2022年末に『ウクライナ戦争論』雑感
このブログは毎週1回、土曜か日曜に更新しています。そのため、今回の新規記事が2022年に投稿する最後のブログ記事となります。一昨年「コロナ禍の2020年末」、昨年は 「コロナ禍が続く2021年末」という記事をその年の最後の記事タイトルとしていました。
行動制限は緩和されていますが、新型コロナウイルスの感染者数は依然高いままです。私どもの市役所では職場での忘年会や新年会を催す動きはありません。まだまだコロナ禍が続いている2022年の暮れですが、今年はウクライナでの戦争を題材にした内容が最後の記事となります。
2月24日にロシアがウクライナに軍事進攻し、10か月が過ぎようとしています。たいへん残念ながら戦火の消える兆しが未だ見出せていません。ウクライナのゼレンスキー大統領は軍事侵攻後、初めてウクライナを離れアメリカを訪問しました。バイデン大統領との会談後には連邦議会で演説し、次のような言葉で支援の継続を訴えています。
一国の平和はもはや、あなたとあなたの国民だけによって決まるものではありません。それは隣国であって、力を持った国によって決まるのです。強さというのは、大きな領土を持つということではありません。勇敢で、自国民と世界の市民のために戦う意思があることを言うのです。人権と自由のために戦うのです。普通に生活できて、来たるときに死ぬ権利、それは隣国や誰かによって決められるものではありません。
きょう、ウクライナ人はウクライナを守っているだけでなく、未来という名のもとに西欧の価値観と世界のために命をかけて戦っています。アメリカがウクライナだけでなく、ヨーロッパと世界各国を支援しているのは、地球を持続させ、歴史に正義を刻み続けるためなのです。
これまで当ブログでも「ウクライナでの戦争から思うこと」などを通し、多くの国々が結束してウクライナを支援している構図は物凄く重要な関係性であることを訴えてきています。このような関係性が普遍化されることで、ロシアと同じように軍事力で「自国の正義」を押し通そうと考えていた国々に対する大きな牽制効果を与えていけるものと考えています。ゼレンスキー大統領の訴えは、そのような問題意識を背負った強い信念と覚悟を持った言葉だったものと受けとめています。
前回記事のタイトルは「『標的の島』と安保関連3文書」でしたが、書き始めた時は「『標的の島』と『ウクライナ戦争論』」でした。最後のほうで紹介した記事『鈴木宗男氏 ロシア配慮発言を繰り返す理由を明かす「戦争は双方に言い分がある」』の後、小林よしのりさんの『ウクライナ戦争論』の話につなげていくつもりでした。
いつものことですが、書き進めるうちに思った以上に長くなり、『ウクライナ戦争論』に関しては翌週に投稿する新規記事の題材として先送りしていました。結果的にゼレンスキー大統領の電撃的なアメリカ訪問という時事の話題に冒頭で触れることができ、先送りしたことが正解だったようです。
帝国主義の時代に“逆回転”する世界――。日本は戦争の当事国となる覚悟はあるのか??ロシアによる侵略行為によって始まったウクライナ戦争は、すでに両国あわせて10万人を超える死者を出したという報道も出ている。開戦当初こそ軍事大国・ロシアが圧倒的優位と見られていたが、戦況は一進一退の膠着状態が続いており停戦への道筋は一向に見えない。
9月の終わりには、ロシアのプーチン大統領が30万人規模の兵士を戦線に追加投入するため部分的動員礼を発令。銃を携えたロシア軍兵士の監視のもと行われた住民投票を根拠に、ウクライナ東部と南部4州のロシア編入を一方的に宣言するなど、ここにきてなりふり構わず戦争を継続させる姿勢を見せている。なぜ、プーチンは苛烈な経済制裁を受け、国際社会から孤立してまで、侵略戦争という暴挙に出たのか?
その答えは、ロシアとウクライナのナショナリズムの歴史に深くかかわっている。この先、プーチンが「ロシア劣勢」と判断したら、そのとき世界は核のリスクと真剣に向き合うことになるはずだ。そして、ウクライナがロシアに屈したら、次は強権国家・中国によって台湾が主戦場になるだろう。そうなれば、日本は戦争の当事国にならざるを得ない。いま、世界は大きな歴史の転換点に立たされており、日本人は覚悟を求められているのだ。
1990年代終わりに、国論を二分する大論争を巻き起こした90万部突破のベストセラー『戦争論』から25年――。「国家」とは何か?「正義」とは何か? 漫画家・小林よしのりが「お花畑国家」・日本に再び警告する。
上記はリンク先サイトに掲げられた『ウクライナ戦争論』の紹介文です。これまでも小林よしのりさんの見方や考え方について、共感を覚えることもあれば、違うと思うこともありました。今回はゼレンスキー大統領に対する評価をはじめ、概ね賛同できる点が多かった書籍だったと言えます。
戦争は賛成できるものではなく、今回のウクライナ問題は戦争と呼べるモノでは無いのですが、今回のウクライナ問題が何故危険なのかと言う事を考えさせられる一冊です。一方的にロシアが悪い、ロシアを擁護するやつは悪いやつという言い方がされますが、この一冊でずいぶんと理解が深まったような気がします。
ウクライナを守るために国連軍や、西側の軍隊が参戦した方が問題は長引かないのではと軽く考えていたのですが、ゼレンスキー大統領がロシアだけで無く何と戦っているか、衝撃でした。
日本を愛すだけでは国は守れない、軍備を拡張するだけでは国は守れない。日本が他国に侵略されたとき、日本という国は無くなって、日本人は消滅すると言うことを分からせてくれる一冊です。右、左、色々な思想の人はいますが、まずは読んでから議論したいですね。
リンク先では多くのカスタマーレビューを読むことができます。その中で上記は『ウクライナ戦争論』に託した小林さんの思いを汲み取った意見であり、多面的な見方の大切さを感じ取られている点に共感していました。
私自身が印象に残った箇所をいくつか紹介していきます。書籍の冒頭、序章「終わりなき日常は来ない」に掲げられていた小林さんの次のような言葉です。『ウクライナ戦争論』全体を通し、小林さんが最も訴えたかった考え方だろうと理解しています。
国家がなくなることなど、ないのだから戦争は必ず起こる!「平和は大切」と何億回、訴えてもムダだ!プーチンにも習近平にも「反戦平和」は通じない!戦争は必ず起こる!!
わしはグローバリズムではなく、国家が前提の「インター・ナショナリズム」が大事であり、国家と国家の独自性を尊重して交際していくしかないのだと訴えてきた。したがって「国際法」は、国家の主権を重んじて共存していくために、大事なものである。
国境をなくし、経済で結ぶつき「世界市民」となり、国家がなくなれば、戦争もなくなるという発想は「幼稚な夢だった」と小林さんは切り捨てています。さらに国際法の弱点として、国際法は慣習法であり、具体的な罰則がないことを指摘しています。
今回のウクライナ侵略は何から何まで国際法違反、「軍隊」でもなく、「山賊」や「ギャング団」のような野蛮さであり、「これでは時代が中世に逆戻りしてしまう」とロシアを厳しく批判しています。
このようなロシアの蛮行に対し、小林さんは「ゼレンスキー大統領は、自国のためだけに戦っているのではない。国際法を守るためでもある。ゼレンスキーは世界の弱小国のために戦っているとも言える」と評価しています。
国際社会が軍隊を送ってロシアの侵略を止めるという選択肢は見送られています。「戦時中でもロシアに日常があるのは、ウクライナがモスクワを攻撃しないからだ」という言葉にも着目しなければなりません。
このことが「世界大戦を恐れるとか、核の使用を恐れるとか、そんな臆病さを侮られたら、核大国の思うがままだ」と小林さんは語り、「侵略したもん勝ち」を許さないため、国際法で認められた自衛戦争を貫いているゼレンスキー大統領を書籍の随所で称賛していました。
今そんな「力と力」の世界になってしまったら、核も持たず、満足な軍隊も持たない非力な現在の日本など、ひとたまりもなく、中国かロシアに併合されてしまうに違いない。国際法が効力を持つか否かは、特に我が国にとって死活問題なのだ。
ロシアは人類が辛うじて積み重ねてきた国際法秩序を根本から崩そうとしている。ごーまんかましてよかですか?ロシアがやっていることは人類に対する攻撃である!これは「人類対ロシア」の戦いであり、我々は決して負けるわけにはいかないのである。
この言葉はゼレンスキー大統領の連邦議会での演説内容と同様な主旨となります。国際社会はウクライナに対し、引き続き足並みを揃えて可能な限りの支援を続けていくことが、たいへん重要な使命や局面であることを改めて認識しています。
『ウクライナ戦争論』の最終章「占守島の戦い」も興味深い史実を知る機会となっていました。終戦後に攻め入ってきたソ連軍に対峙し、千島列島の最北端に位置する占守島での戦いがあったからこそ、ソ連による北海道の分割占領を阻止できたという経緯を伝えていました。
北方領土の問題、南北に分断された朝鮮半島の現実を踏まえた時、リンク先のサイトで池上彰さんが「もしも日本軍守備隊の活躍がなければ、北海道北部に『日本民主主義人民共和国』ができていたかも知れない」と語っているような史実でした。
小林さんは「あとがき」の最後に「日本も我われが生きているうちに戦争に巻き込まれることは十分にある。他国の戦争、他人の戦争などと思わず、当事者意識を持つ覚悟は育てておかねばならない。ウクライナは明日の日本かも知れないのだ」と記しています。
この言葉を受け、私たちは今、どのように考え、どのような声を上げていけば良いのか、各論に対する「答え」は個々人で枝分かれしていくのかも知れません。いずれにしても、より望ましい「答え」を見出すためには幅広い考え方や多面的な情報に触れていくことが重要であり、このブログがその一助になれることをいつも願っているところです。
最後に、この一年間、多くの皆さんに当ブログを訪れていただきました。本当にありがとうございました。どうぞ来年もよろしくお願いします。なお、次回の更新は例年通り元旦を予定しています。ぜひ、お時間等が許されるようであれば、早々にご覧いただければ誠に幸いです。それでは皆さん、良いお年をお迎えください。
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