憲法9条があるから平和を保てるのか?
前回記事「ウクライナでの戦争から思うこと」のコメント欄で、あっしまった!さんから深く掘り下げるべき論点提起となるご意見をお寄せいただいています。あっしまった!さんは当ブログが開設した頃から馴染みのある方です。
以前、このブログの記事を更新するたびに毎週100件以上のコメントが寄せられていた時期もありました。現在、コメントの数とともに日々のアクセス数が一時期に比べれば激減しているため、定期的に閲覧されている方々が少なくなっているのだろうと思っています。
このような傾向はブログそのものに見受けられているようです。ブックマークし、いつも閲覧していたBLOGOSが5月末に終了します。すでに3月末でサイトの更新は停止しているため、トップ画面に動きはありません。BLOGOSは最後に紹介しているブログ記事の一つに『ブログ文化衰退 振り返る一時代』という見出しを付けています。
現在、SNSの主流は画像を中心に伝えるYouTubeやインスタグラムで、テキストが主体のブログは衰退の一途をたどっています。パソコンよりもスマモでSNSを閲覧する方が増えているため、小さな画面では文章の多いブログが敬遠されていくことも理解できます。
とりわけ当ブログは昔から「記事が長すぎる」という指摘を受けがちであり、気軽に閲覧いただけるSNSのサイトではないことを自覚しています。そのような中で、あっしまった!さんが引き続きご注目くださっていることを心強く思っています。
タイトルから離れた内容を書き込むため、ますます長い記事になりがちで恐縮です。それでも思うことを気ままに書き進めていることが当ブログを長く続けられている理由の一つだろうとも考えていますので、ご理解ご容赦くださるようお願いします。
さて、ここからが本題です。読売新聞に「時代の証言者」という連載記事があり、少し前までが外務次官や駐米大使を務めた柳井俊二さんの「外交の力を信じて」でした。3月31日に掲載された24回目の記事は『「周辺事態」貧しい議論』という見出しが付けられていました。その中で柳井さんの次の言葉が気になっていました。
「憲法9条があるから日本の平和が保てる」などという人が今もって一部野党にいるのにも、あきれます。憲法9条は他国を侵略しないことを定めているだけで、他国の攻撃から日本をどう守るかの答えにはならない。
柳井さんほどのキャリアのある方が「憲法9条があるから日本の平和が保てる」という短絡的な言葉を引用しながら批判意見につなげていたことに目を留めていました。同時に憲法9条の効用を重視する側の情報発信や訴求力の致命的な脆弱さに改めて思いを巡らす機会となっていました。
そもそも『日本の選択 宏池会出身、岸田首相は「改憲への道」歩めるか 護憲派・古賀誠氏「憲法9条の力」の誤り 「世界の現実」見よ』という記事などを目にすると、論点自体がかみ合っていない現況を感じています。リンク先の記事の中で、日本歴史探究会代表理事の岩田温さんは次のように語っています。
日本が他国との戦火を交えたことがないのは事実であり、不戦を貫いているのも事実だ。しかし、それが「憲法9条の力」であると決めつけることは誤りだろう。日本の平和を守るために日夜汗を流している自衛隊、そして、強固な日米同盟が存在するからこそ日本の平和が守られてきたのだ。
かみ合っていない論点に対し、弁護士の澤藤統一郎さんはブログ記事『ウクライナの事態に便乗した「9条無力論」を許すな』の中で「憲法に9条さえ書き込んでおけば、他国からの侵略はない」という思想はないことを訴えています。澤藤さんは「憲法9条があれば日本はウクライナのように他国から攻められることはないのか」と問われれば、当然に答えはノーだと言い切っています。
また、澤藤さんは自民党や日本維新の会が護憲派の主張を「憲法に9条さえ書き込んでおけば、他国からの侵略はない」と曲解して宣伝しているという認識も示しています。『共産・志位委員長の「自衛隊活用」発言…現実路線か方便か』という話も、立場の相違からの「批判ありき」という印象が拭えません。
以前「平和主義の効用」という当ブログの記事の中で「私自身、憲法9条さえ守れば平和が維持できるとは思っていません。重視すべきは専守防衛を厳格化した日本国憲法の平和主義であり、その平和主義の効用こそ大切にすべきものと考えています」と記しています。
「平和の話、サマリー」では『誰もが戦争は避けたい、防ぎ方に対する認識の違い』『歴史を振り返る中で、広義の国防や安心供与について』『憲法の「特別さ」を維持するのか、国際標準の「普通の国」になるのか』という小見出しを付け、私自身の平和の築き方に向けた問題意識を綴っていました。
リンク先の記事の中で示している私自身の言葉を改めて掲げていくよりも、最新の報道を紹介しながら「憲法9条があるから平和を保てるのか?」というタイトルを付けた新規記事を引き続き書き進めていきます。『“敵基地攻撃能力”を“反撃能力”に名称変更を 自民が提言案』という報道の中で専門家の意見が分かれていることを伝えています。
【拓殖大学 佐藤丙午教授「今の安全保障環境では合理的な判断」】
安全保障に詳しい拓殖大学の佐藤丙午教授は、いわゆる「敵基地攻撃能力」の保有について「『日本を攻撃するのは割が合わない』と相手が判断する程度の打撃力を持つことが抑止力につながり、今の安全保障環境を考えると相手の領域に入って対処しないと間に合わないケースがあると指摘される中、こうした能力を持つというのは非常に合理的な判断だ。侵略目的で使用しないかぎり、憲法解釈の上でも違和感はない」と話しています。
また、「日本では専守防衛という概念は相手が自国の領土に侵入したときに反撃を行うものだと限定的に捉えられているが、国際的には『前方での抑止』も含まれる。ウクライナの状況を見ても、相手に攻め込まれないための能力をどう構築するかが議論の焦点になるのは理解できる。ただ、『敵基地攻撃能力』からことばを言いかえても、相手の拠点や攻撃力に打撃を加えるという行為に変わりはなく、この能力を保有するにあたっては、国民に丁寧に説明していく必要があるだろう」と指摘しています。
そのうえで佐藤教授は「抑止の目的で保有すると主張しても、周辺国は自分たちを攻撃する能力を持つと受け止めるので、その矛盾が最大のジレンマになる。日本としては、情報公開を進めるとともに継続的な対話によって周辺国の懸念を緩和していくことが重要だ。また、日米同盟のもと、『盾』と『矛』の役割をどう分担するのかなど、安全保障そのものの議論を成熟させていくことが求められている」と話しています。
【流通経済大学 植村秀樹教授「防衛政策の原則から大きく踏み出す」】
安全保障に詳しい流通経済大学の植村秀樹教授は「憲法のもとで形づくられた専守防衛の考え方と、それに基づく防衛政策の原則から大きく踏み出すことになる。憲法を変えることに匹敵する大転換であり、しっかりとした議論と国民の理解や納得が必要で、慎重に行うべきだ」と話しています。
そして「北朝鮮のミサイルは移動式の発射台が使われるようになり、衛星写真から相手の軍事拠点を識別することも難しくなる中、単に射程が長いミサイルを持てば攻撃が可能になるというわけではない。技術面や運用面でも大きな問題を抱えることになる」と指摘しています。
また、こうした能力を持つことが抑止力につながるという考え方については「北朝鮮のミサイル開発はアメリカとの交渉力を高めるのがねらいで、日本が防衛力を強化しても開発をやめることはない。中国に対しても、抑止力としてほとんど機能しないのは同様で軍拡競争を招くだけだ」としたうえで、「反撃能力」への名称変更については、「国内向けの印象操作にすぎない。相手国は名前で判断するわけではないので、日本が自分たちに対し、攻撃する意思と能力を持ったとみるだろう」と指摘しています。
そのうえで、植村教授は「これだけの政策転換を浮き足だった状態で議論するのは非常に大きな問題であり、ウクライナ情勢を利用して短絡的に結論を導き出すようなことはせず、国民にしっかりと問いかけてほしい」と話していました。
長い引用になりましたが、賛否それぞれの立場の意見をそのまま紹介させていただきました。ちなみに両教授それぞれ抑止力そのものは否定していない立場で、抑止力としての反撃能力は周辺国に対して脅威を与えていくという認識を示されています。国民に向けた丁寧な説明の必要性をお二人とも訴えていることも同様でした。
平和を保つために力の均衡が必要であり、そのための抑止力のあり方に対する考え方に枝分かれが生じていくのだろうと思っています。ロシアのウクライナへの侵略から私たちは何を学ぶべきなのか、人間の「意思」によって防げるはずの悲劇を繰り返さないためにも、どのように行動していくことが望ましいのか、熟考していかなければなりません。
武力によって他国の領土や主権を侵してはならない、このような国際的な規範が蔑ろにされ、帝国主義の時代に後戻りしてしまうのか、ウクライナでの戦争は国際社会に突き付けられている試金石だと思っています。慶応大学の小林節名誉教授は『ロシアを勝たせてはならない 自由民主主義vs専制軍国主義の戦い』という見方を示されています。
『小谷哲男氏に聞く 平和憲法を掲げるこの国にとって、現実的な安全保障とは何か?』という記事で、明海大学の小谷哲男教授が反撃力としての敵基地攻撃能力は専守防衛の範囲内であることを説いています。一方で、安倍元総理が提起した核共有論は非核三原則以前の問題としてのマイナス面を指摘し、小谷教授は自民党内で議論しないことを結論付けていると伝えています。
今回も長い記事になっていますが、読み返してみると散漫さが否めません。明解なまとめに至らず、書き足すべき言葉や説明が多く残されているように感じています。逆に文章が長すぎることで論点がぼけていくことにも注意しなければなりません。このようなことを省みながら「憲法9条があるから平和を保てるのか?」という論点の記事は次回以降につなげていくことをご容赦ください。
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