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2024年8月31日 (土)

総理大臣を選ぶ自民党総裁選

前回は久しぶりに公務員の労働条件に関わる地域手当の見直しに安堵」という記事を投稿していました。今回は組合の執行委員長を退任した後、このブログのトレンドとなっている時事の話題を紹介しながら望ましい政治のあり方について、いろいろ個人的な思いを書き進めていきます。

まず兵庫県の斎藤元彦知事のパワハラ等の問題に絡む県議会の調査特別委員会(百条委員会)についてです。「どこまでも被害者を馬鹿に」兵庫県・斎藤知事 亡きパワハラ告発者の懲戒処分は「適切だった」と強弁… “曲げない主張”にネット激怒』という記事のとおり斎藤知事は自分自身の致命的な誤りを認めていません。

橋下徹氏「権力者の資格なし」「適切なわけないやろ!」兵庫県知事の証人尋問での発言を批判』の記事の中で、橋下元大阪府知事は「ギリギリ許される答弁は法律違反ではなかったが、権力の行使のやり方は不適切極まりなかった」までだろうと指摘しています。

違法性を認めてしまえば刑事処罰が不可避のため、斎藤知事が言葉を選ぶことは分かりますが、この期に及んで懲戒処分が「適切だった」という発言は想像を絶する不誠実な姿勢だと思っています。他にも斎藤知事の暴虐ぶりや不適切な行為が続々と明らかになっています。

側近だった片山安孝前副知事らが斎藤知事の暴走を止めるどころか、亡くなられた元県民局長を追い詰める役割に加担していた事実なども明らかにされています。兵庫県の問題は書き進めると止まらなくなるほど陰湿で理不尽な話を多く耳にしています。

7月に投稿した記事「政治家の好感度、その危うさ」を通して訴えたことですが、ネガティブな情報に触れる機会がなく、表面上の好感度や評判のみが先行しがちな選挙戦の危うさを強く憂慮しています。その記事の中では次のような問題意識を綴っていました。

清新なイメージ通りの内実の伴った人物であれば問題ありません。しかし、中には意図的に表の顔と裏の顔を使い分けているケースもあるはずです。目上には従順で、自分より下だと思った相手には高圧的になる人物も少なくありません。そのような人物が重責を担う組織のトップや政治家になっていた場合、何らかの綻びが生じていきがちです。

まさしく兵庫県の現状を反面教師として、どのような選挙戦のあり方が望ましいのか、学ぶべき点が多々あるのではないでしょうか。自民党の総裁選は9月12日に告示され、9月27日を投開票日とする日程が決まっています。議院内閣制の日本では最大議席を有する与党のトップが総理大臣に選ばれます。

圧倒多数の国民が一票を投じることはできませんが、自民党総裁選の勝者が岸田総理の後任となります。総理大臣を選ぶ自民党総裁選であるからこそ、マスメディアが連日、出馬を表明しただけで候補予定者について大きく取り上げていくことも必然的な流れなのだろうと受けとめています。

その上で、前述したとおり各候補者についてネガティブな情報も含め、多面的な切り口から伝えていくことが欠かせないはずです。今回のブログ記事が念頭にあったため週刊文春最新号を購入しています。『自民総裁選11人の精密検査』という特集記事は、週刊文春ならではの取材力で各候補者のネガティブな情報を伝えています。

自民党としては先日、総裁選の広報用ポスターと動画を公開しています。キャッチフレーズを「THE MATCH」とし、ポスターには歴代総裁の写真を並べています。平井卓也広報本部長は「自民党が日本の戦後政治を牽引してきた歴史と実績、日本のリーダーを選択する選挙であるという重責感、日本の未来を切り開いていく覚悟を示した」と説明しています。

キャッチフレーズは政策論戦に加え、日本の未来とマッチングするリーダーを選ぶことや成長力に火をつけるマッチなどの意味を込めているそうです。しかし、歴代総理の顔ぶれから政治資金問題が想起されるという指摘があり、党所属議員からも「反省ができていないと思われないか」との声が上がっています。

画像の修整やキャッチフレーズ作りには人工知能(AI)を活用したそうですが、あえて歴代総裁を並べるという空気の読めないタイミングの悪さに驚いています。強い批判を浴びている「政治とカネ」の問題も含め、これまでの自民党政治を全面的に肯定しているというメッセージだと理解しています。

さらに今回、自民党は『「カネのかからない自民総裁選」は「かけ声だけ」 パンフ郵送だけで1億円が相場?告示前は「やりたい放題」』という記事のとおり「カネのかからない選挙」を掲げています。その一方で、現行の規程で最長となる選挙期間を15日間としています。選挙期間を長くすれば様々な出費が増えるはずであり、このあたりのチグハグさも気になっています。

このブログでは3年前に「自民党総裁選と野党の立ち位置」という記事を投稿していました。その時の視点を踏まえた内容は次回以降、立憲民主党の代表選について触れながら改めて綴ってみるつもりです。今回の記事では、もう少し個人的な思いを前面に出した内容を書き進めてみます。

最近の記事「総理をめざす政治家に望むこと」の中で触れていましたが、かつて河野太郎デジタル大臣は私の中で好感度の高い政治家の一人でした。しかしながら様々なネガティブな情報に接してきた現在、私自身にとって総理にしてはいけない政治家の最上位となっています。 つい最近だけでも次のような情報に接しています。

“安倍派重鎮”衛藤征士郎氏が河野氏発言に猛反発 不記載額の返還案に「理解できない。あまりにも唐突」 二階派幹部も批判』『「金を盗んでも返せば良い?」「脱税だろが」河野太郎氏、裏金議員は「返納してケジメ」の発想に批判殺到』『河野太郎氏に「誹謗中傷という言葉を盾に権力振りかざす恐れ」フジ女子アナに称賛「救世主現る」「会心の一撃」』『自民総裁選 河野太郎氏、人事は「適材適所」 派閥と長老の介入を否定

一時不再理という原則を踏まえれば、裏金事件に関わりながら離党勧告や党員資格停止までの処分を下さなかった場合、自民党としては全員を公認候補者とするつもりだろうと理解しています。このような経緯を踏まえず、唐突に不記載額の返還案を示した河野大臣の稚拙さが目立った動きでした。「返納してケジメ」という発想に批判が殺到していることも当然だろうと思っています。

自分にとって都合の悪い意見は誹謗中傷と見なしている態度もトップリーダーの資質として不適格だと言わざるを得ません。さらに官僚との関係性において、斎藤知事と肩を並べるようなパワハラ気質の振る舞いが数多く聞こえています。実績に関してもコロナワクチンやマイナ保険証の問題など評価は大きく分かれ、自画自賛している姿を見ると強い違和感を抱きがちです。

このような意見は即座にブロックされてしまうのかも知れませんが、最後に一言。河野大臣は党内で唯一存続する麻生派に所属したまま総裁選での支援を求め、総理になった後に派閥を抜け、支援者からの声も一切受け付けないと語っています。長老や派閥が閣僚・党役員の人事に影響を及ぼす旧来型の自民党政治からの脱却を誓っているようです。

土曜午前の「ウェークアップ」に河野大臣はリモート出演し、元乃木坂46の山崎怜奈さんから「派閥にいながら“党改革”できるのか」という質問を受けていました。「介入させるつもりはありません。河野太郎が何か見返りをくれると思って支持をしてくれる人はいないと思う」と答えています。そうであれば、ますます派閥を抜けて総裁選に臨むほうがフリーハンドを担保しやすいのだろうと思っています。

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2024年8月24日 (土)

地域手当の見直しに安堵

自民党の総裁選が9月12日告示27日投開票、立憲民主党の代表選が9月7日告示23日投開票と決まりました。前回記事「『承認をひらく』を読み終えて」も政治に絡む話につながっていましたが、ますます今後、望ましい政治のあり方を題材にした投稿が増えていくのだろうと思っています。

ただ今週末に投稿する新規記事は、久しぶりに公務員の労働条件に関わる話題を取り上げます。8月8日に下記のとおり人事院勧告が示されています。今回の勧告の中で、来年度から地域手当の支給地域等が大きく見直される内容も示されていました。

人事院は8日、2024年度の国家公務員給与を引き上げるよう国会と内閣に勧告した。最も人数が多い行政職は月給を平均2.76%(1万1183円)引き上げる。2%を超えるアップは、1992年度の2.87%以来、32年ぶり。賃上げが進む民間との格差を埋める。人材確保のため、月給は若年層の引き上げを重視。初任給も高卒、大卒ともに2万円を超える増加で、過去最大の上昇幅となった。

ボーナス(期末・勤勉手当)は0.10カ月増の4.60カ月分。月給とボーナス両方のプラス勧告は3年連続となる。勧告は地方公務員の給与改定の参考となるため、各地の自治体でも給与増が進む見通しだ。【共同通信2024年8月8日

上記の報道の中では触れられていませんが、地域手当見直しの動きは私どもの組合にとって、たいへん重要な勧告内容でした。そのため、このブログでも機会を見て必ず取り上げようと考えていました。9年前に「地域手当を巡る問題点」、5年前には「諸手当の見直し提案」という記事を投稿しています。

これまで地域手当は市町村単位で支給割合が定められていましたが、来年度から都道府県を基本とし、支給割合の級地区分は7級地から5級地(20、16、12、8、4%)に再編されます。市町村単位での設定による理不尽さが指摘されてきたため、今回の勧告で広域化を進めた内容となっています。

私どもの市の地域手当は12%、同一生活圏の近隣市は15%や16%、この格差が制度導入以降、ずっと課題認識されてきました。今回の勧告で三多摩地域は2級地の16%に位置付けられます。東京都特別区は従前通りの水準となる1級地の20%です。

都道府県を基本としながら4%の差が残るため、私どもの組合ニュースには「三多摩格差と言わざるを得ない事は残念です」と書かれていました。中核的な市は個別に指定され、道府県の中でも枝分かれしているため、東京都全体が同じ支給割合にならなかったことは許容範囲なのだろうと受けとめています。

全国的に見ると支給割合が上がる市町村、下がる市町村、明暗が分かれています。そのような中で、私どもの市が4%引き上げられる地域に決まったことは、たいへん喜ばしいニュースでした。「2025年4月から16%へ」という見出しを掲げた組合ニュースを手にした組合員の皆さんの笑顔を見ることができています。

その組合ニュースの紙面には「2025年4月より住居手当の激変緩和措置が終了し35歳以上不支給となりますが、地域手当が16%になった場合、総額で上回ることになります」と説明し、モデル35歳1級81号級の今年度と来年度の手当支給額の比較を示した表も掲載されていました。

A4判の限られた紙面ですので、なぜ、住居手当のことが関連して説明されているのか、詳しく解説できていないのは仕方ないことだろうと思っています。昼休みに委員長と会った時、たいへん重要な課題だった地域手当に関する内容は次回以降、もう少し掘り下げたほうが良いのではないかと伝えています。

相談した結果、協力委員の一人でもあり、9月以降、職場回覧する資料の原稿作りに私自身が協力することになりました。このような経緯もあり、今回のブログ記事に向き合っていました。

まず地域手当を巡る問題に対し、労働組合側が決して受動的立場だった訳ではありません。自治労や公務員連絡会は人事院や総務省との中央交渉を重ねてきています。時には職場署名にも取り組んできました。

私どもの組合も市側との団体交渉等を通し、地域手当の不合理さを訴え、市独自な判断として近隣市と同じ率まで引き上げることを検討するよう求めてきました。隣接した市で16%と10%という格差がありながらも、独自な引き上げで解消していた事例を示した上での要求でした。

昨年9月の記事「身近な政治、市長選の話」で伝えていましたが、都議時代から私どもの組合と推薦関係があり、20年以上前から顔見知りの方が市長に就任されています。その市長からも市町村単位で細分化された地域手当の問題性をご理解いただいていました。今年6月には総務省に市長自ら出向き、地域手当の支給割合についての要望書を提出されていました。

このような心強い経緯がある中ですので、今回の勧告を踏まえた支給割合での来年度予算が成立していくことを信頼しているところです。市長が総務省に要望書を提出したことは組合ニュースで報告していましたが、大きな節目を迎えた今、改めて組合員の皆さんに市長との連携をアピールすることの意義も感じ取っています。

続いて、地域手当と住居手当が関連していた問題です。2018年11月の団体交渉で「住居手当1万2千円を都と同額の1万5千円に引き上げる。年齢要件がないのは三多摩26市で当市のみであり、この機会に支給対象を35歳未満としたい」という見直し提案が示されました。

労使合意が得られれば2019年度から改めたいという提案でした。東京都に準拠した取扱いへの変更提案ですが、地域手当の支給率は都(20%)と私どもの市(12%)で大きな開きがあります。このような大きな格差がある中、都準拠とする提案を容易に受け入れられないことを組合は強く訴えました。

2014年度から導入された地域手当は前述したとおり市町村ごとに細かく率を定めているため、様々な点で不合理さが指摘されていました。都の場合、人事異動によって支給率が大幅に変動する問題性を踏まえ、三多摩で働く都職員も20%に合わせています。したがって、地域手当に関して都は国の定めた基準に従わず自主的な判断を行なっていました。

三多摩の多くの市が15%又は16%であり、私どもの市の12%は低いほうの部類となっていました。人材確保や人材流出を防ぐ観点からも地域手当の支給率を12%にとどめておくことの問題性を組合は提起し、手当全般を都並に揃えるのであれば、この機会に地域手当の支給率の引き上げを同時に検討すべきではないかと訴えてきました。

さらに一定の年齢をもって住居手当が支給されなくなる制度は不合理で、国家公務員や民間企業の支給実態を調べてみても都の制度自体が特異なものであることも組合は強調してきました。このような交渉の結果、住居手当の見直し提案は年度を越えた継続協議の扱いを確認してきました。

私自身が執行委員長を退任した後となりますが、2023年2月の団体交渉で4年間先送りさせてきた住居手当見直し提案を合意しています。35歳以上の対象者の支給額を千円ずつ引き下げる激変緩和措置が確認でき、2025年4月に向けて地域手当の支給地域等の見直しが予定されていたからです。

都準拠に固執するのであれば地域手当引き上げとの同時決着を組合は求めてきましたが、「三多摩26市中25市が都準拠となっているため、対外的に説明が付かない」という市側の切実な事情を受けとめ、2025年度からの地域手当引き上げを期待した上での労使合意だったことを理解しています。

このような経過があり、地域手当4%引き上げという朗報とともに住居手当の激変緩和措置が2025年度に終了するという説明を今回の組合ニュースで加えていました。公務員の総人件費抑制の流れが強まっていた時期であれば、全体的に低位な支給割合に合わせるという動きもあったかも知れないため、私どもの組合にとって本当に安堵する勧告内容だったと言えます。

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2024年8月18日 (日)

『承認をひらく』を読み終えて

水曜日、岸田総理が9月に予定されている自民党総裁選に出馬しないことを表明しました。3年前の菅前総理が突然不出馬を表明した時と同様、勝算がないため勝負を避けたと見られても仕方ありません。いずれにしても今後の政治の動きが、最近の記事総理をめざす政治家に望むこと政権をめざす政党に望むことに託しているような思いに近付くことを期待しています。

前回記事「政権をめざす政党に望むこと  Part2」は、法政大学法学部教授の山口二郎さんの著書『日本はどこで道を誤ったのか』の内容を中心に綴っています。山口さんの著書の中で、埼玉大学名誉教授の暉峻淑子さんの著書『豊かさとは何か』が取り上げられていました。読み進めていた時、奇遇さを感じる機会となっていました。

このブログを通し、東京自治研究センターの季刊誌「とうきょうの自治」の連載記事「新着資料紹介」を担当していることをお伝えしています。足元からの学校の安全保障 無償化・学校教育・学力・インクルーシブどうせ社会は変えられないなんてだれが言った? ベーシックサービスという革命会計年度任用職員の手引き公営競技史』と続き、次は暉峻さんの新著承認をひらく』としています。

入稿締切が8月末というタイミングで、山口さんの著書の中に暉峻さんが登場したため奇遇さを感じていました。季刊誌の原稿の文体は「である調」で字数の制約もあり、そのまま利用できるものではありませんが、ブログの新規記事は「『承認をひらく』を読み終えて」とし、入稿する原稿内容を意識しながら書き進めてみます。

民主主義社会とは「個人の尊厳から出発し、人間らしい生活ができないような貧困・排除があってはならない社会」である。その実現のために、今こそ社会的相互承認と社会参加が求められる。あるべき「承認」の本質とは何か。ロングセラー『豊かさとは何か』以来、民主主義の核心を真摯に問い続けてきた著者の到達点。

上記はリンク先に掲げられている書籍の紹介文です。まず山口さんの著書に相通じる問題意識を訴えた『豊かさとは何か』の内容について少し触れていきます。いつもネタバレに注意し、労力を欠けない手法としてリンク先の紹介文の転載を多用しています。その手法に沿って『豊かさとは何か』の紹介文もそのまま転載させていただきます。

モノとカネがあふれる世界一の金持ち国・日本.だが一方では,環境破壊,過労死,受験競争,老後の不安など深刻な現象にこと欠かず,国民にはゆとりも豊かさの実感もない.日本は豊かさへの道を踏みまちがえた,と考える著者が,西ドイツでの在住体験と対比させながら,日本人の生活のあり方を点検し,真に豊かな社会への道をさぐる.

『豊かさとは何か』が発刊されたのはバブル経済絶頂期の1989年です。暉峻さんは「日本は豊かさへの道を踏み違えた」とし、「画一的モノサシで優劣を決め、敗者を排除していく社会の流れ」に警鐘を鳴らしました。暉峻さんは日本の貧しさの原因を社会全体を支える公共的基盤の脆弱さをあげています。

企業における富の蓄積を進めるため、石油危機を乗り越えるコストカットが行なわれ、人々は長時間労働によってそれに貢献しました。強者の手もとに経済価値をためこむことが豊かさとされ、統計上の富の蓄積と生活実感の乖離が起きていることについて暉峻さんは強い危機感を抱き、『豊かさとは何か』という著書を上梓していました。

道をどこで間違ったのか、戻るにはどうしたらいいか、本当の豊かさを実現する社会をどうしたら実現できるか、その著書に切実な思いを託していました。しかしながら今、本当の豊かさを実現できたのかと問われれば「否」と答えざるを得ません。このような現状に憂え、今年の春、暉峻さんは承認というキーワードによって社会をとらえ直した著書『承認をひらく』を世に送り出しています。

東京新聞が4月に『森友問題で「我慢の糸が切れた」96歳の警鐘 経済学者・暉峻淑子さんが問い直す権力者の「承認」』という見出しを付けた記事を掲載していました。字数を気にせず、仕上げることができるブログですので、その記事の内容をそのまま紹介させていただきます。

新著「承認をひらく 新・人権宣言」の執筆を決断させたのは、森友学園問題で公文書の改ざんを命じられた財務省職員赤木俊夫さんの自死だった。真面目に職務を果たそうとした公務員が、国有地の不当な取引を巡り、国家の「恣意的な承認」を押しつけられ犠牲になったことに「我慢の糸が切れた」。

「承認とはその事柄が真実、公正であり、妥当性があると認めること。それなのに権力者が私益のために乱用している」。著書では森友学園のほか、風致地区を守るための高さ制限が緩和され計画が承認された東京・明治神宮外苑の再開発、裁判で違法性を認める判決が出ている厚生労働省による2013年の生活保護基準切り下げなどを挙げて解説する。

承認には「権力者と個人のタテの関係」だけでなく、「個人と個人のヨコの関係」もある。「社会的動物である人間は他人に承認されて初めて人格が形成され、社会参加もできる」と暉峻さんは強調する。

地域の課題や政治、生き方など関心のあるテーマを市民が持ち寄って話し合う「対話的研究会」を、地元の練馬区で2010年から続けてきた。対話を重ねる中で自信を付けて変化する人たちを目の当たりにしてきた実感だ。

その逆のケースもある。秋葉原通り魔事件(08年)や新宿西口バス放火事件(1980年)などは、孤独を深めた市民が社会から承認されず「排除された」と感じたことが引き金になったと指摘する。

「人として尊厳が守られ人間らしく生きるためには富の再分配だけでは不十分で、承認の重要さがもっと認識されるべきだ」と暉峻さんは力を込める。「タテとヨコ、それぞれの承認が公正に行われてこそ民主主義が機能し、人権を守ることにつながる」。新著のサブタイトル「新・人権宣言」に込めた思いをこう明かした。

承認という言葉自体は聞き慣れたものです。ただ承認を「ひらく」という使い方は、あまり馴染みのあるものではありません。暉峻さんは新著の「はじめに」の中で、承認という言葉を次のように説明しています。

承認とは、その語義のように、その事柄が真実であり、公正であり、妥当性があると認める行為です。一つ一つの承認を意識的に問い直していくことで、民主主義に新しい命が吹き込まれ、人権というキャパシティを広げ深めることになるのではないか、本書はその考えの上に立って書かれました。

社会的人間としてしか生きられない宿命を持つ人間が、他人の、あるいは社会の承認を求める情念を持つのは当然であり、誰もそれを否定することはできません。人間は自分で自分を見ることができないので、他者という鏡に映して自分を見ます。その結果、自分の姿が他者から肯定的に評価されれば、自信が出てやる気も湧くでしょう。

他者から承認されることは、自分が客観的に認められていることの証明でもあり、社会に必要な人間としての普遍性に一歩近づくことにもなります。何よりも、自分が生きていることの意味を自覚させてくれます。個人の人生だけでなく、もっと視野を広げて承認という鏡を通して社会を見ると、その歪みがはっきりと見えてきます。

自己責任が当たり前とされる社会になったとき、それに反比例するかのように「承認欲求の病」といわれる風潮が強くなったのは偶然ではないでしょう。しかし、ことはそれほど簡単ではありません。鏡の方が歪んでいることも、多々あるからです。

さらに「独りよがりの判断ではなく、付和雷同でもなく、人間と人間の間の関係に媒介されて構築されていくもの」と暉峻さんは説明しています。しかしながら能力至上主義、競争の勝者礼賛主義、点数主義に「偏った承認の文化」が蔓延し、歪んだ鏡によって社会から承認されていないと悩む人たちの多さを新著で取り上げています。

中には自暴自棄になり、東京新聞の記事に掲げられたような悲惨な事件に手を染めていったのではないかと暉峻さんは憂慮しています。社会関係が人間にとって、特に弱者にとって、いかに大事であるか、「社会から承認されたいと願いながら叶わなかった、鬱屈した孤独な人生」の数々を新著の中で伝えています。

人は生まれながらに無条件に、その存在を承認されている個人です。生存が危ぶまれるような貧困に対しては、その理由を問わず、生活保護法に基づいて衣食などの扶助を受けることができます。人権自然権や生存権と呼ばれるものです。

しかし、社会的な支援制度があることを知らない人も多く、知っていても他人に助けを求めることは恥ずかしいと思っている人も少なくありません。特に日本は「困難を抱えている人に声をかけ、手を差し伸べる人間としての連帯の文化が弱いのではないか」と暉峻さんは感じられているようです。

資本主義社会が生み出す貧困と社会的排除という二つの欠陥のうち、生活保護など再分配によって貧困の是正をはかります。貧困は特定の人だけでなく、企業の合併、AIの導入、金融界の激変、本人の長期の病気など自己責任だけでは解決できず、いつ、それぞれの人に襲いかかってくるか分かりません。

第二次世界大戦後、貧困を放置すべきでないという社会的合意が高まり、再分配による貧困の克服は国民から支持を受けるようになっていたはずです。それでも生活保護に対する偏見が付きまとい、社会から排除されているような罪悪感を受給者に与えがちです。そのような関係性から脱却するため、相互承認の必要性を暉峻さんは訴えています。

貧困の他に障碍者の問題も新著では取り上げられています。かつて「家の中にひそかに隠されていた障碍児・者の問題は、やっと今、その存在が承認される時代になりました」と暉峻さんは評しています。「隠すことで守るのか、ひらくことで守るのか」という見出しの付けられた章では、排除の価値観を包摂の価値観に変えていくことの重要さが語られています。

登校拒否、不登校の問題にも触れられています。子どもたちは様々な能力を秘めており、それが発揮されるまでには長い時間と人間関係を必要とします。この問題もひらくことで、不登校を認め合うことで、フリースクールなど学校以外の居場所をつくれるようになっています。

これまでの教育の根深い病巣である画一性、硬直性、閉鎖性、非国際性と対峙し、社会を覆う能力主義と呼ばれる承認基準を、これからどのように改善していけるのか、フリースクールにおける具体的な事例を通し、暉峻さんは考察されています。

承認にあたり、暉峻さんは対話から見出していく相互承認の必要性を説いています。国家・社会と個人の関係、個人と個人の関係を問い直していく中で、権力を持つ者が対話を軽視し、一方的な承認が目立つようになっていることを暉峻さんは強く危惧しています。承認という鏡に映る様々な歪んだ社会像が浮かび上がっています。

公共的な場で相互性を持った議論が行なわれることなく一方的に承認されていく日本社会の危うさは、東京新聞の記事の冒頭に掲げられている事例をはじめ、閣議決定のみで岸田前総理が独断的に決めた安倍元総理の「国葬」にもくっきりと現れています。

「公的承認などの国家権力の行使にさいしては、必ず公共性の回路をくぐらなければ正当性は得られない」と言われています。公共性の回路をくぐることによって、初めて公的承認が私益ではなく、公共益であることを証明できるからです。暉峻さんの新著の中では次のように記されています。

日本の政治権力に即していえば「議会内では少数野党とも丁寧な熟議を尽くして合意形成をはかり、議会外では、良心に忠実なさまざまの専門家から意見を聞き、市民の声を真摯に受けとめて、その過程を全面的に透明化して、公文書として残す」ことだと思います。

このような原則から大きく外れた政治の現況に危機感を抱き、暉峻さんは『承認をひらく』の上梓に至っています。閉じられた中で私益のような承認が度重なっていくうちに、それが当たり前になり、違和感を持たなくなり、民主主義社会が知らず知らずに根腐れ状態になっていくのを暉峻さんは怖れています。

総理をめざす政治家はもちろん、国民の代表として重責を担う国会議員の皆さん、それぞれが『承認をひらく』を手に取って熟読いただければ政治への信頼も高まっていくのではないでしょうか。最後に「承認への意識が社会を変え、希望への道がひらくことを期待しながら…」という暉峻さんの結びの言葉を紹介します。

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2024年8月11日 (日)

政権をめざす政党に望むこと Part2

前回記事「政権をめざす政党に望むこと」の中で「現在、検察は政治からの圧力から解放され、忖度無用で粛々と職務を遂行しているのではないでしょうか」と記していました。政治からの露骨な圧力はないのかも知れませんが、「忖度無用」と言い切れるほど毅然とした捜査を進めているのかどうかは疑問視する見方もあるようです。

朝日新聞の記者だった鮫島浩さんのブログ『自民党裏金事件の手抜き捜査で批判を浴びた東京地検特捜部がここにきて自民党議員を次々に強制捜査しているナゾと「罪の軽重」の判断能力を失ったマスコミ報道の限界』という記事には次のような見方が綴られていました。

堀井氏と広瀬氏の共通点は、東京地検特捜部の強制捜査を受ける前から、マスコミ報道を通じてすでに政治的影響力を失っており、だれも擁護する人が自民党内でいないことである。東京地検特捜部からすれば、これほど立件しやすい政治家はいない。逆に立件しても自民党内の政治情勢にさしたる影響は出ない。

東京地検特捜部は、一連の裏金事件でも、大物政治家(安倍派5人衆ら)を立件を見送る一方、政治的影響力のない中堅議員のみを立件し、捜査の体裁を取り繕った。これに対して世論から激しく批判を受け、今回は再び政治的影響力を失ったふたりを立件することで、世論の批判をかわそうとしているのだろう。

規範意識の低さは個々の政治家の質の問題であることは確かです。しかし、所属している国会議員の中で、その人数や割合が他党に比べて際立っているのであれば組織的な土壌や体質を問わなければなりません。選定過程に緩さを抱えたまま公認候補となり、党の看板で当選している議員が多かった場合、そのような組織特有の問題が生じがちです。

当選後の議員教育のあり方をはじめ、幹部や先輩議員からのサポートが不充分であれば国会議員としての資質は欠けたままになりかねません。裏金事件に対する強い批判から自民党の組織的な体質が取り沙汰されていますが、日本維新の党も前述したような傾向が自民党以上に危うい政党だと思っています。

政権をめざす政党に望むこととして、あえて言うまでもない最低限の話となりますが、規範意識の低い国会議員が目立つような政党では問題です。粗製濫造と言われないような仕組みのもとに候補者を擁立し、当選後の育成システム等にも気を配り、検察に強制捜査されるような国会議員を生み出さない政党であって欲しいものです。

前回の記事で最近、法政大学法学部教授の山口二郎さんの新著『日本はどこで道を誤ったのか』を読み終えたことを伝えています。全体を通して興味深い内容であり、特に「政権をめざす政党に望むこと」という主旨に沿った中で、たいへん参考になる考え方や情報に数多く触れられる機会となっていました。

この主旨に沿って、いくつか目に留まった箇所を紹介していきます。まず自民党を政権の座から下ろすという目的を最優先に立憲民主党の泉代表が他の野党との話し合いを進めていますが、私自身の政権交代に向けた考え方について前回記事の中で次のように記していました。

敵か、味方か、決め付けずに話し合っていくことを推奨しているため、立憲民主党の泉代表の動きを肯定的にとらえています。しかし、 政権交代は、目的ではなく、国民の暮らしや安全を高めていくための手段だと考えています。そのため、基本的な理念や軸足が180度違う政党同士の政権が誕生した場合、国民にとってマイナスとなる結果につながらないか危惧しています。

立憲民主党の理念や軸足と180度違う政党として、日本維新の会を真っ先に思い浮かべています。所属している議員の中に評価すべき方々も少なくないのかも知れませんが、4月に投稿した記事「新着資料紹介『「維新」政治と民主主義』」に示したような政党としての体質の問題が非常に気になっています。

念のため、あらかじめ申し上げれば前々回記事「総理をめざす政治家に望むこと」に綴ったとおり自分自身の「答え」の正しさに自信を持っていたとしても、異なる考え方や立場も認め合っていく寛容さや包摂さを重視しています。そのため、日本維新の会などが正しいと信じている考え方を絶対間違っていると断じていくものではありません。

政権をめざす政党には寛容な政治の重要性を第一に考えて欲しいものと願っています。意見が激しく対立しても、敵視し合うことなく、対話を重ねることで合意形成をはかる政治です。総論から各論まで共通する理念として、外交の場面や改憲議論を通しても意識していくべき心得だろうと思っています。

このような点を大前提としながら山口さんの新著の中の記述を紹介し、私自身が望む政権をめざす政党の立ち位置や軸足について書き進めてみます。山口さんは「維新は、日本における右派ポピュリズムの典型だととらえている」とし、ナショナリズムの尊重、経済における競争の奨励と勝利を収めた勝者の称賛、負けた側に対する自己責任の押し付け、個人の自由・自立よりも社会や集団の秩序の押し付けなどを原則としていると評しています。

人間が自分の力では対処できないリスクを処理することが公共政策の目的である。公共政策のあり方を決めるのが民主主義を通した政治参加である。小さな政府と自己責任を押し付けることは、政治参加を断念させる結果を招く。小さな政府が正義となれば、政治参加は、権力者が設定した敵をたたく戦いに拍手喝采することにとどまる。

山口さんの上記のような問題意識が新著の中で貫かれています。その上で、中曽根政権の臨調行革路線から小泉政権の構造改革、アベノミクスの功罪などを問い、「失われた50年」というスパンで振り返っています。規制緩和という一つの目的に沿って考えた時、山口さんは次のような事例を示しています。

タクシー運転手という職業で生計を立てられなくなるところまで規制緩和を行うことが、社会の利益と言えるのか。何であれ他人に必要とされる仕事に従事し、一定時間働けば、生活できるだけの賃金を得られるのが、品位ある社会である。

現在進行形の事例としてライドシェア導入の是非があります。政党や政治家個人の軸足が定まっていれば、おのずから「答え」が見出せるはずです。山口さんは「労働力という商品は人間の生命、健康に密接に結びついているからこそ、労働時間規制をはじめとする特別法としての労働法が必要である」と語っています。

政権を交代を果たした民主党の「働くことを軸として、安心できる社会を作っていく」という訴えは上記のような理念を立ち位置にしたものでした。ちなみに福島第一原発事故の後、民主党は「2030年代に原発をゼロにする」という公約を掲げました。この公約の一つとっても、将来的なゼロ方針さえ曖昧にした自民党などとの明解な対抗軸としていけるはずです。

山口さんの新著の中に「反消費税路線という落とし穴」という小見出しを付けた箇所があります。かつて社会党が消費税反対を選挙キャンペーンの材料に使い、成功しすぎたことで政策的な手足を縛られることになったと説いています。西欧、北欧の福祉国家の成立過程においては、左派政党が付加価値税を財源していることの対比から山口さんは問題提起されています。

私自身も共感している問題意識であり、昨年8月には「ベーシックサービスと財源論」「ベーシックサービスと財源論 Part2」という記事を投稿しています。当たり前なこととして裏金問題など様々な不祥事から無縁で、国民から信頼を寄せられる政党が消費税の重要さを丁寧に訴えていける政治を願っています。

山口さんは「90年代の前半の自民党は、宮澤、後藤田に代表される穏健な自由主義者が指導層におり、常識的な歴史認識と憲法価値を擁護するハト派が中心だった」と評しています。戦争を知る世代が退場すると、戦争を知らない右派勢力が巻き返すことになり、憲法論や国家観を巡る対立を過度に二極化してきたと見ています。

8月6日は広島、9日は長崎の原爆忌、15日には終戦記念日を迎える時期、このブログでは戦争と平和を題材にした内容の投稿を重ねてきています。昨年は「平和の話、インデックスⅣ」という私自身の思いを集大成した記事を投稿していました。

いずれの政治家や政党も「戦争は避けたい」と考えているはずですが、その防ぎ方の手法に対する選択肢が分かれがちです。国際標準の軍事力を行使できる国家に戻るのか、これまで以上に日本国憲法の「特別さ」を大事にしていくことが国際社会の中で平和に貢献できる立ち位置なのか、このような選択肢を明確に政権をめざす政党には示して欲しいものと願っています。

山口さんの新著に貼った付箋の箇所は、まだまだあります。埼玉大学名誉教授の暉峻淑子さんの著書『豊かさとは何か』を取り上げた箇所は、このブログの次回以降の記事で改めて紹介していきます。ただ「政権をめざす政党に望むこと」というタイトルの記事は、ここで一区切り付けさせていただくつもりです。

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2024年8月 3日 (土)

政権をめざす政党に望むこと

前回記事は「総理をめざす政治家に望むこと」でしたが、今週末に投稿する新規記事のタイトルは「政権をめざす政党に望むこと」としています。現在、政権を担っている政党は自民党です。その自民党の国会議員が、またしても検察による強制捜査を受けるという事態に至っています。

自民党の広瀬めぐみ参院議員が30日、勤務実態のない公設秘書の給与を国からだまし取った疑いで東京地検特捜部の強制捜査を受けた。 派閥裏金事件から続く「政治とカネ」の問題は政権に痛手となる。広瀬議員は離党したが、野党は議員辞職を要求している。

自民は30日、広瀬議員から提出された離党届を受理。茂木敏充幹事長はコメントを出し、「今回のような事態に至ったことは極めて遺憾だ。説明責任を果たしてもらいたい」と表明した。

同党では18日に堀井学衆院議員(離党)が特捜部の強制捜査を受けたばかり。裏金事件による政治不信も解消されていない。閣僚経験者は「『また自民か』と言われる」と嘆き、党関係者は「早く落ち着かせたいのに最悪、最低だ。信頼回復は簡単ではない」と漏らした。

上記は『広瀬参院議員が自民離党 「政治とカネ」また痛手』という見出しを付けられた時事通信の配信した記事内容の一部です。『「同じ手口やん」広瀬めぐみ議員の家宅捜索で “流れ弾” が大物議員を直撃、同僚議員の投稿も “火に油” の大惨事』という記事もあり、立憲民主党の辻元清美参院議員の事件と重ね合わせる声があります。

2002年、辻元議員は政策秘書2人分の給与約1870万円を国から詐取した疑いで逮捕され、2004年に懲役2年、執行猶予5年の有罪判決を受けていました。法を犯したという事実は同じですが、報道された直後、辻元議員は衆院議員(当時)を辞職しています。

2000年9月には、 私どもの組合と支持協力関係のあった民主党の衆院議員だった山本譲司さんが政策秘書給与流用容疑で逮捕されました。この事件については昨年11月の記事「ブログで振り返る組合役員時代 Part2」の中でも触れていますが、山本さんは実刑判決を受け、1年2か月ほど服役していました。

広瀬議員の場合、このような重罪になることを知っていながら、さらに自分自身が弁護士でありながら法を犯していたという事実関係の悪質さは際立っています。「同じ手口やん」という声のピント外れに呆れていますが、同じであれば離党で済まされるものではなく、国会議員を即刻辞職すべき問題だろうと思っています。

「別議員秘書から手口を教示」 広瀬氏事務所側が説明 給与詐取疑い』という報道に接すると、この事件は「氷山の一角」の様相を呈してくる可能性もあります。政治資金パーティーを巡る問題で自民党の裏金事件が強い批判を浴びています。手を染めていた議員の多さから自民党という組織的な体質の問題として非難されています。

裏金事件と同様「この程度であれば問題ない」「他の事務所も同じことをやっている」という規範意識の欠如が党内に蔓延しているのではないかと疑わざるを得ません。『裏金事件は「安倍・菅政権」に対する検察の報復を思わせる国会閉幕後の衝撃』という興味深い見出しの記事を紹介します。

検察の報復という見立ては半信半疑で目を通していますが、現在、検察は政治からの圧力から解放され、忖度無用で粛々と職務を遂行しているのではないでしょうか。裏を返せば、これまで不当な介入によって捜査に手心を加えてきた時があり、紹介した記事のような事実関係につながっているものと理解しています。

このような検察との関係性に慢心し、自民党の国会議員が規範意識を低下させていたとしたら言語道断な話です。長期政権の弊害であり、政権を担っている政党として極めて憂慮すべき問題だと言えます。自民党は国民からの大きな批判にさらされ、過去2回、政権の座から離れています。

しかし、2回とも数年で政権の座に戻り、名前も中味も変わらないまま現在に至っています。今回も一過性の批判であり、今のところ政権の座を脅かす野党も見当たらないため、危機感を口にしながらも小手先の対応で「何とかしのげるはず」と考えている自民党議員も多いのかも知れません。

そのようなことが繰り返される政治は、決して望ましいものではありません。重大な問題の責任を問われた政党は政権の座から下りなければならない、ある意味で当たり前な緊張関係がある政治であって欲しいものです。そのためにも野党側の奮起に期待しなければなりません。

最近『「立憲と維新の薩長同盟が必要」前原氏が立憲・泉代表との会談で呼びかけ  相次ぐ党首会談の先に野党連携実現は』という記事のような動きが見られています。自民党を政権の座から下ろすという目的を最優先するのであれば、野党が一丸になることは有益なのかも知れません。前回記事の最後に、私自身の端的な思いを次のように記しています。

いずれにしても総理をめざす政治家に対し、「あらゆる人を “敵” と “味方” に分断する政治」とは真逆な政治的な姿勢や立場性を望んでいます。寛容さであり、包摂さです。自分自身の「答え」の正しさに自信を持っていたとしても、異なる考え方や立場も認め合いながら、最適な「答え」を見出す努力を尽くして欲しいものと願っています。

意見が激しく対立しても、敵視し合うことなく、対話を重ねることで合意形成をはかる政治が重要です。総論から各論まで共通する理念として、外交の場面や改憲議論を通しても意識していくべき心得だろうと思っています。どなたが総理になったとしても、このような心得のもとに寛容な政治を切望しています。

敵か、味方か、決め付けずに話し合っていくことを推奨しているため、立憲民主党の泉代表の動きを肯定的にとらえています。しかし、政権交代は、目的ではなく、国民の暮らしや安全を高めていくための手段だと考えています。そのため、基本的な理念や軸足が180度違う政党同士の政権が誕生した場合、国民にとってマイナスとなる結果につながらないか危惧しています。

このような問題意識を強めていたため、次の記事は「政権をめざす政党に望むこと」と決めていました。数日前には、いつも立ち寄っている書店で法政大学法学部教授の山口二郎さんの新著『日本はどこで道を誤ったのか』を見かけ、すぐレジに運んでいました。

政治家や官僚の劣化、少子化による人口減少、膨張する財政赤字、上昇しない実質賃金、インフレによる生活苦……現在の日本社会が停滞している原因は、どこにあるのか?  常に政治改革の中心で活動してきた政治学者が、日本の「失われた50年」を分析。令和の時代にふさわしい新しい政治のあり方を考え、提言する。枝野幸男氏(立憲民主党)との対談も収録!

上記はリンク先に掲げられた新著の紹介文です。このブログで取り上げようと思った書籍の場合、読み進めながら興味深かった箇所に付箋を添えるようにしています。今回、その数は15箇所に及んでいます。すべて紹介できないかも知れませんが、たいへん参考になる考え方や情報に触れられる機会となっていました。

以前であれば、このまま一気に訴えたい内容をまとめ上げていました。SNSの閲覧がスマホ中心となっている最近では、極端に長い記事内容の投稿は慎むようにしています。特に毎週、土曜か日曜に更新を重ねているブログですので、この続きは次回の記事「政権をめざす政党に望むこと Part2」に送らせていただきます。

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