ウクライナでの戦争から思うこと
数日前まではピンク色に咲き誇っていた桜並木が、いつのまにか緑色が目立つ並木道に変わっています。桜の木であることを忘れさせるほどの変容ぶりです。つい最近、冬から春になったと思っていましたが、すぐに初夏を迎えようとしています。季節の移ろいの早さに思いを巡らしながら新規記事を書き始めています。
2月24日にロシアがウクライナに軍事侵攻してから2か月近く経とうとしています。ウクライナにも冬から春が訪れているはずですが、たいへん残念ながら戦火の消える兆しは見受けられません。まったく大義のない不当な戦争を仕かけたプーチン大統領が最も重い責任を負うべき立場ですが、戦場に送られたロシア軍兵士の残虐さも明らかになっています。
平穏な日常の中では普通に暮らしているはずの人物が、戦争という非日常の場面では信じられないほどの凶行に走ってしまいます。戦場に送られた兵士の中でも個人差はあるのかも知れませんが、過去から現在まで数多く残されている戦場での惨劇が物語っている戦争の悔やむべき実相です。
このような戦争の現実に思いをはせ、人間の「意思」によって防げるはずの悲劇を繰り返さないためにも、私たちはどのように考え、どのように行動していくことが望ましいのか…。前回記事「ハラスメントのない職場の確立に向けて」から一転し、今回もウクライナでの戦争を正面から取り上げてみます。
気になった報道も紹介しながら様々な切り口から自問自答していくつもりです。『河瀬直美氏、東大入学式で祝辞「ロシアという国を悪者にすることは簡単である」』というニュースが流れ、河瀬直美さんの言葉が批判の矢面に立っています。真意をしっかり知るために発言内容の全文が読める『ロシア言及で議論呼んだ東大入学式の河瀬直美氏 実際は何を語った?祝辞全容』も紹介します。
全文を読んでみましたが、意図的な切り取られ方によって物議をかもしている訳ではないことが分かります。河瀬さんの問題提起は「一方的な側からの意見に左右されて、本質を見誤っていないだろうか」という言葉に凝縮しているように感じています。この言葉だけで判断すれば、まったくそのとおりだと思っています。
立場の違いによって、それぞれの正しいと信じている「答え」があります。さらに得られる情報によって物事に対する評価が大きく変動することも間違いありません。総論的な話として、とりわけ通常の外交交渉においては、そのような関係性を重視しながら臨んでいく必要があります。
戦争を仕かける前であれば「ロシアにはロシアの正義がある」という言葉も一つの見識だったかも知れません。『鈴木宗男氏「いくら制裁しても闘い終わらない」NATOに要望「武器供与より話し合いを」』という記事で伝えているような見方を支持する声も多かったのではないでしょうか。
『橋下氏&舛添氏、国連のロシア排除の動きと日本政府のロシア外交官追放に「話し合いのためのパイプは維持しなくては」』という記事に触れれば、ある面では「なるほど」と思える論点も理解できます。参照先のサイトの写真の舛添要一さんは鈴木宗男さんと見間違えるほど似ていますが、考え方も似通っているようです。
しかし、前々回記事「砲撃が続くの中での停戦交渉」に記しているとおり武力によって領土を侵攻している相手方の主張に耳を貸していくことは外交交渉の延長線上としての戦争を肯定するような話になりかねません。ロシアの暴挙を1%でも容認した構えを見せてしまった場合、弱肉強食の世界を否定している国際社会の普遍的な原則が揺らぎかねません。
戦争が長引けば長引くほど犠牲者の数が増えていくことになるため、たいへん悩ましく、苦渋の判断だと言えますが、圧倒多数の国々が結束してウクライナを支援している構図は物凄く重要な関係性だろうと思っています。ロシアと同じように軍事力で「自国の正義」を押し通そうと考えていた国々に対する大きな牽制効果を与えていけるはずです。
その逆にロシアが少しでも利益を得られた決着に至った場合、やはり最後は武力が決め手になるという悪しき前例につながりかねないことを非常に懸念しています。もちろん砲撃を停めることを最優先にした交渉が進むことも心から願っています。したがって、ロシアに実利は与えず、プーチン大統領の国内向けの面子を保った決着の仕方はあり得るものと思っています。
一方で、弱肉強食の世界を否定している国際社会の普遍的な原則を理解していながらも、核兵器による抑止力の必要性を訴える声が上がっていることを懸念しています。弱肉強食の世界は望ましくないが、現実は弱肉強食の世界から逃れられないのだから強者になろう、もしくは強者のグループに入ろうという発想です。
『石破茂氏と太田光が語るウクライナ侵攻「日本社会では『プーチンのことも理解しろ』と言いにくい」』での対談内容は全体を通して興味深いものであり、決して頭から否定しようとは考えていません。ただ防衛大臣だった石破茂さんの「ウクライナは核兵器を手放したからこうなったと思っているでしょう」という言葉などが気になっていました。
ウクライナは1994年の「ブダペスト覚書」で、核不拡散条約への加盟と引き換えに、米国、ロシア、英国から安全保障が約束されました。でも、こんなことになった。私は、人間の心がきれいならば平和が来るとは思いません。勢力均衡が保たれることで、戦争が起こらないのだと思います。それが崩れかけている。
北朝鮮も「核を放棄したらまずい」と思っているはずです。そして日本は「核抑止力とは何か」ということを突き詰めて考えてこなかった。「非核三原則」を唱えているだけでは、平和は維持できない。むしろ「持たず、作らず」を維持しながら、「持ち込ませず」については議論をするべきだ、と私は思うんです。
上記は石破茂さんの発言です。ウクライナが核兵器を保持していたらロシアの武力侵攻はなかったという仮定の話を一蹴できるとも思っていませんが、今回の事態を教訓化する方向性には疑義があります。これまで当ブログでは「平和の築き方、それぞれの思い」をはじめ、「平和への思い、自分史」「平和の話、インデックスⅢ」「平和の話、サマリー」など平和の築き方に向けた私自身の考え方をまとめた記事を投稿しています。
武力による抑止力は狭義の国防であり、ハード・パワーを重視した考え方は常に仮想敵国を想定しながら際限のない軍拡競争につながりがちです。国際社会は二度の世界大戦を経験し、そこから得た教訓をもとに現在の国際秩序やルールを定めています。国際社会における「法の支配」であり、国連憲章を守るという申し合わせです。
国連の役割や機能について不充分さは見受けられますが、せっかく築いた方向性を否定するような動きには懐疑的な立場です。最近の記事「問われている平和の築き方」の中で触れたとおり問題点は改善していくという基本的な姿勢のもとで国連改革に努めるべきだろうと思っています。
そのような国際社会のルールとして、核兵器の開発、保有、使用を禁止する条約が昨年1月に発効しています。残念ながら現段階では日本をはじめ、核保有国や核抑止力に依存する国々は署名・批准していません。それでも核兵器は違法だという流れが国際社会の中で定められたことは紛れもない事実です。
力の均衡、抑止力そのものを否定しませんが、国際社会が過去の教訓や未来への希望を託しながら定めているルールは最大限尊重していくべきものと考えています。まして唯一の戦争被爆国である日本こそ、核兵器の非人道性や地球規模で及ぼす影響を訴え、率先して禁止条約の実効性を高めることに全力を尽くして欲しいものです。
プーチン大統領の核兵器によって他国を威嚇する発言は極めて悪質で不当なものであることを断じなければなりません。また、不当さを比べるものではありませんが、このような局面で安倍元総理が核共有に向けた議論を提起するという発想に対し、強い違和感や危惧を抱かざるを得ません。
自民党の安倍晋三元首相は3日、山口市内で講演し、岸田文雄首相が能力保有を検討する敵基地攻撃について「基地に限定する必要はない。中枢を攻撃することも含むべきだ」と述べた。安倍氏は「日本が守りを専門にして打撃力を米国に任せる構図は大きく変えないとしても、日本も少しは独自の打撃力を持つべきだと完全に確信している」と強調した。【JIJI.COM 2022年4月3日】
上記は『敵基地攻撃「中枢にも」 自民・安倍元首相』という見出しが付けられた記事です。このような報道を目にすると本当に悲しくなります。核共有の議論提起をはじめ、平和の築き方に向けた考え方に大きな隔たりを感じがちです。このような安倍元総理の主張に喝采を送る方々も多いのかも知れませんが、自民党OBの次のような発言には驚いていました。
私は父である晋太郎氏をよく知っているが、息子の晋三氏は中身が何もない。内政も外交も勉強していない。今のウクライナ紛争で、安倍元首相とロシアのプーチン大統領との関係があらためて取り沙汰されているが、おそらく安倍元首相はロシアの歴史や日ロ間のそれまでの協議など、基礎的な知識が何もなかったのだろう。だから、プーチン大統領に言われるままだった。いずれにしても、本来は政治家となるべき素養がない人物と言わざるを得ない。
『「自民党を叩き潰さなければ…」福田赳夫元首相秘書で党OBの中原義正氏が断言する理由』という記事の中の一文ですが、ここまで痛烈な言葉で批判してしまうと誹謗中傷の類いになるのではないかと心配するほどです。話が広がりがちで、たいへん長い記事となっているため、平和主義の効用に絡む内容などは次回以降の記事で取り上げてみるつもりです。
もう少し核抑止論について続けます。「議論はすべき、議論自体をタブー視してはいけない」という意見があります。確かに議論そのものを抑えてしまうことは民主主義国家として問題だろうと思います。しかし、国際社会の中で核兵器は禁止されていく大きな流れがあることを念頭に置かなければなりません。
例えで考えれば日本の家庭において拳銃を持つことは法律違反です。法律に違反することを承知しているけれども「身を守るために必要かどうか議論はすべきだ」と主張していることと同様であることを認識しなければなりません。安倍元総理らにそのような認識があるのかどうか分かりませんが、最後に『一部政治家が“核共有論”を主張…「長崎の証言の会」が抗議文』という報道を紹介します。
ロシアによるウクライナ侵攻をきっかけに、国内の一部の政治家が「核共有論」の議論の必要性を訴えています。これに対し、長崎や広島の被爆者の声を記録し続けてきた市民団体が抗議の声を上げました。抗議文を発表したのは、被爆者などで作る長崎の証言の会です。核共有論はアメリカの核兵器を国内に配備し、核の抑止力をアメリカと共有しようなどというものです。
ウクライナ侵攻を進めるロシアのプーチン大統領が核兵器の使用をちらつかせたことを受け、国内の一部の政治家が「導入を議論すべき」と主張しています。これに対し、長崎の証言の会は「アメリカの核を国内に配備すると相手国からの攻撃の対象となり、かえって危険を招き寄せてしまう。核を廃絶する目標が遠のく」として、強く抗議しています。
「私たちは50年以上の間被爆者の証言記録運動を積み重ね、核兵器を使ったら何が起こるかを記録してきた。被爆者の語りに耳を傾け『ふたたび被爆者をつくるな』という被爆者の思いを自らのものにしてほしい」と発言の撤回を求めています。抗議文は自民党の安倍元総理と日本維新の会の松井代表宛てに1日送付したということです。
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コメント
日本では「平和こそすべて」という感じですが、ロシアは「力こそすべて」という感じです。
世界観・価値観が違うのです。
こうした相手と平和的に話し合いで決着させるには、こちらが「相手方の価値観における正義たること」が求められます。そうなって始めて、仲間(同類)としての対等な話し合いができます。
ロシアは[力が正義]というロジックですので、こちら側も相応の力を持っていないと、仲間とは認めて貰えず、ホントの意味で協力関係にはなりませんし、実りある話し合いにもなりません。
こちらの価値観が通じない相手が居るということを無視しすぎては、いくらこちら側の価値観を叫んでも、目的は達成できません。
今回の事案だって、こちらの価値観で測るから、読み間違えたのです。
投稿: あっしまった! | 2022年4月16日 (土) 18時40分
あっしまった!さん、コメントありがとうございます。
確かにロシアは「力こそすべて」という価値観を強く残しているのかも知れません。それでもロシアは国連に加盟し、安保理の常任理事国という立場を占めているのであれば国際社会のルールを最大限尊重しなければならないはずです。
武力によって他国の領土や主権を侵してはならない、このような国際的な規範が蔑ろにされ、帝国主義の時代に後戻りしてしまうのか、今回の事態は国際社会に突き付けられている試金石だと思っています。
今回の記事も相当な長さとなっていますが、まだまだ書き足さなければならない論点が多くあります。次回更新する記事もウクライナでの戦争を題材にした内容を考えています。ぜひ、これからもお時間等が許される際、貴重なご意見等をお寄せくださるようよろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2022年4月17日 (日) 06時31分
今回の事案で、国際的な規範は破れました。
規範を修復するのであれば、まずは「できた穴」を全力で塞がなければなりません。
ここで、「やった者勝ち」を許してしまえば、それこそ帝国主義の時代に戻りかねないからです。
その上で、戦後に形成されてきた国際規範は維持される方が望ましいと考えているので、「維持する努力」を行わなければならないと考えます。
しかるに、「維持する努力」というものが大事であると、すなわち「破ろうとする者を抑止することが大事である」と、「抑止を維持しなければならない」という所に焦点を置いています。
間違っても「秩序が破れてしまったから、その前提で行こう」とは思っていません。
ここで、改めて申し上げておきたいですが、
私は「正義なき力」を希求するつもりはありません。しかしながら、「力なき正義」を信奉するつもりもないのです。
「正義なき力の前に、力なき正義は跡形もなく吹き飛ぶ」と言うことが今回改めて示されましたし、「ひとたび抑止が破れてしまえば、悲惨な状況に陥る」と言うことも示されました。
従って、【少なくとも秩序を破ろうとする思惑を抑止する力は、必要悪である】と理解しています。
そこで、力なき正義を信奉する形に理解していただきたいのは、
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平和を維持する為には、平和を破ろうとする力を抑止しなければならず、
抑止する力は破ろうとする力に対して、【相対的なもの】として成立する。
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ということです。
破ろうとする力が膨らんでいるのなら、止めさせようとする力も比例して膨らませなければ、破れると言うことです。
私は、現状は「この相対的なバランスが壊れつつある」と理解していて、
「破らせない為にも、抑止を成立させる必要があり、それはその限度において抑止する力を膨らませる必要がある」と理解しています。
したがって、日本においては正義なき力に至ることは避けたいですが、【抑止を維持できる水準まで 力を強化する ことは必要】であると考えます。
極めて難しいバランスが求められますけれども。
投稿: あっしまった! | 2022年4月17日 (日) 15時06分
訂正レス。<m(__)m>
第5段落冒頭の一文。
誤> そこで、力なき正義を信奉する -形- に理解していただきたいのは、
正> そこで、力なき正義を信奉する -方- に理解していただきたいのは、
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自衛隊の持つ防衛力の「薄さ」は凄いですよ。
政策意図として「張り子の虎」として整備されてきているので、見た目の豪華さと引換の「継戦能力のなさ」は凄いです。
自衛隊単独であるなら、下手したら、ウクライナよりあっけないですよ。
投稿: あっしまった! | 2022年4月17日 (日) 15時12分
あっしまった!さん、コメントありがとうございます。
あっしまった!さんの「抑止を維持しなければならない」という問題意識などが私自身の基本的な立ち位置と大きな違いはないものと理解させていただいています。その上で今回の事態を受け、どのように考えていけば良いのか自問自答しています。
明確な正解は容易に見出せないのかも知れませんが、このブログを通して私自身の「答え」を改めてまとめていくつもりです。ぜひ、これからも当ブログを注目いただければ幸いですのでよろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2022年4月17日 (日) 19時50分