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2023年1月28日 (土)

ウクライナでの戦争を受け

前回記事「抑止力と安心供与のバランス」の最後に「今回の記事ではウクライナでの戦争を受け、どのように考えるべきか、そこまで話を広げるつもりでした」と記していました。さらに最近読み終えた『橋下徹の研究』という書籍の内容について触れるつもりだったことも書き添えています。

ついに突き止めた違和感の正体!テレビばかり見ている人がこの本を読んだら100%腰を抜かします! 圧倒的影響力を誇る日本一のコメンテーター・橋下徹氏の膨大な言動をベストセラー作家・百田尚樹が魂の徹底検証!爆笑!衝撃!驚愕!これは単なる"批判本"ではない!日本に浸透する恐るべき問題を浮き彫りにする警世の書だ!

上記はリンク先の書籍の紹介文です。いつも多面的な情報に接することの大切さを意識しているため、いわゆる左か右かを問わず、私自身の考え方から離れた百田さんの著書も時々手にしています。このブログでは「『カエルの楽園』から思うこと」という記事を「Part2」にかけて綴っていました。

『橋下徹の研究』は「橋下徹さん、訴えないでください」という宣伝文句につられ、少しためらいながら書店のレジに運んでいました。「完全書き下ろし!」という言葉を一瞬「完全こき下ろし!」と見間違うほど百田さんは徹底的に橋下さんの言動を書籍の中で批判しています。

今回の記事タイトルを「ウクライナでの戦争を受け」としているとおり『橋下徹の研究』という書籍全体の紹介や感想を書き進めようとは考えていません。そのため、反論する際に相手の意見を曲解する橋下さんのストローマン(藁人形)論法の問題性などを直接取り上げつもりはありません。

ロシアにはロシアの理がある」「戦う一択ではダメだ!」という章などを通し、百田さんと橋下さんの主張が大きく乖離していることを伝えています。現実の脅威として直面しているウクライナでの戦争を受け、どのように私たち日本人は考え、どのように対応すべきなのか、二人の対立点が絶好の題材だと受けとめています。

橋下さんはツイッターで「有事において日本の政治家たちが一般市民を犠牲にすることには断固反対するし、そのような社会的風潮にも反対する」と主張しています。このような主張に対し、百田さんは概念としての正しさを認めた上、一切の犠牲を出さないことを徹底するためには無条件降伏するしかないと反論します。

侵略戦争を仕掛けられながら抵抗もせずに無条件降伏した場合、民族そのものが滅ぼされたケースが山ほどあることを百田さんは訴えています。かつて日本は無条件降伏し、約7年間の占領下で日本人は虐殺されず、強制労働施設にも送られず、主権回復後は驚異的な復興を遂げることができました。

その結果、百田さんは「橋下さんが戦争で降伏してもたいしたことはない」という単純で楽観的な思想を持つようになっていると批判しています。ちなみにウクライナではロシアに占領された地域で、多くの一般市民が虐殺され、男性はロシア兵として徴兵されて危険な前線に送られていることも百田さんは記しています。

最近鈴木宗男氏 岸田首相のキーウ訪問検討に「支援継続を言ったら…すべて吹っ飛んでしまう」』『森元首相、日本のウクライナ支援「こんなに力入れちゃっていいのか」』という記事を目にし、ここまでロシア寄りの立場から発言できる森元総理と日本維新の会の鈴木参院議員には、いつものことながら本当に驚かされています。

この二人とは少し異なり、あくまでも橋下さんは人命を最重視した立場からロシアの要求にも耳を傾け、ウクライナや西側諸国は「政治的妥結をはかれ」と訴え続けているものと思っています。たいへん人道的な観点からの発言であり、単刀直入に批判しにくい側面があることも確かです。

ただ私自身、実際の戦場から遠く離れた日本からの発言であり、心苦しさもありますが、やはり現段階でロシアに妥協することの危うさを感じている立場です。昨年8月の平和への思い、2022年夏 Part2」という記事の中で「ウクライナのように攻め入られたらどうするのか?」という問いかけに次のように答えていました。

軍事進攻された時は現行憲法で認められた個別的自衛権のもとに対処することを想定しています。現在の国際社会の中で武力による領土や主権の侵害は認められません。戦争が長引く場合などは現在のウクライナと同じように専守防衛に徹しながら国際社会と連携し、そのような無法な国と対処していくことになります。

国際社会は二度の世界大戦を経験し、そこから得た教訓をもとに現在の国際秩序やルールを定めています。国際社会における「法の支配」であり、国連憲章を守るという申し合わせです。その一つが前述したとおり武力によって他国の領土や主権を侵してはならないというものであり、自衛以外の戦争を禁止しています。

このような国際的な規範が蔑ろにされ、帝国主義の時代に後戻りしてしまうのかどうか、ウクライナでの戦争は国際社会に突き付けられている試金石だと言えます。戦争が一刻も早く終わることを願いながら多くの国々が結束し、ロシアに圧力を加え、ウクライナを支援している構図は非常に重要な関係性です。

国際社会の結束は、ロシアと同じように軍事力で「自国の正義」を押し通そうと考えていた権力者の「意思」に大きな牽制効果を与えるはずです。国際社会の定められたルールは絶対守らなければならない、守らなければ甚大な不利益を被る、このことをロシアのプーチン大統領に思い知らせるためにもウクライナでの戦争の帰趨が極めて重大です。

ウクライナはロシア国内に向けて攻撃していません。国外の敵基地を標的にしていません。国際社会の中で認められた自衛の戦争に徹しています。このような関係性も含め、無法な侵略戦争を仕掛けたロシアに対し、抵抗するウクライナの正義が国際社会の中で際立ち、各国からの支援につながっているものと思っています。

戦争の前であればロシアの言い分にも真摯に耳を傾け、政治的な妥協点を探ることが重要だったはずです。しかし、軍事侵攻した後に要求を受け入れるとしたら、それこそ弱肉強食の世界を追認することになりかねません。

このあたりについて森元総理と鈴木参院議員には理解願い、それぞれ培ってきたロシアとのパイプを活用した行動を起こして欲しいものです。そもそも今回のロシアの軍事侵攻は、2014年のウクライナ南部クリミアを一方的に併合した時の成功体験が後押ししたと見られています。

その際も国際社会はロシアに対して制裁を科していましたが、安倍元総理はプーチン大統領との良好な関係性を重視し、日本は欧米各国に比べ緩やかな措置にとどめていました。6年前の記事「何が正しいのか、どの選択肢が正しいのか」の中では次のような記述を残していました。

首脳同士が信頼関係を高めていくために直接相対する機会を持つこと自体、私自身は肯定的にとらえています。その意味でG7を分断という見られ方に反しながら安倍首相がロシアのプーチン大統領と会談を重ねていることも評価しています。

ただ安倍首相は昨年7月のアジア欧州会議(ASEM)首脳会議において自らの言葉で「法の支配を重視し、力による一方的な現状変更を認めない」と中国の動きを意識した演説を行なっています。

それにも関わらず、ウクライナからクリミア半島を強制編入したロシアのプーチン大統領に対し、安倍首相が直接いさめたという話は聞こえてきません。もちろん北方領土問題の解決に向け、緻密で大局的な思惑があっての対応なのかも知れません。それでは、なぜ、中国との関係では原則的な強硬姿勢のみが際立ってしまうのでしょうか。

昨年12月の記事「『ウクライナにいたら戦争が始まった』から思うこと」の中で触れたことですが、安倍元総理は「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている」という言葉を贈るほどプーチン大統領との親密さを誇っていました。しかし、たいへん残念ながらウクライナ侵攻で露呈「安倍政権の対露外交」の大き過ぎる罪』という記事が伝えているとおりウクライナでの戦争を受け、安倍元総理はプーチン大統領に声をかけるような素振りも見せていなかったようです。

結果が伴わなかった場合でも、もし安倍元総理がプーチン大統領に対して即時撤兵を求め、具体的な行動を起こしていたならば幅広い層から高い評価や支持を得られていたのではないでしょうか。そのような機会を見計らっていた矢先だったのであれば、安倍元総理の非業の死は改めて悔やむべきことになります。

その一方で、防衛費のGDP比2%までの増額や敵基地攻撃能力の保有が安倍元総理の意思だったとすれば、日本の安全保障のあり方として様々な疑問を投げかけなければなりません。『「生煮えのまま43兆円の血税が」北沢俊美元防衛相~国を憂う~防衛費大幅増額「数字ありきの乱暴な議論」に警鐘』という記事にあるような懸念があります。

前回記事で提起した抑止力と安心供与のバランスの問題を考える際、再び『橋下徹の研究』の中の記述に着目してみます。橋下さんは「中国の隣にあり、軍も核兵器も持たない日本は、二階さんのような政治家を持っておくことも必要」と発言しています。

橋下さんは中国とのパイプを持つ政治家として二階さんを評価し、百田さんは「二階からおいしいエサを投げられたか。世界が中国と対決しようとしている中、『裏切り者』『売国奴』の二階を持ち上げる真意はどこに? それとも中国から援護するように指令でも受けたか」とツイートしています。

このツイートに対し、橋下さんは「餌などもらっているわけないやろ、ボケッ! 空想の世界だけで生きているオッサンには現実の政治戦略などわからんやろ」と怒りを爆発させていました。二人とも感情をむき出しにした口の悪い言葉使いは反省しなければならないはすです。その上で私自身の感想です。

前述したとおり安倍元総理がプーチン大統領と会談を重ねていたことを評価していました。そのようなパイプや信頼関係の維持が決定的な対立、つまり戦争に至らせないための安心供与という広義の安全保障につながっているものと考えているからです。そのため、私も二階さんのような政治家の存在を評価しています。

抑止力強化一辺倒ではなく、このような関係を通し、懸念している中国の動きをいさめていけることが望ましい道筋だろうと思っています。さらに信頼関係を高める中で、新疆ウイグルの問題などが解決していけることも願っています。理想論かも知れませんが、戦争を絶対回避するためにはお互いの言い分に耳を傾け、敵視し合わない関係性の構築こそ重要な選択肢であるはずです。

そして、日本国内で率直な議論を交わす際、心がけるべきマナーがあります。罵詈雑言を控えることはもちろんですが、中国に融和的な発想を持つと「中国の工作に凋落されている」と推論することの不適切さです。中には実際に凋落された人物や完全なスパイが存在しているのかも知れません。

しかし、まったく身に覚えのない場合、そのような言葉が投げかけられれば誹謗中傷の類いであり、建設的な議論から遠ざかっていくことになります。いずれにしても百田さんの推論が目立った『橋下徹の研究』を読み終えて、いろいろ後味の悪い思いを強めていました。

最後に、ウクライナでの戦争を受け、私たち日本人は今後の安全保障のあり方を深く考えるべき岐路に差しかかっています。戦争を絶対起こさないためには、どのような「答え」が正解に近付くのか、今、岸田政権の進めている動きが望ましいことなのかどうか、 私たちに問われています。

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2023年1月22日 (日)

抑止力と安心供与のバランス

前回記事は「大きな節目の1000回」でした。次の節目である1100回をめざし、今回、前々回記事「失望感が募る岸田政権」に書き足したかった内容を取り上げます。前々回記事には次のような私自身の問題意識を記していました。

ブックマークしているジャーナリストの鮫島浩さんの記事『対米追従の防衛費倍増には財務省が唱える「財源論」ではなく日本国憲法が掲げる「平和主義」で反対しよう!』のとおり国民からの信を問うべき重要な論点は、日本が国際社会の中で際立った平和主義を誇示した国であり続けるのかどうかだろうと思っています。

今回の新規記事を通し、このあたりについて掘り下げていきます。岸田総理はG7(主要7か国首脳会議)の議長として、アメリカなどメンバー5か国を訪問しました。年末に閣議決定された安保関連3文書改定で、日本が年間防衛予算を5年後には従来の2倍とすることなどを各国首脳にアピールした外遊だったと言えます。

岸田総理がバイデンから異例の「おもてなし」を受けるが…アメリカへの手土産にした「防衛力の大幅拡大」を岸田政権は本当に実現できるのか』という記事が伝えているとおり日本の防衛力強化はG7の首脳から軒並み歓迎されています。しかし、その記事では国会での議論が皆無のまま、つまり国民的な合意形成のプロセスを経ていない問題性を強く批判しています。

これまでGDP(国内総生産)比1%程度だった防衛費を2%まで増やせば予算上とは言え、日本はアメリカ、中国に次いで世界第3位の軍事大国となります。さらに反撃能力の保有は、日本が攻撃を受けていなくても、相手国が攻撃に着手したと判断できれば、日本から相手国に向けてミサイルを撃ち込むことを可能にするものです。

思わず『ヤバいのは防衛増税だけじゃない!岸田政権が強行する「ステルス改憲」で“戦争ができる国づくり”』という記事の「ステルス改憲」という言葉に目が留まっていました。その記事の中で、名古屋学院大学の飯島滋明教授(憲法学・平和学)が次のように批判しています。

2015年に成立した安保法制では、“集団的自衛権の行使容認”と言って、日本と密接な関係にある国が攻撃を受けたとき、日本が直接攻撃を受けていなくても自衛隊は武力行使ができると認められました。

ただし憲法9条は、外国を攻撃する戦力を持つことを禁じています。そのため歴代の政府は、外国領域を攻撃できる兵器を持たない方針をとってきました。ところが岸田政権はその方針を変えて、外国を攻撃できる兵器を持てるよう安保3文書の中に明記したのです。

これは「戦力」の保持を禁止した憲法9条に違反している。また、自衛のための必要最小限度の実力行使しか許されないという「専守防衛」からも逸脱する。安保法制の際、安倍政権は歴代政府の憲法解釈を独断で変えて、集団的自衛権の行使を閣議決定で容認しました。それと同じ問題が安保3文書でも繰り返されています。

外国を攻撃できる武器は憲法で禁じられた“戦力”です。それを持ちたければ、憲法改正の手続きを行い、主権者である国民の判断を仰ぐため国民投票を実施すべき。時の政権が独断で国のあり方を変えることは、憲法が定める国民主権からも許されません。

「失望感が募る岸田政権」という言葉、最初は期待していたからこそ失望したことになります。最初から期待していなければ失望することもありません。前々回記事に記したとおり前政権までの強権的な体質に比べ、岸田総理の「聞く力」に期待していました。

しかし、最も丁寧に慎重に国民の声を聞くべき憲法9条の解釈を先走って改めてしまう姿勢に強く失望しています。これから開かれる国民の代表が集う国会において遅ればせながら「丁寧な議論」を始めるつもりなのかも知れません。ただ5か国の首脳に対し、決定事項として振る舞って歓待されていたことを指摘しておかなければなりません。

岸田総理に対する最たる失望感は安全保障に向けた考え方の落差です。日本国憲法の平和主義の効用評価し、もっと広義の国防を重視する政治家だと勝手に期待していました。安保関連3文書改定の中味は、安倍政権の時よりも懸念すべき狭義の国防に重心を傾けた大きな方針転換だと言えます。

広義の国防と狭義の国防、同様の意味合いとして「外交・安全保障のリアリズム」という記事の中でソフトパワーとハードパワーという対になる言葉も紹介していました。国際社会は軍事力や経済力などのハードパワーで動かされる要素と国際条約や制度などのソフトパワーに従って動く要素の両面から成り立っていることを綴っていました。

もう一つ、抑止に対し、安心供与という言葉があります。安心供与という言葉は7年前の「北朝鮮の核実験」という記事の中で初めて紹介しました。安全保障は抑止と安心供与の両輪によって成立し、日本の場合の抑止は自衛隊と日米安保です。

安心供与は憲法9条であり、攻められない限り戦わないと決めてきた専守防衛こそ広義の国防の一つです。安心供与はお互いの信頼関係が柱となり、場面によって寛容さが強く求められていきます。相手側の言い分が到底容認できないものだったとしても、最低限、武力衝突をカードとしない関係性を維持していくことが肝要です。

抑止力の強化を優先した場合、ますます強硬な姿勢に転じさせる口実を相手に与えてしまいがちです。外交交渉の場がなく、対話が途絶えている関係性であれば、疑心暗鬼が強まりながら際限のない軍拡競争のジレンマにつながり、国家財政を疲弊させ、いつ攻められるか分からないため、攻められる前に先制攻撃すべきという発想になりかねません。

このあたりについては4年前の記事「平和の話、サマリー」の中で詳述しています。残念ながら安心供与という言葉は、あまり普及していません。メディアで見かけることが少ない中、最近戦争を防ぐには「安心供与」一見“かったるく”見える外交こそ不可欠』という記事を目に留めていました。

国の安保政策の最大の目的は、戦禍から国民を守ること、すなわち、戦争回避でなければならない。外交は一見「かったるい」ように見えるだろう。しかし、日本の軍拡は相手のさらなる軍拡を招く。戦争を防ぐためには、相手が「戦争してでも守るべき利益」を脅かさないことによって戦争の動機をなくす「安心供与」が不可欠であり、そのためには外交が欠かせない。

上記は新外交イニシアティブ代表の猿田佐世さんの言葉です。安心供与を前面に押し出した外交を進める際、「ハト派」と目されている宏池会の岸田総理は適任だったはずです。昨年11月、岸田総理は習近平主席と対面による会談を3年ぶりに行なっています。

「習氏は終始、気持ち悪いくらい笑顔だった」日中首脳会談 安定した関係構築で一致も懸案では歩み寄れず』『習主席、岸田首相に見せた笑顔の裏側』という記事が伝えているとおり習主席の笑顔は額面通りに受けとめられないのかも知れません。しかし、このような首脳会談が行なわれている限り、中国が突然日本を攻め入ることはないはずです。

その後、岸田総理が安保関連3文書を改定し、G7の5か国訪問を重ねたことで習主席から笑顔は消えています。様々な思惑を秘めた習主席の笑顔は不要だと思われている方が多いのかも知れませんが、結果的に日本と中国の溝が広がり、標的になるリスクも高まったと言えます。

そもそも反撃能力の保有や防衛費の倍増が、戦争を防ぐための欠かせない道筋なのであれば増税も含めて覚悟を決めていかなければなりません。加えて、ここまで国際標準の抑止力のあり方をめざすのであれば、国際社会の中で希有な平和主義を掲げた憲法を改める必要性に迫られています。

戦争を防ぐため、抑止力と安心供与のバランスをどのように保てば良いのかどうか、なかなか難しいことだろうと思っています。ただ確実に言えることは防衛費の倍増を避けられるのであれば、その財源を異次元の少子化対策など他の政策に充てることができます。

いずれにしても防衛費財源は「増税か、国債か」の財政論争に惑わされるな!間違っているのは防衛費を倍増させる安全保障政策だ!』という鮫島さんの記事のとおり国民から信を問うべき重要な論点は、平和を築くための方向性の是非ではないでしょうか。

今回の記事ではウクライナでの戦争を受け、どのように考えるべきか、そこまで話を広げるつもりでした。その記事の中では、最近読み終えた『橋下徹の研究』という書籍の内容についても触れるつもりでした。いつものことですが、たいへん長い記事になっていますので、機会を見ながら次回以降の記事で改めて取り上げていきます。

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2023年1月15日 (日)

大きな節目の1000回

前回記事「失望感が募る岸田政権」には書き足したい内容が数多くありますが、次回以降、機会を見て示していければと考えています。今回、記事タイトルに掲げたとおり大きな節目の1000回を迎えています。これまで当ブログの更新回数が100を刻んだ時、次のような記事を投稿してきました。

100回の時は、あまり投稿数を意識していなかったため、100回目の記事という認識がないまま普段通りの内容を書き込んでいました。その直後、たまたまココログの管理ページを目にした際、直前に投稿した記事が100回目だったことに気付きました。

そのため、101回目という少し半端なタイミングでのメモリアルな記事内容となっていました。毎週1回の更新が定着し、先が読みやすくなっていた200回目以降は失念することなく、上記のような記事をピンポイントで綴ることができています。

訪問されている方々にとって、この記事が何回目だろうと関係ないことは重々承知しています。それでも節目のタイミングを利用し、このブログがどのような性格のものなのか改めてお伝えさせていただく機会としていました。

このブログを開設した切っかけは以前の記事「このブログを始めたイキサツ」の中で綴っていました。NHKと朝日新聞が「従軍慰安婦」関連番組への政治介入問題に絡み、真っ向から対立した報道を繰り広げていました。真実は一つでも、どちら側の報道内容に接するかどうかで、その真偽の評価や印象がガラリと変わっていました。 

ちょうど世の中は大阪市役所の厚遇問題などで、公務員への厳しい視線や声が強まっていた頃でした。当然、公務員やその組合側も改めるべき点は即座に改める必要があります。ただ主張すべきことは主張する必要性を強く感じていた時、誰でも簡単にインターネット上で意見を発信できるブログと出会いました。

このブログを開設した当初は毎日のように記事本文を更新していました。しばらくして週2、3回のペースとなり、1年後ぐらいから週1回の更新間隔が定着していました。2012年の春頃からはコメント欄も含め、週に1回、土曜か日曜のみにブログに関わるようにし、現在に至っています。

実生活に過度な負担をかけないペースとして毎週1回、土曜日か日曜日に更新するようになってから「週刊」を習慣化できています。元旦に新規記事を投稿しようと決めているため、年末年始だけ変則な投稿間隔となっています。

2011年3月、東日本大震災の発生直後の週末も、ためらいながら「東日本巨大地震の惨禍」という記事を投稿し、被災された皆さんへのお見舞いの気持ちなどを表わしていました。

そのようにつながってきましたが、4年前の3月1日に母が亡くなり、一度だけ新規記事の投稿を見合わせていました。母が亡くなった直後、とてもブログを更新する気にはなれませんでした。深い悲しみと落胆に沈み込んでいたことはもちろん、そのような時にブログに関わることの不適切さを感じていました。

再開した際の記事「母との別れ」は自分自身の気持ちの整理を付けていくための通過点とし、苦労を重ねてきた母親を偲びながら母と過ごした年月をずっと忘れないためにも初めて私的な内容を前面に出した記事を投稿していました。これまで100回という節目で記事を投稿する際、次のような言葉を添えています。

もし定期的な更新間隔を定めていなければ、日々の多忙さに流され、いわゆる「開店休業」状態が続いていたかも知れません。それでも年月は過ぎていくことになります。一方で、投稿した記事の数は自分自身の労力を惜しみ出したり、続けていく熱意が冷めてしまった場合、停滞してしまう数字です。

800回の時には、不慮の事態に遭遇しても数字が滞ることを付け加えていました。健康上の問題、大きな天災などに直面した場合、自分自身の意欲や労力云々以前の問題としてブログの更新どころではなくなります。

そのような意味で今回、たいへん大きな節目である1000回を刻めたことのメモリアルさについて、よりいっそうかみしめる機会となっています。いずれにしても週1回の更新ペースを崩さず、継続できているのも多くの皆さんが訪れてくださるからであり、いつも心から感謝しています。

このブログを長く続けている中、いろいろ貴重な経験や機会も得られました。2007年末にはぎょうせい出版社の記者から取材を受け、月刊ガバナンス1月号の連載『「自治」サイト探訪』で当ブログを取り上げていただきました。

その記者の方が特に注目くださったのはコメント欄での意見交換のあり方で、「こうした地道なコミュニケーションが、自治体への信頼の醸成につながっていくのではないだろうか」と結んでいただいていました。自治体向けの有名な情報誌へ好意的に掲載いただき、たいへん光栄なことでした。

他にも別な出版社から書籍化の話が示されたこともありました。具体的な相談を行ない、粗い原稿を提出するところまで至っていました。最終的に「没」という判断を下された訳ではなく、私自身の力不足や怠慢によって書籍化を前提にした原稿をまとめ切れないまま望外な機会を逸していました。

貴重な機会を提供くださった皆さんにはご迷惑をおかけし、期待に応えられず、たいへん申し訳なく思っています。60年を越える人生の中で様々な分岐点がありましたが、この時の力不足が最も悔やむべき選択だったように振り返る時も少なくありません。

公務員になったイキサツ」という記事の中で、希望する職業へステップ・アップする手段としての公務員志望だったことを伝えていました。ちなみに配属後、数日間で「永久就職でいいかな」と人生設計を変えてしまったほどの素晴らしい職場との出会いだったことも記していました。

希望する職業はマスコミ関係で、モノを書いて人に伝えるという仕事にあこがれていました。そのような夢のとば口に少しでも関われるチャンスを逃してしまったことは重ね重ね残念な結果でした。

もし書籍化のチャンスに再び恵まれた場合、組合の委員長を退任し、余暇の時間もたっぷり取れる今、18年近くブログを続けてきた経験をもとに「全集中の呼吸」(💧)で対応できるはずです。

ブログを長く続ける中で注意している点は、不特定多数の方々に見られることを常に意識した記事内容の投稿に努めるという心構えです。不確かな情報や知識での断定した書き方はもちろん、賛否が分かれる問題についても結論を押し付けるような書き方は極力避けるように努めています。

誰もが閲覧できるブログでの発言の重さをいつも念頭に置きながらパソコンに向き合っています。 このような意味合いから週に1回の定期更新は自己啓発の機会であり、自分自身の主張を広く発信できる自分なりの一つの運動として位置付けています。

そして、何よりもブログを始めて良かったと思うことは本当に幅広く多様な考え方や意見に触れられたという経験です。コメント欄には辛辣な批判意見が数多く寄せられてきましたが、インターネットを介した匿名の場だからこそ触れることができた飾らない声の一つ一つだったものと考えています。

これまで多様な声があることを受けとめ、日常の職務や組合活動に臨める意義深さを感じ取ってきました。基本的な立場や考え方の違いから批判を受ける場合もありますが、そのことも含めて貴重な機会だととらえています。

どのような点が批判されるのか、どのように説明していけばご理解いただけるのか、いろいろな意味で「気付き」の機会につながっていたからです。ただ500回目の頃と比べ、コメント欄の雰囲気が大きく様変わりしています。

500回目の記事の中に「普段のアクセス数は千件から2千件ぐらいの幅で推移し、コメント数が100を超えた記事も数多くありました」と書かれています。ここ数年、日々のアクセス数は当時に比べれば大きく減り、コメントの寄せられない記事のほうが多くなっています。

それでも組合役員を退任」「最後の定期大会」などの記事に対し、 たいへん心温まるコメントをお寄せいただいていました。退職されている方から「ブログを見て委員長を退任されることを知りました」という連絡もあり、このブログを注目くださっている方々は決して少なくないものと思っています。

このような手応えがあり、個人の責任で運営してきたブログですので委員長退任後も継続しています。私自身にとってブログに出会えたことは大きな「財産」であり、引き続き次の節目である1100回をめざしています。

最後に、これからも一人でも多くの方にご訪問いただければと願っています。また、出入り自由な場として、お気軽にコメントもお寄せいただければ誠に幸いです。どうぞよろしくお願いします。

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2023年1月 7日 (土)

失望感が募る岸田政権

新年早々の前回記事「2023年、しっかり兎の耳を立て」の最後に、私たちは今、どのように考え、どのような声を上げていけば良いのか、しっかり兎の耳を立て、とりわけ現在の政治の動きについて、幅広い情報を紹介しながら多くの方々から「なるほど」と思っていただけるような内容を発信していければと考えています、と記していました。今回、時事の話題をいくつか紹介しながら政治の動きに対する個人的な思いを書き進めていきます。

これまで一昨年8月から9月にかけて「信頼できる政治の実現に向けて」というタイトルの記事を 「Part2」 「Part3」まで続け、岸田政権が発足した直後に「再び、信頼できる政治の実現に向けて」、昨年11月には信頼できる政治のあり方」という記事を投稿していました。それらの記事を通し、信頼できない政治については次のように記しています。

偏った情報のみで判断し、そのように判断した根拠が曖昧で、国民が納得するような説明責任を果たせず、結局のところ望ましい結果も出せなかった、このようなことが繰り返されれば政治に対する信頼は失墜していきます。さらに自己の利益を優先した判断ではないかと疑われ、正当化するための釈明も説得力がなく、発する言葉に重みが欠けていくようであれば信頼感は皆無に近くなります。

岸田政権が発足した直後「怒鳴ってばかりではチーム力を発揮できない」と述べ、「聞く力」をアピールポイントにしていた岸田総理の政治の進め方に期待していました。さらに自民党の中でハト派とされる宏池会の岸田総理は、安倍元総理の路線とは一線を画すものと期待していましたが、すべて過去形になりつつあります。

元旦に配信された『防衛増税で国民を裏切った岸田首相、「聞く力」に騙されたメディアは猛省せよ』という記事の中で、岸田政権に代わって官邸の雰囲気はガラッと一変し、岸田流で官僚がのびのびしていたことを伝えていました。トップダウン型の意思決定プロセスからボトムアップ型をめざす岸田政権に対し、マスメディアが 「強権的な安倍・菅政権よりもマシだ」と評価していた点も伝えていました。

その記事では、聞く気もないのに「聞く力」を標榜してきた岸田首相の危うい本質や悪質さに気付き、ようやく岸田政権に甘かったマスメディアも慌てて猛批判を開始したと非難しています。たいへん残念ながら私自身も、今回の記事タイトルを「失望感が募る岸田政権」にしたとおり岸田総理に対する期待は裏切られてきたことになります。

それでは、のびのびした官僚の皆さんが働きがいを取り戻したのか、その点についても倫理観も夢も失った官僚達』という記事に触れると懐疑的な現状が続いているようです。「霞が関では幹部クラスが皆、事務次官や大臣、官邸、声の大きい有力議員の方を向いて仕事をしていて、しかもその内容が政治家や役所の利益のためのものである場合が非常に多い」と伝えています。

確かに官邸一強の構図は変わり、意見具申する官僚を総理大臣が恣意的に左遷するような事態はなくなっているのかも知れません。しかし、その結果として前回記事で紹介した自転車利用者のヘルメット着用の努力義務化など、影響力の大きい組織や人物の声が通りやすくなっているように思えてなりません。

岸田総理の「聞く力」は幅広い声を吸い上げるものではなく、一部の有力者の声に対して「聞く力」を発揮し、現状やデメリットをどこまで検証しているのかどうか甚だ疑問です。『木原誠二官房副長官、岸田政権“国民より党内”の指摘「やむを得ない」と認めるテレビ発言に怒号の嵐「国民の方向いて政治して」』という報道などに接すると、ますます失望感が募っていました。

1月4日の毎日新聞のトップに『反撃能力、乏しき信念 首相、総裁選にらみ発信』という見出しが掲げられていました。安倍元総理の周辺から敵基地攻撃能力の保有表明を求められたことを暗に認め、派内での反対の声を押し切り、岸田総理の強い意思や信念が見えないまま日本の安保政策の大きな転換に至った経緯を伝えています。

ブックマークしているジャーナリストの鮫島浩さんの記事『対米追従の防衛費倍増には財務省が唱える「財源論」ではなく日本国憲法が掲げる「平和主義」で反対しよう!』のとおり国民からの信を問うべき重要な論点は、日本が国際社会の中で際立った平和主義を誇示した国であり続けるのかどうかだろうと思っています。

このあたりについては機会を見て、次回以降の記事で改めて掘り下げたいものと考えています。いずれにしても岸田首相、防衛増税前の解散発言をトーンダウン 波紋広がり修正図ったか』という報道も、岸田総理に対する失望感を高めていく話だと言わざるを得ません。これほど重要な国の未来を左右する大転換に対し、国民からの「聞く力」を放棄する姿勢に深く落胆しています。

さらに岸田総理は「解散・総選挙は専権事項として時の首相が判断するものだ」と述べ、自身がフリーハンドを握っていることを強調しています。学習院大学大学院法務研究科の青井未帆教授は「解散は首相の専権事項」と言い方が正確ではなく、「内閣の一方的な都合や党利党略で行なわれる解散は不当である」と述べています。

苫米地事件判決のとおり解散という国家行為は「最終的には国民の政治判断に委ねられているもの」とされているため、岸田総理に限らず、頻繁に使われている「専権事項」という言葉には違和感を抱いています。岸田総理は見識の高いほうの政治家だと思っていましたが、最近の言葉使いの一つ一つで気になる点が目立っています。

異次元の少子化対策」もその一つです。言葉の使い方、その中味に対し、いろいろ批判的な声が上がっています。作家・ジャーナリストの河合雅司さんは『 岸田首相「異次元の少子化対策」への強烈な違和感…これでは子どもは生まれないと断言できるワケ』という記事で「政治家たちのやってる感に振り回され、付け焼刃の子育て支援策の強化だけに終わったでは日本は沈む」と批判しています。

年頭の記者会見で賃上げの必要性について岸田総理は「この30年間、企業収益が伸びても、期待されたほどに賃金は伸びず、想定されたトリクルダウンは起きなかった。私は、この問題に終止符を打ち、賃金が毎年伸びる構造を作ります」と語っています。労働組合の役員だった一人として、この言葉は歓迎すべきものです。

賃上げの実現方法を問われた際、岸田総理は「リスキリングによる能力向上を支援、日本型の職務給の確立。成長分野への雇用の円滑な移動を三位一体で進め、構造的な賃上げを実現します」と答えています。総論的な意味合いとしては理解できる手法ですが、「毎年伸びる構造」に対する答えとして充分なのかどうか少し違和感がありました。

このブログの以前の記事「八代尚宏教授の発言」などを頭に浮かべながら、結局のところ新自由主義的な色合いの残る構造改革路線の延長線上での発想であるように思いがちです。気になり始めると本当に些細な点も懐疑的な見方につながってしまいます。それほど総理大臣という職責は極めて重く、国民から注視されている表れであることを岸田総理にはご理解願いたいものと考えています。

皮肉にも「聞く力」を自負している岸田総理の身近には有能なブレーンがいないようです。「総理、この言葉は」「総理、その判断は」と諫言できる人物がいれば支持率の低下も、もう少し抑えられていたのではないでしょうか。

最後に、そのような現状を浮き彫りにした一例を紹介します。「このタイミングで困るじゃないか!」閣僚更迭でブレまくった岸田文雄首相が「朝6時半」に電話した相手』という記事の中で、下記のとおり長男を政務担当秘書官に抜擢した経緯を伝えています。

長男の岸田翔太郎を政務担当秘書官に抜擢したのもしかり。支持率低下が加速し始めていた10月、なぜそんな人事に踏み切ったのか。真相は「政務秘書官を務めていた山本高義を事務所に戻し、代わりに翔太郎が政務秘書官になる人事を、約1年前から決めていたから」(官邸筋)だという。

要するに、首相就任1年後に翔太郎を官邸入りさせることが既定路線だったから、その予定通りにしただけというわけだ。支持率低下の局面でこんな親バカ人事をしたら世間がどう受け止めるかさえわからない、岸田の鈍感ぶりを示すエピソードである。

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2023年1月 1日 (日)

2023年、しっかり兎の耳を立て

あけましておめでとうございます。 Usagi_2

今年もよろしくお願いします。 

毎年、元旦に年賀状バージョンの記事を投稿しています。いつも文字ばかりの地味なレイアウトであるため、せめてお正月ぐらいはイラストなどを入れ、少しだけカラフルになるように努めています。

2005年8月に「公務員のためいき」を開設してから998タイトル目となりますが、必ず毎週土曜又は日曜に更新し、昨年1年間で53点の記事を投稿していました。一時期に比べ、お寄せいただくコメントの数が減り、1日あたりのアクセス数も減っています。

以前、Yahoo!のトップページに掲げられた際のアクセス数23,278件、訪問者数18,393人が1日あたりの最高記録です。その頃に比べると2桁違う数で推移しています。ことさらアクセスアップにこだわっている訳ではありませんが、やはり一人でも多くの人たちにご訪問いただけることを願っています。

特に当ブログは不特定多数の方々に公務員やその組合側の言い分を発信する必要性を意識し、個人の判断と責任でインターネット上に開設してきました。そのため、より多くの人たちに閲覧いただき、多くのコメントを頂戴できることがブログを続けていく大きな励みとなっています。

2012年の春頃からは背伸びしないペースとして、コメント欄も含め、週に1回、土曜か日曜のみにブログに関わるようにしています。そのことだけが理由ではないようですが、前述したとおりお寄せいただくコメントの数は減っていました。それでも記事内容によっては貴重なコメントをお寄せいただけているため、このブログをご注目くださっている皆さんにいつも感謝しています。

さて、今年は兎年(卯年)です。年賀状には【これまで職務と組合活動、二兎を追ってきましたが、昨年11月に執行委員長を退任しています。組合役員を長年務め、たいへん貴重な経験や交流を重ねられたことを心から感謝しています。ブログ「公務員のためいき」は引き続き週1回更新しています。今年も最新記事は年賀状仕立てとしています。お時間がある際ご覧いただければ幸いです】と書き添えていました。

12年前の元旦の記事「2011年、卯年に思うこと」では、私自身の置かれた立場上、しっかり二兎を追わなければならないという思いを記していました。職員組合の委員長という責任を負っていましたが、組合専従ではない限り、徴税吏員としての職務にも全力を注ぐ決意を述べていました。

そのような責任や役割から開放され、自分自身にとって大きな節目を刻んだ2022年だったと言えます。このことについては昨年秋「組合役員を退任」「最後の定期大会」 「リスタートの一週間」「近況から思い出話まで」 「連合地区協役員も退任」 という一連の記事で、いろいろな思いや近況をお伝えしています。

後任の新委員長らに煙たがらないような関係性を意識し、当初、組合事務所に顔を出すこともなるべく控えようと考えていました。ただ組合員として残っているのであれば「協力できることは協力していこう」と考え、新委員長とも話した上、4年前に創設した協力委員を引き受けています。

協力委員は定例の執行委員会や労使協議の場には関わりませんので、重圧感が大幅に緩和されている点については変わりません。庁内のニュース配布や各種集会参加に可能な範囲で協力していくつもりです。他にも三多摩平和運動センターの事務局長から勧誘され、センターの個人会員として関わらせていただくことも決めています。

年賀状にも書き添えていますが、もともと個人の責任で運営してきたブログ「公務員のためいき」ですので委員長退任後も継続しています。毎週1回、ブログを更新していくことは自己啓発の機会であり、さらに私自身の思いを不特定多数の皆さんに発信する場として背伸びしない一つの運動として位置付けています。

より望ましい「答え」を見出すためには幅広い情報や考え方に触れていくことが重要であるため、このブログが多面的な情報を提供する場として受けとめていただけることを願いながら続けています。「答え」の押し付けではなく、このような見方もあったのかという多面的な情報の一つとして発信しています。

今年は兎年であり、インターネット上で兎にちなんだ諺を改めて調べてみました。シンプルな「兎の耳」という言葉は「人の知らない事件や噂などをよく聞き出してくること。地獄耳と同じこと」と説明されています。同じ事象に接していても、得られた情報によって評価が変わる場合もあります。

そのため、兎の耳の一つとして当ブログが少しでもお役に立てれば何よりだと思っています。私自身も兎の耳の大切さを意識し、いつも様々なサイトを訪れ、幅広い情報や考え方に触れるように心がけています。

そして、目に留まった内容のサイトを当ブログの中で頻繁に紹介しています。いわゆる情報の拡散です。新年早々、年末に目を留めていた興味深いサイトをいくつか紹介することも考えていました。いつものことながら長い記事になりつつありますので、1点に絞って紹介させていただきます。

ブックマークしているジャーナリストの鮫島浩さんの自転車ヘルメット着用が来春から義務化ってマジ!? 政権内で強まる警察権力〜国民生活の常識とかけ離れたルールが立案され閣議決定されてしまう恐ろしさ』という記事です。今年4月から自転車利用者はヘルメット着用が努力義務とされます。

このニュースに接した時、私自身も強い違和感を抱いていました。死傷者を減らすためには望ましいことだとも言えますが、現状やデメリットをどこまで検証した上での判断だったのか疑問でした。メリットだけを主張する側からの意見が通ったのではないかと懸念していました。

そのように思っていた時、鮫島さんのサイトを訪問し、警察の利権や権力が絡んだ動きであるという見方に触れていました。すべて正しい情報なのかどうか分かりませんが、「なるほど」と頷ける点が多々あった鮫島さんの論評でした。

岸田総理は「聞く力」を自負されていますが、たいへん残念ながら幅広い声を「聞く力」ではないようです。重要な問題である安保関連3文書や原発政策の転換なども、様々な声があることを踏まえて判断されているのかどうか非常に疑問です。このあたりについては、次回以降の記事で掘り下げてみるつもりです。

前回記事「2022年末に『ウクライナ戦争論』」の最後のほうで「私たちは今、どのように考え、どのような声を上げていけば良いのか」と記していました。しっかり兎の耳を立て、とりわけ現在の政治の動きについて、幅広い情報を紹介しながら多くの方々から「なるほど」と思っていただけるような内容を発信していければと考えています。

最後に、いつもお正月のみ少し変則な日程となっていましたが、今年も通常の間隔通り次の土曜か日曜に更新する予定です。それでは末筆ながら当ブログを訪れてくださった皆さんのご健康とご多幸をお祈り申し上げ、新年早々の記事の結びとさせていただきます。

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