和を築くための手法に対する考え方の相違だろうと理解するようになっています。

このあたりについては6年前「平和の築き方、それぞれの思い」「平和の築き方、それぞれの思い Part2」という記事などを通して詳述しています。ちなみに青年婦人部の役員だった頃の私自身の問題意識は8年前に投稿した「平和への思い、自分史」「平和への思い、自分史 Part2」の中で明らかにしていました。

知り得た戦争の悲惨さを部員や組合員に伝える、このような広げ方が平和を築くための運動だと考えていました。青婦部を卒業してからも、しばらくは平和をアピールすることや軍事基地に反対することが大事な行動だろうと認識していました。

もちろん多くの人が戦争の悲惨さや実相を知り、絶対起こしてはならないという思いを強めていくことは重要です。しかし、そのような思いだけでは決して戦争を抑止できないことを痛感するようになっています。

フルオープンのコメント欄で幅広い考え方や立場からの意見に触れていくことで、ますます上記のような思いを強めてきました。そのため、いわゆる左と右の立ち位置からの二項対立的な関係性に陥ることなく、具体的な事例等を示しながら何が正しいのか、どの選択肢が正しいのか」という論点提起の大切さに思いを巡らしてきました。

このブログを長く続けてきたことによって、平和運動のあり方として「憲法9条を守れば平和につながる」という訴えの不充分さを痛感するようになっています。あくまでも強調すべきは平和主義の効用であり、3年前には憲法9条があるから平和を保てるのか?」という記事を投稿しています。

私どもの組合活動の中でも動きがありました。2021年11月の定期大会での質疑応答を受け、翌年の平和や人権問題の組合方針」「平和や人権問題の議論提起」という記事で伝えているとおり平和や人権に関わる組合方針をリニューアルしています。執行委員長を退任する年に組合員の皆さんの問題意識の多様化を踏まえながら、ともに考える機会を得られたことに感謝しています。

2022年2月24日にロシアがウクライナに軍事侵攻し、戦争のもたらす非道さや悲惨さを目の当たりにしています。ウクライナでの戦争は現実的な脅威であり、3月以降「問われている平和の築き方」「ウクライナでの戦争から思うこと」など平和を願う記事を数多く投稿しています。その年の8月平和への思い、2022年夏」は「Part3」まで重ねていました。

2023年10月7日、パレスチナの地で新たな戦火が上がった後「戦火が消えない悲しさ 」「戦火が消えない悲しさ Part2」を綴っています。停戦に向けた動きも見られ始めていますが、たいへん残念ながら現在に至っても、それぞれの地で戦火は上がり続けています。

大地震や感染症など自然界の脅威は人間の「意思」で抑え込めません。しかし、戦争は権力者の「意思」や国民の熱狂によって引き起こされるため、人間の「意思」によって制御できるはずです。そして、国際社会における「法の支配」を揺るぎないものとしていくためにも、武力による国境の変更は絶対認めないという大前提のもとに終結させていくことが重要です。

前々回記事「『新しいリベラル』を読み終えて」の冒頭で、れいわ新選組の参院議員の伊勢崎賢治さんの参院予算委員会での質疑内容について触れていました。戦争を防ぐため、戦争をなくすためにはどうすべきなのか、伊勢崎さんの質問からは示唆に富んだ事例の紹介や提言を見出せます。

今年6月、トランプ政権はイランの各施設を3つ空爆しました。今日、問題にしたいのは空爆に使われたB2ステルス爆撃機がアメリカ本土から飛び立ったことです。イランまで36時間かけてです。イランと目とハナの先カタールには中東最大のアメリカ空軍基地があるのにも関わらずであります。

なぜか? 昨年10月にカタールの首相は米軍基地を他国への攻撃や戦争に使うことを許可しないと明言していました。つまりアメリカに対する拒否権の表明であります。これは主権国家として当たり前のことでありまして、米軍の行動の結果、真っ先に報復のターゲットになるのはアメリカ本土ではなく、カタール自身だからです。

つまりカタール自身の国防のためであります。このおかげでイランによる報復攻撃はカタールの米軍基地のみ。それも極めて限定的、それと儀礼的です。儀礼的な攻撃で収束いたしました。これを日本に当てはめると在日米軍基地が他国への攻撃に使われそうな時、日本がそれを拒否する権利をまず地位協定の中で担保すること。

これが「自由なき駐留」のことであります。そしてカタールがやったように「アメリカが始める戦争に在日米軍基地は使わせない」ということを平時から世界に向けて我々が発信すること。これらは日本の国防。繰り返します。国防にとって必要な措置だと考えます。

伊勢崎さんの質問の中で、上記の内容が非常に興味深く、いろいろ考えを巡らす機会となっていました。この提起から話を広げていけるところですが、今回「ブログを始めて20年、平和への思い」というタイトルを付けた記事は、ここで一区切り付けます。これからも平和を願う話は機会を見ながら続けていきますので、ご注目いただければ幸いです。

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2025年8月16日 (土)

ブログを始めて20年

前回記事「『新しいリベラル』を読み終えて」の冒頭、「広島、長崎の原爆忌から終戦記念日を迎える時期、平和の大切さや築き方について様々な思いを巡らす機会を得ています」と記していました。特に今年は戦後80年という節目を刻んでいます。

「公務員のためいき」は2005年8月16日に開設し、今回の記事タイトルに掲げたとおり20年目を迎えています。このブログにとっても大きな節目です。ちなみに10年前、このブログでは「戦後70年、終戦記念日に思うこと」という記事を綴っていました。

10年前の当ブログの節目について、どのように触れていたのか、前掲した記事の前後も含めて読み返してみました。すると当ブログが10年目という話は、まったく見当たりません。他人事のような物言いで恐縮ですが、サワリ程度には触れているものと考えていたため、記憶の不確かさを思い知らされています。

10年という節目を忘れていた訳ではないはずです。昨年末の記事「気負わず、気ままに1100回」を通して伝えているとおり毎週末に更新し、回数を積み上げていることの意義深さを感じ取っています。労力を惜しみ、気力が萎えてしまえば更新は途絶え「開店休業」状態となります。

それ以外にも様々な事情からブログに向き合えなくなることも考えられます。それでも閉鎖しない限り、年月は流れて行きます。このような点を踏まえ、100回ごとの節目には毎回メモリアルな記事を投稿しています。

したがって、10年前は特別な節目という思い入れが薄く、前述したとおり「完全スルー」に至っていたのだろうと振り返っています。さらに振り返れば、開設してから何年という節目の記事はブログ開設から一年、されど靖国神社」がある程度でした。

今回、ブログを始めてから20年という長さは、やはり私自身にとって感慨深い節目であり、メモリアルな記事として書き進めています。ココログに個人の責任で運営するブログを登録した翌日、2005年8月17日に「民主党と小泉自民党」という記事をインターネット上に発信しました。

初めて自分の言葉がSNSの片隅に加わったことになります。手探りで始めていたため、トップページに今のようなイラストもなく、シンプルなテンプレートで始めています。開設当初は毎日のように投稿し、しばらくして週に数回のペースとなり、1年後ぐらいから毎週1回の週末更新を定着させています。

初回は唐突感のある内容だったため、開設2か月後に「秋、あれから2か月」という記事を「Part3」まで重ね、改めてブログを始めた経緯を伝えています。半年後、2006年2月11日には「このブログを始めたイキサツ」という記事を投稿し、より詳しくブログを始めようと思い立った動機を記していました。

リンクをはった過去の記事を紹介しながら20年間を足早にザックリ振り返ってみるつもりでしたが、「このブログを始めたイキサツ」に掲げられていた内容の一部をそのまま紹介します。ブログを始める直前の2005年の春闘時、自治労都本部の中央委員会で発言した要旨です。

最近、マスコミによる社会保険庁や大阪市へのバッシングが強まっています。そこで疑問に思うことは自治労の存在感の無さです。当該組合の判断や意向を尊重しているのでしょうか。もしくは反論することにより、火に油を注ぐという考えなのでしょうか。

例えが適当かどうか分かりませんが、「従軍慰安婦」関連の番組への政治介入問題で、現在、真っ向から対立しているNHKと朝日新聞の例を考えてみます。真実は一つなのでしょうが、どちらか一方の報道だけ見聞きすると相手が悪いとの印象を持ってしまいます。

要するに、この間の一方的な報道だけでは大多数の国民が「労働組合は悪」とのイメージを抱き、自治労の組合員さえも同様に思い込んでしまう心配があります。確かに組合側も襟を正すべき点は即座に正す必要があります。

しかし、福利厚生や安全衛生の面など組合員のために確信を持ち、労使交渉のルールの中で決めてきた事項が多いはずです。オールorナッシングで否定されていく動きは非常に憂慮すべきことだと思います。

ぜひ、このような時だからこそ、一単組だけではどうすることもできない重大な問題に対して、本部機能を発揮し、言われ放題、打たれ放題の事態から反撃してもらいたいと強く願います。

関連して付け加えさせていただきますが、組合員動員型の決起集会、地域や駅頭でのビラ配布行動も重要ですが、単組の役員や組合員の負担が大きいわりに多くの人たちへのアピール効果が薄いものと感じています。

従来型の汗をかく、体を動かす運動の大切さを否定するものではありませんが、効果的な方法によるマスコミ対策、影響力のある学者や議員団との連携、インターネットの利用など、予算を集中的、効率的に使う費用対効果を考えた運動の工夫、検討も行なっていただきたいと考えています。

上記は自治労都本部に対し、このような趣旨の意見反映を自治労本部へ行なうよう求めた発言でした。この発言内容は比較的、好感を持って受けとめていただけたようでしたが、全体的な運動スタイルに大きな変化をもたらす一石にはなり得ませんでした。

このような問題意識を強めていたため、ささやかな試みとして個人の責任でのブログを2005年8月に開設しています。本当に自己満足的な取り組みですが、「襟を正すべき点は正す」ための率直な意見を聞く場であり、「主張すべき点は主張する」ブログとして20年間続けてきています。

現在、フルオープンなコメント欄は閑古鳥が鳴き続けていますが、開設してから10数年は貴重なコメントが毎回数多く寄せられていました。不特定多数に発信しているブログであり、匿名だからこそ伺える率直な意見に触れることができ、たいへん手厳しい批判を肌で感じる機会を得られたものと思っています。

公務員やその組合に対し、そのような声があることを受けとめて日常の職務や組合活動に向き合えるのかどうかで言えば、向き合えることの貴重さに感謝してきました。批判意見と誹謗中傷の違い」という記事があるとおり一定の線引きについてもお願いしながら、いろいろな「答え」を認め合った場として多くの皆さんから幅広い意見が寄せられることを常に歓迎しています。

20年という節目を迎え、いろいろ書き記したいことが思い浮かんでいます。ただ過去の記事内容の一部を紹介したため、いつものように長文ブログとなっています。そのため、このあたりで「ブログを始めて20年」という記事は一区切り付けます。「Part2」とするかどうか分かりませんが、この続きは次回以降の記事に託していきます。

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2025年8月 9日 (土)

『新しいリベラル』を読み終えて

れいわ新選組の参院選比例代表特定枠で初当選した伊勢崎賢治さんが参院予算委員会で質疑の場に立ちました。石破総理は「今でも先生だと思っております」と敬意を表しながら答弁されていました。その国会質疑のやり取りはネット上の動画を通し、すべて視聴できます。

伊勢崎さんは研究者でありながら日本政府特別顧問としてアフガニスタンの武装解除を担当し、東チモールやシエラレオネなどでも国連を通した活動に尽力されてきました。前回記事は「問われる政治家の言葉の軽重」でしたが、伊勢崎さんの質問内容の重みと質の高さは際立っています。

広島、長崎の原爆忌から終戦記念日を迎える時期、平和の大切さや築き方について様々な思いを巡らす機会を得ています。戦争を防ぐため、戦争をなくすためにはどうすべきなのか、伊勢崎さんの質問からは示唆に富んだ事例の紹介や提言を見出せます。このブログで平和の課題について取り上げる際、改めて紹介できればと考えています。

今回、定番化している「『〇〇〇』を読み終えて」というタイトルを付けた新規記事に取りかかっています。東京自治研究センターの季刊誌「とうきょうの自治」の連載記事「新着資料紹介」の締切が間近であり、入稿する原稿内容を意識しながら書き進めています。

これまで『足元からの学校の安全保障  無償化・学校教育・学力・インクルーシブどうせ社会は変えられないなんてだれが言った? ベーシックサービスという革命会計年度任用職員の手引き』『「維新」政治と民主主義公営競技史』『承認をひらく官僚制の作法 賃金とは何か自治体職員の「自治体政策研究」史』を紹介し、次号は『新しいリベラルを取り上げます。

それらの書籍を題材にした当ブログのバックナンバーは「ベーシックサービスと財源論 Part2」「会計年度任用職員制度の課題」「新着資料紹介『「維新」政治と民主主義』」「『公営競技史』を読み終えて」「『承認をひらく』を読み終えて」「『官僚制の作法』を読み終えて」「『賃金とは何か』を読み終えて」「『自治体職員の「自治体政策研究」史』を読み終えて」という記事タイトルのものがあります。

ちなみに季刊誌の原稿の文体は「である調」で字数の制約もあり、そのまま利用できるものではありません。先にブログ記事をまとめるパターンは、いつも気ままに書き進めるため3000字以上の長文となりがちです。その内容を基本に入稿用の原稿に移す訳ですが、1300字程度に絞るこむ作業には毎回苦労しています。

今回の著書『新しいリベラル』の副題には『大規模調査から見えてきた「隠れた多数派」』と掲げられています。シノドス国際社会動向研究所所長の橋本努さん、立命館大学産業社会学部現代社会学科教授の金澤悠介さんとの共著です。リンク先の著書の紹介文やレビューは次のとおりです。

「新しい」政治が始まる!? 実は日本には「新しいリベラル」と言いうる人々が存在することが、7000人を対象とする社会調査から浮かび上がってきた。この人たちが求めるのは、私たちの「成長」をサポートする政治だ。「新しいリベラル」は最多数派を占めるのに、これまで見落とされてきたのはなぜか?「従来型リベラル」や保守層など他の社会集団と比較しながら、「新しいリベラル」が日本政治に与えるインパクトと可能性を示す。

この著書は、社会思想史・社会哲学の専門家の橋本さん、社会調査研究の専門家の金澤さんがコラボして生まれています。それぞれの専門分野は研究対象や研究方法が大きく異なっているため、一見すると交わり合うことのない領域の研究者のコラボは目新しく、だからこそ新しいリベラルという存在を可視化できたと評されています。

あとがきには「日本や海外の思想的な文脈を踏まえ、新しいリベラルを概念規定し、それに沿うようなかたちで社会調査を設計・実施することで、解像度の高い新しいリベラル像が描けたのではないかと自負している」とも記されています。そのような言葉に違わない貴重な共同研究の成果をまとめた著書だと言えます。

3年前、2022年7月の参院選直後、性別、年代、居住地域が日本の縮図となるような割合の対象者7千人を抽出し、それぞれの政治意識を明らかにする大規模な社会調査を行なっていました。従来の調査においては「リベラルや保守とは、こういうものだ」という想定を人々に当てはめる方法がとられます。

著者らの調査は少し異なり、社会的投資などに関して様々な質問をし、その回答にどのような傾向があるかを解釈していく中で、回答のパターンをもとに分類する「潜在クラス分析」という方法を採用していました。このような可視化のための研究戦略のもとに、著者らは六つの社会層を導き出しています。

従来型のリベラル18%、新しいリベラル23%、成長型中道13%、福祉型保守16%、市場型保守9%、政治的無関心20%、このようなグループに分類し、その比率を著書の中で明らかにしています。新しいリベラルの割合が突出している訳ではありませんが、政治的無関心を上回る最多数でした。

著書『新しいリベラル』は第Ⅰ部「これまでのリベラル」、調査結果を踏まえた第Ⅱ部「新しいリベラルの全体像」という2部構成となっています。旧リベラルとは何か、新しいリベラル以外の五つのグループの特徴など興味深い箇所が多々あり、読み進める際に付箋を貼った頁は20箇所を超えていました。このブログ記事では、新しいリベラルに関する記述に絞って紹介した後、著者らが抱かれている問題意識につなげていくつもりです。

新しいリベラルは、成長を志向する人たちへの政府の支援を支持するとともに、子どもや孫世代の活躍のために、政府に対して子育て支援や教育の充実を求めています。経済的な平等とは、再分配による「所得の結果的平等」をめざす考えがあります。それでは現在世代における平等にすぎず、社会全体の繁栄を維持し、将来世代の所得も考慮した平等を実現するためには社会的投資が必要、新しいリベラルはそのような方向性を重視しています。

自分自身の政治的な立ち位置をリベラルだと認識している人は少なく、明確なイメージを持っていない人が多いようです。日米安保条約や従軍慰安婦問題など「戦後民主主義」的価値観に根差した政治的争点には深くコミットしませんが、非核三原則や多様性について肯定的であることが特徴です。

新しいリベラルは「絶対平和主義のような非現実的な理想には共感しないけれども、たんなる軍事的なリアリズムを支持するのでもない」と分析した上で、著者らは「日本が世界平和に向けて、長期的な視野をもって何らかの行動をすべきと考えているのではないか」と見立てています。

戦後政治で憲法改正や外交・安全保障問題を核とする保革対立の図式が長く続きました。冷戦構造が崩壊した1990年代以降、自民党のライバル政党(民主党など)が中道に位置し、自民党との政策上の違いが分かりづらくなっています。革新勢力がリベラルと名乗るようになったのも1989年の東欧革命以降のことでした。

リベラルと称するようになった人たちは現実的な社会民主主義(すなわち福祉国家)をめざすようになっていました。ただ現在、リベラルという立場が批判される場面も目立ちます。従来のリベラル派の主張が広がりを欠け、政党レベルや社会運動レベルにおける長期的なトレンドでは衰退しつつあります。

しかし、著者らの社会調査の結果から明らかになっている点として、従来型のリベラルと新しいリベラルを合わせた割合は4割を超えています。社会的投資を通じて福祉と社会の発展を両立させるという分類で考えれば、成長型中道も同じ政治的なグループに位置付けられ、その割合は53%に及びます。

リベラルという言葉自体、たえず刷新される可能性が開かれています。新しいリベラル的な価値観を持ちながら、普段はその価値観を強く自覚していない人たちも少なくありません。このような点を踏まえながらも、新しいリベラルが多数派として存在することを理論と実証の両面で可視化できたことも確かです。

著者らは「新しいリベラルは、存在する。けれども現在の日本政治は、それをうまく捉えていない」と指摘し、「新しいリベラルの声が政治の世界に届きにくいというのは、いまの日本社会にとって、大きな損失である」と主張されています。

今年7月の参院選では物価高対策のための減税や給付金が公約の目玉とされ、新しいリベラルの声を反映した政策が争点化されることはありませんでした。選挙結果は「手取りを増やす」や「日本人ファースト」を前面に打ち出した政党が躍進しています。

この結果に対し、朝日新聞の記者だった鮫島浩さんは『「最大の敗者は立憲」──リベラルの敗北に見る政治の構造変化』というブログ記事を投稿されています。確かに従来型のリベラルは衰退気味です。

逼迫した現状の改善が優先されていく政治は、もちろん必要です。さらに現在世代の直接的なメリットを強調しなければ選挙戦が厳しくなることも理解しています。それでも新しいリベラルという価値観を持った国民が多数であることを意識し、もう少し将来世代に向けた社会的投資の必要性をはじめ、多様性や平和主義のあり方などの議論も深めて欲しかったものと思っています。

そもそも新しいリベラルは、岩盤支持層で固められている訳ではありません。自分たちのニーズをくみ上げてくれる信頼すべき政党が定まっていなければ、政治的価値観が必ずしも合致していない政党でも消極的な理由で選択し、それぞれの投票先は分散していくことになります。

興味深いことに著書の中には、与党が過半数の議席を獲得できない結果を見通したような記述もあります。もともと著者らが見出した六つのグループは、すべて少数派です。したがって、自らの政治的な考えを政策に反映させるためには他のグループと手を結ばなければなりません。

考えを異なる人々と連合することは難しくても、政党の連合体を構築しなければ、まともな政治を実現できません。本音では引き受けたくない政治上の責任を、あえて引き受ける覚悟を持った政治家に対し、有権者である私たちも敬意を払わなければならない、このように記されています。

そして、著者らは「いまの日本の政治に必要なのは、各党が連合を形成したり再編したりするための、高次の思想や理念である」と訴えています。『新しいリベラル』を読み終えて、その旗印とすべき理念として、新しいリベラルが実際の政治の場面で掲げられていって欲しい、このような著者らの問題意識を感じ取っていました。

最後に、今回も長いブログ記事となっています。それでも重要な箇所を漏らし、著者の橋本さんと金澤さんらの意図をしっかり伝え切れていなかったのではないかと心配しています。これから「新着資料紹介」の入稿原稿に取りかかる訳ですが、これまで以上に簡潔な文章にまとめるための取捨選択に頭を悩ませるのだろうと思っています。

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2025年8月 2日 (土)

問われる政治家の言葉の軽重

驚きました。学歴詐称問題で7月中に辞職することを表明していた伊東市の田久保真紀市長の記者会見は、津波対策を理由に延期するような話になるのかも知れないと思っていました。注意報が解除された木曜夜、予定通り会見は開かれました。しかし、明らかになった内容は約束を反故にする続投表明でした。

続投表明の伊東市長、直前に「全部長の総意」で辞職促されても拒否…一夜明けて企画部長が明らかに』という報道のとおり田久保市長が7月31日に記者会見を開いてから翌8月1日午後4時までに約1100件の電話やメールが寄せられ、ほとんどが「なぜ辞めないのか」など批判の声だったようです。

田久保市長が7月2日の会見で、東洋大は「卒業でなく除籍だった」と明かして以降、電話やメールの総数は4200件を超えています。これだけでも市の業務に大きな負担をかけているのにも関わらず、ごく少数であるはずの続投を後押ししてくれる声があるという説明によって、辞職を撤回したことに驚愕しています。

これまでの田久保市長の対応ぶりから考え、応援する声があるという説明すら本当なのかという疑問を抱かざるを得ません。先月の記事「参院選公示、少し気になること」の中では田久保市長の学歴詐称問題に触れ、次のような思いを書き添えていました。

詐称していた問題そのものよりも、告発されてからの不誠実な対応ぶりこそ首長としての資質が厳しく問われています。重い責任を負う政治家やリーダーの欠かせない資質として、正直に語るという誠実さが極めて重要な点だと思っています。

ここまで誠実さに欠け、自ら発している言葉の軽重が問われる政治家は極めて稀であって欲しいものです。実は前回記事「参院選が終えて、2025年夏」の中で触れようと思っていた話題があります。『立花孝志氏、政界引退を撤回  今後は兵庫県で活動していく宣言も「一旦クリアに」』という話です。

参院選で「NHK党が国政政党に復帰できない場合かつ、立花が兵庫県選挙区で落選した場合もやめます」とし、目標を達成できなかった場合は政界を引退することを立花党首は宣言していました。結果としてNHK党は国政政党に復帰できず、立花党首も落選していました。

しかし、7月21日の動画で「このまま政治家を辞めるのは、それこそ無責任だと思っています」と政界を引退するという宣言を撤回したことを伝えていました。立花党首に誠実さや言葉の軽重を問うこと自体、空しい試みなのかも知れませんが、できれば今回の敗北を機会に政治の世界から本当に退かれることを願っていました。

民意を代表し、重い責任と役割を担わなければならない政治家、もしくは政治家をめざしている方々の言葉は、本来であれば一般の有権者よりも重くなくてはならないはずです。残念ながら田久保市長、立花党首、それぞれから言葉の重さは微塵も感じられません。ジャーナリストの岩田明子さんの「政治家の言葉は重いものですが、最近は軽くなって…」という言葉のとおりとなっています。

立花党首と言えば、昨年11月の兵庫県知事選での「2馬力選挙」が問題視されていました。真偽不明の情報を拡散し、いわゆる「犬笛」を吹きまくり、SNS上で吹き荒れる誹謗中傷の発信源だったと批判されています。最近丸尾県議に対する虚偽のX投稿、アカウント開示請求認める  東京地裁  丸尾県議は提訴も検討へ』という動きも見られています。

出口の見えない兵庫県政の混乱に関しては当ブログを通し、数多くの記事を投稿してきています。初動段階で斎藤知事が公益通報者保護法に対する認識を誤らなければ、これまでの悲劇や混乱は避けられたように思えてなりません。その斎藤知事に対しても言葉の軽重を問わなければならない場面が目立っています。

つい最近『「クレーム電話鳴り止まず県政担当から外れた」兵庫・斎藤知事  会見で記者が異例の訴え…明かされた“被害”にネット騒然』という報道に接しています。記者会見で斎藤知事に厳しい質問を繰り返していた記者を批判する電話が会社に殺到し、県政の担当を外れることになったという話です。その記事の最後に掲げられている別なメディアの社会部記者の声を紹介します。

知事はネットの誹謗中傷は“してはならないこと”と述べていましたが、会見で誹謗中傷を止めるよう呼びかけることはありません。今回、知事に質問をして炎上したという記者の訴えにも、フォローをするような言葉はありませんでした。確かに記者が勤務する社内の配置転換に関しては、斎藤知事にとってあずかり知らぬことです。ですが自身の会見をきっかけに誹謗中傷が起きていることには、関心を寄せてもよいのではないでしょうか。

知事といえば、毎週行われる定例会見で「ご指摘は真摯に受け止める」などと繰り返すばかりで、記者からの質問に真正面から答えないのが恒例です。そうなると、記者も同じ質問を何度も投げかけざるを得なくなります。会見の視聴者のなかには“知事がマスコミから責められている”と捉えてしまう人もいるようで、SNSに記者の批判が書き込まれることで炎上してしまうものと思われます。せめて斎藤知事から“記者を攻撃するようなことは控えるように”との呼びかけがあれば、状況もまた違ったものになるのではないでしょうか。

兵庫県の問題は別な機会に改めて取り上げることになるものと思っていますが、問われる政治家の言葉の軽重という意味合いから斎藤知事の記者会見での対応ぶりにつなげています。斎藤知事の発する言葉は重い影響力を発揮できるはずです。それがSNS上で飛び交う誹謗中傷の問題に対し、いつも「他人事」のような言葉の軽さしか感じられない点は紹介した記者の声と同様です。

今回の記事の趣旨に沿って「レベル低すぎる」参政党・梅村みずほ氏 政策議論の「朝生」で繰り返したマウンティングの「2文字」に疑問続出』という記事も紹介します。自党の掲げた政策に対する異論を「結果を見たらわかるじゃないですか。選挙で民意を得たのはどちらなのです?」という言葉で、すべて切り返す姿勢も決して重々しさを感じられません。

最後に日本保守党・北村晴男氏が石破茂首相に「どこまでも醜い、奇妙な生き物」 まとめサイト引用、過激表現に批判相次ぐ』『石破首相を「どこまでも醜い、奇妙な生き物」と表現した北村晴男氏。この一件を“個人の暴走”として矮小化してはならない理由』という話題です。感情的な対立を避け、建設的な議論につなげていくためには言葉を選ぶ必要があります。

したがって、北村参院議員の言葉の不適切さは際立っているように受けとめています。一方で、石破総理が過去、安倍元総理らを批判してきた言動と現在の総理の椅子への執着ぶりを対比した時、ご自身の発してきた言葉の軽重が厳しく問われていることも確かだろうと思っています。

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