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2022年4月30日 (土)

憲法9条があるから平和を保てるのか? Part2

ゴールデンウイークの初日、連合の三多摩メーデーが催されました。新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い、現地に出向いた参加は3年ぶりでした。全体的に規模を縮小した開催となり、私どもの組合は役員中心の参加にとどめています。かつてご家族の方を含め、私どもの組合だけで819名参加した年もありました。

来年こそコロナ禍が終息し、フルスペックで開催できることを願っています。その時は一組合員として参加しているのかどうか、いずれにしても参加を呼びかけられる側になっていることは確かだろうと思っています。曇り空の下で小雨もぱらつく中、そのようなことを思い浮かべていた3年ぶりのメーデー参加でした。

さて、前回記事「憲法9条があるから平和を保てるのか?」の最後に「今回も長い記事になっていますが、読み返してみると散漫さが否めません。明解なまとめに至らず、書き足すべき言葉や説明が多く残されているように感じています。逆に文章が長すぎることで論点がぼけていくことにも注意しなければなりません」と記していました。

このようなことを省みながらゴールデンウイークの2日目に当たる土曜日、 改めて「憲法9条があるから平和を保てるのか?」という論点の記事を書き進めていきます。前回記事を通して「憲法9条があるから平和を保てる訳ではない」という認識を訴えています。そのような問いかけ自体、論点がかみ合わなくなることも指摘していました。

私自身、護憲派というカテゴリーの立場に入るのだろうと受けとめています。ただ護憲派という言葉そのものが誤解を招きがちであり、「憲法9条さえあれば平和を保てる」という短絡的な見方につながっているような気がしています。重視すべきは専守防衛を厳格化した日本国憲法の平和主義であり、その平和主義のあり方が問われているはずです。

集団的自衛権の行使をはじめ、国際社会の中で認められた戦争を普通にできる憲法に改めることが望ましいのかどうか、本来、このような論点を明確にした選択肢が示されていかなければならないはずです。「戦争ができる国になるのかどうか」という問いかけを耳にしますが、言葉が決定的に不足しているものと思っています。

現行の憲法9条でも「戦争ができる」という解釈が定着しています。現在、ウクライナが行使している自衛のための戦争です。そのため、簡潔な言葉で問いかけるとすれば普通に戦争ができる国になるのかどうか」であり、国際社会の中で認められた範囲まで広げることの是非が論点化されるべきではないでしょうか。

普通に戦争ができる国」についてはリンクをはった以前の記事の中で、私自身の見方や問題意識を詳述しています。また、守るべきは平和主義の効用であり、憲法9条の条文ではありません。その効用を担保した平和主義が維持できるのであれば、憲法9条の条文そのものを改めることに大きな抵抗感はありません。

しかし、改憲を望む政党や政治家の多くはGHQから押し付けられた憲法だという認識を強く持ち、「普通に戦争ができる憲法」をめざしているように見受けられます。『「敵基地攻撃能力」を「反撃能力」と言い換える自民党の幼稚な言葉遊び』という批判的な記事もありますが、強力な軍事力によって戦争を抑止するという発想の国会議員が目立っています。

このような発想の是非や改めるべき方向性を明確にした改憲論議であればまだしも、安倍元総理の「自衛隊を憲法9条に明記するだけ」というお為ごかしの説明で国民投票に進むことだけは絶対避けなければならないはずです。そのような意味で今、ウクライナでの戦争を目の当たりにして平和の築き方について深く考える機会を与えられていると言えます。

橋下徹氏の言葉に絶句…戦わずに降伏したらどうなる?「自分の国は自分で守る」覚悟学べ 自衛隊の最高指揮官・岸田首相は腹くくる責任が』という記事では、ジャーナリストの葛城奈海さんが「戦わないこと」を勧めていた橋下徹さんを痛烈に批判していました。さらに葛城さんは次のように訴えています。

今、日本が学ぶべきは、憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義」が信頼できるなどという夢から覚め、「自分の国は自分で守る」と腹をくくることであろう。その覚悟を最も求められるのは、自衛隊の最高指揮官である岸田文雄首相に他ならない。

ロシアの軍事侵攻を日本人の圧倒多数が非難しています。そして、誰もが平和を希求しているはずです。しかし、ウクライナで起こった事態を受け、だから抑止力を高めていくのかどうか、防衛力を強化していくのかどうか、憲法9条を改めるべきなのかどうか、このあたりの考え方が人によって枝分かれしていくようです。

抑止力を高めていくという発想は際限のない軍拡競争につながりかねず、「抑止のため」という大義名分のもとの核開発や他国を侵略するための口実に結びつきがちです。軍事力の抑止は、その均衡が崩れた時、疑心暗鬼に陥った時、窮鼠猫を噛む状態になった時、取り返しのつかない事態を引き起こします。

前々回記事「ウクライナでの戦争から思うこと」の中で記したとおり国際社会は二度の世界大戦を経験し、そこから得た教訓をもとに現在の国際秩序やルールを定めています。国際社会における「法の支配」であり、国連憲章を守るという申し合わせです。

このようなルールは絶対守らなければならない、守らなければ甚大な不利益を被る、このことをロシアのプーチン大統領に思い知らせなければならない局面だと考えています。武力行使という選択肢が外交交渉の延長線上として、あり得ないことを各国の首脳が脳裏に焼き付けることで今後の抑止効果につながっていくことを切望しています。

「“専守防衛”という言葉を残してしまった」「ウクライナが侵略を受けているのに、この程度でいいのか」自衛隊元幹部が自民党の“国家安全保障戦略”提言に苦言』という記事では様々な受けとめ方があることを伝えています。それでも今、この局面で防衛力の強化をはじめ、他国に対する脅威につながる攻撃能力を議論する動きには違和感を抱いています。

平和を保つために国際社会が築いたルールに対し、際立った平和主義を掲げる日本がどう振る舞うべきか、これからも問われていくはずです。今回の記事も長くなってしまいましたが、最後に『共産党・志位委員長の講演に思う「理想」を持つ自由と「現実」の責任』という記事の中で目に留まった慶応大学の小林節名誉教授の言葉を紹介します。

長年、憲法論議に参加していて不思議に思うことがある。それは、9条護憲派の人々の多くが、「軍隊が戦争を起こす」と思い込んでいるように見えることである。しかし、戦争は愚かな政治が起こすものであろう。だから、平和主義者は、軍事力を敵視するのではなく、軍事力を誤用しかねない政治を諫め続けるべきである。

そして、他国の愚かな政治がわが国に対する侵略を試みた場合に、わが国の軍事力(自衛隊)と価値観を共有する他国からの支援こそが日本国民の自由と民主主義を守ってくれるという事実を、今回、ロシアのウクライナ侵攻が分かりやすく教えてくれた。

だから、この際、9条護憲派の人々は、直接に自衛隊の存在を批判していると思われかねない主張を整理して、自衛隊を誤用(例えば「海外派兵」)しようとする政治の愚かしさを端的に批判するとともに、「専守防衛」に徹する自衛隊の存在理由を見詰めてみるべきであろう。いずれにせよ、護憲派内でもっと自由な議論が必要である。

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2022年4月24日 (日)

憲法9条があるから平和を保てるのか?

前回記事「ウクライナでの戦争から思うこと」のコメント欄で、あっしまった!さんから深く掘り下げるべき論点提起となるご意見をお寄せいただいています。あっしまった!さんは当ブログが開設した頃から馴染みのある方です。

以前、このブログの記事を更新するたびに毎週100件以上のコメントが寄せられていた時期もありました。現在、コメントの数とともに日々のアクセス数が一時期に比べれば激減しているため、定期的に閲覧されている方々が少なくなっているのだろうと思っています。

このような傾向はブログそのものに見受けられているようです。ブックマークし、いつも閲覧していたBLOGOSが5月末に終了します。すでに3月末でサイトの更新は停止しているため、トップ画面に動きはありません。BLOGOSは最後に紹介しているブログ記事の一つに『ブログ文化衰退 振り返る一時代』という見出しを付けています。

現在、SNSの主流は画像を中心に伝えるYouTubeインスタグラムで、テキストが主体のブログは衰退の一途をたどっています。パソコンよりもスマモでSNSを閲覧する方が増えているため、小さな画面では文章の多いブログが敬遠されていくことも理解できます。

とりわけ当ブログは昔から「記事が長すぎる」という指摘を受けがちであり、気軽に閲覧いただけるSNSのサイトではないことを自覚しています。そのような中で、あっしまった!さんが引き続きご注目くださっていることを心強く思っています。

タイトルから離れた内容を書き込むため、ますます長い記事になりがちで恐縮です。それでも思うことを気ままに書き進めていることが当ブログを長く続けられている理由の一つだろうとも考えていますので、ご理解ご容赦くださるようお願いします。

さて、ここからが本題です。読売新聞に「時代の証言者」という連載記事があり、少し前までが外務次官や駐米大使を務めた柳井俊二さんの「外交の力を信じて」でした。3月31日に掲載された24回目の記事は『「周辺事態」貧しい議論』という見出しが付けられていました。その中で柳井さんの次の言葉が気になっていました。

「憲法9条があるから日本の平和が保てる」などという人が今もって一部野党にいるのにも、あきれます。憲法9条は他国を侵略しないことを定めているだけで、他国の攻撃から日本をどう守るかの答えにはならない。

柳井さんほどのキャリアのある方が「憲法9条があるから日本の平和が保てる」という短絡的な言葉を引用しながら批判意見につなげていたことに目を留めていました。同時に憲法9条の効用を重視する側の情報発信や訴求力の致命的な脆弱さに改めて思いを巡らす機会となっていました。

そもそも『日本の選択 宏池会出身、岸田首相は「改憲への道」歩めるか 護憲派・古賀誠氏「憲法9条の力」の誤り 「世界の現実」見よ』という記事などを目にすると、論点自体がかみ合っていない現況を感じています。リンク先の記事の中で、日本歴史探究会代表理事の岩田温さんは次のように語っています。

日本が他国との戦火を交えたことがないのは事実であり、不戦を貫いているのも事実だ。しかし、それが「憲法9条の力」であると決めつけることは誤りだろう。日本の平和を守るために日夜汗を流している自衛隊、そして、強固な日米同盟が存在するからこそ日本の平和が守られてきたのだ。

かみ合っていない論点に対し、弁護士の澤藤統一郎さんはブログ記事『ウクライナの事態に便乗した「9条無力論」を許すな』の中で「憲法に9条さえ書き込んでおけば、他国からの侵略はない」という思想はないことを訴えています。澤藤さんは「憲法9条があれば日本はウクライナのように他国から攻められることはないのか」と問われれば、当然に答えはノーだと言い切っています。

また、澤藤さんは自民党や日本維新の会が護憲派の主張を「憲法に9条さえ書き込んでおけば、他国からの侵略はない」と曲解して宣伝しているという認識も示しています。共産・志位委員長の「自衛隊活用」発言…現実路線か方便か』という話も、立場の相違からの「批判ありき」という印象が拭えません。

以前「平和主義の効用」という当ブログの記事の中で「私自身、憲法9条さえ守れば平和が維持できるとは思っていません。重視すべきは専守防衛を厳格化した日本国憲法の平和主義であり、その平和主義の効用こそ大切にすべきものと考えています」と記しています。

平和の話、サマリー」では『誰もが戦争は避けたい、防ぎ方に対する認識の違い』『歴史を振り返る中で、広義の国防や安心供与について』『憲法の「特別さ」を維持するのか、国際標準の「普通の国」になるのか』という小見出しを付け、私自身の平和の築き方に向けた問題意識を綴っていました。

リンク先の記事の中で示している私自身の言葉を改めて掲げていくよりも、最新の報道を紹介しながら「憲法9条があるから平和を保てるのか?」というタイトルを付けた新規記事を引き続き書き進めていきます。『“敵基地攻撃能力”を“反撃能力”に名称変更を 自民が提言案』という報道の中で専門家の意見が分かれていることを伝えています。

【拓殖大学 佐藤丙午教授「今の安全保障環境では合理的な判断」】

安全保障に詳しい拓殖大学の佐藤丙午教授は、いわゆる「敵基地攻撃能力」の保有について「『日本を攻撃するのは割が合わない』と相手が判断する程度の打撃力を持つことが抑止力につながり、今の安全保障環境を考えると相手の領域に入って対処しないと間に合わないケースがあると指摘される中、こうした能力を持つというのは非常に合理的な判断だ。侵略目的で使用しないかぎり、憲法解釈の上でも違和感はない」と話しています。

また、「日本では専守防衛という概念は相手が自国の領土に侵入したときに反撃を行うものだと限定的に捉えられているが、国際的には『前方での抑止』も含まれる。ウクライナの状況を見ても、相手に攻め込まれないための能力をどう構築するかが議論の焦点になるのは理解できる。ただ、『敵基地攻撃能力』からことばを言いかえても、相手の拠点や攻撃力に打撃を加えるという行為に変わりはなく、この能力を保有するにあたっては、国民に丁寧に説明していく必要があるだろう」と指摘しています。

そのうえで佐藤教授は「抑止の目的で保有すると主張しても、周辺国は自分たちを攻撃する能力を持つと受け止めるので、その矛盾が最大のジレンマになる。日本としては、情報公開を進めるとともに継続的な対話によって周辺国の懸念を緩和していくことが重要だ。また、日米同盟のもと、『盾』と『矛』の役割をどう分担するのかなど、安全保障そのものの議論を成熟させていくことが求められている」と話しています。

【流通経済大学 植村秀樹教授「防衛政策の原則から大きく踏み出す」】

安全保障に詳しい流通経済大学の植村秀樹教授は「憲法のもとで形づくられた専守防衛の考え方と、それに基づく防衛政策の原則から大きく踏み出すことになる。憲法を変えることに匹敵する大転換であり、しっかりとした議論と国民の理解や納得が必要で、慎重に行うべきだ」と話しています。

そして「北朝鮮のミサイルは移動式の発射台が使われるようになり、衛星写真から相手の軍事拠点を識別することも難しくなる中、単に射程が長いミサイルを持てば攻撃が可能になるというわけではない。技術面や運用面でも大きな問題を抱えることになる」と指摘しています。

また、こうした能力を持つことが抑止力につながるという考え方については「北朝鮮のミサイル開発はアメリカとの交渉力を高めるのがねらいで、日本が防衛力を強化しても開発をやめることはない。中国に対しても、抑止力としてほとんど機能しないのは同様で軍拡競争を招くだけだ」としたうえで、「反撃能力」への名称変更については、「国内向けの印象操作にすぎない。相手国は名前で判断するわけではないので、日本が自分たちに対し、攻撃する意思と能力を持ったとみるだろう」と指摘しています。

そのうえで、植村教授は「これだけの政策転換を浮き足だった状態で議論するのは非常に大きな問題であり、ウクライナ情勢を利用して短絡的に結論を導き出すようなことはせず、国民にしっかりと問いかけてほしい」と話していました。

長い引用になりましたが、賛否それぞれの立場の意見をそのまま紹介させていただきました。ちなみに両教授それぞれ抑止力そのものは否定していない立場で、抑止力としての反撃能力は周辺国に対して脅威を与えていくという認識を示されています。国民に向けた丁寧な説明の必要性をお二人とも訴えていることも同様でした。

平和を保つために力の均衡が必要であり、そのための抑止力のあり方に対する考え方に枝分かれが生じていくのだろうと思っています。ロシアのウクライナへの侵略から私たちは何を学ぶべきなのか、人間の「意思」によって防げるはずの悲劇を繰り返さないためにも、どのように行動していくことが望ましいのか、熟考していかなければなりません。

武力によって他国の領土や主権を侵してはならない、このような国際的な規範が蔑ろにされ、帝国主義の時代に後戻りしてしまうのか、ウクライナでの戦争は国際社会に突き付けられている試金石だと思っています。慶応大学の小林節名誉教授は『ロシアを勝たせてはならない 自由民主主義vs専制軍国主義の戦い』という見方を示されています。

小谷哲男氏に聞く 平和憲法を掲げるこの国にとって、現実的な安全保障とは何か?』という記事で、明海大学の小谷哲男教授が反撃力としての敵基地攻撃能力は専守防衛の範囲内であることを説いています。一方で、安倍元総理が提起した核共有論は非核三原則以前の問題としてのマイナス面を指摘し、小谷教授は自民党内で議論しないことを結論付けていると伝えています。

今回も長い記事になっていますが、読み返してみると散漫さが否めません。明解なまとめに至らず、書き足すべき言葉や説明が多く残されているように感じています。逆に文章が長すぎることで論点がぼけていくことにも注意しなければなりません。このようなことを省みながら「憲法9条があるから平和を保てるのか?」という論点の記事は次回以降につなげていくことをご容赦ください。

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2022年4月16日 (土)

ウクライナでの戦争から思うこと

数日前まではピンク色に咲き誇っていた桜並木が、いつのまにか緑色が目立つ並木道に変わっています。桜の木であることを忘れさせるほどの変容ぶりです。つい最近、冬から春になったと思っていましたが、すぐに初夏を迎えようとしています。季節の移ろいの早さに思いを巡らしながら新規記事を書き始めています。

2月24日にロシアがウクライナに軍事侵攻してから2か月近く経とうとしています。ウクライナにも冬から春が訪れているはずですが、たいへん残念ながら戦火の消える兆しは見受けられません。まったく大義のない不当な戦争を仕かけたプーチン大統領が最も重い責任を負うべき立場ですが、戦場に送られたロシア軍兵士の残虐さも明らかになっています。

平穏な日常の中では普通に暮らしているはずの人物が、戦争という非日常の場面では信じられないほどの凶行に走ってしまいます。戦場に送られた兵士の中でも個人差はあるのかも知れませんが、過去から現在まで数多く残されている戦場での惨劇が物語っている戦争の悔やむべき実相です。

このような戦争の現実に思いをはせ、人間の「意思」によって防げるはずの悲劇を繰り返さないためにも、私たちはどのように考え、どのように行動していくことが望ましいのか…。前回記事「ハラスメントのない職場の確立に向けて」から一転し、今回もウクライナでの戦争を正面から取り上げてみます。

気になった報道も紹介しながら様々な切り口から自問自答していくつもりです。『河瀬直美氏、東大入学式で祝辞「ロシアという国を悪者にすることは簡単である」』というニュースが流れ、河瀬直美さんの言葉が批判の矢面に立っています。真意をしっかり知るために発言内容の全文が読める『ロシア言及で議論呼んだ東大入学式の河瀬直美氏 実際は何を語った?祝辞全容』も紹介します。

全文を読んでみましたが、意図的な切り取られ方によって物議をかもしている訳ではないことが分かります。河瀬さんの問題提起は「一方的な側からの意見に左右されて、本質を見誤っていないだろうか」という言葉に凝縮しているように感じています。この言葉だけで判断すれば、まったくそのとおりだと思っています。

立場の違いによって、それぞれの正しいと信じている「答え」があります。さらに得られる情報によって物事に対する評価が大きく変動することも間違いありません。総論的な話として、とりわけ通常の外交交渉においては、そのような関係性を重視しながら臨んでいく必要があります。

戦争を仕かける前であれば「ロシアにはロシアの正義がある」という言葉も一つの見識だったかも知れません。『鈴木宗男氏「いくら制裁しても闘い終わらない」NATOに要望「武器供与より話し合いを」』という記事で伝えているような見方を支持する声も多かったのではないでしょうか。

橋下氏&舛添氏、国連のロシア排除の動きと日本政府のロシア外交官追放に「話し合いのためのパイプは維持しなくては」』という記事に触れれば、ある面では「なるほど」と思える論点も理解できます。参照先のサイトの写真の舛添要一さんは鈴木宗男さんと見間違えるほど似ていますが、考え方も似通っているようです。

しかし、前々回記事「砲撃が続くの中での停戦交渉」に記しているとおり武力によって領土を侵攻している相手方の主張に耳を貸していくことは外交交渉の延長線上としての戦争を肯定するような話になりかねません。ロシアの暴挙を1%でも容認した構えを見せてしまった場合、弱肉強食の世界を否定している国際社会の普遍的な原則が揺らぎかねません。

戦争が長引けば長引くほど犠牲者の数が増えていくことになるため、たいへん悩ましく、苦渋の判断だと言えますが、圧倒多数の国々が結束してウクライナを支援している構図は物凄く重要な関係性だろうと思っています。ロシアと同じように軍事力で「自国の正義」を押し通そうと考えていた国々に対する大きな牽制効果を与えていけるはずです。

その逆にロシアが少しでも利益を得られた決着に至った場合、やはり最後は武力が決め手になるという悪しき前例につながりかねないことを非常に懸念しています。もちろん砲撃を停めることを最優先にした交渉が進むことも心から願っています。したがって、ロシアに実利は与えず、プーチン大統領の国内向けの面子を保った決着の仕方はあり得るものと思っています。

一方で、弱肉強食の世界を否定している国際社会の普遍的な原則を理解していながらも、核兵器による抑止力の必要性を訴える声が上がっていることを懸念しています。弱肉強食の世界は望ましくないが、現実は弱肉強食の世界から逃れられないのだから強者になろう、もしくは強者のグループに入ろうという発想です。

石破茂氏と太田光が語るウクライナ侵攻「日本社会では『プーチンのことも理解しろ』と言いにくい」』での対談内容は全体を通して興味深いものであり、決して頭から否定しようとは考えていません。ただ防衛大臣だった石破茂さんの「ウクライナは核兵器を手放したからこうなったと思っているでしょう」という言葉などが気になっていました。

ウクライナは1994年の「ブダペスト覚書」で、核不拡散条約への加盟と引き換えに、米国、ロシア、英国から安全保障が約束されました。でも、こんなことになった。私は、人間の心がきれいならば平和が来るとは思いません。勢力均衡が保たれることで、戦争が起こらないのだと思います。それが崩れかけている。

北朝鮮も「核を放棄したらまずい」と思っているはずです。そして日本は「核抑止力とは何か」ということを突き詰めて考えてこなかった。「非核三原則」を唱えているだけでは、平和は維持できない。むしろ「持たず、作らず」を維持しながら、「持ち込ませず」については議論をするべきだ、と私は思うんです。

上記は石破茂さんの発言です。ウクライナが核兵器を保持していたらロシアの武力侵攻はなかったという仮定の話を一蹴できるとも思っていませんが、今回の事態を教訓化する方向性には疑義があります。これまで当ブログでは「平和の築き方、それぞれの思い」をはじめ、「平和への思い、自分史」「平和の話、インデックスⅢ」「平和の話、サマリー」など平和の築き方に向けた私自身の考え方をまとめた記事を投稿しています。

武力による抑止力は狭義の国防であり、ハード・パワーを重視した考え方は常に仮想敵国を想定しながら際限のない軍拡競争につながりがちです。国際社会は二度の世界大戦を経験し、そこから得た教訓をもとに現在の国際秩序やルールを定めています。国際社会における「法の支配」であり、国連憲章を守るという申し合わせです。

国連の役割や機能について不充分さは見受けられますが、せっかく築いた方向性を否定するような動きには懐疑的な立場です。最近の記事「問われている平和の築き方」の中で触れたとおり問題点は改善していくという基本的な姿勢のもとで国連改革に努めるべきだろうと思っています。

そのような国際社会のルールとして、核兵器の開発、保有、使用を禁止する条約が昨年1月に発効しています。残念ながら現段階では日本をはじめ、核保有国や核抑止力に依存する国々は署名・批准していません。それでも核兵器は違法だという流れが国際社会の中で定められたことは紛れもない事実です。

力の均衡、抑止力そのものを否定しませんが、国際社会が過去の教訓や未来への希望を託しながら定めているルールは最大限尊重していくべきものと考えています。まして唯一の戦争被爆国である日本こそ、核兵器の非人道性や地球規模で及ぼす影響を訴え、率先して禁止条約の実効性を高めることに全力を尽くして欲しいものです。

プーチン大統領の核兵器によって他国を威嚇する発言は極めて悪質で不当なものであることを断じなければなりません。また、不当さを比べるものではありませんが、このような局面で安倍元総理が核共有に向けた議論を提起するという発想に対し、強い違和感や危惧を抱かざるを得ません。

自民党の安倍晋三元首相は3日、山口市内で講演し、岸田文雄首相が能力保有を検討する敵基地攻撃について「基地に限定する必要はない。中枢を攻撃することも含むべきだ」と述べた。安倍氏は「日本が守りを専門にして打撃力を米国に任せる構図は大きく変えないとしても、日本も少しは独自の打撃力を持つべきだと完全に確信している」と強調した。【JIJI.COM 2022年4月3日

上記は『敵基地攻撃「中枢にも」 自民・安倍元首相』という見出しが付けられた記事です。このような報道を目にすると本当に悲しくなります。核共有の議論提起をはじめ、平和の築き方に向けた考え方に大きな隔たりを感じがちです。このような安倍元総理の主張に喝采を送る方々も多いのかも知れませんが、自民党OBの次のような発言には驚いていました。

私は父である晋太郎氏をよく知っているが、息子の晋三氏は中身が何もない。内政も外交も勉強していない。今のウクライナ紛争で、安倍元首相とロシアのプーチン大統領との関係があらためて取り沙汰されているが、おそらく安倍元首相はロシアの歴史や日ロ間のそれまでの協議など、基礎的な知識が何もなかったのだろう。だから、プーチン大統領に言われるままだった。いずれにしても、本来は政治家となるべき素養がない人物と言わざるを得ない。

「自民党を叩き潰さなければ…」福田赳夫元首相秘書で党OBの中原義正氏が断言する理由』という記事の中の一文ですが、ここまで痛烈な言葉で批判してしまうと誹謗中傷の類いになるのではないかと心配するほどです。話が広がりがちで、たいへん長い記事となっているため、平和主義の効用に絡む内容などは次回以降の記事で取り上げてみるつもりです。

もう少し核抑止論について続けます。「議論はすべき、議論自体をタブー視してはいけない」という意見があります。確かに議論そのものを抑えてしまうことは民主主義国家として問題だろうと思います。しかし、国際社会の中で核兵器は禁止されていく大きな流れがあることを念頭に置かなければなりません。

例えで考えれば日本の家庭において拳銃を持つことは法律違反です。法律に違反することを承知しているけれども「身を守るために必要かどうか議論はすべきだ」と主張していることと同様であることを認識しなければなりません。安倍元総理らにそのような認識があるのかどうか分かりませんが、最後に『一部政治家が“核共有論”を主張…「長崎の証言の会」が抗議文』という報道を紹介します。

ロシアによるウクライナ侵攻をきっかけに、国内の一部の政治家が「核共有論」の議論の必要性を訴えています。これに対し、長崎や広島の被爆者の声を記録し続けてきた市民団体が抗議の声を上げました。抗議文を発表したのは、被爆者などで作る長崎の証言の会です。核共有論はアメリカの核兵器を国内に配備し、核の抑止力をアメリカと共有しようなどというものです。

ウクライナ侵攻を進めるロシアのプーチン大統領が核兵器の使用をちらつかせたことを受け、国内の一部の政治家が「導入を議論すべき」と主張しています。これに対し、長崎の証言の会は「アメリカの核を国内に配備すると相手国からの攻撃の対象となり、かえって危険を招き寄せてしまう。核を廃絶する目標が遠のく」として、強く抗議しています。

「私たちは50年以上の間被爆者の証言記録運動を積み重ね、核兵器を使ったら何が起こるかを記録してきた。被爆者の語りに耳を傾け『ふたたび被爆者をつくるな』という被爆者の思いを自らのものにしてほしい」と発言の撤回を求めています。抗議文は自民党の安倍元総理と日本維新の会の松井代表宛てに1日送付したということです。

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2022年4月 9日 (土)

ハラスメントのない職場の確立に向けて

前回記事「砲撃が続くの中での停戦交渉」の冒頭で、私どもの市役所に入所された皆さんに向けた記事を書くつもりだったことを伝えていました。労使対等原則を説明する中でウクライナの停戦交渉にも触れようと考えましたが、とても「さわり」だけで済ませられるような問題ではなく、すぐ新規記事のタイトルを変更していました。

今回のタイトルはウクライナから離れていますが、一言だけ触れさせていただきます。ロシア軍の非道さが明らかになっている一方、ロシア国内でのプーチン大統領の支持率は上昇しています。偏った情報では正当な判断ができないという現実を見せ付けられています。今後、大義のない軍事侵攻を即刻やめさせるためには多様な手段を駆使して真実をロシア国内に届ける試みも重視されているのではないでしょうか。

さて、週1回の更新間隔のため取り上げたい題材に事欠きません。今回は私どもの組合における最近の取り組みを題材としていますが、決してローカルな問題にとどまらず、時事の話題としてもタイムリーな位置付けとなるはずです。2020年6月にパワハラ防止法が施行されています。この4月からは中小企業にも防止措置が義務付けられ、全面的な施行となります。

パワハラ防止法の正式名称は「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律」で、略称が労働施策総合推進法です。同法にパワーハラスメント防止に関する規定を盛り込む法改正が行なわれたことを踏まえ、一般的にパワハラ防止法と呼ばれています。

これまで当ブログでは「パワハラ防止に向けて」「電通社員が過労自殺」「心が折れる職場」など職場でのパワハラを題材にした記事をいくつか投稿しています。2009年10月の記事(「投資」となるパワハラ対策)の最後のほうでは下記のような動きや問題意識を伝えていました。

パワハラを許さない職場づくりのためには、まず皆がパワハラについての知識を深めることが必要です。セクハラと同様に「それって、パワハラじゃないですか?」と気軽に指摘できるようになれば、自覚のなかった加害者に自制を促す機会となり得ます。そのような意味合いを込め、金曜日に開いた安全衛生委員会で私からパワハラ対策に関して次のように提起しました。

「パワハラによる自殺が労災認定されるようになっています。パワハラは、職場から撲滅すべきものであることは言うまでもありません。これまでセクハラ防止についても安全衛生委員会の課題としてきました。今回、具体的な事例の有無を問うものではありませんが、今後、パワハラ対策も安全衛生委員会の重要な課題とすべきものと考えています」と発言しました。

私からの提起に対し、委員長である副市長から即座に賛同を得られ、安全衛生委員会としてパワハラ対策についても取り組んでいくことを確認しました。今後、労使双方でパワハラに対する定義を共通理解し、実態の点検を進め、パワハラと認定すべき行為が発覚した際は適切な対応に努めていきます。職員が健康でいきいきと働き続けられ、組織の士気や業務効率を高めるためにも、パワハラを許さない職場づくりが重要であり、その一歩を踏み出したものと受けとめています。

上記の内容で今回の記事を締めることもできますが、最近の動きを紹介しながら「ハラスメントのない職場の確立に向けて」というタイトルの新規記事を書き進めていきます。新年度に入った『組合ニュース』のトップの見出しは「働き方やハラスメントの問題で困った時は組合まで」です。本文中の小見出しには「人材を育むための人事評価制度に向け、必要な協議を継続」があります。

3月末に発行した機関誌の特集記事の中で人事評価制度における労使確認事項を報告しています。組合は人事に関与できませんが、賃金水準に直結する制度面の問題は労使協議の対象です。そのため、労使で確認した事項が的確に履行されているかどうか引き続き労使協議の場でも検証していくことになります。

『組合ニュース』の本文では、その後に「人事評価制度は人材育成を主目的とし、排除や選別につながるような制度では問題です。特に雇用の問題は労働組合が最も重視している領域です。もし雇用や働き方の問題で困った時は気軽に組合までご相談ください」と続けています。

最新号の『組合ニュース』には「ハラスメントについて」という見出しの内容も掲げています。前述したとおり4月からパワハラ防止法が全面施行されたことを伝えた後、セクハラも含め、ハラスメントのない職場の確立に向けて、現在、組合は下記のような問題意識のもとに対応していることを報告していました。

ハラスメントとは「他人に対する発言や行動などが、本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えることをいう」とされ、行為者が無自覚であることが多く、受け止める側に個人差があることも特徴です。

組合は20年以上前からハラスメントに関する組合員からの相談を個別に受け、その都度必要な対応をはかってきました。同時に組合はハラスメント対策の重要性を安全衛生委員会等で訴え、現在「職場におけるハラスメントの防止に関する要綱」が定められ、ハラスメント防止等対策委員会が設置されています。

今でも必要に応じて組合員からの相談を個別に受けていますが、最近、次のような課題に直面しています。対策委員会に相談・苦情を申し出た際、申請受付の経緯、審議のあり方、示された処理結果に納得できないという組合員からの相談です。要綱では「委員会は、相談・苦情をした職員が、委員会の事案の処理に不服がある場合に、他の相談機関に相談することを妨げない」と記されています。

パワハラ防止法では事業者にその次の相談機関の設置を求めていますが、公平委員会をはじめ、不服申立を受ける充分な体制が整っていないため、被害者は泣き寝入りせざるを得ない現状です。最終的には裁判という方法もありますが、証拠等をそろえることの困難さや費用がかかり、現実的には不可能です。

1月末に自治労都本部の催したオンライン集会で「職場のハラスメント研究所」代表理事の講演があり、参加した組合役員が今回のようなケースへの適切な対応策について質問していました。他の相談機関に持ち込む前に組織内で解決できることが望ましく、仕組みを改善することの必要性等について講師から助言を得ています。

この時の助言を踏まえて、組合はハラスメント防止等対策委員会の機能の一部見直しに向けて市当局に下記2点について議論提起しています。

① ハラスメントとして認定するのかどうかにとどまらず、両当事者の言い分を聞いて調整や調停する機能を付加できないか

② 事案の処理に不服があった場合は再度審議する機会、いわゆる二審制を取り入れられないか

「職場におけるハラスメントの防止に関する基本方針」の冒頭に「職場におけるハラスメントは、職場の秩序を乱し、業務の遂行を阻害する行為であり、ひいては市民サービスの低下につながりかねないものである」と記されています。ハラスメントを受けた職員の尊厳や人権を守るべき問題であると同時に職場全体に影響を及ぼす問題として対応していかなければなりません。

このような趣旨のもと組織的な対応策や仕組みが不充分であれば適宜改善していく必要があります。相談されている組合員の声に寄り添いながらハラスメントの再発防止に向け、よりいっそう効果を上げられる制度の改善をめざし、組合は上記のような議論提起につなげています。

上記は「【報告】ハラスメントのない職場の確立に向けて」という見出しを付けて『組合ニュース』の裏面に掲げた内容です。前述したとおりハラスメントを行なった職員が「そのつもりはなかった」というケースは多いようです。

次のような事例もハラスメントに該当する場合があります。業務上、明らかに必要性のない言動として、部下やその家族の私生活のことを話題にする雑談なども要注意です。職員の就業環境が害されるものとして、急ぎの仕事にかかっている部下に不要な問いかけなどを繰り返すとハラスメントに当たる場合もあります。

一方で、職場での雑談の効用を説く声もあります。『職場を変える「雑談」の魔力 4つの心得』というサイトでは次のような雑談のメリットを紹介しています。「雑談で相手との距離感を縮めることは重要」という主旨の記事ですが、そのサイトの後段では注意すべき点も綴られています。

雑談は、組織のなかであれば、信頼関係を築く上で重要で、集団の絆を強める効果がある。チームとなればなおさらで、求心力など凝集性を高める。また、自分の話を聞いてもらえる環境があれば心理的安全性も生まれるだろう。さらには、それを前提に業務上のコミュニケーションも円滑になり、様々な状況で自分の意見をはっきりと伝えることにつながる。

セクハラも同様ですが、同じ言動でも相手関係や場面によって受け止め方が大きく異なっていきます。そのような特性や悩ましさを理解した上、良好な人間関係を築いていかなければなりません。いずれにしてもハラスメントのない職場の確立に向け、加害者にならないための個々人の意識付けが重要だろうと考えています。

最後に、まったくの余談です。機関誌の懸賞付クロスワードパズルはコロナ禍の組合予算還元策の一つとして3千円分のクオカードの当選確率を例年の3倍としています。当選者30名のところ応募状況の出足が鈍かったため、『組合ニュース』の囲みで「当選確率は100パーセンほどです」という呼びかけもしていました。

その中で「設問は難しくても4文字の答えはすぐ分かると思います。組合がよく使う言葉で、この『組合ニュース』の中でも使っています」という一文を加えていました。すると同じ職場の方から「裏面を見たら答えが赤字になっていたので思わず笑ってしまいました」と声をかけられていました。ちなみに現在の当選確率は2倍を超えています。

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2022年4月 2日 (土)

砲撃が続く中での停戦交渉

新年度を迎えた金曜の朝、市役所まで歩く道沿いの桜がきれいに咲き誇っていました。その日、ここ数年では多い数となる42名の新規採用職員が入所しています。ブログを開設した翌年4月に「新入職員の皆さんへ」という記事を投稿していました。

その後「新入職員の皆さんへ 2014」「新入職員の皆さんへ 2017」「新入職員の皆さんへ 2019 」という記事があり、今回もタイトルに「2022」を付けて新規記事を書き進めることも考えていました。前回記事「【Will】機関誌に託した思い 」に続き、ローカルな話題となるはずでした。

結局、ウクライナでの戦争を焦点化した「砲撃が続く中での停戦交渉」というタイトルを付けて書き進めています。前回の記事で紹介した機関誌は新入職員の皆さんにも配布しています。その中の特集記事「【Will】組合は必要、ともに考え、ともに力を出し合いましょう!」を通し、法的に定められている労使対等原則について説明しています。

市役所職員にとっての使用者は市長です。市役所の仕事において、一職員からすれば市長をはじめとした理事者の方々は「雲の上の存在」となります。そのため、団体交渉の場で、組合役員と市長らとの力関係を対等なものに位置付けないとフェアな労使協議となりません。

切実な組合員の声を背にした要求を実現するためには、市長側と真っ向から対立する意見も毅然とぶつける必要があります。労使交渉に限らず、それぞれ考え方や立場の異なる者同士が話し合って一つの結論を出す際、難航する場合が多くなります。

利害関係の対立はもちろん、お互い自分たちの言い分が正しいものと確信しているため、簡単に歩み寄れず、議論が平行線をたどりがちとなります。両者の力関係が極端に偏っていた場合、相手側の反論は無視され、結論が押し付けられかねません。そのようなケースは命令と服従という従属的な関係に過ぎず、対等な交渉とは呼べなくなります。

その意味で労使対等の原則は非常に重要です。労使交渉の場では対等に物申すことができ、労使合意がなければ労働条件の問題は当局側の思惑で一方的に変更できないようになっています。

上記の考え方は外交交渉の場面でも重要な要素となります。もちろん自らの要求を実現するため、相手側が承服するような理論武装や有効な情報収集に努め、巧みな話術や情に訴える熱意なども必要になる場合があります。しかし、暴力に訴えるような事態に至れば、それは交渉とは呼べません。

暴力団同士の抗争であり、かつて宣戦布告さえすれば認められていた戦争だと言えます。前々回記事「問われている平和の築き方 Part2」で触れていますが、現在の国際社会の中で戦争は原則として認められていません。ウクライナは例外として認められている自衛のための戦争に立ち上がっている構図です。

絶対的な不正義はロシアのみにあり、今回の事態で喧嘩両成敗という見方があり得ないことは衆目の一致するところだろうと思っています。ただ残念なことに少数とは言え「ウクライナ側にも戦争を回避できなかった責任の一端がある」というような声が漏れ聞こえてきます。紹介した上記の特集記事の続きには次のような記述があります。

ちなみに私どもの労使関係に完璧なシナリオはなく、どのような結論を見出せるのかどうか激しい議論を交わす団体交渉や断続的に重ねる事務折衝を通して決着点をめざしています。

ただお互いの主張から一歩も踏み出せないようであれば交渉は成り立ちません。お互いの主張に耳を傾け、労使双方が「結論なき話し合い」にとどめないための決断を模索し、 納得できる解決策を見出す努力を常に心がけています。

「ウクライナ側にも責任の一端がある」という考え方に至る背景として、ゼレンスキー大統領はロシア側の主張に充分耳を傾けていなかったという関係性を指摘する声があります。『玉川徹氏 ミンスク合意破棄目指したウクライナ大統領を疑問視「露に攻め込む口実与えた」』という記事の中で次のようなやり取りを伝えています。

「もしミンスク合意を履行されていたらこの戦争はあったんだろうかというのを考えなければいけないんじゃないか」と言及。ミンスク合意を破棄することを目指したゼレンスキー大統領を問いただすような論調を展開した。

これに対して、廣瀬陽子慶大教授は「ウクライナはまったく同意していなかった。しかし2014年の内戦は、非常にウクライナにはつらいもので、止めないと分断してしまうということで合意してしまったという経緯がある。そのときは停戦すれば挽回できるという思惑もあった」とコメントした。

玉川徹さんが「戦争という状態になっちゃったら人が死んじゃうんですよ。地獄のような状況になっちゃう」という強い危機意識から訴えていることは理解しています。私自身も戦争は絶対回避すべきという強い思いは同様です。しかしながら断続的に開かれている停戦交渉の最中でもロシアの砲撃が続いています。

そのことに対し、ウクライナのゼレンスキー大統領は「交渉はポジティブなものだと評価できるが、砲撃はやんでいない。我々を滅ぼそうとする敵側の交渉団の発言を信用する根拠はない。ウクライナには交渉の用意があり、できる範囲でそれを続ける」と語っています。

ゼレンスキー大統領のこのような発言に対しても「停戦することを第一義に考え、もっと柔軟に対応すべき」という声が発せられてしまうのでしょうか。そもそも殴り続けられている中での話し合いが対等な交渉となり得るのか、甚だ疑問です。今回はウクライナ側の徹底抗戦と国際社会の結束によって、かろうじてロシア側にも譲歩を求める関係性になっていることが一つの救いです。

取り沙汰されているミンスク合意そのものが結ばれた経緯や内容について大きな問題を残すものでした。2014年春、ロシアがウクライナ南部のクリミア半島を併合した後、親ロシア派武装勢力がウクライナ東部の一部地域を占拠して始まった戦いで犠牲者が増えていました。

そのため停戦合意が急がれ、2015年2月、ウクライナの隣国ベラルーシの首都ミンスクで結ばれています。ミンスク合意はロシアの意向が強く反映された項目があり、「急ごしらえの結果、ウクライナとロシアの立場は大きく異なり、矛盾した条項が含まれている」と指摘されていました。

上記の記事で廣瀬陽子教授がコメントしているとおりウクライナはまったく同意していなかったという経緯もあったようですが、ミンスク合意は国連に登録した国家間の条約になっていました。ウクライナ情勢、解決の鍵を握る”ミンスク合意”を佐藤優が解説』という記事の中で、佐藤優さんは大統領が変わっても「外国と約束したことは守らないといけない訳ですよ」と指摘していました。

ロシアがウクライナに侵攻する前、2月18日に放送されたラジオ番組での発言でした。その時点での指摘としては理解できますが、「だからロシアの武力侵攻はやむを得ない」というロジックにつなげることの危うさは佐藤さんも充分認識しているはずです。

繰り返し述べていることですが、戦争は絶対回避するという目的を最優先事項として相手方の主張にも耳を傾けていくという姿勢が一定の範囲で必要とされていくものと思っています。しかし、現在進行形として武力によって領土を侵攻している相手方の主張に耳を貸していくことは外交交渉の延長線上としての戦争を肯定するような話になりかねません。

ミンスク合意の問題性を教訓化し、弱肉強食の世界を否定している国際社会の普遍的な原則を今後も堅持していくためにも、ロシアの暴挙を容認しない形での決着が求められています。このような私自身の問題意識は『「ロシアもウクライナも両方悪い」は不適切。細谷雄一教授の連続ツイートが「WEBで読める決定版と言える論考」と反響』という記事からも確証を得ることができます。

最後に、その記事の中に掲げられた細谷雄一教授の連続ツイートの全文を紹介します。国際政治学者の立場から細谷教授は「ロシアの行動が国際秩序の根幹を揺るがすもの」と厳しく批判しています。リンク先の記事には今後の中国の動きを警戒した一問一答なども掲げられています。

なぜ「ロシアもウクライナも両方悪い」という議論が適切ではないのか。それは国際社会にもルールや規範があるから。ロシアの行動は、国連憲章2条4項の国際紛争解決のための武力行使を禁ずる国際法違反。ウクライナの行動は、同51条の個別的自衛権行使に基づくもの。国連総会も日本政府も、それに賛同。

ウクライナにネオナチがいるとかゼレンスキー大統領に問題があるとか、そういったプーチンや反米親露のメディアや知識人の主張に耳を傾ける前に(基本的に武力行使禁止の免責条項にはならない)、まずは国際法上違法性の高いロシアの武力攻撃が、どういう論理で合法性の担保が可能か考えるべきでは。

あらゆる戦争が悪であると述べることは、正しいようでありながらも、20世紀の国際法と国際的規範の歩みを全否定すること。道徳的な高みになって、「あらゆる戦争は悪であってどちらが正しいというわけではない」と論じることは、20世紀の平和への努力を蹂躙すること。

国際法を無視した侵略的な武力攻撃、さらには無差別な一般市民の殺戮は悪であるが、そのような侵略から国民の生命を守るために自衛的措置をとる行動は、合法であり正当な行動であるということを理解してほしい。だからウクライナの行動が国際的に支持され、国際社会から支援されている。

これらの前提を知らずしてか、無視してか、「ロシアもウクライナも、戦争をしているのはどちらも悪いのであって、片方を支持するべきではない」というのは、国際的には全く共感されず、単なる国際法の無知とされてしまう。

もちろん、より重大な問題として、常任理事国が拒否権を持ち、ロシアの妨害で国連安保理決議が採択されないこと。だからこそ、ゼレンスキー大統領は日本での演説で、国連改革の必要を解き、イギリス政府は国連安保理からのロシアの除外を求めている。現状の国際社会は完璧ではないが、法と規範も存在。

とはいえ、もちろん、国際法は「白と黒」で分かれているのではなく、多くのグレーゾーンがある。また、冷戦後の30年間で、アメリカが国際法や国際的な規範を踏み躙るような行動を幾度もおこない、アメリカへの不信感や、国際法の信頼性が大きく後退したのも事実だと思う。その隙間をついたのがプーチン。

なので今回のロシアの行動を放置すると、国際法や国際的規範に基づいた国際秩序が瓦解すると思う。そうなれば、「法の支配」ではなくて核兵器の数によって国際紛争が解決される時代へ。アメリカ、ロシア、中国がこれまで以上優位に立ち、日本の主張は悉く無視され主権と利益が侵害されるはず。

言い換えれば、アメリカもロシアも中国も自らの圧倒的な数の核戦力に基づく軍事力で自国の主権や利益を守れるが、そうでない中小国はウクライナの例のように、自国の主権や利益を守れなくなる。そうなれば、世界中が核開発競争になる。そして平和国家の日本の主権と利益は蹂躙され続けるだろう。

結論。なので私は、情緒的及び感覚的に「戦争はどちらも悪い」と論じることは適切ではないと考えている。また、テレビなどのメディアに携わる方、発信する方も、そのような国際法上の武力行使の合法性をぜひ理解した上で主張してほしいと思う。言論の自由のある日本では多様な主張が可能だが。

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