« 緊急事態宣言が再延長 | トップページ | コロナ禍の緊急事態から非常事態に »

2021年3月14日 (日)

東日本大震災から10年

3月11日午後2時46分、職場で1分間の黙祷を捧げました。東日本大震災から10年、マグニチュード9の地震が発生した後、巨大津波に襲われ、取り返しのつかない未曾有の原発事故につながっていました。その時から様々な悲しみや苦しみが連なり、過去形にできない被災者の方々が多いことを心に刻んでいかなければなりません。

金曜夜、映画『Fukushima 50』が地上波で放映されました。全電源を喪失した福島第一原子力発電所の中で「刻一刻と迫る炉心溶融を食い止めるため、死地に残り、命を懸けて原子炉建屋に突入した、名もなき作業員たち」の事実に基づく物語であり、海外メディアは暴走する原子炉と戦った人たちを「Fukushima 50(フクシマフィフティ)」と名付けていたことを伝えた映画です。

原作はノンフィクション作家の門田隆将さんの『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発』であり、綿密な取材をもとに書籍のほうはすべて実名で綴られています。昨年3月6日に映画が公開される前、文庫本を読み終えていました。映画も見てみたいと思いながら機会を作れないまま先週金曜夜を迎えていました。

映画が始まり、すぐ巨大地震に見舞われた原子力発電所内の情況を映し出します。大津波警報が出た際の「ここは心配ないと思いますよ。海抜10メートルはあるから」という所員の言葉は、1時間も経たずに「想定外」という事態のもと致命的な誤りだったことに気付かされます。

息つく間もない展開の速さに122分という時間の長さを感じさせません。ずっと緊迫化したクライマックス場面を見続けたという印象です。東海村JOC臨界事故で大量の放射線を浴び、全身の細胞が死んで亡くなられた方の姿を頭に思い浮かべながらも危険な作業場所に出向いた方々にどれほど感謝しても感謝しきれません。

「東日本が壊滅」という最悪な事態までに至らなかった理由として、自らの生命を懸けて危険な任務地から撤退しなかった方々の奮闘があったことを忘れてはなりません。そのことを映画『Fukushima 50』が克明に伝えています。同時に映画の最後のほうで2号機の壁面のパネルの一部が外れて中から白煙を出している光景を映していました。

格納容器は破壊ぎりぎりの高圧になったが、上部の繫ぎ目や、配管との接続部分が高熱で溶けて隙間ができ、図らずも放射性物質が漏れ出ていたことも破壊を防いだ一因とみられている。

そして2号機は、電源喪失から3日間にわたってRCICと呼ばれる冷却装置で原子炉を冷やし続けていたため、核燃料のもつ熱量が、1号機や3号機に比べると小さくなり、メルトダウンを抑制させたのではないかと指摘する専門家もいる。こうした僥倖が複雑に折り重なって、格納容器は決定的に壊れなかった。

上記はNHKメルトダウン取材班による『福島原発事故「10年目の真実」…「東日本壊滅」という最悪シナリオを回避できた「本当の深層」』というサイトからの一文です。2号機の格納容器が決定的に破壊されなかった理由は僥倖、つまり幸運や偶然が重なり合った結果だったという見方もあります。

東日本大震災から10年が過ぎましたが、このような幸運が重ならなければ次元の異なる過酷な現実を強いられた可能性に思いを巡らさなければなりません。映画の中で吉田所長は「俺たちは自然の力をなめていたんだ。10メートル以上の津波は来ないとずっと思い込んでいた。自然を支配したつもりになっていた。慢心だ」という言葉を残します。

この言葉の重みを私たち日本人は教訓化できているのでしょうか。残念ながら新型コロナウイルス感染症に対しても備えが不充分だったと言わざるを得ません。10年以上前に新型インフルエンザが蔓延した際、他の国に比べて幸いにもダメージが小さかったため、医療資源の問題などパンデミックに対する「想定」は皆無に近かったように思えてなりません。

原発との向き合い方も同様です。2年前、福島第一原発を視察する機会に恵まれ「福島第一原発の現状」という記事を投稿していました。その記事の最後に「脱原発かどうかという二項対立的な図式ではなく、どのようにすれば原発に依存しない社会を築いていけるのかどうかという視点を大事にすべきだろうと考えています」と記していました。

原発に依存しない社会に向けて自民党政権に戻ってから曖昧さが目立つようになっています。一方で、3月11日に小泉元総理をはじめ、5人の総理経験者が「原発ゼロ」に向けた共同宣言を発表しています。連合が支援した民主党も2030年代に原発をゼロにすることを公約に掲げていました。

将来的にゼロをめざすのかどうか、方向性の違いだけでも自民党との対立軸になるはずです。自然の力に対して慢心は避け、福島第一原発の事故を教訓化するのであれば、ぜひ、このような点を踏まえて野党側は結集して欲しいものと願っています。

映画『Fukushima 50』の話に戻ります。映画の中で、当時の総理大臣だった菅直人元総理の言動が生々しく描かれています。事実に基づく描写であり、特に誇張や「批判ありき」で作られていたようには感じていませんでした。ただLITERAでは『地上波初放送 映画『Fukushima50』の事実歪曲とミスリード  門田隆将の原作よりひどい事故責任スリカエ、東電批判の甘さの理由』と批判していました。

私自身は前述したとおり「事実歪曲」とは思っていません。「ミスリード」かどうかも個々人の評価の問題につながるのだろうと見ています。自分の感情を抑えられず、怒鳴り散らして周囲を萎縮させる振る舞いは菅元総理の猛省すべき問題です。最高責任者が官邸から離れ、現地に出向いたことも大きな問題だったと思っています。

吉田所長らに余計な負荷をかけたことは確かであり、東電本社に早朝乗り込んで檄を飛ばした振る舞いも必死の覚悟を固めていた現地の関係者からは冷ややかに見られていたことも事実だったはずです。LITERAも煽情的なタイトルを付けていますが、実は次のように解説しています。

今回の新型コロナ感染における安倍首相を見て、原発事故での菅直人のほうがましだったと思い直す声が数多く上がっているのだ。それくらい安倍政権のコロナ対応が酷いということなのだろうが、しかし、両者の対応を冷静に比べても、菅首相のほうが危機対応としてはるかにまともだと感じる部分は多い。

もちろん、9年前の菅の行動にも問題はあった。“イラ菅”と呼ばれる性格丸出しに側近や東京電力幹部、官僚らを怒鳴りあげ、自由な発言を封じ込める。細かい現場の問題にまで口を挟んで、混乱を助長する。こうした行動は、民間の事故調査報告書でも「関係者を萎縮させるなど心理的抑制効果という負の面があった」「無用な混乱やストレスにより状況を悪化させるリスクを高めた」という言葉で批判されている。

しかし、少なくとも当時の菅直人には、安倍首相にまったくない必死さ、当事者意識があった。当時の記録や各種資料を読むと、菅や官房長官の枝野幸男が事故発生直後から官邸に泊まり込み、不眠不休で対応にあたり、なんとか原発事故を抑え込もうと、自ら矢面に立って動いていたことがよくわかる。

昨年3月に配信した記事の一部を改めて引用していましたが、このあたりについては首肯できる点があります。目に見えて差し迫った原発事故という危機に対し、目に見えない新型ウイルスの脅威を同例に比べられないのかも知れませんが、必死さという点では菅元総理のほうが勝っていたことは確かです。

必死さが空回りしていたという批判もあろうかと思いますが、自分自身の生命や安全を優先していた場合、事故直後の福島第一原発に出向くという発想はあり得なかったはずです。東電本社での檄も、第一原発からの全面撤退という方針が事実だった場合、必死さの表れからの行動として評価される側面もあります。

もう少し映画『Fukushima 50』の話はコンパクトにまとめるつもりでした。最初に考えていたよりも内容が膨らみ、今回も長い記事になっています。そのため最後の話となりますが、事故当時、官房長官だった立憲民主党の枝野代表は放射線量について「ただちに人体や健康に影響を及ぼす数値ではない」と情報発信を繰り返していました。

「すぐにはなくても後にはあるということか」という批判も受けましたが、その時点で発信する言葉としてやむを得ない表現だったように思っています。一方で、最近の国会答弁や政治家の言葉の使い方、たいへん憂慮すべき傾向が広がっています。枝野代表の「ただちに」という言葉の使い方から話を広げるつもりでしたが、憂慮すべき言葉の使い方の問題は次回以降、機会を見て取り上げさせていただきます。

|

« 緊急事態宣言が再延長 | トップページ | コロナ禍の緊急事態から非常事態に »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 緊急事態宣言が再延長 | トップページ | コロナ禍の緊急事態から非常事態に »