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2023年3月 4日 (土)

ベーシックサービス宣言

前回記事「『安倍晋三 回顧録』と『国策不捜査』 Part2」の最後に、多面的な情報に接していくことの大切さという意味合いを込め、二つの書籍を対比した内容を取り上げたことを書き添えていました。今回の記事「ベーシックサービス宣言」の内容も人によって賛否や評価が分かれる内容となるのだろうと思っています。

組合の執行委員長を退任しましたが、協力委員の一人として続けているため各種集会の参加に際しての呼びかけがあります。現職の委員長時代とは異なり、あくまでも任意な対応でしたが、先日「2023春季生活闘争を成功させる連合三多摩の集い」に参加していました。

その時の記念講演「ベーシックサービス宣言~分かち合いが変える日本社会~」の内容がたいへん興味深く、このブログを通して取り上げてみようと考えていました。講師は慶応義塾大学経済学部の井手英策教授です。リンク先の連合三多摩のサイトで講演内容の要旨を次のようにまとめています。

我が国は、平成の時代に一人当たりGDPは世界4位から26位へ、2人以上世帯の3割、単身世帯の5割で貯蓄がなく、企業時価総額TOP50社のうち日本企業は32社から1社になるなど、発展途上国一歩手前の状況にある。

世界価値観調査によれば、国民みんなが安心して暮らせるよう国は責任を持つべきで、「施し」ではなく「保障」を求めている。世論の93%が自分を中流と回答し、本質は格差の有無ではなく基礎的サービスの利用格差であり、医療・教育・介護等へのアクセス保障にある。

また、ベーシックサービスは、誰もが生存、生活のために必要とするベーシックなサービスで、論理だけではなく対話で決まる。決められたサービスではなく、人間に不可欠なニーズを追い求める「終わりなき対話」であること。

さらに、連合東京が掲げる「クラシノソコアゲ」については、生活の底上げは大切な課題だが新しい発想が必要で、賃金を上げつつ困っている人の生活を支え、誰もが安心できる社会を作ることが求められている。税の使い道を論じることは社会の未来を論じることである。

今回、井手教授による上記内容の講演を伺う機会を得て、ベーシックサービスについて掘り下げてみます。その日の講演内容とともにネット上に掲げられた井手教授の論評等も紹介し、不確かだった私自身の知識を整理する機会につなげていきます。

まず2年前に井手教授が三田論評に寄稿した『「ベーシックインカム」と「ベーシックサービス」』というタイトルを付けた内容からの一文です。一文と述べながら、ほぼ全容の紹介となっています。さらに今回の講演を通して井手教授が訴えられていた主旨の紹介だと言えます。

集会で配られた資料を手元に置いてパソコンに向かっていますが、私自身の言葉で講演内容をまとめるよりも井手教授ご自身の言葉をそのままお伝えしたほうが望ましいものと考えました。決して労力を惜しむ(手を抜く?)訳ではありませんが、ネット上から閲覧できるサイトの内容の転載を中心に今回のブログ記事をまとめていくつもりです。

所得格差はなぜ悪か。それは、生きるため、くらすために必要なサービスを利用できない人を生むからだ。貧乏な家に生まれたという理由だけで病院や大学にいけない社会は理不尽である。理(ことわり)に従って生きるのが学者である以上、僕はそんな社会をだまって見過ごすわけにはいかない。

これが自著『幸福の増税論』のなかで「ベーシックサービス(BS)」を提唱した理由だ。医療・介護・教育・障害者福祉、これらの誰もが必要とする/しうるサービスをBSと定義し、所得制限をつけず、すべての人たちに給付する。つまり、幼稚園や保育園、大学、医療、介護、障害者福祉、すべてを無償化するという提案だ。

これは単なる思いつきではない。近世の共同体では、警察、消防、初等教育、介護といった様々な「サービス」を、全構成員が汗をかきながら、みんなで提供しあってきた。みんなの需要をみんなで満たしあう、この「共同需要の共同充足」の原理を国のレベルで実現するのがBSの基本思想だ。

読者は「ベーシックインカム(BI)」との違いに戸惑うかもしれない。BIは、所得制限をつけずに、すべての人びとに「現金」を給付する。生活保護の申請をためらい貧しさに耐える人たち、申請はしたものの後ろめたさに苦しむ人たちをなくすことができる。

だがこれは、ベーシック、つまり、すべての人を対象とする給付のメリットであって、「インカム」の長所ではない。みんなが大学、病院、介護施設に行けるようになるBSにも同じ効果がある。教育扶助、医療扶助、介護扶助が不要になり、救済される後ろめたさは消え、生きるコストは劇的に軽くなる。

ではなにが違うのか。それは、「実現可能性」だ。昨年の特別定額給付金を思いだそう。一律10万円の給付は13兆円の予算を必要とした。一方、一昨年の幼保無償化は約9000億円。BIと違ってBSは必要な人しか使わないからはるかに低コストですむのだ。

母1人、子1人の「ひとり親世帯」を考えてみたい。13兆円あれば、年間20万円のBIが給付できる。だが、大学の授業料は、平均400万円。20年貯蓄してやっと1人分の学費になる計算だ。いらない人にも現金は配られる。幼稚園と大学を出た人は、再び入り直すことはない。この差が巨額の財源の差となって跳ねかえってくる。

BSならこうなる。大学、介護、障害者福祉を無料にし、医療費の自己負担も現状の3割から2割に下げる。住宅手当を創設し、月額2万円を全体の2割、1200万世帯に給付し、リーマン危機時に350万人に達した失業者を念頭に月額5万円を給付する。これで13兆円だ。最低生活保障を徹底しながら、全体の生存・生活コストを思い切って軽減する政策と、富裕層にも10万円配る政策、どちらが合理的だろうか。

ILOはBIを実施すれば、GDPの2~3割のコストがかかると公表した。実際、月額7万円の給付を行えば、それだけで国の予算とほぼ同じ100兆円の財源が必要となる。消費税なら税率が45%に跳ねあがる。既存の社会保障をBIに置きかえるのはどうか。

医療費や介護費は10割自己負担になる。年金も消失して7万の給付に変わり、生活保護は12万円から7万円にさがるかもしれない。では、毎年100兆円を借金する案は? 急激な円安が進み、ハイパーインフレという「見えない増税」が次世代を直撃するだろう。

BSの無償化なら、消費税を6%引きあげるだけですむ。100円のジュースは、現在の110円から116円になる。代わりに、すべての人びとが生活不安から解放される社会になる。財政を危機に陥らせてまで金を配り、自由の名のもとに自己責任を押しつける社会ではなく、連帯し、痛みを分かちあいながら、自分と他者の幸福を調和させる、そんな人間の顔をした、分厚い社会を生みだすことができる。

上記の説明でベーシックサービスの要旨と必要なコストの概要が理解できます。警察や消防にかかる費用が無償であるという例示によって、ベーシックサービスの主旨がイメージしやすくなります。井手教授はベーシックサービスの範囲は固定せず、終わりなき対話で決めていくべきものと訴えています。

ベーシックサービスには基本的に所得制限を設けません。必要な基礎的サービスは誰もが平等に利用でき、アクセスを保障されていることが重要です。このことによって社会的な支え合いや寛容さを引き出していけるものと井手教授は考えています。

所得制限のないサービス提供のあり方は、貧しいから施しを受けているという負い目を持たせない「品位ある最低保障」だと言えます。井手教授の講演資料の中には「人間を救済の屈辱から解放し、万人の尊厳を平等化するという哲学」という言葉が掲げられています。

医療費の自己負担をなくすと病院の待合がサロン化するという見方があることに対し、井手教授は高齢者が気軽に集える場作りを別な次元の問題として考えるべきものと一蹴しています。いずれにしてもベーシックサービスを拡充するためには財源の問題を議論していかなければなりません。

東洋経済ONLINEもはや日本が「消費増税」から逃げられない理由 「普通に働く」中流階級こそ社会保障が必要だ』という見出しの記事の中で、井手教授が財源の問題を語っています。こちらは端的な箇所の紹介にとどまりますが、ぜひ、興味を持たれた方はリンク先の内容の全文をご参照ください。

問題は財源だ。一方では、借金または通貨を増やせばよいという立場がある。他方では、税に財源を求める立場がある。はやりの「現代の貨幣理論(MMT)」はまさに前者の立場だが、この理論の現実への適用には疑問が多い。

僕たちは公共投資と減税を散々やってきた。平成の間に160兆円から870兆円へと公債残高は増えたが、その結末は「平成の貧乏物語」ともいうべき所得水準の低下だった。財政支出の拡大=経済成長という前提が成立するのか。いや、それ以前の問題として、どのくらいの規模の財政出動を想定しているのかもよくわからずに議論が前のめりになっている。

4年前の記事ですが、井手教授の主張は一貫しています。今回の講演の中でも「財政が破綻しないから通貨を増発すればよいという主張も奇妙だ」とし、MMTの問題性を説明されていました。ちなみに安倍元総理や菅前総理らはMMTの影響を受け、財政健全化の必要性を繰り返す財務省を疎んじていたようです。

税を語れば嫌われる。僕だって嫌われたくない。だが、先の北欧の例でもわかるように、税の使い道を徹底的に議論すれば、より幸福な社会を実現することはできる。だからこそ、僕は消費税を柱としながら、これを所得税の累進性強化、減税続きの法人課税の復元、金融資産や相続財産への課税強化、逆進性の強い社会保険料の改正等で補完する方向性を示してきた。

しんどいのは、左派野党を中心に消費税への反発が強いことだ。ここでも僕は孤立することとなる。だが、ライフ・セキュリティを本気で行おうと思うのなら、消費税は外せない。

消費税を1%引き上げると2.8兆円の税収があがる。一方、1237万円超の所得税率を1%上げても1400億円程度の税収しか生まない。あるいは法人税率を1%上げても5000億円程度の税収に止まるのが現実だ。

上記も東洋経済の記事の中に掲げられていた井手教授の問題意識です。今回の講演の中でも井手教授は、消費税の減税を公約に掲げる野党側の姿勢に警鐘を鳴らしています。昨年12月に井手教授が野田元総理にインタビューした時の記事の中で、次のような言葉で現在の政治状況を憂慮されています。

今の政治を見ていて感じるのが、エクストリーミズム(極端主義)です。参政党であったり、一方でれいわ新選組だったり。立憲民主でも、維新でも、自民でも、MMT(現代貨幣理論)的なばらまきをよしとする人、消費減税さえ言っていれば選挙に勝てると思う人。すごく極端です。

ですが、政治の本質は、むしろ正しい中庸を探していくことではないのか。100%健全財政で、取った税金はすべて借金返済に充てるというのは極端。税金なんか取らないでばらまきまくろうというのも極端。でも、健全財政主義者やリベラルな人たちの極端な主張に引きずられて、あるべき中庸の姿がなかなか見えてこない。

先月投稿した記事「政策実現と財源問題」の中で、以前の記事「消費税引き上げの問題」に記しているとおり私自身は消費税の引き上げの必要性を認めている立場であることを明らかにしています。先月の記事の最後には、立憲民主党の枝野前代表が消費減税の訴えは「間違いだった」と言及したことも伝えていました。

そもそも枝野前代表は2年前の記事「スガノミクスと枝野ビジョン Part2」で伝えているとおり病気や介護、子育てのサポートなど誰の人生にも起こりうるリスクに対し、「弱者だから」ではなく、「必要だから」サポートするという発想に改めることを提起していました。

この発想は井手教授が推奨されているベーシックサービスの考え方に合致しているものだと言えます。ただ2年前の衆院選に向けて枝野前代表は、消費税の減税について「緊急時の時限的な対応」という条件を前提に全否定するものではないと説明していました。

冒頭で述べたとおり今回の記事内容は、人によって賛否や評価が大きく分かれるものと思っています。財源の問題、特に消費税に対する考え方は、いわゆる左や右の立場を問わず激しい議論となるのかも知れません。井手教授は持論の正しさを信じている方ですが、決して結論を押し付けようとしている訳ではありません。

私たちはそういう議論をしたのか、ということです。いつ、誰がその議論をしたのか分からないままに今まできている」という問題提起を重ねています。井手教授は賃上げを求める労働組合にエールを送りながら、誰もが安心して生きられる社会作りに向け、連合の掲げる「クラシノソコアゲ」の意味を考えていって欲しいと問いかけています。

講演資料の最終頁に掲げられていた「〈乱暴〉と〈冷淡〉の中庸にある〈分かち合い〉」という言葉の説明もありました。MMTのような〈乱暴〉 な発想ではなく、財政規律を主眼とした消費増税を企図する財務省のような〈冷淡〉 ではなく、政治的な中道路線とは異なる意味合いでの中庸にある〈分かち合い〉 の必要性を説き、ベーシックサービスを宣言することで日本社会を変えたいという言葉で講演を締められていました。

井手教授の論評等が掲げられたサイトの内容も転載してきましたので、いつも以上に長い記事となっています。ベーシックサービスという非常に重要な考え方をはじめ、賛否の割れる財源問題について情報拡散や一石を投じる機会としていました。最後までご覧いただいた方には心から感謝しています。ありがとうございました。

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