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2019年3月 9日 (土)

母との別れ

3月1日午前2時59分、母が亡くなりました。いつの日か、この瞬間が訪れてしまうことを覚悟していたとしても、後から後から涙が流れ落ちてしまいます。眠っているような安らかな表情でした。私が小学6年の時、父親が急逝し、女手一つで3人の子どもを育ててくれました。

お通夜の前の日、戒名を決めるため、ご住職様から電話があり、母の「趣味は何でしたか」と問いかけられました。その際、旅行やスポーツなど趣味を楽しむ母の姿が何も思い浮かばず、言葉に詰まりました。趣味や娯楽とは縁遠く、苦労に苦労を重ねた人生だったのかも知れず、ご住職様に返す言葉が見つかりませんでした。

それでも母にとって自宅でテレビや本を見ている時、部屋の中を駆け回る1歳半のひ孫を目で追っている時、最も穏やかで楽しいひと時だったようです。晩年は車椅子の上から見入っている母の姿が心に刻まれています。脳梗塞を発症した後、在宅での介護生活が13年に及んでいました。その間、何回か入院しなければならない時、いつも「いつ家に帰れるのかな」と尋ねる母の言葉が忘れられません。

新しい年を迎えたばかりの1月4日、デイサービスから戻った後、母が胸の苦しさを訴えました。近くの病院に連れて行ったところ重篤な心不全という診断で、そのまま入院することになりました。急性期の病院だったため、2月に入り、療養型の病院に移っていました。2月11日には90歳の誕生日を迎え、ベッドから見れる卓上テレビを兄妹で贈りました。

転院を境に食欲が少しずつ戻り、顔色も良くなり、言葉も交わせやすくなっていました。検査数値は相変わらず深刻なものでしたが、外面上の容態は好転しているように映っていました。主治医の先生から「この状態であれば在宅での介護も選択肢として検討できます」というお話をいただいたほどでした。

主治医の先生のお話を伺った後、在宅で受け入れられるかどうか、これまで介護を一緒に担ってきた2人の妹やケアマネージャーの方とも相談を重ねていました。耳の遠い母には時々、伝えたいことを小さなホワイトボードに書いて伝えていました。母の病室で「早ければ3月中に家に帰れるから頑張って」とホワイトボードに書いたのが亡くなる5日前、日曜の午後のことでした。

その翌日、残念ながら食欲が落ちるなど容態は悪化し、在宅という選択肢は消えていました。わざわざ主治医の先生から退院という話は見送らざるを得なくなったことの連絡があり、「申し訳ありません」という一言も添えていただきました。ただ退院は遠のきましたが、病院に顔を出せば、いつでも会えることを信じていました。

月曜の夜、仕事を終えてから会いに行きました。昨日に比べると本当に苦しそうでした。我慢強く、遠慮がちな母はナースコールのボタンを押すことも控え気味だったようです。そのような母が私に「看護師さんを呼んで」と訴えるほどでしたので、この時の苦しさは相当なものだったはずです。すぐ当直医の先生にも診ていただきましたが、幸いにも深刻な容態ではなく、その時は安堵していました。

火曜の夜、昨夜に比べれば落ち着いた様子でした。時々、苦しそうな表情を見せていましたが、会話も交わせる状態でした。そのため、卓上テレビのクイズ番組を2人で見て過ごしました。その時のテレビを見つめる母の目は自宅でくつろいでいる時と同じ穏やかさが感じ取れました。「また明日、来るからね」と手を握って病室を後にしていました。

水曜の夜、点滴は外れていました。看護師さんが差し出すスプーンを口にし、食事も少しだけ取れるほどまで回復していました。1月4日に母が入院した直後、仕事以外のスケジュールはすべてキャンセルしていました。母の容態を見計らいながら徐々に必要な予定を入れるようになっていました。明日木曜の夜は予定が入っていたため、「あさって、金曜に来るからね」と別れました。

その時の別れが最後の別れになるとは、まったく想像していませんでした。今から思えば面会時間ぎりぎりまで残らなかったこと、木曜の夜に予定を入れてしまったことを悔やんでいます。木曜から金曜に変わった深夜2時過ぎ、自宅の電話が鳴り響きました。あわてて起き上がり、受話器を手にすると、やはり病院からでした。

急いで病院に駆け付けた時は、もう息を引き取った後でした。当直の看護師さんのお話では直前まで意思疎通をはかれていたそうです。何か処置を施す時間もないまま突然容態が急変したとのことです。苦しむ時間が少なく、穏やかな表情での旅立ちだったことは、母にとって救いだったのかも知れません。

近親者だけの葬儀、いわゆる家族葬としました。私自身、組合役員を長く続けているため、名前は知られているほうであり、お忙しい多くの方々にご足労いただくことが心苦しかったからです。ただ母にとって、どうだったのか、一人でも多くの方に見送ってもらいたかったかも知れません。また、母と近しい方々に見送っていただく機会を閉ざしてしまったかも知れず、家族葬と決めてからも自問自答していました。

それでも母は面会に行った私たちに対し、いつも「もういいから早く帰って」という気遣いを見せていました。このような気遣いを思う時、お忙しい方々に負担をかけない家族葬に対し、きっと賛成してくれたものと考え直しています。近親者だけの葬儀でしたが、挨拶した際、この話を参列者の皆さんに伝えた時は思わず涙が流れ、言葉も詰まりがちでした。

「3月中に家に帰れるから」という励ましが、はからずも無言の帰宅になってしまったことは残念でなりません。一方で脳梗塞の後、それまで見ることのできなかった母の一面を見ながら10年以上も一緒に暮らせたことは感謝しなければなりません。オムツを交換している時など「長生きしてるから迷惑かけて悪いね」とよく言われてしまいましたが、「そんなこと言わないで」と必ず打ち消していました。

ただ「もっと長生きしてね、100歳まで元気でいようね」という言葉までは少し気恥ずかしくて言い足せていませんでした。今から思えば、このような言葉も、もっと重ねていれば良かったなと振り返りがちです。ちなみに火葬した後、のど仏は残らないことのほうが多いそうです。骨が丈夫ではなかった母でしたが、のど仏がしっかり残っていたことに驚きながら皆で手を合わせました。

葬儀の後、自宅で喪に服していると、どうしても悲しみから離れられなくなります。忌引きの期間を2日残し、気を紛らわすためにも水曜から出勤しています。仕事に出れば組合活動にも関わり、一気に日常の時間が流れ出します。先週末、とてもブログを更新する気にはなれませんでしたが、今週末からは気持ちを切り替えて平常の姿に戻ることも考えました。

結局、平常の姿に戻る前、このブログの色合いからは程遠い「母との別れ」という記事を投稿させていただきました。次回からは普段通りの記事を投稿していくつもりです。今回、このような私的な内容の記事を最後までお読みくださった皆さんには心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

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コメント

お母様の件、お悔やみ申し上げます。
突然の事でお力をお落としの事と思います。
年度末で業務多忙の折に大変だと思いますが、どうかご自愛ください。

投稿: Alberich | 2019年3月10日 (日) 22時48分

衷心より哀悼の意を表します。
悲しみが消えることはないですが、
お気持ちをしっかりお持ちになって
ご自愛ください。

投稿: nagi | 2019年3月11日 (月) 09時54分

Alberichさん、nagiさん、コメントありがとうございました。

ご丁寧なお悔やみの言葉、たいへんありがとうございます。金曜夕方からの労使交渉の決着は深夜に及ぶなど忙しさが悲しみを忘れさせてくれる日常に戻りつつあります。

なお、今週末の記事は800回という節目を迎えるため、そのことにちなんだ内容を投稿する予定です。nagiさんからのお尋ねに対する記事内容は、もう少し先になることをご理解ご容赦ください。

投稿: OTSU | 2019年3月16日 (土) 07時12分

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