政権をめざす政党に望むこと Part2
前回記事「政権をめざす政党に望むこと」の中で「現在、検察は政治からの圧力から解放され、忖度無用で粛々と職務を遂行しているのではないでしょうか」と記していました。政治からの露骨な圧力はないのかも知れませんが、「忖度無用」と言い切れるほど毅然とした捜査を進めているのかどうかは疑問視する見方もあるようです。
朝日新聞の記者だった鮫島浩さんのブログ『自民党裏金事件の手抜き捜査で批判を浴びた東京地検特捜部がここにきて自民党議員を次々に強制捜査しているナゾと「罪の軽重」の判断能力を失ったマスコミ報道の限界』という記事には次のような見方が綴られていました。
堀井氏と広瀬氏の共通点は、東京地検特捜部の強制捜査を受ける前から、マスコミ報道を通じてすでに政治的影響力を失っており、だれも擁護する人が自民党内でいないことである。東京地検特捜部からすれば、これほど立件しやすい政治家はいない。逆に立件しても自民党内の政治情勢にさしたる影響は出ない。
東京地検特捜部は、一連の裏金事件でも、大物政治家(安倍派5人衆ら)を立件を見送る一方、政治的影響力のない中堅議員のみを立件し、捜査の体裁を取り繕った。これに対して世論から激しく批判を受け、今回は再び政治的影響力を失ったふたりを立件することで、世論の批判をかわそうとしているのだろう。
規範意識の低さは個々の政治家の質の問題であることは確かです。しかし、所属している国会議員の中で、その人数や割合が他党に比べて際立っているのであれば組織的な土壌や体質を問わなければなりません。選定過程に緩さを抱えたまま公認候補となり、党の看板で当選している議員が多かった場合、そのような組織特有の問題が生じがちです。
当選後の議員教育のあり方をはじめ、幹部や先輩議員からのサポートが不充分であれば国会議員としての資質は欠けたままになりかねません。裏金事件に対する強い批判から自民党の組織的な体質が取り沙汰されていますが、日本維新の党も前述したような傾向が自民党以上に危うい政党だと思っています。
政権をめざす政党に望むこととして、あえて言うまでもない最低限の話となりますが、規範意識の低い国会議員が目立つような政党では問題です。粗製濫造と言われないような仕組みのもとに候補者を擁立し、当選後の育成システム等にも気を配り、検察に強制捜査されるような国会議員を生み出さない政党であって欲しいものです。
前回の記事で最近、法政大学法学部教授の山口二郎さんの新著『日本はどこで道を誤ったのか』を読み終えたことを伝えています。全体を通して興味深い内容であり、特に「政権をめざす政党に望むこと」という主旨に沿った中で、たいへん参考になる考え方や情報に数多く触れられる機会となっていました。
この主旨に沿って、いくつか目に留まった箇所を紹介していきます。まず自民党を政権の座から下ろすという目的を最優先に立憲民主党の泉代表が他の野党との話し合いを進めていますが、私自身の政権交代に向けた考え方について前回記事の中で次のように記していました。
敵か、味方か、決め付けずに話し合っていくことを推奨しているため、立憲民主党の泉代表の動きを肯定的にとらえています。しかし、 政権交代は、目的ではなく、国民の暮らしや安全を高めていくための手段だと考えています。そのため、基本的な理念や軸足が180度違う政党同士の政権が誕生した場合、国民にとってマイナスとなる結果につながらないか危惧しています。
立憲民主党の理念や軸足と180度違う政党として、日本維新の会を真っ先に思い浮かべています。所属している議員の中に評価すべき方々も少なくないのかも知れませんが、4月に投稿した記事「新着資料紹介『「維新」政治と民主主義』」に示したような政党としての体質の問題が非常に気になっています。
念のため、あらかじめ申し上げれば前々回記事「総理をめざす政治家に望むこと」に綴ったとおり自分自身の「答え」の正しさに自信を持っていたとしても、異なる考え方や立場も認め合っていく寛容さや包摂さを重視しています。そのため、日本維新の会などが正しいと信じている考え方を絶対間違っていると断じていくものではありません。
政権をめざす政党には寛容な政治の重要性を第一に考えて欲しいものと願っています。意見が激しく対立しても、敵視し合うことなく、対話を重ねることで合意形成をはかる政治です。総論から各論まで共通する理念として、外交の場面や改憲議論を通しても意識していくべき心得だろうと思っています。
このような点を大前提としながら山口さんの新著の中の記述を紹介し、私自身が望む政権をめざす政党の立ち位置や軸足について書き進めてみます。山口さんは「維新は、日本における右派ポピュリズムの典型だととらえている」とし、ナショナリズムの尊重、経済における競争の奨励と勝利を収めた勝者の称賛、負けた側に対する自己責任の押し付け、個人の自由・自立よりも社会や集団の秩序の押し付けなどを原則としていると評しています。
人間が自分の力では対処できないリスクを処理することが公共政策の目的である。公共政策のあり方を決めるのが民主主義を通した政治参加である。小さな政府と自己責任を押し付けることは、政治参加を断念させる結果を招く。小さな政府が正義となれば、政治参加は、権力者が設定した敵をたたく戦いに拍手喝采することにとどまる。
山口さんの上記のような問題意識が新著の中で貫かれています。その上で、中曽根政権の臨調行革路線から小泉政権の構造改革、アベノミクスの功罪などを問い、「失われた50年」というスパンで振り返っています。規制緩和という一つの目的に沿って考えた時、山口さんは次のような事例を示しています。
タクシー運転手という職業で生計を立てられなくなるところまで規制緩和を行うことが、社会の利益と言えるのか。何であれ他人に必要とされる仕事に従事し、一定時間働けば、生活できるだけの賃金を得られるのが、品位ある社会である。
現在進行形の事例としてライドシェア導入の是非があります。政党や政治家個人の軸足が定まっていれば、おのずから「答え」が見出せるはずです。山口さんは「労働力という商品は人間の生命、健康に密接に結びついているからこそ、労働時間規制をはじめとする特別法としての労働法が必要である」と語っています。
政権を交代を果たした民主党の「働くことを軸として、安心できる社会を作っていく」という訴えは上記のような理念を立ち位置にしたものでした。ちなみに福島第一原発事故の後、民主党は「2030年代に原発をゼロにする」という公約を掲げました。この公約の一つとっても、将来的なゼロ方針さえ曖昧にした自民党などとの明解な対抗軸としていけるはずです。
山口さんの新著の中に「反消費税路線という落とし穴」という小見出しを付けた箇所があります。かつて社会党が消費税反対を選挙キャンペーンの材料に使い、成功しすぎたことで政策的な手足を縛られることになったと説いています。西欧、北欧の福祉国家の成立過程においては、左派政党が付加価値税を財源していることの対比から山口さんは問題提起されています。
私自身も共感している問題意識であり、昨年8月には「ベーシックサービスと財源論」「ベーシックサービスと財源論 Part2」という記事を投稿しています。当たり前なこととして裏金問題など様々な不祥事から無縁で、国民から信頼を寄せられる政党が消費税の重要さを丁寧に訴えていける政治を願っています。
山口さんは「90年代の前半の自民党は、宮澤、後藤田に代表される穏健な自由主義者が指導層におり、常識的な歴史認識と憲法価値を擁護するハト派が中心だった」と評しています。戦争を知る世代が退場すると、戦争を知らない右派勢力が巻き返すことになり、憲法論や国家観を巡る対立を過度に二極化してきたと見ています。
8月6日は広島、9日は長崎の原爆忌、15日には終戦記念日を迎える時期、このブログでは戦争と平和を題材にした内容の投稿を重ねてきています。昨年は「平和の話、インデックスⅣ」という私自身の思いを集大成した記事を投稿していました。
いずれの政治家や政党も「戦争は避けたい」と考えているはずですが、その防ぎ方の手法に対する選択肢が分かれがちです。国際標準の軍事力を行使できる国家に戻るのか、これまで以上に日本国憲法の「特別さ」を大事にしていくことが国際社会の中で平和に貢献できる立ち位置なのか、このような選択肢を明確に政権をめざす政党には示して欲しいものと願っています。
山口さんの新著に貼った付箋の箇所は、まだまだあります。埼玉大学名誉教授の暉峻淑子さんの著書『豊かさとは何か』を取り上げた箇所は、このブログの次回以降の記事で改めて紹介していきます。ただ「政権をめざす政党に望むこと」というタイトルの記事は、ここで一区切り付けさせていただくつもりです。
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