新着資料紹介『「維新」政治と民主主義』
ゴールデンウイークの初日となる土曜日、連合の三多摩メーデーに今年も参加しています。前回記事「残念な与党、されど野党 Part3」の最後に、連合と政党との関係性において「反自民・非共産」という原則が連合結成以来掲げられていることを伝えていました。
この原則について今回の三多摩メーデーに絡み、改めて個人的な思いを巡らす機会となっていました。書き進めていくと話は広がりそうであり、三多摩メーデーに絡む内容は次回以降の記事で掘り下げていくことを考えています。
さて、不適切にもほどがある政治家の言動が連日、報道されています。岐阜県岐南町と愛知県東郷町の町長は、奇遇にも同じ日に第三者委員会によるハラスメント認定が公表され、報道の翌日に辞意を表明しています。
岐南町長に対しては、女性職員の背後から抱き着くなどの少なくとも99件のセクハラ行為や不快な言動が認定されています。東郷町長は「お前らの脳みそは鳩の脳みそより小さい」「育休を1年取ったら殺すぞ」というような暴言を重ね、机の側面を蹴るなど日常的にハラスメント行為を繰り返していました。
それぞれ辞職が当然視される不適切な振る舞いだったことに間違いありません。それにも関わらず『辞職会見で東郷町長「職員をどう守っていくか」“ひとごと”発言?「どの口が言っているのか」と告発元職員』という記事のとおり東郷町の井俣憲治町長のほうは、本当に反省しているのかどうか疑問視されています。
リンク先の記事の最後には「井俣町長は来月2日付で辞職するとしていますが、来月まで在籍すれば、6月に200万円あまりのボーナスが支給されるとみられます」と書かれ、すぐ辞職した岐南町の小島英雄町長に比べると「立つ鳥跡を濁さず」の真逆な対応に終始しているようです。
二人の町長のハラスメントは過去から現在まで続いていた不適切な問題でした。過去の問題がスクープされ、批判を受ける政治家の不祥事も少なくありません。『【パパ活辞職】宮澤博行議員、夜の繁華街でキャバクラ嬢に破顔 今井絵理子議員が食べた後の骨をむさぼり食う芸も』という話も最近明らかになっています。
まさしく不適切さにもほどがある話ですが、記者からの質問に対して「記憶にございます」「そんなに事実とかけ離れている訳ではございません」と事実関係を認め、すぐ議員辞職した潔さだけは特筆できます。それほど「記憶にございません」という言葉を頻繁に耳にし、過ちに対する責任の処し方の不充分な政治家が多いことの証しだと言えます。
過ちに対して必要以上に重い責任を問うつもりはありません。しかし、過ちを繰り返さないためには事実関係を詳らかにした上で、過ちの度合いに見合った責任の処し方が欠かせません。事実関係を認めた率直な反省がなければ、同じ過ちを繰り返していく恐れがあります。
前回記事の中で、属性による決め付けた批判は避け、具体的な事例を紹介しながら、その言動や振る舞いを批判するように努めていることを記していました。日本維新の会に対しても、このような事例は「問題ではないか」という視点をもとに紹介していることを伝えていました。
つい最近の事例では『維新・音喜多氏 「ミャクミャク像」損壊への投稿「万博反対派と決めつけていない」と“弁明”』という話が気になっていました。リンク先のヤフーのコメント欄には次のような意見の投稿を目にしています。私自身の懸念に近いものであり、そのまま紹介します。
「どれだけ万博に反対意見をもっていたとしても」という文言を、「賛成だとしても反対だとしても」の趣旨であると言うのは、「強弁」以外の何ものでもないのでは。謝罪をするのではなく、こうした「強弁」を通そうというのであるのだから、音喜多氏の言葉は信用できない。
維新は吉村知事が先日、「知事には拒否権がないのだから」、玉川氏の万博入場を排除したことにはならないと、ここでも「強弁」した。維新がこうした「強弁」の政党であり、いったん言い出すと、まちがっていても、発言の修正も謝罪もできない危険な政党であることだけは、今回の音喜多氏によって明らかとなったのでは。
日本維新の会については様々な懸念があります。このブログの中で、季刊誌「とうきょうの自治」の連載記事「新着資料紹介」 を担当していることを伝えていました。5月中旬に発行する予定の最新号では『「維新」政治と民主主義』(山口勝己・著 公人の友社 2023年10月刊 )を取り上げています。
先月投稿した記事「会計年度任用職員制度の課題」の中では「私自身の寄稿した内容ですが、許可を得ず、このブログに転載することは控えなければなりません」と記していました。今回、このブログに掲げることを事前に担当の方にお伝えし、了解を得ています。
そのため、初めての試みとして記事タイトルを「新着資料紹介『「維新」政治と民主主義』」としながら季刊誌の発行に先駆け、私が担当した頁の内容全文をそのまま紹介します。文体は「である調」のため、いつものブログの雰囲気とは少し異なるはずです。
この書籍が自治労の機関紙で紹介された時、「新着資料紹介」として取り上げられないものかと考えた。ただ公益法人の季刊誌が政治色を前面に出すことには注意を払うべきだろうという自制心も働いていた。政治手法等を論じる形であれば特段支障はないという助言を得た上で、手にして読み終えた後、ためらいが杞憂だったことに気付かされていた。
著者は大阪市の元職員で労働組合の役員を務めていた。大阪で「維新」政治に真正面から対峙されてきた当事者である。大阪府に橋下徹知事が誕生した以降の「維新」政治に対し、物申したいことが山積しているのだろうと思う。あとがきに「冷静さを欠いた表現も散見される」と記していながらも著書全体を通し、厳しい言葉は抑制的であり、俯瞰した立場で「維新」政治を語られていた。
2回に及ぶ「大阪都構想」を巡る住民投票の問題など具体的な事例が綴られているが、特定の政党や政治家を批判するために上梓した著書でないことが読み進む中で伝わってきた。あくまでも大阪で圧倒的な支持を得ている「維新」の政治手法の是非を考察した著書だと言える。
著書の前半で国内外の動きも伝えながら「維新」政治の15年間を振り返っている。イギリスのEU離脱やアメリカのトランプ大統領誕生の背景と「維新」の躍進に通底するものを示唆されていた。自己の権利を代弁してくれる組織を持たず、自己の権利が労働組合など「既得権益集団」に侵害されていると受け止める層の拡大に対し、既成政党は対応できず、「身を切る改革」を旗印に掲げた「維新」の躍進につながっているという見方である。
歴史的に大阪は、お笑い芸人が参院議員や府知事に選ばれ、「お笑い百万票」と揶揄され、既成政党が弱かった。しかしながらカリスマ的な政治家や政党による「決められる政治」への渇望は、決して大阪特有の問題でないことを著者は危惧している。
意見や利害の対立と分断が深刻化し、容易に妥協点を見出せない中、「決められる政治」の実行力が評価される。しかし、あまりにも拙速で非現実的な政策は結局のところ住民に対して多大な損害を与えかねない。懸念されている問題として、人工島の夢洲を活用する大阪・関西万博やIRカジノが例示されていた。
「維新」政治は選挙で勝利すれば、すべての権力を掌握できるという政治手法である。少数意見の尊重や熟議の軽視、議会のチェック機能の否定につながっている。価値判断が多様化する社会でこそ熟議は重要になり、政治権力の側は価値観を押し付けるべきでなく、多様性を認め合う寛容を旨としなければならない。このような問題意識を著者は強く訴えている。
「分断による統治から信頼でつなぐ自治へ」を副題としている。「維新」政治を地方自治の最終到達点としないためには、賛成か反対かで敵との味方に分断し、敵を論破してその発言権を奪うことで社会を統治する政治と真逆なものをめざさなければならない。信頼関係に基づき対等につながり合い、自己責任の名のもとに他人の苦境に無関心を貫くのではなく、ともに支え合う相互依存のネットワークを重視した自治の必要性を改めて認識させてくれる著書である。
日本維新の会を支持されている方々からは批判を受けてしまう内容なのかも知れません。しかしながら私自身をはじめ、「維新」的な政治手法や具体的な言動に対し、いろいろ危惧を抱いている者が少なくないという主旨で今回のブログ記事も綴っています。あくまでも多面的な情報の一つとしてご理解願えれば幸いです。
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