競争の善し悪し
前回記事(「大阪秋の陣」の結末は?)のコメント欄で記したことですが、選挙結果こそ究極の民意の表れと結論付けられ、勝者の言い分が「正しい」という構図に繋がります。そのような点を頭から否定できないため、今夜、結果が明らかになる「大阪秋の陣」の行方は非常に重要でした。橋下前知事が「大きな方向性は有権者に決めてもらうしかない」とし、選挙戦の争点として掲げられた大阪都構想は、そもそも都市間競争に勝ち抜くための手段だと言われています。
大阪維新の会が提案し、物議をかもしている大阪府職員基本条例案と大阪府教育基本条例案も、教職員間の競争、学校間の競争、児童生徒間の競争を重視した内容となっています。条例案それぞれの問題点は、リンクを張った先の大阪府総務部と大前治弁護士が詳しく指摘されています。それら条例案に対する個別の具体的な論評などはリンク先の資料をご覧いただければと考えています。今回の記事では競争の善し悪しに絞り、広い意味合いから自分なりの問題意識を綴らせていただくつもりです。
まず記事タイトルに掲げたとおり競争そのものに対し、善し悪しがあるという立場です。そもそも競争のない社会などあり得ず、競い合うことで、より高め合い、成長していくというプラス面は率直に評価しています。誰もがそのような点は否定されないものと思っていますので、各論への評価や競い合うことの度合いに対し、個々人の受けとめ方の枝分かれが始まっていくのではないでしょうか。
もう少し整理すれば、あらゆる事例に競争を取り入れるべきと考えるのかどうか、競争は絶対であり、競争は万能であると信じるのかどうか、競争のない閉鎖された空間は衰退し、既得権益に胡坐をかく勢力が跋扈するように見るのかどうかなど、様々な論点があり得るのかも知れません。単純な区分けは乱暴なのでしょうが、競争を重視される方々は市場主義や成果主義を信奉され、いわゆる新自由主義(ネオリベラリズム)の発想を支持されているものと考えています。
以前の記事(「いざなぎ超え」と新自由主義)で、小泉政権時代の「痛みを伴う構造改革」によって、ごく少数が「勝ち組」、圧倒多数が「負け組」となる格差社会を作り出したことについて触れました。小泉元首相と竹中元総務相は格差社会になることを躊躇せず、1980年代にサッチャー英首相やレーガン米大統領が推し進めた新自由主義の路線を踏襲していた点などを記していました。新自由主義とは、小さな政府、大幅な規制緩和、市場原理の重視などを特徴とし、富の再配分を基本とする自由主義(リベラリズム)や社会民主主義と対立する経済思想です。
新自由主義は「強い者を優遇し、もっともっと強くして、勝ち上がった一握りの大企業や大金持ちが日本経済を活性化させる」という考え方でした。「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透する」というトリクルダウンと呼ばれる政治思想で、「金持ちを儲けさせれば、貧乏人もおこぼれにあずかれる」ことから「おこぼれ経済」とも称されています。つまり国が立ち直るために弱者は切り捨てられても仕方がない、競争力のない企業は倒産し、市場から即刻退場を迫られる冷酷さを抱えた路線でした。
この新自由主義によってイギリスやアメリカの経済が回復したと評価される一方、貧富の格差拡大が犯罪の多発など社会の不安定化を招いたとの批判も少なくありません。イギリスは新自由主義の誤りを認め、ブレア政権ではサッチャリズムの修復に力を注いできました。国際的には過去の遺物となりがちな新自由主義に日本は「周回遅れ」で突き進んでしまった訳ですが、経済成長のためには副作用も承知の上で荒療治を選ぶしかなかったという解釈もできました。
同時にアメリカ政府からの「年次改革要望書」の存在も注目しながら、当時の記事を綴っていました。その後、民主党は「国民の生活が第一」と訴え、政権交代を果たしました。国民一人ひとりの生活を大切にするというメッセージであり、新自由主義の路線とは対極に位置していくものと思っていました。ただ残念ながら、そのような基本的な理念が個々の政策判断に貫かれているのかどうか、正直なところ疑問視せざるを得ない現状が続いています。
TPP(環太平洋経済連携協定)参加問題も競争を「是」とした判断であり、アメリカの意向に配慮した結論の出し方などは小泉政権時代との違いも分かりづらくなっています。話が拡散しつつありますので、競争の善し悪しに戻りますが、一口で論評できない難しさを改めて感じています。結局のところ競争に対する評価はケースバイケースの判断が必要であり、生じる問題点も個々の事例に沿った手立てを講じるべきだろうと思っています。
市場競争のメリットは、効率的に様々な商品やサービスが人々の手に配分され、売れ残りや品不足という無駄がなくなることです。競争に参加している者同士で勝ち負けが分かれ、所得格差は大きくなりますが、社会全体では豊かになると言われています。貿易のグローバル化も国際的な競争の結果、産業によって日本国内で明暗が分かれ、所得格差は拡大します。一方で、やはり日本社会全体では豊かになり、それぞれの国が一番得意なものに集中するため、世界全体も豊かになっていく見方に繋がります。
所得格差の拡大という問題点を補うためには、国全体の豊かさを再分配政策で全員に行き渡させることが重要です。また、敗者や弱者に対するセーフティネットや再チャレンジの仕組みも欠かせないはずです。そのような手立てが不充分だった場合、市場競争や国際競争のデメリットだけが強調されていくのではないでしょうか。いずれにしても競争に伴う善し悪しを見極めた上で、デメリットを最小化する手立てが必ず欠かせないものと考えています。
競争の結果、優勝劣敗が明らかになります。個人的な問題意識として、勝者を称えることは当然ですが、単に敗者を切り捨てるだけの競争は避けるべきだと思っています。小学校では学力や運動会で順位を付けない風潮が広がっていました。それも極端な話であり、年齢を重ねれば競争が避けられないのであれば、負けた子を腐らせない視点での教育も大切だろうと考えていました。
具体的な事例を取り上げないと話が抽象的になりがちですので、最後に職場における競争、いわゆる成果主義について触れてみます。結論としては少し前の記事「ベターをめざす人事制度 Part2」のとおりですが、相対評価で下位にされた職員を排除する競争は論外だと思っています。百万歩譲って、絶対評価のもと職務を遂行できる能力が著しく欠けていると判断され、底上げをはかれる可能性や本人の意欲がない場合、定められた手順にそって退職を求めるケースが生じることはあり得るのかも知れません。
しかしながら官民問わず、20%や5%などという機械的な数字で線引きした人数を相対評価のもとで解雇するような制度など到底考えられません。そもそも民間企業でも能力不足からの解雇は限定され、裁判でも敗訴する確率が高い現状です。前回記事のコメント欄で、名無しさんから「切るべきものも守るべきものも一緒くたに倒れるまで放置する。そのことの方が何倍も残酷だという事に気が付いていますか?」という問いかけもありましたが、相対評価で職場の仲間を定期的に排除していく組織がチームワーク力を高めていけるのかどうか甚だ疑問です。
「自分が排除される側になったならば淡々と排除されれば良いと思っています。競争に敗れるとはそういうことです」という達観した意見も寄せられていましたが、自己評価と他者からの評価のギャップがあり得るのも人事制度の常です。もっと言えば、その時に配置されていた職場の上司との相性が悪く、好き嫌いの延長線で下位に評価されるケースも想定しなければなりません。それでも労働者にとって極刑に位置付く解雇を淡々と受け入れられるのかどうか、私自身は絶対納得できるものではありません。
最後と記しながら、長くなってしまいました。頑張っている職員、努力している職員が報われる制度も必要です。評価が下位となる職員の奮起を促す制度設計も重要です。しかし、競争そのものは目的ではなく、競い合うことは組織全体の底力を高めていくための一つの手段だと考えています。そのためにも競争の善し悪しを見極めることの大切さについて、今回の記事を通して訴えさせていただきました。長々と書き進めてきましたが、各論の話では言葉不足な点が多いようにも感じています。今後、コメント欄や次回記事で補っていければと考えています。
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