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2023年1月22日 (日)

抑止力と安心供与のバランス

前回記事は「大きな節目の1000回」でした。次の節目である1100回をめざし、今回、前々回記事「失望感が募る岸田政権」に書き足したかった内容を取り上げます。前々回記事には次のような私自身の問題意識を記していました。

ブックマークしているジャーナリストの鮫島浩さんの記事『対米追従の防衛費倍増には財務省が唱える「財源論」ではなく日本国憲法が掲げる「平和主義」で反対しよう!』のとおり国民からの信を問うべき重要な論点は、日本が国際社会の中で際立った平和主義を誇示した国であり続けるのかどうかだろうと思っています。

今回の新規記事を通し、このあたりについて掘り下げていきます。岸田総理はG7(主要7か国首脳会議)の議長として、アメリカなどメンバー5か国を訪問しました。年末に閣議決定された安保関連3文書改定で、日本が年間防衛予算を5年後には従来の2倍とすることなどを各国首脳にアピールした外遊だったと言えます。

岸田総理がバイデンから異例の「おもてなし」を受けるが…アメリカへの手土産にした「防衛力の大幅拡大」を岸田政権は本当に実現できるのか』という記事が伝えているとおり日本の防衛力強化はG7の首脳から軒並み歓迎されています。しかし、その記事では国会での議論が皆無のまま、つまり国民的な合意形成のプロセスを経ていない問題性を強く批判しています。

これまでGDP(国内総生産)比1%程度だった防衛費を2%まで増やせば予算上とは言え、日本はアメリカ、中国に次いで世界第3位の軍事大国となります。さらに反撃能力の保有は、日本が攻撃を受けていなくても、相手国が攻撃に着手したと判断できれば、日本から相手国に向けてミサイルを撃ち込むことを可能にするものです。

思わず『ヤバいのは防衛増税だけじゃない!岸田政権が強行する「ステルス改憲」で“戦争ができる国づくり”』という記事の「ステルス改憲」という言葉に目が留まっていました。その記事の中で、名古屋学院大学の飯島滋明教授(憲法学・平和学)が次のように批判しています。

2015年に成立した安保法制では、“集団的自衛権の行使容認”と言って、日本と密接な関係にある国が攻撃を受けたとき、日本が直接攻撃を受けていなくても自衛隊は武力行使ができると認められました。

ただし憲法9条は、外国を攻撃する戦力を持つことを禁じています。そのため歴代の政府は、外国領域を攻撃できる兵器を持たない方針をとってきました。ところが岸田政権はその方針を変えて、外国を攻撃できる兵器を持てるよう安保3文書の中に明記したのです。

これは「戦力」の保持を禁止した憲法9条に違反している。また、自衛のための必要最小限度の実力行使しか許されないという「専守防衛」からも逸脱する。安保法制の際、安倍政権は歴代政府の憲法解釈を独断で変えて、集団的自衛権の行使を閣議決定で容認しました。それと同じ問題が安保3文書でも繰り返されています。

外国を攻撃できる武器は憲法で禁じられた“戦力”です。それを持ちたければ、憲法改正の手続きを行い、主権者である国民の判断を仰ぐため国民投票を実施すべき。時の政権が独断で国のあり方を変えることは、憲法が定める国民主権からも許されません。

「失望感が募る岸田政権」という言葉、最初は期待していたからこそ失望したことになります。最初から期待していなければ失望することもありません。前々回記事に記したとおり前政権までの強権的な体質に比べ、岸田総理の「聞く力」に期待していました。

しかし、最も丁寧に慎重に国民の声を聞くべき憲法9条の解釈を先走って改めてしまう姿勢に強く失望しています。これから開かれる国民の代表が集う国会において遅ればせながら「丁寧な議論」を始めるつもりなのかも知れません。ただ5か国の首脳に対し、決定事項として振る舞って歓待されていたことを指摘しておかなければなりません。

岸田総理に対する最たる失望感は安全保障に向けた考え方の落差です。日本国憲法の平和主義の効用評価し、もっと広義の国防を重視する政治家だと勝手に期待していました。安保関連3文書改定の中味は、安倍政権の時よりも懸念すべき狭義の国防に重心を傾けた大きな方針転換だと言えます。

広義の国防と狭義の国防、同様の意味合いとして「外交・安全保障のリアリズム」という記事の中でソフトパワーとハードパワーという対になる言葉も紹介していました。国際社会は軍事力や経済力などのハードパワーで動かされる要素と国際条約や制度などのソフトパワーに従って動く要素の両面から成り立っていることを綴っていました。

もう一つ、抑止に対し、安心供与という言葉があります。安心供与という言葉は7年前の「北朝鮮の核実験」という記事の中で初めて紹介しました。安全保障は抑止と安心供与の両輪によって成立し、日本の場合の抑止は自衛隊と日米安保です。

安心供与は憲法9条であり、攻められない限り戦わないと決めてきた専守防衛こそ広義の国防の一つです。安心供与はお互いの信頼関係が柱となり、場面によって寛容さが強く求められていきます。相手側の言い分が到底容認できないものだったとしても、最低限、武力衝突をカードとしない関係性を維持していくことが肝要です。

抑止力の強化を優先した場合、ますます強硬な姿勢に転じさせる口実を相手に与えてしまいがちです。外交交渉の場がなく、対話が途絶えている関係性であれば、疑心暗鬼が強まりながら際限のない軍拡競争のジレンマにつながり、国家財政を疲弊させ、いつ攻められるか分からないため、攻められる前に先制攻撃すべきという発想になりかねません。

このあたりについては4年前の記事「平和の話、サマリー」の中で詳述しています。残念ながら安心供与という言葉は、あまり普及していません。メディアで見かけることが少ない中、最近戦争を防ぐには「安心供与」一見“かったるく”見える外交こそ不可欠』という記事を目に留めていました。

国の安保政策の最大の目的は、戦禍から国民を守ること、すなわち、戦争回避でなければならない。外交は一見「かったるい」ように見えるだろう。しかし、日本の軍拡は相手のさらなる軍拡を招く。戦争を防ぐためには、相手が「戦争してでも守るべき利益」を脅かさないことによって戦争の動機をなくす「安心供与」が不可欠であり、そのためには外交が欠かせない。

上記は新外交イニシアティブ代表の猿田佐世さんの言葉です。安心供与を前面に押し出した外交を進める際、「ハト派」と目されている宏池会の岸田総理は適任だったはずです。昨年11月、岸田総理は習近平主席と対面による会談を3年ぶりに行なっています。

「習氏は終始、気持ち悪いくらい笑顔だった」日中首脳会談 安定した関係構築で一致も懸案では歩み寄れず』『習主席、岸田首相に見せた笑顔の裏側』という記事が伝えているとおり習主席の笑顔は額面通りに受けとめられないのかも知れません。しかし、このような首脳会談が行なわれている限り、中国が突然日本を攻め入ることはないはずです。

その後、岸田総理が安保関連3文書を改定し、G7の5か国訪問を重ねたことで習主席から笑顔は消えています。様々な思惑を秘めた習主席の笑顔は不要だと思われている方が多いのかも知れませんが、結果的に日本と中国の溝が広がり、標的になるリスクも高まったと言えます。

そもそも反撃能力の保有や防衛費の倍増が、戦争を防ぐための欠かせない道筋なのであれば増税も含めて覚悟を決めていかなければなりません。加えて、ここまで国際標準の抑止力のあり方をめざすのであれば、国際社会の中で希有な平和主義を掲げた憲法を改める必要性に迫られています。

戦争を防ぐため、抑止力と安心供与のバランスをどのように保てば良いのかどうか、なかなか難しいことだろうと思っています。ただ確実に言えることは防衛費の倍増を避けられるのであれば、その財源を異次元の少子化対策など他の政策に充てることができます。

いずれにしても防衛費財源は「増税か、国債か」の財政論争に惑わされるな!間違っているのは防衛費を倍増させる安全保障政策だ!』という鮫島さんの記事のとおり国民から信を問うべき重要な論点は、平和を築くための方向性の是非ではないでしょうか。

今回の記事ではウクライナでの戦争を受け、どのように考えるべきか、そこまで話を広げるつもりでした。その記事の中では、最近読み終えた『橋下徹の研究』という書籍の内容についても触れるつもりでした。いつものことですが、たいへん長い記事になっていますので、機会を見ながら次回以降の記事で改めて取り上げていきます。

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