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2018年8月25日 (土)

ネット議論の悩ましさ

8月10日、人事院は今年度の国家公務員の月例給を平均で0.16%(655円)引き上げ、一時金を0.05月分引き上げて年間4.45月分とする勧告を国会と内閣に対して行ないました。月例給と一時金、ともに5年連続での引き上げ勧告となりました。前回記事「平和の話、サマリー Part2」の中では外交面で安倍首相を評価できる点について記していました。

人事院勧告は民間の給与水準を反映したものであり、少しずつでも5年連続で引き上げられている結果は評価すべき点です。加えて、これまで安倍政権は人事院勧告の骨格となる内容はそのまま実施してきています。公務員の労働基本権制約の代償措置としての人事院勧告ですので、当たり前と言えばそれまでですが、公務員給与の引き下げが政治的な思惑の中で取沙汰されるケースの多さを考えると素直に評価しなければなりません。

東日本大震災の復興財源に充てるため、国家公務員の給与が2012年度と2013年度に限り平均7.8%カットされました。安倍政権になった後、それまで独自な給与見直しを進めていた地方公務員全体にも同様な給与削減を要請したことは問題だったと考えています。それでも民主党政権時代の幹部の一人は「これだけひどい財政状況を考えれば、2年間でまた元に戻すことができるはずがない」と発言していました。

そのような見方もあった中、安倍政権はあくまでも特例の臨時的措置として削減は2年間にとどめました。デフレ脱却をめざす安倍政権の経済政策に照らし、一貫性のある判断であり、率直に評価できる点だと言えます。アベノミクスそのものの評価は難しく、「劇薬」を投与中という認識です。日本の経済や財政を致死させるリスクを危惧する一方、劇的に回復させた試みだったと評価される日が来ることも願っています。

さて、人事院勧告は毎年8月初旬に示されます。「人事院勧告の話、インデックス」という記事もありますが、やはり8月は平和や戦争について考える題材の投稿が多くなっています。今年は3週続けて「平和の話」をタイトルの頭に付けた記事を投稿していました。2012年の春頃から寄せられたコメントに対し、しっかりお答えすべき内容は記事本文を通して対応しています。

そのため、難しい論点を含む題材だった場合、「Part2」として続け、前回記事の内容を補っていくことが多くなっています。「平和の話、サマリー Part2」もそのような流れの中で投稿していましたが、私自身の悩ましさが深まる経過をたどっています。かなり前に「ネット議論への雑感」という記事を投稿し、3か月前には「再び、ネット議論への雑感」という記事を綴っていました。

それらの記事では主に「難しさ」を書き残していましたが、今回は「ネット議論の悩ましさ」というタイトルを付けました。SNSを利用した意見交換の「難しさ」から、今、直面している「悩ましさ」の理由を探ってみます。まず私自身が「悩ましさ」を深めた言葉を紹介させていただきます。そのような言葉が示された発端となっている具体的な事例に関しても、充分な理解を得られていないようですので補足できればと考えています。

いわゆる、極左的な活動をしている方々が主張していることと、管理人さんが書いていることがいつも重なって見えてしまう。そして、自治労の活動自体も、多くが重なってしまっている。 「あっ、結局は自治労も管理人さんも、左派的思想のもとに活動をしている団体や人なんだな」 それが、ここに色々と書き込みをする人達の、受け取った認識であります。

このブログを開設した頃から閲覧いただき、コメント欄での常連である下っ端さんからの言葉でしたので余計ショックでした。「極左的な活動をしている方々が主張していることと、管理人さんが書いていることがいつも重なって見えてしまう」という言葉に何とも言えない無力感や徒労感を覚えていました。

私自身、自治労の基本的な方向性を支持し、いわゆる右か左かで言えば、左に位置するように見られていることを否定しません。しかし、そこまで極端なカテゴリーの中で、同じように見られていることに非常に驚き、物凄く残念な気持ちを強めています。普段から「誰が」という色眼鏡は外し、「何を」訴えているのかという中味を評価しなければならないものと考えています。

このブログで発信している内容に関しても、そのように見て欲しいものと願っていました。その上で、基本的な視点や考え方が異なる方々にも届くような言葉を探し続けています。このような自分自身のこだわりを考えた時、「公務員のためいき」と長くお付き合いいただいている下っ端さんから極端な見られ方が吐露され、本当に力が抜けてしまいました。例えれば次のような場面が思い浮かんでいました。

新しく開発した自社の車の性能や装備などを詳しく説明し、その車の素晴らしさを懸命にアピールした後、「やっぱりM社の車は買う気がないから」と言われた営業マンの気持ちと重ね合わせています。どれほど画期的な車が開発でき、その点を的確に伝えたとしても「M社の車だから」というカテゴリーのみで判断され、切り捨てられてしまっては非常に無念な話だと言えます。

念のため、私が主張している内容は素晴らしく、画期的であるという例えではありません。下っ端さんから「左」という大きなカテゴリーの中に一括りにされ、十把一絡げに評価されているような印象を受けたため、上記のような話に例えてみました。とは言え、このような理解は間違いであり、過剰反応だったのかも知れません。その後、下っ端さんからは次のようなコメントが寄せられていました。

スタートの視点が違うんです。管理人さんは、フラットな目線での意見を述べていることに、異論はありません。しかし、その一方で、所属する組織のトップでもあり、そのことをある程度公表している以上、個人的な見解とは見てくれないんですよ。いくら個人的な見解であっても。その点をもう少し考慮してお書きになれば、いわゆる「心外」な指摘は減少すると思われます。私の突っ込みも、半分はそういう要素を加味していることをお気づきください。

私が無力感や徒労感を覚えたことは過剰な反応であり、下っ端さんの指摘の真意を正しく理解できていない、そのようなメッセージであることは伝わってきています。しかし、逆に私自身が、なぜ、これほどショックを受けたのか、理解いただけていないことも感じ取っていました。今回の記事本文に取り上げた例え話も含め、何に対して悩ましさを深めたのか、分かっていただくことは容易でないのかも知れません。

愚痴っぽい話が続き、たいへん申し訳ありません。ただネット議論の悩ましさを強調するだけで、後ろ向きな話のまま終わらせるつもりはありません。下っ端さんをはじめ、せめてコメント欄常連の皆さんとは「スタートの視点」を近付けたいと願っているため、今回の記事を書き進めています。言うまでもありませんが、それぞれが正しいと信じている基本的な「答え」が違うことを前提にした上での「スタートの視点」のすり合わせです。

「批判を受けている」と感じるか(イコール、左派と認める)、「そうじゃないんだ。まだまだ誤解が存在するからもっと議論をしていきたい」と思うか(リベラル?) どちらを感じるのかは、管理人さん次第と思ってます。

上記の言葉も下っ端さんからの問いかけです。もちろん、もっともっと議論をしていきたいと思っています。それがリベラルという立場なのかどうか分かりませんが、もう少し私自身の問題意識を理解いただき、かみ合ったネット上での議論につなげられればと願っています。なお、上記のような問いかけからもお互いの「スタートの視点」に大きな隔たりが存在していることを感じ取っています。

私自身が「左派」と見られ、私自身の正しいと信じている「答え」の中味が下っ端さんらから批判されても仕方ありません。そのことでショックを受けることはありません。大きなショックを受けた理由は「極左」の主張と同一視されてしまっている点です。どこまでが「極左」かどうかも分かりませんが、いわゆる「左」と見られている方々の主張や論調も個々人によって差があり、簡単に一括りできるものではありません。

外国人からすれば「日本人の顔は皆同じ」と見られるような話を耳にしたことがありますが、下っ端さんからすれば「左」に位置付く主張は「皆同じ」に見られてしまっているのかと思い、たいへんショックを受けてしまった訳です。このような話も「どうでもいいじゃないか」という叱責があるのかも知れません。確かに「極左」「左派」「リベラル」「右派」「極右」、どうでも良いのです。それぞれの立場の方々がそれぞれの言葉で主張している内容を色眼鏡を外して評価してもらえれば、カテゴリーはどうでも良いのだろうと考えています。

実は前回記事のコメント欄でのやり取りを見た組合員から「なるほど」と思う指摘を受けていました。「憲法9条は変えるべきではない」などという結論が、結局は皆同じだから「極左的な活動をしている方々と主張が同じ」という見られ方をされてしまうのではないのですか、という指摘でした。個々の結論の中味が必ずしもすべて一致している訳ではありませんが、基本的な方向性で言えば「皆同じ」と見られてしまうのかも知れないと気付かされました。

自分たちの「答え」が絶対正しく、「〇〇に反対しよう!」「□□には反対すべきだ!」という結論を押し付けるような主張は避けるべきものと考えています。そのため、「なぜ、反対しているのか」「なぜ、その行動に取り組むのか」という説明を加えながらの訴え方を重視しています。しかし、そのようなこだわりも「結論が間違っている」と考えている方々にとって、同じカテゴリーの一員に分類されてしまうのかという思いに至りました。

さらに私自身の説明の仕方や言葉の使い方が立場性をぼかすための手法だととらえられた場合、逆に姑息さや悪質さを醸し出しているのかも知れません。組合員からの率直な指摘は、このような思いを巡らす機会につながっていました。コメント欄に寄せられる指摘や批判が私自身に対するものなのか、自治労という組織に対するものなのかという問いかけに関しては、めざしている結論が同じだから、どちらにも当てはまるという答えになってしまうことも理解できました。

このような関係性の理解は深まりましたが、ネット議論の悩ましさが解消に向かうものではありません。かえって悩ましさは深まったような気がしています。私自身の個人的な見解、私自身の責任範疇の問題、自分なりの線引きを保ちながら当ブログと向き合ってきています。しかし、そのような線引きは理解を得られず、多くの方々から「自治労=公務員のためいき」という舞台設定のもとに見られ続けていくとしたら、それはそれで悩ましい話です。

KEI さんからの「いーや、OTSUさんがええかっこしいで大ボラを吹いているだけで、違いなんか無いと思うね!」という言葉も、自治労の中で実際に起こっている事実、だから私どもの組合も同じだと見られてしまうという悩ましい関係性の一つだろうと理解しています。このような関係性について今まで以上に意識していくつもりですが、だから何かを大きく変えようという考えが現時点でまとまっている訳ではありません。せめて「何が正しいのか」という問題提起を重視した記事内容に向け、よりいっそう頭を悩ましていこうと考え始めています。

以上のような理解も的外れな点があるのかも知れません。それでも個々人の正しいと信じている「答え」に沿った結論に至らない限り、「なぜなのか」という丁寧な説明もあまり大きな意味を持たない、そのような悩ましい関係性であることの理解を一歩進められたものと思っています。その上で「スタートの視点」をはじめ、まだまだ分かり合えないことが数多くあるものと見ていますが、これからも「悩ましさ」を抱えながらも下っ端さんらとのネット議論を続けていけたら幸いなことです。

たいへん長い記事になってしまいました。冒頭に掲げた下っ端さんの言葉の発端となった具体的な事例とは在日米軍基地の問題でした。自治労が中国大使館に向けた抗議行動に取り組んでいないことの話と絡め、補足説明を加えようと考えていました。「ネット議論の悩ましさ」という内容だけで相当な長さとなっていますので、恐縮ながら次回以降の記事で取り上げることとしますが、ご理解ご容赦くださるようよろしくお願いします。

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2018年8月18日 (土)

平和の話、サマリー Part2

前回の記事は「平和の話、サマリー」とし、これまでの記事内容の一部を転載しながらまとめてみました。つながりを考えた文章の挿入や最近の情勢を踏まえた内容を追記したため、必ずしも以前投稿した「平和の話」の要約(サマリー)という記事ではなかったかも知れません。さらに今回、その傾向が顕著になりそうですが、前回記事のコメント欄に寄せられた意見を踏まえた内容を考えているため、記事タイトルに「Part2」を付けて書き進めていきます。

総論的な問題意識から言葉の使い方

まず私自身の総論的な問題意識を改めて説明させていただきます。それぞれの正しいと信じている「答え」に照らし、他者の考え方や振る舞いが理解できず、納得できない場面は多々あるはずです。自治労をはじめ、いわゆる左に位置すると見られている団体が、例えば人権問題や覇権主義を危惧されがちな中国大使館前で抗議行動を展開しないことへの違和感もその一つに数えられがちです。

騒音や墜落の危険性等の絡みから在日米軍基地に反対する運動方針がある中、優先順位の付け方が問われることはやむを得ないものと考えています。ただ世界中には様々な問題視すべき事例があります。それら一つ一つに対し、批判する声を上げなければ「容認している」という見方は短絡的であるように思っています。

批判すべきと考えている方々が、表立って批判していない不充分さを指摘し、非難することは自由です。自治労が中国大使館に向けて抗議デモを行なっていないことは事実であり、そのことを個々人の「答え」に照らしながら批判される方々が多かったとしても仕方ありません。しかし、そのことをもって中国の影響力に置かれた団体であるような極端な見方につなげてしまっては問題です。

前回記事の中で訴えた「推論や思い込みによる批判は絶対避けなければなりません」という言葉は、このような推論や思い込みだけは自制すべきという趣旨でした。ただ私自身の思考自体、推論や思い込みを完全に排除しているかどうかで言えばそうとも限りません。自省を込めた言葉でもあり、推論に近い論評だった場合、せめて断定調な言い方は慎もうと心がけているところです。

下っ端さんから『「私もそう思います。委員長として自治労本部に伝えます」、と言えないのでしょうか?真に平和を求めるなら、当然の行動と思いますが、違いますか?』という指摘があり、KEIさんからは『無理を言っちゃいけませんて。そんなの「独裁になるから出来ない」と突っぱねられるのがオチじゃないですか。でも「バランスを欠いているとの指摘が有ることについて、総意を確かめるべく執行委員会/総会に諮ります」とは言えるハズだ。そうでしょう?』というコメントが続いていました。

このような「こうあるべきだ」と決め付けられた意見は正直なところ違和感があります。ただ私自身の言葉の使い方に曖昧な点があるため、誘発している流れであることを反省しています。前段にqurさんと四国人さんからのコメントがあり、一例として中国大使館前での抗議デモの話が提起されていました。二人へのレスを通し、自治労が取り組んでいないことについて、私自身も強く問題視しているような印象を与えていたのかも知れないと省みています。

要するに「取り組む必要がない」と記していれば、紹介したような下っ端さんとKEIさんからのコメントは異なる内容になっていたのかも知れません。中国大使館前での抗議デモの是非が論点ではなく、あくまでも前述したような問題意識が主軸だったため、あえて明記していませんでした。「取り組む必要がない」とまで考えている訳ではなく、だからと言って今のところ「積極的に取り組むべきだ」という強い問題意識も持ち得ていないからです。

ちなみに当ブログに掲げている内容は必要に応じて実際の会議等の場面でも訴えてきています。「自治労都本部大会での発言」という記事を通し、自治労内部の会議の中で下記のような問題意識を前面に出した内容を訴えていることも紹介していました。下記のような発言に至る後押しは、このブログを通して忌憚のない幅広い声に普段から触れることができているからでした。

安倍首相が「戦争をしたがっている」と批判した場合、あくまでも抑止力を高め、戦争を未然に防ぐための法整備であるという反発を招きがちとなります。自治労組合員の中にも少数ではないはずの安保関連法案賛成派や安倍首相を支持する方々にも届く言葉、そのような言葉を意識していくことが大切だろうと思っています。いずれにしても多岐にわたる情報があふれる中、個々人の価値観は多様化しています。

そのため、組合の活動方針と組合員一人ひとりとの問題意識に溝が生じないように注意していかなければなりません。その溝が広がっていくと組合活動全体に対する結集力の低下につながりかねません。そのような事態を避けるためには特に政治的な活動の必要性や意義について、日頃から丁寧な情報発信に努めていくことが非常に重要です。よりいっそう「なぜ、取り組むのか」「なぜ、反対しているのか」という説明が欠かせないのではないでしょうか。ぜひ、自治労都本部の運動の中でも、このような問題意識に留意していただけるよう願っています。

上記のような発言以外にも反戦平和の運動の進め方、脱原発、拉致問題など、このブログで提起している内容はネット上だけの発信にとどめず、実生活の中でも必要に応じて訴えてきています。このような経緯がある中、総論的な話として「自治労が進めてきた平和運動は偏っている」と見られがちな点について、上記のような発言の趣旨に加えていく必要性があることも受けとめ始めています。

私自身からすれば「誤解なく伝わるはず」と考えている言葉や表現も、もしかしたら意図を適確に伝え切れていない場合があるのかも知れません。より望ましい「答え」に近付くためには幅広く、一方に偏らない多面的な情報や考え方に触れていくことが欠かせません。このブログがコメント欄を含め、そのような場の一つになり得ることを願っています。前回記事の中でも記した言葉です。

このブログの記事本文の内容が「一方に偏らない多面的な情報」であるという意図を説明した言葉ではありません。記事本文の中で必ず両論併記するような構成に努めている訳ではなく、あくまでもメディアやネット上から知り得る全体的な情報を通し、私自身も含めて心がけていくべき大事な姿勢として記している言葉でした。そもそも個人的な思いを自由に綴っているブログですので「偏っている論調だ」と指摘されても否定するつもりはありません。

大事なことは「誰が」や「どこの団体が」ではなく、何が正しいのか、どの選択肢が正しいのかという一つ一つの判断の積み重ねだろうと思っています。この言葉も前回記事で記していましたが、2018年8月14日 (火) 00時50分に投稿された方から『と言われる割には、ここまでブログで書かれてこられたことは非常に恣意的に安倍政権全体の批判となる点ばかりとりあげられていますね アメリカは批判し、中国は批判しないことにも全く答えていませんし あえてレッテルを張らせてもらいますが、あなたを含め、「左派」の方たちは保守系の政治家への認識が30年前のまま止まっていると思います』と批判を受けていました。

「誰が」に関してはレッテルを貼って物事を見ないように私自身も含め、やはり心がけていくべき大事な姿勢として記している言葉です。オールorナッシングでの決め付けた評価は避け、まして「批判ありき」や「批判のための批判」にすべきではありません。冒頭に記した推論や思い込みによる批判と同様、一例として「安倍首相は戦争をしたがっている」と決め付けた場合、誹謗中傷の類いの言葉となってしまいます。

そのような言葉は安倍首相の判断を支持されている方々を不愉快にさせ、冷静で理性的な議論から距離を置かせてしまうはずです。 このような点を心がけているつもりですので、安倍首相も戦争を防ぐため、平和を守るため、安保関連法を成立させたものと理解しています。その上で、その判断が正しかったのかどうかを問い続けてきています。さらに安倍首相に限りませんが、批判的な意見を綴る際、ご本人を前にしてもそのまま訴えられるような言葉使いにも注意しています。

必ず肩書きを付け、呼び捨てや「アイツ、コイツ」というような呼び方は一度もしていません。最高権力者という立場上、ある程度辛辣な言葉で批判されてしまうことをやむを得ないものと覚悟されているはずですが、やはり批判する側にも守るべき一線はあるのだろうと思っています。余計な話ですが、できれば当ブログを安倍首相にも目を通していただければ本望だと考えています。そのような夢想的な可能性も踏まえ、批判する相手に対しても礼を失しない言葉使いに努めています。

「誰が」ではなく、「何が」という心構えは安倍首相の具体的な言動に対し、私自身の「答え」に照らし、評価や批判を加えているという意味合いです。決して「批判ありき」ではないのですが、結果的に「安倍政権全体の批判となる点ばかり」を取り上げがちな現況が続いています。その際、自分自身の主張を補強する目的で他のサイトから事実関係を中心に関連情報等を紹介しています。したがって、「恣意的」の意味合いが「自分なりに、意図的に」であればその通りであり、「必然性がない、論理性がない」という意味合いであれば不本意な指摘だと言わざるを得ません。

■「平和の話」の中で安倍首相を評価できること

このブログを定期的に閲覧されている組合員から「安倍首相を評価できることがあれば、そのようなことを書き加えたほうが批判意見に説得力も増すのではないですか」という指摘を受けていました。これまでも評価できる点は率直に評価した記述を残してきていますので、この機会に「平和の話」の中で安倍首相の振る舞いを評価した事例を紹介させていただきます。その際も、私なりの要望を添えがちですがご容赦ください。

『総理』を読み終えて Part2」の中での記述です。2013年8月、アメリカのオバマ大統領(当時)は「シリア国内で化学兵器が使用され、子どもを含む多数の一般市民が犠牲になった」と説明し、シリアへの軍事攻撃を行なうことを表明しました。国際社会に支持と協力を訴え、日本に対しても様々な外交ルートを通じて「空爆に着手したら即座に支持を表明して欲しい」と要請していました。オバマ大統領は安倍首相に直接電話をかけ、「アサド側が化学兵器を使った明確な証拠がある」と伝えて支持を求めました。

それでも安倍首相は「化学兵器を使用した明確な証拠の開示が必要」という対応を貫き、オバマ大統領からの要請を拒んでいました。大量破壊兵器を所有していると決め付けてサダム・フセイン政権を攻撃したイラク戦争、そのアメリカを即座に支持した小泉元首相の轍を踏みたくなかったからでした。武力によって容易に平和が築けないこともイラク戦争の大きな教訓の一つだったものと考えています。そのため、オバマ大統領の要請に対し、毅然とした対応をはかった安倍首相の判断は筋が通ったものとして率直に評価していました。

2017年2月、安倍首相が訪米し、当選した直後のトランプ大統領と会談しました。テロ阻止を名目にイスラム圏7か国の国民の入国を制限する大統領令について、内外から批判の声が高まっていました。内政干渉云々以前の問題として、アメリカの司法も差し止めを認めている通り7か国からの入国を一律に制限する大統領令は問題だと思っています。そのようなタイミングで、日米首脳会談を持ったこと自体に賛否が分かれていました。

何が正しいのか、どの選択肢が正しいのか」という記事の中で「私自身、大きなリスクが伴う可能性を覚悟した上、日米首脳会談を急いだ安倍首相の判断を批判するつもりはありません。今後、会談したことによる成果や影響は日を追って明らかになっていくはずです。その結果責任は安倍首相が負うことになりますが、首脳同士が信頼関係を高めていくために直接相対する機会を持つこと自体、私自身は肯定的にとらえています」と記していました。

その記事には「G7を分断という見られ方に反しながら安倍首相がロシアのプーチン大統領と会談を重ねていることも評価しています」とも記しています。一方で「それでは、なぜ、中国との関係では原則的な強硬姿勢のみが際立ってしまうのでしょうか」と訴え、「安倍首相は日米が足並を揃えて強硬路線で中国と対峙したいという思惑だったのかも知れませんが、アメリカ側には過度に中国を刺激しないよう日中のバランスを取ろうとした姿勢がうかがえました」と記した後、次のような記述を残していました。

トランプ大統領は「今、中国と良い関係を築く過程にあり、それは日本の利益にもなるだろう」と発言しています。いずれにしても中国の脅威に対し、武力を整えて対抗すべきという考え方があります。しかし、中国を仮想敵国とし、際限のない防衛力強化に走ることの問題性や限界性も留意していかなければなりません。それこそトランプ大統領の発言の通り中国との関係性が融和されていけば安全保障面の脅威も、財政的な負担も、沖縄の基地問題も緩和されていくことになります。

中国との関係で、そのような話は絵空事だと一喝される方も多いのかも知れません。しかし、かつて仮想敵国としたソ連、現在のロシアとは友好的な関係を築きつつあります。将来、同じような関係性を中国と築ける可能性もゼロではないはずです。ロシアの場合、冷戦が終わったからという見方もありますが、北方領土の問題は無人島である尖閣諸島とは比べられないほどの主権や元島民の皆さんの強い思いがありながらも、対話を土台にした外交関係を築いています。

その後、アメリカと中国との融和ムードが加速したかどうかで言えば必ずしも肯定的にとらえることはできません。一方で、日本と中国との関係性は改善する方向性で進んでいます。つい最近、次のようなニュースを耳にした時、驚くとともに対話できる関係の大切さに改めて思いを強めていました。「この程度のことで安堵すべきではない」という指摘もあろうかと思いますが、対話できる関係、すなわち武力衝突を避けられる関係であることは間違いないことだろうと考えています。

中国が16日、尖閣諸島を含む東シナ海エリアでの漁を解禁し、大量の漁船が一斉に漁場を目指した。2年前には、300隻ほどの漁船が日本の尖閣諸島周辺に押し寄せ、領海内に侵入するなど、海上保安庁が対応に当たったが、今回は中国当局が尖閣諸島に近づかないよう指示している。10月の開催も視野に首脳会談の調整が進むなど、日中関係の改善が進んでいることが背景にあるとみられている。【テレ朝NEWS 2018年8月16 日

中国との関係改善に対し、率直に安倍首相らの外交努力に敬意を表しています。同時に北朝鮮との関係においても前回記事の中でも記した通り平和国家というブランドイメージを活用しながら、安倍首相こそ韓国の文大統領のような役回りに努めて欲しかったものと願っていました。それでも今後、北朝鮮との対話が進めば、それこそ安倍首相が唱える地球儀を俯瞰する外交の想定以上の完成形に近付くのではないでしょうか。

改めて憲法9条に対する私自身の「答え」

たいへん長い記事になっていますが、もう少し続けます。偶然の閲覧さんの問いかけに対し、納得いただける「答え」になるのかどうか分かりませんが、私自身が正しいと信じている「答え」を改めて説明させていただきます。憲法の施行当初、吉田茂首相は自衛権まで含めての戦争放棄を国会で答弁していました。しかし、1950年の朝鮮戦争勃発という事態を受け、警察予備隊が発足し、保安隊から自衛隊に改組されていきました。

憲法9条の2項に「前項の目的を達するため」という一文があるため、憲法9条は自衛権行使以外の武力行使を禁じているのであって、自衛のための「必要最小限度の実力」を保有することは憲法9条に違反しないと解釈されるようになりました。その上で歴代自民党政権をはじめ、内閣法制局は「必要最小限度」の中に集団的自衛権の行使は認められないと明言してきました。

私自身、そのような解釈を支持し、前回記事にまとめた通り日本国憲法9条の持つ「特別さ」は守るべき効用があるものと考えています。集団的自衛権まで認める解釈に広げることは無理があり、集団的自衛権まで行使できるということは国際標準の「普通の国」になることだと理解しています。個別的自衛権の枠内から逸脱する必要性が本当に迫られているのであれば憲法96条のもと、そのことを明確な論点にした上で国民の意思を問うべきものと訴えてきています。

今回の記事内容に対しても様々な指摘や批判の声が示されるのかも知れません。それぞれの「答え」の正しさについて、不特定多数の方々に「なるほど」と思わせるような言葉を駆使し、少しでも共感を得られるのかどうかが大切な試みだと考えています。私自身、基本的な考え方や立場が異なる皆さんにも届くような言葉を探しながら、このブログと向き合っています。不充分さは反省しつつ今後も続けていくつもりですので、ぜひ、一人でも多くの方にご注目いただければ幸いですのでよろしくお願いします。

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2018年8月11日 (土)

平和の話、サマリー

前回の記事は「平和の話、インデックスⅢ」でした。その記事の中で翌週に投稿する新規記事のタイトルは「平和の話、サマリー」と予告していました。これまで「Part2」として続けることを予告する場合は数多くありました。ただ別なタイトル名を事前に予告することはあまりなかったものと思います。

原爆忌から終戦記念日に続く時期、「平和の話」をまとめてみようと少し前から考えていました。記事タイトルも要約という意味の「サマリー」を付けることをスンナリ決めていました。この時期に「平和の話、サマリー」という記事の投稿を先に決めていた中、インデックス記事が右サイドバーの「最近の記事」から消えて随分たっていたため、まず過去の記事を紹介する機会につなげてみたところです。

そのため、翌週に投稿する新規記事のタイトルは「平和の話、サマリー」とあらかじめお伝えする流れとなっていました。ちなみに予想していた通り「平和の話、インデックスⅢ」に加えるべき記事は相当な数に上っていました。この機会を逃せば、さらに対象記事の投稿数は積み上がり、作業量の多さから「Ⅲ」の投稿はずっと見送られることになっていたかも知れません。

余計な話で3段落も費やし、たいへん恐縮です。さて、前回記事の最後のほうで、なぜ、このブログでは「平和の話」の投稿が多いのか、そのような点について説明を加えさせていただきました。今回はこれまで「平和の話」に綴ってきた内容を要約した記事の投稿に取りかかってみます。いつもの話ですが、長い記事になることが見込まれるため、久しぶりに小見出しを付けながら書き進めていきます。

誰もが戦争は避けたい、防ぎ方に対する認識の違い

国際社会の中で原則として戦争は認められていません。例外の一つに自衛のための戦争があります。集団的自衛権もその名の通り自衛のための戦争に位置付けられます。国連加盟国は侵略戦争を放棄しているため、建前上は日本と同様、すべて「平和主義」を希求している国だろうと思っています。

できれば誰もが戦争は避けたいと考えているはずです。戦争を防ぐため、平和を守るため、抑止力を高めることが大事だと考え、安保関連法等を評価されている方々が多いことも理解しています。残念ながら戦争の防ぎ方に対する認識の違いから対立しがちな現状があります。そもそも物事の評価は〇か、×か、単純に決められない場合が多いはずです。憲法9条に対する評価も同様です。

憲法9条を守っていれば日本の平和は守れる、そのような見方は一面で正しく、別な一面で誤りだと言えます。自衛隊創設前、朝鮮戦争の際に海上保安庁の日本特別掃海隊が機雷除去に携わりました。このような歴史を忘れてはいけませんが、憲法9条という歯止め、集団的自衛権は行使できないという憲法解釈のもと日本は戦争に直接参加せず、他国の人の命を一人も奪うことなく戦後70年以上乗り切ってきたことも事実です。

これまで「セトモノとセトモノ、そして、D案」をはじめ、数多くの記事を通して平和の築き方安全保障のあり方について自分なりの「答え」を綴ってきました。私自身、憲法9条さえ守れば平和が維持できるとは思っていません。重視すべきは専守防衛を厳格化した日本国憲法の平和主義であり、その平和主義の効用こそ大切にすべきものと考えています。

憲法9条を守ろうとしている人たちの中でも考え方は様々なのかも知れませんが、『カエルの楽園』に登場するナパージュのカエルたちのような硬直した考えの護憲派は皆無に近いのではないでしょうか。寓話に目くじらを立てても仕方ありませんが、集団的自衛権に反対する人たちは愚かで、国を滅ぼすという見方はあまりにも短絡的すぎるものと思っています。

歴史を振り返る中で、広義の国防や安心供与について

広義の国防と狭義の国防という言葉を『ロンドン狂瀾』という書籍を通して知りました。第1次世界大戦の惨禍を教訓化し、国際的な諸問題を武力によってではなく、話し合いで解決しようという機運が高まり、1930年にロンドン海軍軍縮会議が開かれました。当時の日本の枢密院においては単に兵力による狭義の国防に対し、軍備だけではなく、国交の親善や民力の充実などを含む広義の国防の必要性を説く側との論戦があったことをその書籍で知りました。

軍国主義の時代と言われていた頃に広義の国防の必要性を説く議論があったことに驚きながら軍縮条約の意義を改めて理解していました。対米7割という保有割合は一見、日本にとって不利な条約のようですが、圧倒的な国力の差を考えた際、戦力の差を広げさせないという意味での意義を見出すことができるという話です。

加えて、アメリカとの摩擦を解消し、膨大な国家予算を必要とする建艦競争を抑え、その浮いた分による減税等で民力を休め、経済を建て直すためにも締結を強く望んでいたという史実を知り、感慨を深めていました。「もっと軍艦が必要だ」「もっと大砲が必要だ」という軍部の要求を呑み続け、国家財政が破綻してしまっては「骸骨が砲車を引くような不条理な事態になりかねない」という記述には、思わず目が留まっていました。

広義の国防と狭義の国防、同様の意味合いとして「外交・安全保障のリアリズム」という記事の中でソフト・パワーとハード・パワーという対になる言葉も紹介していました。国際社会は軍事力や経済力などのハード・パワーで動かされる要素と国際条約や制度などのソフト・パワーに従って動く要素の両面から成り立っていることを綴っていました。もう一つ、抑止に対し、安心供与という言葉があります。

安心供与という言葉は「北朝鮮の核実験」の中で初めて紹介しました。安全保障は抑止と安心供与の両輪によって成立し、日本の場合の抑止は自衛隊と日米安保です。安心供与は憲法9条であり、集団的自衛権を認めない専守防衛だという講演で伺った話をお伝えしていました。安心供与はお互いの信頼関係が柱となり、場面によって寛容さが強く求められていきます。相手側の言い分が到底容認できないものだったとしても、最低限、武力衝突をカードとしない関係性を維持していくことが肝要です。

抑止力の強化を優先した場合、ますます強硬な姿勢に転じさせる口実を相手に与えてしまいがちです。外交交渉の場がなく、対話が途絶えている関係性であれば、疑心暗鬼が強まりながら際限のない軍拡競争のジレンマにつながります。それこそ国家財政を疲弊させ、いつ攻められるか分からないため、攻められる前に先制攻撃すべきという発想になりかねません。そのような意味で、攻められない限り戦わないと決めている日本国憲法の専守防衛は、他国に対して安心を与える広義の国防の究極の姿だと私自身は考えています。

ヒトラーの試写室』という書籍を読み、このブログで紹介した記述があります。ナチスドイツが「武力侵攻すれば占領は困難ではないが、こちらの損害も大きい。戦争を継続する消耗は避けられず、スイス侵攻は得られる成果が見合わない」と判断し、スイス国内には「平和」が広がっていたことを記していました。ここで付け加えるべき記述として、仮にスイスがドイツの敵対国だった場合、攻め込まれてスイス国民や国土は戦火に見舞われていたはずです。

中立国という立場は広義の国防の一つであり、侵攻されない限り軍事力は行使しないという安心供与がスイス国内の「平和」を守ったと言えます。その際、相手国を凌駕する軍事力がスイスにはありませんでしたが、個別的自衛権としての軍備も整えていたため、ナチスドイツ側の発言の通り一定の抑止力が働いたようです。専守防衛を柱にした安心供与が日本国憲法の平和主義であり、私自身、必要最低限の自衛権の必要性とともにスイスと対比した日本の「特別さ」を感じ取る機会となっていました。

平和主義の効用のもとの国際貢献

安心供与、ソフト・パワー、それぞれの言葉に共通している点は、どちらが正しいのかという二者択一の問題ではないことです。あくまでもバランスの問題であり、抑止力を軽視せず、非軍事的な「人間の安全保障」の取り組みも強化していくことが重要です。国民の安全と安心を担保するため、どのような選択が望ましいのか、その重要な選択肢として日本国憲法の「特別さ」を維持していくことが有益なのか、もしくは弊害があるのかどうか、私たち一人一人が問われているものと認識しています。

このような問題意識を数多くの記事を通して綴ってきています。改めて端的な言葉で語れば、守るべきものは日本国憲法の平和主義であり、個別的自衛権しか認めないという「特別さ」です。この「特別さ」を維持することで平和主義の効用があり、広義の国防、安心供与の専守防衛につながっているものと考えています。詳しい説明はリンク先の記事をご覧いただければ幸いですが、憲法9条の条文を一字一句変えなければ日本の平和は維持できるという発想ではありません。

憲法9条があるからと言って、国際社会の中で戦火が消える訳ではありません。しかし、武力によって憎しみの連鎖は絶ち切れず、戦争やテロの抑止につながりません。9条を守れば戦争が起きないのではなく、専守防衛という平和主義を守ることで、海外での戦争に関わる可能性の低い国であり続けられたことも事実です。さらに攻め込まれない限り、戦わないという専守防衛の考え方は前述した通り安心供与という抑止力の一つとなっています。

「日本だけ平和であれば良いのか、国際社会の一員として果たすべきことがあるのではないか」という指摘があります。もちろんすべての国が平和であることを心から願い、日本が国際社会の中で汗をかくことも欠かせません。その上で日本国憲法の制約があることを国際社会の中で理解を求めながら、日本ならではの非軍事面での国際貢献に力を尽くしていくことが必要だろうと考えています。

実際、アフガニスタンのDDR(武装解除・動員解除・社会復帰)で活躍された伊勢崎賢治さんは、平和国家である日本のイメージは良く、「憲法9条によるイメージブランディングが失われたら日本の国益の損失だ」と語られています。そして、このブランドイメージは余計な恨みを買わないため、狙われる可能性が減り、これまで日本人の安全面に寄与し、日本人だからこそ関われる国際貢献の選択肢を広げていました。

外交の場でも同様です。平和国家という日本のブランドイメージを活用しながら、日本ならではの国際平和の構築に寄与して欲しいものと願っています。緊迫化していた北朝鮮情勢の中で日本政府こそ、率先して平和的な外交努力での解決に汗をかいて欲しかったものと考えていました。しかし、残念ながら日本政府からは「対話のための対話では意味がない」という言葉が繰り返され、安倍首相からは安全保障を強い言葉で語ることが目立ち、安心供与とは真逆な標的になるリスクを高めているように危惧していました。

韓国の文大統領の努力、トランプ大統領の決断によって、幸いにも一触即発の事態だけは回避できた現況だと言えます。局面が動いた後、8月3日にはシンガポールで河野外相が北朝鮮の李外相に「日朝間で話し合う用意がある」と立ち話形式で伝えていました。安倍首相も首脳間の直接対話に強い意欲を示しています。ただ北朝鮮側の反応は鈍く、足下を見られているような関係性に陥っています。もし日本政府も文大統領のような役回りを追求していれば、この局面で日朝の対話は加速化していたのかも知れません。

8月7日、イラン核合意からの離脱を表明していたアメリカがイラン経済制裁の部分的な再開に踏み切りました。原油価格の高騰など世界経済に悪影響を及ぼす懸念があり、中東地域の不安定化を招く憂慮すべき事態です。北朝鮮に示した融和姿勢とは真逆なトランプ大統領の判断ですが、オバマ前大統領の「政治的遺産」の否定を主目的にしているのであれば極めて残念な動きだと言わざるを得ません。

中東地域で平和国家であるという日本のブランドイメージはそれほど棄損されていないようであり、イラン政府とは対話できる関係性を築いています。今回のアメリカの離脱が国際社会の中で強く批判されている中、今こそ日本の出番があるのではないでしょうか。トランプ大統領との良好な関係を誇示している安倍首相が「トランプ大統領のため、アメリカのためにも判断を見直すべき」と説得し、結果を示せるようであれば日本に対する評価は急上昇するものと思っています。

憲法の「特別さ」を維持するのか、国際標準の「普通の国」になるのか

安倍首相が「新たに憲法9条に自衛隊の存在を書きこむ」「2020年に新憲法施行をめざす」と述べ、改憲への動きが急速に強まっています。私どもの組合も「憲法を生かす全国統一署名」に取り組み、このブログでもいくつか論点を提起してきました。繰り返しになりますが、憲法9条を変えなければ「ずっと平和が続く」という単純な考えではありません。個別的自衛権しか認めてこなかった平和主義は国際社会の中で誇るべき「特別さ」であり、日本のブランドイメージを高めていました。

仮に集団的自衛権の行使を認めたままの改憲だった場合、その「特別さ」を外し、国際標準の「普通の国」になるかどうかという重大な選択であり、このような動きに反対しています。一方で、とりまく情勢の厳しさから改憲の必要性を説く声も耳にします。ただ9条の見直しは周辺国を刺激する動きであることも押さえなければなりません。あえて他国を刺激しないという「安心供与」や「広義の国防」を重視する道こそ、日本の進むべき道であって欲しいものと強く願っています。

北朝鮮情勢の緊迫化を受け、今年度の防衛予算は過去最大規模の5兆2千億円に及んでいます。地上配備型迎撃システム「イージス・アショア」の導入費用は2基で総額6千億円以上となるという試算が示されています。北朝鮮との対話の道が開かれた今、本来、この計画は見直すべきなのではないでしょうか。防衛審議官だった柳沢協二さんは、脅威とは「能力」と「意思」の掛け算で決まるものだと話されています。

情勢が緊迫化していた最中、日本が考えるべきは「ミサイル発射に備える」ことではなく、「ミサイルを撃たせない」ことであり、米朝の緊張緩和に向けて働きかけることが何よりも重要であると柳沢さんは訴えていました。現在、北朝鮮の「意思」が変わりつつあり、将来的には「能力」を放棄することも約束しています。それこそ「骸骨が砲車を引くような不条理な事態」を避けるための転機につなげて欲しいものです。

いろいろな「答え」を認め合い、いがみ合わないことの大切さ

過去の記事に残した記述を転用しながら、ここまで「平和の話」をまとめてきました。まだまだ掲げたい内容がありますが、そろそろ一区切り付けさせていただきます。前回の記事の中でも強調した点ですが、あくまでも私自身が正しいと信じている「答え」の数々であり、異論や反論を持たれる方々も多いのだろうと思っています。このブログを長く続けている中で、いろいろな「答え」を認め合った場として個々人の「答え」の正しさをそれぞれの言葉で競い合えることを願っているところです。

「平和が大切だったら、アメリカばかりでなく組合を使って中国にももっと抗議したらどうですか?」という問いかけもあります。どこの国の事例であろうと非人道的な行為はもちろん、国際社会のルールを破る理不尽な行動は許されません。個々人や各団体の判断のもとに批判や抗議をすべきものと思っています。しかし、そのような対応がはかれていないからと言って「問題視すべき行為を容認している、もしくは批判できない関係性だ」という短絡的な見方につなげてしまっては問題です。

それぞれの正しいと信じている「答え」に照らし、納得や理解できない他者の振る舞いに対し、推論や思い込みによる批判は絶対避けなければなりません。いわわる左と右、立場に関わらず心がけるべき点だと考えています。「ブサヨ」や「反日」、「ネトウヨ」や「権力のポチ」などという言葉を使った途端、冷静で理性的な議論から遠ざかってしまうはずです。

大事なことは「誰が」や「どこの団体が」ではなく、何が正しいのか、どの選択肢が正しいのかという一つ一つの判断の積み重ねだろうと思っています。そして、より望ましい「答え」に近付くためには幅広く、一方に偏らない多面的な情報や考え方に触れていくことが欠かせません。このブログがコメント欄を含め、そのような場の一つになり得ることを願っています。私自身にとって当ブログのコメント欄は、おかげ様で充分そのような場として受けとめさせていただいています。

最後に、自分自身の「答え」の正しさを前提に他者を蔑むような批判の仕方は控え、立場や視点、考え方の違いがあっても、いがみ合わないことの大切さを繰り返し訴えてきています。このような思いは現実の場面や国際社会の中でも同様です。相手側の言い分にも耳を傾けることで対話につながり、武力衝突という最悪な事態だけは絶対避けることで、世界中から戦火が消えることを切望しています。

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2018年8月 5日 (日)

平和の話、インデックスⅢ

8月6日は広島、9日は長崎の原爆忌です。15日には終戦記念日を迎えるため、毎年、8月に入ると戦争について取り上げるメディアが増えています。戦争を体験された方が少なくなる中、この時期だけでもメディアが力を注ぐことは意義深いものと受けとめています。このブログでも戦争を顧みる機会とし、今回と次回にわたり、平和への思いを託した記事の投稿を考えています。

実はカテゴリー別に検索できる機能を使いこなせず、これまで「自治労の話、2012年夏」のように記事本文の中にインデックス(索引)代わりに関連した内容のバックナンバーを並べていました。その発展形として「○○の話、インデックス」を始めています。その記事の冒頭、インデックス記事のバックナンバーを並べることで「インデックス記事のインデックス」の役割を持たせています。カテゴリー別のバックナンバーを探す際、自分自身にとっても役に立つ整理の仕方であり、時々、そのような構成で新規記事をまとめていました。

これまで投稿したインデックス記事は「職務の話、インデックス」「原発の話、インデックスコメント欄の話、インデックス」「定期大会の話、インデックスⅡ」「年末の話、インデックスⅡ」「春闘の話、インデックスⅡ」「平和の話、インデックスⅡ」「組合役員の改選期、インデックス」「人事評価の話、インデックス」「図書館の話、インデックス」「旗びらきの話、インデックスⅡ」「人事院勧告の話、インデックス」「非正規雇用の話、インデックスⅡ」「いがみ合わないことの大切さ、インデックス」「憲法の話、インデックスⅡ」のとおりです。なお、「Ⅱ」 以降がある場合は最新のインデックス記事のみを紹介しています。

そのようなインデックス記事が右サイドバーの「最近の記事」から消えて随分たちますので、今回、まず過去の記事を紹介する機会としてみました。直近のインデックス記事を確認してみたところ「平和の話、インデックスⅡ」を投稿したのは2014年3月のことでした。あれから4年以上が過ぎ、その間には安保関連法の成立や北朝鮮情勢を巡る動きが緊迫化していました。予想していた通り「平和の話」として加えるべき直接的な題材の投稿は数多くあり、ブログ開設当初の記事から並べると下記のような長さの一覧となっています。

余計な話ですが、普通に文章を書いている時よりも過去の記事を探し、リンクをはっていく作業のほうが手間暇かかります。閲覧されている皆さんからの要望があって始めた訳ではなく、あくまでも自分自身の発案ですので作業にそれほど負担感はありません。ただ今回、かなりの数の記事のはりつけ作業を進めた後、下書き保存を試みた時、インターネット接続に一時的な不具合が生じました。

その結果、下書き保存できず、費やした労力は水の泡となりました。このような不具合が起きることも想定し、ブログ投稿に限らず、文章などの入力作業時、なるべく短い間隔で下書き保存するように心がけています。たまたまその時は作業に集中し、いつもより長い時間下書き保存しないままでした。リカバリーできる類いの話ですが、同じ作業を二度繰り返すことの徒労感は極力避けたいものです。

特に伏線がある訳でもない本当に余計な話でした。さて、冒頭に今回と次回にわたり、平和への思いを託した記事の投稿を考えていることを記していました。今回は「平和の話、インデックスⅢ」とし、これまで投稿した記事の一覧を紹介しました。それぞれの記事に私自身の安全保障に対する考え方などが綴られています。お時間等が許され、少しでも興味を持たれた記事があった場合、ご覧いただければ誠に幸いです。

次回はそれらの記事の中に綴った内容の一部を紹介しながら私自身の問題意識をまとめてみるつもりです。平和への思いを要約する機会とするため、記事タイトルを「平和の話、サマリー」とするつもりです。あくまでも自分自身が正しいと信じている「答え」の数々であり、異論や反論を持たれる方々も多いのだろうと思っています。このブログを長く続けている中で、いろいろな「答え」を認め合った場として個々人の「答え」の正しさをそれぞれの言葉で競い合えることを願っています。

単に以前の記事を紹介しただけで終わらせていないのも、これまでのインデックス記事のパターンでした。今回ももう少し続けます。「平和の話」の中味に入る前、よく問いかけられる点について書き加えてみるつもりです。なぜ、このブログでは「平和の話」の投稿が多いのか、そのような点について説明を加えさせていただきます。長い説明の文章は分かりづらいという指摘を受けがちですので、「平和の話、インデックスⅡ」の時のように要点を箇条書きしてみます。

  • 組合活動は組合員一人ひとりのためになることを第一の目的としています。組合の平和運動もそのような目的の一つとしています。自分たちの職場だけ働きやすくても、社会全体が平和で豊かでなければ暮らしやすい生活となりません。そのために私どもの組合や自治労は平和に関わる運動方針を掲げています。
  • これまで「自治労は平和運動から一切手を引くべき」という意見が寄せられがちでした。それに対し、労働組合の本務と主客逆転することなく、無理のない範囲で取り組むという私自身の「答え」があります。そして、取り組むのであれば、組合員の皆さんをはじめ、不特定多数の方々に向けた主張の発信も欠かせないものと考えています。
  • 上記のような問題意識があるため、このブログで取り上げる題材として「平和の話」が多くなっています。しかし、日常的な組合活動の中で平和に関わる活動の占める割合はわずかです。ブログで取り上げる題材に対し、実際の組合活動の中で占める割合が正比例していないことは機会あるごとにお伝えしてきています。
  • 「公務員のためいき」というブログのタイトルを付けながら政治的な話題の発信が多いことに対し、疑念の声が寄せられる時もあります。主に労働組合役員の立場からの発信が多いため、確かにブログのタイトルと日常的な投稿内容にアンマッチ感も目立つようです。このタイトルに決めた理由は「秋、あれから2か月 Part2」の中で説明していました。
  • 今回のような「平和の話」に関するインデックス記事に対しても違和感を持たれた方が多いのかも知れません。それでも私自身、このブログは日常生活に過度な負担をかけないSNSを活用した一つの運動として、たいへん貴重なツールだと考えながら長年続けてきています。
  • デリケートな問題をネット上に掲げるリスクも承知していますが、そもそも狭い範囲でしか理解を得られないような内向きな運動方針に過ぎないのであれば、即刻見直しが必要だろうと思っています。そのような意味でコメント欄は幅広い意見を伺える貴重な場であり、多様な見方があることを把握しながら実際の組合活動につなげていける機会だと考えています。 

もう一つ付け加えれば、その時々に私自身が取り上げたい話題や主張を当ブログを通して発信しています。あくまでも個人の責任による運営ですので、このような自由さがブログを長く続けられている理由だと考えています。その積み重ねの中に「平和の話」が多くなっていることも確かです。次回は「平和の話」に綴ってきた内容を要約(サマリー)した記事の投稿を予定しています。ぜひ、引き続きご注目いただければ幸いですのでよろしくお願いします。

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