憲法9条があるから平和を保てるのか? Part2
ゴールデンウイークの初日、連合の三多摩メーデーが催されました。新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い、現地に出向いた参加は3年ぶりでした。全体的に規模を縮小した開催となり、私どもの組合は役員中心の参加にとどめています。かつてご家族の方を含め、私どもの組合だけで819名参加した年もありました。
来年こそコロナ禍が終息し、フルスペックで開催できることを願っています。その時は一組合員として参加しているのかどうか、いずれにしても参加を呼びかけられる側になっていることは確かだろうと思っています。曇り空の下で小雨もぱらつく中、そのようなことを思い浮かべていた3年ぶりのメーデー参加でした。
さて、前回記事「憲法9条があるから平和を保てるのか?」の最後に「今回も長い記事になっていますが、読み返してみると散漫さが否めません。明解なまとめに至らず、書き足すべき言葉や説明が多く残されているように感じています。逆に文章が長すぎることで論点がぼけていくことにも注意しなければなりません」と記していました。
このようなことを省みながらゴールデンウイークの2日目に当たる土曜日、 改めて「憲法9条があるから平和を保てるのか?」という論点の記事を書き進めていきます。前回記事を通して「憲法9条があるから平和を保てる訳ではない」という認識を訴えています。そのような問いかけ自体、論点がかみ合わなくなることも指摘していました。
私自身、護憲派というカテゴリーの立場に入るのだろうと受けとめています。ただ護憲派という言葉そのものが誤解を招きがちであり、「憲法9条さえあれば平和を保てる」という短絡的な見方につながっているような気がしています。重視すべきは専守防衛を厳格化した日本国憲法の平和主義であり、その平和主義のあり方が問われているはずです。
集団的自衛権の行使をはじめ、国際社会の中で認められた戦争を普通にできる憲法に改めることが望ましいのかどうか、本来、このような論点を明確にした選択肢が示されていかなければならないはずです。「戦争ができる国になるのかどうか」という問いかけを耳にしますが、言葉が決定的に不足しているものと思っています。
現行の憲法9条でも「戦争ができる」という解釈が定着しています。現在、ウクライナが行使している自衛のための戦争です。そのため、簡潔な言葉で問いかけるとすれば「普通に戦争ができる国になるのかどうか」であり、国際社会の中で認められた範囲まで広げることの是非が論点化されるべきではないでしょうか。
「普通に戦争ができる国」についてはリンクをはった以前の記事の中で、私自身の見方や問題意識を詳述しています。また、守るべきは平和主義の効用であり、憲法9条の条文ではありません。その効用を担保した平和主義が維持できるのであれば、憲法9条の条文そのものを改めることに大きな抵抗感はありません。
しかし、改憲を望む政党や政治家の多くはGHQから押し付けられた憲法だという認識を強く持ち、「普通に戦争ができる憲法」をめざしているように見受けられます。『「敵基地攻撃能力」を「反撃能力」と言い換える自民党の幼稚な言葉遊び』という批判的な記事もありますが、強力な軍事力によって戦争を抑止するという発想の国会議員が目立っています。
このような発想の是非や改めるべき方向性を明確にした改憲論議であればまだしも、安倍元総理の「自衛隊を憲法9条に明記するだけ」というお為ごかしの説明で国民投票に進むことだけは絶対避けなければならないはずです。そのような意味で今、ウクライナでの戦争を目の当たりにして平和の築き方について深く考える機会を与えられていると言えます。
『橋下徹氏の言葉に絶句…戦わずに降伏したらどうなる?「自分の国は自分で守る」覚悟学べ 自衛隊の最高指揮官・岸田首相は腹くくる責任が』という記事では、ジャーナリストの葛城奈海さんが「戦わないこと」を勧めていた橋下徹さんを痛烈に批判していました。さらに葛城さんは次のように訴えています。
今、日本が学ぶべきは、憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義」が信頼できるなどという夢から覚め、「自分の国は自分で守る」と腹をくくることであろう。その覚悟を最も求められるのは、自衛隊の最高指揮官である岸田文雄首相に他ならない。
ロシアの軍事侵攻を日本人の圧倒多数が非難しています。そして、誰もが平和を希求しているはずです。しかし、ウクライナで起こった事態を受け、だから抑止力を高めていくのかどうか、防衛力を強化していくのかどうか、憲法9条を改めるべきなのかどうか、このあたりの考え方が人によって枝分かれしていくようです。
抑止力を高めていくという発想は際限のない軍拡競争につながりかねず、「抑止のため」という大義名分のもとの核開発や他国を侵略するための口実に結びつきがちです。軍事力の抑止は、その均衡が崩れた時、疑心暗鬼に陥った時、窮鼠猫を噛む状態になった時、取り返しのつかない事態を引き起こします。
前々回記事「ウクライナでの戦争から思うこと」の中で記したとおり国際社会は二度の世界大戦を経験し、そこから得た教訓をもとに現在の国際秩序やルールを定めています。国際社会における「法の支配」であり、国連憲章を守るという申し合わせです。
このようなルールは絶対守らなければならない、守らなければ甚大な不利益を被る、このことをロシアのプーチン大統領に思い知らせなければならない局面だと考えています。武力行使という選択肢が外交交渉の延長線上として、あり得ないことを各国の首脳が脳裏に焼き付けることで今後の抑止効果につながっていくことを切望しています。
『「“専守防衛”という言葉を残してしまった」「ウクライナが侵略を受けているのに、この程度でいいのか」自衛隊元幹部が自民党の“国家安全保障戦略”提言に苦言』という記事では様々な受けとめ方があることを伝えています。それでも今、この局面で防衛力の強化をはじめ、他国に対する脅威につながる攻撃能力を議論する動きには違和感を抱いています。
平和を保つために国際社会が築いたルールに対し、際立った平和主義を掲げる日本がどう振る舞うべきか、これからも問われていくはずです。今回の記事も長くなってしまいましたが、最後に『共産党・志位委員長の講演に思う「理想」を持つ自由と「現実」の責任』という記事の中で目に留まった慶応大学の小林節名誉教授の言葉を紹介します。
長年、憲法論議に参加していて不思議に思うことがある。それは、9条護憲派の人々の多くが、「軍隊が戦争を起こす」と思い込んでいるように見えることである。しかし、戦争は愚かな政治が起こすものであろう。だから、平和主義者は、軍事力を敵視するのではなく、軍事力を誤用しかねない政治を諫め続けるべきである。
そして、他国の愚かな政治がわが国に対する侵略を試みた場合に、わが国の軍事力(自衛隊)と価値観を共有する他国からの支援こそが日本国民の自由と民主主義を守ってくれるという事実を、今回、ロシアのウクライナ侵攻が分かりやすく教えてくれた。
だから、この際、9条護憲派の人々は、直接に自衛隊の存在を批判していると思われかねない主張を整理して、自衛隊を誤用(例えば「海外派兵」)しようとする政治の愚かしさを端的に批判するとともに、「専守防衛」に徹する自衛隊の存在理由を見詰めてみるべきであろう。いずれにせよ、護憲派内でもっと自由な議論が必要である。
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