放送法での政治的公平性 Part2
月曜から新型コロナ対策のマスク着用が緩和されています。ただ今のところ外している方のほうが少なく、これまでの日常の風景に大きな変化は見られていません。火曜には東京で桜の開花が気象庁から発表されました。観測史上1位タイの早さの開花宣言です。こちらも今のところ私が毎朝通る桜並木に変化はなく、まだ冬景色のままです。
このブログを次回更新する来週末には春の訪れを実感している頃なのかも知れません。木曜夜にはWBCの準々決勝があり、日本代表はイタリアを撃破し、アメリカに渡っています。季節の移ろいを感じ始めていく来週末までに3大会ぶりの優勝を見届けられることを願っているところです。
「日記・コラム・つぶやき」をカテゴリーとしているブログですので、このような話題だけでまとめても良いのかも知れませんが、今回も堅苦しい「放送法での政治的公平性 Part2」という記事タイトルを付けてパソコンに向かっています。
前回の記事では、2018年4月の記事「放送法第4条撤廃の動き」で取り上げたような問題まで掘り下げるつもりでした。結局、高市大臣のことだけで相当な長さとなっていましたので、続きを今回「Part2」として書き進めていきます。ちなみに放送法第4条「国内放送等の放送番組の編集等」第1項の条文は次のような内容です。
第4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
- 公安及び善良な風俗を害しないこと。
- 政治的に公平であること。
- 報道は事実をまげないですること。
- 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
第4条の第2項は視覚障害者や聴覚障害者に対する可能な限りの配慮を求めたものであり、2018年当時も今回も第1項の第2号に掲げられている「政治的に公平であること」の是非や解釈の問題が大きな論点となっています。
放送法は、太平洋戦争時に戦意高揚のための政府宣伝にラジオが使われた反省から1950年に制定されたという経緯があります。政治的に公平であるという意味は国家権力から縛られず、批判すべき点があれば率直に批判できる立場性を保障したものだと言えます。政権にとって都合の良い情報だけを流す宣伝機関とならず、国民が時の政権を正当に評価するため、幅広い情報を提供していくという公益性が放送事業者には求められています。
アメリカでは1987年にメディアに対する「公平原則」が廃止され、それ以降、各局の政治的な立ち位置が顕著になっています。「政治的に公平であること」の規制を外しているため資金力のあるメディア企業が情報を統制できる力を持ち、実際にトランプ前大統領を肩入れしたニュースが複数の番組で一斉に放映されたこともあります。
今回、総務省の行政文書を通し、礒崎陽輔元総理補佐官が特定の番組を問題視していたことが明らかになっています。自分たちが進める政策や考え方に批判的な番組は偏向しているという発想のもとに放送法のあり方について、いろいろ疑義を示してきた安倍政権時代の内情の一端を裏付ける文書の存在だったものと思っています。
「放送法第4条撤廃の動き」を投稿した直前の2018年3月には「精神的自由と経済的自由」というタイトルの記事内容を当ブログで取り上げていました。 その中で「現政権は表現の自由に対し、意図的なのか、自覚が不足しているのか、 メディアが自己規制してしまうような振る舞いも目立っています」と記し、次ような話も伝えていました。
そもそも安倍首相は「(出演した報道番組の中で)私の考えをそこで述べるのは、まさに言論の自由だ」と言い切っています。この件で国会質問を受けた際、安倍首相は「番組の人たちは、それぐらいで萎縮してしまう。そんな人たちなんですか? 情けないですね」という反論を加えています。表現の自由や言論の自由は国民に与えられている権利であり、権力者である安倍首相はそれらの権利を保障させていかなければならない立場です。
その2年前の2016年5月には「報道の自由度、日本は72位」という記事を投稿しています。世界報道の自由度ランキングで民主党の鳩山政権時の2010年は11位であり、それ以降、毎年順位を下げ続けていました。このような結果に対し、下記のような背景があることを記していました。
特定秘密保護法などの影響で「自己検閲の状況に陥っている」と見られているようです。さらに高市総務大臣の「テレビ局が政治的公平性を欠く放送を繰り返した場合、電波停止を命じることができる」という趣旨の国会答弁を行なったことも問題視されています。
そもそも放送法第4条の「政治的に公平であること」という条文は放送局の倫理規定だと言われ、この条項に対する直接的な罰則規定はないと解釈されています。放送局が番組全体で多様な意見を伝えながら政治的公平性のバランスを取るべきであり、一つの番組の中での発言を取り上げて電波停止が示唆されるようであれば言論統制という批判も的外れとは言えなくなります。
2016年当時の記事の中で、今回取り沙汰されている放送法第4条の政治的公平性について上記のような問題意識を示していました。ディリー新潮の記事『【「高市vs.小西」文書捏造問題】本当の「犯人」は既得権益を守りたい官僚ではないのか』の中で、報道の自由度で日本が世界全体の72位だと評価されたことについて早稲田大学の有馬哲夫教授は「安倍政権がニュースに圧力をかけたからだ」という批判はピント外れだと指摘しています。
政府機関である総務省が、放送法第4条の公平原則に反した放送局に「停波措置をとることができる」と定めている点が最も本質的な問題であると有馬教授は説明しています。しかし、鳩山政権当時は11位だったことをどのように解釈しているのかどうか、有馬教授の説明の中では明らかにされていませんでした。
ディリー新潮の記事で有馬教授は、高市経済安全保障担当大臣が「捏造だ」と強弁していたことに対して一定の理解を示し、総務省側の行政文書の問題性を指摘しています。現代ビジネスの記事『小西洋之議員が公表した「放送法文書」は“捏造”なのか…? その信憑性について考えてみる』も同じように小西参院議員や総務省側に問題があるという立場で綴られています。
メディアや筆者それぞれの立場性があり、報道の自由や言論の自由が守られていくことこそ健全な民主主義社会の礎となるものです。政権を擁護する立場の意見があって当たり前であり、同時に政権側にとって耳の痛い批判意見も広く発信できる社会でなければなりません。このブログでは下記のような問題意識を訴え続けています。
物事を適切に評価していくためには、より正確な情報に触れていくことが欠かせません。誤った情報にしか触れていなかった場合は適切な評価を導き出せません。また、情報そのものに触れることができなかった場合、問題があるのか、ないのか、評価や判断を下す機会さえ与えられません。
今回、放送法での政治的公平性のあり方が改めて問われる機会となっています。「一つの番組ではなく、その放送事業者の番組全体を見て判断をする」と政府は説明してきましたが、2015年に総務相だった高市大臣は国会質疑で「一つの番組のみでも極端な場合は、政治的公平を確保しているとは認められない」と答弁していました。
岸田総理は当時の高市大臣の答弁を「解釈変更ではなく、補充的説明だった」と強調しています。さらに違反した放送局に対する電波停止命令については「極めて慎重な配慮の下で運用すべきだと従来説明され、一貫して維持されている」とし、「放送事業者にプレッシャーをかけ続けているとの指摘は当たらない」と語っています。
実際、その通りなのかどうか、あるいは徐々に放送事業者側が萎縮し、自己規制に走っているのかどうか人によって見方は分かれるのかも知れません。ただ安倍元総理や礒崎元補佐官から名指しで批判されていた『サンデーモーニング』は従前のスタイルを変えずに続いています。
『総務省文書で名指しされた『サンモニ』出演の青木理氏 政権からの敵視は「番組にとって名誉」なこと』『放送法「政治的公平文書」で名指しの『サンモニ』関口宏が「権力者がメディアの解釈を間違ってたんじゃないか」変わらぬ姿勢に寄せられる応援』という記事を目にしていますが、視聴率が低迷している番組だった場合、打ち切りの対象になっていたのかも知れません。
今回、総務省が「解釈変更」に至った経緯として、礒崎元補佐官が総務官僚らに密室で不当な圧力をかけたという事実関係なども問題視されています。さらに「ただじゃすまないぞ」「首が飛ぶぞ」などというパワハラ発言は、もっと厳しい批判にさらされるべき不穏当な言動だったはずです。
それが高市大臣の捏造発言や議員辞職の問題のほうに大きな注目が集まっていたため、礒崎元補佐官の存在が霞んでいました。もしかすると礒崎元補佐官自身、このような展開に安堵されているのではないでしょうか。
経産官僚だった古賀茂明さんは 「I am not Abe」を掲げた以降、テレビ番組で見かけることがなくなっています。この顛末に対する評価も人によって分かれているはずです。古賀さんは週刊朝日に『高市辞職より報道の自由の本質論を』という記事を寄稿していますが、基本的にはその通りだと思っています。
国民民主党の玉木代表は高市大臣への追及を強める立憲民主党の姿勢を疑問視しながら「争点がずれている。政治的な圧力で解釈が歪められ、自由な放送ができなくなったかどうかが本質だ」と述べていました。本質論で言えばその通りですが、高市大臣の言動そのものも大きな問題をはらんでいるため、同時に追及していくべき論点だと理解しています。
立憲民主党の杉尾秀哉参院議員との質疑の中で、高市大臣は「信用できないなら質問しないで」と発言しています。この発言に対しては『高市大臣ますます逆切れ暴走…最大NGワード「質問するな!」を放ち、自民党内でも大ブーイング』という記事のとおり政権与党内でも、ますます高市大臣は浮いた存在になりつつあるようです。
この時の答弁でも「放送法の政治的公平に関するレクは受けていない」と主張し、文書の中でレクに同席したとされる大臣室の事務方二人も「絶対にないと言ってくれている」と高市大臣は明らかにしています。それに対し、総務省側は高市大臣の説明と異なる聞き取り結果を示しています。今回の記事も長くなっていますので、ここで一区切り付けますが、総務省の行政文書の問題は今後の推移を見守りながら改めて取り上げることになるのかも知れません。
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