不戦を誓う三多摩集会 Part2
前回の記事は「不戦を誓う三多摩集会」でした。書き進めていくと思った以上に長い記事となったため、当初、ここまで盛り込もうと考えていた内容をいくつか見送っていました。そのため、今週末に投稿する新規記事は「Part2」として、前回記事に盛り込めなかった内容を中心に書き進めてみます。
東京新聞社会部の記者である望月衣塑子さんが講演の最後のほうで幣原喜重郎元首相の言葉などを紹介されたことを伝えていました。日本国憲法の平和主義は制定に関わった当時の首相だった幣原さんがGHQに提案したと言われています。
したがって、「占領されていた時代に押し付けられた憲法だ」という見方自体、間違っているという説もあります。望月さんの講演の中で、幣原さんの言葉は「問われる9条加憲」というパワポのタイトル画面の後に紹介されていました。
正気の沙汰とは何か。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は考え抜いた結果出ている。世界はいま一人の狂人を必要としている。自ら買って出て狂人とならない限り世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことはできまい。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。
今回、望月さんが紹介した幣原さんの言葉の全文を改めて掲げさせていただきました。鉄筆文庫編集部が幣原さんの証言をまとめた書籍『日本国憲法 9条に込められた魂』の中に残されている言葉です。この後、前回記事で全文を掲げた沖縄県の翁長前知事の言葉が続いていました。前回の記事をご覧になっていない方々も多いかも知れませんので、もう一度掲げさせていただきます。
アジアの様々な国の人が行来できるような沖縄になれば良い。どこかの国が戦争をしようとしても、自国民がいるから戦争できない、平和の緩衝地帯、そんな場所にできたら
望月さんが安倍首相の「9条加憲」に反対の立場であることは明らかです。その文脈の中で幣原元首相と翁長前知事の言葉が紹介されていました。もう一人、イギリスからの独立運動を指揮したインドのマハトマ・ガンジーの次の言葉も添えられていました。
あなたのすることの殆どは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分自身が変えられないようにするためである。
なかなか哲学的で奥深い名言だったため、あえて前回記事では触れませんでした。今回の記事を通して改めて望月さんが紹介した3人の言葉の全文を掲げさせていただきました。この名言の趣旨を踏まえ、無意味かどうかは関係なく、前回記事で書き残した自分自身の問題意識を披露させていただきます。
中村さんを理不尽な凶弾から防げなかったことを悔やんでいますが、私自身の問題意識として身を守るための一定の抑止力の必要性も認めています。その上で「平和への思い、2017年冬」をはじめ、これまで投稿した多くの記事に様々な思いを託してきています。ここでは繰り返しませんが、きっと望月さんや逝去された中村さんらと基本的な思いは同じなのではないでしょうか。
上記は前回記事の中の一節です。読み返してみると、いろいろ言葉が不足した文章だったような気がしています。この箇所の不充分さも気になっていたため、「Part2」の投稿に至ったとも言えます。結局、以前の記事からの転載のような内容となりますが、私自身の問題意識を改めてお示しさせていただきます。
不戦を誓う集会などに参加し、いつも気になることがありました。まず憲法9条を変えさせない、憲法9条を守ることが平和を守ることであり、不戦の誓いであるという言葉や論調の多さが気になっていました。北朝鮮の動きをはじめ、国際情勢に不安定要素があるけれど、憲法9条を守ることが必要、なぜ、憲法を守ることが平和につながるのか、このような説明の少なさが気になっています。
問題意識を共有化している参加者が圧倒多数を占めるため、そのような回りくどい説明は不要で単刀直入な言葉を訴えることで思いは通じ合えるのだろうと受けとめています。しかし、その会場に足を運ばない、問題意識を共有化していない人たちにも届く言葉として「憲法9条を守る」だけでは不充分だろうと考えています。
「平和への思い、自分史 Part2」をはじめ、多くの記事の中で綴っている問題意識ですが、誰もが「戦争は起こしたくない」という思いがある中、平和を維持するために武力による抑止力や均衡がどうあるべきなのか、手法や具体策に対する評価の違いという関係性を認識するようになっています。
つまり安倍首相も決して戦争を肯定的にとらえている訳ではなく、どうしたら戦争を防げるのかという視点や立場から安保法制等を判断しているという見方を持てるようになっています。その上で、安倍首相らの判断が正しいのかどうかという思考に重きを置くようになっています。
特に安倍首相の考え方や判断を支持されている多くの方々を意識するのであれば、安倍首相「批判ありき」の論調は控えるべきものと心がけています。そして、自分自身の「答え」が正しいと確信できるのであれば、その「答え」からかけ離れた考え方や立場の方々にも届くような言葉や伝え方が重要だと認識するようになっています。
このような点を意識し、乗り越える努力を尽くさなければ平和運動の広がりや発展は難しいように感じています。戦争に反対する勢力、戦争を肯定する勢力、単純な2項対立の構図ではとらえず、「いかに戦争を防ぐか」という具体策を提示しながら発信力を高めていくことが求められているはずです。
このような問題意識を数多くの記事を通して綴ってきています。改めて端的な言葉で語れば、守るべきものは日本国憲法の平和主義であり、個別的自衛権しか認めないという「特別さ」です。この「特別さ」を維持することで「平和主義の効用」があり、「広義の国防、安心供与の専守防衛」につながっているものと考えています。
詳しい説明はリンク先の記事をご覧いただければ幸いですが、憲法9条の条文を一字一句変えなければ日本の平和は維持できるという発想ではありません。少しだけ具体的な事例を示してみます。「何が正しいのか、どの選択肢が正しいのか」という記事の中で掲げた事例です。
かつて仮想敵国としたソ連、現在のロシアとは友好的な関係を築きつつあります。冷戦が終わったからという見方もありますが、北方領土の問題は無人島である尖閣諸島とは比べられないほどの主権や島民だった皆さんの強い思いがありながらも、対話を土台にした外交関係を築いています。
核兵器の保有で言えばロシア、中国、NPT(核拡散防止条約)未加盟のインドとも対話することができています。対話できる関係、つまり今のところ敵対関係ではないため、核兵器による切迫した脅威を感じるようなことがありません。このような対話をできる関係を築くことがお互いの「安心供与」であり、「広義の国防」につながっていると言えます。
念のため、だから北朝鮮の核兵器保有も容認すべきと訴えている訳ではありません。そのあたりは「再び、北朝鮮情勢から思うこと Part2」の中で詳述していますが、圧力だけ強めていけば戦争を誘発するリスクは高まっていきます。そのようなリスクは最優先で排除すべきものであり、ミサイルを実戦使用させないためには効果的な圧力と対話の模索が欠かせないはずです。
防衛審議官だった柳沢協二さんが、脅威とは「能力」と「意思」の掛け算で決まるものだと話されています。北朝鮮情勢が緊迫化していた最中、日本が考えるべきは「ミサイル発射に備える」ことではなく、「ミサイルを撃たせない」ことであり、米朝の緊張緩和に向けて働きかけることが何よりも重要であると柳沢さんは訴えていました。
残念ながら日本が橋渡し役を果たせませんでしたが、米朝での対話の扉が開かれました。その結果、北朝鮮のミサイル発射に際し、Jアラートを鳴らし続け、あれほど脅威を強調していた安倍首相や日本政府の対応が激変していました。
「平和の築き方、それぞれの思い」の中で取り上げた象徴的なエピソードですが、今年8月25日、北朝鮮がミサイルを2発発射したという情報が駆け巡りました。その際、安倍首相は「わが国の安全保障に影響を与える事態でないことは確認している」と語り、 静養先でゴルフを続けていました。
それ以降、北朝鮮の挑発的な行動が目立ち始めています。11月28日の発射の際、安倍首相は「国際社会に対する深刻な挑戦だ」と批判のトーンを以前のような強さに戻していました。確かに北朝鮮の行動は決して容認できるものではありません。しかし、直接標的にされている訳ではないため、脅威の度合いが極端に高まったのかどうかで言えば疑問です。
全面戦争に至った場合、大きな痛手を負うのは北朝鮮側であり、そのような意味で「意思」を抑止させている関係性が存在しているはずです。現実的なリスクは北朝鮮を追い込みすぎ、自暴自棄になった北朝鮮が日本を狙って核ミサイルを発射するような事態です。東京上空て核ミサイルが爆発した場合、死傷者は400万人に達すると見られています。
望月さんが講演で伝えたとおり「イージス・アショア2基は6000億円、迎撃ミサイルの弾は1発33億円」ですが、迎撃能力に100%の保障はありません。このような事実関係を踏まえ、「必要なのは対話ではない、圧力を最大限強めることだ」と繰り返し、安全保障を強い言葉で語ることが望ましいのかどうか、強い言葉によって「安心供与」とは真逆な標的になるリスクを高めていないかどうか考えていかなければなりません。
ベシャワール会の中村哲さんは危険と隣り合わせのアフガニスタンで、現地の人々との信頼関係が何よりの安全対策だとして医療や灌漑事業などの人道支援に力を尽くしてきました。アフガニスタンへの自衛隊派遣が論議された際、参考人として国会に招致された中村さんは「自衛隊の派遣は有害無益で、百害あって一利なしだ」と訴えられていました。
安全な場所からではなく、言葉よりも実際の行動で平和の築き方を考えられた中村さんの訴えだからこそ、より真摯に私たちは受けとめていかなければならないものと思っています。本来は集団的自衛権を認めず、専守防衛に徹する憲法9条の「特別さ」の効用を積極的に評価していくのかどうかが問われているのではないでしょうか。
「Part2」として書き進めてきましたが、まだまだ不充分な気がしています。このブログは単発で終わるものではありませんので、言葉や説明が不足した点などは次回以降の新規記事で補足できればと考えています。異論や反論を持たれる方も多いのだろうと思いますが、ぜひ、これからもご注目いただければ幸いですのでよろしくお願いします。
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コメント
こんばんわ。
日本の平和運動は9条に依拠したものが多いですが、9条が改正された場合、根拠を失ってしまうそれらの平和活動はどうなってしまうのだろうかいささか気になります。その場合の話し合いとかなされてるんでしょうか?
投稿: おこ | 2019年12月15日 (日) 23時05分
幣原元首相の有名な言葉、敵が攻めてきたらどうするんですか?「それは死中に活だよ」9条は非武装宣言を端的に表してます。望月記者は非武装を支持するからこそ、自衛隊明記は9条2項の無力化だとの主張でしょう。
個別的自衛権がよくて集団的がなぜ違憲なのか、その理屈がいまだによくわかりません。9条のどこにその根拠があるのでしょうか?
投稿: yamamoto | 2019年12月17日 (火) 08時12分
おこさん、yamamotoさん、コメントありがとうございました。
おこさんが疑問視するような想定での話し合いはされていないものと理解しています。
yamamotoさんのような疑問に対し、私なりの「答え」は過去の記事の中で詳述してきました。その「答え」にご理解を得られるのかどうか、やはり個々人の見方は異なるようです。
新規記事は別な話題を予定しているため、そのような論点等に関しては機会を見て改めて取り上げさせていただければと思っています。よろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2019年12月21日 (土) 08時05分
なるほど。9条と一蓮托生なんですね。
投稿: おこ | 2019年12月21日 (土) 12時18分
憲法が自衛権を否定していないと解すれば、個別も集団も否定しない筋道になるはずです。当然、政府は憲法解釈の変更権を有してます。
変更後の解釈が9条に適合しないであれば、明らかな根拠を憲法の中で示さなければなりません。
投稿: yamamoto | 2019年12月21日 (土) 13時00分
おこさん、yamamotoさん、コメントありがとうございました。
9条と一連托生かどうか分かりませんが、将来的に運動の方向性や具体的な活動方針を見直すことを想定した話し合いはされていないという理解です。あくまでも私自身が知り得る範囲内での情報であることも付け加えさせていただきます。
yamamotoさんの問いかけに直接答えるものではありませんが、参考までに取り急ぎ下記の記事を紹介させていただきます。
2017年7月9日(日) 改憲の動きに思うこと
http://otsu.cocolog-nifty.com/tameiki/2017/07/post-fbee.html
投稿: OTSU | 2019年12月21日 (土) 22時17分
小林さんは「法的に第2警察で交戦権もない以上は、専守防衛に限定される」だが、国際法上、世界中のどの国にも交戦権は認められていません。限定的に認められるのは自衛権の行使のみです。法的に軍隊じゃなくても自衛権は行使できます。
なので、9条2項の交戦権の否認はダメ押しで確認しただけです。また、世界中の憲法は平和主義だが、日本特有は2項の「戦力の不保持」に絞られます。
投稿: yamamoto | 2019年12月22日 (日) 09時35分
yamamotoさん、コメントありがとうございました。
過去の記事を紹介するだけではお手間をかけさせてしまいますので、この場でも私なりの「答え」を示させていただきます。
ご指摘のとおり交戦権の否認は日本国憲法のみの特別さではありません。国連憲章によって外交の延長線上として宣戦布告さえすれば合法だった戦争が、第2次世界大戦後は国際社会の中で原則禁止されています。例外として、自衛のためと国連安全保障理事会が認めた場合の戦争だけを合法としています。
集団的自衛権は前者にあたり、同盟国などが武力攻撃を受けた際に共同で対処できるものです。後者は集団安全保障と呼ばれ、国連の枠組みで武力攻撃を行なった国を制裁する仕組みです。ちなみに国連安全保障理事会が「平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」に限って、国連憲章第51条で集団的自衛権の行使を認めています。
yamamotoさんに対して、このような説明は不要なのだろうと思っていますが、「評価」の問題につながる前提として改めて記しています。
もう少し事実経過等の話として続けますが、憲法施行後、当時の吉田茂首相は自衛権まで含めての戦争放棄を国会で答弁していました。その後、1950年の朝鮮戦争が勃発した頃から「自衛のための“必要最小限度の実力”を保有することは憲法9条に違反しない」と解釈されたものと理解しています。
長年、この解釈をもとに集団的自衛権は認められないという立場を日本政府はとってきました。安保関連法案の是非が取り沙汰された際、阪田雅裕元内閣法制局長官は「集団的自衛権の行使が許されることは今の国際法で許される戦争がすべてできることになり、9条をどう読んでも導けない、文章の理解の範疇を超えているものは解釈ではなく、無視と言うべきものではないか」と語っていました。
私自身も憲法第9条の解釈は個別的自衛権の行使までが限界と考え、集団的自衛権の行使まで容認する安保関連法には大きな疑義を抱いています。このような見方や評価は個々人で分かれていることも承知しています。
したがって、あくまでも私自身の「答え」の一端を改めて書き添えさせていただきました。たいへん恐縮ながら当ブログに関わるのは週末に限っていますので、きめ細かい意見交換につなげられないことをご理解ご容赦ください。
投稿: OTSU | 2019年12月22日 (日) 20時30分