57年ぶりの東京五輪が開幕
金曜の夜、1964年の第18回夏季大会以来、57年ぶりの東京五輪が開幕しました。新型コロナウイルスの影響で無観客でしたが、マスクを着用した選手団のリラックスさが伝わる開会式だったことに安堵していました。史上初めて1年延期された後、緊急事態宣言下での異例の幕開けとなっています。開催までの異例さや迷走ぶりを上げれば枚挙に暇がありません。
振り返れば大会のエンブレムは変わり、国立競技場のデザインも変更されました。今年2月に組織委員会の森会長、3月には開閉会式のクリエーティブディレクターだった佐々木宏さん、開会式直前には楽曲制作担当の小山田圭吾さんが辞任し、ショーディレクターの小林賢太郎さんは解任されています。
過去の振る舞いや発言が問題視され、責任を問われているケースが目立っています。「問題のない人なんているのかな」という声もあるようですが、国際的な注目を集める舞台に携わる立場の方々である限り、過去の話だったとしても取り沙汰されたような瑕疵は許容できない問題だったと言えます。
宮崎県知事だった東国原英夫さんは小林さんの解任に対して「過去も含め、清廉潔白でならないといけない」と発言しています。その東国原さんはフライデー編集部襲撃事件の際に暴行罪で現行犯逮捕されて不起訴処分、他にも別な傷害事件では罰金刑を受けています。それでも県知事や衆院議員となり、現在もタレントとして活躍中です。
麻生財務相は「ナチスの手口を学んだらどうかね」と語ったことがありましたが、すぐ撤回したことでその後も重責を担い続けています。このように以前の過ちや重大な失態が致命傷にならず、堂々と人生を歩み続けられる場合もあります。今回のケースは東京五輪という世界的な大イベントに向け、本人たちの認識の甘さや組織としてのマネジメントの拙さが顕著だったものと思っています。
前回記事「菅内閣の支持率低迷、されど野党も」の最後に次回以降「スガノミクスと枝野ビジョン」という内容を取り上げたいと記していました。今回、最初の段落を書き始めた時点で新規記事のタイトルは「57年ぶりの東京五輪が開幕」に差し替えています。いつものことながら「東京五輪」を切り口に話が広がりつつあります。
広がりついでとなりますが、夏季五輪が開催された時、このブログの中でどのように取り上げていたのか遡ってみます。たいへん長く続けているブログですが、下記のとおり3大会となり、直接的な題材として取り上げたのは北京大会だけでした。リオディジャネイロとロンドンの時の内容(赤字)も含めて紹介します。
2016年8月6日 (土) もう少し選挙制度ついて
リオディジャネイロ五輪が始まりました。ブラジルとの時差は12時間ですので、テレビの前に釘付けになって寝不足に悩まされる方も多いのかも知れません。4年後の五輪開催を控えた首都東京の知事選挙は事前の予想通りの結果となりました。東京都知事としては初めての女性知事となる小池百合子候補が圧勝し、自民党と公明党が推薦した増田寛也候補、野党統一候補の鳥越俊太郎候補らを退けました。
2012年7月29日(日) 断定調の批判に対する「お願い」 Part2
最後に、ロンドンオリンピックが開幕しました。土曜の夜、柔道や重量挙げなどを観戦し、各選手の活躍に明暗が分かれる姿を見届けながら、このブログの更新に至っていました。ちなみに「議論の3要素」の話まで広げる内容を考えていましたが、結局、前回記事のタイトルに「Part2」を付けるだけの題材に絞り込んでいました。できれば次回以降の記事の中で、そのような話も取り上げられればと考えています。
2008年8月10日 (日) チベット問題とオリンピック
金曜の夜、中国の威信をかけた壮大な開会式が演出され、17日間にわたる北京オリンピックが開幕しました。民族浄化や人権蹂躙を続ける中国政府に対する抗議の意をこめ、オリンピックを観戦しないと話す人たちがいます。個々人の考え方があって、観る観ないも人それぞれの判断だろうと思っています。
「チベット問題とオリンピック」は冒頭のみ紹介しています。さらに横道にそれますが、紹介した2012年7月29日の記事に145件、その前は52件、前々回は102件ものコメントが寄せられていました。現在も多くの方々に訪れていただいていますが、コメント欄の雰囲気は様変わりしています。
2013年9月8日(日) 2020五輪は東京開催
自分自身、正直なところ淡々とした思いで決定の瞬間を目の当たりにしていました。東京で開催できる喜びよりも、よりいっそう国際社会の中で日本は重い責任を負ったという思いを強めていました。ブエノスアイリスで開かれた直前の記者会見の場で、海外メディアから福島第一原発の汚染水漏れの問題が繰り返し指摘されていました。もともとオリンピックは好きなほうであり、汚染水の問題がなければ、もっと素直に東京開催を喜ぶことができたのかも知れません。
上記はIOC総会で東京五輪の招致が決まった直後のブログ記事からの一文です。最終プレゼンに出席した安倍前総理は「(福島第一原発の)状況はコントロールされている。東京にダメージが与えられることは決してない」と強調していました。2年前の記事「福島第一原発の現状」で伝えたとおり汚染水は処理水と呼べるようになっているものと認識しています。
ただ8年前の時点で、汚染水の問題は風評被害にとどまらない現実的な脅威として内外から見られていたことも確かでした。そのため、私自身も安倍前総理の「アンダーコントロール」という言葉には違和感を抱いていました。たいへん残念ながら東京五輪に関わる言葉の違和感や現実との乖離はその後も続きます。「コンパクト五輪」をめざしていたことは忘却の彼方に消え去り、「復興五輪」のかけ声も空しく響いています。
「新型コロナに打ち勝った証」という言葉も完全無観客に至り、もはや打ち負かされないよう無事に終えることだけが最大の目的となっているように思えてなりません。滝川クリステルさんの「お・も・て・な・し」という言葉と現状との乖離が最も空しく、ここまで不安視され、不完全な形で開催を迎えていることに忸怩たる思いを強めています。
開会式の前日、NHKの大河ドラマ『いだてん』総集編が放送されました。日中戦争の勃発で国際世論の日本に対する批判が厳しくなる中、国威発揚に五輪を利用しようとする政府の方針に反発し、主人公はIOC委員の恩師に「今の日本は、あなたが世界に見せたい日本ですか?」と開催返上を訴えます。結局、第2次世界大戦に突入し、1940年の東京五輪は中止となります。
敗戦を経て、主人公らは再び招致に動き、1964年の東京五輪が実現します。それまでの慣例を破り、閉会式は選手が自由気ままに入場する形に変えていました。国籍、人種、性別、宗教、あらゆる壁を乗り越え、選手たちが笑顔で手と手を取り合って入場する姿は感動を呼び、それ以降の閉会式の定番となっていました。
『いだてん』の最終話では閉会式の様子がたっぷり描かれ、涙ぐむ主人公が映し出されます。そこに幽霊となった恩師が現れて「これが、君が世界に見せたい日本かね?」と問いかけ、主人公は「はい」と微笑みながら胸を張って答えます。戦争中の幻となった東京五輪への批判の言葉が、今度はオリンピックの理念を具現化した閉会式への賞賛の言葉として最終話によみがえっています。
昨日、沢木耕太郎さんの『オリンピア1936 ナチスの森で』を読み終えました。1940年の第12回東京大会は幻となりましたが、第11回大会はベルリンで予定通り1936年8月に開催されていました。その年の3月、ヒトラーはロカルノ条約を一方的に破棄し、フランスとの国境に広がる非武装地帯ラインラントに大部隊を送り込んでいました。
1936年夏、ヒトラーはベルリン大会の開会を高らかに宣言した。それはナチスが威信を賭けて演出した異形の大会にして、近代オリンピックの原点となった――。著者は、そのすべてをフィルムに焼きつけて記録映画の傑作『オリンピア』を産み落としたレニ・リーフェンシュタールの取材に成功する。さらに、激しく運命が転回した日本人選手の証言によって大会を再構築した傑作ノンフィクション!
上記は著書を紹介する説明文です。確かにナチスの威信を賭けた異形の大会だったのかも知れませんが、非難声明を出していたフランスからも選手団が派遣され、51の国と地域から4千人の選手と2千人の役員が参加する過去最高規模の五輪となっていました。1936年8月の時点では2度目の世界大戦を回避できる可能性も残されていたのかも知れません。
オリンピックは「平和の祭典」と呼ばれています。当たり前なことかも知れませんが、戦争中であれば開催することは困難です。国連にはオリンピック停戦という原則もあり、五輪開催を通し、平和の維持、相互理解、親善という目標の推進をめざしています。いずれにしても平和だからこそ開催できる、このような思いのもとに今後の五輪開催が途絶えずに続くことを切望しています。
沢木さんのルポはナチスが支配する異形さを伝えている一方、日本人選手を中心に各競技での勝者や敗者の素顔を丁寧に書き記しています。そのような頁を読み進める中において世界大戦を間近にした緊迫感はなく、あくまでもスポーツを通した力や技の競い合いの奮闘ぶりが描かれています。
「前畑ガンバレ」を連呼したラジオの実況放送はベルリン五輪の時のものでした。それでも戦争の影を感じる箇所も多く、活躍した選手が数年後に戦地で亡くなったことも子細に書き残されています。さらに朝鮮出身のマラソンの代表選手が表彰台の一番高い所に上がれたことを喜ぶ一方で「君が代」が流され、「日の丸」が掲げられることの無念さなども沢木さんは伝えていました。
今回の東京五輪もコロナ禍の中で開かれる異例な大会となっていますが、選手の皆さんは普段通りの舞台のもとで普段通りの力を発揮して欲しいものと願っています。様々な懸念がありますが、私自身、開幕した後の東京五輪はテレビで観戦し、やはり日本人選手を中心に応援したいものと考えています。そして「今の日本は世界に見せたくなかった」と悔やまないような閉会式を迎えられることを祈念しています。
話を広げすぎて今回も長い記事になって恐縮ですが、もう少し続けます。沢木さんの文庫本の「あとがき」はⅠからⅢまで掲げられています。2021年4月の「あとがきⅢ」には、東京五輪の延長をIOC側が2年後という案を呑むことを辞さない態度だったと言われていながら、安倍前総理がかなり強引なリーダーシップを発揮して1年後にしたことを伝えています。
沢木さんは「安倍氏の側にそうしたい事情、たとえば1年後ならまだ首相として開会式に臨めるだろうという期待、のようなものがあったからではないかと思えなくもない」と苦言を呈しています。選手のことや施設跡地の問題など総合的に判断されたのかも知れませんが、2年の延長案が主流だった中、安倍前総理が1年延長で押し切ったという話は事実であるようです。
この時期に「新型コロナに打ち勝った証」として完全な形で開催できていれば安倍前総理の判断が称賛されていたことになります。ここは結果論としての政治責任を問われる局面であり、あまり強く批判できるものではありません。しかしながら「歴史認識などで一部から反日的ではないかと批判されている人たちが、今回の開催に強く反対している」という決め付けた認識はいかがなものかと思っています。
その安倍前総理は開会式に欠席することを決めていました。東京五輪は菅総理にとって安倍前総理から引き継ぎ、必ず開催しなければならない重要な課題の一つだったはずです。それでも現在、最も重い責任と役割は菅総理に託されています。最後に、経済ジャーナリストの磯山友幸さんの 『「残念ながら最悪のシナリオを辿っている」東京五輪後に国民が被る大きすぎる代償』の中で気になった箇所を紹介します。
「菅首相は選挙しか興味がない」と自民党のベテラン政治家は言う。「会って飯を食っても選挙の話しかしない」と言うのだ。菅首相は、緊急事態宣言を出すかどうか、オリンピックをやるかどうか、無観客にするかどうか、もすべて「選挙に有利に働くかどうか」で決めてきたのかもしれない。菅首相からすれば、ワクチン接種を進めて「ゲーム・チェンジャー」にして、オリンピックを実施し、成功裏に終わらせれば、内閣支持率は一気に回復すると期待したのだろう。だが、残念ながら菅首相の思うようには進んでいない。
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コメント
思うところがあり、長文を掲げます。
まず、前提として。
私は、オリンピック・パラリンピックの「招致」に反対してきました。
コロナ禍のもとでの「開催」ではなく、8年前から「招致」に反対してきました。
理由は、「真夏の東京で開催するのは、正気の沙汰ではない」と信じるからです。
8年前の時点で、真夏の開催は絶対に動かせない絶対条件であることは判っていました。
今回、日本の暑さに慣れていない国外からの観客を迎えずに済んだことには、[気候対策の面からは]最善の結果と心底安堵しています。
言うまでもなく、無観客開催の原因になったコロナ禍については、以前コメントしたように「憂慮」しています、念のため。
さて、本題ですが。
斯様にオリンピック・パラリンピック開催に懐疑的な私から見ても、余りにもトンデモナイ「開催阻止論」が一時浮上しました。
立憲民主党の政調会長代理が、係るtweet をなさった由。(削除済)
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陛下が開会式で「大会の中止」を宣言されるしか、最早止める手立てはない。
2021/07/21 8:31
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え~、護憲派のみなさんですとか、立憲民主党の支持者のみなさんは、ことの意味を正しく理解されているでしょうか?
今回の「天皇の一声で開催を中止させる」と言う【論理】は、大日本帝国憲法の「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」を前提にしないと成立しません。
これは「現行の憲法体制の否定」ですよ。「政治利用」という言葉に = 矮小化 = してはダメなんです。
日本国憲法前文の最初の一文で「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、」とあるように、現行憲法の下にある統治の枠組みに於いては「日本国民は、臣民として天皇の統治権に服してはいない」のです。
日本国憲法による統治の枠組みは「国民主権のもとの間接民主政、象徴としての天皇」というのが根本原則です。天皇に統治権を行使させてはいけません。
非常に恐ろしく深刻なのは、こうした憲法体制の否定が
[国民主権のもと、国民の代表として政党に選挙され、国権の最高機関である国会の構成員たる立場にある方・しかも”立憲主義を声高に掲げる”有力政党の幹部]によって、惹起された。
と言うことです。
大日本帝国復古主義者が口にしたことではありません。「立憲主義」を声高に叫んで政府を批判してきた側の 国民主権の体現者の立場にある人物 が公言したことです。
どう考えても「立憲主義の否定」です。[政治利用なんて生やさしい話]ではありません。
※政治利用は、それ自体許されないと考えますが、それでも形式的には憲法体制の枠内に収まっています。
安保法制の折、あれ程「立憲主義」を掲げて騒いだ政党の、幹部に当る立場の人が、この発言ですよ。
更に信じられないのは、その後の立憲民主党執行部の対応ですよ。何をやってるんですか。
立憲民主党の根本方針に完全に背いているのに、公式なおとがめはなし。ふざけてますか?
「護憲派」や「立憲民主党の支持者のおとなしさ」も大概でないですか。
まぁ、「護憲派」ってのは「第九条教」ということで置いておくとしても、問題は「支持者」ですわ。
これだけ党の方針に抵触するような幹部について、批判の声が上がらないどころか、擁護しようとすらするのはどういう了見ですか?
「必要な改憲は行うべし」とする私が、憲法の重さ故にこれだけ危機感あらわに騒いでいるのに、肝心の護憲派はダンマリっていう構図が理解不能で。
「護憲」を根本的に否定する発言なんですけども、護憲派や同党の支持者は、ホントに何とも思わないですか?
なんで、こんなに静かなんでしょう。
投稿: あっしまった! | 2021年7月31日 (土) 09時39分
あっしまった!さん、コメントありがとうございました。
ご指摘のあった立憲民主党政調会長代行の川内博史衆院議員のツイッターでの発言は非常に軽率だったものと思っています。政治家としての資質や見識が問われる失態です。
不適切発言で本多平直衆院議員は辞職しています。問題発言だったことは間違いありませんが、発言した場面などを酌量した際、議員を辞めるところまで追い込むことが適切だったのかどうか分かりません。
今回、その問題発言の時と異なり、大きく取沙汰されていません。取り上げづらい天皇制に関わる問題という性格をはじめ、あっしまった!さんが憤られているような重要な論点も一般的には理解しづらいのだろうと見ています。
波紋を広げていないことを幸いにし、ご指摘のような立憲民主党の危機感の乏しさがあるようであればそれも問題です。緊張感ある政治的な構図の必要性のために立憲民主党の奮起を期待する立場の一人として、今回のような問題についても今後記事本文で取り上げていくつもりです。
今週末に投稿する新規記事は別な題材で書き進め、今回も菅総理に対して辛口な内容となります。次回以降、立憲民主党について取り上げた際、川内議員のことも触れていければと考えています。
ぜひ、これからも何かありましたら貴重なご意見等を投稿いただければ幸いですのでよろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2021年7月31日 (土) 21時20分