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2021年3月27日 (土)

言葉の使い方から思うこと

住民票の交付申請があった際、「照会住所に該当ありません」と回答する場合があります。いろいろな意味合いが考えられる答え方となっています。照会のあった対象者の住民票は一切ないという意味合いの他に次のようなケースも想定しています。

照会を受けた住所から探したけれども見つからず、他の住所であれば住民票があった可能性を残しています。生年月日も添えられて同一人である可能性が高くても債権者等の申請であれば個人情報保護の観点から必ず「照会住所に該当ありません」と答えることになります。

役所に限らず、預金調査に対する金融機関からの回答も「照会口座は該当ありません」という言葉の使い方が一般的です。「該当なし」と端的に答えるケースのほうが少ないようです。市民課の業務に携わった時、「照会○○」と頭に付けて答えることの意味合いを認識するようになっていました。

このような話を思い出した訳は最近、憂慮すべき言葉の使い方があまりにも目立っているからです。前回「コロナ禍の緊急事態から非常事態に」の記事タイトルは最初「言葉の使い方、緊急事態から非常事態に」だったことを伝えていました。前々回記事「東日本大震災から10年」の最後のほうでは次のように記していました。

もう少し映画『Fukushima 50』の話はコンパクトにまとめるつもりでした。最初に考えていたよりも内容が膨らみ、今回も長い記事になっています。そのため最後の話となりますが、事故当時、官房長官だった立憲民主党の枝野代表は放射線量について「ただちに人体や健康に影響を及ぼす数値ではない」と情報発信を繰り返していました。

「すぐにはなくても後にはあるということか」という批判も受けましたが、その時点で発信する言葉としてやむを得ない表現だったように思っています。一方で、最近の国会答弁や政治家の言葉の使い方、たいへん憂慮すべき傾向が広がっています。枝野代表の「ただちに」という言葉の使い方から話を広げるつもりでしたが、憂慮すべき言葉の使い方の問題は次回以降、機会を見て取り上げさせていただきます。

ようやく今回、憂慮すべき言葉の使い方の問題から個人的に思うことを書き進めてみるつもりです。「ただちに」と同じような使われ方として「今のところ」という言葉があります。先々の予定が曖昧な時に「その日は今のところ大丈夫です」と答える場合があります。

枝野代表がその時点で影響を及ぼす数値だったのにも関わらず、偽った情報を発信していた場合、重大な責任が問われることになります。しかし、そのようなことでなければ無用なパニックや風評被害を避けるために許容される範囲内での言葉の使い方だったのだろうと思っています。

緊急事態宣言を解除という言葉は文字通り受けとめれば「これまで我慢してきたけれど少しぐらい羽目を外してもいいかな」という理解に至ります。大学の卒業式が多かった金曜日の夜、大勢の若者が駅前に集い、缶ビールを片手に盛り上がっていた光景を報道番組では伝えていました。

リバウンド防止が強調されていますが、言葉の使い方として「緊急事態から非常事態に」が適切であるように感じています。法的な位置付けの「緊急事態」という期間が終わっても、引き続き平時ではない非日常が続くという意識を持ち続けるために「非常事態」であることを宣言し、様々な感染対策に留意しながら静かに経済を回していく局面ではないかと考えています。

言葉の使い方一つで伝わる印象は変わります。断言できないことに対して「照会○○」や「ただちに」という言葉などを付けることは後々のトラブルを防ぐため、ある程度必要な方便であるように受けとめています。むしろ「嘘はつきたくない」という表われであるように見ることもできます。

やはり「嘘はつきたくない」という表われなのかも知れませんが、「ご飯論法」という言葉の使い方があります。2018年に法政大学の上西充子教授がツイッターに投稿して話題になっていました。国会で議論する際、安倍前総理をはじめとする政府関係者が頻繁に使う言い逃れの一種として広まっていました。

「ご飯論法」とは「朝ご飯は食べましたか?」という質問に「食べていない」と答えます。実際はパンを食べていても米の「ご飯」を食べていないため、嘘とは言えず、議論における言い逃れや論点のすり替えを表わす言葉が「ご飯論法」です。質問の「ご飯」という意味を狭くとらえ、質問に答えているように装って答えを避ける手法だと言えます。

上西教授が典型的な「ご飯論法」として指摘したのは国会における立憲民主党の長妻議員と安倍前総理とのやり取りでした。「獣医学部新設をめざす加計理事長が首相や秘書官と食事をしたり、食事代を支払ってもらうことは問題ではないか」と長妻議員が質問しました。

その質問に対し、安倍前総理は「別に食事を私がごちそうしてもらいたいから戦略特区で特別にやる、(中略)そんなことするって考えられないですよ」と反論していました。「利害関係者と食事をしたこと、食事代を払ってもらうことが問題ではないのか」という質問には答えないという「ご飯論法」そのものでした。

野党からの率直な質問に対し、真正面から答えない「ご飯論法」は残念ながら菅内閣にも引き継がれているようです。3月3日の参院予算委員会で谷脇総務審議官(当時)は「国家公務員倫理法に違反する会食はない」と答えていました。その後、NTTからの高額接待が明らかになり、虚偽答弁も問われ、谷脇審議官は総務省を去ることになりました。

辞職する前、谷脇審議官は「倫理法に違反する会食をしたことはないと認識していますけど、私自身、倫理法に違反したとして処分を受けておりまして、私自身、倫理法令に対する認識の甘さがあった」と釈明していました。

「倫理法に違反する会食はない」という言葉の使い方は二重の意味で「ご飯論法」が駆使されていたように見ています。一つは会食したが、倫理法に違反するような会食ではなかったという意味合いです。もう一つは国家公務員の倫理規程には抵触しているかも知れないが、倫理法には違反していないという使い分けです。

「法違反」と「規程違反」では伝わる重さや受けとめる印象が変わります。今回のケースでは総論的な法律があり、その法律に基づき具体的な事項が規程に明記されています。したがって、規程に盛り込まれた事例に違反していた場合は「法違反」だったと解釈しなければならないはずです。

意図的に倫理法と倫理規程を使い分けて答弁していた場合は不誠実で極めて重大な問題です。信じられないことですが、本当に法令に対する認識の甘さがあったとしたら審議官だった方の立場の不適格さが厳しく問われなければなりません。ただ違法な会食や不誠実な国会答弁は官僚の皆さんにだけ責任を負わせられません。

前政権から引き継がれている政権全体の体質的な問題を憂慮しています。3月10日の参院予算委員会で立憲民主党の白議員から「NTTの接待を受けたことがあるか」という質問に対し、武田総務相は「国民が疑念を抱くような会食会合に応じたことは一切ない」という答弁を繰り返しました。

結局のところ会食はあった訳ですが、「倫理法に違反するような会食はない」という言葉が「国民が疑念を抱くような会食はない」に変わっただけの「ご飯論法」を武田総務相は押し通していたことになります。国民が疑念を抱くかどうかは事実関係を詳らかにした上での関係性でなければなりません。

総務省の会食問題で読売新聞は「倫理規程違反」と記し、ほとんど「倫理法違反」という言葉は見かけませんでした。 意図的に使い分けているような気がしていましたが、 土曜の朝、読売新聞の紙面で「106兆円超の史上最大規模の予算に見合うだけの審議は、どれだけ行われたのだろうか」という記事を目にしました。

スキャンダルの追及に時間を費やした野党側を暗に批判した内容であるように感じました。このブログでは5年前に「予算委員会の現状」という記事を投稿しています。予算委員会では審議内容を制限していない現状を説明し、行政の監視機能を担う国会の役割としてスキャンダル追及は野党の立場からすれば避けて通れない役割であることも記していました。

自民党議員の失態を追及し、その能力や資質をあぶり出すことで野党側のポイントが高まるのか、予算案以外の質問に終始する野党側にマイナスポイントが付いていくのかどうか分かりません。今のところ潮目が大きく変わる気配を感じ取れていませんが、このような追及の仕方の評価も含め、今後の世論調査や国政選挙において結果が示されていくことになります。

上記は5年前の記事の最後のほうに書き残した内容です。高い支持率のもとに菅内閣は滑り出しましたが、その後、下降線をたどっていました。ただ支持率も下げ止まりの様相を示し、支持する理由は「他より良さそう」が常に最多となっています。このような消去法的な理由で支持されていく結果は野党側の責任も大きいものと思っています。

国民が疑念を抱く政権運営を続けていても「ご飯論法」でその場をしのぎ、総選挙では敗れず、政権の座を維持できるとしたら緊張感のある政治を到底期待できません。緊張感のある政治の実現のためには立憲民主党をはじめとした野党側が効果的な役割のアピールや内実ある政策提言に向けて奮起願いたいものと思っています。

最後に、言葉の使い方として批判を浴びている最近の事例は自民党の二階幹事長の「他山の石」発言です。議員辞職した河井衆院議員の買収事件は自民党時代の問題です。単なる言い間違いなのか、意味を勘違いしたのか、奥深い理由があるのかどうか分かりませんが、参考までに菅野完さんの記事『なぜ二階幹事長は、河井克行氏の議員辞職を「他山の石」と言ったのか?』を紹介します。

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2021年3月21日 (日)

コロナ禍の緊急事態から非常事態に

新型コロナウイルス感染対策として1都3県のみが継続していた緊急事態宣言は解除されます。産経新聞は『緊急事態宣言解除、不安拭えぬまま 既に気の緩み、高齢者ワクチン接種まで20日余り』という見出しで報じていましたが、どのメディアも感染状況が厳しい現状でのリバウンドの懸念を伝えています。

3月18日の基本的対処方針等諮問委員会は解除方針を全員一致で了承しています。懸念が尽きない中、専門家の一人は「心配だからと言って(安易に)私権を制限していい訳ではない」と強調していました。

NEWSポストセブンの記事『緊張感無き「宣言解除」 リバウンド回避には「脱馴化」が必要』を目にし、心理学でいうところの「馴化(じゅんか)」という言葉を知りました。その記事の中では「宣言をこれ以上延長しても効果が薄れるだけ」「ここで解除しなければ、いつまでも解除できない」とする政府関係者の話を伝えています。

このまま宣言を延長したとしても新規感染者数は大幅に減らないという見方に私自身も首肯しています。ちなみに前々回記事「緊急事態宣言が再延長」の中で、政府内の関係者から「小池氏の術中にはまっただけ。本来なら7日に断固解除すべきだった」という声が上がっていたことを紹介しました。

菅総理も当初、7日に解除する方針だったはずです。感染者数の状況を踏まえれば「緊急事態を宣言してから新規感染者数が約8割下がってきている」という理由を2週間前に説明し、解除していたほうが納得感は増していたように思っています。政治的な思惑を優先したシナリオが先にあって、客観的な数字や専門家の意見は後付けの理由にされているような気がしてなりません。

1月8日に緊急事態宣言が再発令された時も政治的な関係性の中から判断していたようです。もともと菅総理は感染対策と経済のバランスを重視し、緊急事態宣言の再発令に懐疑的な立場でした。菅総理は4都県知事の圧力に押され、再発令に追い込まれたことが苦い記憶となっていました。

2週間の再延長を小池知事らの要請を受ける形で方針転換すれば指導力が問われかねないとの懸念から、あえて要請を待たずに表明に踏み切ったと見られていました。改めて菅総理には手柄の奪い合いのような発想を避け、私たち国民にとって本当に望ましい実効ある政策判断を重ねて欲しいものと願っています。

宣言の解除にあたり、菅総理はリバウンド対策の5本柱として①飲食を通じた感染の防止策継続、②変異ウイルスの監視体制の強化、③感染拡大の予兆をつかむための戦略的な検査、④安全・迅速なワクチン接種、⑤次の感染拡大に備えた医療体制の強化を掲げています。それぞれ重要な対策ですが、「今さら」感が拭えないことも確かです。

基本的対処方針等諮問委員会は18日、保健所の体制強化や自費検査機関との連携なども提言しましたが、その内容はこれまでも要望してきた内容と重なっています。尾身茂会長は記者会見で「言葉で言うのは簡単だが、実行されてこなかった」と指摘した上で「国や自治体が今まで以上に汗をかく局面だ」と語っていました。

危機管理下での政治の役割は増しています。平時であれば「やってる感」の政治でも一定の支持は得られていくのかも知れません。コロナ禍という深刻な危機の中では着実な結果が求められ、政治家の資質や判断能力は厳しく問われていきます。世論調査との向き合い方も重要な要素の一つです。

国民の多数の声を受けとめ、政治的な判断を下していくことが民主主義の常道だと言えます。一方で矛盾するようですが、少数の声を無視しないことも民主主義の基盤を支える原則となっています。そのことを政治家の皆さんは常に意識し、世論調査の結果にとらわれ過ぎず、より望ましい政策判断を見出していく役割が求められているはずです。

世論調査では緊急事態宣言の延長を求める声が多数となっています。このような傾向について計量経済学を専門とする田中辰雄さんが『非常事態宣言は再再延長すべきか―自粛の強者、自粛の弱者 』という論評を投稿していました。

社会生活や経済的なダメージを受けているのは首都圏の飲食関係者や学生が中心であり、全国調査の中で数の割合は低いため、ダメージを受けていない多数の方々からの延長を求める声によって比率が高くなっていると分析しています。「なるほど」と思った関係性であり、確かにテレワークを歓迎している方々にとって延長は望ましい判断となります。

このような点も踏まえ、より望ましい感染対策を考えていかなければなりません。「アクセルとブレーキを同時に踏むこともある」という菅総理の言葉には驚きましたが、GoToというアクセルを踏み込み過ぎた結果、第1波と第2波の時を上回る感染者数を招いてしまったものと見ています。

GoToそのものが直接的な原因ではないという見方もありますが、人と人との接触拡大とともに緩みを生じさせたことは確かだろうと思っています。1月初めの記事「緊急事態宣言、再び」の中で、再発令は改めて個々人の対策に向けたマインドを高める機会につなげることを意識した判断なのだろうと記していました。

さらに「全面的な休業を求めない理由が財源的な問題だとしたら極めて中途半端で不誠実な政治判断だと言わざるを得ません」と書き残していました。昨年4月の緊急事態宣言とは大きく様変わりし、休業要請は飲食店における午後8時までという営業時間の短縮にとどめていました。

経済を過度に停滞させないという配慮が働いた結果だったのかも知れませんが、それにも関わらず「全日、最大限外出は控えて」という要請には前述したとおり違和感を抱いていました。いろいろな意味で問題を内包した緊急事態宣言の再発令でしたが、日々の新規感染者数を8割ほど減らしたことも確かです。

政権運営の問題点を厳しく追及する野党の役割を期待しています。ただ『緊急事態宣言「解除は時期尚早」 野党側が解除に反対』という報道を目にすると政局的な意味合いを感じてしまいます。機会を見て感染対策に向けた私自身の考え方を改めてまとめてみたいものと考えていますが、これまで「エンジンブレーキ」という言葉を多用してきています。

終息まで年月を要することを覚悟し、慌てず、持続可能な対策を心がけていくことの必要性を訴え続けています。このまま緊急事態宣言を継続することが持続可能な対策だったのかどうか疑問視しています。アクセルは踏まず、静かに経済を回しながら「新たな日常」のもとに持続可能な実効ある対策に留意していく局面ではないでしょうか。

実は今回の記事タイトルは最初「言葉の使い方、緊急事態から非常事態に」でした。憂慮している「言葉の使い方」につなげる記事内容を考えていましたが、緊急事態宣言の話だけで相当な長さとなっているため途中から記事タイトルを「コロナ禍の緊急事態から非常事態に」と変えていました。

緊急事態宣言が解除されたことでGoToの時と同様、個々人の緩みからのリバウンドが危惧されています。そのため、言葉の使い方として次のように考えています。馴化されてしまった「緊急事態」という期間が終わっても、引き続き平時ではない非日常が続くという意識を持ち続けるために「非常事態」であることを強調すべき局面ではないかと考えています。

辞書で調べれば「緊急事態」と「非常事態」に大きな意味の違いはありません。日本の場合、法律が「緊急事態」と呼称されているため、法的な面での使い分けは必要です。ただ個々人に求める「新たな日常」に対して同様な継続性が欠かせないのであれば、コロナ禍が終息するまで「非常事態」であることを宣言すべきではないでしょうか。

最後に、たいへん興味深い『今季のインフル患者わずか1万4000人、昨季の500分の1未満に』というニュースを紹介します。新型コロナウイルスに対する個々人の対策や努力が効果を発揮している証しであり、もっと大きなニュースとして扱われることで一人一人の今後の励みになるのではないかと思っています。

厚生労働省は、インフルエンザで医療機関を受診した患者が昨年秋から今月7日までの今季、推計約1万4000人だったと発表した。インフルエンザの患者数は現在の調査手法となった1999年以降では最も少なかったとみられる。患者が比較的少なかった昨季は、推計約728万5000人だった。

今季は、新型コロナウイルスとの同時流行も危惧されていた。だが、手洗いや手指消毒、マスク着用の徹底が呼びかけられたことや、海外との人の往来が激減したことなどが影響し、インフルエンザの患者は大幅に減ったとみられている。

インフルエンザの患者数は毎週、全国約5000の医療機関から報告され、この数値をもとに、全国の患者数が推計されている。今季最後の発表となった7日までの1週間の報告は26人だった。【読売新聞2021年3月15日

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2021年3月14日 (日)

東日本大震災から10年

3月11日午後2時46分、職場で1分間の黙祷を捧げました。東日本大震災から10年、マグニチュード9の地震が発生した後、巨大津波に襲われ、取り返しのつかない未曾有の原発事故につながっていました。その時から様々な悲しみや苦しみが連なり、過去形にできない被災者の方々が多いことを心に刻んでいかなければなりません。

金曜夜、映画『Fukushima 50』が地上波で放映されました。全電源を喪失した福島第一原子力発電所の中で「刻一刻と迫る炉心溶融を食い止めるため、死地に残り、命を懸けて原子炉建屋に突入した、名もなき作業員たち」の事実に基づく物語であり、海外メディアは暴走する原子炉と戦った人たちを「Fukushima 50(フクシマフィフティ)」と名付けていたことを伝えた映画です。

原作はノンフィクション作家の門田隆将さんの『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発』であり、綿密な取材をもとに書籍のほうはすべて実名で綴られています。昨年3月6日に映画が公開される前、文庫本を読み終えていました。映画も見てみたいと思いながら機会を作れないまま先週金曜夜を迎えていました。

映画が始まり、すぐ巨大地震に見舞われた原子力発電所内の情況を映し出します。大津波警報が出た際の「ここは心配ないと思いますよ。海抜10メートルはあるから」という所員の言葉は、1時間も経たずに「想定外」という事態のもと致命的な誤りだったことに気付かされます。

息つく間もない展開の速さに122分という時間の長さを感じさせません。ずっと緊迫化したクライマックス場面を見続けたという印象です。東海村JOC臨界事故で大量の放射線を浴び、全身の細胞が死んで亡くなられた方の姿を頭に思い浮かべながらも危険な作業場所に出向いた方々にどれほど感謝しても感謝しきれません。

「東日本が壊滅」という最悪な事態までに至らなかった理由として、自らの生命を懸けて危険な任務地から撤退しなかった方々の奮闘があったことを忘れてはなりません。そのことを映画『Fukushima 50』が克明に伝えています。同時に映画の最後のほうで2号機の壁面のパネルの一部が外れて中から白煙を出している光景を映していました。

格納容器は破壊ぎりぎりの高圧になったが、上部の繫ぎ目や、配管との接続部分が高熱で溶けて隙間ができ、図らずも放射性物質が漏れ出ていたことも破壊を防いだ一因とみられている。

そして2号機は、電源喪失から3日間にわたってRCICと呼ばれる冷却装置で原子炉を冷やし続けていたため、核燃料のもつ熱量が、1号機や3号機に比べると小さくなり、メルトダウンを抑制させたのではないかと指摘する専門家もいる。こうした僥倖が複雑に折り重なって、格納容器は決定的に壊れなかった。

上記はNHKメルトダウン取材班による『福島原発事故「10年目の真実」…「東日本壊滅」という最悪シナリオを回避できた「本当の深層」』というサイトからの一文です。2号機の格納容器が決定的に破壊されなかった理由は僥倖、つまり幸運や偶然が重なり合った結果だったという見方もあります。

東日本大震災から10年が過ぎましたが、このような幸運が重ならなければ次元の異なる過酷な現実を強いられた可能性に思いを巡らさなければなりません。映画の中で吉田所長は「俺たちは自然の力をなめていたんだ。10メートル以上の津波は来ないとずっと思い込んでいた。自然を支配したつもりになっていた。慢心だ」という言葉を残します。

この言葉の重みを私たち日本人は教訓化できているのでしょうか。残念ながら新型コロナウイルス感染症に対しても備えが不充分だったと言わざるを得ません。10年以上前に新型インフルエンザが蔓延した際、他の国に比べて幸いにもダメージが小さかったため、医療資源の問題などパンデミックに対する「想定」は皆無に近かったように思えてなりません。

原発との向き合い方も同様です。2年前、福島第一原発を視察する機会に恵まれ「福島第一原発の現状」という記事を投稿していました。その記事の最後に「脱原発かどうかという二項対立的な図式ではなく、どのようにすれば原発に依存しない社会を築いていけるのかどうかという視点を大事にすべきだろうと考えています」と記していました。

原発に依存しない社会に向けて自民党政権に戻ってから曖昧さが目立つようになっています。一方で、3月11日に小泉元総理をはじめ、5人の総理経験者が「原発ゼロ」に向けた共同宣言を発表しています。連合が支援した民主党も2030年代に原発をゼロにすることを公約に掲げていました。

将来的にゼロをめざすのかどうか、方向性の違いだけでも自民党との対立軸になるはずです。自然の力に対して慢心は避け、福島第一原発の事故を教訓化するのであれば、ぜひ、このような点を踏まえて野党側は結集して欲しいものと願っています。

映画『Fukushima 50』の話に戻ります。映画の中で、当時の総理大臣だった菅直人元総理の言動が生々しく描かれています。事実に基づく描写であり、特に誇張や「批判ありき」で作られていたようには感じていませんでした。ただLITERAでは『地上波初放送 映画『Fukushima50』の事実歪曲とミスリード  門田隆将の原作よりひどい事故責任スリカエ、東電批判の甘さの理由』と批判していました。

私自身は前述したとおり「事実歪曲」とは思っていません。「ミスリード」かどうかも個々人の評価の問題につながるのだろうと見ています。自分の感情を抑えられず、怒鳴り散らして周囲を萎縮させる振る舞いは菅元総理の猛省すべき問題です。最高責任者が官邸から離れ、現地に出向いたことも大きな問題だったと思っています。

吉田所長らに余計な負荷をかけたことは確かであり、東電本社に早朝乗り込んで檄を飛ばした振る舞いも必死の覚悟を固めていた現地の関係者からは冷ややかに見られていたことも事実だったはずです。LITERAも煽情的なタイトルを付けていますが、実は次のように解説しています。

今回の新型コロナ感染における安倍首相を見て、原発事故での菅直人のほうがましだったと思い直す声が数多く上がっているのだ。それくらい安倍政権のコロナ対応が酷いということなのだろうが、しかし、両者の対応を冷静に比べても、菅首相のほうが危機対応としてはるかにまともだと感じる部分は多い。

もちろん、9年前の菅の行動にも問題はあった。“イラ菅”と呼ばれる性格丸出しに側近や東京電力幹部、官僚らを怒鳴りあげ、自由な発言を封じ込める。細かい現場の問題にまで口を挟んで、混乱を助長する。こうした行動は、民間の事故調査報告書でも「関係者を萎縮させるなど心理的抑制効果という負の面があった」「無用な混乱やストレスにより状況を悪化させるリスクを高めた」という言葉で批判されている。

しかし、少なくとも当時の菅直人には、安倍首相にまったくない必死さ、当事者意識があった。当時の記録や各種資料を読むと、菅や官房長官の枝野幸男が事故発生直後から官邸に泊まり込み、不眠不休で対応にあたり、なんとか原発事故を抑え込もうと、自ら矢面に立って動いていたことがよくわかる。

昨年3月に配信した記事の一部を改めて引用していましたが、このあたりについては首肯できる点があります。目に見えて差し迫った原発事故という危機に対し、目に見えない新型ウイルスの脅威を同例に比べられないのかも知れませんが、必死さという点では菅元総理のほうが勝っていたことは確かです。

必死さが空回りしていたという批判もあろうかと思いますが、自分自身の生命や安全を優先していた場合、事故直後の福島第一原発に出向くという発想はあり得なかったはずです。東電本社での檄も、第一原発からの全面撤退という方針が事実だった場合、必死さの表れからの行動として評価される側面もあります。

もう少し映画『Fukushima 50』の話はコンパクトにまとめるつもりでした。最初に考えていたよりも内容が膨らみ、今回も長い記事になっています。そのため最後の話となりますが、事故当時、官房長官だった立憲民主党の枝野代表は放射線量について「ただちに人体や健康に影響を及ぼす数値ではない」と情報発信を繰り返していました。

「すぐにはなくても後にはあるということか」という批判も受けましたが、その時点で発信する言葉としてやむを得ない表現だったように思っています。一方で、最近の国会答弁や政治家の言葉の使い方、たいへん憂慮すべき傾向が広がっています。枝野代表の「ただちに」という言葉の使い方から話を広げるつもりでしたが、憂慮すべき言葉の使い方の問題は次回以降、機会を見て取り上げさせていただきます。

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2021年3月 7日 (日)

緊急事態宣言が再延長

緊急事態宣言が再延長されました。3月7日までだった東京、埼玉、千葉、神奈川の首都圏1都3県に発令していた緊急事態宣言の2週間延長が3月5日夜、正式に決まりました。菅総理は3月2日の予算委員会で「ギリギリまで見極め解除可能か判断する」と答えていました。

その際、菅総理は「解除について、私が一存でできる話でもない。諮問委員会の意見を充分に踏まえ、総合的に判断させてもらうし、感染状況や医療提供体制の逼迫状況などの基準が決められているので、そこがいちばん、大事なことだ」と説明を加えていました。

しかしながら下記報道のとおり菅総理は3日夜に「私自身が判断したい」とし、5日午前に予定された新型コロナウイルスの基本的対処方針等諮問委員会(尾身茂会長)の議論を待たずに延長を決めたことをアピールしました。

菅首相は3日、緊急事態宣言の2週間程度の「再延長」に言及し、自らの政治決断を演出した。宣言解除に難色を示す東京都の小池百合子知事の機先を制する狙いもあるとみられる。首相は約8分間にわたり、立ったまま記者団の質問に答える「ぶら下がり取材」に応じた。

東京など4都県での延長に触れ、「最終的に私自身が判断したい」と2回、繰り返した。「私自身がそういう日にち(2週間)が必要じゃないかと表明させてもらった」とも述べ、5日の正式決定を待たずに延長を事実上決断したことをアピールした。

首相は当初、7日で宣言を全面解除し、経済活動の再開に道筋を付けたい考えだった。宣言はすでに1か月延長しており、これ以上長引けば、「経済で追い詰められて自殺する人が増える」ことを懸念した。

だが、4都県の感染状況は期待していたほどには改善しなかった。期限直前になって解除を強行すれば、「感染が再拡大した際に全部、政府の責任にされる」(自民党幹部)という恐れがあった。【読売新聞2021年3月3日

前日までの説明を踏まえれば唐突で違和感が生じる動きでした。政府内の関係者からは「小池氏の術中にはまっただけ。本来なら7日に断固解除すべきだった」との声が上がり、自民党の閣僚経験者も「専門家の意見を聞いていない判断だ」と批判していました。

菅総理には4都県知事の圧力に押され、1月7日の宣言再発令決定に追い込まれたことが苦い記憶となっているようです。今回も小池知事らの要請を受ける形で方針転換すれば指導力が問われかねないとの懸念から、あえて要請を待たずに表明に踏み切ったと見られています。

前回記事「マスコミの現状と期待したい役割」の中でBLOGOSをブックマークし、頻繁に訪問していることを記していました。多面的な情報に接していくことの大切さを受けとめているため、BLOGOSで知った興味深いサイトを当ブログを通して紹介しています。

評論家の近藤駿介さんは『緊急事態宣言延長 ~ 総理は国民に一体何を詫びているのか』の中で「国民が踏ん張っている中で政府が無策だったことを詫びているのだとしたら、どんな策を打てばよかったと考えているのかを明らかにしなければ意味がない。何はともあれ詫びて謙虚な姿勢を見せることで支持率低下を防ごうという魂胆だとしたら、総理の言葉が国民の心に響かないのは当然のこと」と菅総理を批判しています。

一方で、参院議員の音喜多駿さんは『小池百合子知事の耐え難い不誠実さ。公言した目標と「謝罪の言葉」はどこへ行ったのか』と小池知事を手厳しく批判し、元衆院議員の深谷隆司さんも『緊急事態宣言延長』の中で「緊急事態宣言というと、何時もしゃしゃり出て、自分の手柄のような顔をする小池知事の厚顔に、うんざりしていただけに、私は大いに結構と思った」と綴っています。

国民や都民から「どのように見られるか」という判断基準を重視しながら振る舞うことは政治家の習性として、ある程度やむを得ないものと思っています。しかし、かつて経験したことがなかったレベルでの緊急事態において、そのような判断基準が優先されたことで致命的な判断ミスにつながるようであれば深刻な問題です。

緊急事態宣言が再び発令された後、「危機管理下での政治の役割」「東京五輪の行方と都政の現場」「コロナ禍での野党の役割」という記事を投稿してきました。改めて政治家の皆さんへのお願いです。ぜひ、手柄の奪い合いのような発想は避け、政府と自治体は緊密に連携し、国会の場では与野党双方が大局的な見地から実効ある政策判断を重ねて欲しいものと願っています。

もう少し今回の記事は続けさせていただきます。『世界各国へのワクチン普及、G7一致』という報道を目にしました。菅総理はワクチン共同購入の国際的枠組み「COVAX(コバックス)」に日本が2億ドル(約211億円)を拠出する方針を説明し、「保健分野の保護主義」への反対を訴えています。

このような動きは強く支持すべきものです。パンデミツクの完全な終息は自国優先主義では解決できず、何よりも国際協調が欠かせません。菅総理の「途上国も含め公平なアクセスを確保することが不可欠だ」という言葉もまったくその通りです。

しかし、その言葉は日本国内のワクチン接種が計画通り進まない可能性も覚悟したものでなければ重みを伴いません。東京五輪を間近に控えた日本は早期に大量なワクチンを購入しても然るべきだと考えていた場合、保護主義に反対したとしても「途上国も含め」という言葉が必要だったのかどうか疑問です。

同日のG7での意見交換の際、菅総理は東京五輪について「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証し」として開催するという決意を表明していました。これまで多用してきた同じ言葉を繰り返している訳ですが、ワクチンの供給体制一つ取っても今年の夏までに打ち勝てるとは考えられない時期に差しかかっているはずです。

開催に向けた決意を示すとしても、せめて「新型コロナウイルスに負けずに」という言葉程度が妥当だったのではないでしょうか。「アクセルとブレーキを同時に踏むこともある」という言葉にも驚いていましたが、菅総理の言葉の使い方に疑問を持つ時が多々あります。きっと誰からも一切指摘を受けない現状なのだろうと推察しています。

『日刊ゲンダイ』の記事『菅政権またも後手後手 山田広報官“ゴチ”辞職で崩壊へ一気』の中で「最近の総理はいつもイライラしていて怒鳴り散らすので、誰も近づきたがりません。官邸内もイエスマンばかりで、総理に厳しい意見を言う人が周囲にいないことが、後手対応を招いている一因でしょう」という官邸関係者の話が紹介されています。

ささいなことかも知れませんが、本来、言葉の使い方一つから指摘を受けることで、より望ましい言葉に改まっていくことのほうが菅総理にとっても有益なはずです。それどころか国民の命や暮らしに直結するような重大な政策判断を下す際も、幅広い情報は届かずに菅総理が決めているとしたら官邸の機能として非常に危うい現状だと言えます。

危機管理血液内科医の中村ゆきつぐさんは『ワクチンの供給 まあ慌てても仕方ないし、日本はそこまで心配しなくていい』の中で「ワクチンがまだ投与されていない今の日本でもしっかり急所を抑えればPCR陽性者数が今しっかり減っている」とし、「しつこいですが油断はいけません。でも節度をもって急所を抑えることでさまざまなことが今後できるはずです。1年前とは違います」と記しています。

1都3県の緊急事態宣言が2週間延長されましたが、私自身の問題意識も中村さんの考え方に近いものがあります。もともと「ウィズコロナ」という言葉には違和感がありましたが、立憲民主党が提唱した「ゼロコロナ」という言葉や発想にも懐疑的な立場です。

新年早々の記事「平穏な日常に戻れる2021年に」の中に掲げた通り「すぐに終息しないことを覚悟し、長丁場の闘いとして持続可能な対策を心がけていくことが欠かせないのだろう」と考えています。例えればアクセルは踏まず、車を止めないけれども、ゆっくり走行していく「エンジンブレーキ」という発想です。

ワクチン接種に関しては慌てず、自国優先主義に陥らないよう菅総理の言葉通り「途上国も含め公正なアクセス」のもとに確保していくことが重要です。いずれにしても決意や願望を排した正確な情報提供が求められています。何よりも準備を進めている自治体職員にとって切実な要望だと言えます。

東京五輪は「海外からの観客なし」で調整されていくようですが、緊急事態宣言を再延長せざるを得ないような現況で予定通り開催することが本当に「国民のため」なのでしょうか。残念ながら「開催ありき」という方針は国民側のマインドとして感染対策上「アクセル」の役割を果たしているように思えてなりません。

最後に、枝野代表は「ゼロコロナ」という言葉を政府との違いを際立たせる対立軸として打ち出したようですが、党内から「感染者ゼロが独り歩きして誤解を招かないか」と懸念する声が示されていました。「まずは感染を徹底的に抑え込み、経済活動の再開はその後にする」という考え方に対し、与党は「そこまで待てば日本経済は死ぬ」と見ています。 

このように評価が分かれる方向性を見出す際、立憲民主党内で丁寧な議論が積み重ねられなかったようです。党中堅の参院議員の「立民は下から議論を積み上げる政党ではなく、上から方針が下りてくる政党だ」という言葉が漏れ聞こえていました。ぜひ、枝野代表には官邸機能の問題を反面教師とし、 このような声が党内から示されていることを重く受けとめて欲しいものと思っています。

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