組合役員を退任
前回記事は「信頼できる政治のあり方」でした。リンク先を添えた時事の話題を記事本文の中で紹介しながら内容をまとめています。今回の記事は時事の話題には一切絡まず、ローカルでマイナーな話となります。ちなみに前々回記事「旧統一教会と自民党」の冒頭で次のように記していました。
私どもの組合の話に引き付ければ火曜日に役員選挙が告示され、来週中には立候補する新執行部体制の顔ぶれが決まります。昨年の今頃には「組合役員の改選期、インデックスⅢ」という記事を投稿していました。私自身、長年務めた組合役員を退任するタイミングであり、関連した内容の新規記事は必ずまとめてみるつもりです。
自分自身にとって、たいへん大きな節目を迎えるため今週末に投稿する新規記事は「組合役員を退任」というタイトルを付け、いろいろ思うことを書き進めてみるつもりです。組合役員の信任投票の実施を告知した『組合ニュース』の片隅には下記のような退任の挨拶を掲げています。
組合役員を担ったことで組合の大切さを感じ取り、ここまで長く務めてきました。継続している重要な労使課題は数多く、組合をとりまく情勢は厳しいものがあります。私自身、今期をもって退任しますが、一組合員として新執行委員長らを下支えできればと考えています。組合員の皆さんには本当に長い間、たいへんお世話になりました。これまでの組合活動へのご理解ご協力に改めて感謝申し上げます。ありがとうございました。
このブログでは、これまで執行委員長を今期で退任することについて頻繁に書き込んできています。昨年11月の記事「定期大会を終えて、2021年秋」の中で、今年度はバトンを着実に渡すための一年であるという意識を強めながら臨んでいることを記していました。
たいへん長く担ってきていますので定期大会を間近にしての退任の判断では迷惑をかけるものと思い、一年前に予告した上で引き継ぎのための一年という猶予期間に位置付けてきました。このことは組合役員をはじめ、周囲の皆さんにはお伝えしている話でした。
3月に発行した組合機関誌の特集記事の見出しは「【Will】組合は必要、ともに考え、ともに力を出し合いましょう!」でした。【Will】という言葉は、未来形としての願いであり、バトンを託す皆さんに向けた言葉だという意味合いを機関誌の「おわりに」の中で説明していました。
婉曲な言い方だったため、この言葉から今年11月の定期大会で執行委員長を退くという表明であることは伝わらなかったようです。実は【Will】という言葉には「遺言」という意味もあります。3月末に投稿した「【Will】機関誌に託した思い 」というブログ記事では、そのような暗喩があることも他愛のない逸話として触れていました。
8月の記事「平和への思い、2022年夏」では、8月下旬に職場回覧する「平和や人権に関わる組合方針の確立に向けて(参考資料)」のタイトルに【卒論】という言葉を添えようかどうか考えていたことを明かしていました。【卒業論文】という文字通りの言葉であり、ストレートな退任予告のメッセージとなります。
結局【卒論】という言葉は添えませんでしたが、結びの一言として、今年3月に発行した機関誌の特集記事の見出し「【Will】組合は必要、ともに考え、ともに力を出し合いましょう!」のような組合活動が進められていくことを心から願っています、と添えていました。
10月初めの「安倍元総理の国葬 Part2」の冒頭では自治労都本部の中央委員会の議長を務めた話に触れています。11月11日の定期大会をもって単組の組合役員を退任することについて、他の組合の皆さんに挨拶できる貴重な機会だったため、中央委員会の議長を退任する際の挨拶の中で申し添えていたことも記していました。
経過報告や資料等も掲載した定期大会議案書は来週職場回覧します。早期配布を目的にした方針案の冊子は10月下旬に組合員全員の手元に届いています。その方針案の配布よりも一足早く、議案書の冒頭に掲げる私自身の最後の「はじめに」の全文を当ブログの記事の中で紹介していました。
私自身、今回の定期大会をもって執行委員長を退任します。青年婦人部の幹事時代から数えれば40年余り貴重な経験や交流を重ねてくることができました。本当にありがとうございました。
上記は「はじめに」の結びの言葉です。このように不特定多数の方々が閲覧できる当ブログで頻繁に取り上げてきたとおり退任するという話は「知る人ぞ知る」オープンな情報でした。それでも『組合ニュース』等で明らかにするまで組合員の皆さんの大半は知らなかったようです。
このブログを継続的にご覧になっている方が極めて少数であるため予想していたことです。そのため最近になって、多くの方から「やめてしまうのですね。長い間、ご苦労様でした」「まったく関わらないんですか?」「市役所を退職するのですか?」というような労いの言葉や質問を受けることが増えています。
これまで執行委員長を務めた諸先輩が退任後、副委員長として残るケースは多くありました。今回、そのような選択肢は一切考えませんでした。定例の執行委員会に出席する組合役員の一人として残った場合、きっと自分なりの考えを強く主張してしまうのだろうと思っています。
そのような場面が続くと、新委員長らがやりづらいだろうと考えています。逆に言いたいことを我慢していくことはストレスをためる話であり、残った意味合い自体が薄れる関係性となります。このような点を考慮し、委員長を退任する時は組合活動そのものから距離を置く時だと決めてきました。
もちろん退任してからも相談を受ければ快く対応し、引き継ぎ面での助力を求められれば可能な限り手助けしていくつもりです。市役所を退職する訳ではないため、これからも組合事務所には気軽に足を運ばせてもらいます。冒頭で紹介した退任挨拶に記したとおり一組合員として新委員長らを下支えできればと考えています。
ちなみに「市長選に出るんですか?」という驚きの質問もありました。来年夏に市長選が予定されているため、そのような質問があった訳ですが「あり得ません」と笑い話として即答しています。ここ最近、多くの方から退任に際して温かい言葉をかけていただき、たいへん有難く感謝しています。
同じポストに同じ人物が長く続けるのは、あまり望ましいことではありません。そのような意識が働いていたため、執行委員長を何年務めてきたのか、しっかり数えてきていませんでした。退任にあたり、改めて数えてみると18年間務めてきたことになります。私どもの組合の歴代委員長の中で際立った長さとなっていました。
私の前の委員長3人は、それぞれ自治労都本部の役員となり、休職や離籍専従で組合活動を続けられていました。私自身、家庭介護の事情があり、現状よりも負担が生じる役割への転身は控えてきました。自治労や連合の関係者の方々から何回か相談を受けた時、ご期待にいつも応えらず、たいへん申し訳ありませんでした。
いろいろ振り返り始めると、新庁舎移転前の朝の風景を綴った12年前の記事「顔を上げれば満開の桜」を思い出していました。その中で「ここ数年、同世代の職員の課長昇任が続いています」と記し、次のような思いを添えていました。
その中には一緒に組合役員を担った人たちも多く、組合活動で苦楽を共にしたメンバーが管理職に登用されていくことを非常に心強く思っています。一方で、組合活動への「良き理解者」であった組合員が一人ずつ減ることでもあり、一抹の寂しさも伴っていました。また、それぞれの選択した道の違いによって、役所における立場の枝分かれが顕著になっていくことの感慨も覚えていました。
議案書の「はじめに」の最後に記しているとおり青年婦人部の幹事時代から数えれば40年余り貴重な経験や交流を重ねてくることができたことを心から感謝し、後悔という2文字はまったくありません。
ただ18年間、私が委員長を担ってしまったことで組織としての新陳代謝が遅れたことも確かです。毎年、責任の重さを受けとめ、結果として継続することを判断してきました。今回、副委員長がプレッシャーを感じながらも委員長を引き受けていただけることになり、たいへん安堵しながら感謝しているところです。
『組合ニュース』に掲げた退任挨拶で触れているとおり継続している重要な労使課題は数多く、組合をとりまく情勢は厳しいものがある中で、バトンを渡すことに心苦しさもあります。とは言え、どこかで渡さなければならないバトンであり、これからは組合員の一人として新委員長に精一杯エールを送らせていただきます。
思った以上に今回も長い記事になっていますが、もう少し続けます。委員長に選ばれた翌年の8月からブログを始めています。委員長を退任し、組合役員から離れた後も当ブログは続けていくつもりです。退職まではタイトルも「公務員のためいき」のままとし、プロフィール欄だけは手直しする予定です。
実は過去のブログ記事を紹介しながら組合役員としての40年余りの年月を駆け足で振り返ってみようと思っていました。ただ長々とした内容となっているため、今回は「組合役員になったイキサツ」のみ紹介します。それ以降の話は機会があれば別な新規記事を投稿し、改めて振り返ってみたいものと考えています。
最後に、自分自身にとっても懐かしい組合役員になったイキサツを綴った16年以上前の記事、こちらは当時の内容の全文をそのまま紹介させていただきます。
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前回記事は「公務員になったイキサツ」でした。今回、その続編のような話となります。高校を卒業して市役所へ入り、配属された職場の人間関係が非常に暖かく感じたことを紹介しました。
その先輩たちの中に組合役員で、青年婦人部を担当している方がいました。略して青婦部と呼んでいましたが、若手と女性組合員を対象とした組合の下部組織でした。その後、青年女性部と名称変更を経て、現在ではユース部と女性部に独立しています。
その先輩から見れば、当時、十代だった自分は青婦部の幹事へ引き込む絶好の標的でした。入所前、私は組合に対してネガティブなイメージを抱いていました。したがって、あまり組合とは関わりたくないと思っていました。
それが組合役員を務めている明るい先輩たちと出会い、勝手な思いこみと単なる無知なだけだったと考え方を改めていました。それでもプライベートな時間が削られる青婦部幹事になることだけは、絶対避けたいものと考えていました。
決して真面目な大学生でなかったにも関わらず「夜間、学校があるから引き受けられません」と言い訳し、何とか1年目は逃れることができました。2年目の職場の忘年会、その先輩からまたしても口説かれ、やはり初めはキッパリと断っていました。それが酔い(注:この時点では20歳です)が進むうちに「やってみてもいいかな」と言ってしまったようです。
翌日、しっかり新幹事の一人に名前を加えられていました。幹事会は毎週1回、午後6時からでしたが、ほとんど出られませんでした。実際、まだ語学など出席を取る授業が多く、2回生である翌年3月までは比較的よく学校へ通っていました。
少し横道にそれますが、4回生まで単位は順調に取得できていました。卒業に向けて、致命傷となる必修単位を落としてしまい、5回生を経験することになりました。結構な人数が落とされ、内定していた就職先を棒に振った方が何人か出るほどでした。
さて、3回生になった春以降、出席を取る授業がなくなり、大学への足は遠のいていました。が、相変わらず青婦部幹事会への足も遠のいたままでした。したがって、ほとんど「幽霊幹事」のまま任期一年が終わろうとしていました。
それでも時々は青婦部幹事として参加した行動もありました。ある16ミリ映画会に興味を持ち、幹事の先輩数人と出かけました。その映画の題名は「光州は告発する」でした。
チョン・ドハン元韓国大統領の軍事クーデターに反対し、光州市民が大規模なデモなどを行ないました。それに対してチョン元大統領は軍隊を出動させ、自国民に銃口を向け、力ずくで鎮圧をはかりました。その虐殺の模様を記録した映画が「光州は告発する」でした。
それまでも原爆やアウシュビッツ強制収容所の話などを知ることにより、戦争への嫌悪感は人一倍持っていたと思います。ただベトナム戦争も現在進行形の世代ではなく、私の戦争に対する思いは「過去の事実」との認識でした。
それが同じ瞬間、それほど距離が離れていない半島で、戦車でひき殺される人たちがいたことに大きな衝撃を受けました。さらに今から思えば、その北の国でも非人道的な行為を繰り広げていたことになります。
この映画を見たことにより、少し考え方に変化が出ました。だから何ができるか分かりませんでしたが、青婦部幹事になって一年間、何もしなかったし、何も分かろうとしないで辞めるのも何だなと思い返すようになりました。
結論として、2年目の青婦部幹事については自らの意志で続けることになりました。その時点では、まさか組合の執行委員長まで引き受けることになろうとは夢にも思っていませんでした。その後も様々な節目で迷った場面もありましたが、組合活動を経験できて本当に良かったと振り返ることができます。
また機会がありましたら、その後についても書き込みたいと考えています。とにかく初めから組合の支持者でなかったことが、ある意味で自分自身の強みだと思っています。組合に距離を置こうとしている方たちに対しても、自信を持って「組合って、大切なんだよ」と呼びかけられるからです。
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コメント
OTSU殿
長期間のお勤めご苦労様でした (なんだかやくざ映画のセリフのようですが)
私はこのブログに何度かコメントさせて頂きましたが、OTSU殿がどんなコメントにも誠実に対応されるのを見て、自民党の谷垣禎一という政治家を思い出しました。私は自民党嫌いのせいか自民党にはろくな政治家がいないと思っていますが、谷垣氏は自民党には稀な尊敬すべき政治家だと思っています。
特に谷垣氏が自民党の幹事長だった時の
与党政治家は、自分の思ったこと、言いたいことを言い募ればいいという、
そういう責任の浅いものではありません。
とにかく物事が進み世の中がそれなりに収まる、そういう状況を作る事が
与党政治家だと思います。
という発言が印象に残っています。
OTSU殿はこのブログでご自身の言いたい事だけを言い募らず、いろいろな意見を考慮して物事が進み世の中がそれなりに収まるようにしていきたいという気持ちが感じられました。
最近は自分の言いたい事や支持者が聞きたい事だけを言い募ったり、原発や防衛費のようにどさくさに紛れて自分の田んぼに水を引く言論が多くなったように感じているので、OTSU殿のような方が引退されるのは残念です。
長い間ありがとうございました。
投稿: Alberich | 2022年12月29日 (木) 20時59分
Alberichさん、コメントありがとうございました。
過分なお言葉に恐縮しています。私自身、このブログを開設し、コメント欄を通して多くの方から様々なご意見を伺えたことで考え方の幅を広げられたものと思っています。
最近、お寄せいただくコメントの数は減っていますが、このような貴重さがあるため、執行委員長退任後もブログは継続しています。ぜひ、これからもお時間等が許される際、ご訪問いただければ幸いですのでよろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2022年12月30日 (金) 08時18分