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2020年8月16日 (日)

平和を考える夏、いろいろ思うこと Part2

前回記事「平和を考える夏、いろいろ思うこと」の中で、どれほど実践できているかどうか分かりませんが、基本的な立場性を問わず、できる限り共感を得られる訴え方の必要性に意識していることをお伝えしていました。一例として、安倍首相が「戦争をする国」をめざしているという決め付けた言い方は控えている点を上げていました。

誰もが戦争は避けたいと願っている中、戦争を防ぐため、平和を築くための考え方に相違が生じがちな現状について提起しています。その上で具体的な事例等を示しながら「何が正しいのか、どの選択肢が正しいのか」という論点の提起に心がけています。

このような文脈のもと安倍首相は国際標準の「普通に戦争ができる国」に近付けたいと考えているのではないかという言葉につなげていました。私自身の頭の中では「戦争をする国」と「普通に戦争ができる国」の違いが明確に整理されています。

しかし、それぞれの言葉の違いは分かりにくいかも知れません。他国を刺激しないという「安心供与」や「広義の国防」を重視する道こそ、日本の進むべき道であって欲しいものと強く願っています、こちらの記述も同様に分かりにくかったかも知れません。

それぞれリンクをはった以前の記事を通して詳しい考え方を綴っていますが、皆さんが必ずしもリンク先の記事まで閲覧されるものではありません。そのため、できる限りリンク先の記事を参照しなくても分かりやすい記述に努力する必要があります。長い文章がいっそう長くなりがちな点にも注意しながら改めて「一期一会」の心得に努めていければと考えています。

実は前回記事のコメント欄で、おこさんから「安心供与の理論が腑に落ちず、相手に武力とか自分を脅かす脅威が無ければ安心して侵略することもありそうに思うんですが」というお尋ねがありました。先週日曜の夜、取り急ぎコメント欄で私自身の考え方をお答えしていました。

リンク先の記事と同様、記事本文をご覧になってもコメント欄まで目を通さない方も多いものと思っています。前述したとおり新規記事の本文に目を通すだけで伝えたい内容を分かりやすくするためにも、コメント欄でお答えした内容を再構成して今回の記事に掲げさせていただきます。

リンク先の記事「広義の国防、安心供与の専守防衛」等には「安心供与」について詳述していましたが、確かに前回記事の中では説明が不足していました。たいへん失礼致しました。

まず前提条件となる私自身の認識を改めて説明させていただきます。抑止力の大切さ、つまり個別的自衛権の必要性を認めている立場です。抑止力の対義語として「安心供与」があります。

ちなみに「広義の国防」の対義語は「狭義の国防」であり、ソフト・パワーとハード・パワーという対になる言葉も以前の記事の中で紹介していました。

また、防衛審議官だった柳沢協二さんは、脅威とは「能力」と「意思」の掛け算で決まるものだと話されています。このような点を踏まえ、以前の記事「平和の話、サマリー」には下記のような説明を加えていました。

安心供与はお互いの信頼関係が柱となり、場面によって寛容さが強く求められていきます。相手側の言い分が到底容認できないものだったとしても、最低限、武力衝突をカードとしない関係性を維持していくことが肝要です。

抑止力の強化を優先した場合、ますます強硬な姿勢に転じさせる口実を相手に与えてしまいがちです。外交交渉の場がなく、対話が途絶えている関係性であれば、疑心暗鬼が強まりながら際限のない軍拡競争のジレンマにつながります。

それこそ国家財政を疲弊させ、いつ攻められるか分からないため、攻められる前に先制攻撃すべきという発想になりかねません。そのような意味で、攻められない限り戦わないと決めている日本国憲法の専守防衛は、他国に対して安心を与える広義の国防の究極の姿だと私自身は考えています。

ヒトラーの試写室』という書籍を読み、このブログで紹介した記述があります。ナチスドイツが「武力侵攻すれば占領は困難ではないが、こちらの損害も大きい。戦争を継続する消耗は避けられず、スイス侵攻は得られる成果が見合わない」と判断し、スイス国内には「平和」が広がっていたことを記していました。

ここで付け加えるべき記述として、仮にスイスがドイツの敵対国だった場合、攻め込まれてスイス国民や国土は戦火に見舞われていたはずです。中立国という立場は広義の国防の一つであり、侵攻されない限り軍事力は行使しないという安心供与がスイス国内の「平和」を守ったと言えます。

その際、相手国を凌駕する軍事力がスイスにはありませんでしたが、個別的自衛権としての軍備も整えていたため、ナチスドイツ側の発言の通り一定の抑止力が働いたようです。

専守防衛を柱にした安心供与が日本国憲法の平和主義であり、私自身、必要最低限の自衛権の必要性とともにスイスと対比した日本の「特別さ」を感じ取る機会となっていました。

上記の赤字の箇所が前回記事のコメント欄に投稿した内容を少し再構成した私自身のお答えでした。今年の夏も「Part2」にわたりましたが、ここで終われば省力化をはかった記事となります。長々とした記事内容が歓迎される訳ではありませんが、もう少し書き進めながら前回記事の内容を補う機会とさせていただきます。

「普通に戦争ができる国」という言葉について私自身の考え方を改めて説明します。外交の延長線上として宣戦布告さえすれば合法だった戦争が、国連憲章によって第2次世界大戦後は国際社会の中で原則禁止されています。例外として、自衛のためと国連安全保障理事会が認めた場合の戦争だけを合法としています。

集団的自衛権は前者に当たり、同盟国などが武力攻撃を受けた際に共同で対処できるものです。後者は集団安全保障と呼ばれ、国連の枠組みで武力攻撃を行なった国を制裁する仕組みです。ちなみに国連安全保障理事会が「平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」に限って、国連憲章第51条で集団的自衛権の行使を認めています。

日本国憲法は国際社会の中では異質なものに位置付けられます。これまで専守防衛、個別的自衛権に限って武力行使ができる「特別さ」を守り続けてきました。フルスペックではないという説明を加えているとは言え、安保関連法によって集団的自衛権が行使できるように改められています。

憲法の「特別さ」を維持することは問題であり、いざという時には国際社会で認められた戦争を行使できるように改めていく、このように安倍首相が考えているという見方自体は誤りではないはずです。そのため、安倍首相が戦争をすることを目的にした改革志向ではない点を理解しながらも徐々に「特別さ」を排し、「普通に戦争ができる国」をめざしているのだろうと見ています。

念のため、先ほどスイスの例を上げましたが、決して「自分の国だけ平和ならば良い」という考えではありません。平和国家というブランドイメージが定着できていれば平時において国際社会の場で戦争を抑止する役回りを担えるものと思っています。それこそ「広義の国防」につながり、ソフトパワーを重視した日本の進む道であって欲しいものと願っています。

最近『安倍晋三の真実』という書籍を読み終えています。安倍首相の「海外スピーチライター」であることを明らかにしている内閣官房参与の谷口智彦さんが綴った著書です。書籍の内容紹介には「モリカケ問題など、さまざまの逆風の中でも、〝国益〟を第一に進む安倍総理と、それを支えるチーム安倍の姿が何ひとつ隠すことなく語られている」と記されています。

谷口さんは「(この本を書くことは)安倍総理を失っては国益を害すと信じる強い動機のみによって、導かれてのことです」と語っていました。月に一度、必ず外国に行くと自らに課した安倍首相の「地球儀を俯瞰する外交」については、その使命感に裏打ちされた行動の有益さが子細に掲げられています。

集団的自衛権を行使できるようにした安保関連法の成立によって日米同盟が堅牢なものとなり、よりいっそう抑止力が高まったことを谷口さんは伝えています。安倍首相の動機や目的が「国民のため」であることを信じたいものと思っています。あくまでも冒頭に記したとおり「何が正しいのか、どの選択肢が正しいのか」という論点のもとに安倍首相の判断の是非を評価しています。

首相式辞から「歴史」消える 今年も加害責任は言及せず』の報道のとおり昨日の全国戦没者追悼式で、安倍首相の式辞から昨年まで繰り返し用いてきた「歴史」という文言が消えました。近隣諸国への加害責任は8年連続で触れていません。ある省庁の幹部は「(来年9月の自民党総裁の)任期満了まで約1年で、政治信条を表現したかったのではないか」と語っています。

谷口さんは安倍首相から「戦前、戦中、父祖たちがなした行いに、いったい今を生きる我々が、なんの資格あって謝ることができるというのか。父祖の行為をいつでも謝れると考えるのは、歴史に対する傲慢である」という趣旨の話を聞いたことを著書の中で紹介しています。その章の結びには次のとおり記され、谷口さんは安倍首相の政治信条を絶賛していました。

安倍総理における潔癖は、謝罪によって自分の政治的株価を上げることよりも、内心の自己愛を満足させることも、いずれも決してよしとしません。これこそが、安倍総理が過去父祖たちの時代に起きたことに謝らない、いえ、謝るという行為をなし得ないと考えている理由なのです。安倍晋三という人の真実は、歴史に対するその謙虚さにある。まさにその意味において、安倍総理は、保守主義の真髄を身につけた人である。私は、そう思います。

個々人の思想信条の自由は保障されなければなりません。しかし、日本の総理大臣の信条や振る舞いとして私自身は強い違和感があります。歴史を教訓化し、被害者側の心情に想像力を巡らせば適切な考え方なのかどうか疑問に思います。加えて、安倍首相の周囲には多様な立ち位置の人材が少なく、多面的なチェックが働きづらくなっているような危惧を感じています。

たいへん長い記事になっていますが、最後にNHKスペシャル『渡辺恒雄 戦争と政治 ~戦後日本の自画像~』について触れさせていただきます。内容は下記の紹介のとおりですが、戦争の悲惨さや軍国主義の不条理さを体験してきた方々が、どのように現実の政治の場面に向き合ってきたのかどうかを克明に伝えた番組でした。戦後生まれの政治家が圧倒多数となっていますが、ぜひ、戦争に対する嫌悪感を継承する努力は尽くした上で平和を語って欲しいものと強く願っています。

70年にわたり戦後政治の表と裏を目の当たりにしてきた読売新聞グループのトップ・渡辺恒雄氏、94歳。今回、映像メディアによる初めてのロングインタビューが実現した。証言から浮かび上がるのは、歴代首相の“戦争体験”が、戦後日本に与えた影響である。戦争の記憶が薄れゆく戦後75年目の日本。戦後日本が戦争とのどのような距離感の中で形作られ、現在に何をもたらしているのか。渡辺氏の独占告白から立体的にひも解く。

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コメント

個別的自衛権は合憲、集団的自衛権は違憲とのお考えのようですが、憲法が自衛権を肯定していると解すれば、個別も集団も肯定との筋道になるはずですね。
個人的に憲法は自衛権を否定し、自衛戦争をも放棄しているところに、その特徴があると思ってます。

投稿: yamamoto | 2020年8月17日 (月) 08時56分

yamamotoさん、コメントありがとうございました。

確かに自衛権に「個別的も集団的もない」と考える方々も多いはずです。しかしながら私自身は以下のような経緯と解釈のもとの日本国憲法の「特別さ」とその効用を評価しています。

草案の段階で憲法9条に「前項の目的を達するため」という記述はなく、当時の自由党の芦田均委員長の修正によって一文が加えられていました。ただ一文が入った解釈について施行後の国会答弁で、吉田茂元首相は自衛権まで含め「戦争を放棄している」という見解を示していました。

1950年の朝鮮戦争が勃発した頃から憲法9条の解釈は変わり、自衛隊の創設までつながっています。「前項の目的を達するため」以外であれば国家固有の権能の行使として「必要最小限度の自衛権」は認められるという解釈への転換でした。

このような経緯も含め、私自身は個別的自衛権まで認めた憲法解釈を支持する立場です。GHQに押し付けられたというネガティブな気持ちもありません。明治の自由民権運動から連なる日本国内の下地があった点をはじめ、多くの国民から半世紀以上支持されてきた憲法9条の理念や効用を評価しています。

付け加えれば未来永劫、憲法を改めてはいけないと考えている訳ではありません。もし改憲するのかどうかを問うのであれば日本国憲法の「特別さ」を明確な論点にすべきものと考えています。

yamamotoさんの問いかけに的確に答えられたのかどうか分かりません。思った以上に長い説明を加えながら言葉が不足しているのかも知れません。できれば機会を見て、この問題についても記事本文を通して取り上げさせていただきます。

投稿: OTSU | 2020年8月22日 (土) 06時34分

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