『承認をひらく』を読み終えて
水曜日、岸田総理が9月に予定されている自民党総裁選に出馬しないことを表明しました。3年前の菅前総理が突然不出馬を表明した時と同様、勝算がないため勝負を避けたと見られても仕方ありません。いずれにしても今後の政治の動きが、最近の記事「総理をめざす政治家に望むこと」「政権をめざす政党に望むこと」に託しているような思いに近付くことを期待しています。
前回記事「政権をめざす政党に望むこと Part2」は、法政大学法学部教授の山口二郎さんの著書『日本はどこで道を誤ったのか』の内容を中心に綴っています。山口さんの著書の中で、埼玉大学名誉教授の暉峻淑子さんの著書『豊かさとは何か』が取り上げられていました。読み進めていた時、奇遇さを感じる機会となっていました。
このブログを通し、東京自治研究センターの季刊誌「とうきょうの自治」の連載記事「新着資料紹介」を担当していることをお伝えしています。『足元からの学校の安全保障 無償化・学校教育・学力・インクルーシブ』『どうせ社会は変えられないなんてだれが言った? ベーシックサービスという革命』『会計年度任用職員の手引き』『公営競技史』と続き、次は暉峻さんの新著『承認をひらく』としています。
入稿締切が8月末というタイミングで、山口さんの著書の中に暉峻さんが登場したため奇遇さを感じていました。季刊誌の原稿の文体は「である調」で字数の制約もあり、そのまま利用できるものではありませんが、ブログの新規記事は「『承認をひらく』を読み終えて」とし、入稿する原稿内容を意識しながら書き進めてみます。
民主主義社会とは「個人の尊厳から出発し、人間らしい生活ができないような貧困・排除があってはならない社会」である。その実現のために、今こそ社会的相互承認と社会参加が求められる。あるべき「承認」の本質とは何か。ロングセラー『豊かさとは何か』以来、民主主義の核心を真摯に問い続けてきた著者の到達点。
上記はリンク先に掲げられている書籍の紹介文です。まず山口さんの著書に相通じる問題意識を訴えた『豊かさとは何か』の内容について少し触れていきます。いつもネタバレに注意し、労力を欠けない手法としてリンク先の紹介文の転載を多用しています。その手法に沿って『豊かさとは何か』の紹介文もそのまま転載させていただきます。
モノとカネがあふれる世界一の金持ち国・日本.だが一方では,環境破壊,過労死,受験競争,老後の不安など深刻な現象にこと欠かず,国民にはゆとりも豊かさの実感もない.日本は豊かさへの道を踏みまちがえた,と考える著者が,西ドイツでの在住体験と対比させながら,日本人の生活のあり方を点検し,真に豊かな社会への道をさぐる.
『豊かさとは何か』が発刊されたのはバブル経済絶頂期の1989年です。暉峻さんは「日本は豊かさへの道を踏み違えた」とし、「画一的モノサシで優劣を決め、敗者を排除していく社会の流れ」に警鐘を鳴らしました。暉峻さんは日本の貧しさの原因を社会全体を支える公共的基盤の脆弱さをあげています。
企業における富の蓄積を進めるため、石油危機を乗り越えるコストカットが行なわれ、人々は長時間労働によってそれに貢献しました。強者の手もとに経済価値をためこむことが豊かさとされ、統計上の富の蓄積と生活実感の乖離が起きていることについて暉峻さんは強い危機感を抱き、『豊かさとは何か』という著書を上梓していました。
道をどこで間違ったのか、戻るにはどうしたらいいか、本当の豊かさを実現する社会をどうしたら実現できるか、その著書に切実な思いを託していました。しかしながら今、本当の豊かさを実現できたのかと問われれば「否」と答えざるを得ません。このような現状に憂え、今年の春、暉峻さんは承認というキーワードによって社会をとらえ直した著書『承認をひらく』を世に送り出しています。
東京新聞が4月に『森友問題で「我慢の糸が切れた」96歳の警鐘 経済学者・暉峻淑子さんが問い直す権力者の「承認」』という見出しを付けた記事を掲載していました。字数を気にせず、仕上げることができるブログですので、その記事の内容をそのまま紹介させていただきます。
新著「承認をひらく 新・人権宣言」の執筆を決断させたのは、森友学園問題で公文書の改ざんを命じられた財務省職員赤木俊夫さんの自死だった。真面目に職務を果たそうとした公務員が、国有地の不当な取引を巡り、国家の「恣意的な承認」を押しつけられ犠牲になったことに「我慢の糸が切れた」。
「承認とはその事柄が真実、公正であり、妥当性があると認めること。それなのに権力者が私益のために乱用している」。著書では森友学園のほか、風致地区を守るための高さ制限が緩和され計画が承認された東京・明治神宮外苑の再開発、裁判で違法性を認める判決が出ている厚生労働省による2013年の生活保護基準切り下げなどを挙げて解説する。
承認には「権力者と個人のタテの関係」だけでなく、「個人と個人のヨコの関係」もある。「社会的動物である人間は他人に承認されて初めて人格が形成され、社会参加もできる」と暉峻さんは強調する。
地域の課題や政治、生き方など関心のあるテーマを市民が持ち寄って話し合う「対話的研究会」を、地元の練馬区で2010年から続けてきた。対話を重ねる中で自信を付けて変化する人たちを目の当たりにしてきた実感だ。
その逆のケースもある。秋葉原通り魔事件(08年)や新宿西口バス放火事件(1980年)などは、孤独を深めた市民が社会から承認されず「排除された」と感じたことが引き金になったと指摘する。
「人として尊厳が守られ人間らしく生きるためには富の再分配だけでは不十分で、承認の重要さがもっと認識されるべきだ」と暉峻さんは力を込める。「タテとヨコ、それぞれの承認が公正に行われてこそ民主主義が機能し、人権を守ることにつながる」。新著のサブタイトル「新・人権宣言」に込めた思いをこう明かした。
承認という言葉自体は聞き慣れたものです。ただ承認を「ひらく」という使い方は、あまり馴染みのあるものではありません。暉峻さんは新著の「はじめに」の中で、承認という言葉を次のように説明しています。
承認とは、その語義のように、その事柄が真実であり、公正であり、妥当性があると認める行為です。一つ一つの承認を意識的に問い直していくことで、民主主義に新しい命が吹き込まれ、人権というキャパシティを広げ深めることになるのではないか、本書はその考えの上に立って書かれました。
社会的人間としてしか生きられない宿命を持つ人間が、他人の、あるいは社会の承認を求める情念を持つのは当然であり、誰もそれを否定することはできません。人間は自分で自分を見ることができないので、他者という鏡に映して自分を見ます。その結果、自分の姿が他者から肯定的に評価されれば、自信が出てやる気も湧くでしょう。
他者から承認されることは、自分が客観的に認められていることの証明でもあり、社会に必要な人間としての普遍性に一歩近づくことにもなります。何よりも、自分が生きていることの意味を自覚させてくれます。個人の人生だけでなく、もっと視野を広げて承認という鏡を通して社会を見ると、その歪みがはっきりと見えてきます。
自己責任が当たり前とされる社会になったとき、それに反比例するかのように「承認欲求の病」といわれる風潮が強くなったのは偶然ではないでしょう。しかし、ことはそれほど簡単ではありません。鏡の方が歪んでいることも、多々あるからです。
さらに「独りよがりの判断ではなく、付和雷同でもなく、人間と人間の間の関係に媒介されて構築されていくもの」と暉峻さんは説明しています。しかしながら能力至上主義、競争の勝者礼賛主義、点数主義に「偏った承認の文化」が蔓延し、歪んだ鏡によって社会から承認されていないと悩む人たちの多さを新著で取り上げています。
中には自暴自棄になり、東京新聞の記事に掲げられたような悲惨な事件に手を染めていったのではないかと暉峻さんは憂慮しています。社会関係が人間にとって、特に弱者にとって、いかに大事であるか、「社会から承認されたいと願いながら叶わなかった、鬱屈した孤独な人生」の数々を新著の中で伝えています。
人は生まれながらに無条件に、その存在を承認されている個人です。生存が危ぶまれるような貧困に対しては、その理由を問わず、生活保護法に基づいて衣食などの扶助を受けることができます。人権自然権や生存権と呼ばれるものです。
しかし、社会的な支援制度があることを知らない人も多く、知っていても他人に助けを求めることは恥ずかしいと思っている人も少なくありません。特に日本は「困難を抱えている人に声をかけ、手を差し伸べる人間としての連帯の文化が弱いのではないか」と暉峻さんは感じられているようです。
資本主義社会が生み出す貧困と社会的排除という二つの欠陥のうち、生活保護など再分配によって貧困の是正をはかります。貧困は特定の人だけでなく、企業の合併、AIの導入、金融界の激変、本人の長期の病気など自己責任だけでは解決できず、いつ、それぞれの人に襲いかかってくるか分かりません。
第二次世界大戦後、貧困を放置すべきでないという社会的合意が高まり、再分配による貧困の克服は国民から支持を受けるようになっていたはずです。それでも生活保護に対する偏見が付きまとい、社会から排除されているような罪悪感を受給者に与えがちです。そのような関係性から脱却するため、相互承認の必要性を暉峻さんは訴えています。
貧困の他に障碍者の問題も新著では取り上げられています。かつて「家の中にひそかに隠されていた障碍児・者の問題は、やっと今、その存在が承認される時代になりました」と暉峻さんは評しています。「隠すことで守るのか、ひらくことで守るのか」という見出しの付けられた章では、排除の価値観を包摂の価値観に変えていくことの重要さが語られています。
登校拒否、不登校の問題にも触れられています。子どもたちは様々な能力を秘めており、それが発揮されるまでには長い時間と人間関係を必要とします。この問題もひらくことで、不登校を認め合うことで、フリースクールなど学校以外の居場所をつくれるようになっています。
これまでの教育の根深い病巣である画一性、硬直性、閉鎖性、非国際性と対峙し、社会を覆う能力主義と呼ばれる承認基準を、これからどのように改善していけるのか、フリースクールにおける具体的な事例を通し、暉峻さんは考察されています。
承認にあたり、暉峻さんは対話から見出していく相互承認の必要性を説いています。国家・社会と個人の関係、個人と個人の関係を問い直していく中で、権力を持つ者が対話を軽視し、一方的な承認が目立つようになっていることを暉峻さんは強く危惧しています。承認という鏡に映る様々な歪んだ社会像が浮かび上がっています。
公共的な場で相互性を持った議論が行なわれることなく一方的に承認されていく日本社会の危うさは、東京新聞の記事の冒頭に掲げられている事例をはじめ、閣議決定のみで岸田前総理が独断的に決めた安倍元総理の「国葬」にもくっきりと現れています。
「公的承認などの国家権力の行使にさいしては、必ず公共性の回路をくぐらなければ正当性は得られない」と言われています。公共性の回路をくぐることによって、初めて公的承認が私益ではなく、公共益であることを証明できるからです。暉峻さんの新著の中では次のように記されています。
日本の政治権力に即していえば「議会内では少数野党とも丁寧な熟議を尽くして合意形成をはかり、議会外では、良心に忠実なさまざまの専門家から意見を聞き、市民の声を真摯に受けとめて、その過程を全面的に透明化して、公文書として残す」ことだと思います。
このような原則から大きく外れた政治の現況に危機感を抱き、暉峻さんは『承認をひらく』の上梓に至っています。閉じられた中で私益のような承認が度重なっていくうちに、それが当たり前になり、違和感を持たなくなり、民主主義社会が知らず知らずに根腐れ状態になっていくのを暉峻さんは怖れています。
総理をめざす政治家はもちろん、国民の代表として重責を担う国会議員の皆さん、それぞれが『承認をひらく』を手に取って熟読いただければ政治への信頼も高まっていくのではないでしょうか。最後に「承認への意識が社会を変え、希望への道がひらくことを期待しながら…」という暉峻さんの結びの言葉を紹介します。
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