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2023年3月25日 (土)

受けとめ方の落差

前回記事「放送法での政治的公平性 Part2」の冒頭に「季節の移ろいを感じ始めていく来週末までに3大会ぶりの優勝を見届けられることを願っているところです」と記していましたが、WBCで日本代表は14年ぶり3度目の優勝を果たすことができました。

準決勝で村上選手がサヨナラ打を放った瞬間、思わず目頭が熱くなりました。残念ながら翌日の決勝戦は仕事を休めず、リアルタイムで優勝に向けた瞬間の感動を味わうことができませんでした。それでも夜の録画放送などを通し、大谷選手らの奮闘ぶりを目に焼き付けています。

さて、前回記事の最後には「総務省の行政文書の問題は今後の推移を見守りながら改めて取り上げることになるのかも知れません」と記していました。今回の記事はタイトルに掲げた「受けとめ方の落差」という切り口から総務省の行政文書に絡む問題に対し、いろいろ思うことを書き進めていくつもりです。

今回もネット上に掲げられたサイトの記事の見出しにリンクをはりながら様々な情報や考え方を拡散する機会としていきます。まず選挙ドットコムちゃんねるまとめの記事『放送法第4条「政治的公平」とは?高市大臣発言はどこが問題?』を紹介します。その中でジャーナリストの津田大介さんは次のように解説しています。

彼女が立場を変えた時に、どうして彼女が立場を変えざるをえなかったのかを想像することは大事だなって。僕は問題だと思うし辞任すべきだと思うけれど、彼女も政治的な大きな圧力の中で巻き込まれた当事者だっていうところもある。

どうして高市大臣が捏造だと言ったのかと問われた際、津田さんは「安倍さんの真似をしたんじゃないですかね。安倍さんが森友の時にそれやって、あのたんかがかっこいいからと思ったのか…あれ言わなければこんな問題になってないですよね。まだわからないんで、どこまで本物なのか精査して確認して対処いたしますくらいにしていれば、こんなことにならなかったはずなんで」と答えています。

最も重要な論点は放送法の解釈が不当な政治的な圧力によって、ねじ曲げられたのかどうかであり、高市大臣の不用意な発言で本質的な議論から遠ざかりがちなことを憂慮しています。共同通信の総務省、文書捏造なかったと結論 放送法「安倍氏に説明」』の報道による事実関係は次のとおりです。

総務省は22日、放送法の「政治的公平」の解釈を巡る行政文書について最終的な調査結果を発表し、捏造があったとは「考えていない」との見解を示した。2015年に、担当局長が当時の高市早苗総務相に対し、政治的公平の解釈を説明したとの記載がある文書に関し、放送に絡む何らかの「レクがあった可能性が高い」と指摘した。

ただ、高市氏の15年の国会答弁前に解釈に関連する説明をしたかどうかは確認できなかったと結論付けた。調査結果では、礒崎陽輔元首相補佐官が「(政治的公平の解釈を巡る)この問題について、安倍晋三元首相にレクをした事実はある」と証言したことを明らかにした。

高市大臣は当初「文書自体が捏造だ」と言い切っていました。行政文書としての存在が明らかになった以降は「自分自身に関わる内容が不正確である」という言い方に変えています。不正確な一つとして「大臣レク自体なかった」と説明しています。しかし、その指摘自体も高市大臣の思い違いであるようです。

前々回記事の中でも記したとおり自分自身の経験則で言えば記憶は当てになりませんが、記録を読み返せば事実関係を思い出すことができます。実際、徴税吏員という職務を通して大勢の方々と面談し、その都度、相談内容の記録を残しています。1週間前にお会いした方だったとしても、その時のやり取りを思い出せないことのほうが専らです。

それでも記録を読み返すことで相談内容を思い出すことができます。万が一、すべて明解に思い出せなかったとしても、その時の記録内容に沿って新たな相談や今後の対応方針について判断していくことになります。相談内容の記録は担当者以外の徴税吏員も確認できるシステムとしています。

担当者が不在の時に突然来庁された方に対し、前回の相談内容を踏まえて対応できるような仕組みとなっています。したがって、当たり前なことですが、相談内容は正確に記録しなければなりません。上司の決裁が必要な文書ではなく、あくまでもメモという扱いですが、なかったことをあったことのように書くことなどあり得ません。

ただ録音している訳ではなく、すべて速記録のように残せていませんので、会話した内容の一字一句が記録された完璧なメモではありません。言い回しや表現の仕方が異なり、担当者が意訳することで結果的に発言した当事者の意図を充分くみ取れていない場合も生じているのかも知れません。

しかし、前述したとおり右か左か、◯か✕か、事実関係を真逆に歪曲や捏造することは絶対あり得ません。ちなみに聞き取った病名について正確にメモできなかった場合などは、あえて具体的な病名は記録に残さないようにしています。もちろん病気だったという事実関係は書き残しておきます。

このような自分自身の経験則に照らし、総務省のホームページから「厳重取扱注意」とされた問題の文書全文を閲覧していました。細かな経緯や個々の発言内容に多少差異があっても、そこに書かれた内容は大筋で間違いないものだろうと受けとめています。そもそも内部文書の内容を総務省側に偽る必要性がないため、高市大臣の記憶のほうが曖昧なのだろうと推測していました。

しかしながら日刊ゲンダイの記事『高市氏が“話を盛る”たび議論は脇道へ…総務省の新証言で「水掛け論」に終止符を』のとおり高市大臣は自分自身に関わる内容に対する不正確さを訴え続け、夕刊フジは『放送法文書問題めぐり「濡れ衣晴らす」高市早苗氏が大反撃』という動きを伝えています。

高市氏は24日発売の月刊誌「WiLL」に「『捏造』です! 事実に二つなし」という独占手記を発表し、「月刊Hanada」では「『小西文書』は絶対に捏造です」という独占インタビューを受けている。

「月刊Hanada」のインタビューで、高市氏は「私が言わないことが数多く書かれている極めておかしなメモ」「(メモの)配布先から事務次官や大臣室が外され(中略)不正確な内容が保存されていることを知る術もなく、抗議することも不可能」「(自身が登場する)文書は捏造されたものである、と自信を持っています」などと、計10ページにわたって詳細に説明している。

今回の放送法文書問題をどう見るか。官僚組織に詳しいジャーナリストの石井孝明氏は「そもそも、最大の焦点だった『放送法の解釈変更』という点は、松本剛明総務相が『(当時の)高市大臣の答弁は、従来の解釈を変更するものとは考えておらず、放送行政を変えたとは認識していない』(16日、衆院総務委員会)と否定している。審議の焦点があいまいで、高市氏は政争に巻き込まれた印象がある。

一方、政府・自民党の沈黙も謎だ。安倍元首相亡き後、『触らぬ神にたたりなし』という雰囲気が漂っているのか。ただ、ネット世論は『高市氏擁護』の意見が強い。月刊誌での反撃開始は、こうした世論を盛り上げるのではないか」と分析している。

「高市大臣は政争に巻き込まれた印象がある」と語られていますが、たいへん違和感のある見方です。『高市早苗氏「濡れ衣を晴らす絶好の機会」テレビ入り予算委員会で「挙手しても答弁させて頂けず」』という報道もありますが、捏造でなければ辞任するという軽率な発言さえなければ今回の問題の主役は礒崎陽輔元総理補佐官だったはずです。

当初、放送法の解釈を変更することに慎重だった高市大臣が官邸側のシナリオ通り「一つの番組のみでも極端な場合は、政治的公平を確保しているとは認められない」と国会答弁することに至った経緯に対し、上記に紹介した津田さんの「彼女も政治的な大きな圧力の中で巻き込まれた当事者」という言葉につながっているものと理解しています。

このような経緯があったことから目をそらすため、あえて脇道に誘導しているとしたら非常にしたたかな戦略家だと思います。本当に記憶を思い出せないままだとしたら重責を担い続けていくことを不安視しなければなりません。思い出しているけれども振り上げた拳を下げられず、意固地になっているとしたら最悪な話だと言えます。

私自身、総務省の文書の内容が大筋で間違いなく、少し正確性を確認できないという説明は実際の経験則に照らせば、あり得る幅の問題だと思っています。加えて、総務省側が断定した言い方を控えがちな傾向は、ある意味で高市大臣の面子を配慮しているようにも見えがちです。

しかし、高市大臣の言い分が100%正しいという前提に立った場合、この問題の受けとめ方は激変するようです。NEWSポストセブンの記事『高市早苗大臣の放送法文書問題 岩盤保守層の支持失うのを恐れて岸田首相は更迭できず』では、安倍元総理を信奉されている方々から高市大臣が根強い支持を受けていることを伝えています。

FLASHはそのような岩盤支持層を意識した立場で立憲・小西議員「極秘文書」でツイート炎上 管理簿に存在しない状況めぐり「だからこそ極秘」「怪文書?」分かれる意見高市大臣を「公開説教」の末松参院予算委員長「議会人かくあるべし」「立憲にも同じことを」賛否沸騰』という記事を発信しています。

特に厳格な管理を要する行政文書の取扱い等に関するマニュアル(概要)』に沿った行政文書だからこそ「提供者はこの文書を使って違法な解釈を廃絶し、言論の自由と民主主義を守って欲しいとの思いで私に託してくだった」と小西議員は説明しています。それに対し、管理簿に記載されないような怪文書など信頼できないという批判の声が上がっています。

今回の記事タイトル「受けとめ方の落差」は上記のような現状を焦点化したもので、痛いニュースというサイトの『【悲報】小西議員のTwitterリプ欄で有志が2択アンケート 驚きの投票結果が…』では圧倒多数が高市大臣を支持し、小西議員の言動を痛烈に批判した結果を伝えています。

確かに私自身の見立てが誤りだった場合、高市大臣に対してたいへん失礼な言葉を発していたことを猛省しなければなりません。いずれにしても重要な論点は放送法での政治的公平性のあり方についてです。ぜひとも今後、総務省の行政文書に綴られている事実関係が明らかになり、より建設的な議論につながっていくことを切望しています。

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2023年3月18日 (土)

放送法での政治的公平性 Part2

月曜から新型コロナ対策のマスク着用が緩和されています。ただ今のところ外している方のほうが少なく、これまでの日常の風景に大きな変化は見られていません。火曜には東京で桜の開花が気象庁から発表されました。観測史上1位タイの早さの開花宣言です。こちらも今のところ私が毎朝通る桜並木に変化はなく、まだ冬景色のままです。

このブログを次回更新する来週末には春の訪れを実感している頃なのかも知れません。木曜夜にはWBCの準々決勝があり、日本代表はイタリアを撃破し、アメリカに渡っています。季節の移ろいを感じ始めていく来週末までに3大会ぶりの優勝を見届けられることを願っているところです。

「日記・コラム・つぶやき」をカテゴリーとしているブログですので、このような話題だけでまとめても良いのかも知れませんが、今回も堅苦しい「放送法での政治的公平性 Part2」という記事タイトルを付けてパソコンに向かっています。

前回の記事では、2018年4月の記事「放送法第4条撤廃の動き」で取り上げたような問題まで掘り下げるつもりでした。結局、高市大臣のことだけで相当な長さとなっていましたので、続きを今回「Part2」として書き進めていきます。ちなみに放送法第4条「国内放送等の放送番組の編集等」第1項の条文は次のような内容です。

第4条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。

  1. 公安及び善良な風俗を害しないこと。
  2. 政治的に公平であること。
  3. 報道は事実をまげないですること。
  4. 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

第4条の第2項は視覚障害者や聴覚障害者に対する可能な限りの配慮を求めたものであり、2018年当時も今回も第1項の第2号に掲げられている「政治的に公平であること」の是非や解釈の問題が大きな論点となっています。

放送法は、太平洋戦争時に戦意高揚のための政府宣伝にラジオが使われた反省から1950年に制定されたという経緯があります。政治的に公平であるという意味は国家権力から縛られず、批判すべき点があれば率直に批判できる立場性を保障したものだと言えます。政権にとって都合の良い情報だけを流す宣伝機関とならず、国民が時の政権を正当に評価するため、幅広い情報を提供していくという公益性が放送事業者には求められています。

アメリカでは1987年にメディアに対する「公平原則」が廃止され、それ以降、各局の政治的な立ち位置が顕著になっています。「政治的に公平であること」の規制を外しているため資金力のあるメディア企業が情報を統制できる力を持ち、実際にトランプ前大統領を肩入れしたニュースが複数の番組で一斉に放映されたこともあります。

今回、総務省の行政文書を通し、礒崎陽輔元総理補佐官が特定の番組を問題視していたことが明らかになっています。自分たちが進める政策や考え方に批判的な番組は偏向しているという発想のもとに放送法のあり方について、いろいろ疑義を示してきた安倍政権時代の内情の一端を裏付ける文書の存在だったものと思っています。

放送法第4条撤廃の動き」を投稿した直前の2018年3月には「精神的自由と経済的自由」というタイトルの記事内容を当ブログで取り上げていました。 その中で「現政権は表現の自由に対し、意図的なのか、自覚が不足しているのか、 メディアが自己規制してしまうような振る舞いも目立っています」と記し、次ような話も伝えていました。

そもそも安倍首相は「(出演した報道番組の中で)私の考えをそこで述べるのは、まさに言論の自由だ」と言い切っています。この件で国会質問を受けた際、安倍首相は「番組の人たちは、それぐらいで萎縮してしまう。そんな人たちなんですか? 情けないですね」という反論を加えています。表現の自由や言論の自由は国民に与えられている権利であり、権力者である安倍首相はそれらの権利を保障させていかなければならない立場です。

その2年前の2016年5月には「報道の自由度、日本は72位」という記事を投稿しています。世界報道の自由度ランキングで民主党の鳩山政権時の2010年は11位であり、それ以降、毎年順位を下げ続けていました。このような結果に対し、下記のような背景があることを記していました。

特定秘密保護法などの影響で「自己検閲の状況に陥っている」と見られているようです。さらに高市総務大臣の「テレビ局が政治的公平性を欠く放送を繰り返した場合、電波停止を命じることができる」という趣旨の国会答弁を行なったことも問題視されています。

そもそも放送法第4条の「政治的に公平であること」という条文は放送局の倫理規定だと言われ、この条項に対する直接的な罰則規定はないと解釈されています。放送局が番組全体で多様な意見を伝えながら政治的公平性のバランスを取るべきであり、一つの番組の中での発言を取り上げて電波停止が示唆されるようであれば言論統制という批判も的外れとは言えなくなります。

2016年当時の記事の中で、今回取り沙汰されている放送法第4条の政治的公平性について上記のような問題意識を示していました。ディリー新潮の記事『【「高市vs.小西」文書捏造問題】本当の「犯人」は既得権益を守りたい官僚ではないのか』の中で、報道の自由度で日本が世界全体の72位だと評価されたことについて早稲田大学の有馬哲夫教授は「安倍政権がニュースに圧力をかけたからだ」という批判はピント外れだと指摘しています。

政府機関である総務省が、放送法第4条の公平原則に反した放送局に「停波措置をとることができる」と定めている点が最も本質的な問題であると有馬教授は説明しています。しかし、鳩山政権当時は11位だったことをどのように解釈しているのかどうか、有馬教授の説明の中では明らかにされていませんでした。

ディリー新潮の記事で有馬教授は、高市経済安全保障担当大臣が「捏造だ」と強弁していたことに対して一定の理解を示し、総務省側の行政文書の問題性を指摘しています。現代ビジネスの記事小西洋之議員が公表した「放送法文書」は“捏造”なのか…? その信憑性について考えてみる』も同じように小西参院議員や総務省側に問題があるという立場で綴られています。

メディアや筆者それぞれの立場性があり、報道の自由や言論の自由が守られていくことこそ健全な民主主義社会の礎となるものです。政権を擁護する立場の意見があって当たり前であり、同時に政権側にとって耳の痛い批判意見も広く発信できる社会でなければなりません。このブログでは下記のような問題意識を訴え続けています。

物事を適切に評価していくためには、より正確な情報に触れていくことが欠かせません。誤った情報にしか触れていなかった場合は適切な評価を導き出せません。また、情報そのものに触れることができなかった場合、問題があるのか、ないのか、評価や判断を下す機会さえ与えられません。

今回、放送法での政治的公平性のあり方が改めて問われる機会となっています。「一つの番組ではなく、その放送事業者の番組全体を見て判断をする」と政府は説明してきましたが、2015年に総務相だった高市大臣は国会質疑で「一つの番組のみでも極端な場合は、政治的公平を確保しているとは認められない」と答弁していました。

岸田総理は当時の高市大臣の答弁を「解釈変更ではなく、補充的説明だった」と強調しています。さらに違反した放送局に対する電波停止命令については「極めて慎重な配慮の下で運用すべきだと従来説明され、一貫して維持されている」とし、「放送事業者にプレッシャーをかけ続けているとの指摘は当たらない」と語っています。

実際、その通りなのかどうか、あるいは徐々に放送事業者側が萎縮し、自己規制に走っているのかどうか人によって見方は分かれるのかも知れません。ただ安倍元総理や礒崎元補佐官から名指しで批判されていた『サンデーモーニング』は従前のスタイルを変えずに続いています。

総務省文書で名指しされた『サンモニ』出演の青木理氏 政権からの敵視は「番組にとって名誉」なこと』『放送法「政治的公平文書」で名指しの『サンモニ』関口宏が「権力者がメディアの解釈を間違ってたんじゃないか」変わらぬ姿勢に寄せられる応援』という記事を目にしていますが、視聴率が低迷している番組だった場合、打ち切りの対象になっていたのかも知れません。

今回、総務省が「解釈変更」に至った経緯として、礒崎元補佐官が総務官僚らに密室で不当な圧力をかけたという事実関係なども問題視されています。さらに「ただじゃすまないぞ」「首が飛ぶぞ」などというパワハラ発言は、もっと厳しい批判にさらされるべき不穏当な言動だったはずです。

それが高市大臣の捏造発言や議員辞職の問題のほうに大きな注目が集まっていたため、礒崎元補佐官の存在が霞んでいました。もしかすると礒崎元補佐官自身、このような展開に安堵されているのではないでしょうか。

経産官僚だった古賀茂明さんは 「I am not Abe」を掲げた以降、テレビ番組で見かけることがなくなっています。この顛末に対する評価も人によって分かれているはずです。古賀さんは週刊朝日に『高市辞職より報道の自由の本質論を』という記事を寄稿していますが、基本的にはその通りだと思っています。

国民民主党の玉木代表は高市大臣への追及を強める立憲民主党の姿勢を疑問視しながら「争点がずれている。政治的な圧力で解釈が歪められ、自由な放送ができなくなったかどうかが本質だ」と述べていました。本質論で言えばその通りですが、高市大臣の言動そのものも大きな問題をはらんでいるため、同時に追及していくべき論点だと理解しています。

立憲民主党の杉尾秀哉参院議員との質疑の中で、高市大臣は「信用できないなら質問しないで」と発言しています。この発言に対しては『高市大臣ますます逆切れ暴走…最大NGワード「質問するな!」を放ち、自民党内でも大ブーイング』という記事のとおり政権与党内でも、ますます高市大臣は浮いた存在になりつつあるようです。

この時の答弁でも「放送法の政治的公平に関するレクは受けていない」と主張し、文書の中でレクに同席したとされる大臣室の事務方二人も「絶対にないと言ってくれている」と高市大臣は明らかにしています。それに対し、総務省側は高市大臣の説明と異なる聞き取り結果を示しています。今回の記事も長くなっていますので、ここで一区切り付けますが、総務省の行政文書の問題は今後の推移を見守りながら改めて取り上げることになるのかも知れません。

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2023年3月11日 (土)

放送法での政治的公平性

3月11日、東日本大震災から12年目を迎えています。10年という節目の時は「東日本大震災から10年」という記事を投稿していました。週に1回のみ更新している当ブログでは今回、連日報道されている別な話題に注目していたため「放送法での政治的公平性」というタイトルを付けて書き始めています。

「仮にこれが捏造の文書でなければ大臣そして議員を辞職するということでよろしいですね」という問いかけに「結構ですよ」と応じた国会質疑での一場面から様々な話題が拡散しています。質問者は立憲民主党の小西洋之参院議員、答弁したのは総務大臣だった高市早苗経済安全保障担当大臣でした。

高市早苗経済安全保障担当相は3日の参院予算委員会で、立憲民主党の小西洋之参院議員から平成26~27年に安倍晋三内閣が一部の民放番組を問題視し、放送法が規定する「政治的公平」の「解釈変更」(小西氏)を試みたことを示す総務省作成の内部文書があるとの指摘を受け、自身の言動に関する記述を「捏造文書だ」と否定した。高市氏は当時の総務相だった。捏造でなかった場合、閣僚や議員を辞職する考えも示した。

小西氏が入手し、公開した内部文書には礒崎陽輔首相補佐官(当時)が平成26年11月から総務省に放送法の新解釈などを求める過程が記されている。総務省は従来、政治的公平に関し「一つの番組ではなく、放送事業者の番組全体を見て判断する」との解釈だったが、高市氏は27年5月に国会で「一つの番組でも極端な場合は政治的公平を確保しているとは認められない」と発言した。

文書にはこれに先立つ27年3月に安倍氏が「政治的公平の観点から現在の番組にはおかしいものがあり、現状は正すべきだ」と発言したとの記載のほか、安倍氏と高市氏が電話でやり取りをしたとの記述もあった。

高市氏は「放送法について私は安倍氏と打ち合わせをしたことはない」と明言。小西氏は「捏造の文書でなければ閣僚や議員を辞職するか」とただしたが、「結構だ」と応じた。松本剛明総務相は文書の正確性について「精査しなければならない事項がいろいろある」と述べた。【産経新聞2023年3月3日

高市大臣の「結構ですよ」という即答に対し、前々回記事「『安倍晋三 回顧録』と『国策不捜査』 Part2」の中でも取り上げた安倍元総理の「私や妻が関わっていれば、総理大臣も国会議員も辞める」と答弁した場面を重ね合わせ、そこまで言い切って大丈夫なのだろうかという危惧を覚えていました。

同時に2006年の「永田メール問題」も頭に浮かんでいました。民主党の永田寿康衆院議員がライブドア事件に関連し、自民党の武部勤幹事長の疑惑を国会で追及しました。その質問の端緒とされていたメール自体が「偽メール」であったことが判明し、民主党は厳しい批判を浴び、前原誠司代表らは総退陣に追い込まれました。

永田議員は国会議員を辞職し、民主党からも除籍処分され、2009年には自殺しています。森友学園の問題では安倍元総理の国会答弁後に公文書が改ざんされ、そのことを苦にした近畿財務局の赤木俊夫さんが自殺しています。このような不吉な過去を思い起こしながら総務省の内部文書の問題を注視していました。

週に1回の更新間隔の記事内容は速報性が薄れますが、事実経過を見定めた上で取りかかれる利点もあります。今回の問題で言えば、早々に松本総務相は「すべて総務省の行政文書だった」と認め、「厳重取扱注意」とされた当該の文書を総務省のホームページから全文を閲覧できるようにしています。

黒塗りは一切なく、途中で横書きの文書が入り込むため読みづらくなっていますが、『「局長ごときが、首が飛ぶぞ」総務省文書で暴言連発「自称・安倍側近」議員のヤバすぎる「言行録」』という記事が伝えているような生々しいやり取りを確認できます。ここまで潔く情報公開に踏み切った特段の事情があるのかも知れませんが、なかなかの英断だったものと評価しています。

前回記事「ベーシックサービス宣言」の中でも触れていましたが、多面的な情報に接していくことの大切さを痛感しています。今回の記事ではそのような趣旨を踏まえ、放送法での政治的公平性の問題や高市大臣の対応を論評しているネット上に掲げられた様々な記事を紹介していきます。サイトの見出しを紹介し、興味を持たれた方はリンク先の全文をご参照ください。

まずLITERAが2回にわたって『安倍政権の言論弾圧「放送法解釈変更」をめぐる総務省内部文書のリアルすぎる中身! 高市早苗はこれでも「捏造」と言い張るのか』『総務省文書の放送法解釈変更は氷山の一角! 安倍官邸は同時期、あの手この手で言論弾圧 古舘、国谷、岸井が次々降板したのも…』という詳細な記事を掲げています。

ジャーナリストの鮫島浩さんも安倍官邸が放送法の解釈修正を総務省に迫っていたーー高市早苗大臣が「ねつ造」と反論した内部文書を暴露した小西洋之参院議員の国会質疑を同時進行の連続ツイートで解説する朝日新聞政治部・鬼原記者の試み』『高市早苗が議員の地位を賭けて断言した「捏造」という言葉の軽さ〜総務省文書に描かれた安倍官邸の生々しい政治ドラマと「岸田vs菅」の権力闘争の影』という記事を立て続けに投稿しています。

弁護士の澤藤統一郎さんは『高市早苗は腹を切るとは言わなかったが、クビを懸けた。前言を翻してはならない。』『安倍晋三とその取り巻きによる、「不都合な放送」に対する介入が事件の本質である。』という記事を重ね、後者の記事の冒頭で次のように行政文書について解説しています。

公文書管理法や情報公開法で定義されている「行政文書」とは、「行政機関の職員が職務上作成し又は取得した文書で、組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているもの」と言ってよい。堂々たる「公文書」である。捏造文書でも、怪文書でもない。

公文書の内容が全て正確であるかといえば、当然のことながら、必ずしもそうではない。しかし、公務員が職務上作成した文書である。その偽造や変造には処罰も用意されている。特段の事情がない限りは、正確なものと取り扱うべきが常識的なあり方である。

内容虚偽だの一部変造だのという異議は、異議申立ての側に挙証責任が課せられる。ましてや、高市早苗は総務大臣であり、この文書を管轄する責任者であった。しかるべき理由なくして、「捏造」などと穏当ならざる言葉を投げつけるのは醜態極まる。単に、不都合な内容を認めたくないだけの難癖なのだ。

日刊ゲンダイの『注目集まる放送法文書の真贋 総務省から怒りの内部告発続出!“安倍政権の膿”噴出の可能性』『放送法の公平性「番組全体を見て」は麻生太郎氏の04年国会答弁 安倍官邸に解釈“歪曲”疑惑』の記事では、もともと2004年当時の麻生太郎総務相が次のように国会で答弁していたことを伝えています。

これは(放送法)3条の2の第1項第2号の政治的に公平であることということで、基本的には、不偏不党の立場から、政治的に考えても偏ることなく、放送番組全体としてのバランスがとれたものであるようにしておかないといかぬということだと思っております。政治的に公平であるとの判断は、一つの番組ではなくて、その当該放送事業者の番組全体を見て判断をする必要があるという具合に考えております。

そもそも当ブログの位置付けについても同じような趣旨について理解を求めていかなければなりません。多面的な情報の一つとして」「多面的な情報を提供する場として」という記事を通し、次のように説明してきています。

誤解される時がありますが、このブログの記事本文の内容そのものが多面的で、幅広い情報を提供しているものではありません。書き込まれた内容や主張は、いわゆる左に偏っているという指摘を受けてしまうはずです。世の中には幅広く多面的な情報があふれている中、そのうちの一つとして当ブログも数えていただければ幸いなことだと考えています。

そのような意味で考えた時、上記に紹介したサイトそれぞれの内容も偏っていると見られてしまうのだろうと思っています。今回はせっかくの機会ですので、基本的な立ち位置や視点の異なる論評等を伝える記事のサイトも紹介していきます。

政権与党側の立場の代表格である嘉悦大の高橋洋一教授は行政文書かどうか明らかになる前、現代ビジネスの『小西氏公表の「放送法文書」は総務省内の「旧自治」「旧郵政」の些細なバトルの産物?』という記事を通し、文書の信憑性に疑義を呈した上で陰謀論にまでつなげていました。

行政文書と認められた後は小西文書を一刀両断「旧自治省vs.旧郵政省の内部抗争」…解説動画に「よくわかる」「論点ずらし」賛否渦巻く』という記事の中で「まず言っておくと、行政文書かどうかと言ったら行政文書。ただ、すぐに正しい文書と誤解するけど、メモも行政文書。ハッキリ言うとデタラメなものはたくさんあります」とし、陰謀論だけは強調しています。

高市大臣の対応ぶりについては
高市氏には、虚偽公文書作成罪で告発する「覚悟」はあるのか?~加計学園問題と共通する構図』『ひろゆき氏、高市早苗氏に皮肉ツイート「威勢よくタンカ切ったものの…ハシゴ外される」』『辛坊治郎氏 高市早苗氏の〝誤算〟指摘「文書が本物だと証明されることはないと踏んでいた」』という論評等に目を留めていました。

辛坊氏は「こっから先、高市さんの答弁としては『文章は本物。だけど中身に関しては、私はそんなことは言ってない』と。だとすると、かなり問題なのは、当時大臣だった高市さんが言ってもいないことが内部文書で作成されて、それが省庁でみんなで共有してたっていうことは、それって問題じゃないの?」と疑問を呈した。

上記のような指摘に対し、ここ数日の高市大臣の言葉から心底から謝罪や反省しているようには見て取れません。自分自身の経験則で言えば記憶は当てになりませんが、記録を読み返せば事実関係を思い出すことができます。今回、高市大臣は「大臣レク自体なかった」と説明していますが、そこまでして内部文書の内容を総務省側に偽ることの理由が分かりません。今後、このような不明瞭さも解明していけることを願っています。

今回の記事タイトルは「放送法での政治的公平性」としたとおり2018年4月の記事「放送法第4条撤廃の動き」で取り上げたような問題まで掘り下げるつもりでした。結局、高市大臣のことだけで相当な長さとなってしまいましたので、ここで一区切り付け、続きは次回「Part2」として改めて書き進めていきます。 

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2023年3月 4日 (土)

ベーシックサービス宣言

前回記事「『安倍晋三 回顧録』と『国策不捜査』 Part2」の最後に、多面的な情報に接していくことの大切さという意味合いを込め、二つの書籍を対比した内容を取り上げたことを書き添えていました。今回の記事「ベーシックサービス宣言」の内容も人によって賛否や評価が分かれる内容となるのだろうと思っています。

組合の執行委員長を退任しましたが、協力委員の一人として続けているため各種集会の参加に際しての呼びかけがあります。現職の委員長時代とは異なり、あくまでも任意な対応でしたが、先日「2023春季生活闘争を成功させる連合三多摩の集い」に参加していました。

その時の記念講演「ベーシックサービス宣言~分かち合いが変える日本社会~」の内容がたいへん興味深く、このブログを通して取り上げてみようと考えていました。講師は慶応義塾大学経済学部の井手英策教授です。リンク先の連合三多摩のサイトで講演内容の要旨を次のようにまとめています。

我が国は、平成の時代に一人当たりGDPは世界4位から26位へ、2人以上世帯の3割、単身世帯の5割で貯蓄がなく、企業時価総額TOP50社のうち日本企業は32社から1社になるなど、発展途上国一歩手前の状況にある。

世界価値観調査によれば、国民みんなが安心して暮らせるよう国は責任を持つべきで、「施し」ではなく「保障」を求めている。世論の93%が自分を中流と回答し、本質は格差の有無ではなく基礎的サービスの利用格差であり、医療・教育・介護等へのアクセス保障にある。

また、ベーシックサービスは、誰もが生存、生活のために必要とするベーシックなサービスで、論理だけではなく対話で決まる。決められたサービスではなく、人間に不可欠なニーズを追い求める「終わりなき対話」であること。

さらに、連合東京が掲げる「クラシノソコアゲ」については、生活の底上げは大切な課題だが新しい発想が必要で、賃金を上げつつ困っている人の生活を支え、誰もが安心できる社会を作ることが求められている。税の使い道を論じることは社会の未来を論じることである。

今回、井手教授による上記内容の講演を伺う機会を得て、ベーシックサービスについて掘り下げてみます。その日の講演内容とともにネット上に掲げられた井手教授の論評等も紹介し、不確かだった私自身の知識を整理する機会につなげていきます。

まず2年前に井手教授が三田論評に寄稿した『「ベーシックインカム」と「ベーシックサービス」』というタイトルを付けた内容からの一文です。一文と述べながら、ほぼ全容の紹介となっています。さらに今回の講演を通して井手教授が訴えられていた主旨の紹介だと言えます。

集会で配られた資料を手元に置いてパソコンに向かっていますが、私自身の言葉で講演内容をまとめるよりも井手教授ご自身の言葉をそのままお伝えしたほうが望ましいものと考えました。決して労力を惜しむ(手を抜く?)訳ではありませんが、ネット上から閲覧できるサイトの内容の転載を中心に今回のブログ記事をまとめていくつもりです。

所得格差はなぜ悪か。それは、生きるため、くらすために必要なサービスを利用できない人を生むからだ。貧乏な家に生まれたという理由だけで病院や大学にいけない社会は理不尽である。理(ことわり)に従って生きるのが学者である以上、僕はそんな社会をだまって見過ごすわけにはいかない。

これが自著『幸福の増税論』のなかで「ベーシックサービス(BS)」を提唱した理由だ。医療・介護・教育・障害者福祉、これらの誰もが必要とする/しうるサービスをBSと定義し、所得制限をつけず、すべての人たちに給付する。つまり、幼稚園や保育園、大学、医療、介護、障害者福祉、すべてを無償化するという提案だ。

これは単なる思いつきではない。近世の共同体では、警察、消防、初等教育、介護といった様々な「サービス」を、全構成員が汗をかきながら、みんなで提供しあってきた。みんなの需要をみんなで満たしあう、この「共同需要の共同充足」の原理を国のレベルで実現するのがBSの基本思想だ。

読者は「ベーシックインカム(BI)」との違いに戸惑うかもしれない。BIは、所得制限をつけずに、すべての人びとに「現金」を給付する。生活保護の申請をためらい貧しさに耐える人たち、申請はしたものの後ろめたさに苦しむ人たちをなくすことができる。

だがこれは、ベーシック、つまり、すべての人を対象とする給付のメリットであって、「インカム」の長所ではない。みんなが大学、病院、介護施設に行けるようになるBSにも同じ効果がある。教育扶助、医療扶助、介護扶助が不要になり、救済される後ろめたさは消え、生きるコストは劇的に軽くなる。

ではなにが違うのか。それは、「実現可能性」だ。昨年の特別定額給付金を思いだそう。一律10万円の給付は13兆円の予算を必要とした。一方、一昨年の幼保無償化は約9000億円。BIと違ってBSは必要な人しか使わないからはるかに低コストですむのだ。

母1人、子1人の「ひとり親世帯」を考えてみたい。13兆円あれば、年間20万円のBIが給付できる。だが、大学の授業料は、平均400万円。20年貯蓄してやっと1人分の学費になる計算だ。いらない人にも現金は配られる。幼稚園と大学を出た人は、再び入り直すことはない。この差が巨額の財源の差となって跳ねかえってくる。

BSならこうなる。大学、介護、障害者福祉を無料にし、医療費の自己負担も現状の3割から2割に下げる。住宅手当を創設し、月額2万円を全体の2割、1200万世帯に給付し、リーマン危機時に350万人に達した失業者を念頭に月額5万円を給付する。これで13兆円だ。最低生活保障を徹底しながら、全体の生存・生活コストを思い切って軽減する政策と、富裕層にも10万円配る政策、どちらが合理的だろうか。

ILOはBIを実施すれば、GDPの2~3割のコストがかかると公表した。実際、月額7万円の給付を行えば、それだけで国の予算とほぼ同じ100兆円の財源が必要となる。消費税なら税率が45%に跳ねあがる。既存の社会保障をBIに置きかえるのはどうか。

医療費や介護費は10割自己負担になる。年金も消失して7万の給付に変わり、生活保護は12万円から7万円にさがるかもしれない。では、毎年100兆円を借金する案は? 急激な円安が進み、ハイパーインフレという「見えない増税」が次世代を直撃するだろう。

BSの無償化なら、消費税を6%引きあげるだけですむ。100円のジュースは、現在の110円から116円になる。代わりに、すべての人びとが生活不安から解放される社会になる。財政を危機に陥らせてまで金を配り、自由の名のもとに自己責任を押しつける社会ではなく、連帯し、痛みを分かちあいながら、自分と他者の幸福を調和させる、そんな人間の顔をした、分厚い社会を生みだすことができる。

上記の説明でベーシックサービスの要旨と必要なコストの概要が理解できます。警察や消防にかかる費用が無償であるという例示によって、ベーシックサービスの主旨がイメージしやすくなります。井手教授はベーシックサービスの範囲は固定せず、終わりなき対話で決めていくべきものと訴えています。

ベーシックサービスには基本的に所得制限を設けません。必要な基礎的サービスは誰もが平等に利用でき、アクセスを保障されていることが重要です。このことによって社会的な支え合いや寛容さを引き出していけるものと井手教授は考えています。

所得制限のないサービス提供のあり方は、貧しいから施しを受けているという負い目を持たせない「品位ある最低保障」だと言えます。井手教授の講演資料の中には「人間を救済の屈辱から解放し、万人の尊厳を平等化するという哲学」という言葉が掲げられています。

医療費の自己負担をなくすと病院の待合がサロン化するという見方があることに対し、井手教授は高齢者が気軽に集える場作りを別な次元の問題として考えるべきものと一蹴しています。いずれにしてもベーシックサービスを拡充するためには財源の問題を議論していかなければなりません。

東洋経済ONLINEもはや日本が「消費増税」から逃げられない理由 「普通に働く」中流階級こそ社会保障が必要だ』という見出しの記事の中で、井手教授が財源の問題を語っています。こちらは端的な箇所の紹介にとどまりますが、ぜひ、興味を持たれた方はリンク先の内容の全文をご参照ください。

問題は財源だ。一方では、借金または通貨を増やせばよいという立場がある。他方では、税に財源を求める立場がある。はやりの「現代の貨幣理論(MMT)」はまさに前者の立場だが、この理論の現実への適用には疑問が多い。

僕たちは公共投資と減税を散々やってきた。平成の間に160兆円から870兆円へと公債残高は増えたが、その結末は「平成の貧乏物語」ともいうべき所得水準の低下だった。財政支出の拡大=経済成長という前提が成立するのか。いや、それ以前の問題として、どのくらいの規模の財政出動を想定しているのかもよくわからずに議論が前のめりになっている。

4年前の記事ですが、井手教授の主張は一貫しています。今回の講演の中でも「財政が破綻しないから通貨を増発すればよいという主張も奇妙だ」とし、MMTの問題性を説明されていました。ちなみに安倍元総理や菅前総理らはMMTの影響を受け、財政健全化の必要性を繰り返す財務省を疎んじていたようです。

税を語れば嫌われる。僕だって嫌われたくない。だが、先の北欧の例でもわかるように、税の使い道を徹底的に議論すれば、より幸福な社会を実現することはできる。だからこそ、僕は消費税を柱としながら、これを所得税の累進性強化、減税続きの法人課税の復元、金融資産や相続財産への課税強化、逆進性の強い社会保険料の改正等で補完する方向性を示してきた。

しんどいのは、左派野党を中心に消費税への反発が強いことだ。ここでも僕は孤立することとなる。だが、ライフ・セキュリティを本気で行おうと思うのなら、消費税は外せない。

消費税を1%引き上げると2.8兆円の税収があがる。一方、1237万円超の所得税率を1%上げても1400億円程度の税収しか生まない。あるいは法人税率を1%上げても5000億円程度の税収に止まるのが現実だ。

上記も東洋経済の記事の中に掲げられていた井手教授の問題意識です。今回の講演の中でも井手教授は、消費税の減税を公約に掲げる野党側の姿勢に警鐘を鳴らしています。昨年12月に井手教授が野田元総理にインタビューした時の記事の中で、次のような言葉で現在の政治状況を憂慮されています。

今の政治を見ていて感じるのが、エクストリーミズム(極端主義)です。参政党であったり、一方でれいわ新選組だったり。立憲民主でも、維新でも、自民でも、MMT(現代貨幣理論)的なばらまきをよしとする人、消費減税さえ言っていれば選挙に勝てると思う人。すごく極端です。

ですが、政治の本質は、むしろ正しい中庸を探していくことではないのか。100%健全財政で、取った税金はすべて借金返済に充てるというのは極端。税金なんか取らないでばらまきまくろうというのも極端。でも、健全財政主義者やリベラルな人たちの極端な主張に引きずられて、あるべき中庸の姿がなかなか見えてこない。

先月投稿した記事「政策実現と財源問題」の中で、以前の記事「消費税引き上げの問題」に記しているとおり私自身は消費税の引き上げの必要性を認めている立場であることを明らかにしています。先月の記事の最後には、立憲民主党の枝野前代表が消費減税の訴えは「間違いだった」と言及したことも伝えていました。

そもそも枝野前代表は2年前の記事「スガノミクスと枝野ビジョン Part2」で伝えているとおり病気や介護、子育てのサポートなど誰の人生にも起こりうるリスクに対し、「弱者だから」ではなく、「必要だから」サポートするという発想に改めることを提起していました。

この発想は井手教授が推奨されているベーシックサービスの考え方に合致しているものだと言えます。ただ2年前の衆院選に向けて枝野前代表は、消費税の減税について「緊急時の時限的な対応」という条件を前提に全否定するものではないと説明していました。

冒頭で述べたとおり今回の記事内容は、人によって賛否や評価が大きく分かれるものと思っています。財源の問題、特に消費税に対する考え方は、いわゆる左や右の立場を問わず激しい議論となるのかも知れません。井手教授は持論の正しさを信じている方ですが、決して結論を押し付けようとしている訳ではありません。

私たちはそういう議論をしたのか、ということです。いつ、誰がその議論をしたのか分からないままに今まできている」という問題提起を重ねています。井手教授は賃上げを求める労働組合にエールを送りながら、誰もが安心して生きられる社会作りに向け、連合の掲げる「クラシノソコアゲ」の意味を考えていって欲しいと問いかけています。

講演資料の最終頁に掲げられていた「〈乱暴〉と〈冷淡〉の中庸にある〈分かち合い〉」という言葉の説明もありました。MMTのような〈乱暴〉 な発想ではなく、財政規律を主眼とした消費増税を企図する財務省のような〈冷淡〉 ではなく、政治的な中道路線とは異なる意味合いでの中庸にある〈分かち合い〉 の必要性を説き、ベーシックサービスを宣言することで日本社会を変えたいという言葉で講演を締められていました。

井手教授の論評等が掲げられたサイトの内容も転載してきましたので、いつも以上に長い記事となっています。ベーシックサービスという非常に重要な考え方をはじめ、賛否の割れる財源問題について情報拡散や一石を投じる機会としていました。最後までご覧いただいた方には心から感謝しています。ありがとうございました。

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