平和の築き方、それぞれの思い
前回記事「2019年夏の市長選」の冒頭で「このブログの閲覧者は私どもの市役所の職員よりも外部の方のほうが多いものと思っています。そのため、なるべくローカルな話題は控える意識が働き、広く知られた時事や政治の話が多くなっています」と記していました。
他にも国政の話題が多くなる理由として、市政の話を取り上げる場合、自分自身も一職員として当事者であるという責任を負っているからです。第三者的な論評や批判意見を加える立場ではなく、至らない点があれば内部で声を上げ、改善に努める責務があることを自覚しています。
特に労働組合の役員でもあり、市長や副市長らに直接訴えられる機会も少なくありません。仮に問題視すべき事案があった場合、ネット上での情報発信よりも実際の行動を優先すべきものと考えています。さらに以前の記事「ブログでの発言の重さ」で綴っているとおりの心得があり、このブログでの話題の中心は国政となりがちです。
その上で、自分自身の思うことを不特定多数の方々に発信できる当ブログは自分なりの一つの運動として位置付けています。特に平和の築き方に対する思いについて、これまで数多くの記事を通して書き残してきています。とりわけ私たち日本人にとって、戦争と平和について考えを深める機会の多い夏の時期、このブログに自分自身の思いを託してきました。
一昨年の夏は「平和への思い、自分史」「平和への思い、自分史 Part2」という新たな切り口で、昨年は「平和の話、インデックスⅢ」「平和の話、サマリー」「平和の話、サマリー Part2」という総まとめ的な記事を連続して投稿していました。今年も74回目の広島と長崎の「原爆の日」を迎えた後、いろいろ個人的に思うことを書き進めてみます。
長崎は9日、74回目の原爆の日を迎えた。爆心地近くの長崎市の平和公園では平和祈念式典が開かれ、田上富久市長は平和宣言で、核兵器を巡る世界情勢を「危険な状況」と指摘。日本政府に対して「唯一の戦争被爆国の責任として一刻も早く核兵器禁止条約に署名、批准してほしい」と求めた。
令和最初の式典に出席したのは被爆者や遺族、66カ国の代表ら。参列者は原爆投下時刻の午前11時2分に黙とうし、犠牲者の冥福を祈った。この1年間で新たに3402人の原爆死没者の名簿が奉安され、長崎原爆の死没者は計18万2601人になった。
平和宣言で田上市長は初めて被爆者の詩を紹介した。「ケロイドだけを残してやっと戦争が終わった」「だけど…… 父も母も もういない 兄も妹ももどってはこない」「このことだけは忘れてはならない このことだけはくり返してはならない」。17歳で被爆し家族を失った女性がつづったもので、強い思いがこもった詩を通じ、改めて核廃絶を訴えた。
安倍晋三首相はあいさつで「核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努め、双方の協力を得ながら対話を粘り強く促し、国際社会の取り組みを主導していく」と述べた。核兵器禁止条約については言及しなかった。【日本経済新聞2019年8月9日】
安倍首相は核兵器禁止条約に日本が加わることを否定しています。そのことで条約に参加していない核兵器保有国との橋渡し役を務められるという理由を説明しています。被爆者の思いからすれば乖離した立場だと言わざるを得ません。田上市長が訴えているとおり唯一の戦争被爆国として一刻も早く署名し、そのような立場から橋渡し役を務めることが望ましい選択ではないでしょうか。
ただ「アメリカの核の傘に入っていながら」という関係性があり、日本独自の判断として核兵器禁止条約に関与できないという見方があることも承知しています。そもそも核兵器も含めた武力による抑止力の必要性について、私たち日本人の中でも温度差があるように見ています。平和の築き方や安全保障に対する考え方自体、人によって大きく分かれがちです。
したがって、今回の記事のタイトルは「平和の築き方、それぞれの思い」としています。当り前なこととして、誰もが自分自身の「答え」の正しさを信じています。今回の記事に綴る内容も、あくまでも私自身が正しいと信じている「答え」であり、異論や反論を持たれる方々も多いのだろうと思っています。このような認識のもとに「平和の築き方、それぞれの思い」というタイトルを付けています。
抑止力の問題に対し、私自身は次のように考えています。武力による抑止力は狭義の国防であり、ハード・パワーを重視した考え方です。その一方で、広義の国防という言葉があり、ソフト・パワーという対になる考え方もあります。国際社会は軍事力や経済力などのハード・パワーで動かされる要素と核兵器禁止条約に代表されるような国際条約や制度などのソフト・パワーに従って動く要素の両面から成り立っています。
もう一つ、抑止に対し、安心供与という言葉があります。安心供与という言葉は「北朝鮮の核実験」の中で初めて紹介しました。安全保障は抑止と安心供与の両輪によって成立し、日本の場合の抑止は自衛隊と日米安保です。安心供与は憲法9条であり、集団的自衛権を認めない専守防衛だという講演で伺った話をお伝えしていました。
安心供与はお互いの信頼関係が柱となり、場面によって寛容さが強く求められていきます。相手側の言い分が到底容認できないものだったとしても、最低限、武力衝突をカードとしない関係性を維持していくことが肝要です。抑止力の強化を優先した場合、ますます強硬な姿勢に転じさせる口実を相手に与えてしまいがちです。
外交交渉の場がなく、対話が途絶えている関係性であれば、疑心暗鬼が強まりながら際限のない軍拡競争のジレンマにつながります。それこそ国家財政を疲弊させ、いつ攻められるか分からないため、攻められる前に先制攻撃すべきという発想になりかねません。そのような意味で、攻められない限り戦わないと決めている日本国憲法の専守防衛は、他国に対して安心を与える広義の国防の究極の姿だと私自身は考えています。
別な機会に「なるほど」と思った言葉に出会いました。防衛審議官だった柳沢協二さんが、脅威とは「能力」と「意思」の掛け算で決まるものだと話されていました。情勢が緊迫化していた最中、日本が考えるべきは「ミサイル発射に備える」ことではなく、「ミサイルを撃たせない」ことであり、米朝の緊張緩和に向けて働きかけることが何よりも重要であると柳沢さんは訴えていました。
残念ながら日本が橋渡し役を果たせませんでしたが、米朝での対話の扉が開かれました。その結果、北朝鮮の「意思」が変わりつつあり、将来的には「能力」を放棄することも約束しています。一触即発だった戦争の危機を回避できた動きを大半の方々は歓迎しているはずです。ここで脅威とは「能力」と「意思」の掛け算で決まるという象徴的なエピソードとして、あるメディアの記事を紹介します。
「わが国の安全保障に影響を与える事態でないことは確認している」――。安倍首相は25日、北朝鮮が同日早朝にミサイル2発を発射したことについてこう言い切ると、山梨県での静養を切り上げることなくゴルフを堪能。自分があおってきた“北の脅威”などすっかり忘れてしまったようだ。韓国軍などによると、北朝鮮は日本海に向け、短距離弾道ミサイルとみられる飛翔体2発を発射。2発目は日本の一部にも到達可能な新型ミサイルだったとみられる。
政府は正式に弾道ミサイルと断定していない。理由は、安倍首相が無条件での日朝会談の開催を求めているタイミングで対話ムードを損ないたくないからだ。しかし、安倍政権は今まで“北の脅威”を散々あおって国民を翻弄してきた。思い出すのは、周辺国からの弾道ミサイルの発射などを知らせる「Jアラート」を使った避難訓練(国民保護訓練)。
国から訓練を呼びかけられた自治体の住民が頭を抱えて地面にうずくまるマヌケな姿が、国内だけでなく海外メディアを通じて世界に報じられた。政府が先頭に立って国民保護訓練を呼びかけ、総務省消防庁は昨年、訓練関連予算として1.3億円を計上。ところが、今では「住民の避難訓練はしばらく前から行っていない」(内閣官房事態対処・危機管理担当)のが現実だ。加えて、弾道ミサイル発射を知らせるJアラートは、おととし9月15日を最後に鳴らされていない。
25日のミサイル発射については「日本に飛来・通過しないと判断したため鳴らさなかった」(内閣官房事態対処・危機管理担当)という。安倍首相はおととし9月21日の国連演説で「(北朝鮮の)脅威はかつてなく重大」と繰り返し強調。直後の25日に「北朝鮮問題への対応について国民に問いたい」と“国難突破解散”に踏み切った。
高千穂大教授の五野井郁夫氏(国際政治学)がこう言う。「北朝鮮の日本に対する態度は何も変わっていないので、解散当時と今の状況は変わっていません。それなのに、Jアラートは鳴らなかった。安倍首相が選挙期間中で夏休みに入っていなかったら、どうだったか分かりませんが、少なくとも、安倍政権の外交・安全保障政策が場当たり的で一貫性がないということが改めて証明されました」 やっぱり安倍首相には任せられない。 【日刊ゲンダイ2019年7月26日】
安倍首相を支持されている方々にとって不愉快に感じる言葉が多い記事で恐縮です。しかし、事実関係として象徴的な報道だったため、多面的な情報や見方を提供する機会につなげています。北朝鮮のミサイル発射に際し、Jアラートを鳴らし続け、あれほど脅威を強調していた安倍首相や日本政府の対応が激変しています。
安倍首相がゴルフを続けられたことを私自身は肯定的にとらえています。北朝鮮の「意思」を確かめられたことで脅威が減少したという証しだと考えられるからです。このような外交努力、ソフト・パワーを尽くすことで脅威は変動する事例だと言えます。これまで「セトモノとセトモノ、そして、D案」をはじめ、数多くの記事を通して平和の築き方や安全保障のあり方について自分なりの「答え」を綴ってきました。
私自身、憲法9条さえ守れば平和が維持できるとは思っていません。重視すべきは専守防衛を厳格化した日本国憲法の平和主義であり、その平和主義の効用こそ大切にすべきものと考えています。このような「答え」に対し、前述したとおり異論や反論を持たれる方々も多いのだろうと思っています。たいへん残念ながら個々人が正しいと信じている「答え」から、かけ離れた他者の考え方は容易に受け入れていただけるものではありません。
まったく理解し合えない高い壁が存在しがちであり、そのような異質な考え方を持つ相手を見下してしまうケースも見受けられます。もっと最悪なケースは誹謗中傷の応酬となり、暴力的な言葉まで発せられる時もあります。言論や表現の自由に対し、いわゆる左や右という立場を問わず、 批判すべき点は率直に批判したとしても一定の節度を持って対応しなければならないものと考えています。
愛知県警は7日、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で中止となった「表現の不自由展・その後」をめぐり、危害を予告するファクスを送ったとして、威力業務妨害の疑いで、同県稲沢市の50代の会社員の男を逮捕した。捜査関係者への取材で分かった。 逮捕容疑は、「(元慰安婦を象徴した)少女像を大至急撤去しろ。さもなくばガソリン携行缶を持っておじゃまする」などと書いたファクスを不自由展の会場だった県美術館(名古屋市東区)に送ったとしている。ファクスは2日午前9時ごろに届いているのが見つかった。【産経新聞2019年8月7日】
上記のような事例は様々な意味で非常に残念なことです。以前から当ブログではいろいろな「答え」を認め合った場として、個々人の「答え」の正しさをそれぞれの言葉で競い合えることを願っています。そのような考え方もあるのかという認め合いであり、相手の立場や思想を尊重し合う寛容さが対人関係において欠かせないものと受けとめています。
その上で、誤りだと思う点について異質な「答え」を持つ他者にも届く言葉を駆使していくことが重要な試みだろうと考えています。つまり容易には分かり合えなくても、いがみ合わないことの大切さを当ブログの記事を通して訴え続けてきています。そして、対人関係に関わらず、国と国との関係においても相手の立場や言い分を気遣う寛容さが求められているはずです。
平和の築き方として、いがみ合わないことの大切さは真っ先に上げるべき点だろうと思っています。現在、日韓関係が悪化しています。このブログでは「徴用工判決の問題」「徴用工判決の問題 Part2」「レーダー照射事件から思うこと」という記事を投稿し、私自身の問題意識を綴っています。韓国側の問題点を指摘していくことの必要性を理解しながらも、ロシアとの関係に比べて韓国に対する安倍政権の接し方は極端に厳しい気がしています。
このような見方に関しても様々な声や批判が集まるのかも知れません。しかし、幅広く多様な「答え」を出し合うことで、より望ましい「答え」を見出す機会につながっていくものと考えています。そのため、最後に多面的な情報や見方の一つとして、日本総合研究所の主席研究員である藻谷浩介さんの『傍観 その先にある損失』というタイトルを付けたコラムを紹介させていただきます。
内心に募る否定的な感情を、他者にぶつけて憂さを晴らそうとする人が増えているように感じる。その最悪の例が、京都での無差別放火殺人かもしれない。もちろん、そういうところまでいってしまう人は、まだ社会のごく一部だろう。だが犯罪行為ではなく、政治的なトピックの場合には「自分たちだけが正しく、相手だけが間違っている」という一部の過激な主張に、その外側にいながら何となく同調してしまう人が、市井の普通の人にも増えている感じがする。
彼ら自身は否定的な感情を大人げなく他者にぶつけはしないのだが、誰かの排他的で視野の狭い行動を「そうはいっても相手の方がより悪いよな」と、何となく許してしまう。そういう人こそ気付かなければいけない。「相手側から自分たちがどう見えているか」についても考えないと、結局は自らの利益を損ねる可能性があることを。日本の韓国に対する、一部製品の輸出に関する優遇措置剥奪のニュースを、何となく肯定的に受け止めている人たちは典型例だろう。
今回、日本政府には「韓国から第三国へ不正輸出が行われている可能性が否定できない」という表向きの理屈がある。しかし、文在寅政権の経済失策で弱り切っている韓国国民の、心中の機微を理解しないままにさらにプライドを傷つけるのは、日本にとっておよそ得策とは思えない。日本だって自分が当事者でなければ「判官びいき」だ。だから分かると思うのだが、日本の理屈が世界から「弱い者いじめの自己正当化」とみなされる危険性は十分にある。
駆け引きにしてもやり過ぎに見えることから考えて、外務省ではなく首相官邸-経済産業省ラインが主導したのだろうが、それで世界貿易機関(WTO)は通るのか。韓国による東北産水産物の輸入規制をWTOが是認したのは記憶に新しい。連敗した場合、政権に責任を取る覚悟はあるのだろうか。もちろん、コアな嫌韓層はそれでも満足だ。彼らには「韓国を懲らしめてやれ」という強い処罰感情がある。だがその根っこにあるのは、ストレスに満ちた日本社会の中で抱え込んだ個人的な敗北感を、自分が「強者」の側に立って攻撃することで発散したいという欲求ではないか。
普通の国民は、嫌韓派の極論に「もっともな面もあるな」と何となく同調してしまってはいけない。そもそも嫌韓と反日の応酬で得をするのは誰なのか、考えてほしい。徴用工問題で被告にされている、日本企業の担当者は喜ぶだろうか。両国の関係がこじれるほど、いけにえにされていじめられるだけではないか。輸出規制の対象企業はどうか。韓国企業が日本に頼るリスクに気づき、独自の技術開発にまい進するほど、今の独占的地位を失う危険が大きい。それらに該当しないあるハイテクメーカー関係者も「韓国への輸出減で大損害だ」と漏らしていた。
さらにいえば、韓国人観光客が減って九州の誰が得をするのだろう。半年前の当欄で「日韓の対立をあおって得をするのは(国内の不満を隣国に向けさせることで延命を図る、日韓双方の)政治家」と指摘した通りだ。そのせいで損をするのは国際競争でもうかっている側、すなわち韓国から昨年だけで2兆円の経常収支黒字を稼いだ、日本のハイテクメーカーと観光関係者である。かかる金銭的損害をもたらしたとしても、官邸関係者も、嫌韓の人たちも、決してその責任を取りはしない。一般国民はいつまで、彼らのことを「何となく許し続ける」のだろうか。【西日本新聞2019年7月29日】
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コメント
間違ってはいけないのは、反日があっての嫌韓であること。
どっちもどっち論は詭弁。
韓国の反日教育
https://m.youtube.com/watch?v=2tKYW5vkHTk
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52056?page=2
平和運動ならこういった憎悪を煽る存在にメスをいれるべきでは
投稿: taro | 2019年8月10日 (土) 20時49分
taroさん、コメントありがとうございました。
誤った事実認識に基づき、排外主義を煽ることを目的にした教育は問題です。その上で、そのような教育に至っている背景や経緯について、相手の立場や言い分にも思いをはせなければ不信感や敵愾心が消えることはないのかも知れません。そのような問題意識も今回の記事に託しています。
いずれにしても記事タイトルに掲げたとおり「平和の築き方、それぞれの思い」は個々人によって異なり、絶対的な正解は容易に見出しにくいことも承知しています。ぜひ、これからも多様な情報やご意見をお寄せいただければ幸いですのでよろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2019年8月11日 (日) 06時38分
9条1項は戦争の放棄、2項は非武装、個別的&集団的自衛権は国固有の権利、したがって侵略者には竹やり、鉄砲で戦うが、自衛隊&在日米軍基地は憲法違反である。これは共産党の主張だが、唯一、これだけは賛同します。専守防衛の範囲ならば、自衛隊も日米安保も合憲はすでに解釈改憲です。国際法上も自衛隊は軍隊として扱われ、現実に9条2項は死文化して、もう必要ないでしょう。
この議論を枝野、辻元さんは上手に逃げ、フェアに議論しようの姿勢は山尾さんぐらいです。法の支配と立憲主義、自由闊達な議論はリベラルの証し、立憲・国民はそこを避けないでほしい。
過去に尖閣諸島の問題で中国は強烈な国際キャンペーンを張り、日本のプレゼンスが一時的に低下しました。その反省から、日本は国際世論形成の対外情報活動を強化し、これは安全保障の視点でも大事なことです。だが国内が平和でいられたのは、自衛隊と日米安保の抑止力のおかげです。この現実から逃避してはダメ、空想的平和主義は国際的に通用しません。
投稿: yamamoto | 2019年8月11日 (日) 09時22分
こんにちは。
このブログで何度か出てくる「安全供与」についてですが、日本国憲法第9条というのは国内法だから他国との間では効力を生じる機会って無いんじゃないですかね?国際法の概念である「自衛権」については一国の憲法ではなく国際法で処理されるのではないかと。
なんで自衛権を憲法の枠で問題されるのか疑問に感じています。
たとえば、日本が他国との間に「貴国に対して自衛権の行使はいたしません」なる条約を結んでいたにもかかわらず武力行使しちゃった場合、国際法上違法になるのか?といえば、国連憲章の「自衛権」の範囲に収まってる限りは違法にならないような気がします。
二国間の力関係次第では相手の自衛権を放棄させるような条約もありうるので、国連憲章にある自衛権の規定はこの種の条約を無効にする力があるのかなと感じています。
投稿: おこ | 2019年8月11日 (日) 16時46分
yamamotoさん、おこさん、コメントありがとうございました。
今回お寄せいただいたような論点に対し、これまで様々な記事を綴ってきています。コメント欄で端的にお答えすることは言葉や説明が不足する恐れもありますが、少しだけ私自身の考え方を補足させていただきます。
yamamotoさんのご指摘のとおり憲法9条の解釈は完全に統一されていない現状もあろうかと思います。しかし、個別的自衛権まで認めた解釈までを合憲とする立場を私自身は支持しています。その上で抑止力の必要性も認めています。
国際社会の中で日本国憲法9条は異質です。おこさんの問いかけに対し、例えば集団的自衛権の行使は国際法上は問題なく、憲法上で問題があるという関係性になります。そのような中、私自身が重視しているのは平和主義の効用であり、広義の国防となる「安心供与」という考え方です。
以上のような端的な補足はもう少し説明を要するものと思います。様々な切り口での記事を綴ってきていますが、取り急ぎ下記の記事を紹介させていただきます。お時間等が許される際、ご覧いただければ幸いです。
2017年10月14日(土) 広義の国防、安心供与の専守防衛
http://otsu.cocolog-nifty.com/tameiki/2017/10/post-5dd5.html
投稿: OTSU | 2019年8月11日 (日) 22時38分
「安心供与の専守防衛」は理解しづらいです。
「何が起ころうと、勝手にあなたの家に押し入りません、そのための武器もありません」自衛隊で専守防衛です。相手に安心を与えます。「石を投げてきたら、隣人があなたの家に押し入るでしょう、そのための武器もあります」日米安保の米側で専守防衛ではないです。相手にためらいを与えます。
米軍が「矛」の敵基地攻撃能力を有し、自衛隊が「盾」で専守防衛に徹する役割分担になっています。日米安保がなければ、日本の専守防衛は、相手に安心を与えると言えるでしょうが、その辺がもやっと、わかりづらいですね。
投稿: yamamoto | 2019年8月13日 (火) 07時35分
yamamotoさん、コメントありがとうございました。
日米安保も第1条で純粋に防衛的性格のものであることを宣明していますので専守防衛の範囲内の位置付けだと理解しています。しかし、ご指摘のとおりの実態もありますので、現在の姿が望ましいのかどうか、いろいろ見直すべき問題もあろうかと思います。
このような問いかけに詳しく触れられるかどうか分かりませんが、新規記事は「平和の築き方、それぞれの思い Part2」として書き進めてみるつもりです。ぜひ、これからもご注目いただければ幸いですのでよろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2019年8月17日 (土) 21時03分