多様な考え方を踏まえた場として
このブログのコメント欄が掲示板のように使われることを歓迎しています。管理人によっては記事本文の題材から離れた内容のコメント投稿を嫌う方もいます。私自身は幅広い視点からの多様な意見を伺える機会はたいへん貴重なことだと思っています。最近の記事「障害者雇用の問題」や「横田基地にオスプレイが正式配備」のコメント欄でも多様な意見に触れられる機会を得ています。
そのようなコメントを受け、「すべての論点について網羅できませんが、今週末に投稿する記事は多様な考え方や情報があることを踏まえた内容を綴ってみるつもりです」とお答えしていました。さらに「nagiさんから寄せられた神戸市職労の問題や私に対する質問はその新規記事の中で触れていく予定です」と書き添えていました。
9年も前の記事(農水省の「ヤミ専従」疑惑)の中で、nagiさんから指摘を受けた同様の問題について取り上げていました。その記事の中では下記のような記述を残した上、過去の遺物となるべき「ヤミ専従」の問題が「今、批判の対象となる事態は非常に残念な話です」「これまでの組合側の認識の甘さなども厳しく総括し、改めるべき点は直ちに改めていくことが急務だろうと思っています」という言葉で記事を結んでいました。
「ヤミ専従」のような存在が昔は許されていたと述べるものではありません。違法なものは今も昔も違法であり、駄目なものは駄目であったことに変わりありません。しかしながら幅に対する解釈問題として、労使関係の中で「ヤミ専従」的な存在も暗黙の了解としてきた場合があったのかも知れません。言うまでもなく公務員に対する厳しい視線が強まる中、「ヤミ専従」は絶対許されるものではないはずです。仮にかつて存在していたとしても、過去の遺物となっているものと思っていました。
農水省の「ヤミ専従」が取り沙汰されてから9年も経っていながら同じ問題で批判を受けている神戸市職労の感度の鈍さは非常に残念な話であり、改めるべき点は即刻改める必要があるものと考えています。もう一つnagiさんから全水道沖縄の問題も指摘を受けていました。沖縄県知事選の期間中、県庁舎内にある全水道沖縄の組合掲示板に候補者のポスターが貼り出され、選挙管理委員会の指摘を受けて外したという問題です。
組合員を対象にした組織内での周知だったのかも知れませんが、一般の県民の皆さんも目にできる掲示板への貼り出しは明らかに軽率な行為でした。公職選挙法を熟知していなかったのであれば問題であり、知っていながら「組合の掲示板であれば許される」という考えだった場合は認識の甘さを強く反省しなければなりません。SNS上などで発する言葉は慎重に選ぶべきものと考えていますが、これまでも「ダメなものはダメ」と率直に訴えてきているつもりです。
それに対し、〇か、×か、明確にしない答えが多いという突っ込みも入るのかも知れません。しかし、そのような時は私自身にとって、〇か、×か、正直な思いとして明確にできない問いかけだったと言えます。個々人の評価基準から明らかにダメだと判断されている事例に対し、私がダメ出ししない時、そのこと自体を批判される場合がありました。いろいろな「答え」を認め合った場としたいという思いは、そのような関係性に対する問題意識から生じています。
それまで培ってきた経験や吸収してきた知識をもとに個々人の基本的な考え方や視点が築かれていきます。その基本的な考え方や視点をもとに直面する様々な事象に対し、評価や是非を判断していくことになります。そのようにして導き出した「答え」は絶対正しいものと確信し、それ以外の「答え」は認められないような感覚に陥ることもあるようです。
いわゆる右や左の立場に限らず、このような感覚に至っているようなやり取りがSNS上の掲示板などで散見しています。異質な「答え」を持つ他者を見下し、罵詈雑言気味な応酬になっているケースも少なくありません。おかげ様で当ブログのコメント欄では、そのような関係性が際立つことは稀であり、いつもたいへん感謝しています。そもそも異質な他者の「答え」自体を批判しても、相手の人格まで否定するような発言は慎まなければならないはずです。もちろん誹謗中傷の類いとなる言葉は厳禁です。
ただ言論の自由との絡みから、その許容範囲の線引きが難しいと思われる時もあります。過去、このブログでは「誹謗中傷と批判意見の違い」という記事を投稿していました。その頃、事実誤認の批判は誹謗中傷となるため、私から断定調の批判に対する「お願い」を繰り返していました。仮に間違った事実認識だったとしても、「私はそのように考えている」と表明された場合、他者が考えている中味そのものを頭から否定できません。言葉の使い方の一例としては、逮捕された際に容疑者という言葉を使う必要があり、決め付けて犯罪者と呼ばないことなどを上げていました。
言葉の使い方が留意されていたとしても、思い込みや推論から批判されてしまうことは批判される側にとって不愉快に感じます。それでも多様な考え方や価値観を認め合いながら言論の自由を保障していくことの大切さも思い返しています。不愉快だったとしても「なぜ、そのように思われてしまっているのか」と受けとめ、改めるべき点があれば改め、誤解があれば釈明する機会を得られたという前向きな発想を持つことも大切だろうと考えています。
このような思いを巡らす中、「新潮45」の休刊問題が頭の中に浮かんでいました。何が問題だったのか、関係者はどうすべきだったのか、ネット上を検索したところ『「新潮45」休刊決定でもモヤモヤ感が残る理由 これは将来に禍根を残す幕引きだ』というサイトを見つけ、その記事内容に共感していました。加えて、この問題での関連した論評である「内田樹の研究室」の『ある編集者への手紙』の中に書かれていた次の言葉が印象深く、私自身は「なるほど」と思っています。
LGBTの問題では「自分とは性的指向が違う、自分とは性的アイデンティティーが違う他者」に対して、どれくらい「敬意=適切な距離感」をもつことができるかということが試されたのだと思います。よくわからないことについては語らないというのも一つの敬意の表現だと僕は思っています。「わからない」「よく知らないこと」について平然と断定的に語る人たちは、自分が言うことにつねに同意してくれる「自分と同じような読者」を前提にして語っているのだと思います。「身内の語法」で語ること、それを「敬意の欠如」というふうに僕はとらえるのです。
上記のような問題意識を踏まえ、私自身、SNSを通して発する言葉一つ一つに注意を払っています。さらに基本的な考え方や視点が私自身とは異なる方々にも届くような言葉や表現の仕方について常に意識しています。特に安倍首相に関わる記述の際、「批判ありき」とならないような記事内容の投稿に努めています。自治労組合員も含め、安倍首相を支持されている方々が少なくないことを前提に「敬意=適切な距離感」を持ち続けています。
以前の記事「改めて言葉の重さ」の中で、人によってドレスの色が変わるという話を紹介していました。見る人によって、ドレスの色が白と金に見えたり、黒と青に見えてしまうという話でしたが、安倍首相に対する評価も人によって本当に大きく変わりがちです。例えば「地球儀を俯瞰する」安倍外交を絶賛する方々がいる一方、「演出ばかりで中身ない」と批判する声も強まっています。いずれにしても安倍首相の具体的な言動や政策判断を批判しても、安倍首相自身を中傷するような言葉は控えるように私自身は心がけています。
最近の事例として、TAG(日米物品貿易協定)の交渉結果について評価が分かれています。安倍首相はウインウインの関係を成果として誇っていますが、米国第一主義のトランプ大統領に屈したという批判意見があります。前衆院議員の緒方林太郎さんは「よくこの程度で収めたな」と評価され、BLOGOSのコメント欄では「わりとフェアな論評」という声が寄せられていました。
私自身、紹介した内田さんの「よくわからないことについては語らないというのも一つの敬意」という言葉のとおり現時点での先走った評価は控えます。今後、個別品目(自動車、畜産品)の取扱いなどがどのように決まっていくのか、その結果しだいで安倍外交の真価が問われていくものと考えています。案の定、最近のコメントすべての論点について網羅できませんが、最後にnagiさんから寄せられた次の問いかけにお答えします。
>横田基地に核ミサイルが撃ち込まれていた場合、私自身も含め、どれほどの人が犠牲になっていたのか、それこそ現実的な脅威でした。
>安倍首相は「必要なのは対話ではない、圧力を最大限強めることだ」と繰り返し、北朝鮮との距離を取ってきました。
この二つの文言から考えて、もし日本が現在、核攻撃を受けたら、それは北朝鮮に圧力をかけ続けた日本政府に責任の一端があるとの考えと思うのですが、では一体何パーセント日本に責任分担があったとお考えですか? 90%以上 75%程度 50%程度 25%程度 0%以下 どれかに該当するでしょうか。交通事故の過失割合のように数値で示されると、その割合いに応じて対応策やどうするべきかを考えやすいと思うしだいです。お考えを聞かせていただければと思います。
たいへん恐縮ながら、このような問いかけも選択式で答えられるものではありません。決してはぐらかすような意図がある訳ではありませんが、当然、専守防衛に徹している日本に対して核攻撃を加えた北朝鮮の責任の度合いが100%です。交通事故とは異なり、例えば殺人事件で被害者に過失割合が適用されるような話はありません。その上で攻撃が加えられ、多大な犠牲者を生じさせてしまった場合、国民を守れなかったという日本政府の政治的な責任の重さもはかり知れません。
この日本政府の責任の度合いも数値化できるものではありません。ミサイルを撃たせないためにはどうすべきなのか、私自身は圧力一辺倒ではなく、日本政府には韓国の文大統領と同じような役回りに力を尽くして欲しかった、このような願いを託し続けていました。過去、歴史の分岐点が多々ありました。アメリカとの無謀な戦争を回避できる分岐点もあったように理解しています。このような分岐点として「必要なのは対話ではない」と繰り返した安倍首相の判断が正しかったのかどうか、この点について私たちは問われていたものと考えています。
| 固定リンク
| コメント (6)
| トラックバック (0)
最近のコメント