駅頭で訴えた平和への思い
前回記事「日本国憲法施行から75年」の中で「伝える言葉や問いかけ方によって、憲法9条の行方は大きく変わりそうな現状だと言えます。だからこそ憲法9条の効用を支持している側は不特定多数の皆さんに届く言葉や共感を得られる言葉を探し続けなければなりません」と記していました。
3か月前に投稿した記事「平和や人権問題の組合方針」のとおり私どもの組合員の皆さんの間でも平和の築き方に向けた考え方が枝分かれしています。今後、しっかり組合員全体できめ細かい議論が交わせる場を設けていくことを昨年11月の定期大会で約束していました。
議論の「たたき台」を私自身がまとめることになっているため、このところウクライナでの戦争や憲法9条に関わる内容のブログ記事が増えているとも言えます。異なる考えを持っている方々にも届く言葉を探し続けていますが、そのことをよりいっそう意識しながら今回の記事に向き合っています。
月曜日、ターミナル駅前での反核座り込み行動に参加していました。以前の記事「反核座り込み行動で訴えたこと」「反核座り込み行動で訴えたこと、2020年冬」 の中で紹介したとおり三多摩平和運動センターは6日もしくは9日、毎月、三多摩各地のいずれかの駅頭で座り込み行動に取り組んでいます。
1945年8月6日に広島、8月9日には長崎に原爆が投下されました。その日を忘れないために「核も戦争もない平和な21世紀に!」と記された横断幕を掲げ、駅前のデッキ上の一画に座り込みます。その座り込みの横で、駅前を通行している方々にチラシを配布したり、拡声器を使って反核についての様々な主張をアピールするという行動です。
具体的な活動ができないままの恐縮な現状ですが、地区連絡会の代表という肩書があるため、このような行動の際、私自身もマイクを持つ一人として指名されます。以前は原稿を用意せず、その時々に思ったことをアドリブで訴えていました。そのため、時間超過気味のサインを送られる場合もあり、終わった後に「あのことも触れれば良かった」と思う時も多々ありました。
このような点を防ぐため、数年前から訴えたい内容の原稿を事前に用意するように心がけています。これまで当ブログを通し、不特定多数の皆さんに訴えてきた論点をまとめたものが原稿の内容となります。今、私自身が切に願うことであり、どのような言葉を尽くせば良いのか、いろいろ考えながら原稿を仕上げています。
ただ駅前を行き交う方々の中で足を止めて耳を傾けてくださる方は、まずいません。ほとんどの方が聞き流していくようなアピールの場に過ぎませんが、私自身の出番があるのであれば最も訴えたいことを自分の言葉を尽くして訴えてみようと考えながら駅頭の行動に臨んでいました。
一人でも多くの方に、ほんの少しでも気に留めていただけたらと願いながら、ロシアに対する憤りとともに私自身の思いを込めて、当日はマイクを握っていました。訴えの最後は「ぜひ、このような点について、お忙しい日常の中でも少しだけ考えていただければ幸いです。よろしくお願いします」という言葉で結んでいます。
このブログでの発信は不特定多数の皆さんが目にすることを常に意識しています。駅頭での訴えと同様な関係性であり、一人でも多くの方に伝えたい思いをブログに託しています。そのため、今回の記事は「駅頭で訴えた平和への思い」というタイトルを付け、反核座り込み行動の時に訴えた内容をそのまま掲げさせていただきます。
■反核座り込み行動で訴えた内容
2月24日にロシアがウクライナに軍事侵攻し、2か月以上経ちます。リアルタイムで届くウクライナの悲惨な現状は目を覆うばかりです。先月末にプーチン大統領は国連のグテーレス事務総長と会談した際、ウクライナ南東部に住む人々の苦しみを終わらせるため、国連憲章第51条に従って特別軍事作戦を始めたと説明しています。
たいへん驚き、怒りが沸いてきます。事務総長も即座にウクライナの領土への侵略であり、国連憲章を大きく逸脱した行為であることを指摘しています。ロシアの軍事侵攻自体が国際法違反ですが、学校や病院など民間施設への攻撃や民間人の殺戮は明白な戦争犯罪です。
まったく大義のない不当な戦争を仕かけたプーチン大統領が最も重い責任を負うべき立場ですが、戦場に送られたロシア軍兵士の残虐さも明らかになっています。平穏な日常の中では普通に暮らしているはずの人物が、戦争という非日常の場面では信じられないほどの凶行に走ってしまいます。過去から現在まで数多く残されている戦場での惨劇が物語っている戦争の悔やむべき実相です。
大地震や感染症など自然界の脅威は人間の「意思」で抑え込めません。しかし、戦争は権力者の「意思」によって引き起こされるため、人間の「意思」によって抑えることができるはずです。このような戦争の現実に思いをはせ、人間の「意思」によって防げるはずの悲劇を繰り返さないため、私たちはどのように考え、どのように行動していくことが望ましいのでしょうか。
国際社会は二度の世界大戦を経験し、そこから得た教訓をもとに現在の国際秩序やルールを定めています。国際社会における「法の支配」であり、国連憲章を守るという申し合わせです。その一つが武力によって他国の領土や主権を侵してはならないとし、自衛以外の戦争を禁止しています。
このような国際的な規範が蔑ろにされ、帝国主義の時代に後戻りしてしまうのかどうか、ウクライナでの戦争は国際社会に突き付けられている試金石だと言えます。戦争が一秒でも早く終わることを願いながら圧倒多数の国々が結束し、ロシアに圧力を加え、ウクライナを支援している構図は物凄く重要な関係性だろうと思っています。
国際社会の結束は、ロシアと同じように軍事力で「自国の正義」を押し通そうと考えていた権力者の「意思」に大きな牽制効果を与えているはずです。国際社会の定められたルールは絶対守らなければならない、守らなければ甚大な不利益を被る、このことをロシアのプーチン大統領に思い知らせなければならない局面が続いています。
ウクライナでの戦争を受け、改憲や核共有の議論をはじめ、防衛費を対GDP比2%以上に増額すべきという動きが出ています。そのような動きが妥当なのかどうか、しっかり見極めなければなりません。
抑止力を高めていくという発想は際限のない軍拡競争につながりかねず、国家財政を疲弊させ、「抑止のため」という大義名分のもとの核開発や他国を侵略するための口実に結びつきがちです。
そもそも軍事力の拡大ということ自体が戦争を招くという見方もあります。敵の基地や中枢を攻撃できる能力を持つということは、相手方に脅威を与え、軍事的な緊張が高まるという見方です。
安全保障は抑止と安心供与の両輪によって成立させなければなりません。戦争を未然に防ぐためには「攻めたら反撃される」という抑止効果とともに「先に攻めるつもりがない」という相手方を安心させるメッセージとのバランスが重要です。
安心供与から対話できる関係を築き、相手方にこちらを敵視する「意思」がなくなれば切迫した脅威は消えていくはずです。このような対話をできる関係をめざすことが広義の国防と言われる安心供与による安全保障です。その上で平時の外交交渉の場面では相手方の主張にも耳を貸していくという姿勢が求められていきます。
さらに反核座り込み行動にあたり、プーチン大統領の核兵器によって他国を威嚇する発言は極めて悪質で不当なものであることを強調しなければなりません。不当さを比べるものではありませんが、このような局面で安倍元総理が核共有に向けた議論を提起するという発想に対し、強い違和感や危惧を抱いています。
核兵器の開発、保有、使用を禁止する条約が昨年1月に発効しています。残念ながら現段階では日本をはじめ、核保有国や核抑止力に依存する国々は署名・批准していません。それでも核兵器は違法だという流れが国際社会の中で定められたことは紛れもない事実です。
国際社会が過去の教訓や未来への希望を託しながら定めているルールは最大限尊重していくべきものです。まして唯一の戦争被爆国である日本こそ、核兵器の非人道性や地球規模で及ぼす影響を訴え、率先して禁止条約の実効性を高めることに全力を尽くさなければならないはずです。
「議論自体をタブー視してはいけない」という意見がありますが、日本の家庭において拳銃を持つことは法律違反です。法律に違反することを承知しているけれども「身を守るために必要かどうか議論はすべきだ」と主張していることと同様であることを本日の行動を通し、強く訴えさせていただきます。
最後に、国連の役割や機能について不充分さは見受けられますが、せっかく築いた方向性や理想を否定するのではなく、問題点は改善していくという基本的な姿勢のもとで国連改革に努めるべきではないでしょうか。ちなみに岸田総理の先輩に当たる自民党の古賀元幹事長が「理想を実現するのが政治の役割だ」と語っていることも紹介させていただきます。
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