2017年10月21日 (土)

衆院選と組合役員選挙

このブログは週に1回、土曜か日曜に更新しているため、月曜以降に訪問者数が多くなっています。そのため、大半の方は衆院選挙の結果を知った上で今回の記事をご覧になっているのではないでしょうか。投票が間に合う方は仮にベストを見出せなくてもベターな選択の意志表示の機会として、ぜひ、投票所に足を運ばれるようよろしくお願いします。なお、今回から選挙区の区割りが大きく変更されていますのでご注意ください。

投票日前のタイミングでは具体的な候補者名の記述を控えています。それでも衆院選について少しだけ雑感のような記述を添えさせていただきます。最近の選挙戦は各メディアが情勢を分析した調査結果を頻繁に報道しています。衆院選の最終盤の情勢も与党が堅調、希望の党が失速、立憲民主党が躍進するという見通しが伝えられています。アンダードック効果の気配はなく、このまま事前調査のとおりの選挙結果が示されるものと見ています。

希望の党の失速は小池都知事の「排除いたします」という言葉が潮目を変えたと言われています。ただ失言ではなく、正直な思いをそのまま示した言葉だったはずです。野合批判を避けるため、ある程度プラスに働く可能性を計算した上での言葉だったのかも知れません。結局、目論見は外れ、希望の党は現有の議席数を維持できるかどうかという苦戦を強いられることになりました。

分かりやすい選択肢になったという肯定的な評価もありますが、結果として与党側を利する顛末をたどってしまったようです。安倍政権に対し、ベターな選択肢として希望の党に期待しようかどうか迷っていた多くの有権者も「排除いたします」という言葉とともに排除されてしまったものと受けとめています。特に連合は希望の党に絞って応援する動きを見せていましたが、排除の論理が浮上し、希望の党と距離を置くことになりました。

木曜の夕方、ターミナル駅前のデッキ上で顔見知りの候補者に偶然出会いました。この時間帯、もしかしたら駅前で遊説しているかも知れないと思い浮かべながら歩いていました。すると行き交う人たちと握手している候補者を見かけました。こちらから近付き「悩ましい展開になってしまいましたね」と声をかけさせていただきました。せっかくの機会でしたので苦笑されている候補者に次のような一言を添えることも忘れませんでした。

配付されていた候補者のリーフレットに北朝鮮情勢の問題で「圧力は対話を引き出すためのもの。圧力一辺倒は単なる挑発です」という言葉が掲げられていました。その箇所を示しながら「この一点だけでも充分な対立軸ですね」とお伝えしたところ候補者からは「その通りです」答えていただきました。所属する政党が変わっても、昔も今も、その候補者の立ち位置は変わらないことを確かめられた短い会話でした。

主義主張や立場が違う相手を敵対視しがちな傾向はよく見受けられる話です。選挙戦の場合、そのような傾向が特段目立つようになります。しかしながら私自身、どのような場面においても立場や考え方の違いは違いとして理解しながら、そのことで相手を敵対視するような関係性は避けたいものと考えています。このような話は機会を見て詳しく綴らせていただくつもりですが、顔見知りの候補者と会話した近況を伝える上で思い浮かべている問題意識です。

さて、スケールが格段に下がり、地味でローカルな選挙絡みの話題につなげていきます。私どもの組合の定期大会が11月10日夜に開かれます。定期大会に先がけ、組合役員選挙が行なわれます。定数内の立候補のため、信任投票が始まっています。以前の記事「組合役員の改選期、インデックス」に託したような思いのもと引き続き執行委員長に立候補しています。立候補にあたり、組合員の皆さんに回覧し、お示ししている私自身の選挙広報に掲げた内容は次のとおりです。

組合役員を長く続ける中で「組合は必要」という思いを強め、そのバトンをしっかり引き継げるように努力しています。同じポストに同じ者が担い続けることの問題点も充分認識しているため、毎年悩みながら判断しています。自分が辞めれば残されたメンバーが新たな視点で活性化の道を拓いていくのかも知れません。ただ今回も執行委員の定数を充足できない中、このタイミングで退任することは、やはり無責任だろうと考えました。

組合役員の担い手の問題や組合財政の厳しさなどピンチは続きますが、これ以上ピンチを広げず、組合活動を大胆に見直す「ピンチをチャンス」に変えられるような努力を引き続き尽くしていくつもりです。その中で絶対引き継ぐべき組合の役割は職場課題を解決できる労使交渉能力です。このことを基軸に持続可能な組合組織につなげていければと考えています。ぜひ、組合員の皆さんのご理解ご協力をよろしくお願いします。
◎ 毎週1回更新しているブログ『公務員のためいき』もご覧いただければ幸いです。

不特定多数の方々にとって興味の沸かない話題で恐縮です。一方で、自治労に所属する組合で役員を担われている方々にとって同じような現状の中、同じような悩みを抱えられている方々が多いのではないでしょうか。機関誌『じちろう』最新号の4面にも「担い手育成 急務の課題」という見出しが掲げられていました。自治労本部が実施した調査結果を中心に報告されていましたが、次代の担い手問題に各単組が軒並み苦慮されているようです。

調査報告の中で「労働条件や職場環境をめぐるベテラン役員と若年層組合員の認識ギャップが見られる」とし、若年層組合員からの「役員歴が長くなってくると、僕たちが分からないことが分からないと思う」「悩みの相談先として組合が出てこない、組合が高い位置にいる専門家集団のようになってしまっている」というコメントが紹介されていました。調査報告では両者の意識のズレの深刻さを読み取りながら、組合役員歴が長くなることの弊害を指摘しています。

その紙面には自治労本部総合組織局長の「同じ人が役員を長くやると経験が豊富ゆえに組織はしっかりするが、その人がいなくなると運動が次につながらない」という話も掲げられていました。耳の痛い話です。紹介した上記の選挙広報のとおり同じポストに同じ者が担い続けることの問題点を充分認識しています。特に今回、いろいろな経緯の中、続けるべきかどうか深刻に悩みました。もちろん最終的な判断は自分自身が下すことになります。

あくまでも自分自身が判断するための参考材料につなげるため、選挙告示日の直前、執行部の皆さん一人一人と個別に率直な話を交わしていきました。私自身の悩みを受けとめていただきながらも「やめないでください」「やめるにしても今じゃないでしょ」という声に後押しされ、上記のとおりの結論に至っています。ただ長く続けてきたこと、さらに続けることを自己犠牲のような気持ちは一切ありません。同年齢の職員は部長をはじめ、課長や係長になっています。確かに賃金水準は主任職と比べれば大きな開きが生じています。

組合役員を務めていなくても係長以上になっていたのかどうかは分かりませんが、自分自身が判断してきた結果であって否定的な意味で「やむを得ない」と考えたことは一度もありません。組合役員を担ったことで貴重な経験や交流を重ねられ、自己啓発の機会も数多く得られながら、やりがいのある任務だったものと振り返ることができます。だからこそ、そのバトンをしっかり引き継ぎたいものと考えています。改めて昨年の記事「持続可能な組合組織に向け」の最後のほうに記した問題意識を掲げさせていただきます。

必要な役割や活動があるからこそ組合組織は維持しなければなりません。そのためには無理しない、背伸びしない、これまで以上にメリハリを付けた活動に重きを置き、結果的に組合役員に過度な負担をかけず、予算面の見直しにもつながるという発想を重視するように心がけています。その中で、職場課題を解決できる労使交渉能力を基軸にした必要な役割や活動だけは必ず継承していかなければなりません。

組合役員の負担がゼロになることはあり得ませんが、少しでも負担が減ることで「組合役員はたいへん」という印象が緩和されることを願っています。選挙広報に記した「ピンチをチャンス」に変えられるような努力とは、このような方向性を意識したものです。ハードとソフト両面から組合に対するイメージを転換させることで組合役員の担い手問題を解決していく好機とし、この程度の負担であれば「良い経験にもなるし、執行委員を引き受けてみるか」という声が増えていくことを期待しています。

近い将来、私どもの組合にも輪番制を導入すべきかどうか議論を本格化させなければなりません。その際、「組合は必要」という認識を組合員全体で共有化しながら持続可能な組合組織のためにどうすべきかという視点のもとでの丁寧な職場議論が欠かせません。輪番制を導入するためにも、ハードとソフト両面から組合に対するイメージの転換が求められています。輪番制という「方針ありき」ではなく、このような試みにも力を尽くした結果、「〇〇部から一人、執行委員を出してください」と気軽に要請できるようになるものと考えています。

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2017年10月14日 (土)

広義の国防、安心供与の専守防衛

前回記事「衆院選公示前、今、思うこと」のコメント欄で、nagiさんから「広義の国防であり、究極の安心供与の安全保障である専守防衛」という言葉に対し、次のような問いかけがありました。

この部分は相変わらず私の理解の範疇を超えています。過去の記事を読んでも理解が深まりません。私には安全装備を外した車に乗って安全運転に勤めて事故を起こさなければ安心ですと言ってるようにしか思えません。もう少しこの部分を理解できるようにほり下げていただければありがたいですね。個人的な願望にすぎませんが。

nagiさんからのコメントの後、あっしまった!さんからは次のようなコメントが寄せられていました。

日本国憲法の平和主義は特別でも何でもないんだけどなぁ。武装拒否・武装放棄は特色だけど。「専守防衛が究極の安心供与である」が - 真 - だとすると、すなわち「専守防衛が究極の危険受任である」も - 真 - でしょうね。「共産圏は平和勢力という主観主義からくる、一方的な片思い外交」に繋がる、一方的な自己満足・自己陶酔なのかなぁ。

このブログを通し、最近、特に強調している私自身の問題意識を表わした言葉が「広義の国防、安心供与の専守防衛」です。したがって、たいへん重要な論点に対する問いかけでしたので、さっそく新規記事の題材として掘り下げさせていただきます。

あらかじめ前提条件となる私自身の認識を改めて説明します。抑止力の大切さ、つまり個別的自衛権の必要性を認めている立場です。そのため、「安全装備を外した車」に乗っているという意識はありません。これまで「再び、北朝鮮情勢から思うこと」をはじめ、いくつかの記事に書き残しているとおり北朝鮮の脅威に対し、今のところミサイルの発射が実戦使用を目的にしていないという意味で抑止力は充分働いているものと見ています。現実的な脅威として「窮鼠猫を噛む」状態に追い込みすぎるほうを危惧しています。

「専守防衛が究極の危険受任である」という見方に関しては、後ほど詳述する評価の問題につながる論点があることを認識しています。その上で、私自身は「究極の危険受任」という表裏一体となるリスク認識が薄いことも確かです。

「共産圏は平和勢力」という認識は私自身、まったくありません。特に北朝鮮に関しては拉致や強制収容所の問題など絶対容認できない非人道的な行為を繰り返してきているため、「平和勢力という主観主義」などという見方は到底あり得ません。ただ共産圏に限らず、それぞれの国の立場や言い分があることは率直に認めていくべきものと考えています。その言い分の是非はともかく、まず耳を傾けることが外交交渉の第一歩だと認識しています。

日本国憲法の「特別さ」についても改めて補足します。外交の延長線上として宣戦布告さえすれば合法だった戦争が2回の世界大戦を経て、現在の国際社会の中では原則禁止されています。例外として、自衛のためと集団安全保障と呼ばれる国連安全保障理事会が認めた場合の戦争だけを合法としています。集団安全保障とは国連の枠組みで武力攻撃を行なった国を制裁する仕組みです。

ちなみに国連安全保障理事会が「平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」に限って、国連憲章第51条で集団的自衛権の行使を認めています。集団的自衛権とは同盟国などが武力攻撃を受けた際に共同で対処できる自衛戦争です。解釈を積み重ねた結果ですが、日本国憲法は個別的自衛権までが許容範囲であり、集団的自衛権は認められないという大きな一線が引かれてきました。この一線が私自身の認識している「特別さ」であり、たいへん重要な峻別だと考えています。

残念ながら一昨年の安保関連法の成立で限定的とは言え、集団的自衛権を行使できる国に足を踏み出しています。すべての国が戦争を原則禁止している中、確かに日本国憲法だけ特別ではありませんが、一線の問題を極めて重く見ています。これまで固有名詞に当たる安保関連法を「戦争法」と呼ぶことは控えています。しかしながら次の言葉はレッテル貼りではなく、事実を表現するものとして、あえて書かせていただきます。国際社会の標準モードとして「普通に戦争ができる国」に転換するのかどうか、今、私たちが問われている選択肢だと受けとめています。

お二人のコメントを拝見した後、『夕刊フジ』に掲げられた政治学者の岩田温さんの『【日本の選択】今の日本に必要な「ガラパゴス左翼」との決別 本来の「リベラル」とかけ離れた思想は国民にとって不幸』という論評を目にしました。「憲法9条を守っていれば平和が維持できる」という人々は「ガラパゴス左翼」と呼ぶべき勢力であり、盲目的に憲法9条に拝跪する様は一種の宗教儀式を連想させるものだ、このような主張を展開していました。「ガラパゴス左翼」と呼ぶべき方々は存在するのかも知れません。

しかし、「リベラル」と呼ばれる一定の勢力や立場の方々を一括りに決め付けた揶揄の仕方は問題であり、そもそも岩田さんが指摘されるような「ガラパゴス左翼」は極めて少数なのではないでしょうか。以前「『カエルの楽園』から思うこと」という記事を投稿していましたが、寓話と同レベルの視点で政治を研究されている識者がメディアを通して不正確な持論を主張していることに驚いていました。さらに衆院選挙期間中でありながら特定の政党の代表を非現実的な主張を行なっている「ガラパゴス左翼」だと決め付けていましたが、大丈夫なのだろうかと心配しています。

前提条件となる私自身の認識の話が長くなりました。要するに個別的自衛権の範疇で充分抑止力は働き、2年前以前の日本国憲法の「特別さ」を維持することのほうが「平和主義の効用」のもと望ましい姿であるという認識が私自身の主張です。このような認識や主張も「ガラパゴス左翼」だと呼ばれるのであれば、それはそれで構いません。肝心なのはどちらの「答え」が、より望ましい選択肢なのかどうかだろうと考えているからです。

ここから今回の記事タイトルに掲げた「広義の国防、安心供与の専守防衛」について詳述していきます。広義の国防の対義語は狭義の国防であり、安心供与に対義する言葉は抑止となります。他に「外交・安全保障のリアリズム」という記事の中で、ソフト・パワーとハード・パワーという対になる言葉も紹介していました。国際社会は軍事力や経済力などのハード・パワーで動かされる要素と国際条約や制度などのソフト・パワーに従って動く要素の両面から成り立っていることを綴っていました。

広義の国防という言葉を初めて紹介したのは昨年6月の「『ロンドン狂瀾』を読み終えて」という記事の中でした。第1次世界大戦の惨禍を教訓化し、国際的な諸問題を武力によってではなく、話し合いで解決しようという機運が高まり、1930年にロンドン海軍軍縮会議が開かれた話を綴っていました。当時の日本の枢密院においては単に兵力による狭義の国防に対し、軍備だけではなく、国交の親善や民力の充実などを含む広義の国防の必要性を説く側との論戦があったことを紹介していました。

軍国主義の時代と言われていた頃に広義の国防の必要性を説く議論があったことに驚きながら軍縮条約の意義に触れていました。対米7割という保有割合は一見、日本にとって不利な条約のようですが、圧倒的な国力の差を考えた際、戦力の差を広げさせないという意味での意義を見出すことができました。加えて、アメリカとの摩擦を解消し、膨大な国家予算を必要とする建艦競争を抑え、その浮いた分による減税等で民力を休め、経済を建て直すためにも締結を強く望んでいたという史実を知り、感慨を深めていました。

「もっと軍艦が必要だ」「もっと大砲が必要だ」という軍部の要求を呑み続け、国家財政が破綻してしまっては「骸骨が砲車を引くような不条理な事態になりかねない」という記述には、思わず目が留まっていました。現在、北朝鮮情勢の緊迫化を受け、来年度の防衛予算は過去最大規模の5.2兆円となる見通しです。『日刊ゲンダイ』の記事か、と思われる方が多いかも知れませんが、数字的な面は事実であるため、最後に参考資料として掲げておきます。興味のある方はご参照ください。

安心供与は昨年1月の記事「北朝鮮の核実験」の中で初めて紹介しました。安全保障は抑止と安心供与の両輪によって成立し、日本の場合の抑止は自衛隊と日米安保です。安心供与は憲法9条であり、集団的自衛権を認めない専守防衛だという講演で伺った話をお伝えしていました。安心供与はお互いの信頼関係が柱となり、場面によって肝要さが強く求められていきます。相手側の言い分が到底容認できないものだったとしても、最低限、武力衝突をカードとしない関係性を維持していくことが肝要です。

抑止力の強化を優先した場合、ますます強硬な姿勢に転じさせる口実を相手に与えてしまいがちです。外交交渉の場がなく、対話が途絶えている関係性であれば、疑心暗鬼が強まりながら際限のない軍拡競争のジレンマにつながります。それこそ国家財政を疲弊させ、いつ攻められるか分からないため、攻められる前に先制攻撃すべきという発想になりかねません。そのような意味で、攻められない限り戦わないと決めている日本国憲法の専守防衛は、他国に対して安心を与える広義の国防の究極の姿だと私自身は考えています。

広義の国防、安心供与、ソフト・パワー、それぞれの言葉に共通している点は、どちらが正しいのかという二者択一の問題ではないことです。あくまでもバランスの問題であり、抑止力を軽視せず、非軍事的な「人間の安全保障」の取り組みも強化していくことが重要です。国民の安全と安心を担保するため、どのような選択が望ましいのか、その重要な選択肢として日本国憲法の「特別さ」を維持していくことが有益なのか、もしくは弊害があるのかどうか、私たち一人一人が問われているものと認識しています。

日本列島上空を通過した北朝鮮の弾道ミサイル発射をめぐり、日米は圧力を強め、対決ムードを煽っている。2日連続の電話首脳会談後、「死の白鳥」と呼ばれる米軍のB1戦略爆撃機と航空自衛隊が共同訓練。示威活動を展開した。そうした中、防衛省は31日、2018年度予算案の概算要求を財務省に提出。前年比2.5%増の5兆2551億円となり、6年連続アップで過去最大に膨らんだ。防衛省は中国の東シナ海進出などを口実に防衛費を拡大してきた“前科”があるが、今回は北朝鮮危機に便乗した焼け太りだ。

弾道ミサイル防衛関連で1791億円を計上。海自のイージス艦に搭載する改良型迎撃ミサイル「SM3ブロック2A」の購入に472億円、空自の地対空誘導弾PAC3の改良型「PAC3MSE」には205億円など。いずれも購入先は米企業だ。8月中旬の日米2プラス2(外務・防衛担当閣僚会合)で小野寺防衛相が購入前倒しを伝えた米製地上配備型迎撃システム「イージス・アショア」は金額を示さない「事項要求」で処理し、2基分相当の1600億円は含まれていない。

軍事ジャーナリストの世良光弘氏は言う。「SM3ブロック2Aの射程は高度500~750キロで、1発20億~30億円の高額兵器です。最高高度550キロを飛行した29日発射のミサイルにも対応できる可能性が高まりますが、米国領を標的としたミサイル全てを撃ち落とそうとでもいうのでしょうか。安倍首相の再登板以降、防衛費がプラスに転じたのは、米国の言い値で高額兵器を爆買いしている側面がある。ミサイル防衛、島嶼防衛を出せば、どんな予算でもスイスイ通る。それに、概算要求は形式に過ぎず、防衛省は必要とあれば補正予算でどんどん買い込んでいます」

増額分は米企業丸儲け 対中牽制の要衝である南西諸島の防衛にも大盤振る舞い。南西警備部隊の施設整備に552億円、最新鋭ステルス戦闘機「F35」の6機買い増しに881億円、国内でも事故を多発させている“未亡人製造機”のオスプレイも4機457億円で買い上げ。宇宙部隊創設に向け、取得断念に傾いていた無人偵察機「グローバルホーク」も144億円で購入するという。みーんな米国製だ。

「高高度から攻撃するグライダー弾『島嶼防衛用高速滑空弾』に100億円もの研究予算を組んでいますが、実用化は不透明です」(世良光弘氏) 安保法制で集団的自衛権行使を可能にした安倍首相は、米国と一緒に戦争のできる国づくりを急ぎ、GDP1%枠突破は時間の問題だ。 【日刊ゲンダイ2017年9月1日

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2017年10月 8日 (日)

衆院選公示前、今、思うこと

前回の記事は「衆院解散、対立軸の明確化を切望」でした。衆議院が解散され、すでに選挙戦に突入しているようなムードです。本来、公示又は告示日以降が選挙期間であり、事前運動は禁止されています。それまでの政策チラシ配布や街頭演説などは日常的な政治活動の延長線上に位置付けられています。ちなみに公示は国事行為の一つとして衆院と参院選挙のみに使い、地方自治体の首長や議員選挙は各選挙管理委員会の告示とされています。なお、国政選挙でも補欠選挙は告示になるそうです。

公示前と公示後、できること、できないことの峻別に注意を払わなければなりません。インターネット選挙解禁も4年前のことでしたが、ますます各政党や候補者の主張を詳しく知り得るツールとしてSNSの役割は高まっています。民進党の事実上の解党に至った舞台裏も前衆院議員の篠原孝さんのブログ『篠原が無所属出馬を決意した理由』などから垣間見ることができます。立憲民主党を立ち上げた後、街頭で演説した枝野代表が訴えた内容全文もネット上で確認できるようになっています。

私たちの社会は、ルールによって規律をされています。みんながルールを守ることで成り立っています。権力といえども、自由に権力を使って統治をしていいわけではありません。憲法というルールに基づいて権力は使わなければならない。ところがどうでしょう。憲法によって縛られているはずの内閣が、自ら積み重ねてきた解釈を勝手に変えた。論理的に整合性のない形で勝手に変えた。それに基づいて、自衛隊は日本の領土や領海を守るけれども、外国に出て行って戦争はしないんだという第二次世界大戦の教訓を踏まえた、先人たちが積み重ねてきた私たちの国是が、変えられてしまっている。これが安保法制です。憲法に違反した法律は、一日も早く変えなければならない。

民主主義というのは、選挙で多数決で選んで、選ばれた議員が多数決でものを決める、これが民主主義だと思っているから間違えているんです。みんなで話し合って、できるだけみんなが納得できるようにものを決めましょう、それが民主主義なんです。どうしても決められないときがあります。どうしても意見が食い違うときがあります。そのときに、ここまでみんなで話し合って、それでも一致しないならば、多数決で決めれば、少数の意見の人も、仕方がないですねと納得できる。この納得のプロセスが多数決なんです。残念ながら、今まで国会で多数を持っている人たちに、この本質が分かっているんでしょうか。選ばれたから勝手に決めていい、数を持っているから勝手に決めていい、こうした上からの民主主義は民主主義ではありません。

右か左かなんていうイデオロギーの時代じゃないんです。上からか、草の根からか。これが21世紀の本当の対立軸なんです。保守とリベラルがなんで対立するんですか。保守とリベラルは対立概念ではありません。私は人それぞれの多様な生き方を認め合う。困った人がいればここに寄り添って支えていく。お互い様に支え合う社会。リベラル、そのことによって、おそらくここにお集まりいただいている多くの皆さんが育ってきた時代、日本が輝いていたと言われていた時代の、あの一億総中流と言われていた時代の、社会がこんなにぎすぎすしていなかった時代の、みんなが安心して暮らせていた時代の、日本社会を取り戻す。私はリベラルであり、保守であります。

上記は枝野代表の演説の中で、特に印象深かった箇所を抜粋して紹介させていただいています。ぜひ、興味を持たれた方はリンク先をご参照ください。このブログ「公務員のためいき」もSNSの片隅に加わり、政治的な話題の紹介や自分自身の意見を発信しています。ただ以前の記事「再び、地公法第36条と政治活動」に綴ったとおり、できること、できないことに細心の注意を払いながら当ブログを運営してきています。今回の記事もネット上で知り得た情報の紹介であり、あくまでも私自身の意見の書き込みという位置付けになります。

言うまでもありませんが、特定の政党や候補者への支持を呼びかけるような目的で投稿していません。もちろん無味乾燥な中立的な内容ではないため、このブログを閲覧されている皆さんからは共感や反発など様々な評価を受けるのだろうと思っています。一つの運動として当ブログを長く続けていますが、幅広く多様な意見に触れられる貴重さをいつも感じ取っています。そのため、日本の今後を大きく左右するかも知れない衆院選投票日を2週間後に控えた今、個人的に思うことを書き進めさせていただくことも無意味な試みではないものと考えています。

まず枝野代表の演説の一部を紹介しましたが、私自身も共感する点が多々あるからでした。安保関連法の是非が焦点化されがちです。日本国憲法の平和主義の「特別さ」をどのように評価するのかどうかという根幹的な論点につながっている問題だろうと認識しています。前々回記事「安全保障を強い言葉で語ることの是非」に記したとおり広義の国防であり、究極の安心供与の安全保障である専守防衛の是非を巡る論点だと言えます。

改憲の動きに思うこと」をはじめ、集団的自衛権の行使を可能とした安保関連法の問題性を数多く訴えてきています。2年前に成立した安保関連法は限定的とは言え、枝野代表が指摘しているとおり、いったんリセットしなければならないはずです。その際、アメリカとの信頼関係にも留意した丁寧な手順を踏んだ見直しが求められます。日米関係に限らず「このような公約を掲げ、政権交代したので従前の約束は白紙に戻ります」という理屈は許されません。

民主党が政権交代を果たした後、いくつか混乱した事例が思い浮かびます。鳩山政権の時に投稿した「約束を踏まえた先に広がる可能性」という記事の中で「基本的に約束は守ることが必要、しかし、守れなくなった場合、約束を踏まえた上で相手方と話し合っていくことが求められています。様々な約束を無視し、一方的な判断で物事を押し進めていった場合、根深い不信や軋轢が生じかねません。一時的なスピード感はあるのかも知れませんが、対立や混乱が続いた場合、結果として大きな遠回りになるのではないでしょうか」と書き残していました。

物事に対する評価は一つではありません。それでも様々な経緯や妥当性を判断し、現時点の約束や仕組みに至っているはずです。選挙で示された民意は重視されなければなりませんが、それまでの経緯や評価を軽視し、強引に変えていく手法は慎むべきものと思っています。枝野代表が訴えているとおり「選ばれたから勝手に決めていい」というものではなく、「納得のプロセス」を重視していく政治の実現を強く願っています。

小池都知事は「しがらみ」批判を繰り返しています。確かに「しがらみ」という言葉にはネガティブな響きがあります。当たり前な話ですが、「しがらみ」が優先されて不合理な政治判断に至るようでは大きな問題です。しかし、「しがらみ」は対人関係の深さを示す言葉でもあります。政治家は選挙で当選しなくてはなりません。当選するためには人と人との関係性の広がりが必要です。そのように広がった対人関係も「しがらみ」だと言えます。

「しがらみ」を絶つということは支持者の声にも一切耳を傾けない、そのような冷たい関係性であるように感じています。このブログを通し、連合と民進党との関係もネガティブな「しがらみ」だととらえず、民進党側には働く者の声をしっかり受けとめられることを強みにして欲しいと訴えてきています。残念ながら小池都知事の「しがらみ」批判は他者からの多様な意見に耳を傾けず、物事の是非はすべて自分一人で決めるという響きを感じています。一方でネット上では『小池都知事の手法は「しがらみ政治そのもの」ではないか』という記事も目にしています。

保守とリベラルが対立概念ではない点も同感です。以前「リベラルじゃダメですか?」という記事を投稿し、リベラルとは特殊な主義信条や政治的理念ではなく、「個人の自由を大切に、でもなるべく平等、公平に」というマイルドな考え方や姿勢の意味であることを説明していました。参考までに労働研究者の濱口桂一郎さんの『自民党は今でもリベラルと名乗っている唯一の政党である件について』と漫画家の小林よしのりさんの『リベラルは左翼ではない、自由である』という記事も紹介させていただきます。

衆院選の公示を間近に控え、まだまだ思うことがあります。消費税の問題にも触れるつもりでしたが、過去の記事へのリンクをはることにとどめます。最後に、改憲の問題です。改正条項の第96条を持つ憲法ですので議論自体をタブー視することはできません。そのため、護憲か改憲かという論点提起は言葉や説明が決定的に不足しているように思っています。前述したとおり日本国憲法の平和主義の「特別さ」を守るのか、集団的自衛権を行使できる「普通の国」に転換するのか、どちらの選択肢が国際社会の平和に寄与できるのかどうか、このような論点が明確化された中で一票一票が託されて欲しいものと切望しています。

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2017年9月23日 (土)

安全保障を強い言葉で語ることの是非

先週月曜、祝日の代々木公園で開かれた「さようなら原発、さようなら戦争全国集会」に参加しました。9千5百人を集めていますが、同じような6年前の全国集会では5万人を超える参加者で明治公園が埋め尽くされました。引き続き1万人近く集めているという肯定的な見方ができる一方、日本社会全体での原発をなくしたいという機運が後退していることも認めざるを得ません。

当時の全国集会のことをブログでも取り上げ、その直後の記事「運動のあり方、雑談放談」で集会を開くという運動は脱原発という目的を達成するための手段に過ぎないことを書き残していました。同じような問題意識を抱えた人たちが一堂に会し、気勢を上げるだけでは運動の広がりはあり得ず、異なる問題意識を持った人たちに「働きかけること」が重視されなければならない点などを訴えていました。

少し前の記事「一つの運動として」の中では反対集会やデモ行進が異なる立場の方々に共感を呼びづらく、そこで訴える主張が広がりを得られにくくなっている中、このようなSNSを通した情報発信や意見交換の貴重さを感じ取っていることを記していました。そのため、インターネット上で私自身の主張を発信する場合、感情的な反発を招かないような記述の仕方や言葉を選び、異なる視点や立場の方々を強く意識しながら、いつもパソコン画面に向き合っています。

もちろん基本的な立場や視点が異なる方々と分かり合うことの難しさも自覚しています。それでも最初から努力することを放棄してしまった場合、それこそ運動の広がりは限定的なものにとどまりがちです。このような問題意識を抱えているため、月曜の集会でステージ上から発言された方の多くが安倍首相を呼び捨てにしながら現政権に対する批判のボルテージを高めていることに引っかかりを覚えていました。

怒りが強い言葉につながり、怒りの矛先となる中心人物は排除すべき対象であり、打倒すべき対象になります。代々木公園に集まった参加者の大半の方々からすれば特に違和感なく、賛同できるアピールの数々だったことも確かです。あくまでもTPOに沿った発言なのかも知れませんが、安倍首相を支持されている方々が直接耳にすれば不快に感じる発言の仕方だったことも間違いないはずです。

このような反対集会では定番の発言の仕方であることを理解していますが、最近、どうも集会のあり方などに関して過敏になっているようです。一昔前であれば疑問に持たず、その場に溶け込んでいたのかも知れません。9千5百人の中では希少な受けとめ方だろうと思っていますが、さらに次のような問題意識にもつながっていました。利害関係が対立した場合、暴力で決着を付けることはもっての外です。

通常、話し合いでお互いの立場や利害関係の調整に努めます。当事者同士で歩み寄りがはかれない場合は裁判などに委ね、力ずくでシロクロを付けようとはしないはずです。いわゆる対話であり、交渉です。交渉の前に相手を罵倒し、一方的に批判しているようでは感情的な対立が際立ち、対話のテーブルに着くこともできなくなります。社会生活の営みの中では以上のような考え方が一般的であるはずです。

しかし、国対国の場面ではそのような一般常識が当てはまらくなりがちです。相手側の過ちが明らかな場合、一定の制裁や圧力も必要です。そのことで対話のテーブルに引っぱり出せることも想定できます。対話と圧力、それぞれが欠かせません。ここ数週間、北朝鮮情勢を踏まえたブログ記事を連続で投稿し、圧力一辺倒の動きを危惧してきました。たいへん残念ながら、そのような訴えとは真逆な動きがいっそう目立ち始めています。

トランプ大統領は国連総会の一般討論で演説し、北朝鮮の最高指導者である金正恩委員長を「ロケットマン」と呼び、アメリカが「自分や同盟諸国を防衛するしかない状況になれば、我々は北朝鮮を完全に破壊するしか、選択の余地はない」などと述べました。トランプ大統領が演説を続けている最中、総会の会場は大きくざわついたようです。スウェーデンの外相は「あの場所であの時に、あの聴衆を前に、あのような演説をすべきではなかった」と批判していました。

北朝鮮の金委員長はトランプ大統領の国連演説に反発し、「歴代最も暴悪な宣戦布告であり、史上最高の超強硬対応措置の断行を慎重に考慮する」という声明を発表しています。トランプ大統領の挑発的な言葉に対しては「アメリカの老いぼれの狂人を必ず火で罰するであろう」と応じています。お互いの罵倒合戦が始まり、通常で考えれば、ますます対話のテーブルから遠ざかっている展開だろうと危惧しています。

訪米中の安倍晋三首相は20日午後(日本時間21日未明)、国連総会で一般討論演説をした。北朝鮮の核実験や日本上空を通過した弾道ミサイル発射を踏まえ「脅威はかつてなく重大で、眼前に差し迫ったものだ」と強調。金正恩委員長を「独裁者」と批判し、国際社会で結束し北朝鮮への圧力強化を呼びかけた。首相は北朝鮮が開発している核兵器について「(爆発力の大きい)水爆になったか、なろうとしている」と分析。核兵器を搭載する弾道ミサイルは「早晩、大陸間弾道ミサイル(ICBM)になるだろう」と述べた。北朝鮮の核開発で「核不拡散体制は深刻な打撃を受けようとしている」と懸念を示した。

首相は国際社会が1990年代前半や2000年代、北朝鮮との対話を探り、経済支援に踏み切ったものの、核・ミサイル開発を阻止できなかったことを問題視。北朝鮮は「核・ミサイルの開発を諦めるつもりなど、まるで持ち合わせていなかった」と振り返り、国際社会との対話は「我々を欺き、時間を稼ぐため、むしろ最良の手段だった」と指摘した。北朝鮮の対応に関して「必要なのは対話ではない。圧力だ」と強調。「全ての核・弾道ミサイル計画を、完全、検証可能かつ不可逆的な方法で放棄させなくてはいけない」と話し、めざすのは核開発の凍結ではなく、あくまでも非核化だと訴えた。米国が軍事行動を含む全ての選択肢を検討していることを「一貫して支持する」とも語った。【日本経済新聞2017年9月21日

「必要なのは対話ではない」と言い切ってしまう安倍首相、物凄く残念で悲しいことです。繰り返します。圧力も必要です。しかし、圧力は平和的に解決するための手段であり、対話のテーブルに着かせるための手段だと言えます。アメリカはアメリカの判断があっても仕方ありません。広義の国防であり、究極の安心供与の安全保障である専守防衛を掲げた日本が、なぜ、アメリカの軍事行動まで含めて「一貫して支持する」と言い切れてしまうのでしょうか。

地理的な面で考えた時、軍事衝突に至った場合、日本こそ大きな被害を受ける可能性があります。アメリカに守ってもらうためには、アメリカの判断を支持するしか選択肢はないという発想なのかも知れません。今さら安倍政権ではあり得ない話ですが、軍事行動を起こしがちなアメリカを自制する役割を日本には担って欲しいものと願っています。安全保障を強い言葉で語り、あえて敵対視されていくことよりも、北朝鮮に限らず、どこの国とも対話の窓を開ける日本の姿を理想視しています。国連安保理の常任理事国にならなくても、そのような立ち位置で振る舞えれば国際社会の中で貴重な存在感を示せるはずです。

さらに無用な軍事衝突を避けられた場合、アメリカからも感謝される役回りを担えたことになります。安倍首相を批判するために綴っている訳ではありませんが、LITERAの『国連演説でも北朝鮮危機を煽りまくった、安倍首相にNYタイムズコメント欄でも批判殺到!戦争ゲームに興じる子どもみたい』という記事も参考までに紹介させていただきます。さらにBLOGOSに掲げられた『「暫定的な北朝鮮との共存がむしろ北朝鮮の崩壊を早める」姜尚中・東大名誉教授が提案する「戦争回避」の道筋』という記事も紹介します。

国際社会のルールを守れない北朝鮮が批判を受けるべき対象であることを再三強調してきています。約束を守らない北朝鮮との対話は無意味と考えられる方も多いのかも知れませんが、それでも軍事衝突を避けるためには、いずれかの段階で対話、つまり外交交渉につなげなければなりません。具体的な選択肢を前にし、人それぞれの「答え」があります。どのような「答え」が正解につながるのか分かりませんが、多くの人命が失われるような結末に至らないことだけを強く願っています。

最後に、安倍首相は臨時国会冒頭での衆院解散を検討しています。野党は8月の内閣改造後、森友学園や加計学園の問題究明のための臨時国会の開催を要求し、安倍首相は「できるだけ丁寧に説明する」と述べてきました。それにも関わらず、このままでは戦後初めて国会の本格論戦を経ない新内閣の「沈黙の解散」となる見通しです。首相の解散権のあり方も取り沙汰されていますが、衆院解散後は今回の記事で提起した「安全保障を強い言葉で語ることの是非」が論点化されていくことも期待しています。

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2017年9月16日 (土)

再び、現実の場面での選択肢として

「敵を欺くにはまず味方から」という諺があります。北朝鮮の挑発を受け、安倍首相は「異次元の制裁を」などという強い言葉で応酬しています。前回記事「再び、北朝鮮情勢から思うこと Part2」の中でも記しましたが、そのような強い言葉や圧力を強化することで危機が回避できるのであれば大歓迎です。しかし、私自身は逆に危機が深まり、一触即発の事態へのリスクを高める対応だろうと懸念しています。

ただ冒頭に紹介した諺のとおり水面下では対話を模索し、いずれかのタイミングで一定の歩み寄りが公けになることも秘かに期待しています。そのようなしたたかな外交交渉を駆使するための強い言葉だったのであれば国民まで欺いていたことについて、ことさら批判しようとは思いません。最悪なのは対話の道を文字通り閉ざしていた結果、武力衝突が避けられず、勝者敗者に関わらず多大な人命を失うような結末を迎えることです。

核兵器を保有する傍若無人な国を許さないためには必要であれば武力行使を辞さず、ある程度の犠牲者が出るのもやむを得ない、このように考える方も多いのでしょうか。その犠牲者の一人に自分や家族が数えられても覚悟しなければならない、このように考える方も多いのでしょうか。しかし、できれば戦争は避けたい、当たり前な考えであり、誰もが共通する願いだろうと思っています。

平和の築き方に向けた総論的な考え方は個々人で差異があります。差異があったとしても直面した選択肢に際し、何らかの「答え」を出さなければなりません。5年前に「現実の場面での選択肢として」という記事を投稿していました。民主党の野田政権の頃でした。最近、その時に投稿したブログ記事のタイトルが頭に浮かんでいました。マイルールに沿って新規記事のタイトルに「再び」を付け、自分自身の問題意識や思うことを改めて書き進めてみます。

「戦争反対!」と唱えているだけで、平和な社会が築けるとは考えていません。平和の問題に限らず、理想的な姿をどのように描くのか、そのめざすべきゴールに向かってどのような判断を地道に重ねていくのか、一つ一つ、現実の場面での選択肢として熟考していくことが欠かせません。このような心構えは政治家だけに委ねるものではなく、私たち一人ひとりにも問われているはずです。このような問題意識は5年前の記事の中で綴った内容の一部です。

当時、現実の場面での選択肢として、尖閣諸島を東京都が所有するという問題がありました。国政に戻ることを表明していた石原元知事は尖閣諸島の問題に際し、「戦争を辞さず」という姿勢を示していました。一方で、防衛庁長官を歴任したことのある自民党の加藤元幹事長は「外交上の問題は存在する」という立場を示すことの重要性を訴えていました。私自身、いがみ合った関係性の解消に向けての一歩を踏み出すためには後者の考え方を支持していますが、このような選択肢に際して個々人の「答え」は大きく分かれていくはずです。

さらに差し迫った選択肢に際し、野田政権の下した判断は尖閣諸島の国有化でした。以前の記事「外交・安全保障のリアリズム」の中でも記していますが、首相補佐官を務めていた長島昭久さんから当時の顛末を耳にしていました。売却するという話が後戻りできない局面の中、都が所有するよりも国有化のほうが中国との関係は悪化しないだろうという見通しを立てたようです。結果的に国有化は中国側から強い反発を招いた訳ですが、長島さんは石原元知事らとの折衝に力を尽くし、日本政府としては粘り強く丁寧に中国政府との話し合いも進めていたそうです。

中国から「暗黙の容認」を引き出せる手応えを直前まで得られながら、空気を一変させたのは中国側の権力闘争が絡み日本叩きにつながったという見方を長島さんは示されていました。しかし、もっと丁寧な外交交渉があり得た、国有化は最悪の選択だった、いろいろ酷評されていることも確かです。一方で都が所有し、漁船の避難港の整備などを進めていた場合、尖閣諸島を巡る情勢はどのように変化していたのでしょうか。日本の実効支配が強まったことによって、幸いにも中国側が矛を収める展開だったとすれば野田政権は余計な手出しをしたことになります。

中国や北朝鮮との対話の必要性を訴えると、日本の国益よりも相手国側の利益を優先するための「工作」活動だと揶揄される方をネット上で時々見かけます。挙句の果て洗脳されたスパイ呼ばわりされるようでは冷静で建設的な議論は成り立ちません。同時に北朝鮮を巡る情勢を受け、安倍政権「批判ありき」の論調だった場合、やはり建設的な議論から離れていきがちなのかも知れません。ブックマークし、いつも訪問しているブログ『澤藤統一郎の憲法日記』で「アベ晋三の高笑い」という記事があります。

ICBMの発射も、核実験も、ホントによいタイミングでやってもらった。しかも核は160キロトン相当の水爆だと言うじゃないか。国民の目は、森友・加計問題から、北朝鮮に完全に移った。共謀罪も、南スーダンPKOでの日報隠しも、閣僚不祥事も、アベチルドレン問題も、すべては忘却の彼方だ。しかも、この北朝鮮によるわが国への支援の恩恵は、内閣支持率アップにとどまらない。

迎撃ミサイルだの、イージスショアだの、自衛の措置が必要ではないかとの理由付けで、防衛予算の増強がとてもやりやすくなった。アメリカの軍需産業も大喜びだ。だから、北朝鮮危機の深刻さは、できるだけ大袈裟に国民に伝えなければならない。Jアラートも国民の危機意識涵養に大成功だった。国民が不安になればなるほど一体感が造成される。時の内閣支持率がアップするのが、世の習いではないか。私も、不愉快そうに深刻な顔つきで記者会見をしなければならないのだが、ついつい腹の中では笑みがこぼれる。

記事の一部を紹介させていただきましたが、安倍首相に批判的な立場の方々からは好意的な評価を得る内容だろうと思っています。ただ安倍首相の言動を支持されている方々からは感情的な反発を招きかねない極端な記述の仕方だろうと心配しています。より望ましい「答え」を見出すためには幅広い考え方や情報をもとに判断していくことが大切です。いろいろな主張の仕方があっても良いのでしょうが、私自身の責任で表現する場合は異なる視点や立場の方々にも届くような言葉を選ぶように努めています。

やはりブックマークし、定期的に訪問している『シジフォス』というブログがあります。たいへん興味深い内容の投稿が多く、共感を覚える問題意識も少なくありません。ただ北朝鮮に対し、称賛が前面に出た記述内容の多さだけは違和感を覚えがちでした。現地に赴かなければ知り得ない事実も多いのかも知れませんが、思い入れが強すぎると評価や批判すべき基準も変動してしまうような危惧を抱きがちです。ちなみに「再び、北朝鮮情勢から思うこと」の最後に「朝鮮の真意をまったく紹介しない異様なメディア」という参考記事を紹介していました。

朝鮮半島の非核化はわが国の国是です。しかし、イラクを見て下さい。もしイラクが核をもっていたら、米国はあのような武力行使はできなかったでしょう。わが国が自主・自立をはかるためには、核保有はやむをえません。今や米国はわが国に対し、単なる敵視政策に止まらず体制転覆を公然と表明しました。もはやわが国の対応にも限度があり、新たな戦争の勃発をおさえ、東アジアの平和を保つために、核兵器は「抑止力」となります。

明白なことは、私たちは平和を望むし、これからも望んでいくということです。しかし、日本は米国の核の傘に入り、核搭載鑑があれだけ入港しているのに、よく非核が国是といえますね。また、核拡散防止といいますが、大国だけが核を独占して、他の国にはもたせないというのは誤った理屈です。核兵器は、今やインドもパキスタンも イスラエルも持っています。なぜ、それは問題視されないのですか。

上記の内容は『シジフォス』の「朝鮮半島の非核化・核兵器廃絶は共和国の国是」という記事から引用した北朝鮮高官の主張です。改めて強調しなければなりませんが、国際社会から強く批判を受けている北朝鮮を必要以上に擁護する意図はありません。しかし、上記のような言い分があることも把握した上、現在の危機を脱し、緊張緩和に向かえるのかどうか、手がかりを探っていくべきなのではないでしょうか。最近、安倍首相は核保有国のインドを訪問しています。

理想的な姿は地球上からすべての核兵器を廃絶することです。しかしながら一足飛びに実現できない難しい現状です。めざすべきゴールに向かってどのような判断を地道に重ねていくのか、一つ一つ、現実の場面での選択肢として熟考していくことになります。絶対欠かせないことは核兵器を実戦使用させない関係性の構築です。そのような意味合いで核保有国のインドを安倍首相が脅威の対象としていないことは明らかです。広義の国防のための対話を重ね、お互い安心供与の安全保障を深めている関係性だと言えます。

言うまでもありませんが、北朝鮮の核保有を公然と認めたくありません。しかし、お互い「自衛以外で攻撃しない」という安心供与が成り立つのであれば「核保有国だから」と言って格段に脅威が高まる訳ではありません。一方で、お互い「先制攻撃されるかも知れない」という疑心暗鬼が、ますます関係性を悪化させていくことになります。疑心暗鬼の要素を取り除くためには圧力一辺倒ではなく、やはり対話の道を模索していくことも非常に重要な選択肢です。

昨夜の『ニュース23』の中で田中均元外務審議官がインタビューを受けていました。15年前の日朝首脳会談を通し、日本と北朝鮮との溝が埋まりかけました。「改憲の動きに思うこと Part2」の中では「日朝平壌宣言が履行されていれば今の核脅威はなかった」という仮説も紹介しています。日朝首脳会談のキーマンだった田中さんはインタビューの最後に「今のね、あたかも雰囲気が圧力・圧力・圧力って、圧力と対話を対比させて、北朝鮮がこうだから圧力をどんどんかけていく図式。間違っているんじゃないかと思う。対話も圧力も外交的な解決をするための手立てなんです」と語っていました。

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2017年9月 9日 (土)

再び、北朝鮮情勢から思うこと Part2

前回記事「再び、北朝鮮情勢から思うこと」の冒頭で記事タイトルに「再び」や「Part2」を付けるマイルールをお伝えしました。今回、重複した付け方となりますが、「再び」と「Part2」を付けた新規記事タイトルとしました。別なタイトルにすることも少し考えました。それでも前回記事に寄せられたコメントにお答えする内容を中心にするため、「再び、北朝鮮情勢から思うこと Part2」というタイトルに決めさせていただきました。

現実的な脅威が危ぶまれる北朝鮮を巡る情勢を受け、平和のあり方について頻繁に取り上げているブログですので引き続き注視していくべき切迫した問題だと考えています。本来はお寄せいただいた問いかけに対し、すみやかにコメント欄を通して端的にお答えしていくほうが分かりやすいのかも知れません。ただ難しい問いかけはコメント欄ではなく、記事本文を通してお答えするというマイルールもあり、迅速な対応に至らない点についてご理解ご容赦ください。

前回記事を投稿した翌日の日曜日、北朝鮮は6回目の核実験を行ないました。その日の夕方、さっそく下っ端さんからコメントが寄せられました。前回記事の中の「強い言葉で反応することは国民からの支持や信頼を高める効果があるのかも知れません」という言葉に対し、下っ端さんから「国民から支持がどうこなど、論点にすらなりません。国の安全を担うものとして、当たり前のことを、当たり前に実行しているだけということです」という指摘がありました、合わせて核保有を認めるかどうかという問いかけもあり、私から次のようにお答えしていました。

核実験は弾道ミサイル発射と同様、安全保障上の脅威を高める暴挙であり、到底容認できません。北朝鮮には武力衝突の可能性を高める瀬戸際外交を自制し、対話に向けた姿勢を示すことを強く望みます。「国民から支持がどうこなど、論点にすらなりません」、まったくその通りです。強い言葉を発することで北朝鮮が自制し、対話の道を探り出すようであれば大歓迎です。しかし、私自身の見方は残念ながら今回の記事本文に綴ったとおりであり、必要以上に相手を刺激する強い言葉を発することよりも本当に国民の安全や安心に結び付く外交努力を願う立場です。

「日本は攻撃されないかもしれないが、友好国が核攻撃されるのを見ているだけ」という指摘がありますが、そのような論理展開での記述は一度もないはずです。友好国も含め、戦禍で犠牲になる可能性を避けるため、安心供与、広義の国防、ソフト・パワーを優先すべきという主張です。保有を認めるかどうかという問題も、核兵器の開発を成し遂げたから北朝鮮が目論んだ外交決着を果たせたという構図につなげてはなりません。横紙破りを追認することになり、それこそ核軍縮の流れに逆行する悪例を重ねることになってしまいます。国際社会が圧力を強めた結果、北朝鮮側が白旗をあげるような展開に結び付けば望ましい話です。

しかしながら対立が激化し、武力衝突に至った場合は多大な人的な被害が生じることを覚悟しなければなりません。ある程度の犠牲は仕方ないと考えられる方もいるのかも知れませんが、私自身はそのような発想は絶対控えなければならないものと思っています。今回の記事本文に綴ったとおりの趣旨のもと一触即発な事態を避けるためには制裁一辺倒ではなく、対話の窓口も常に開いておくことが欠かせないのではないでしょうか。いずれにしても容易に「正解」は見出せないのかも知れませんが、より効果的な圧力と対話の模索、たいへん難しい北朝鮮との距離感が引き続き求められているものと考えています。

記事本文はご覧になってもコメント欄まで目を通さない方もいらっしゃるようですので参考までにその時にお答えした内容をそのまま紹介させていただきました。あっしまった!さんから「日本は、休戦中である朝鮮戦争における敵国」という指摘を受け、「核の保有を認めたところで、北朝鮮の主観からすると、日本に、朝鮮戦争における敵方である国連軍指定基地が存在してることに違いはなく」というご意見をいただきました。

「朝鮮戦争は終わっていない」という現実を失念している訳ではなく、ご指摘のような関係性が続くことも理解しています。ただ同様に同盟関係にない中国やロシアも核兵器を保有しています。日本列島も射程圏内とされていますが、北朝鮮に対するような脅威が取り沙汰されていません。領土問題という大きな利害関係があり、対立の火種は常にくすぶっていると言えます。しかし、今のところ温度差はあっても対話の道が開けているため、ことさら核の脅威が強調されていない関係性だろうと思っています。

nagiさんから「我々は自然災害や災厄に対して、感度を鈍くすることなく危機に備える必要があることを学んだはずです」というご意見が寄せられていました。自然災害は人間の力でコントロールできませんが、「想定外だった」という言い訳を繰り返さないように努めていかなければなりません。しかし、安全保障の問題は国と国、人と人との関係で先を見通せるはずです。自然災害と異なり、人間の英知と判断でコントロールできるものと理解しています。と言うよりも、コントロールすべきものと考えています。

危機への備えとして、ミサイルの破片から身を守ることを中心にとらえた場合、政府の作成した対応マニュアル等がまったく役に立たないとは言い切れないのかも知れません。あらゆることを想定し、準備できることを準備していくことも大切です。それでも弾道ミサイルが直撃した事態を想定した場合、戦時中の空襲に備えたバケツリレーの訓練風景を頭に思い浮かべがちです。B29による大空襲の前にそのような訓練が役に立たなかったことは周知の事実です。

万全を期するのであれば原子力発電所への攻撃や落下の危険性をもっと強く認識し、適切な対策を講じなければなりません。核弾頭を搭載していない通常のミサイルだったとしても原発に撃ち込まれた場合の被害の甚大さははかり知れません。風向きによって北朝鮮側にも被害を及ぼす可能性があるため、あえて原発は狙わないのかも知れません。しかしながら「窮鼠猫を噛む」状態に追い込まれた時、そのような判断は働かず、原発が標的になることも充分考えられます。

もう少し、踏み込んでもらいたいのです。対話による解決を目指した場合の、事態がより悪化した時の話です。北にとっては、核と弾道ミサイルは、ある意味体制の存続を賭けた最後の切り札ではないのでしょうか。手放しますか?話に乗ってきますか?対話が失敗した後には、戦略核を保有した無謀国家が東アジアに誕生します。その力を得たかの国は、人権を尊重しますか?拉致を解決してきますか?普通に考えれば、益々傍若無人な振る舞いをこれでもか、としてくるでしょう。つまり、対話が悪いとは言いませんし、当然として一つの解決方法ではあるでしょう。

しかし、そこには戦争回避というバラ色のストーリーだけではなく、もっと最悪な事態を生み出す元凶になる可能性もあるのです。今、強い言葉で断固たる措置を取ることは、戦争になってしまう可能性を含みます。そのリスクを取るのか、更なる無謀核国家を生み出すリスクを取るのか、どちらにも並々ならねリスクはあるのです。対話による解決を目指す以上、そのリスクは想定した上での話ということでよろしいですか?私は、そのような情勢はとても受け入れられない、日本の存亡に繋がると思うので、今、あらゆる手を使って暴走を止めることを望みます。

上記は火曜日に下っ端さんから寄せられたコメントの全文です。ほぼ毎日、コメント欄に動きがありますので、平日も必ず当ブログを閲覧しています。実生活に過度な負担をかけないためのマイルールとして、記事本文の更新やコメント欄への対応は週末に限っています。上記のコメントをいただき、マイルールにこだわらず、火曜の夜に取り急ぎレスしようかどうか少し迷いました。それほど重要な論点が内包した問いかけであるように受けとめています。

まず「対話による解決を目指す以上、そのリスクは想定した上での話ということでよろしいですか?」という問いかけにお答えします。確かに対話の先の未来図は描き切れません。戦略核を保有した無謀国家の固定化につながるリスクは否定できません。バラ色のストーリーだけを想定し、対話の窓口を常に開いておくべきと訴えている訳ではありません。あくまでも一触即発な事態を避けるためには制裁一辺倒や強い言葉よりも、安心供与、広義の国防、ソフト・パワーを優先すべきという主張です。

これまで北朝鮮に対する圧力を強めてきましたが、核兵器の開発は止められませんでした。対話の場に立たせるために効果的な圧力も必要ですが、圧力だけでは現状を大きく転換させることも難しいという認識です。利害関係があるからこそ対話や交渉が必要とされ、相手側の言い分にも耳を傾けながら折り合える点を探ることが欠かせません。万が一、北朝鮮の核保有を追認せざるを得ない場合も国連で採択された核兵器禁止条約をもとに将来的な核放棄を求めていく道筋もあります。

さらに拉致事件の抜本的な解決や北朝鮮国内の強制収容所の問題なども看過できません。安易に実戦使用できないのだろうと思われる核兵器の問題よりも、現在進行形で苦しんでいる人たちが見込まれる問題の解決のほうこそ優先したい思いがあります。しかし、やはり外圧を強めるよりも地道な対話によって変革を求めていくしか妙手はないのかも知れません。もしくは北朝鮮の国民の皆さんが内側から必要な変革を求めていくという動きが出ることを望みたいものです。

対話のための対話では意味がない」という言葉を耳にしますが、圧力だけ強めていけば戦争を誘発するリスクは高まっていきます。そのようなリスクは最優先で排除すべきものであり、ミサイルを実戦使用させないためには効果的な圧力と対話の模索が欠かせないはずです。いずれにしても不透明なリスクを危惧するよりも数多くの犠牲者が生じるかも知れないという目の前のリスクを取り除くことに全力を尽くすべきではないでしょうか。最後に、このような考え方に近い論評を掲げた『サンデー毎日』最新号の記事の一部を参考までに紹介します。

北朝鮮のミサイルによる威嚇攻撃に、日本はいかに対すべきか。安倍政権が主張するさらなる圧力は、金正恩独裁体制の硬化を加速させるだけではないか。かつて金正日氏との間で平和外交を成し遂げた小泉元首相と、独自の外交哲学を持つ元防衛官僚の柳澤協二氏に、倉重篤郎が訊く。北朝鮮ミサイル問題に日本はどう対応すべきなのか。今の安倍晋三政権からは、この答えが見えてこない。もちろん、危機管理めいたものは、やっている。

弾道ミサイルが列島越しに太平洋に落下すれば、早朝からJアラートを発し、官房長官が会見し、米政権と電話協議し、テレビ各局が一律に「これまでにない深刻かつ重大な脅威だ」とする首相のテレビ動画を流し、その中で首相がさらなる圧力をかける意向を表明する。その繰り返しである。北朝鮮というある意味、追い詰められた国家が、実験、威嚇のために、つまり本気で戦争を仕掛ける意図がない中で、一発撃ち上げたミサイルに対し、一国の首相が最大限の脅威認識を示すべきかどうか、圧力のみが物事を解決できるのか。私には腹に落ちないものがある。

日本政治の手詰まり感のみが浮き上がり、金正恩独裁体制を勢いづかせ、さらなる挑発行動に追いやっている、との懸念を抱くのだ。そこで思い起こされるのが、二つの電撃訪朝である。1994年6月の核開発危機では、カーター元米大統領が金日成氏と会談し、同年10月、使用済み核燃料の再処理を凍結させる代償として北に軽水炉発電支援を行うことで合意、ぎりぎりのところで軍事行動を回避した。また、2002年9月には、小泉純一郎首相が金正日氏と会談、北側に拉致を認めさせ、10月、被害者5人を帰国させることに成功した。

いずれも実に見事な平和外交であった。そして、この9月は小泉訪朝から15年。かつてのカーター的役割を小泉氏に果たしてもらい、膠着状況を打開できないものか。安倍氏とその周辺が、米側当局ですら、そう考えてもおかしくない。そういう観測が広がる中、8月15日に首相経験者と安倍首相の会合があった。日本財団の笹川陽平会長が山梨県の別荘に、安倍、小泉、森喜朗、麻生太郎4氏を招き、職人を東京から呼び、美味な寿司をご馳走したのである。4氏の破顔一笑、交歓風景は笹川氏が自らのブログに流した写真をメディア各紙が転載することで、広く知られることになった。

週刊誌が報じるところでは、そこで安倍・小泉会談があり、小泉特使説が話し合われた、というのだ。 これはもう小泉氏に聞くしかない。小泉氏によると、コトの真相は以下のようだった。まずは、小泉特使説については、「全くあり得ない」と全面否定だった。理由は二つあった。北の独裁者が小泉氏が直接渡り合った金正日氏であれば、まだそういう話が出たかもしれないが、その息子の金正恩氏相手ではあり得ない、というのが1点。もう一つは、この手の外交は現職首相でなければ務まらない、現職首相であっても相手側が受け入れるかどうかはわからない、という見立てだった。

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2017年9月 2日 (土)

再び、北朝鮮情勢から思うこと

8月末、自治労の定期大会が新潟市で開かれました。私自身は一昨年の自治労都本部大会で発言したとおり介護の事情があって長い間、本部の定期大会に参加できていません。そのため、このブログの記事として取り上げた数はわずかです。鹿児島大会の時はブログを始めた直後でもあり、参加した前と後に記事を投稿していました。振り返れば2日間、日帰りで参加した千葉大会が最後になっています。特に今年は第2ブロック長の役割を負っていながら参加できず、関係者の皆さん、申し訳ありませんでした。

9月1日、民進党の新たな代表に前原元外相が選ばれました。今後の野党共闘のあり方などが注視されています。9月1日は94年前に関東大震災が発生した日です。震災直後、流言飛語によって虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼式に石原元知事をはじめとした歴代の都知事が追悼文を送っていました。今年、虐殺の犠牲者数が「6千余名」とあるのは根拠が希薄などと問題視し、小池都知事は追悼文を送りませんでした。このような話題に接し、いろいろ思うことがありますが、今回の記事は火曜の朝にJアラートが鳴り響いた北朝鮮のミサイル発射問題について書き進めます。

前回記事「平和への思い、自分史 Part2」の続きにも位置付けられそうですが、今年5月に「北朝鮮情勢から思うこと」という記事を投稿していました。同様な内容の記事を連続して投稿する場合は記事タイトルに前回のように「Part2」を付けています。少し間隔が開いた場合は今回のように「再び」を付けるようにしています。ちなみに昨年1月には「北朝鮮の核実験」を投稿し、「北朝鮮の核実験 Part2」にかけて私自身の考え方を掘り下げていました。北朝鮮の挑発がエスカレートする中、今回の記事を通し、改めて自分なりの問題意識や思うことを整理してみます。

必ず強調しなければならない点として、問題視すべきは北朝鮮の振る舞いです。火曜の朝、北朝鮮の弾道ミサイルの発射に対し、菅官房長官は「わが国の安全保障にとってこれまでにない深刻かつ重大な脅威だ。またアジア太平洋地域の平和及び安全を脅かすものであると言わざるを得ない。航空機や船舶の安全確保の観点からも極めて問題のある危険な行為であるとともに、安保理決議等への明白な違反だ」と非難しました。

今回、事前通告もなかった訳ですが、仮に北朝鮮が人工衛星の打ち上げだと称し、国際海事機関(IMO)と国際電気通信連合(ITU)に通告していたとしても国連安全保障理事会決議1695、1718、1874への違反となります。北朝鮮は2006年7月にスカッド、ノドン、テポドン2、あわせて7発の弾道ミサイルを日本海に向けて発射したことによって、ミサイル技術に関する活動を制限されているからです。国際ルールを守らない北朝鮮、この点だけで強い批判の対象にしなければなりません。

弾頭を付けていないミサイルだったとしても菅官房長官が指摘しているとおり航空機や船舶に直撃すれば多大な被害が見込まれます。落下地点の周辺海域で活動していた漁業関係者の方々にとって人命の危機に及ぶ深刻な脅威だったと言えます。このあたりの認識は大半の方が共有化できているはずです。ただ安全保障全体に関わる脅威の受けとめ方や具体的な対応策のあり方を巡り、人によって温度差や賛否が分かれていくように感じています。

前回記事の最後に「北朝鮮はミサイルを1発でも実戦使用した場合、総攻撃を受け、国が滅びる事態を認識しているはずです。つまり圧倒的な軍事力の差を知らしめるだけで北朝鮮に対しては充分抑止力が働いているものと見ています」と私自身の認識を示しています。したがって、このままの関係であれば北朝鮮から破壊や殺傷を目的としたミサイルは撃ち込まれないものと見ています。物凄く恐れているのは北朝鮮を「窮鼠猫を噛む」状態に追い込むことであり、もしくはアメリカ側が先制攻撃に打って出る場面です。

その場合、戦争は早期に終結できるのかも知れません。しかし、わずかな期間でも北朝鮮の反撃によって多大な人的被害が伴うはずです。米軍横田基地の周辺に暮らす私自身が被害者の一人に数えられる可能性は非常に高く、そのような緊迫した場面に転換することのほうが現実的な脅威として鳥肌が立つ思いです。そのため、小野寺防衛相が集団的自衛権を行使できる「存立危機事態」にあたるという認識を示したことに対し、「北朝鮮から日本が攻撃を受けるリスクを高めた発言だったことも否めません」と指摘しました。

>北朝鮮から日本が攻撃を受けるリスクを高めた発言だったことも否めません。 簡単です。北に核開発と長距離弾道ミサイルの開発を放棄させて、リスク自体が無くなるような対話方法を、是非とも教えてください。その方法を今すぐ実施するだけで、全てが解決しますね。あらゆる方法(対話も含めて)リスクを取り除いていかない限り、地域にも国にも真の平和は訪れないと考えますが、それは極右的な考え方ですか?

私から小野寺防衛相への指摘に対し、下っ端さんから上記のようなコメントが寄せられていました。私自身の「答え」はこれまでの記事本文を通して訴えてきたつもりですが、改めて説明させていただきます。まず簡単に導き出せるような「正解」は簡単に見出せません。「改憲の動きに思うこと Part2」の中では「日朝平壌宣言が履行されていれば」という仮説を紹介していました。もちろん仮説や「今さら」という話をしても仕方ないことですので、現状において望ましい「答え」を模索しなければなりません。

その上で直面した設問に対し、小野寺防衛相の発言は望ましくなかった、私自身はそのように判断しました。基本的な方向性に関する「答え」としては、アメリカが軍事力を行使しそうな局面では日本こそ率先して自制を促す側に立って欲しい、本当に切実な願いです。現実的な脅威に対する恐怖感は前述したとおりの認識があるからです。北朝鮮への圧力を強めることに消極的な中国やロシアは「差し迫った脅威を感じていないからだ」という見方があります。

一方で、北朝鮮サイドに立つ関係性があるからこそ北朝鮮からすれば、あえて脅威を与える対象ではないという見方も成り立つはずです。日本も北朝鮮から見て「完全な敵ではない」という関係性があった場合、これほど挑発的な行為が繰り返されることもなかったのかも知れません。もともと安全保障は「抑止」と「安心供与」の両輪によって成立していくべきものです。利害が対立しても、敵ではない、対話できる関係性であれば、いきなりミサイルが撃ち込まれることはありません。

昨年6月には「『ロンドン狂瀾』を読み終えて」という記事を投稿していました。第1次世界大戦の惨禍を教訓化し、国際的な諸問題を武力によってではなく、話し合いで解決しようという機運が高まり、1930年にロンドン海軍軍縮会議が開かれた話を綴っていました。当時の日本の枢密院においては単に兵力による狭義の国防に対し、軍備だけではなく、国交の親善や民力の充実などを含む広義の国防の必要性を説く側との論戦があったことを紹介していました。

軍国主義の時代と言われていた頃に広義の国防の必要性を説く議論があったことに驚いていました。しかし、戦争に熱狂する民意の後押しもあり、日本は戦線を拡げ続けていきました。再び、そのような時代の岐路にしないためには、ことさら他国を敵視せず、武力で解決するという選択肢がどれほどの悲劇を生み出すのか想像力を働かせる必要があります。同時に「窮鼠猫を噛む」状態まで日本を追い込みすぎた当時の国際社会の判断が正しかったのかどうか省みることも必要です。

さらに以前「外交・安全保障のリアリズム」という記事の中で、実際の国際社会は軍事力や経済力などのハード・パワーで動かされる要素と、国際条約や制度などのソフト・パワーに従って動く要素の両面から成り立っていることを綴っていました。どちらが正しいかという二者択一の問題ではなく、力の均衡という軍事的な手段を選択肢として残し、非軍事的な人間の安全保障の取り組みを強化することは充分両立し、効果的に組み合わせることでシナジー効果を生むという見方を記していました。

国際社会の中で孤立している北朝鮮のほうこそ、圧倒的な軍事力や国力の差を前にして危機感を強めているはずです。ハード・パワーの優位さが歴然としているのですから日本政府は対話というソフト・パワーを駆使することに全力を尽くして欲しいものと望んでいます。リスク自体がなくなるような対話方法に関しては、お互いのリスクを取り除くため、お互いの利害を調整するための手段として対話が必要なのではないでしょうか。そのため「対話のための対話では意味がない」という言葉にも違和感を抱きがちです。

そもそも相手の挑発に対し、過剰に反応しすぎることは相手側のペースにはまっているような印象を受けがちです。非難されるべきは北朝鮮であることは当たり前ですが、後ほど紹介する記事のような論調の批判が生じることも否めません。いずれにしても強い言葉で反応することは国民からの支持や信頼を高める効果があるのかも知れませんが、ますます敵視されながら真っ先に攻撃の対象にされるというリスクを高めていきがちです。

以上のような「答え」が下っ端さんに納得いただけるのかどうか分かりません。それぞれが正しいと信じている「答え」は本当に幅広く、個々人の基本的な視点や立場から大きく枝分かれしていきます。一方で、より望ましい「答え」に近付くためには多面的な情報に触れていくことが大切です。そのため、このブログはマイナーな情報を提供する場として、いろいろなサイトの記事内容を紹介しています。受けとめ方は人それぞれであり、必ずしも私自身が全面的に賛同している内容ではありません。あくまでも「このような見方もあるのか」という趣旨で紹介します。ぜひ、お時間等が許される方はリンク先をご参照ください。

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2017年8月27日 (日)

平和への思い、自分史 Part2

前回記事「平和への思い、自分史」の最後のほうで「青婦部幹事時代の転機から現在までが駆け足気味だったため、機会があれば詳述させていただくかも知れません」と書き添えていました。さらに最近の記事「改憲の動きに思うこと Part2」の中で綴っていたため、北朝鮮の脅威に対しては「窮鼠猫を噛む」状態に追い込まないようにすべきであり、対話の窓は積極的に開放していくことが必要という端的な記述にとどめていました。

まして「存立危機事態」と見なした勇み足は絶対自制すべきものと痛切に感じています、このような訴えで前回記事をまとめていましたが、もう少し言葉を継ぎ足さなければならなかったものと考えています。そのため、新規記事には「Part2」を付けて前回記事を補足するような内容を書き進めてみます。まず差し迫った各論である北朝鮮問題に入る前に「自分史」としての続きを改めて綴らせていただきます。

10代の頃は「戦争は嫌だ、戦争は起こしたくない」という思いを胸に秘めながらも主体的な動きとは無縁な日常でした。青年婦人部の幹事という労働組合の役員になったことを切っかけに反戦平和について深く考えるようになっていきました。その労働組合が自治労に属していたため、いわゆる左に位置する運動を下から支える一人だったと言えます。1980年代、まだ連合ができる前、総評・社会党ブロックと称された政治勢力の中心的な役割を自治労は担っていました。

この流れは平和フォーラムに継承され、今も原水禁運動や軍事基地反対の取り組みなどが自治労各単組で方針化されているはずです。具体的な運動の進め方は、焦点化された課題が浮上した際の反対集会、毎年恒例化した反対集会やイベント、それらを周知するための駅頭宣伝や地域ビラ配布、学習会や現地視察など多種多様です。ただ当たり前なことかも知れませんが、すべて発信側の「答え」が正しく、「反対しよう」「反対しなければならない」という訴えを広めることが運動の主軸となっています。

私自身も20代から30代の頃は戦争の悲惨さや理不尽さなどを組合員を中心に広く伝えていくことが平和を築くための運動だと考えていました。確かに多くの人が戦争の悲惨さや実相を知り、絶対起こしてはならないという思いを強めていくことは重要です。しかし、日本人だけがそう思い、日本国憲法第9条を原則的に解釈し、非武装中立を唱えれば平和は維持できるのか、そのような問いかけがあることを徐々に意識するようになっていきました。

1994年、社会党の村山富市委員長が首相になって「自衛隊合憲、日米安保堅持」を表明しました。それまでの基本政策の大転換でしたが、それほど違和感は持たなかったように記憶しています。この頃から護憲という言葉の中味が個別的自衛権は認めるという幅を持って広く受け入れられ始めていたのかも知れません。このような動きがある中、自治労の基本方針も現状を認めた上、自衛隊や日米安保条約をどのように改めていくべきかという内容に変わっていきました。

それでも自治労の立場はいわゆる左であり、連合の中での存在感も最左翼というもので現在に至っています。自治労に所属している組合役員や組合員の考え方は個々人で異なるはずであり、一括りに語るべきではないのかも知れませんが、自治労という組織は前述したような立ち位置に見られています。「自分史」の話に照らした際、連合地区協議会の役員を担ってから他の産別の方々と話す機会が急増しました。同時に幅広い立場の政治家の皆さんと懇談する機会も増えていました。

自治労内の会議であれば、近しい立場の方々との交流にとどまりがちです。政治家との懇談も自治労の組織内議員に限られるため、連合という枠組みは様々な意味合いで貴重な経験や交流の機会を得られていました。書記長から委員長になった直後の年末に連合地区協の役員に就任しました。翌年の夏、このブログを始めています。したがって、実生活の場面での交流関係が広がった時期と重なりながら当ブログを通し、本当に幅広く多様な声に接することができるようになっていました。

かなり前から閲覧いただき、私自身の発信している「答え」に疑義を唱えている方からすれば「その割にまったく変わっていないじゃないか」という指摘を受けそうですが、自分なりに大きな変化があった時期だと言えます。大きな変化の一つとして、誰もが「戦争は起こしたくない」という思いがある中、平和を維持するために武力による抑止力や均衡がどうあるべきなのか、手法や具体策に対する評価の違いという関係性を認識するようになっていました。

つまり安倍首相も決して戦争を肯定的にとらえている訳ではなく、どうしたら戦争を防げるのかという視点や立場から安保法制等を判断しているという見方を持てるようになっています。その上で、安倍首相らの判断が正しいのかどうかという思考に重きを置くようになっています。そして、自分自身の「答え」が正しいと確信できるのであれば、その「答え」からかけ離れた考え方や立場の方々にも届くような言葉や伝え方が重要だと認識するようになっていました。

このような点を意識し、乗り越える努力を尽くさなければ平和運動の広がりや発展は難しいように感じています。戦争に反対する勢力、戦争を肯定する勢力、単純な2項対立の構図ではとらえず、「いかに戦争を防ぐか」という具体策を提示しながら発信力を高めていくことが求められているはずです。さらに2項対立に関わるすべての問題に留意すべき点として、考え方や立場、生い立ちや宗教が違うからと言って他者を侮蔑したり、敵視することは避けなければなりません。

米南部部バージニア州シャーロッツビルで白人至上主義と反対派が衝突した事件を受け、オバマ前米大統領がツイッターに投稿した人種間の融和を訴える内容が共感を呼び、米メディアによると、ツイッター史上最高となる「いいね」が付いている。オバマ氏は13日に、自身が黒人や白人の子供たちにほほえみかける写真とともに、人種差別と闘った南アフリカのマンデラ元大統領の言葉を引用して「誰も生まれながらに、肌の色や生い立ち、宗教によって他人を憎まない」と投稿した。

また次の投稿で、「人は憎むことを学ばなければならない。憎しみを学べるのなら、愛を教えられる」とマンデラ氏の言葉を続けた。3日後の16日時点で、最初の投稿に約370万、次の投稿に約130万の「いいね」が付いた。これまで最も支持を集めた投稿は、米歌手アリアナ・グランデさんが、英国公演で起きた自爆テロの後に「言葉が見つからない」などと記したもので、約270万人が「いいね」と押した。【産経新聞2017年8月17日

「他人を憎まない」、たいへん大事な言葉です。憎しみは争いの素であり、争いの先にテロや戦争が待ち受けています。このブログでも「いがみ合わないことの大切さ」を「Part3」にわたって投稿したことがあります。最近、エコーチェンバー現象という言葉を耳にするようになっていますが、SNSの普及が攻撃的な意見の広まる一因だと見られています。やはり他者の異質な意見にも率直に耳を傾け、共感できなくても、そのような考え方があることを認め合っていける関係性こそ、争いを避ける出発点だと思っています。

長い記事になっていますが、各論とした北朝鮮の問題にも触れていきます。あらかじめ強調しなければならない点として、国際社会から強い批判を受けている北朝鮮の振る舞いを擁護する意図はありません。「いかに戦争を防ぐか」という視点から自分なりの「答え」を提起していくつもりです。グアム島周辺に弾道ミサイルを発射するという北朝鮮の威嚇に対し、小野寺防衛相は集団的自衛権を行使できる「存立危機事態」にあたるという認識を示しました。

まずグアム島周辺22キロの領海の外に弾頭の付いていないミサイルが落下しても「攻撃」ではないため、米軍が北朝鮮に報復攻撃する理由にはならないという見方があります。それにも関わらず、極めて厳しい要件を定めたはずの集団的自衛権の行使を言葉にした小野寺防衛相の勇み足を危惧しています。そもそも日本上空で高度400キロ以上となるミサイルを現在日本に配備している「PAC3」では撃ち落とせません。イージス艦が積んでいる「SM3」も射程外になるようです。

同盟国としての姿勢をアメリカに向けてアピールしたつもりだったのかも知れませんが、北朝鮮から日本が攻撃を受けるリスクを高めた発言だったことも否めません。九州大学の斎藤文男名誉教授は「グアムの沖合にミサイルが落ちることが、日本にとって国民生活が破壊されるような存立危機にあたるかと言われれば、まったくそんなことはないでしょう。むしろ、ミサイルを撃ち落とせば、北朝鮮に対する宣戦布告と受け取られ、全面戦争に突入して、かえって国土と国民を危険にさらす事態になる可能性が高い」と語っています。

北朝鮮情勢から思うこと」の中で記したことですが、北朝鮮はミサイルを1発でも実戦使用した場合、総攻撃を受け、国が滅びる事態を認識しているはずです。つまり圧倒的な軍事力の差を知らしめるだけで北朝鮮に対しては充分抑止力が働いているものと見ています。そのため、日本を真珠湾攻撃に踏み切らせたハル・ノートのような追い詰め方は絶対避けるべきであり、対話の窓は積極的に開放していくことが必要です。最後に、利害が対立するからこそ対話が求められ、対話が続けられる限り戦争は避けられ、国民の安全や安心が担保されていくものと思っています。

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2017年8月20日 (日)

平和への思い、自分史

「昔、日本はこんなに広かったんだぞ」と世界地図を指差し、今は亡き父親が私に説明してくれた思い出があります。私が小学校の低学年の頃だったように記憶しています。幸いにも戦禍で亡くなった家族がなく、戦争中は軍国少年だった父親からすれば中国や東南アジアまで広がった日本の姿は誇らしかったのかも知れません。

父親は軍歌のレコードを好んで買い求めていました。狭い家だったため、よく私自身も軍歌を耳にすることになり、今でも歌える曲が数多くあります。さらに余談ですが、現在、自宅にカラオケセットがあります。さすがに軍歌を外で歌うことはないため、セットされた曲目の中に見かけた『海ゆかば』を初めてカラオケで歌ってみました。すると採点機能の結果は99点、めったに出ない高得点に驚いていました。

父親は決して好戦的だった訳ではなく、特に平和主義にこだわるタイプでもなかったようです。幼少期を軍国主義に染まった環境で過ごし、戦後、激変した社会の中で特段戦争に対して強い嫌悪感を持たなかっただけだろうと想像しています。両極端に位置しない、ごく普通の戦後の日本人の一人だったのではないでしょうか。本人に直接聞くことはできませんので、今、そのような思いを巡らしています。

私自身、幼少期から現在も漫画好きです。1960年代を過ごした幼い頃は『0戦はやと』や『紫電改のタカ』に触れ、戦闘シーンに胸を躍らせていました。『宇宙戦艦ヤマト』より前に戦艦大和を取り上げた漫画があり、その巨大さに憧れ、大和や武蔵のプラモデルを手にした記憶があります。一方で、漫画雑誌には戦争の悲惨さを伝える記事も時々掲載されていました。アウシュビッツ強制収容所のことも、その頃の漫画雑誌の記事で知りました。なぜ、同じ人間に対し、これほど残虐になれるのか、大きなショックを受けました。

原爆を扱った漫画では『はだしのゲン』が有名です。私自身が原爆のことを詳しく知り、意識するようになったのは『はだしのゲン』の連載が始まる数年前でした。以前投稿した「漫画が語る戦争」という記事の中でも記したことですが、『ある惑星の悲劇』という漫画に出会っていました。原爆投下後、建物の下敷きになって、生きたまま焼かれていく子どもたちに「熱かったろうな」と感情移入していたことを覚えています。その漫画との出会いが「戦争は嫌だ、戦争は起こしたくない」という思いの原点だったかも知れません。

だからと言って小学校や中学校時代、自分自身が平和のために何か行動を起こすような発想はまったくありませんでした。当たり前な見方かも知れませんが、その年代から反戦平和について頭を悩ましていた場合、早熟すぎて周囲から浮いてしまう存在だったのではないでしょうか。高校生になると政治的な行動を起こす人たちが出てくるのは今も昔も同じようです。私と同じ世代で、高校生だった知人の中にも政治的な問題意識を強めていた人はいました。それでも極めて少数であり、私自身をはじめ、大半はノンポリな高校生だったはずです。

1965年から1972年までの安保闘争とベトナム戦争の時期、大学時代を送った世代が全共闘世代と呼ばれ、この世代の15%の人たちが学生運動に関わったと言われています。そのような残滓が少しだけ見受けられる頃、就職と同時に大学に入学しました。以前の記事「公務員になったイキサツ」に綴ったとおり夜間大学に通いやすいため、公務員を志望しました。それが就職し、すぐ方針を変えて「大学は卒業するため」だけの存在になりました。

そのため、大学生活から何か影響を受けるような関係性は薄いまま過ごすことになりました。1回生の時には教科書裁判で有名な家永三郎先生の授業も受けましたが、前述したおり真面目な学生でなく、それほど大きな影響を受けないまま単位だけ取得しています。結局のところ「戦争は嫌だ、戦争は起こしたくない」という思いを胸に秘めながらも主体的な動きとは無縁のまま年数を重ねていきました。ある意味、圧倒多数の普通の人たちの感覚であり、日常の姿なのだろうと思っています。

組合役員になったイキサツ」という記事に綴りましたが、やはり自治労運動に関わるようになったことが平和への思いの大きな転機だったようです。あらかじめ釈明しなければなりませんが、運動の強要や押し付け、まして洗脳があった訳ではありません。イデオロギーに感化された訳でもなく、真っ新だった自分自身の意識の中に「どうしたら平和は築けるのか」という素朴な問いかけが芽生え始めた時機だったと言えます。当時のブログ記事には次のとおり書き残していました。

ある16ミリ映画会に興味を持ち、幹事の先輩数人と出かけました。その映画の題名は「光州は告発する」でした。チョン・ドハン元韓国大統領の軍事クーデターに反対し、光州市民が大規模なデモなどを行ないました。それに対してチョン元大統領は軍隊を出動させ、自国民に銃口を向け、力ずくで鎮圧をはかりました。その虐殺の模様を記録した映画が「光州は告発する」でした。

それまでも原爆やアウシュビッツ強制収容所の話などを知ることにより、戦争への嫌悪感は人一倍持っていたと思います。ただベトナム戦争も現在進行形の世代ではなく、私の戦争に対する思いは「過去の事実」との認識でした。それが同じ瞬間、それほど距離が離れていない半島で、戦車でひき殺される人たちがいたことに大きな衝撃を受けました。

さらに今から思えば、その北の国でも非人道的な行為を繰り広げていたことになります。この映画を見たことにより、少し考え方に変化が出ました。だから何ができるか分かりませんでしたが、青婦部幹事になって一年間、何もしなかったし、何も分かろうとしないで辞めるのも何だなと思い返すようになりました。

この後、青年婦人部の幹事から部長まで担い、まったく想定していなかった組合の執行委員長まで引き受けることになりました。その結果、これまで組合役員を長く続ける中で様々な経験や交流をはかることができました。平和への思いについて青婦部時代は、まず自分自身が知ることを重視しました。沖縄にはプライベートも含めて数回行っていますが、捨て石にされた沖縄戦の実相を戦争体験者から直接聞き、集団自決のあった真っ暗なガマに入るような機会も得ていました。

そして、知り得た戦争の悲惨さを部員や組合員に伝える、このような広げ方が平和を築くための運動だと考えていました。青婦部を卒業してからも、しばらくは平和をアピールすることや軍事基地に反対することが大事な行動だろうと認識していました。もちろん多くの人が戦争の悲惨さや実相を知り、絶対起こしてはならないという思いを強めていくことは重要です。しかし、そのような思いだけでは決して戦争を抑止できないことを痛感するようになっています。

毎年8月になると、日本のテレビや新聞は、戦争の悲惨さだけに焦点を当てた自虐的な報道をたくさん流す。戦争の惨禍を繰り返してはならないが、過去を自虐的に反省してさえいれば、日本は二度と戦場にならないとでも信じているのか。悲惨な戦争をいかにして防ぐのか。具体的な方策に何も言及しない自虐報道は無責任だ。過度に厭戦気分を煽り、日本人の国防意識を低下させたのでは、利敵行為とすらいえる。

上記は最近目にしたケント・ギルバードさんの「戦争防ぐ方策に触れない自虐報道は無責任」という論評の抜粋です。「自虐報道」や「利的行為」という見方など共感できない記述もありますが、「悲惨な戦争をいかにして防ぐのか」という視点の大切さはそのとおりだと思っています。過去、私自身が是としてきた平和運動も「いかに防ぐか」という視点が不充分だったように省みています。残念ながら現在の平和運動全体にも通じる課題であり、「いかに防ぐか」という具体策の提示や発信力が問われているように受けとめています。

以前、戦争に反対する勢力、戦争を肯定する勢力、単純な2項対立の構図でとらえがちでした。現在は誰もが「戦争は起こしたくない」という思いがある中、平和を維持するために武力による抑止力や均衡がどうあるべきなのか、手法や具体策に対する評価の違いという関係性を認識するようになっています。とは言え、このような関係性においても戦争の実相を知った上で「戦争も辞さず」と語るのかどうかは重要であり、戦争の悲惨さを知ること、知らせていくことも欠かせない営みだろうと考えています。

「自分史」という初めての試みで新規記事を書き進めてきました。青婦部幹事時代の転機から現在までが駆け足気味だったため、機会があれば詳述させていただくかも知れません。最後に、差し迫った北朝鮮の脅威に対し、戦争を「いかに防ぐか」という自分なりの思いを書き添えます。最近の記事「改憲の動きに思うこと Part2」の中で綴ったとおり北朝鮮を「窮鼠猫を噛む」状態に追い込まないようにすべきであり、対話の窓は積極的に開放していくことが必要です。まして「存立危機事態」と見なした勇み足は絶対自制すべきものと痛切に感じています。

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2017年8月12日 (土)

会計年度任用職員

このブログで取り上げる題材に対し、実際の組合活動の中で占める割合が正比例していないことは機会あるごとにお伝えしています。最近では「改憲の動きに思うこと Part2」の冒頭で記していました。日常活動の中で職場課題を軽視している訳ではないことを皆さんからご理解いただいているものと思っていますが、久しぶりに今回、労働組合の本務に関わる話題を書き進めていきます。まずは先週火曜、人事院勧告が示されました。

人事院は8日、2017年度の国家公務員一般職の月給を平均631円(0.15%)、ボーナス(期末・勤勉手当)を0.10カ月分それぞれ引き上げるよう国会と内閣に勧告した。月給・ボーナス双方の引き上げは4年連続。民間の賃上げの動きの鈍化を受け、月給の上げ幅は16年度の平均708円を下回る。政府は勧告を受け、給与関係閣僚会議で勧告通り引き上げるかどうかを決める。勧告は民間と国家公務員の給与水準をそろえるのが目的。勧告の基準となる「民間給与実態調査」を実施し、民間が国家公務員の水準を上回った。

月給は今年4月時点、ボーナスは16年冬と17年夏が対象だ。ボーナスの年間支給月数は4.40カ月分になる。勧告対象は国家公務員だが、人事院勧告に沿って改定される地方公務員にも影響する。財務省や総務省の試算では勧告通り引き上げた場合、国家公務員で約520億円、地方公務員で約1370億円が必要になる。このほか、非常勤職員の待遇改善に向けて、忌引や結婚などの休暇を取りやすくするよう検討することなども報告した。【日経新聞2017年8月8日】

民間賃金相場の反映である人事院勧告が引き続き上昇トレンドであり、今のところ勧告内容を凍結するような動きがないことも歓迎しています。現政権の働き方改革実現会議の中で「同一労働同一賃金など非正規雇用の処遇改善」を最も重要な目的としていることなど評価すべき点は率直に評価するように心がけています。仮に「安倍政権だから何でも反対」というスタンスだった場合、反対意見や批判内容の説得力が低下してしまうように危惧しています。

もしかすると「ご都合主義」という批判を招いてしまうのかも知れませんが、「誰が」や「どの政党が」に重きを置かない思考方法としてご容赦ください。労働組合の本務に関わる話題と前置きしながら、いつも述べているような話にそれ気味で恐縮です。さて、上記報道のとおり人事院勧告に絡む報告の中でも非常勤職員の待遇改善が課題とされています。今年3月に「非正規雇用の話、インデックスⅡ」という記事を投稿していますが、私どもの組合は多くの非常勤職員の皆さんが同じ組合員として様々な活動を進めています。

その一つとして、7月13日夜に会計年度任用職員に関する学習会を開き、70名ほどの参加を得られていました。講師は自治労中央本部の組織拡大局長にお願いしました。局長ご自身、非常勤職員として公立の図書館に勤務されていた方です。自治労での任務が非常勤職員の組織化であり、今回の法改正に際しては総務省の担当者らとの交渉窓口としてたいへん尽力されていました。今回、講師から伺ったお話や配付された資料をもとに会計年度任用職員の概要等を説明させていただきます。

教育、子育てなど増大する行政重要に対応するため、地方公務員における臨時・非常勤職員数は増加の一途をたどっています。地方公務員法3条3項3号を根拠に採用されている事務補助職員は全国で22万人に及びます。首長や委員等と同じ法的な位置付けになるため、特別職非常勤職員には一時金など手当支給に制限が加えられていました。本来、特別職とは首長や委員等の専門性の高い職であり、地方公務員法が適用されず、守秘義務や政治的行為の制限などの制約も一般職と異なっています。

このような現状を受け、総務省は地方自治体の非常勤職員の待遇を改善することを目的とし、明文規定がなかった非常勤職員の採用方法と任期などを明記する法律を準備してきました。今年5月に地方公務員法及び地方自治法の一部が改正され、今後、臨時・非常勤職員が一般職・特別職・臨時的任用の3類型に明確化されます。一般職の非常勤職員である会計年度任用職員の規定を新たに設け、手当支給等を可能とします。概要は次のとおりで施行日は2020年(平成32年)4月1日です。 

■ 地方公務員法の一部改正 【適正な任用等を確保】

  1. 特別職の任用及び臨時的任用の厳格化 ①通常の事務職員等であっても、「特別職」(臨時又は非常勤の顧問、参与、調査員、嘱託員等)として任用され、その結果、一般職であれば課される守秘義務などの服務規律等が課されない者が存在していることから、法律上、特別職の範囲を、制度が本来想定する「専門的な知識経験等に基づき、助言、調査等を行う者」に厳格化する。②「臨時的任用」は、本来、緊急の場合等に、選考等の能力実証を行わずに職員を任用する例外的な制度であるが、こうした趣旨に沿わない運用が見られることから、その対象を、国と同様に「常勤職員に欠員を生じた場合」に厳格化する。
  2. 一般職の非常勤職員の任用等に関する制度の明確化 法律上、一般職の非常勤職員の任用等に関する制度が不明確であることから、一般職の非常勤職員である「会計年度任用職員(※)」に関する規定を設け、その採用方法や任期等を明確化する。 ※フルタイムとパートタイムがあり、前者は給料及び旅費、各種手当を支給、後者は報酬及び費用弁償、期末手当を支給する。

■ 地方自治法の一部改正 【会計年度任用職員に対する給付を規定】 会計年度任用職員について、期末手当の支給が可能となるよう、給付に関する規定を整備する。

講師のお話を伺い、このブログに何回かコメントをお寄せくださった一生非正規さんのことが思い浮かびました。今年2月の記事「非常勤職員制度見直しの動き」の中で、一生非正規さんから「雇い止めされそうです 助けて下さい」という悲痛なコメントがあったことを紹介しました。今回の法改正によって新たな根拠で採用しなければならないため、特別職非常勤職員という法的な位置付けで採用された方々が雇い止めを強いられるような動きを警戒していました。

学習会では総務省自治行政局公務員部のまとめた「会計年度任用職員制度の導入等に向けた事務処理マニュアル(案)」に沿った報告や説明が加えられました。そのマニュアルは自治労が要望した事項の大半が反映されているとのことで、全体を通して講師からは前向きな提言や情報提供が示されていました。雇い止めの心配は講師から競争試験によらず、選考で採用できるという説明を受けました。

それまでの勤務実績等を考慮し、特別職非常勤職員として採用された方々、全員がそのまま会計年度任用職員に移行できるようになっていることを把握できました。さらに「会計年度」という名称から1年ごとの雇い止めが強まるような懸念もありました。そのことに関しても名称は変えられませんでしたが、任期1年と定められていても更新は妨げられないという説明を受けています。

フルタイムとパートタイムの線引きが明確化されていますが、パートタイムに対しても自治体独自にフルタイムと同様な手当支給の道も開けているとのことです。現在雇用されている非常勤職員の方々にとって待遇を大きく底上げできる絶好の機会だと理解できました。しかしながら一方で、実際に支給するためには各自治体での条例改正が必要とされています。確かに期待や可能性は大きく広がっていますが、画餅にならないよう2020年4月の施行に向け、各自治体や団体の組合の力量が問われているようです。

具体的にどのように変わるのか、組合としてどう対処していくのか、学習会の後、私どもの組合として次のような点を確認しました。参考までに組合員向けのニュースに掲げた内容をご紹介します。今後、労使交渉で早期に大枠の方向性を確認し、よりいっそう当該の組合員の皆さんと連携を強めながら法改正に対処していきます。最後に、お忙しい中、講師を引き受けていただいた組織拡大局長、分かりやすい説明と勇気付けられるご提起、たいへんありがとうございました。

◇ 組合加入を勧めている嘱託職員の皆さんは地方公務員法3条3項3号の規定で雇用されている特別職です。今回の法改正で今後は会計年度任用職員に位置付けられる職務の方々だと言えます。7月13日の学習会の中で、競争試験によらず、選考で採用できるという説明を受けています。そのため、嘱託組合員全員がそのまま移行できるように労使協議に臨みます。

◇ それまでの賃金水準や勤務条件が後退するような移行は論外であり、期末手当の支給をはじめ、フルタイムやパートタイムに関わらず、この機会に大幅な待遇の改善に努めます。学習会では各自治体の裁量で手当支給の幅が広げられることも確認しています。施行までに条例化が欠かせず、よりいっそうの待遇改善をめざした労使交渉に力を注いでいきます。

◇ 上記概要のとおり「臨時的任用」の対象が限られるため、産休・育休の代替や業務補助的な臨時職員のあり方も見直していかなければなりません。今後、任期付短時間職員又は新たに制度化されるパートタイムの会計年度任用職員に移行させていくことになります。この機会に臨時職員の業務内容や勤務条件全般も労使協議していきます。

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