徴用工判決の問題 Part2
このブログは毎週1回、土曜もしくは日曜に更新しています。以前はお寄せいただいたコメントに即応するように努めていたため、ほぼ毎日、ブログに関わる時間を見つけていました。現在は実生活に過度な負担を欠けずに続けていくためにも、たいへん恐縮ながらコメント欄への対応も含めて土曜もしくは日曜に限るようにしています。
さらに言葉や説明が不足しないように難しい問いかけに対しては記事本文を通してお答えするように努めています。そのため、記事タイトルに「Part2」を付け、前回の内容を補足する新規記事の投稿が増えています。今回、外国人労働者の受け入れ拡大の問題を記事タイトルに考えていましたが、前回記事に寄せられたコメントに対応する内容が膨らみそうだったため、早めに「徴用工判決の問題 Part2」に改めていました。
さて、前回記事の初めのほうで、次のように前置きさせていただきました。あくまでも個人的な考え方の整理であり、閲覧されている皆さん一人ひとりが様々な「答え」をお持ちであろうかと思います。したがって、一つの「答え」を押し付ける意図は毛頭なく、多様な情報に触れる機会だとお考えいただれば幸いなことだと記していました。この言葉は前回以上に今回の内容には当てはまるのかも知れません。
先週末、ご教授ください! さんからのコメントを受け、前回記事では触れられなかった点について補足していました。その時にお答えした内容に少し手を加えながら紹介していきますが、まず「私自身、専門家ではありませんので、いろいろな資料を読み、私なりに理解している点についてお伝えします」と一言添えさせていただきました。韓国大法院の裁判官の間でも解釈が分かれる難しい問題でもあり、論点は前回記事で触れた次の箇所だと考えています。
韓国大法院が今回の判決を下す際、反対した2人の裁判官は「請求権・経済協力協定の対象には個人請求権も含まれ、原告が個人請求権を行使することは制限される」とし、「国際法に照らすと、国民の財産などに関する問題を国家間の条約で一括して解決するのは一般的に認められている。協定が憲法や国際法に違反していないのならば、内容を好む、好まないに関わらず、守らなければならない」と指摘していました。
このような問題において守るべき国際法ですが、1969年に国連国際法委員会が条約に関する慣習国際法を法典化した「条約法に関するウィーン条約」を採択しています。その第26条に「効力を有するすべての条約は、当事国を拘束し、当事国は、これらの条約を誠実に履行しなければならない」と書かれています。この点において、日韓請求権協定を守らない韓国に対しては「国際法に照らし、あり得ない判断だ」という批判につながります。しかしながら次のような論点もあるため、徴用工の問題は複雑化しています。
かつて国家総動員法による徴用は日本国民全体に強要されたものです。植民地だった当時、訴えている原告も日本人として、当時の法律に基づき徴用(詳細は後述)されたものであると見られています。しかし、その植民地支配(日韓併合条約)が不当だと解釈されれば、この関係性も不当だということになります。2016年に三菱マテリアル(旧三菱鉱業)は元中国人労働者に対して個人賠償することを決めています。その違いは韓国は植民地だったが、中国は占領地だったという違いからだそうです。
前回記事の中で「しかしながら徴用され、過酷な環境を強いられた原告のような労働者がいたことも事実として押さえなければなりません」という記述がありました。この記述は私自身の思いをそのまま表わした言葉です。この言葉の直前にはテキサス親父さんの元徴用工の「強制的に奴隷のように働かされた」という主張に対し、朝鮮半島出身者の中には本土出身者より稼ぐ者もいた、という解説を紹介していました。
この解説に対し、私から「自発的な出稼ぎでそのような待遇の労働者がいたことも事実だろうと思います」と記した上、前述した言葉につなげていました。両面から少数の事例をもって全体像を決め付けられないという問題意識を提起したつもりでした。ただ先日、このブログをご覧になった組合員から次のような指摘を受けました。
「過酷な環境を強いられた原告」=「強制的に奴隷のように働かされた」と読み取れるため、その点に疑問を持つ人たちも多い中、「事実として押さえなければなりません」は決め付けた言葉ではないかという指摘でした。「なるほど」と思いながらも「奴隷のように」はテキサス親父さんの解説からの引用だったため、指摘を受けた時、最初は戸惑いました。
元徴用工は賃金が支払われず、感電死する危険がある中で溶鉱炉にコークスを投入するなど過酷で危険な労働を強いられていたという事実認定は大きな争点になっていないものと理解していました。それでも過酷な環境を強いられたかどうか疑問視される人たちもいる中、直前の言葉「自発的な出稼ぎでそのような待遇の労働者がいたことも事実だろうと思います」とのバランスを取って断定調に記さないほうが良かったものと省みています。
加えて、KEI さんから「朝鮮半島で徴用が始まったのは1944年になってからのことなので、原告は「徴用」された労働者ではないことが明らかになっています。しれっと嘘を書かないように」という指摘を受けました。このあたりも前回記事の中で触れるべき点だったようです。原告が日本に来たのは1943年でした。国民徴用令は日本内地において1939年7月から施行されていました。当初、朝鮮での適用は控え、1944年9月から実施されるようになっていました。
そのため、KEI さんから徴用工と呼ぶのは嘘だと指摘を受けてしまったようです。戦時体制下における労働力確保のため、1942年には「朝鮮人内地移入斡旋要綱」による官斡旋方式も始まっていましたが、いずれにしても原告は国民徴用令のもとで日本に来た労働者ではなく、法的な言葉としての「徴用工ではない」という指摘はその通りだと思っています。私自身、前回記事を書き進める際、次のような報道も目にしていました。
河野太郎外相は9日の記者会見で、韓国最高裁が確定判決で新日鉄住金に賠償を命じた元徴用工訴訟の原告について、「募集に応じた方で、徴用された方ではない」と述べた。政府は判決後、原告らを「旧朝鮮半島出身労働者」と表現しており、その理由を説明した形だ。政府は、戦時中の朝鮮半島での動員には、募集▽官によるあっせん▽徴用--の3段階があったと説明。従来は一括して「旧民間人徴用工」などと表現していたが、判決後は区別している。自民党からは「原告らは『募集工』と呼ぶべきだ」との声が上がっていた。【毎日新聞2018年11月9日】
言葉の使い方は重要です。上記の事実関係を把握していたため、最初、せめて「徴用工」と括弧を付けて記すことも考えていました。このブログでの言葉や用語の使い方に迷った時、参考にするのは自宅に届く読売新聞です。読売新聞では括弧も付けずに徴用工と記していましたので、このブログでも同じ対応をはかっていました。ちなみに前回記事の最後のほうで紹介した前大阪市長の橋下徹さんの論評「徴用工問題、日本が負けるリスク」の中には次のような記述があります。
労働者側は日本企業で強制的に働かされたと言い、日本政府や自民党は強制ではないと主張する。日本のメディアの多くでは「徴用工」という言葉を使っているが、これは強制的に働かされたことを意味するので、安倍晋三首相や日本政府そして自民党は「徴用工」という言葉を使わずに、「朝鮮半島労働者」と名付ける。強制ではないと強調したいのであろう。しかし、労働者のことをどう呼ぶかはあまり問題ではない。
この後、橋下さんは「強制労働の問題でも、徴用=強制があったかどうかということよりも、問題となっている企業の当時の労働環境がどうであったのか、それは世界各国でのそれと比べてどうだったのか、日本だけが特殊だったのか、という比較検証が必要である」という提起につなげています。このような提起も参考にした上、徴用工という言葉を当ブログでも採用していました。
以上のような論点がありますが、外交保護権は消滅したが、個人の損害賠償請求権は消滅していないという解釈の適否も大きな論点となっています。様々な切り口からの論点が存在しているため、たいへん難しい問題に至っているものと理解しています。それに対し、日韓併合条約の正当性をはじめ、徴用工の問題は日韓請求権協定によって解決済み、このように考えている人たちからすれば今回の韓国大法院の判決は決して容認できないものとなっています。
このように淡々と説明を加えているため、nagiさんからは私自身が「判決に賛意を示しているのか、反対なのかよく読み取れませんでした」と問いかけられています。いつものことで恐縮ですが、二者択一で問われれば、どちらでもないという答えになります。前回記事に託した内容全体が私自身の「答え」です。2012年に韓国大法院が「個人請求権は消滅していない」と審理を差し戻し、2013年にソウル高裁が賠償支払いを命じた時点から、ある程度予想できた判決だったと思っています。
韓国政府が司法と事前に調整しなかったことについて、三権分立の原則からやむを得ないものと見ています。示された判決内容を尊重していくことも三権分立の原則から重視すべき点なのかも知れませんが、判決後、韓国政府は日韓関係を未来志向的に発展させていくことに触れながら対応策をまとめていく方針を示しています。そのため、日韓請求権協定に基づく国と国の約束を守れず、このまま韓国政府が問題を放置するような時こそ、強く憤るべき局面だろうと考えています。
前回記事の中で「国家間の約束は重く、これまで徴用工だった方々に充分な保障がされていなかった場合、韓国政府の責任として対応すべきものと考えています。ちなみに判決に反対した2人の裁判官は「個人請求権を行使できないことで被害を被った国民に対し、国家は正当な補償をしなければならない。日本企業の代わりに韓国政府が補償するべきだ」という意見も添えていたようです」と記していました。
したがって、賠償を命じられた企業も、日本政府も新たな負担をすべきとは考えていません。自分の腹が痛む、痛まないに関わらず、個々人が正しいと思う言葉を発せられる、このような社会であることが重要です。考え方は異なっていても、多様な「答え」があることを認め合っていける関係性も欠かせません。異なる「答え」に批判が集中し、声を出すこと自体、委縮するような雰囲気につながる事態は避けなければなりません。
今回の判決を示す際、前述したとおり韓国大法院の裁判官の中でも意見は分かれていました。韓国内の声も一色ではありません。日本国内も同様です。今後、どのような対応策が望ましいのか、いろいろ難しい問題があるのかも知れません。しかし、双方が感情的な反発や敵愾心を燃やす声だけの一色となり、強硬な姿勢を示す選択しかなかった場合、たいへん残念な事態だろうと思います。
四国人さんからのコメントには様々な論点が含まれていました。ここまで記したことでお答えしている点がある一方、充分補え切れていない点があることもご容赦ください。その中で明確にお答えすべき点として、私どもの組合の執行委員から韓国を強く非難したいという相談を受けた場合の問いかけです。このブログで徴用工判決の問題を取り上げていますが、そもそも執行委員会等で議論している訳ではありません。
あくまでも私自身の個人的な見解を示しています。したがって、韓国を非難したいという執行委員に対して自制を求めることは考えられません。その際、私自身の考えを伝えるかも知れませんが、最終的な判断は執行委員自身に委ねる関係性となります。組織として議論を尽くし、一定の方向性が決まっている事案についても状況に応じ、その方向性と相反する個人的な意見が示された場合も同様だろうと考えています。
膨らむどころか、前回記事以上の長さとなっています。寄せられたコメントすべて網羅できていませんが、前回の内容を補いながら改めて私自身の考えを書き進めてきました。慰安婦財団解散の問題にも触れるつもりでしたが、このあたりで今回の記事は区切りを付けさせていただきます。
最後に、レバノン日本国特命全権大使だった天木直人さんのブログ記事を紹介します。すべて私自身の見方と一致している訳ではなく、言葉使いも気になるため、紹介すること自体に批判を受けるのかも知れませんが、多様な「答え」に触れ合う機会としてご理解くださるようお願いします。
韓国政府は昨日21日、慰安婦財団の解散を正式に発表した。これに関し、日本は、安倍政権はもとより、与野党もメディアも世論も、狂ったように猛反発している。国際合意を一方的に破るような国は国ではないと。これでは日韓関係はなりたたないと。それを言うならトランプの米国に言うべきだ。しかし、私が書きたいのはその事ではない。米国と違って韓国は合意を破っていない。その事を言いたいのだ。
報道を冷静に読むと、韓国政府ははっきりと述べている。韓国政府は日韓合意を破棄するつもりはないと。日韓合意を順守することに変わりはないと。その一方で、すべての報道は教えてくれている。元慰安婦のうち約7割は財団が支給した現金を受け取ったが、一部の慰安婦や市民団体が合意を批判して受け取らないままだと。これを要するに、慰安婦財団の役割が終わったということだ。
受け取らないと決断した元慰安婦がいまさら受け取ることはない。日韓合意に反対する市民団体が反対を止める事はない。個人の拒否する意思や反対行動を、政府の合意で一方的に捻じ曲げたり、阻止する事は出来ない。それが民主主義だ。役目の終わった慰安婦基金の残りの財源を無駄にしないためにも、韓国政府の言う通り、他の目的に有効に使われるように日韓両政府は協議を始めるべきなのだ。
ここまで書いていくと、賢明な読者ならもうお分かりだろう。韓国政府は日韓合意を一方的に破棄したわけではない。あの日韓合意はもはやその役割を終えただけなのだ。日本が一方的に約束違反だと怒り狂っているだけだ。ついでに言えば、あの徴用工問題もそうだ。個人の補償請求権は、日韓合意で消滅したわけではない。このことは日本政府も認めている。韓国最高裁の判決は、日韓両政府にあの時の不十分な日韓合意について善後策を考えろと命じただけだ。
そして文在寅大統領は安倍首相と違って司法の中立性を尊重し、最高裁の判断を尊重し、日韓両政府で善後策を考えようと安倍首相に提案しているのだ。慰安婦問題といい、徴用工問題と言い、今度の騒動から見えたもの。それは日本と言う国が、政治家もメディアも世論も、歴史を直視する勇気を持たず、隣国に対する反感、差別意識から抜けきれないという事である。残念でならない(了)
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