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2023年9月 2日 (土)

関東大震災から100年

1923年9月1日午前11時58分、激しい揺れに関東地方は襲われました。10万5千人を超える犠牲者を出した関東大震災が発生してから100年という大きな節目を刻んでいます。

2年前には「東日本大震災から10年」という記事を投稿しています。10年という歳月は私自身も含め、その日の出来事を昨日のことのように思い出せます。100年前の関東大震災になると幼少期の実際の経験談として語れる方も皆無に近くなっています。

今年は100年という節目であり、マスメディアが様々な特集を組んでいました。教訓化すべきこと、風化させてはいけないこと、いろいろな思いを巡らす機会となっています。

1973年に発刊された吉村昭さんの『関東大震災』の文庫本も第22刷として書店の新刊コーナーに並べられていました。「関東大震災から100年」というタイトルを付けた当ブログの新規記事は、最近読み終えた吉村さんの著書の紹介を中心にまとめてみるつもりです。

大正12年9月1日、午前11時58分、大激震が関東地方を襲った。建物の倒壊、直後に発生した大火災は東京・横浜を包囲し、夥しい死者を出した。さらに、未曽有の天災は人心の混乱を呼び、様々な流言が飛び交って深刻な社会事件を誘発していく―。20万の命を奪った大災害を克明に描きだした菊池寛賞受賞作。

上記はリンク先に掲げられた著書の紹介文です。最近の報道で地震直後の死者や行方不明者は10万5千人超と数えられています。吉村さんが著書を発刊した当時「犠牲者は10万とも20万とも言われる」と見られていたようです。

著書は、関東大震災の8年前に起こっていた「群発地震」のことから始まります。この連続地震は大地震の前ぶれなのかどうか、「今村説VS大森説」という専門家の対立があったことなどを伝えています。

幅広い切り口から関東大震災を綴った著書の中で、特に興味深かった箇所を紹介します。第6章「本所被服廠跡・3万8千名の死者」の内容が衝撃的でした。2万坪ほどの陸軍省被服廠跡に避難していた人たちに四方から火が襲い、関東大震災による全東京市の死者の55%強に達する3万8千名もの犠牲を生じさせていました。

奇蹟的に生き残られた方の証言が綴られています。地震の後、被服廠跡に避難でき、のんびりとした気分で皆くつろいでいました。「清ちゃん、余り乱暴に歩かないでよ。泥水が簞笥にかかるから…」と隣の家の小母さんから証言者はたしなめられています。

そのような言葉から数時間後には火災旋風に吹き飛ばされ、絶命する危機が迫っていることをまったく想像していなかった様子がうかがえます。簞笥の汚れを気にするどころではない対比の悲劇さを感じ取っていました。

被服廠跡では避難者が家財道具を運び入れていたため、逃げるにも容易に身動きが取れなくなっていました。この著書の中では、多くの避難者が荷物を持って逃げたことで被害を拡大させていた事実を伝えています。消防隊や避難者の移動の妨げになるとともに、その荷物に火が付いて火災が広がっていきました。

火災時に搬出される荷物については江戸時代から危険性が指摘され、処罰規定があったことを知りました。大火の折に避難者の携行する荷物が災害を大きくするという教訓から発せられていましたが、関東大震災ではその経験がまったく生かされていなかったと記されています。

江戸時代の教訓が生かされていなかった事例は他にもありました。防火のために火除原と称された広場や広い道路(広小路)が作られていました。それが無駄な場所だと考えられ、いつの間にか民家で埋められてしまっていました。防火思想が江戸時代より後退していたことが著書の中で指摘されていました。

地震が起きた時、すぐ火元を消すこと、持ち出す荷物は最低限にとどめることなどが関東大震災の後に改めて教訓化されるようになっています。ちなみに最近は自動消火装置の進歩もあり、火を消そうとした時に火傷するリスクを避け、落下物から身を守ることなど、まず自分の身を守ることを優先すべきと言われています。

生死の境をさまよった避難者が平静な精神状態を保つことは困難でした。通信網は壊滅し、情報は他人の口にする話に限られました。人の口から口に伝わる間に、憶測が確実なものであるかのように変形し、突風に煽られた野火のような素早い速さで広がっていきました。

大津波や富士山爆発などの流言は拡大し、朝鮮人襲来という根も葉もない話が恐るべき悲劇を生み出しました。各地で自警団が組織され、何の罪のない多くの朝鮮人が虐殺されました。

朝鮮を日本領土として併合していた時代であり、日本内地に来ている朝鮮人労働者らが内部に激しい憤りを秘めていることを日頃から意識していたため、そのような流言につながりやすくなっていたことが綴られていました。

理不尽な犠牲を強いられたのは朝鮮人だけではありません。方言によって朝鮮人だと疑われて、惨殺された事件も多発していました。1年前にNHK千葉放送局が『99年前の悲劇  知られざる福田村事件  差別を乗り越えるには』という番組を制作しています。

この事件をもとに映画『福田村事件』も作られ、昨日から公開されています。関東大地震の5日後、千葉県福田村に住む自警団を含む100人以上の村人たちによって、香川から訪れた薬売りの行商団15人のうち幼児や妊婦を含む9人が殺されました。行商団は、讃岐弁で話していたことで朝鮮人と疑われました。

この事件は100年近くの間、歴史の闇に葬られていました。リンク先の映画の紹介文には「行き交う情報に惑わされ生存への不安や恐怖に煽られたとき、集団心理は加速し、群衆は暴走する」と記されています。さらに森達也監督は次のように語っています。

特に不安や恐怖を感じたとき、群れは同質であることを求めながら、異質なものを見つけて攻撃し排除しようとする。この場合の異質は、極論すれば何でもよい。髪や肌の色。国籍。民族。信仰。そして言葉。多数派は少数派を標的とする。こうして虐殺や戦争が起きる。悪意などないままに。善人が善人を殺す。人類の歴史はこの過ちの繰り返しだ。だからこそ知らなくてはならない。凝視しなくてはならない。

吉村さんの著書『関東大震災』の話に戻ります。大地震発生後の新聞報道は伝聞をもとにした内容が中心となり、重大な過失を犯しました。朝鮮人来襲に関する記事は庶民を恐怖に陥れ、多くの虐殺事件の発生を促しました。

その結果、記事原稿の検閲を受けなくてはならなくなったと伝えています。新聞の最大の存在意義である報道の自由を失うことにつながり、治安維持を乱す恐れのある記事原稿は、内務省の手で徹底的に発表禁止や削除されるようになりました。

大地震が起こった直後から社会主義者に対する監視や弾圧も強まっていました。著書には「大杉栄事件」「大杉事件と軍法会議」 という章もあり、憲兵隊司令部の甘粕正彦大尉らによって大杉夫妻と6歳の甥まで殺害された事件の経緯や顛末が綴られています。

甘粕大尉の行為は同情の余地のない非人道的なものとして非難されていました。しかしながら一方で、国家利益に反する社会主義者を殺害した愛国的な行為として、甘粕大尉を賞讃し、一般の殺人犯と同列に扱うべきではないと主張する声もありました。

甘粕大尉は懲役15年となり、千葉刑務所に服役して3年後に仮釈放されてフランスに渡った後、満州に赴いていました。満州国成立とともに要職に就き、退官後は満映理事長として活発に行動したと記されています。満州で終戦を迎えた8月20日、青酸カリを飲んで自殺したことも書き添えられています。

震災直後の9月10日、アメリカ軍艦「ブラックホーク」とイギリス軍艦「ホーキンス」が食糧、木材、燃料等を満載にして品川沖に到着しました。この両国とは18年後に戦火を交えることになります。このような国家間の友情が続かなかったことを読み進める中で感慨を深めていました。

全世界の国々から救援物資と金銭が送られてきました。ヨーロッパ各国の船も続々と各港に入る中、例外が一隻だけありました。日本の大災害を知って医師、看護婦を集め、多量の救援物資を積んで駆け付けたソ連汽船「レーニン号」を日本政府は追い返すという判断を下しました。

ソ連から救援を受けることで、日本国内で共産主義に同調する勢力を活気付かせるのではないかと警戒した結果でした。善意を踏みにじった行為であり、ソ連船の乗員らは憤激しましたが、日本政府の戒厳司令部の命令を受け入れ、救援物資を積んだままウラジオストックに引き返していきました。

前回記事「2023年夏、気ままに思うこと」の中で、強固な信頼感があれば「あの人の言っていることだから信じよう」という関係性につながると記しています。信頼関係を築いていれば当時のソ連の善意を日本政府も疑うことはなく、そのまま受け入れていたはずです。

人と人、国と国の間で信頼関係を築くための第一歩として、嘘はつかない、不都合な事実関係も率直に認めるという姿勢が不可欠です。このことを違えると「あの人の言っていることは信じらない」という関係性に陥ることになります。

そのような意味合いから松野官房長官の「朝鮮人虐殺記録ない」という見解は非常に憂慮すべきことです。水曜の記者会見で、関東大震災直後に起きた朝鮮人虐殺について「調査した限り、政府内で事実関係を把握できる記録が見当たらないところだ」と発言されていました。

その2日前の月曜夜の「news23」では、虐殺を目撃した子どもたちが「みんなおとなのひとは てつのぼうをもって ちょうせんせいばつにいきました」などと淡々と作文に残していたことを伝えています。吉村さんの著書でも詳述されているとおり虐殺の事実関係は争うこともできないはずです。

この番組の最後には、横浜市で中学校の教員だった方が「流言やヘイトデマに対する備えが、僕らの社会にどれだけできているかなというのは、問うていかなければいけない。切り捨てることができない虐殺の歴史を見つめ、どう向き合っていくかが、私たちに問われています」と語っています。

たいへん長い記事になっていますが、最後に最近ネット上で目にした二つの記事を紹介します。一つは非常に残念な記事『朝鮮人虐殺の追悼文、今年も送らず  小池都知事、関東大震災の式典で』です。

もう一つは『外国人記者が見た関東大震災からの「奇跡の復興」』という記事で、壊滅状態から復興を遂げた首都の姿を称えています。その姿も20数年後には戦争によって廃墟と化した歴史に思いを巡らしていました。

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