コロナ禍で問われる政治の役割
金曜日に東京都議会議員選挙が告示され、7月4日に投票日を迎えます。定数127に対し、271人が立候補しています。現在の定数になった1997年以降では最も多い立候補者数です。私が議長代行を務める連合地区協議会は2人の候補者の応援に力を注いでいます。
地区協の議長は応援のためにマイクを持つことが多くなっています。先日、事務局長から「同じ時間帯に重なることもあり、議長の代わりにマイクを持って話してもらえませんか」という依頼がありました。
文字通りの議長代行という役割を担えず、たいへん心苦しいところですが徴税吏員という私自身の立場を改めて説明し、選挙に関わる応援演説ができない事情にご理解願いました。これまで法的な制約について取り上げた「地公法第36条と政治活動」「再び、地公法第36条と政治活動」「大分県警が隠しカメラを設置」という記事を投稿しています。
地方公務員という立場上、一定の制約があることは確かですが、政治活動が一切禁止されている訳ではありません。しかしながら「ここまでは大丈夫」という勝手な解釈は厳禁であり、定められた一線を強く意識するように心がけています。そのような線引きを大前提として、あえて政治的な話題を当ブログでは頻繁に取り上げています。
公務員の政治活動のあり方について取り沙汰されがちな中、せめて正確な情報や認識のもとに評価を受けたいと願っているからです。さらに自分自身の主張を広く発信できる自分なりの一つの運動として位置付け、このブログに向き合っています。前回記事「コロナ禍が続く中での組合活動」の冒頭では次のように記していました。
国民一人一人が一票を投じるという所定の手続きを経た結果、政権与党という組織も大きな権限が託されています。政権運営を託された総理大臣をはじめ、政府与党の責任者は右に行くのか、左に行くのか、日常的に難しい判断が求められていきます。
判断の誤りが続くようであれば政権の座から下ろされる、このような緊張感ある政治的な構図が欠かせないはずです。代議制民主主義の重要な点ですが、ここから先の話は長くなりそうですので機会があれば次回以降の記事で深掘りできればと考えています。
都議選が告示されたタイミングでもあり、さっそく今回の記事で深掘りさせていただきます。コロナ禍で問われる政治の役割として、より望ましい結果を出し続けていく非常に重い責任が課せられています。平時であれば「やってる感」の政治でも一定の支持は得られていたのかも知れません。
しかし、危機管理下での政治の役割としては結果が出せなければ国民の命と暮らしを守ることはできません。コロナ禍での政治の役割に期待した記事として「政治の現場での危機管理」「都政の現場、新知事へのお願い」「コロナ禍での野党の役割」「危機管理下での政治の役割」などを投稿しています。
代議制民主主義とは、有権者が選挙を通じて政治家を選び、政治家が政策決定を行なう仕組みで間接民主制とも呼ばれます。選挙を経た議員による議会というチェック機能もありますが、多岐にわたる政策の方向性は政権与党の責任者の判断に委ねられています。その中で最も重い責任と大きな権限が託されているのは総理大臣です。
「菅総理へのお願い」という記事を投稿していましたが、菅総理も「国民のため」という強い思いで政権運営に努めているはずです。自分自身が総理大臣を続けるため、総選挙で自民党が負けないため、そのような思いを優先しながら政策判断を重ねていないことを願っています。
東京五輪の開催も「国民のため」という判断基準をもとに決めているはずですが、感染を拡大させるリスクが伴っていることも留意しなければなりません。先週金曜、朝日新聞朝刊トップの見出しは『閣僚「五輪中止を」拒む首相 「やめるわけにいかぬ」いら立ちも』でした。
この1か月ほどの間に何人もの閣僚が「この状況を考えれば中止も仕方ありません」「中止で支持率はマイナスになりません」と説得し、菅総理に五輪中止を迫ったという証言が伝えられていました。しかし、菅総理は「ワクチン接種を加速させる」「感染者数は6月に減るはずだ」という決意の言葉を語り、すべて退けていたようです。
私自身、新型コロナウイルス感染症に関する様々な書籍に目を通した結果、必要な感染対策に努めながら社会生活や経済を過度に停滞させないという発想を重視するようになっています。そのため、東京五輪の開催についても「中止ありき」という訴えをしていません。感染対策に万全を尽くし、主催者が納得性の高い説明責任を果たした上で開催を決めるのであればその判断を尊重したいものと考えています。
しかし、中止しない限り、無観客だったとしても開催に伴う感染リスクがゼロになることはあり得ません。万が一、東京五輪が直接的な原因として感染拡大を生じさせた場合、菅総理の責任も免れない立場だと思っています。それにも関わらず「開催の判断はIOCの権限」という責任回避と取られるような発言が気になっていました。
そもそも昨年、2年の延長案が主流だった中、安倍前総理が1年延長で押し切ったという話が伝えられています。このような事実関係からも菅総理が第三者的な立場ではなく、日本国内で最も重要なキーパーソンであるはずです。
説明責任に関しても菅総理の「東京五輪の開催は新型コロナウイルスに打ち勝った証し」という言葉をはじめ、「安心・安全な五輪」という常套句から残念ながら納得性が高まるとは到底考えられません。
前回記事の最後にも記しましたが、東京五輪を中止するタイミングは逸しているものと思っています。そのため、東京五輪開催の是非について都議選の争点に掲げられることには少なからず違和感があります。この段階に至っては開催都市の責任として安心・安全な五輪に向けて、政治的な立場を超えて一丸となって協力していくことが求められているのではないでしょうか。
右か、左か、難しい判断を下す際に「国民のため」という思いを常に優先していることが伝わってくれば、その政治家に対する国民からの信頼は高まっていくはずです。逆に「自分のため」が優先された判断だと見られてしまった場合、不信感が高まっていくことになります。
難しい選択も信頼を寄せる政治家が「右に行く」と判断したのであれば国民の多くは「信じてみよう」という関係性につながるのだろうと思っています。一方で、このような報道『河野大臣“口先だけ上から目線”が招いたワクチン不足大混乱の落とし前』が重なるようであれば、その政治家に対する信頼は低下していくことになります。
ただ河野大臣だけを責められない事情も推察しています。菅総理のワクチン接種に懸ける熱意からの圧力に押され、河野大臣も突き進まなければならない立場なのだろうと見ています。しかし、そのシワ寄せは要請に応えようと努力した多くの企業が受けることになり、結果的に「国民のため」から離れた政策判断の一つだったと言えます。
都議選においては各候補者が「都民のため」をうたった政策の数々を掲げています。一般論で考えれば政党を問わず、候補者が掲げる政策を吟味し、信頼を寄せられる候補者かどうか、個々人の見識や資質を見極めていけることが理想です。その違いが明確化できない場合、候補者の所属する政党や関係団体とのつながりから判断していくことになります。
都議選が総選挙の前哨戦として位置付けられています。前述したとおり緊張感ある政治的な構図の実現のためには野党側の健闘が求められています。そのような思いのもと与野党の対立軸について昨年9月「新しい立憲民主党に期待したいこと」という記事を投稿していました。
各級議会に緊密な連携をはかれる議員の存在は貴重なことであり、連合は所属する「組合員のため」を目的に政治的な方針を定めています。産別によって様々な考え方がありますが、連合の神津会長は「組織内は基本的に一枚岩だ」と語っています。その上で共産党との連立政権に反対する立場を明らかにしています。
連合に所属する組合役員の立場として、そのような連合の基本的な方針を尊重しています。ただ個々の場面において、神津会長の指摘のとおり産別によって判断が分かれる場合もあります。都議選に臨む方針も一部の選挙区において生じがちでしたが、「一枚岩」という信頼関係を踏まえながら自治労都本部も、私どもの組合も「組合員のため」を重視した判断を下していることを最後に付け加えさせていただきます。
最近のコメント