平和への思い、2022年夏 Part3
ロシアがウクライナに軍事侵攻し、半年が過ぎてしまいました。この瞬間にも罪のないウクライナの人たちの命が脅かされています。たいへん悲しむべきことに戦火は未だ消える兆しさえ見られません。
2020年11月に投稿した記事「グローバルな話題に一言二言」の中で「地球温暖化や感染症対策など自国中心主義では解決できない地球規模の問題に直面している今、よりいっそう国際的な連帯が強く求められているはずです」という言葉を残していました。
しかし、残念ながらロシアのウクライナへの侵略は自国中心主義の極みであり、国際的な連帯の必要性に真っ向から相反するものです。8月に入り「平和への思い、2022年夏」「平和への思い、2022年夏 Part2」という新規記事を投稿しています。
私どもの組合の動きを紹介しながらの内容でしたので、それぞれ「平和への思い」という記事タイトルとのミスマッチ感がありました。もう少し個人的な思いを書き足すことも考えていたため、久しぶりに「Part3」として書き進めています。
前回記事で触れたとおり8月15日のNHKスペシャル『ビルマ 絶望の戦場』などを見て大東亜共栄圏という言葉の空疎さや不条理さを改めて認識する機会となっていました。同時に現在のロシアのプロパガンダと荒唐無稽な「大義」について思いを巡らしています。
大東亜共栄圏とは、欧米列強による植民地支配からアジア諸国を解放し、大日本帝国、満州国、中華民国を中心とした国家連合の実現を企図した構想です。大東亜共同宣言には「相互協力・独立尊重」などが謳われていました。しかしながら実質的には日本による植民地支配をめざしたものに過ぎなかったと見られています。
このあたりの経緯を戦争の悲惨さとともに一連のNHKスペシャルが伝えていました。日本が掲げた「大義」に対し、当初、歓迎したアジアの民衆が失望し、日本軍と対峙する側に変容していくことを映し出していました。その一方で、日本国内の大半の人々は大東亜共栄圏の「大義」を一貫して信じ続けていました。
現在進行形の戦争におけるロシアの「大義」は、ウクライナ領域内におけるロシア「民族の保護」であり、ウクライナの「非ナチ化」だと言われています。 国際社会の中で到底理解を得られないロシア側の言い分ですが、ロシア国内のプロパガンダが功を奏しているのか、そのことを信じているロシア国民は多いようです。
最近、多用している言い回しですが、大地震や感染症など自然界の脅威は人間の「意思」で抑え込めません。しかし、戦争は権力者の「意思」や国民の熱狂によって引き起こされるため、人間の「意思」によって抑えることができるはずです。平和を願う際、このような思いを強めています。
ウクライナへの軍事侵攻を決めたのはプーチン大統領です。ただ国民の多数が支持しているため、後戻りする判断も容易ではありません。独裁国家だったとしても戦争に連なる道は国民の後押しや熱狂によっても左右されていきがちです。6月に投稿した記事「『同志少女よ、敵を撃て』を読み終えて」の中では次のように記していました。
国際連盟を脱退した時の総会に出席していたのは松岡洋右全権大使でした。このことは有名な史実ですが、『昭和天皇物語』の中では松岡全権が連盟に留まることに力を尽くしていた姿を描いています。
昭和天皇からの厳命だったのにも関わらず、不本意な結果に至り、松岡全権は失意のもとに帰国します。しかし、多くの日本国民は国際連盟脱退に歓喜し、松岡全権を英雄として出迎えます。君側の奸と見なされた犬養毅総理らの暗殺、軍による政治への干渉や軍事行動の拡大、それらを許していく国民の熱狂を描いた巻でした。
戦争は権力者の「意思」によって引き起こされます。一方で、権力者の「意思」だけで止められない場合があることも忘れてはなりません。国民一人一人の「意思」が集まった結果、大きな角を曲がってしまう場合があることを思い返す機会となっていました。
前回の記事に掲げた資料「平和や人権に関わる組合方針の確立に向けて」を通し、脅威とは「能力」と「意思」の掛け算で決まることを伝えていました。さらに安全保障は抑止と安心供与の両輪によって成立させることが重要であることも記していました。
自国を守るための手立てとともに国際社会における「法の支配」、つまり国連憲章を守るという大きな枠組みによって戦争を未然に防ぐ英知が整っているものと理解しています。しかし、たいへん残念ながらロシアのような身勝手で無法な国が出現していることも嘆かわしい現実です。
とは言え、そのロシアでさえウクライナへの侵攻は、あくまでも軍事作戦であり、前述したとおり「目的は市民を苦難と大量虐殺から救うことだ」という「大義」まで唱えています。国内向けのプロパガンダであるとともに国際社会から完全に孤立化することを避けたい意図も見て取れます。
このあたりの「大義」を逆手に取り、停戦交渉が進むことも期待しています。武力による現状変更は絶対認められないため、ロシアの狙ったとおりの決着点だけは何としても阻まなければなりません。ただ実利さえ与えなければ「作戦は達成した」というプロパガンダを認めるなど、プーチン大統領の国内向けの面子だけを糊塗した幕引きはあり得るように思っています。
最近の記事で40年近く前に私が脚本を担当したフォトストーリーについて紹介しています。当時は、いわゆる左と右の立ち位置からの二項対立的な図式のもとの表現が目立っていたように感じています。今は、誰もが戦争は避けたいと願っている中で、戦争を防ぐための考え方に相違が生じがちな現状であるという認識を強めています。
その上で、例えば集団的自衛権を行使できるようになることが日本にとって平和に寄与することなのかどうか、具体的な事例等を示しながら「何が正しいのか、どの選択肢が正しいのか」という論点の提起を心がけるようになっています。現在に比べて当時は、そのような認識が薄かったことを思い出していました。
ただ現在も、日中戦争から太平洋戦争までの歴史観の問題は人によって大きく枝分かれしているように受けとめています。終戦記念日の全国戦没者追悼式の式辞で、岸田総理は安倍元総理と菅前総理と同様、周辺アジア諸国に対しての加害責任に触れず「積極的平和主義」という言葉を踏襲していました。
本来の岸田総理の思いを打ち出した言葉ではないように見られています。安倍元総理に近しい人たちに対して「聞く力」を発揮されてしまったのかも知れません。大東亜共栄圏という「大義」を信じていたとは思いたくありませんが、安倍元総理は「侵略」という言葉を一切使うことはありませんでした。
しかしながらNHKスペシャルが伝えていたとおり他国の領土を日本が侵攻していたことは紛れもない事実です。周辺アジア諸国との関係性で考えれば、やはり日本の加害責任について日本側から風化させていくような振る舞いは不誠実なことだろうと思っています。
少し前に自民党の衛藤征士郎議員は「かつて韓国を植民地にした時がある。韓国はある意味では兄弟国。はっきり言って日本は兄貴分だ」と持論を述べ、日韓関係が対等ではないと発言していました。この報道に接した時は本当に驚きました。
「韓国をしっかり見守り、指導するんだ」という上から目線の態度に対し、「立場は対等な隣国、として振る舞うことがなぜできないのか」「ウクライナを兄弟国と格下に見て侵攻を仕掛けたプーチンと同じ理屈」「もう恥ずかしいから政治家やめていただきたい」という批判の声が寄せられていました。
衛藤議員は日韓議員連盟に所属しています。植民地政策などは負の歴史として教訓化し、謙虚な姿勢で近隣外交に尽力すべき立場の政治家からは程遠い認識だったため、たいへん失望しています。衛藤議員も戦争は避けたいと願っているはずですが、過去の過ちを痛切に反省できないようであれば過ちを繰り返す恐れがあることを懸念しています。
「平和への思い」というタイトルのもとで様々なことが思い浮かんできます。まとまりのないまま長くなって恐縮ですが、最後に朝日新聞の記者だった鮫島浩さんの著書『朝日新聞政治部』を読んだ時、付箋を添えた箇所を紹介します。ここから派生した思いも添えるつもりでしたが、また別な機会に委ねさせていただきます。
ある外交官は「外交に『決着』はないんです。どんな合意をしても必ず課題は残る。外交は『決裂』か『継続』のどちらかなのです。『決裂』したら国交断絶か戦争になる。これは外交の失敗です。『継続』さえしていれば、国交断絶や戦争は避けられる。『継続』こそ外交の成功なんです」と言った。
こうした言葉の深みを当時の私は感じることさえできなかったが、昨今のロシアのウクライナ侵攻や日韓対立を見るにつけ、外交というものの本質を見事に言い当てていると思う。
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