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2019年5月 4日 (土)

憲法記念日に思うこと 2019

5月3日の憲法記念日、今年も全国各地で憲法をテーマにした様々な集会が催されました。これまで私自身は地元の市民団体が主催した憲法集会を中心に参加していました。時間的に都合の付きやすかったことが大きな理由でした。ブックマークし、ほぼ毎日訪問しているブログの一つである「澤藤統一郎の憲法日記」の管理人であり、弁護士の澤藤さんの講演があったため、昨年も地元の集会のほうに顔を出していました。

集会に参加した後、澤藤さんの講演内容にも少し触れながら「日本国憲法が大きな岐路に」という記事を投稿しています。ちなみにブックマークしているブログ、イコール自分自身の考え方に近いという訳ではありません。いわゆる左や右という立場を問わず、意識的に幅広い主張のサイトの記事を定期的に閲覧しています。

澤藤さんの意見には「なるほど」と思う時が多いことも確かですが、問題意識がすべて一致するものでもありません。澤藤さんの最近の記事を閲覧し、天皇制や元号に対する距離感は少し異なるようです。ことさら違いを明らかにするものではありませんが、この機会に私自身の問題意識を書き進めてみます。

言うまでもなく、祝意が強要され、皇室を崇めないことで罰せられるような社会であっては問題です。一方で、元号や皇室に対して好意的な思いを持ち、お祝いムードに沸く方々が多いことも率直に認めていかなければなりません。そのような中、天皇制や元号制度に反対することも自由ですが、反対する理由に幅広く共感を得られる説得力を持たせられなければ「反対派」のほうが奇異な目で見られることになります。

もちろん奇異な目で見られようとも、多数派の声に臆せず、正しいと信じている主張を声高に訴えていく姿勢も大事なことだろうと思っています。ただ今回の新規記事の主題につながる話ですが、その主張が正しく、本気で実現をめざさなければならないのであれば、異なる考えを持っている方々に届く言葉を探し続けなければなりません。

そのためにも奇異な目で見られていないかどうかという振り返りも欠かせないはずです。特に多様な考え方を持つ組合員で構成している労働組合の場合、組合役員が組合員から奇異な目で見られてしまっては日常活動にも支障をきたしかねません。このブログでの主張が「すでに奇異な目で見られているのではないか」という指摘もあるのかも知れませんが、私自身、心構えの問題として常に努力しているつもりです。

ここで4月6日の記事「新入職員の皆さんへ 2019」の冒頭で詳しく触れることができなかった新元号「令和」に関する個人的な思いを書き添えます。まず新元号の発表時期、もっと早くできなかったのかという思いがあります。一例に過ぎませんが、システム変更の検証のため、この連休中、私の勤務先では多くの職員が出勤しています。やはりブックマークしている「内田樹の研究室」の記事「新元号について」には下記のような見方が示されていました。

2016年に天皇陛下が退位を表明されたが、それは改元という大仕事に全国民が早めに対応できるようにという配慮も含まれていたはずである。しかし、官邸は政権のコアな支持層である日本会議などの国粋主義勢力に対する配慮から、元号発表をここまで引き延ばしてきた。「国風」へのこだわりもこの支持層へのアピールに他ならない。

日本会議などは「代替わりと同時の元号発表」という慣例にこだわり、事前公表に猛反対していたようです。さすがに行政のシステム改修等の問題から政府としても受け入れられなかった訳ですが、事前公表で押し切るのであれば、もう少し余裕を持たせられなかったのかどうか残念なことです。

ちなみに「大化」から「平成」の247元号は、典拠がわかっているものはすべて『五経』や『史記』など中国の古書(漢書)から採られてきています。女性天皇や女系天皇の問題などで伝統を重視するという発言が目立つ中、前例のない国書からの採用に固執した点には違和感がありました。また、あえて「国書から」と強調し、排外主義の発想という批判を招かないかどうか心配していました。

一方で、私自身の思いとして、伝統を重視するという姿勢は大切ですが、どのような事例に対しても社会情勢の変化に沿った見直しがあり得ることを肯定的にとらえています。その際、国の問題であれば主権者である「国民にとってどうなのか」という視点を基軸に判断していくことが重要だろうと考えています。

話が広がり気味で恐縮です。昨日の憲法記念日の話題に戻します。今年の憲法記念日は地元の集会ではなく、ここ数年、有明防災公園で開かれている「平和といのちと人権を!5.3憲法集会2019」に初めて参加しました。主催者発表で昨年を上回る6万5千人が集まりました。私どもの組合は組合ニュースを見て参加した組合員とともに組合役員を中心に参加していました。

これまで当ブログでは「憲法の話、インデックスⅡ」があるとおり私自身の日本国憲法に対する思いを数多く書き残しています。今回と同様なタイトルの記事も「憲法記念日に思うこと」「憲法記念日に思うこと 2009」「憲法記念日に思うこと 2014」があります。今回の記事でも、有明防災公園の憲法集会に参加した感想をもとに改めて私自身の憲法に対する思いを書き進めてみるつもりでした。

最初に考えていたよりも前段の話を長く書いてしまったため、要点を絞って書きつないでいきます。前述したとおり異なる考えを持っている方々に届く言葉の大切さに思いを巡らしています。憲法9条の問題で言えば「憲法を護れば平和が続く」という言葉だった場合、日本をとりまく情勢に危機意識を持つ方々との議論が難しくなりがちです。

このあたりの問題意識は「『カエルの楽園』から思うこと」「『カエルの楽園』から思うこと Part2」などを通して詳述していました。短い言葉で伝えることは非常に難しいことですが、大切にすべきなのは専守防衛を柱にした日本国憲法の平和主義であり、その効用なのだろうと考えています。効用とは相手国に脅威を与えない広義の国防というべき「安心供与」であり、日本は「平和国家」であるという国際社会の中でのブランドイメージだったはずです。

具体的な局面で言えば、北朝鮮情勢が緊迫していた時、日本こそが率先して米朝対話の道筋に力を注いで欲しかったものと思っています。安倍首相は真逆の立場で「必要なのは対話ではない、圧力を最大限強めることだ」と繰り返していました。それが今、安倍首相は「金正恩委員長と直接向き合う用意がある」とし、無条件で会談する意思まで示しているようです。

防衛審議官だった柳沢協二さんは、脅威とは「能力」と「意思」の掛け算で決まるものだと話されています。日本が考えるべきは「ミサイル発射に備える」ことではなく、「ミサイルを撃たせない」ことであり、米朝の緊張緩和に向けて働きかけることが何よりも重要であると訴えていました。

上記は冒頭でも紹介した以前の記事「日本国憲法が大きな岐路に」の中の一文です。 以上のような総論としての平和主義の効用、各論における日本政府の判断などを示しながら、現在の憲法9条に手を加える必要があるのかどうか、有明防災公園に足を運んだ6万5千人以外の方々に問いかけていければと思っています。

言葉が不足した記事になっているのかも知れませんが、前述したとおりどのような事例に対しても社会情勢の変化に沿った見直しがあり得ることを肯定的にとらえています。その上で、主権者である私たち「国民にとってどうなのか」という視点を基軸に判断し、このままで良いのか、改めていくのか、理性的な議論のもとに今後の日本国憲法の望ましい姿が定まっていくことを心から願っています。

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