2023年3月18日 (土)

放送法での政治的公平性 Part2

月曜から新型コロナ対策のマスク着用が緩和されています。ただ今のところ外している方のほうが少なく、これまでの日常の風景に大きな変化は見られていません。火曜には東京で桜の開花が気象庁から発表されました。観測史上1位タイの早さの開花宣言です。こちらも今のところ私が毎朝通る桜並木に変化はなく、まだ冬景色のままです。

このブログを次回更新する来週末には春の訪れを実感している頃なのかも知れません。木曜夜にはWBCの準々決勝があり、日本代表はイタリアを撃破し、アメリカに渡っています。季節の移ろいを感じ始めていく来週末までに3大会ぶりの優勝を見届けられることを願っているところです。

「日記・コラム・つぶやき」をカテゴリーとしているブログですので、このような話題だけでまとめても良いのかも知れませんが、今回も堅苦しい「放送法での政治的公平性 Part2」という記事タイトルを付けてパソコンに向かっています。

前回の記事では、2018年4月の記事「放送法第4条撤廃の動き」で取り上げたような問題まで掘り下げるつもりでした。結局、高市大臣のことだけで相当な長さとなっていましたので、続きを今回「Part2」として書き進めていきます。ちなみに放送法第4条「国内放送等の放送番組の編集等」第1項の条文は次のような内容です。

第4条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。

  1. 公安及び善良な風俗を害しないこと。
  2. 政治的に公平であること。
  3. 報道は事実をまげないですること。
  4. 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

第4条の第2項は視覚障害者や聴覚障害者に対する可能な限りの配慮を求めたものであり、2018年当時も今回も第1項の第2号に掲げられている「政治的に公平であること」の是非や解釈の問題が大きな論点となっています。

放送法は、太平洋戦争時に戦意高揚のための政府宣伝にラジオが使われた反省から1950年に制定されたという経緯があります。政治的に公平であるという意味は国家権力から縛られず、批判すべき点があれば率直に批判できる立場性を保障したものだと言えます。政権にとって都合の良い情報だけを流す宣伝機関とならず、国民が時の政権を正当に評価するため、幅広い情報を提供していくという公益性が放送事業者には求められています。

アメリカでは1987年にメディアに対する「公平原則」が廃止され、それ以降、各局の政治的な立ち位置が顕著になっています。「政治的に公平であること」の規制を外しているため資金力のあるメディア企業が情報を統制できる力を持ち、実際にトランプ前大統領を肩入れしたニュースが複数の番組で一斉に放映されたこともあります。

今回、総務省の行政文書を通し、礒崎陽輔元総理補佐官が特定の番組を問題視していたことが明らかになっています。自分たちが進める政策や考え方に批判的な番組は偏向しているという発想のもとに放送法のあり方について、いろいろ疑義を示してきた安倍政権時代の内情の一端を裏付ける文書の存在だったものと思っています。

放送法第4条撤廃の動き」を投稿した直前の2018年3月には「精神的自由と経済的自由」というタイトルの記事内容を当ブログで取り上げていました。 その中で「現政権は表現の自由に対し、意図的なのか、自覚が不足しているのか、 メディアが自己規制してしまうような振る舞いも目立っています」と記し、次ような話も伝えていました。

そもそも安倍首相は「(出演した報道番組の中で)私の考えをそこで述べるのは、まさに言論の自由だ」と言い切っています。この件で国会質問を受けた際、安倍首相は「番組の人たちは、それぐらいで萎縮してしまう。そんな人たちなんですか? 情けないですね」という反論を加えています。表現の自由や言論の自由は国民に与えられている権利であり、権力者である安倍首相はそれらの権利を保障させていかなければならない立場です。

その2年前の2016年5月には「報道の自由度、日本は72位」という記事を投稿しています。世界報道の自由度ランキングで民主党の鳩山政権時の2010年は11位であり、それ以降、毎年順位を下げ続けていました。このような結果に対し、下記のような背景があることを記していました。

特定秘密保護法などの影響で「自己検閲の状況に陥っている」と見られているようです。さらに高市総務大臣の「テレビ局が政治的公平性を欠く放送を繰り返した場合、電波停止を命じることができる」という趣旨の国会答弁を行なったことも問題視されています。

そもそも放送法第4条の「政治的に公平であること」という条文は放送局の倫理規定だと言われ、この条項に対する直接的な罰則規定はないと解釈されています。放送局が番組全体で多様な意見を伝えながら政治的公平性のバランスを取るべきであり、一つの番組の中での発言を取り上げて電波停止が示唆されるようであれば言論統制という批判も的外れとは言えなくなります。

2016年当時の記事の中で、今回取り沙汰されている放送法第4条の政治的公平性について上記のような問題意識を示していました。ディリー新潮の記事『【「高市vs.小西」文書捏造問題】本当の「犯人」は既得権益を守りたい官僚ではないのか』の中で、報道の自由度で日本が世界全体の72位だと評価されたことについて早稲田大学の有馬哲夫教授は「安倍政権がニュースに圧力をかけたからだ」という批判はピント外れだと指摘しています。

政府機関である総務省が、放送法第4条の公平原則に反した放送局に「停波措置をとることができる」と定めている点が最も本質的な問題であると有馬教授は説明しています。しかし、鳩山政権当時は11位だったことをどのように解釈しているのかどうか、有馬教授の説明の中では明らかにされていませんでした。

ディリー新潮の記事で有馬教授は、高市経済安全保障担当大臣が「捏造だ」と強弁していたことに対して一定の理解を示し、総務省側の行政文書の問題性を指摘しています。現代ビジネスの記事小西洋之議員が公表した「放送法文書」は“捏造”なのか…? その信憑性について考えてみる』も同じように小西参院議員や総務省側に問題があるという立場で綴られています。

メディアや筆者それぞれの立場性があり、報道の自由や言論の自由が守られていくことこそ健全な民主主義社会の礎となるものです。政権を擁護する立場の意見があって当たり前であり、同時に政権側にとって耳の痛い批判意見も広く発信できる社会でなければなりません。このブログでは下記のような問題意識を訴え続けています。

物事を適切に評価していくためには、より正確な情報に触れていくことが欠かせません。誤った情報にしか触れていなかった場合は適切な評価を導き出せません。また、情報そのものに触れることができなかった場合、問題があるのか、ないのか、評価や判断を下す機会さえ与えられません。

今回、放送法での政治的公平性のあり方が改めて問われる機会となっています。「一つの番組ではなく、その放送事業者の番組全体を見て判断をする」と政府は説明してきましたが、2015年に総務相だった高市大臣は国会質疑で「一つの番組のみでも極端な場合は、政治的公平を確保しているとは認められない」と答弁していました。

岸田総理は当時の高市大臣の答弁を「解釈変更ではなく、補充的説明だった」と強調しています。さらに違反した放送局に対する電波停止命令については「極めて慎重な配慮の下で運用すべきだと従来説明され、一貫して維持されている」とし、「放送事業者にプレッシャーをかけ続けているとの指摘は当たらない」と語っています。

実際、その通りなのかどうか、あるいは徐々に放送事業者側が萎縮し、自己規制に走っているのかどうか人によって見方は分かれるのかも知れません。ただ安倍元総理や礒崎元補佐官から名指しで批判されていた『サンデーモーニング』は従前のスタイルを変えずに続いています。

総務省文書で名指しされた『サンモニ』出演の青木理氏 政権からの敵視は「番組にとって名誉」なこと』『放送法「政治的公平文書」で名指しの『サンモニ』関口宏が「権力者がメディアの解釈を間違ってたんじゃないか」変わらぬ姿勢に寄せられる応援』という記事を目にしていますが、視聴率が低迷している番組だった場合、打ち切りの対象になっていたのかも知れません。

今回、総務省が「解釈変更」に至った経緯として、礒崎元補佐官が総務官僚らに密室で不当な圧力をかけたという事実関係なども問題視されています。さらに「ただじゃすまないぞ」「首が飛ぶぞ」などというパワハラ発言は、もっと厳しい批判にさらされるべき不穏当な言動だったはずです。

それが高市大臣の捏造発言や議員辞職の問題のほうに大きな注目が集まっていたため、礒崎元補佐官の存在が霞んでいました。もしかすると礒崎元補佐官自身、このような展開に安堵されているのではないでしょうか。

経産官僚だった古賀茂明さんは 「I am not Abe」を掲げた以降、テレビ番組で見かけることがなくなっています。この顛末に対する評価も人によって分かれているはずです。古賀さんは週刊朝日に『高市辞職より報道の自由の本質論を』という記事を寄稿していますが、基本的にはその通りだと思っています。

国民民主党の玉木代表は高市大臣への追及を強める立憲民主党の姿勢を疑問視しながら「争点がずれている。政治的な圧力で解釈が歪められ、自由な放送ができなくなったかどうかが本質だ」と述べていました。本質論で言えばその通りですが、高市大臣の言動そのものも大きな問題をはらんでいるため、同時に追及していくべき論点だと理解しています。

立憲民主党の杉尾秀哉参院議員との質疑の中で、高市大臣は「信用できないなら質問しないで」と発言しています。この発言に対しては『高市大臣ますます逆切れ暴走…最大NGワード「質問するな!」を放ち、自民党内でも大ブーイング』という記事のとおり政権与党内でも、ますます高市大臣は浮いた存在になりつつあるようです。

この時の答弁でも「放送法の政治的公平に関するレクは受けていない」と主張し、文書の中でレクに同席したとされる大臣室の事務方二人も「絶対にないと言ってくれている」と高市大臣は明らかにしています。それに対し、総務省側は高市大臣の説明と異なる聞き取り結果を示しています。今回の記事も長くなっていますので、ここで一区切り付けますが、総務省の行政文書の問題は今後の推移を見守りながら改めて取り上げることになるのかも知れません。

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2023年3月11日 (土)

放送法での政治的公平性

3月11日、東日本大震災から12年目を迎えています。10年という節目の時は「東日本大震災から10年」という記事を投稿していました。週に1回のみ更新している当ブログでは今回、連日報道されている別な話題に注目していたため「放送法での政治的公平性」というタイトルを付けて書き始めています。

「仮にこれが捏造の文書でなければ大臣そして議員を辞職するということでよろしいですね」という問いかけに「結構ですよ」と応じた国会質疑での一場面から様々な話題が拡散しています。質問者は立憲民主党の小西洋之参院議員、答弁したのは総務大臣だった高市早苗経済安全保障担当大臣でした。

高市早苗経済安全保障担当相は3日の参院予算委員会で、立憲民主党の小西洋之参院議員から平成26~27年に安倍晋三内閣が一部の民放番組を問題視し、放送法が規定する「政治的公平」の「解釈変更」(小西氏)を試みたことを示す総務省作成の内部文書があるとの指摘を受け、自身の言動に関する記述を「捏造文書だ」と否定した。高市氏は当時の総務相だった。捏造でなかった場合、閣僚や議員を辞職する考えも示した。

小西氏が入手し、公開した内部文書には礒崎陽輔首相補佐官(当時)が平成26年11月から総務省に放送法の新解釈などを求める過程が記されている。総務省は従来、政治的公平に関し「一つの番組ではなく、放送事業者の番組全体を見て判断する」との解釈だったが、高市氏は27年5月に国会で「一つの番組でも極端な場合は政治的公平を確保しているとは認められない」と発言した。

文書にはこれに先立つ27年3月に安倍氏が「政治的公平の観点から現在の番組にはおかしいものがあり、現状は正すべきだ」と発言したとの記載のほか、安倍氏と高市氏が電話でやり取りをしたとの記述もあった。

高市氏は「放送法について私は安倍氏と打ち合わせをしたことはない」と明言。小西氏は「捏造の文書でなければ閣僚や議員を辞職するか」とただしたが、「結構だ」と応じた。松本剛明総務相は文書の正確性について「精査しなければならない事項がいろいろある」と述べた。【産経新聞2023年3月3日

高市大臣の「結構ですよ」という即答に対し、前々回記事「『安倍晋三 回顧録』と『国策不捜査』 Part2」の中でも取り上げた安倍元総理の「私や妻が関わっていれば、総理大臣も国会議員も辞める」と答弁した場面を重ね合わせ、そこまで言い切って大丈夫なのだろうかという危惧を覚えていました。

同時に2006年の「永田メール問題」も頭に浮かんでいました。民主党の永田寿康衆院議員がライブドア事件に関連し、自民党の武部勤幹事長の疑惑を国会で追及しました。その質問の端緒とされていたメール自体が「偽メール」であったことが判明し、民主党は厳しい批判を浴び、前原誠司代表らは総退陣に追い込まれました。

永田議員は国会議員を辞職し、民主党からも除籍処分され、2009年には自殺しています。森友学園の問題では安倍元総理の国会答弁後に公文書が改ざんされ、そのことを苦にした近畿財務局の赤木俊夫さんが自殺しています。このような不吉な過去を思い起こしながら総務省の内部文書の問題を注視していました。

週に1回の更新間隔の記事内容は速報性が薄れますが、事実経過を見定めた上で取りかかれる利点もあります。今回の問題で言えば、早々に松本総務相は「すべて総務省の行政文書だった」と認め、「厳重取扱注意」とされた当該の文書を総務省のホームページから全文を閲覧できるようにしています。

黒塗りは一切なく、途中で横書きの文書が入り込むため読みづらくなっていますが、『「局長ごときが、首が飛ぶぞ」総務省文書で暴言連発「自称・安倍側近」議員のヤバすぎる「言行録」』という記事が伝えているような生々しいやり取りを確認できます。ここまで潔く情報公開に踏み切った特段の事情があるのかも知れませんが、なかなかの英断だったものと評価しています。

前回記事「ベーシックサービス宣言」の中でも触れていましたが、多面的な情報に接していくことの大切さを痛感しています。今回の記事ではそのような趣旨を踏まえ、放送法での政治的公平性の問題や高市大臣の対応を論評しているネット上に掲げられた様々な記事を紹介していきます。サイトの見出しを紹介し、興味を持たれた方はリンク先の全文をご参照ください。

まずLITERAが2回にわたって『安倍政権の言論弾圧「放送法解釈変更」をめぐる総務省内部文書のリアルすぎる中身! 高市早苗はこれでも「捏造」と言い張るのか』『総務省文書の放送法解釈変更は氷山の一角! 安倍官邸は同時期、あの手この手で言論弾圧 古舘、国谷、岸井が次々降板したのも…』という詳細な記事を掲げています。

ジャーナリストの鮫島浩さんも安倍官邸が放送法の解釈修正を総務省に迫っていたーー高市早苗大臣が「ねつ造」と反論した内部文書を暴露した小西洋之参院議員の国会質疑を同時進行の連続ツイートで解説する朝日新聞政治部・鬼原記者の試み』『高市早苗が議員の地位を賭けて断言した「捏造」という言葉の軽さ〜総務省文書に描かれた安倍官邸の生々しい政治ドラマと「岸田vs菅」の権力闘争の影』という記事を立て続けに投稿しています。

弁護士の澤藤統一郎さんは『高市早苗は腹を切るとは言わなかったが、クビを懸けた。前言を翻してはならない。』『安倍晋三とその取り巻きによる、「不都合な放送」に対する介入が事件の本質である。』という記事を重ね、後者の記事の冒頭で次のように行政文書について解説しています。

公文書管理法や情報公開法で定義されている「行政文書」とは、「行政機関の職員が職務上作成し又は取得した文書で、組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているもの」と言ってよい。堂々たる「公文書」である。捏造文書でも、怪文書でもない。

公文書の内容が全て正確であるかといえば、当然のことながら、必ずしもそうではない。しかし、公務員が職務上作成した文書である。その偽造や変造には処罰も用意されている。特段の事情がない限りは、正確なものと取り扱うべきが常識的なあり方である。

内容虚偽だの一部変造だのという異議は、異議申立ての側に挙証責任が課せられる。ましてや、高市早苗は総務大臣であり、この文書を管轄する責任者であった。しかるべき理由なくして、「捏造」などと穏当ならざる言葉を投げつけるのは醜態極まる。単に、不都合な内容を認めたくないだけの難癖なのだ。

日刊ゲンダイの『注目集まる放送法文書の真贋 総務省から怒りの内部告発続出!“安倍政権の膿”噴出の可能性』『放送法の公平性「番組全体を見て」は麻生太郎氏の04年国会答弁 安倍官邸に解釈“歪曲”疑惑』の記事では、もともと2004年当時の麻生太郎総務相が次のように国会で答弁していたことを伝えています。

これは(放送法)3条の2の第1項第2号の政治的に公平であることということで、基本的には、不偏不党の立場から、政治的に考えても偏ることなく、放送番組全体としてのバランスがとれたものであるようにしておかないといかぬということだと思っております。政治的に公平であるとの判断は、一つの番組ではなくて、その当該放送事業者の番組全体を見て判断をする必要があるという具合に考えております。

そもそも当ブログの位置付けについても同じような趣旨について理解を求めていかなければなりません。多面的な情報の一つとして」「多面的な情報を提供する場として」という記事を通し、次のように説明してきています。

誤解される時がありますが、このブログの記事本文の内容そのものが多面的で、幅広い情報を提供しているものではありません。書き込まれた内容や主張は、いわゆる左に偏っているという指摘を受けてしまうはずです。世の中には幅広く多面的な情報があふれている中、そのうちの一つとして当ブログも数えていただければ幸いなことだと考えています。

そのような意味で考えた時、上記に紹介したサイトそれぞれの内容も偏っていると見られてしまうのだろうと思っています。今回はせっかくの機会ですので、基本的な立ち位置や視点の異なる論評等を伝える記事のサイトも紹介していきます。

政権与党側の立場の代表格である嘉悦大の高橋洋一教授は行政文書かどうか明らかになる前、現代ビジネスの『小西氏公表の「放送法文書」は総務省内の「旧自治」「旧郵政」の些細なバトルの産物?』という記事を通し、文書の信憑性に疑義を呈した上で陰謀論にまでつなげていました。

行政文書と認められた後は小西文書を一刀両断「旧自治省vs.旧郵政省の内部抗争」…解説動画に「よくわかる」「論点ずらし」賛否渦巻く』という記事の中で「まず言っておくと、行政文書かどうかと言ったら行政文書。ただ、すぐに正しい文書と誤解するけど、メモも行政文書。ハッキリ言うとデタラメなものはたくさんあります」とし、陰謀論だけは強調しています。

高市大臣の対応ぶりについては
高市氏には、虚偽公文書作成罪で告発する「覚悟」はあるのか?~加計学園問題と共通する構図』『ひろゆき氏、高市早苗氏に皮肉ツイート「威勢よくタンカ切ったものの…ハシゴ外される」』『辛坊治郎氏 高市早苗氏の〝誤算〟指摘「文書が本物だと証明されることはないと踏んでいた」』という論評等に目を留めていました。

辛坊氏は「こっから先、高市さんの答弁としては『文章は本物。だけど中身に関しては、私はそんなことは言ってない』と。だとすると、かなり問題なのは、当時大臣だった高市さんが言ってもいないことが内部文書で作成されて、それが省庁でみんなで共有してたっていうことは、それって問題じゃないの?」と疑問を呈した。

上記のような指摘に対し、ここ数日の高市大臣の言葉から心底から謝罪や反省しているようには見て取れません。自分自身の経験則で言えば記憶は当てになりませんが、記録を読み返せば事実関係を思い出すことができます。今回、高市大臣は「大臣レク自体なかった」と説明していますが、そこまでして内部文書の内容を総務省側に偽ることの理由が分かりません。今後、このような不明瞭さも解明していけることを願っています。

今回の記事タイトルは「放送法での政治的公平性」としたとおり2018年4月の記事「放送法第4条撤廃の動き」で取り上げたような問題まで掘り下げるつもりでした。結局、高市大臣のことだけで相当な長さとなってしまいましたので、ここで一区切り付け、続きは次回「Part2」として改めて書き進めていきます。 

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2023年3月 4日 (土)

ベーシックサービス宣言

前回記事「『安倍晋三 回顧録』と『国策不捜査』 Part2」の最後に、多面的な情報に接していくことの大切さという意味合いを込め、二つの書籍を対比した内容を取り上げたことを書き添えていました。今回の記事「ベーシックサービス宣言」の内容も人によって賛否や評価が分かれる内容となるのだろうと思っています。

組合の執行委員長を退任しましたが、協力委員の一人として続けているため各種集会の参加に際しての呼びかけがあります。現職の委員長時代とは異なり、あくまでも任意な対応でしたが、先日「2023春季生活闘争を成功させる連合三多摩の集い」に参加していました。

その時の記念講演「ベーシックサービス宣言~分かち合いが変える日本社会~」の内容がたいへん興味深く、このブログを通して取り上げてみようと考えていました。講師は慶応義塾大学経済学部の井手英策教授です。リンク先の連合三多摩のサイトで講演内容の要旨を次のようにまとめています。

我が国は、平成の時代に一人当たりGDPは世界4位から26位へ、2人以上世帯の3割、単身世帯の5割で貯蓄がなく、企業時価総額TOP50社のうち日本企業は32社から1社になるなど、発展途上国一歩手前の状況にある。

世界価値観調査によれば、国民みんなが安心して暮らせるよう国は責任を持つべきで、「施し」ではなく「保障」を求めている。世論の93%が自分を中流と回答し、本質は格差の有無ではなく基礎的サービスの利用格差であり、医療・教育・介護等へのアクセス保障にある。

また、ベーシックサービスは、誰もが生存、生活のために必要とするベーシックなサービスで、論理だけではなく対話で決まる。決められたサービスではなく、人間に不可欠なニーズを追い求める「終わりなき対話」であること。

さらに、連合東京が掲げる「クラシノソコアゲ」については、生活の底上げは大切な課題だが新しい発想が必要で、賃金を上げつつ困っている人の生活を支え、誰もが安心できる社会を作ることが求められている。税の使い道を論じることは社会の未来を論じることである。

今回、井手教授による上記内容の講演を伺う機会を得て、ベーシックサービスについて掘り下げてみます。その日の講演内容とともにネット上に掲げられた井手教授の論評等も紹介し、不確かだった私自身の知識を整理する機会につなげていきます。

まず2年前に井手教授が三田論評に寄稿した『「ベーシックインカム」と「ベーシックサービス」』というタイトルを付けた内容からの一文です。一文と述べながら、ほぼ全容の紹介となっています。さらに今回の講演を通して井手教授が訴えられていた主旨の紹介だと言えます。

集会で配られた資料を手元に置いてパソコンに向かっていますが、私自身の言葉で講演内容をまとめるよりも井手教授ご自身の言葉をそのままお伝えしたほうが望ましいものと考えました。決して労力を惜しむ(手を抜く?)訳ではありませんが、ネット上から閲覧できるサイトの内容の転載を中心に今回のブログ記事をまとめていくつもりです。

所得格差はなぜ悪か。それは、生きるため、くらすために必要なサービスを利用できない人を生むからだ。貧乏な家に生まれたという理由だけで病院や大学にいけない社会は理不尽である。理(ことわり)に従って生きるのが学者である以上、僕はそんな社会をだまって見過ごすわけにはいかない。

これが自著『幸福の増税論』のなかで「ベーシックサービス(BS)」を提唱した理由だ。医療・介護・教育・障害者福祉、これらの誰もが必要とする/しうるサービスをBSと定義し、所得制限をつけず、すべての人たちに給付する。つまり、幼稚園や保育園、大学、医療、介護、障害者福祉、すべてを無償化するという提案だ。

これは単なる思いつきではない。近世の共同体では、警察、消防、初等教育、介護といった様々な「サービス」を、全構成員が汗をかきながら、みんなで提供しあってきた。みんなの需要をみんなで満たしあう、この「共同需要の共同充足」の原理を国のレベルで実現するのがBSの基本思想だ。

読者は「ベーシックインカム(BI)」との違いに戸惑うかもしれない。BIは、所得制限をつけずに、すべての人びとに「現金」を給付する。生活保護の申請をためらい貧しさに耐える人たち、申請はしたものの後ろめたさに苦しむ人たちをなくすことができる。

だがこれは、ベーシック、つまり、すべての人を対象とする給付のメリットであって、「インカム」の長所ではない。みんなが大学、病院、介護施設に行けるようになるBSにも同じ効果がある。教育扶助、医療扶助、介護扶助が不要になり、救済される後ろめたさは消え、生きるコストは劇的に軽くなる。

ではなにが違うのか。それは、「実現可能性」だ。昨年の特別定額給付金を思いだそう。一律10万円の給付は13兆円の予算を必要とした。一方、一昨年の幼保無償化は約9000億円。BIと違ってBSは必要な人しか使わないからはるかに低コストですむのだ。

母1人、子1人の「ひとり親世帯」を考えてみたい。13兆円あれば、年間20万円のBIが給付できる。だが、大学の授業料は、平均400万円。20年貯蓄してやっと1人分の学費になる計算だ。いらない人にも現金は配られる。幼稚園と大学を出た人は、再び入り直すことはない。この差が巨額の財源の差となって跳ねかえってくる。

BSならこうなる。大学、介護、障害者福祉を無料にし、医療費の自己負担も現状の3割から2割に下げる。住宅手当を創設し、月額2万円を全体の2割、1200万世帯に給付し、リーマン危機時に350万人に達した失業者を念頭に月額5万円を給付する。これで13兆円だ。最低生活保障を徹底しながら、全体の生存・生活コストを思い切って軽減する政策と、富裕層にも10万円配る政策、どちらが合理的だろうか。

ILOはBIを実施すれば、GDPの2~3割のコストがかかると公表した。実際、月額7万円の給付を行えば、それだけで国の予算とほぼ同じ100兆円の財源が必要となる。消費税なら税率が45%に跳ねあがる。既存の社会保障をBIに置きかえるのはどうか。

医療費や介護費は10割自己負担になる。年金も消失して7万の給付に変わり、生活保護は12万円から7万円にさがるかもしれない。では、毎年100兆円を借金する案は? 急激な円安が進み、ハイパーインフレという「見えない増税」が次世代を直撃するだろう。

BSの無償化なら、消費税を6%引きあげるだけですむ。100円のジュースは、現在の110円から116円になる。代わりに、すべての人びとが生活不安から解放される社会になる。財政を危機に陥らせてまで金を配り、自由の名のもとに自己責任を押しつける社会ではなく、連帯し、痛みを分かちあいながら、自分と他者の幸福を調和させる、そんな人間の顔をした、分厚い社会を生みだすことができる。

上記の説明でベーシックサービスの要旨と必要なコストの概要が理解できます。警察や消防にかかる費用が無償であるという例示によって、ベーシックサービスの主旨がイメージしやすくなります。井手教授はベーシックサービスの範囲は固定せず、終わりなき対話で決めていくべきものと訴えています。

ベーシックサービスには基本的に所得制限を設けません。必要な基礎的サービスは誰もが平等に利用でき、アクセスを保障されていることが重要です。このことによって社会的な支え合いや寛容さを引き出していけるものと井手教授は考えています。

所得制限のないサービス提供のあり方は、貧しいから施しを受けているという負い目を持たせない「品位ある最低保障」だと言えます。井手教授の講演資料の中には「人間を救済の屈辱から解放し、万人の尊厳を平等化するという哲学」という言葉が掲げられています。

医療費の自己負担をなくすと病院の待合がサロン化するという見方があることに対し、井手教授は高齢者が気軽に集える場作りを別な次元の問題として考えるべきものと一蹴しています。いずれにしてもベーシックサービスを拡充するためには財源の問題を議論していかなければなりません。

東洋経済ONLINEもはや日本が「消費増税」から逃げられない理由 「普通に働く」中流階級こそ社会保障が必要だ』という見出しの記事の中で、井手教授が財源の問題を語っています。こちらは端的な箇所の紹介にとどまりますが、ぜひ、興味を持たれた方はリンク先の内容の全文をご参照ください。

問題は財源だ。一方では、借金または通貨を増やせばよいという立場がある。他方では、税に財源を求める立場がある。はやりの「現代の貨幣理論(MMT)」はまさに前者の立場だが、この理論の現実への適用には疑問が多い。

僕たちは公共投資と減税を散々やってきた。平成の間に160兆円から870兆円へと公債残高は増えたが、その結末は「平成の貧乏物語」ともいうべき所得水準の低下だった。財政支出の拡大=経済成長という前提が成立するのか。いや、それ以前の問題として、どのくらいの規模の財政出動を想定しているのかもよくわからずに議論が前のめりになっている。

4年前の記事ですが、井手教授の主張は一貫しています。今回の講演の中でも「財政が破綻しないから通貨を増発すればよいという主張も奇妙だ」とし、MMTの問題性を説明されていました。ちなみに安倍元総理や菅前総理らはMMTの影響を受け、財政健全化の必要性を繰り返す財務省を疎んじていたようです。

税を語れば嫌われる。僕だって嫌われたくない。だが、先の北欧の例でもわかるように、税の使い道を徹底的に議論すれば、より幸福な社会を実現することはできる。だからこそ、僕は消費税を柱としながら、これを所得税の累進性強化、減税続きの法人課税の復元、金融資産や相続財産への課税強化、逆進性の強い社会保険料の改正等で補完する方向性を示してきた。

しんどいのは、左派野党を中心に消費税への反発が強いことだ。ここでも僕は孤立することとなる。だが、ライフ・セキュリティを本気で行おうと思うのなら、消費税は外せない。

消費税を1%引き上げると2.8兆円の税収があがる。一方、1237万円超の所得税率を1%上げても1400億円程度の税収しか生まない。あるいは法人税率を1%上げても5000億円程度の税収に止まるのが現実だ。

上記も東洋経済の記事の中に掲げられていた井手教授の問題意識です。今回の講演の中でも井手教授は、消費税の減税を公約に掲げる野党側の姿勢に警鐘を鳴らしています。昨年12月に井手教授が野田元総理にインタビューした時の記事の中で、次のような言葉で現在の政治状況を憂慮されています。

今の政治を見ていて感じるのが、エクストリーミズム(極端主義)です。参政党であったり、一方でれいわ新選組だったり。立憲民主でも、維新でも、自民でも、MMT(現代貨幣理論)的なばらまきをよしとする人、消費減税さえ言っていれば選挙に勝てると思う人。すごく極端です。

ですが、政治の本質は、むしろ正しい中庸を探していくことではないのか。100%健全財政で、取った税金はすべて借金返済に充てるというのは極端。税金なんか取らないでばらまきまくろうというのも極端。でも、健全財政主義者やリベラルな人たちの極端な主張に引きずられて、あるべき中庸の姿がなかなか見えてこない。

先月投稿した記事「政策実現と財源問題」の中で、以前の記事「消費税引き上げの問題」に記しているとおり私自身は消費税の引き上げの必要性を認めている立場であることを明らかにしています。先月の記事の最後には、立憲民主党の枝野前代表が消費減税の訴えは「間違いだった」と言及したことも伝えていました。

そもそも枝野前代表は2年前の記事「スガノミクスと枝野ビジョン Part2」で伝えているとおり病気や介護、子育てのサポートなど誰の人生にも起こりうるリスクに対し、「弱者だから」ではなく、「必要だから」サポートするという発想に改めることを提起していました。

この発想は井手教授が推奨されているベーシックサービスの考え方に合致しているものだと言えます。ただ2年前の衆院選に向けて枝野前代表は、消費税の減税について「緊急時の時限的な対応」という条件を前提に全否定するものではないと説明していました。

冒頭で述べたとおり今回の記事内容は、人によって賛否や評価が大きく分かれるものと思っています。財源の問題、特に消費税に対する考え方は、いわゆる左や右の立場を問わず激しい議論となるのかも知れません。井手教授は持論の正しさを信じている方ですが、決して結論を押し付けようとしている訳ではありません。

私たちはそういう議論をしたのか、ということです。いつ、誰がその議論をしたのか分からないままに今まできている」という問題提起を重ねています。井手教授は賃上げを求める労働組合にエールを送りながら、誰もが安心して生きられる社会作りに向け、連合の掲げる「クラシノソコアゲ」の意味を考えていって欲しいと問いかけています。

講演資料の最終頁に掲げられていた「〈乱暴〉と〈冷淡〉の中庸にある〈分かち合い〉」という言葉の説明もありました。MMTのような〈乱暴〉 な発想ではなく、財政規律を主眼とした消費増税を企図する財務省のような〈冷淡〉 ではなく、政治的な中道路線とは異なる意味合いでの中庸にある〈分かち合い〉 の必要性を説き、ベーシックサービスを宣言することで日本社会を変えたいという言葉で講演を締められていました。

井手教授の論評等が掲げられたサイトの内容も転載してきましたので、いつも以上に長い記事となっています。ベーシックサービスという非常に重要な考え方をはじめ、賛否の割れる財源問題について情報拡散や一石を投じる機会としていました。最後までご覧いただいた方には心から感謝しています。ありがとうございました。

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2023年2月25日 (土)

『安倍晋三 回顧録』と『国策不捜査』 Part2

ロシアがウクライナを侵略し、1年が過ぎました。プーチン大統領は戦争開始後初めての年次教書演説で軍事侵攻の正当性を強調しています。権力者の意思によって止められるはずの戦争も、それを支える国民の多くが支持している限り、たいへん残念ながら出口を見出すことが容易ではありません。

2月6日には人間の意思でコントロールできない大地震がトルコとシリアを襲っていました。ただトルコ・シリア大地震、死者4万人「人災」の指摘 被害拡大の背景に建物の脆弱な耐震性』という報道のとおり自然の脅威に対し、人間の意思や努力によってダメージを減らすことはできたはずです。備えさえあれば救えた数多くの命の無念さにやるせなさを感じています。

さて、前回記事の最後のほうで「今回のブログ記事も長くなるものと思っていました」と記していました。発売日当日に手にした『安倍晋三 回顧録』は予想以上に面白く、興味深い内容が多い書籍だったからです。

それにも関わらず、記事タイトルは「『安倍晋三 回顧録』と『国策不捜査』」としていました。『国策不捜査 「森友事件」の全貌』は副題のとおり森友学園の問題を掘り下げたハードカバーの書籍です。こちらはブックオフで購入し、たまたま『安倍晋三 回顧録』と読み終えた時期が重なっていました。

そのため、森友学園の問題を安倍元総理の言葉で振り返る際、一方の当事者である籠池泰典元理事長の回顧も併せて紹介すべきものと考えました。長い新規記事になっていましたので、途中で一区切り付けて今回、その続きを「Part2」として改めて書き進めていきます。

安倍さん、なぜ『嘘』つくんですか!? 森友事件 籠池泰典氏が、初めて明かす衝撃の事実。500ページに及ぶ独白の記録を2月19日に迫る地裁判決を前に緊急出版!日本中を巻き込み、過去類例を見ない一大疑獄へと発展した「森友事件」。総理夫人との密接な関係、不可解な国有地の割引売却、公文書の改ざん、担当者の自殺――数々の疑惑を残したまま、事件発生から早3年が経とうとしている。

その間、絶えず密着取材を続けてきた赤澤竜也氏は籠池氏の本心を聞き出すことに成功。300日に及ぶ過酷な拘置所生活の実態や、昭恵夫人からかかってきた電話の中身、「身を隠せ」と指示した財務省の思惑、「日本会議」と「生長の家」との因縁、自殺した近畿財務局職員との知られざる交流など、森友事件の数々の「謎」に光を当て、その全貌を明らかにする。

上記はリンク先に掲げられている『国策不捜査』の紹介文です。ブックオフで手に入るとおり3年前に出版された書籍です。地裁判決後も争われていた補助金不正受給事件の上告は棄却され、籠池夫妻の実刑判決が確定しています。

小学校の建設工事や幼稚園の運営を巡り、国、大阪府、大阪市の補助金、合わせて1億7600万円を騙し取ったとして詐欺などの罪に問われた事件でした。籠池夫妻にとって承服できない結果であるようですが、補助金に関する事件は大きな節目を刻んでいました。

この事件で実刑判決に至っている森友学園の籠池元理事長らが責任を問われ、反省すべき点があることは確かだろうと思っています。しかし、いわゆる「森友事件」の全貌からすれば傍流の一事件に対しての結論が出たという話に過ぎません。

『安倍晋三 回顧録』の中で100万円を寄付したことの事実関係などを問われた際、安倍元総理は「理事長夫妻はその後、国や大阪府などの補助金を騙し取ったとして詐欺などの罪に問われました。もう、私と理事長のどちらに問題があるのかは、明白でしょう」と答えています。

このような理屈で自分の言葉の正しさをアピールする安倍元総理は「桜を見る会」前日に催した夕食会を巡り、国会質疑の中で虚偽答弁を118回も繰り返していました。仮に同じ理屈で比べた際、どちらに問題があるのかどうか、あまり明白だとは言い切れなくなります。

私自身、これまで安倍元総理が国益のため、国民のために力を尽くされてきたものと思っています。その上で「批判ありき」ではなく、あくまでも安倍元総理の具体的な言動に対し、いろいろ個人的な思いを当ブログの中で批評してきました。

森友事件に関しては2017年3月に「森友学園の問題から思うことという記事を投稿しています。その中で「森友学園の問題で安倍首相や昭恵夫人が贈収賄につながるような働きかけを関係機関に行なっていないことはその通りだろうと考えています」と記していました。2020年3月には「財務省職員の遺書全文公開」を投稿し、次のような問題意識を訴えていました。

昭恵夫人が森友学園と関わっていたことは事実でした。そのことを把握されていなかったのかも知れませんが、安倍首相が国会で「私や妻が関わっていれば、総理大臣も国会議員も辞める」と答弁したことも事実です。そして、この答弁が一連の公文書改ざんの問題につながり、赤木さんの自死という悲劇を招いたことも事実だろうと思っています。

改ざんの指示が佐川元理財局長だったことも事実認定されています。ただ佐川元理財局長や財務省の判断による「忖度」から始まった問題だったのか、官邸や政治家からの指示があったのかどうかは不明瞭なままだと言えます。安倍首相が公文書の改ざんに直接関わっているとは考えられませんが、財務省だけに責任を負わせる問題だったのかどうかは釈然としません。

上記の問題意識は現在も変わっていません。国側が再調査に消極的で裁判を通しても、核心的な真相が明らかになっていないからだと言えます。『安倍晋三 回顧録』の中で、安倍元総理は昭恵夫人とともに一切関与がなかったことを強調し、「土地交渉は、財務省近畿財務局と国土交通省大阪航空局のミス」だったとしています。

問題の土地で新たに見つかったゴミの処理が不適切で、籠池元理事長に裁判を起こされそうになって慌てた官僚たちが値下げをしたという筋立てを説明しています。公文書の改ざんは佐川元理財局長の国会答弁との整合性を取るために行なわれたと語り、財務省の動き自体を次のように見ていました。

私は密かに疑っているのですが、森友学園の国有地売却問題は、私の足を掬うための財務省の策略の可能性がゼロではない。財務省は当初から森友側の土地取引が深刻な問題だと分かっていたはずなのです。でも、私の元には、土地取引の交渉記録など資料は届けられませんでした。森友問題は、マスコミの報道で初めて知ることが多かったのです。

さらに安倍元総理は「財政をあずかっている自分たちが一番偉いと考え、国が滅びても、財政規律が保たれてさえいれば満足なんです」と財務省を評しています。その章の見出しは「安倍政権を倒そうとした財務省との暗闘」と付けられていましたが、ぜひ、このあたりについては財務省側の言い分も伺いたいものです。

続いて『国策不捜査 「森友事件」の全貌』の内容にも少し触れていきます。前述した書籍の紹介文の冒頭で「安倍さん、なぜ『嘘』つくんですか!?」と問いかけています。籠池元理事長の率直な疑問や理不尽さに対する怒りが書籍全体を通して伝わってきていました。

タイトルの「国策不捜査」という造語には、籠池氏の怒りが込められているようだ。自分は国策によって補助金絡みの詐欺罪に問われ、300日近くも逮捕・勾留されて今も裁判中なのに、公文書改ざんに対しては国策によって捜査が事実上回避され、逮捕も家宅捜索も行われず、財務官僚は全員不起訴となっていることへの怒りだ。

上記はジャーナリストの内田誠さんの書評『公文書改ざん問わぬ怒り』の中の一文です。籠池元理事著は「ボクの事件を先に立件したのは構わない。並行して8億円値引きもちゃんと捜査してくれているのならそれでよかった…」と語っています。今回取り上げている二つの書籍、それぞれ当事者の声が中心となってまとめられています。

したがって、どちらが真実に近いのか、安易に判断してはいけないのだろうと思っています。しかしながら『国策不捜査』のほうで綴られている詳細な内容を読み終えた時、安倍元総理の回顧と事実関係に乖離があるように感じ取っていました。ある意味で籠池元理事長は、国側の交渉過程における方針転換によって翻弄された上、名誉も財産もすべて失うことになった「被害者」だったようにも思えています。

当初、近畿財務局に「安倍晋三記念小学校」という名前で進めるという話を伝えながらも交渉は苦戦していました。しかしながら2014年4月28日、近畿財務局の担当者に籠池元理事長夫妻と昭恵夫人とのスリーショット写真を見せた以降、ギアが3段ぐらい上がったことを書籍の中で伝えています。

森友学園の教育方針に賛同し、名誉校長就任を引き受ける話など昭恵夫人は自らの意思で籠池元理事長らを応援していたことが綴られていました。それにも関わらず、2017年2月17日、安倍元総理は国会で「私や妻が関わっていれば、総理大臣も国会議員も辞める」と答弁しました。『国策不捜査』の中ではA氏とされている方の自死についても触れられています。

2月24日あるいは25日に籠池氏が近畿財務局に電話を入れると、たまたま電話に出たA氏が「あの、あの」とあせった様子で応じ、「理事長、じつはボクたちは直接お話できないことになりまして…」と苦汁に満ちた声で返答しています。このことから、A氏は口封じにも加担されていたことがわかります。

2月17日の答弁で安倍元総理は「森友学園の先生の教育に対する熱意はすばらしい」と評価していました。それが1週間後の24日には籠池元理事長について「簡単に引き下がらない」「非常にしつこい」と酷評しています。籠池元理事長は安倍元総理の手のひら返しの理由を知りたいと書籍の中で繰り返し訴えていました。

最後に、『国策不捜査』の中で最も印象深かった箇所を紹介します。いつも当ブログの中で訴えている多面的な情報に接していくことの大切さに相通じる籠池元理事長の言葉です。このような意味合いを込め、2週にわたって「『安倍晋三 回顧録』と『国策不捜査』」という記事を綴っていました。

森友事件が起こって良かったと思うことは、自分のものの見方や考え方が広がったこと。家内も同じことをよく言っている。野党の先生方や朝日新聞の記者さんなんかと話していると、「違うな」と思うこともある反面、「なるほどこういう考え方もあるんだ」と勉強になることも多い。

リベラルや左派の人の考えは、確かにボクが抱く愛国精神とは違うものの、皆それぞれに国のことを思って行動していると感じるようになった。もちろん、例えば天皇について突っ込んだ議論をすれば衝突するだろう。ただし主義主張や思想は違えど、連携できるところがあるのならしていけばいい。そう考えるようになった。

いかに自分が「産経新聞」と「正論」と「WiLL」が築き上げた世界観のなかに閉じこもって、狭い思考に固執していたか思い知った。先にも少し述べたが、森友事件に際し、野党議員の力を借りたのは自民党がウソをつき続けたから。「籠池が政治的に寝返った」とか「左翼活動家に騙された」などと言う方も多いようだが、お門違いも甚だしい。

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2023年2月18日 (土)

『安倍晋三 回顧録』と『国策不捜査』

コロナ禍が続く中、私どもの市役所では今年も歓送迎会などを催す話を今のところ耳にしていません。それでも最近、少しずつ社会的な雰囲気が変わり始めているため、外で会食する機会が増えつつあります。外で飲んだ時、終バスの時間を逃せばタクシーを利用します。

先日、タクシーで帰宅する際、自宅に近付いたため「ここで止めてください」と告げた瞬間、ワンメーター料金が上がりました。もう1秒、早めに告げれば良かったと省みながら久しぶりに乗ったタクシー料金の高さに驚いていました。

このようなタクシー料金をはじめ、外で飲み会があるたびにかかっていた費用はコロナ禍の3年余り、節約できたことになります。おのずから自宅で過ごす時間も増えているため、コロナ禍での読書量は増えています。以前、千円を超えるハードカバーの書籍は専らブックオフで購入していました。

ここ数年は外食費が節約できている分、興味を持った書籍はハードカバーだったとしても迷わず購入しています。『安倍晋三 回顧録』は2月8日の発売日にすぐ手にしていました。このブログを通して安倍元総理の言動について、いろいろ批評してきているため、たいへん興味深い新刊本でした。

時系列にまとめられた内容であり、当時のブログ記事を思い起こしながら読み進めていました。予想以上に面白く、読みやすい書籍でした。前回の記事は「会計年度任用職員の課題」でしたが、再び今回、『安倍晋三 回顧録』を読み終えた感想をもとに政治的な話を中心に書き進めてみます。

2022年7月8日、選挙演説中に凶弾に倒れ、非業の死を遂げた安倍元首相の肉声。なぜ、憲政史上最長の政権は実現したのか。第1次政権のあっけない崩壊の後に確信したこと、米中露との駆け引き、政権を倒しに来る霞が関、党内外の反対勢力との暗闘……。乱高下する支持率と対峙し、孤独な戦いの中で、逆風を恐れず、解散して勝負に出る。

この繰り返しで形勢を逆転し、回し続けた舞台裏のすべてを自ら総括した歴史的資料。オバマ、トランプ、プーチン、習近平、メルケルら各国要人との秘話も載録。あまりに機微に触れる――として一度は安倍元首相が刊行を見送った、計18回、36時間にわたる未公開インタビューを全て収録。知られざる宰相の「孤独」「決断」「暗闘」が明かされます。

上記はリンク先に掲げられた書籍の紹介文です。読売新聞は「最長政権の軌跡 安倍晋三 回顧録」という連載記事を7回にわたって朝刊の政治面に掲載していました。第1回目の『中曽根康弘・元首相の「教え」、心にきざみ』をはじめ、ネット上からも当該記事の全文を読むことができます。

最終回の『多角的検証 真実迫る 早期の出版「美化」防ぐ』は今のところネット上に掲げられていないようですが、聞き手を務めた読売新聞の橋本五郎特別編集委員のインタビューを通して『安倍晋三 回顧録』を世に出した意義などを伝えています。その中で次のような言葉に目を留めていました。

今回の回顧録は、あくまで安倍氏が自らの目線で振り返ったものだ。別の人には異なる景色が見えていたはずで、当然、反論も出る。多くの関係者が健在なうちに回顧録を「さらす」ことで、その内容を多角的に検証し、重層的に真実に迫る必要があると考えた。

以前のブログ記事「改めて言葉の重さ」の中で、人によってドレスの色が変わるという話を紹介しました。見る人によってドレスの色が白と金に見えたり、黒と青に見えてしまうという不思議さと同様、安倍元総理に対する評価や見方も人によって本当に大きく変わりがちなことを綴っていました。

このような特性があることを前提に橋本さんも「別の人には異なる景色」という言葉を発せられていたはずです。橋本さんは安倍元総理の実績や政治家としての資質を高く評価している立場ですが、インタビューの中で次のような注文や苦言も呈していました。

国会審議中に野党にヤジを飛ばすような態度は避けるべきだった。安倍氏は回顧録で「ファイティングポーズを見せなければならない」と説明しているが、対立が激化しても泰然と構え、野党を包容するぐらいの余裕もほしかった。「森友・加計学園」問題は、批判的な意見や報道への過剰反応で複雑化した面がある。

まさしくその通りであり、森友学園の問題は後ほど改めて触れることになります。回顧録には安倍元総理の行動原理の出発点となる逸話が書かれています。中曽根元総理から受けた「自分が正しいと確信がある限り、常に間違っていないという信念でいけ」という助言を心に刻んでいたという話です。

このような助言に対し、私自身は功罪が伴う表裏一体の危うさを感じています。真逆の言葉として「もしかしたら間違っているかも知れない」という謙虚な心構えを持つことで大きな過ちを回避できる場合もあります。もしくは途中で修正をはかることでダメージを減らすこともできるはずです。

「自分が正しいと確信がある限り、常に間違っていないという信念でいけ」という助言を踏まえ、憲法解釈の問題で顕著な事例があったことを安倍元総理は回顧しています。読売新聞の記事『安保法制整備、固い決意…支持率低下「承知の上」』で取り上げている集団的自衛権の行使容認の問題でした。

2013年8月に内閣法制局長官を外務省出身の小松一郎氏に交代させる異例の人事で、憲法解釈の変更に布石を打っていました。「憲法上認められない」とする従来の主張に固執する法制局に対し、安倍元総理は「国滅びて法制局残る、では困るんですよ」と反論したことを語っています。

憲法を改めるほうが遙かにハードルは高いため、国民の生命と財産を守る責任がある政治の責任として押し切ったことを誇らしく伝えていました。このような話も人によって大きく評価が分かれるはずです。集団的自衛権行使そのものの是非とともに「憲法を軽視している姿勢の証し」だと批判することができる事例だと言えます。

長期政権となった第2次以降、安倍元総理は側近の言葉には耳を貸し、硬軟自在のリアリストとして国内外の課題に対処していました。トランプ前大統領との蜜月関係など外交面で存在感を高めてきたことも確かです。ただロシアとの北方領土の問題をはじめ、目に見えた解決がはかられることはありませんでした。

ウクライナでの戦争が始まる数年前に行なったインタビューからは、ロシアによるクリミア半島併合という暴挙に対する怒りがあまり伝わってきません。「国際法上決して許されることではありませんが」という前置きをした上、安倍元総理がプーチン大統領の立場や考え方を淡々と解説する場面を伝えていました。

2019年にフランスで開かれたG7サミットで、ある首脳からの「クリミアを侵略したという一点をもって、ロシアを非難しなければならない」という提案がそのまま受け入れられなかったことも回顧録の中で伝えています。クリミア併合が絶対許されず、国際社会の中での著しい孤立化をロシアに刻み付けていれば、もしかしたら今回の侵略を踏みとどませることができていたのかも知れません。

労働組合の役員だった一人として、気になった場面の回顧がありました。働き方改革実現会議の中で、安倍元総理が連合の神津前会長に「労使で一致しなければ意味がない。労働側が評価しないのであれば、この案はなくなりますよ」と迫ったことを伝えていました。

神津前会長が賛成かどうか明言していなかったことに対し、安倍元総理は「果実だけをいただこうという姿勢は、ご都合主義が過ぎるでしょう」と非難していました。「結局、神津さんが賛成を表明してくれたので、罰則付きの残業時間の上限規制導入が決まりました」と回顧録で語っています。

以前の記事働き方改革の行方働き方改革への労組の対応」を通し、「連合として批判もたくさんあるが、働き方改革の方向性は一致している」という立場で神津前会長が働き方改革実現会議に臨んでいることを伝えていました。このような神津前会長の苦汁さを慮れない安倍元総理の決め付けた言い方に違和感を覚えた箇所でした。

500頁近くのボリュームで興味深い内容が多い書籍であり、今回のブログ記事も長くなるものと思っていました。それにも関わらず、記事タイトルは「『安倍晋三 回顧録』と『国策不捜査』」としています。こちらのハードカバー『国策不捜査 「森友事件」の全貌』はブックオフで購入していました。

たまたま読み終えた時期が重なっていた訳ですが、森友学園の問題を安倍元総理の言葉で振り返る際、一方の当事者である籠池泰典元理事長の回顧も併せて紹介すべきものと考えました。やはり相当な長さの新規記事になっていますので、この続きは次回「Part2」として改めて書き進めてみるつもりです。

予告的な話で言えば、安倍元総理は自分の過ちを一切認めていません。悪いのは籠池元理事長であり、自己の言動をすべて正当化する回顧録となっています。しかしながら『国策不捜査』のほうで綴られている詳細な内容と対比した時、何が問題だったのか、誰が悪かったのか、事実関係は揺れ動いていくことになります。

安倍元総理が「常に間違っていないという信念」の真骨頂を発揮したような事例であり、人によって「異なる景色」を見せられていた問題だったように思っています。最後に、同じような信念を持つ政治家の話題として河野大臣、「所管外」12連発に批判殺到 野党が激怒するかつての“特大ブーメラン“質問』という記事を紹介させていただきます。

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2023年2月11日 (土)

会計年度任用職員の課題

最近、ネット上で「ウクライナと台湾を同一視するのは……」 石破茂元自民党幹事長が安易な防衛増税論に異議』という記事に接しています。防衛費をGDP比2%に引き上げる問題について、自民党の石破元幹事長が 「そもそもなぜ2%なのか、なぜ43兆円なのか、その根拠は分かりません」と疑義を呈していました。

本来は、これとあれが必要だからいくら必要だ、といった話になるはずなのですが」と述べていますが、まったくその通りだと思っています。このような論点は機会を見ながら改めて深掘りしたいと考えています。今回は前回記事「政策実現と財源問題」から一転して私どもの組合の切実な課題を取り上げます。

昨年夏に不安定雇用の会計年度任用職員」「会計年度任用職員の雇用継続に向けて」という記事を投稿しています。私自身、執行委員長を退任する前に一定の解決をはかりたいものと考え、ブログ記事で伝えているように市長にも直接働きかけ、私どもの市としての自主的な判断に向けた道筋を見出せるよう力を尽くしました。

残念ながら私の任期中には組合側が納得できる解決をはかれず、会計年度任用職員の雇用継続の課題は新執行部に託しています。ただ私どもの市を含め、都内の自治体の大半は東京都のルールに準じ、公募によらない再度の任用を原則として連続4回としているため、まだ2年ほど猶予があると言えます。

一方で、全国的には『年度末に雇い止め危機の非正規地方公務員、数十万人規模か 「3年目の壁」自動では契約更新されず』という報道のとおり総務省のマニュアルに沿った圧倒多数の自治体は公募によらない再度の任用を連続2回としているため、今年3月末が大きな境目となっています。

公務非正規女性全国ネットワーク(通称:はむねっと)のサイトでは会計年度任用職員”3年目公募問題”(2022年度末問題)特集』という記事が掲げられ、はむねっとは冒頭で次のような問題意識を示しています。

今年度(2022年度)は、地方自治体で直接任用されている非正規公務員の多くに関係する「会計年度任用職員制度」がはじまってから3年目の年度です。このままいくと、今年度末には、全国の地方自治体で現職として働いている人が、いったん雇止めとなり、継続を希望する人は、再度の「公募」に応じなければならないという、大量の「雇止め/公募」が実施される見込みです。はむねっとは、継続して必要とされる職に就いて問題なく働いている人を一律に「公募」にかけることは、大きな問題があると考えます。

私どもの組合も同様の考えであり、労使交渉を通して「現職者の培ってきた業務に対する知識や経験を重視し、5回目に際しては引き続き任用を希望する現職者を対象とした選考試験を実施する。選考方法は面接試験とする。欠員が生じる場合などは新規採用希望者を別途募る。その際は広報等を通じて募集する」という対応案を市側に示しています。

市側も培ってきた知識と経験を重視しているため現職者には「アドバンテージがある」という見方を示しています。いずれにしても業務に熟知した職員が継続的安定的に携わっていくことは住民サービスの維持向上に直結していきます。さらに新規採用者に仕事を教えていく負担が軽減されていく利点もあります。

このような経緯や利点を踏まえた際、5年に1回、現職者と新規採用希望者を競合させることが適切なのかどうか組合は疑問視しています。新規採用希望者と現職者が同じスタートラインに着いていないというアンフェアな見られ方もされかねません。

そもそも法改正時の国会の附帯決議では公務における同一労働同一賃金に重点を置いた対応を求めています。したがって、高年齢者雇用安定法で使用者側に65歳までの安定的な雇用確保を求めている中、会計年度任用職員の皆さんも65歳までの雇用継続が欠かせないものと考えています。

「正職員に嫌われたら終わり」非正規公務員の苦悩 「2023年問題」自治体7割強で雇い止めの可能性』という記事の中で、非正規公務員の問題に詳しい立教大学コミュニティ福祉学部の上林陽治特任教授は次のように訴えています。

既存職員が積み上げてきた経験や知識が、公募のたびに丸ごと職場から失われ、行政サービスの質が低下するというデメリットも招きかねないため、人事評価で職務に見合う能力があると判断した職員については、公募せずに契約を更新するべきだ。

その記事の中では、460の自治体が公募を実施していないことも伝えています。理由について「勤務を通じて能力を実証できる職員を継続任用する」などと回答し、公募でなくとも能力評価は可能だという判断がうかがえています。

直近の動きを探るため、ネット上を検索したところ2月3日に開かれた松本総務大臣の閣議後記者会見の概要が確認できました。会計年度任用職員の再度任用問題について、記者の質問と松本大臣の答えの全文が掲げられていましたので、そのまま紹介します。

問:自治体で働く会計年度任用職員についてお伺いします。再度の任用について、制度開始から3年となる今年度末に多くの自治体でいわゆる公募による試験が予定されていて、雇い止めにつながるのではないかという指摘があります。労働組合や支援団体はじめ当事者からは不安の声が上がっていますが、総務省としての見解を教えてください。

答:ご承知のとおり、会計年度任用職員は一会計年度を超えない範囲で任用されるものであります。その中で、前年度の職員を再度任用することは可能であることもご案内のとおりでありますが、そもそもその任用に当たっては、地方公務員法に定める平等取扱いの原則、成績主義の原則を踏まえて、できる限り広く募集を行うことが望ましいと考えております。実際に具体的な任用の方法については、各自治体において、地域の実情などに応じて適切に対応いただくべきものであると考えているところであります。

昨年12月には、この旨を通知するとともに、公募を行う場合であっても、客観的な能力の実証を経て再度任用されることがあり得ること、選考において前の任期における勤務実績を考慮することも可能であることなどの考え方を併せてお示ししております。会計年度任用職員に関しては、今申し上げたような丁寧な情報提供を行うとともに、勤勉手当の支給など処遇改善にも取り組んでまいりたいと思っているところでございます。

「地方公務員法に定める平等取扱いの原則、成績主義の原則を踏まえて、できる限り広く募集を行うことが望ましい」という言葉を重視した場合、既定方針通りの自治体が多くなってしまうのかも知れません。一方で「前の任期における勤務実績を考慮することも可能」という言葉に重きを置けば、理不尽で不合理な雇い止めを防いでいけるはずです。

ちなみに組合の委員長時代、自治労や連合等から組合に送られてくる情報は決裁の一つとして紙ベースで毎日チェックしていました。退任後は自ら入手する努力を怠れば余程大きなニュースでない限り、知らないままとなります。自宅に配達される読売新聞、もしくはヤフーのトップ画面等に掲げられるニュースでないと知らないままとなりかねません。

先日、同じ職場の会計年度任用職員の方から「ネットニュースを見たんですが、私たちにも勤勉手当が出るようになるんですか?」と問いかけられました。自治労は署名活動に取り組み、組織内参院議員の岸まき子さんらが総務省と交渉していましたが、そこまで確定的な動きがあることは知りませんでした。

この問いかけを受けた後にネットを検索し、共同通信が1月22日に『非正規公務員のボーナス拡充 格差是正に向け総務省法改正へ』という見出しの記事を配信していることを知りました。その時点で読売新聞の紙面では見かけていなかったニュースでしたので、共同通信のスクープだったようです。

総務省は、自治体で働く単年度契約の非正規職員(会計年度任用職員)のボーナスを拡充する方針を固めた。公務員のボーナスは期末手当と勤勉手当で構成。会計年度任用職員には期末手当しか支給できないが、正規職員や国の非正規職員と同じく両方を支給できるようにする。格差是正が狙い。地方自治法改正案を通常国会に提出、早ければ2024年度から適用する。関係者が22日明らかにした。会計年度任用職員は20年4月時点で約62万人。業務は新型コロナウイルス対応など多岐にわたり、自治体運営に欠かせない。【共同通信2023年1月22日

雇用継続の課題は、まだまだ楽観視できない現況です。それに対し、勤勉手当支給に関しては上記のような報道に至っているのであれば、ほぼ間違いなく実現できるはずです。さらに安心できる材料として、1月28日に時事通信も『自治体非常勤職員に勤勉手当 24年度にも支給可能に―総務省』という後追いの記事を配信していました。

総務省は、地方自治体が非常勤の「会計年度任用職員」に対し、勤勉手当を支給できるようにする方針だ。公務員のボーナスは期末手当と勤勉手当で構成するが、現在は期末手当しか支給できない。勤勉手当も支給可能にすることで国の非常勤職員と待遇をそろえる狙いで、関連規定を盛り込んだ地方自治法改正案を今通常国会に提出する。早ければ2024年4月の施行を目指す。

勤務成績を反映する勤勉手当は、会計年度任用職員の約9割を占めるパートタイムについては自治法で支給が認められておらず、フルタイムは法律上可能だが、総務省の通知で「支給しないことを基本とする」とされている。ただ、内閣人事局によると、21年度時点で国家公務員の非常勤職員には、対象者全員に勤勉手当が支給されており、自治体から国に合わせ支給可能にすべきだとの要望が出ていた。

これを踏まえ、総務省は法改正により、パートタイムについて勤勉手当の支給を可能にする方針。フルタイムも通知の改正で対応する。期末手当は、20年度に会計年度任用職員制度が創設された時点から支給できる仕組みとなっており、法改正に伴いボーナスの増額につながる見込み。待遇改善により、会計年度任用職員の業務意欲の向上などにつながることが期待される。自治体側が勤勉手当を支給するに当たっては、条例改正などの対応も必要。支給額は、それぞれの職員の職務内容や勤務時間などに応じて、各自治体が決めることになる。【JIJI. COM 2023年1月28日

会計年度任用職員の一時金は期末手当のみの支給に限られ、勤勉手当が支給されていません。そのため、年間一時金の支給月数は常勤職員の半分ほどにとどまっています。さらに人事院や人事委員会の勧告で、2年続けて公務員全体の期末手当が引き下げられていました。

しかしながら今年度、久しぶりの引き上げ勧告は勤勉手当に絞られ、会計年度任用職員の皆さんにとって理不尽な事態が続いていました。今後、勤勉手当が支給されるようになれば年収増とともに、そのような理不尽さも解消できます。何としても法改正の動きが確実なものになることを願っています。

会計年度任用職員の皆さんに関わる様々な課題に対し、私自身、直接的な労使交渉の場に立てません。それでも一組合員、一協力委員として、現執行部を応援していければと考えています。そのような意味合いから今後も当ブログの中で、会計年度任用職員の課題を逐次取り上げていくつもりです。

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2023年2月 4日 (土)

政策実現と財源問題

前回記事「ウクライナでの戦争を受け」の中で、自民党の二階元幹事長に対する評価が人によって大きく分かれていることを記していました。すると最近、ネット上で『重鎮・二階俊博に田原総一朗がホンネ直撃!「勝手なことをするんじゃない!」 自民党が大揺れ!岸田首相軍拡路線に痛烈警告』という記事を見かけていました。

作家の百田尚樹さんは二階さんのことを「売国奴」と罵っていますが、その記事からは二階さんなりの政治家としての矜持や気概を感じ取れます。様々な問題で絶対的な「正解」が見出しづらくても、より望ましい「答え」に近付くためには多面的な情報に接していくことが重要です。

そのような意味で私自身、いつも幅広い情報や主張に触れていくように心がけています。つい最近では『両親が覚悟の独占告白「小川さゆり」の真実』という記事が目に留まり、月刊Hanada3月号を購入していました。記事内容の真偽について定かではありませんが、多面的な情報の一つであることは確かでした。

今回のブログ記事のタイトルは「政策実現と財源問題」としています。ネット上からの情報はコストをかけず、手軽に入手できます。興味深いサイトはブックマークし、頻繁に訪問させていただいています。今回の主題に沿いながらブックマークしているサイトの内容をいくつか紹介していきます。

まず朝日新聞の記者だった鮫島浩さんの『子ども支援よりも財政規律を重視する立憲民主党は岸田政権と同じ穴のムジナ〜民主党政権の子ども手当は財務省の緊縮財政の前に崩れ去った。国債発行しても子ども支援をやり抜くと宣言してこそ本物だ!』からの一文を紹介します。

自民党安倍派が主張するように軍事費増大のために国債を大量発行してはいけない。それは「財政が破綻するから」ではなく「軍事的緊張を高めて戦争を誘発するから」である。しかし国民生活を守るために本当に必要な政策には惜しむことなく大胆に国債発行すればいい。それが積極財政論である。

積極財政に反対するのは、緊縮財政によって優位に立つ既得権益者たち(すでに豊かな者たちはデフレのほうが経済的優位を維持できる!)であり、予算配分権によって政治的影響力を維持している財務省である。

いまの岸田政権も立憲民主党も財務省に同調し、子ども支援をはじめ庶民の暮らしを下支えする財政出動よりも、財政規律を守って富裕層の既得権益と経済的優位を保護する緊縮政策を優先している点において変わりはない。

鮫島さんの著書を読み、昨年7月に朝日新聞政治部』から思うこと」という記事を投稿していました。それ以降、鮫島さんのサイトの内容を当ブログの中で時々紹介しています。軍事費増大は「軍事的緊張を高めて戦争を誘発する」という見方は前々回記事「抑止力と安心供与のバランス」で訴えている私自身の問題意識と同様です。

ただ積極財政に反対するのは既得権益者たちという見方には違和感があります。これまでも鮫島さんの主張に強く賛同できる内容が多くある中で、若干穿ちすぎな見方ではないかと思える時がありました。昨年の参院選挙の後の記事『安倍なき日本に増税がやってくる!麻生一強、大宏池会で「憲法より消費税」山本太郎は立ちはだかれるのか?』などを通し、鮫島さんは次のような見方を示しています。

財務省には「消費税増税を前に進めることが最も評価される」というDNAが色濃く受け継がれ、そのために政界工作を尽くしてきた。安倍氏という巨魁が突如として姿を消し、麻生氏と財務省の権力基盤が突出した今、千載一遇の好機だとして消費税増税を推し進める可能性は少なくない。

以前の記事「消費税引き上げの問題」に記したとおり私自身は消費税の引き上げの必要性を認めていました。国債の信用を落とさないためには財政の健全化が欠かせず、社会保障財源の確保のためにも消費税の引き上げは必要に応じて避けられない選択肢だと考えています。

そのような意味合いで言えば前々回記事の最後のほうで「そもそも反撃能力の保有や防衛費の倍増が、戦争を防ぐための欠かせない道筋なのであれば増税も含めて覚悟を決めていかなければなりません」とまで記しています。

やはりブックマークしている労働政策研究・研修機構労働政策研究所長の濱口桂一郎さんのブログ記事岸田首相の深慮遠謀?』の内容が興味深く、機会を見て当ブログの中で紹介してみようと考えていました。抜粋となりますが、濱口さんは次のようにハト派とタカ派との関係性の中で論評されていました。

国家を守ることこそが何よりも大事で、そのためにはいろんな物事を犠牲にするのもやむを得ない、キリッ、というのが右派、タカ派というものの存在意義だったのではないか、そしていやいや国防ばかりが大事じゃないよ、社会経済のあれやこれやも大事だからちゃんとそっちにもお金を回してね、というのが左派、ハト派というものだったのではないか、と、まあ、すごく単純に考えていたのですが、今回、まるっきり話が逆転してしまったように見えます。

党内の右派、タカ派だと自認していたような人々が揃いもそろって、国防といえども増税は許さないぞ!断固反対とばかり騒いでいて、首相官邸前で騒いでいる昔ながらの伝統的平和主義者の皆様と共闘でもしているかの如くです。逆に、国防をないがしろにするハト派じゃないかと猜疑心でもってみられていた岸田首相が、なんと国防費突出、それも国民の血税で断固やり抜くという立派なタカ派ぶりをアピールしているわけで

言うまでもありませんが、恒久的な政策の実現のためには恒久的な財源の確保が欠かせません。青天井に赤字国債を発行していけるものでもないはずです。埋蔵金の信憑性の薄さも立証済みです。「身を切る改革」は国会議員の姿勢の問題として問われるのかも知れませんが、兆円単位の財源を賄うためには桁が大きく乖離しています。

さらに「身を切る改革」が公共サービスの劣化や社会全体の賃金水準を負のベクトルに招きがちだったことにも留意しなければなりません。防衛費の問題に限らず、次元の異なる少子化対策の実現のためには、恒久的な財源の確保に向けて明確で現実的な「答え」が求められていきます。

朝霞市議の黒川滋さんのブログ「きょうも歩く」は、かなり前からブックマークしています。最近の記事『年収1000万円の人に月5000円出すか出さないかにだけ盛り上がる国会』の次のような内容からは、大きくうなづける論点を受けとめることができます。

もちろんお金がたんまりあれば、月5000円程度を出し渋る話は、システムを複雑化させるだけですから、取っ払ったらいいとは思いますが、優先課題があって、財源がなくて、というなかで、手柄合戦にそんなに盛り上がることなんですか、と思うばかりです。少子化対策のために、子どもたちの払う税金の大半が借金返済になってしまった、なんて笑える話ではありません。

緊張感ある政治の実現のためには野党第一党である立憲民主党の奮起に期待しています。しかし、あまりにも政策理念の異なる日本維新の会との接近には物凄い違和感があります。『内閣支持最低26.5% =4カ月連続で「危険水域」ー 立民も下落・時事世論調査』という報道のような動きが加速しないかどうか危惧しています。

最後に『「消費税減税は間違いだった」立民・枝野前代表の発言に「また有権者を裏切るの?」「支え合う社会に税は必要」賛否渦巻く』という報道内容も紹介します。立憲民主党の枝野前代表が消費減税の訴えは「間違いだった」と言及したニュースです。下記のような内容ですが、私自身は賛意を示せる発言であり、ぜひ、立憲民主党の立ち位置として確立できるよう願っています。

立憲民主党の枝野幸男前代表は12日、さいたま市内で講演し、昨年10月の衆院選で当時代表として消費税率の引き下げを訴えたことについて「政治的に間違いだったと反省している」と述べた。立憲は今夏の参院選でも消費減税をかかげていたが、次期衆院選の選挙公約では「見直すべきだと思っている」との見解を示した。

枝野氏は、衆院選を振り返り、「敗軍の将として、あれ(消費減税を訴えたこと)が敗因の大きな一つだ」と述べた。立憲が医療・介護や子育てなど社会保障の充実を主張していたことに触れ、「そこにお金をかけると言いながら、時限的とはいえ減税と言ったら、聞いている方はどっちを目指すのか分からなくなる。有権者を混乱させてしまった」と述べた。

また、枝野氏は「消費税減税で(選挙に)勝てるんだったら、とっくの昔に社民党政権ができている」と述べ、消費減税の訴えだけでは選挙での支持拡大にはつながらないとの見方を示した。

昨年10月の衆院選で立憲は、枝野氏を代表として消費減税策を共産党などと共通政策として合意。5%の時限的な消費減税を掲げて戦った。だが、議席を公示前の109から13減らし、枝野氏は責任をとって代表を辞任した。【朝日新聞2022年11月13日

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2023年1月28日 (土)

ウクライナでの戦争を受け

前回記事「抑止力と安心供与のバランス」の最後に「今回の記事ではウクライナでの戦争を受け、どのように考えるべきか、そこまで話を広げるつもりでした」と記していました。さらに最近読み終えた『橋下徹の研究』という書籍の内容について触れるつもりだったことも書き添えています。

ついに突き止めた違和感の正体!テレビばかり見ている人がこの本を読んだら100%腰を抜かします! 圧倒的影響力を誇る日本一のコメンテーター・橋下徹氏の膨大な言動をベストセラー作家・百田尚樹が魂の徹底検証!爆笑!衝撃!驚愕!これは単なる"批判本"ではない!日本に浸透する恐るべき問題を浮き彫りにする警世の書だ!

上記はリンク先の書籍の紹介文です。いつも多面的な情報に接することの大切さを意識しているため、いわゆる左か右かを問わず、私自身の考え方から離れた百田さんの著書も時々手にしています。このブログでは「『カエルの楽園』から思うこと」という記事を「Part2」にかけて綴っていました。

『橋下徹の研究』は「橋下徹さん、訴えないでください」という宣伝文句につられ、少しためらいながら書店のレジに運んでいました。「完全書き下ろし!」という言葉を一瞬「完全こき下ろし!」と見間違うほど百田さんは徹底的に橋下さんの言動を書籍の中で批判しています。

今回の記事タイトルを「ウクライナでの戦争を受け」としているとおり『橋下徹の研究』という書籍全体の紹介や感想を書き進めようとは考えていません。そのため、反論する際に相手の意見を曲解する橋下さんのストローマン(藁人形)論法の問題性などを直接取り上げつもりはありません。

ロシアにはロシアの理がある」「戦う一択ではダメだ!」という章などを通し、百田さんと橋下さんの主張が大きく乖離していることを伝えています。現実の脅威として直面しているウクライナでの戦争を受け、どのように私たち日本人は考え、どのように対応すべきなのか、二人の対立点が絶好の題材だと受けとめています。

橋下さんはツイッターで「有事において日本の政治家たちが一般市民を犠牲にすることには断固反対するし、そのような社会的風潮にも反対する」と主張しています。このような主張に対し、百田さんは概念としての正しさを認めた上、一切の犠牲を出さないことを徹底するためには無条件降伏するしかないと反論します。

侵略戦争を仕掛けられながら抵抗もせずに無条件降伏した場合、民族そのものが滅ぼされたケースが山ほどあることを百田さんは訴えています。かつて日本は無条件降伏し、約7年間の占領下で日本人は虐殺されず、強制労働施設にも送られず、主権回復後は驚異的な復興を遂げることができました。

その結果、百田さんは「橋下さんが戦争で降伏してもたいしたことはない」という単純で楽観的な思想を持つようになっていると批判しています。ちなみにウクライナではロシアに占領された地域で、多くの一般市民が虐殺され、男性はロシア兵として徴兵されて危険な前線に送られていることも百田さんは記しています。

最近鈴木宗男氏 岸田首相のキーウ訪問検討に「支援継続を言ったら…すべて吹っ飛んでしまう」』『森元首相、日本のウクライナ支援「こんなに力入れちゃっていいのか」』という記事を目にし、ここまでロシア寄りの立場から発言できる森元総理と日本維新の会の鈴木参院議員には、いつものことながら本当に驚かされています。

この二人とは少し異なり、あくまでも橋下さんは人命を最重視した立場からロシアの要求にも耳を傾け、ウクライナや西側諸国は「政治的妥結をはかれ」と訴え続けているものと思っています。たいへん人道的な観点からの発言であり、単刀直入に批判しにくい側面があることも確かです。

ただ私自身、実際の戦場から遠く離れた日本からの発言であり、心苦しさもありますが、やはり現段階でロシアに妥協することの危うさを感じている立場です。昨年8月の平和への思い、2022年夏 Part2」という記事の中で「ウクライナのように攻め入られたらどうするのか?」という問いかけに次のように答えていました。

軍事進攻された時は現行憲法で認められた個別的自衛権のもとに対処することを想定しています。現在の国際社会の中で武力による領土や主権の侵害は認められません。戦争が長引く場合などは現在のウクライナと同じように専守防衛に徹しながら国際社会と連携し、そのような無法な国と対処していくことになります。

国際社会は二度の世界大戦を経験し、そこから得た教訓をもとに現在の国際秩序やルールを定めています。国際社会における「法の支配」であり、国連憲章を守るという申し合わせです。その一つが前述したとおり武力によって他国の領土や主権を侵してはならないというものであり、自衛以外の戦争を禁止しています。

このような国際的な規範が蔑ろにされ、帝国主義の時代に後戻りしてしまうのかどうか、ウクライナでの戦争は国際社会に突き付けられている試金石だと言えます。戦争が一刻も早く終わることを願いながら多くの国々が結束し、ロシアに圧力を加え、ウクライナを支援している構図は非常に重要な関係性です。

国際社会の結束は、ロシアと同じように軍事力で「自国の正義」を押し通そうと考えていた権力者の「意思」に大きな牽制効果を与えるはずです。国際社会の定められたルールは絶対守らなければならない、守らなければ甚大な不利益を被る、このことをロシアのプーチン大統領に思い知らせるためにもウクライナでの戦争の帰趨が極めて重大です。

ウクライナはロシア国内に向けて攻撃していません。国外の敵基地を標的にしていません。国際社会の中で認められた自衛の戦争に徹しています。このような関係性も含め、無法な侵略戦争を仕掛けたロシアに対し、抵抗するウクライナの正義が国際社会の中で際立ち、各国からの支援につながっているものと思っています。

戦争の前であればロシアの言い分にも真摯に耳を傾け、政治的な妥協点を探ることが重要だったはずです。しかし、軍事侵攻した後に要求を受け入れるとしたら、それこそ弱肉強食の世界を追認することになりかねません。

このあたりについて森元総理と鈴木参院議員には理解願い、それぞれ培ってきたロシアとのパイプを活用した行動を起こして欲しいものです。そもそも今回のロシアの軍事侵攻は、2014年のウクライナ南部クリミアを一方的に併合した時の成功体験が後押ししたと見られています。

その際も国際社会はロシアに対して制裁を科していましたが、安倍元総理はプーチン大統領との良好な関係性を重視し、日本は欧米各国に比べ緩やかな措置にとどめていました。6年前の記事「何が正しいのか、どの選択肢が正しいのか」の中では次のような記述を残していました。

首脳同士が信頼関係を高めていくために直接相対する機会を持つこと自体、私自身は肯定的にとらえています。その意味でG7を分断という見られ方に反しながら安倍首相がロシアのプーチン大統領と会談を重ねていることも評価しています。

ただ安倍首相は昨年7月のアジア欧州会議(ASEM)首脳会議において自らの言葉で「法の支配を重視し、力による一方的な現状変更を認めない」と中国の動きを意識した演説を行なっています。

それにも関わらず、ウクライナからクリミア半島を強制編入したロシアのプーチン大統領に対し、安倍首相が直接いさめたという話は聞こえてきません。もちろん北方領土問題の解決に向け、緻密で大局的な思惑があっての対応なのかも知れません。それでは、なぜ、中国との関係では原則的な強硬姿勢のみが際立ってしまうのでしょうか。

昨年12月の記事「『ウクライナにいたら戦争が始まった』から思うこと」の中で触れたことですが、安倍元総理は「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている」という言葉を贈るほどプーチン大統領との親密さを誇っていました。しかし、たいへん残念ながらウクライナ侵攻で露呈「安倍政権の対露外交」の大き過ぎる罪』という記事が伝えているとおりウクライナでの戦争を受け、安倍元総理はプーチン大統領に声をかけるような素振りも見せていなかったようです。

結果が伴わなかった場合でも、もし安倍元総理がプーチン大統領に対して即時撤兵を求め、具体的な行動を起こしていたならば幅広い層から高い評価や支持を得られていたのではないでしょうか。そのような機会を見計らっていた矢先だったのであれば、安倍元総理の非業の死は改めて悔やむべきことになります。

その一方で、防衛費のGDP比2%までの増額や敵基地攻撃能力の保有が安倍元総理の意思だったとすれば、日本の安全保障のあり方として様々な疑問を投げかけなければなりません。『「生煮えのまま43兆円の血税が」北沢俊美元防衛相~国を憂う~防衛費大幅増額「数字ありきの乱暴な議論」に警鐘』という記事にあるような懸念があります。

前回記事で提起した抑止力と安心供与のバランスの問題を考える際、再び『橋下徹の研究』の中の記述に着目してみます。橋下さんは「中国の隣にあり、軍も核兵器も持たない日本は、二階さんのような政治家を持っておくことも必要」と発言しています。

橋下さんは中国とのパイプを持つ政治家として二階さんを評価し、百田さんは「二階からおいしいエサを投げられたか。世界が中国と対決しようとしている中、『裏切り者』『売国奴』の二階を持ち上げる真意はどこに? それとも中国から援護するように指令でも受けたか」とツイートしています。

このツイートに対し、橋下さんは「餌などもらっているわけないやろ、ボケッ! 空想の世界だけで生きているオッサンには現実の政治戦略などわからんやろ」と怒りを爆発させていました。二人とも感情をむき出しにした口の悪い言葉使いは反省しなければならないはすです。その上で私自身の感想です。

前述したとおり安倍元総理がプーチン大統領と会談を重ねていたことを評価していました。そのようなパイプや信頼関係の維持が決定的な対立、つまり戦争に至らせないための安心供与という広義の安全保障につながっているものと考えているからです。そのため、私も二階さんのような政治家の存在を評価しています。

抑止力強化一辺倒ではなく、このような関係を通し、懸念している中国の動きをいさめていけることが望ましい道筋だろうと思っています。さらに信頼関係を高める中で、新疆ウイグルの問題などが解決していけることも願っています。理想論かも知れませんが、戦争を絶対回避するためにはお互いの言い分に耳を傾け、敵視し合わない関係性の構築こそ重要な選択肢であるはずです。

そして、日本国内で率直な議論を交わす際、心がけるべきマナーがあります。罵詈雑言を控えることはもちろんですが、中国に融和的な発想を持つと「中国の工作に凋落されている」と推論することの不適切さです。中には実際に凋落された人物や完全なスパイが存在しているのかも知れません。

しかし、まったく身に覚えのない場合、そのような言葉が投げかけられれば誹謗中傷の類いであり、建設的な議論から遠ざかっていくことになります。いずれにしても百田さんの推論が目立った『橋下徹の研究』を読み終えて、いろいろ後味の悪い思いを強めていました。

最後に、ウクライナでの戦争を受け、私たち日本人は今後の安全保障のあり方を深く考えるべき岐路に差しかかっています。戦争を絶対起こさないためには、どのような「答え」が正解に近付くのか、今、岸田政権の進めている動きが望ましいことなのかどうか、 私たちに問われています。

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2023年1月22日 (日)

抑止力と安心供与のバランス

前回記事は「大きな節目の1000回」でした。次の節目である1100回をめざし、今回、前々回記事「失望感が募る岸田政権」に書き足したかった内容を取り上げます。前々回記事には次のような私自身の問題意識を記していました。

ブックマークしているジャーナリストの鮫島浩さんの記事『対米追従の防衛費倍増には財務省が唱える「財源論」ではなく日本国憲法が掲げる「平和主義」で反対しよう!』のとおり国民からの信を問うべき重要な論点は、日本が国際社会の中で際立った平和主義を誇示した国であり続けるのかどうかだろうと思っています。

今回の新規記事を通し、このあたりについて掘り下げていきます。岸田総理はG7(主要7か国首脳会議)の議長として、アメリカなどメンバー5か国を訪問しました。年末に閣議決定された安保関連3文書改定で、日本が年間防衛予算を5年後には従来の2倍とすることなどを各国首脳にアピールした外遊だったと言えます。

岸田総理がバイデンから異例の「おもてなし」を受けるが…アメリカへの手土産にした「防衛力の大幅拡大」を岸田政権は本当に実現できるのか』という記事が伝えているとおり日本の防衛力強化はG7の首脳から軒並み歓迎されています。しかし、その記事では国会での議論が皆無のまま、つまり国民的な合意形成のプロセスを経ていない問題性を強く批判しています。

これまでGDP(国内総生産)比1%程度だった防衛費を2%まで増やせば予算上とは言え、日本はアメリカ、中国に次いで世界第3位の軍事大国となります。さらに反撃能力の保有は、日本が攻撃を受けていなくても、相手国が攻撃に着手したと判断できれば、日本から相手国に向けてミサイルを撃ち込むことを可能にするものです。

思わず『ヤバいのは防衛増税だけじゃない!岸田政権が強行する「ステルス改憲」で“戦争ができる国づくり”』という記事の「ステルス改憲」という言葉に目が留まっていました。その記事の中で、名古屋学院大学の飯島滋明教授(憲法学・平和学)が次のように批判しています。

2015年に成立した安保法制では、“集団的自衛権の行使容認”と言って、日本と密接な関係にある国が攻撃を受けたとき、日本が直接攻撃を受けていなくても自衛隊は武力行使ができると認められました。

ただし憲法9条は、外国を攻撃する戦力を持つことを禁じています。そのため歴代の政府は、外国領域を攻撃できる兵器を持たない方針をとってきました。ところが岸田政権はその方針を変えて、外国を攻撃できる兵器を持てるよう安保3文書の中に明記したのです。

これは「戦力」の保持を禁止した憲法9条に違反している。また、自衛のための必要最小限度の実力行使しか許されないという「専守防衛」からも逸脱する。安保法制の際、安倍政権は歴代政府の憲法解釈を独断で変えて、集団的自衛権の行使を閣議決定で容認しました。それと同じ問題が安保3文書でも繰り返されています。

外国を攻撃できる武器は憲法で禁じられた“戦力”です。それを持ちたければ、憲法改正の手続きを行い、主権者である国民の判断を仰ぐため国民投票を実施すべき。時の政権が独断で国のあり方を変えることは、憲法が定める国民主権からも許されません。

「失望感が募る岸田政権」という言葉、最初は期待していたからこそ失望したことになります。最初から期待していなければ失望することもありません。前々回記事に記したとおり前政権までの強権的な体質に比べ、岸田総理の「聞く力」に期待していました。

しかし、最も丁寧に慎重に国民の声を聞くべき憲法9条の解釈を先走って改めてしまう姿勢に強く失望しています。これから開かれる国民の代表が集う国会において遅ればせながら「丁寧な議論」を始めるつもりなのかも知れません。ただ5か国の首脳に対し、決定事項として振る舞って歓待されていたことを指摘しておかなければなりません。

岸田総理に対する最たる失望感は安全保障に向けた考え方の落差です。日本国憲法の平和主義の効用評価し、もっと広義の国防を重視する政治家だと勝手に期待していました。安保関連3文書改定の中味は、安倍政権の時よりも懸念すべき狭義の国防に重心を傾けた大きな方針転換だと言えます。

広義の国防と狭義の国防、同様の意味合いとして「外交・安全保障のリアリズム」という記事の中でソフトパワーとハードパワーという対になる言葉も紹介していました。国際社会は軍事力や経済力などのハードパワーで動かされる要素と国際条約や制度などのソフトパワーに従って動く要素の両面から成り立っていることを綴っていました。

もう一つ、抑止に対し、安心供与という言葉があります。安心供与という言葉は7年前の「北朝鮮の核実験」という記事の中で初めて紹介しました。安全保障は抑止と安心供与の両輪によって成立し、日本の場合の抑止は自衛隊と日米安保です。

安心供与は憲法9条であり、攻められない限り戦わないと決めてきた専守防衛こそ広義の国防の一つです。安心供与はお互いの信頼関係が柱となり、場面によって寛容さが強く求められていきます。相手側の言い分が到底容認できないものだったとしても、最低限、武力衝突をカードとしない関係性を維持していくことが肝要です。

抑止力の強化を優先した場合、ますます強硬な姿勢に転じさせる口実を相手に与えてしまいがちです。外交交渉の場がなく、対話が途絶えている関係性であれば、疑心暗鬼が強まりながら際限のない軍拡競争のジレンマにつながり、国家財政を疲弊させ、いつ攻められるか分からないため、攻められる前に先制攻撃すべきという発想になりかねません。

このあたりについては4年前の記事「平和の話、サマリー」の中で詳述しています。残念ながら安心供与という言葉は、あまり普及していません。メディアで見かけることが少ない中、最近戦争を防ぐには「安心供与」一見“かったるく”見える外交こそ不可欠』という記事を目に留めていました。

国の安保政策の最大の目的は、戦禍から国民を守ること、すなわち、戦争回避でなければならない。外交は一見「かったるい」ように見えるだろう。しかし、日本の軍拡は相手のさらなる軍拡を招く。戦争を防ぐためには、相手が「戦争してでも守るべき利益」を脅かさないことによって戦争の動機をなくす「安心供与」が不可欠であり、そのためには外交が欠かせない。

上記は新外交イニシアティブ代表の猿田佐世さんの言葉です。安心供与を前面に押し出した外交を進める際、「ハト派」と目されている宏池会の岸田総理は適任だったはずです。昨年11月、岸田総理は習近平主席と対面による会談を3年ぶりに行なっています。

「習氏は終始、気持ち悪いくらい笑顔だった」日中首脳会談 安定した関係構築で一致も懸案では歩み寄れず』『習主席、岸田首相に見せた笑顔の裏側』という記事が伝えているとおり習主席の笑顔は額面通りに受けとめられないのかも知れません。しかし、このような首脳会談が行なわれている限り、中国が突然日本を攻め入ることはないはずです。

その後、岸田総理が安保関連3文書を改定し、G7の5か国訪問を重ねたことで習主席から笑顔は消えています。様々な思惑を秘めた習主席の笑顔は不要だと思われている方が多いのかも知れませんが、結果的に日本と中国の溝が広がり、標的になるリスクも高まったと言えます。

そもそも反撃能力の保有や防衛費の倍増が、戦争を防ぐための欠かせない道筋なのであれば増税も含めて覚悟を決めていかなければなりません。加えて、ここまで国際標準の抑止力のあり方をめざすのであれば、国際社会の中で希有な平和主義を掲げた憲法を改める必要性に迫られています。

戦争を防ぐため、抑止力と安心供与のバランスをどのように保てば良いのかどうか、なかなか難しいことだろうと思っています。ただ確実に言えることは防衛費の倍増を避けられるのであれば、その財源を異次元の少子化対策など他の政策に充てることができます。

いずれにしても防衛費財源は「増税か、国債か」の財政論争に惑わされるな!間違っているのは防衛費を倍増させる安全保障政策だ!』という鮫島さんの記事のとおり国民から信を問うべき重要な論点は、平和を築くための方向性の是非ではないでしょうか。

今回の記事ではウクライナでの戦争を受け、どのように考えるべきか、そこまで話を広げるつもりでした。その記事の中では、最近読み終えた『橋下徹の研究』という書籍の内容についても触れるつもりでした。いつものことですが、たいへん長い記事になっていますので、機会を見ながら次回以降の記事で改めて取り上げていきます。

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2023年1月15日 (日)

大きな節目の1000回

前回記事「失望感が募る岸田政権」には書き足したい内容が数多くありますが、次回以降、機会を見て示していければと考えています。今回、記事タイトルに掲げたとおり大きな節目の1000回を迎えています。これまで当ブログの更新回数が100を刻んだ時、次のような記事を投稿してきました。

100回の時は、あまり投稿数を意識していなかったため、100回目の記事という認識がないまま普段通りの内容を書き込んでいました。その直後、たまたまココログの管理ページを目にした際、直前に投稿した記事が100回目だったことに気付きました。

そのため、101回目という少し半端なタイミングでのメモリアルな記事内容となっていました。毎週1回の更新が定着し、先が読みやすくなっていた200回目以降は失念することなく、上記のような記事をピンポイントで綴ることができています。

訪問されている方々にとって、この記事が何回目だろうと関係ないことは重々承知しています。それでも節目のタイミングを利用し、このブログがどのような性格のものなのか改めてお伝えさせていただく機会としていました。

このブログを開設した切っかけは以前の記事「このブログを始めたイキサツ」の中で綴っていました。NHKと朝日新聞が「従軍慰安婦」関連番組への政治介入問題に絡み、真っ向から対立した報道を繰り広げていました。真実は一つでも、どちら側の報道内容に接するかどうかで、その真偽の評価や印象がガラリと変わっていました。 

ちょうど世の中は大阪市役所の厚遇問題などで、公務員への厳しい視線や声が強まっていた頃でした。当然、公務員やその組合側も改めるべき点は即座に改める必要があります。ただ主張すべきことは主張する必要性を強く感じていた時、誰でも簡単にインターネット上で意見を発信できるブログと出会いました。

このブログを開設した当初は毎日のように記事本文を更新していました。しばらくして週2、3回のペースとなり、1年後ぐらいから週1回の更新間隔が定着していました。2012年の春頃からはコメント欄も含め、週に1回、土曜か日曜のみにブログに関わるようにし、現在に至っています。

実生活に過度な負担をかけないペースとして毎週1回、土曜日か日曜日に更新するようになってから「週刊」を習慣化できています。元旦に新規記事を投稿しようと決めているため、年末年始だけ変則な投稿間隔となっています。

2011年3月、東日本大震災の発生直後の週末も、ためらいながら「東日本巨大地震の惨禍」という記事を投稿し、被災された皆さんへのお見舞いの気持ちなどを表わしていました。

そのようにつながってきましたが、4年前の3月1日に母が亡くなり、一度だけ新規記事の投稿を見合わせていました。母が亡くなった直後、とてもブログを更新する気にはなれませんでした。深い悲しみと落胆に沈み込んでいたことはもちろん、そのような時にブログに関わることの不適切さを感じていました。

再開した際の記事「母との別れ」は自分自身の気持ちの整理を付けていくための通過点とし、苦労を重ねてきた母親を偲びながら母と過ごした年月をずっと忘れないためにも初めて私的な内容を前面に出した記事を投稿していました。これまで100回という節目で記事を投稿する際、次のような言葉を添えています。

もし定期的な更新間隔を定めていなければ、日々の多忙さに流され、いわゆる「開店休業」状態が続いていたかも知れません。それでも年月は過ぎていくことになります。一方で、投稿した記事の数は自分自身の労力を惜しみ出したり、続けていく熱意が冷めてしまった場合、停滞してしまう数字です。

800回の時には、不慮の事態に遭遇しても数字が滞ることを付け加えていました。健康上の問題、大きな天災などに直面した場合、自分自身の意欲や労力云々以前の問題としてブログの更新どころではなくなります。

そのような意味で今回、たいへん大きな節目である1000回を刻めたことのメモリアルさについて、よりいっそうかみしめる機会となっています。いずれにしても週1回の更新ペースを崩さず、継続できているのも多くの皆さんが訪れてくださるからであり、いつも心から感謝しています。

このブログを長く続けている中、いろいろ貴重な経験や機会も得られました。2007年末にはぎょうせい出版社の記者から取材を受け、月刊ガバナンス1月号の連載『「自治」サイト探訪』で当ブログを取り上げていただきました。

その記者の方が特に注目くださったのはコメント欄での意見交換のあり方で、「こうした地道なコミュニケーションが、自治体への信頼の醸成につながっていくのではないだろうか」と結んでいただいていました。自治体向けの有名な情報誌へ好意的に掲載いただき、たいへん光栄なことでした。

他にも別な出版社から書籍化の話が示されたこともありました。具体的な相談を行ない、粗い原稿を提出するところまで至っていました。最終的に「没」という判断を下された訳ではなく、私自身の力不足や怠慢によって書籍化を前提にした原稿をまとめ切れないまま望外な機会を逸していました。

貴重な機会を提供くださった皆さんにはご迷惑をおかけし、期待に応えられず、たいへん申し訳なく思っています。60年を越える人生の中で様々な分岐点がありましたが、この時の力不足が最も悔やむべき選択だったように振り返る時も少なくありません。

公務員になったイキサツ」という記事の中で、希望する職業へステップ・アップする手段としての公務員志望だったことを伝えていました。ちなみに配属後、数日間で「永久就職でいいかな」と人生設計を変えてしまったほどの素晴らしい職場との出会いだったことも記していました。

希望する職業はマスコミ関係で、モノを書いて人に伝えるという仕事にあこがれていました。そのような夢のとば口に少しでも関われるチャンスを逃してしまったことは重ね重ね残念な結果でした。

もし書籍化のチャンスに再び恵まれた場合、組合の委員長を退任し、余暇の時間もたっぷり取れる今、18年近くブログを続けてきた経験をもとに「全集中の呼吸」(💧)で対応できるはずです。

ブログを長く続ける中で注意している点は、不特定多数の方々に見られることを常に意識した記事内容の投稿に努めるという心構えです。不確かな情報や知識での断定した書き方はもちろん、賛否が分かれる問題についても結論を押し付けるような書き方は極力避けるように努めています。

誰もが閲覧できるブログでの発言の重さをいつも念頭に置きながらパソコンに向き合っています。 このような意味合いから週に1回の定期更新は自己啓発の機会であり、自分自身の主張を広く発信できる自分なりの一つの運動として位置付けています。

そして、何よりもブログを始めて良かったと思うことは本当に幅広く多様な考え方や意見に触れられたという経験です。コメント欄には辛辣な批判意見が数多く寄せられてきましたが、インターネットを介した匿名の場だからこそ触れることができた飾らない声の一つ一つだったものと考えています。

これまで多様な声があることを受けとめ、日常の職務や組合活動に臨める意義深さを感じ取ってきました。基本的な立場や考え方の違いから批判を受ける場合もありますが、そのことも含めて貴重な機会だととらえています。

どのような点が批判されるのか、どのように説明していけばご理解いただけるのか、いろいろな意味で「気付き」の機会につながっていたからです。ただ500回目の頃と比べ、コメント欄の雰囲気が大きく様変わりしています。

500回目の記事の中に「普段のアクセス数は千件から2千件ぐらいの幅で推移し、コメント数が100を超えた記事も数多くありました」と書かれています。ここ数年、日々のアクセス数は当時に比べれば大きく減り、コメントの寄せられない記事のほうが多くなっています。

それでも組合役員を退任」「最後の定期大会」などの記事に対し、 たいへん心温まるコメントをお寄せいただいていました。退職されている方から「ブログを見て委員長を退任されることを知りました」という連絡もあり、このブログを注目くださっている方々は決して少なくないものと思っています。

このような手応えがあり、個人の責任で運営してきたブログですので委員長退任後も継続しています。私自身にとってブログに出会えたことは大きな「財産」であり、引き続き次の節目である1100回をめざしています。

最後に、これからも一人でも多くの方にご訪問いただければと願っています。また、出入り自由な場として、お気軽にコメントもお寄せいただければ誠に幸いです。どうぞよろしくお願いします。

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