« 役に立たない組合はいらない? | トップページ | 再び、ネット議論への雑感 »

2018年5月 5日 (土)

日本国憲法が大きな岐路に

5月3日の憲法記念日、全国各地で憲法をテーマにした様々な集会が催されました。「憲法を生かす全国統一署名」の取り組み団体が呼びかけた有明防災公園での「9条改憲NO!平和といのちと人権を!5.3憲法集会2018」には主催者発表で6万人が集まりました。私どもの組合からも役員を中心に数名が参加していました。

私自身は地元の市民団体が主催した憲法集会に参加しました。労働組合のつながりを考えれば有明の集会のほうに行くべきだったのかも知れませんが、時間的に都合が付きやすかったことに加え、弁護士の澤藤統一郎さんの講演「憲法を支える平和的生存権」に興味があったため、地元の集会のほうを選ばさせていただきました。

ブックマークし、ほぼ毎日訪問しているブログの一つが「澤藤統一郎の憲法日記」でした。弁護士の視点から憲法を切り口にした多様な題材を鋭く論評され、歯に衣着せぬ書きぶりが特筆できるブログだと言えます。日頃からブログに関心を持っていたため、澤藤さんから直接お話を伺える集会はたいへん貴重な機会だと考えました。

ちなみに平和的生存権とは日本国憲法から導き出される人権の一つで「平和のうちに生活する権利」のことを指します。澤藤さんは「平和も手段的価値であって、人権としての平和的生存権こそが目的価値ではないか。平和を制度の問題ととらえるのではなく、国民一人ひとりが、平和のうちに生きる権利を持っていると人権保障の問題として再確認する」と語られています。

この平和的生存権を根拠とし、日本政府が湾岸戦争時に90億ドルもの戦費を負担したことの違法性などを裁判で争ってきたという話も添えられていました。その日のうちに澤藤さんは「憲法記念日に平和的生存権を語る」というタイトルでブログを投稿されていました。講演内容の資料も掲げられていますので、ぜひ、興味を持たれた方はリンク先をご参照ください。

講演の冒頭の自己紹介の際、澤藤さんは「弁護士は市民社会から与えられた自由がある。誰にもペコペコしない。公務員であれば遠慮して書けないことも弁護士は何でも書ける」とし、DHCとのスラップ訴訟の体験談などを紹介されていました。言論の自由の重要さを強調された上、このような自由があるからこそ、消費者支援など弱者の立場での裁判に全力で取り組めるという弁護士の立場性や強みを語られていました。

澤藤さんが投稿している興味深い記事内容は当ブログの中でも時々紹介していました。「何でも書ける」と語られている澤藤さんの最近の記事「朝鮮半島の平和は困る ― 9条改憲の好機を逃してしまいそう」などもウイットに富み、鋭く世相を風刺した内容だろうと思っています。私自身は興味深く閲覧でき、権力者に対し、このような批判の仕方も許容できる範囲だろうと見ています。

一方で、安倍首相を支持されている方々が目を通せば、揶揄した書きぶりに対して強い嫌悪感を示されるのかも知れません。嫌悪感が示された瞬間、書かれている本質的な批判内容の是非や評価まで至らない可能性が高くなるはずです。このような関係性を避けるため、このブログでは基本的な考え方や立場の異なる方々にも届くような言葉を探し続けています。

「OTSU」というハンドルネームで、個人の責任で運営しているブログですが、知り合いや組合員の皆さんからすれば匿名での情報発信ではありません。そのため、確かに「公務員だから書けない」こともあるのでしょうが、前述したような問題意識から言葉や表現を選ぶ場面が多くなっています。このような事情については以前の記事「ブログでの発言の重さ」の中で詳しく説明していました。

あえて対立点を際立たせない書き方が多く、寄せられたコメントに対しては断定的なレスが少ないため、分かりづらい点があることを自覚しています。意識的に「思っています」「考えています」という語尾を多くし、多様な「答え」があることを前提に私自身の考えや問題意識を発信しています。その上で「公務員だから」ではなく、異なる「答え」をお持ちの方々を挑発するような言葉や表現は極力避けるように心がけています。

もう一つ、分かりづらくしている大きな理由があります。前述したとおり個人の責任で運営しているブログですが、組織の看板を背負いながら発信している側面もあります。私どもの組合も、自治労も、おおらかな組織ですので、個人的な発言の自由度は高いほうです。それでも組合委員長という立場を忘れることはなく、組合役員や組合員の皆さんが当ブログを見た際、「あれっ?!」という違和感や不信感を与えるような記述は控えています。

とは言え、それほど窮屈さを感じることはなく、個人的な思いを存分に発信してきているつもりです。基本的な方向性として自治労や平和フォーラムの方針を受けとめられる立場であるため、このブログを通して発信している内容はすべて自分自身の率直な思いばかりです。組織の一員だからと言って「白だと思っていることを黒だ」と偽って発言したことは一度もありません。

当然、自治労や平和フォーラムの個々の方針と自分自身の考え方がすべて一致している訳ではありません。違いは違いとして必要であれば当ブログの中で問題提起しています。そのような際、ブログだけの発信にとどめず、なるべく実際の場面でも同様な趣旨の発言を行なうように心がけています。その一例として「自治労都本部大会での発言」という記事なども投稿していました。

前回記事「役に立たない組合はいらない?」を通し、労働金庫全労済の取り組みをはじめ、余計な組合活動はなく、すべて「組合員のため」を目的としていることを強調させていただきました。組合の政治活動も同様です。向き合い方に注意は必要ですが、余計な活動とは考えていません。だからこそ当ブログを通し、その必要性や取り組み方に対する発信を重ねてきています。

前回記事の中で「どのような活動をどの範囲まで取り組むのか、それぞれの組合が加入されている組合員の皆さん同士の議論を通して決めていく問題だろうと考えています」とも記しています。この記述を踏まえたコメントだったのかも知れませんが、下っ端さんから無記名アンケートの提案がありました。政治活動に関わる個別の選択肢に対して無記名アンケートで過半数を得た「答え」を組合方針にしていくという発想自体を頭から否定するものではありません。

しかし、組織的な手続きを経て確立している既存の組合方針がある中、現職の組合委員長の立場から「妙案ですね。実施に向けて検討します」と答えられる訳がありません。前述したとおり匿名の関係ではない内外の組合関係者が閲覧された際、大きな戸惑いを与えることになります。そもそも私自身、一定の政治活動は必要であるものと考えているため、その必要性について組合員の皆さんに対して理解を求めていくことに力を注いでいる立場です。

いつものことですが、長い記事になりつつあります。記事タイトル「日本国憲法が大きな岐路に」から離れた内容が広がってしまいました。ブログのサブタイトルに「雑談放談」と掲げているとおりですのでご容赦ください。記事タイトルの変更も考えましたが、憲法記念日の話題から入っているため、そのままとしています。それでも匿名のブロクではない実情に絡めた意味合いからも本題につなげていくつもりです。

私どもの組合員の皆さんに組合活動を身近に感じてもらうため、このブログを開設したことを「秋、あれから10年2か月」などの記事の中で説明してきました。ただ組合員の皆さんの大半が当ブログを閲覧されているかどうかで言えば、そのような現状には至っていないように受けとめています。そのため、これまで組合のニュースや機関誌という紙媒体にもブログの記事内容を頻繁に転用していました。

その逆に紙媒体で扱った内容を後からブログ記事に掲げる時もありました。このことはネット上と実際の場面での主張を使い分けていない証しとも言えます。ちなみにネット上に発信した内容が圧倒多数の方々から批判を受けるようであれば、何か大きな問題点があることを認識する機会にすべきものと考えています。要するに組織の内側だけしか支持を得られないような情報発信では「運動」の広がりが期待できないことを感じ取っています。

このような関係性のもとに毎年3月末、春闘期に発行する機関誌『市職労報』の中の私自身の記名原稿はブログ記事の転用が多くなっています。組合ニュースの紙面だけでは情勢などに詳しく触れられないため、そのような点を補う意味合いから「春闘期、情勢や諸課題について」という特集記事を通して様々な情報を発信してきています。そのことによって、少しでも情勢や諸課題に対する認識が組合員の皆さんと共有化できることを願っています。

人事評価制度や時間外勤務の問題など労使協議課題を中心にした内容となっていますが、今年、日本国憲法を巡る論点についても少し誌面を割きました。「憲法を生かす全国統一署名」に取り組んだ際、私自身の文責として署名活動の目的や趣旨などを組合ニュースと職場委員会資料に書き残していました。今回『市職労報』の特集記事とは別に「日本国憲法が大きな岐路に」というコラム記事とし、もう少し私自身の問題意識を補足させていただく機会を得ました。

以下はその原稿の全文となります。当初、この原稿を紹介した後、直近の情勢や日本国憲法を巡る動きなども書き加えていくつもりでした。澤藤さんの「公務員であれば遠慮して書けない」という話から当ブログの位置付けについてまで内容が広がってしまいました。たいへん長い記事となっていますので、今回は「日本国憲法が大きな岐路に」というコラムの原稿紹介をもって一区切りつけさせていただきます。

           *            *

今、日本国憲法が大きな岐路に差しかかっています。国際社会の中で際立った平和主義のもとの「特別さ」を守っていくのかどうか、私たち一人ひとりの判断が求められようとしています。「憲法を生かす全国署名」にご協力いただいた際、職場委員会資料等を通し、私自身の記名原稿をお示ししていました。今回、その時の内容をさらに補足する位置付けとして書き進めてみます。

史上初めて米朝首脳会談が開かれる見通しです。これまで安倍首相は「必要なのは対話ではない、圧力を最大限強めることだ」と繰り返してきました。国際社会の中でルールを破っているのは北朝鮮であり、各国が足並を揃えて一定の圧力を加えていくことは必要です。

しかし、圧力は平和的に解決するための手段であり、あくまでも対話のテーブルに着かせるための手段だと言えます。それにも関わらず、安倍首相は必要以上に強い言葉を発し、わざわざ日本が真っ先に標的になるリスクを高めているように思えてなりません。ミサイル防衛によって「万全の態勢で国民を守る」と安倍首相は力をこめます。

しかしながら迎撃能力に100%の保障はありません。追い込まれて自暴自棄になった北朝鮮が東京を狙って核ミサイルを発射し、都心上空で爆発した場合、死傷者は400万人に達する見込みです。この400万人という試算の中に自分自身や家族、知人の姿を想像すれば北朝鮮を追い込みすぎることのリスク回避に全力を尽くす政府や政治家を最大限支持すべきなのではないでしょうか。

現在、北朝鮮情勢の緊迫化などを受け、来年度の防衛予算は過去最大規模の5兆2千億円に及ぶ見通しです。抑止力を重視しすぎた場合、敵対する国同士、疑心暗鬼となって際限のない軍拡競争に陥りがちです。そもそも仮想敵国としたソ連、現在のロシアとは対話を土台にした外交関係を築いています。核兵器の保有で言えばロシア、中国、NPT(核拡散防止条約)未加盟のインドとも対話することができています。

対話できる関係、つまり敵対関係ではないため、核兵器による切迫した脅威を感じるようなことがありません。このような対話をできる関係を築くことがお互いの「安心供与」であり、外務省のホームページにも掲げられている「人間の安全保障」につながる考え方だと思っています。

防衛審議官だった柳沢協二さんは、脅威とは「能力」と「意思」の掛け算で決まるものだと話されています。日本が考えるべきは「ミサイル発射に備える」ことではなく、「ミサイルを撃たせない」ことであり、米朝の緊張緩和に向けて働きかけることが何よりも重要であると訴えていました。憲法9条を持つ日本こそ、このような立ち位置のもとに核兵器禁止条約にはすべての国が賛同するように働きかけを強めるなど国際社会の中で「平和国家」というブランド力を高めていって欲しいものと心から願っています。 

|

« 役に立たない組合はいらない? | トップページ | 再び、ネット議論への雑感 »

コメント

いやいや、驚きました。普段「わかりあうため」とか立派な発言をされている方が、↓をみた結果が「人によって許容範囲」ですか。

何人であろうと、「1人の人間に罵倒中傷記事を貼り付けてロケットにくくりつける行為」を「人によっては許容範囲」で切り捨てる姿勢には驚きを通り越して呆然としました。

しかも、ご自身がこの行為を許容するか否かについては上手に回避するあたり、長文を書いても都合の悪いことには答えずに逃げることが大変お上手ですね。

このブログをざっと読んでみましたが、昔のコメント欄には、それぞれ立ち位置が異なっても非常に鋭い指摘をする方がたくさんいらしたのですね。

その方々が何故いなくなったのか。「OTSU氏は美辞麗句を振り回して逃げるばかりで何も結局他人の意見を聞かない、自分の意見は変えない」という旨のコメントが印象的でした。

今回の件の回答をみると、まさに「そういうところ」が原因なんだな、と思いました。

まあ、管理人氏が「他人をロケットにすることを許容する、善人とは遠い位置にある人」でも、それを自認していれば潔いと思います。しかし、それを隠してきれい事を書き連ねる思考回路がわかりません。そんなに善人になりたいのでしょうか。なんなのこの人。

https://twitter.com/asunokaori/status/991180199822671872

「三多摩凄いねさんが感じたことや問題意識は否定できません。絶対許容できない行為であれば強く批判しなければなりません。一方で、今回の指摘されている行為がその範囲なのかどうかで言えば、人によって許容範囲とされるのだろうとも思っています。」

投稿: 三多摩すごいね | 2018年5月 6日 (日) 13時49分

三多摩すごいねさん、コメントありがとうございました。

前回記事に寄せられた「三多摩凄いね」さんのコメントも意識し、今回の記事を綴っています。ことさら「善人」ぶろうとも、逃げ回っているつもりも、きれい事を書き連ねているつもりもありません。背伸びせず、特段飾らない言葉で自分自身の思いを記しています。

その中で、記事本文に記したとおり異なる「答え」をお持ちの方々を挑発するような言葉や表現は極力避けるように心がけています。それでもご自身の「答え」からかけ離れた言葉や内容だった場合、たいへん残念ながら「驚きを通り越して呆然としました」というような反応が示されがちです。

ぜひ、お考えいただければ幸いですが、メーデーに参加した当該の組合が「是」としているように権力者に対する批判の仕方として許容範囲としている方々も多いという点です。三多摩すごいねさんの「答え」だけが絶対正しいのかどうか、人によって変動する「答え」は数多くあるものと思っています。

なお、できればハンドルネームは固定くださるようよろしくお願いします。「let」さんとするのか、「三多摩すごいね(凄いね)」さんとするのか決めていただければ幸いです。

投稿: OTSU | 2018年5月 6日 (日) 21時41分

「権力者に対する批判の仕方として許容範囲としている方々も多い」

では、OTSU氏は許容範囲なのでしょうか。
「互いにわかり合う」という建前と、↓の表現とが両立するとはとても思えません。
OTSU氏がどのように折り合いを付けているのか、両立するとお考えなのか、是非教えて下さい。両立するというお考えなら、私にはまったく理解できません。

OTSU氏の考えはどこにあるのでしょうか。

https://twitter.com/asunokaori/status/991180199822671872

投稿: 三多摩すごいね(凄いね) | 2018年5月 6日 (日) 21時58分

やはり、おっしゃっていることと行動はマッチしていないようです。

>背伸びせず、特段飾らない言葉で自分自身の思いを記しています。
>メーデーに参加した当該の組合が「是」としているように権力者に対する批判の仕方として許容範囲としている方々も多いという点です。

結局、「特定の考え」や、「一方側のみの考え方」で、活動をしている。そして、その活動自体が、組合の行動すべき範囲を超えた活動である恐れが多分にある。

よく行動の正当性を述べていますが、一方的、もっと言えば特定の政党の考え方に沿っているだけであると、宣言しているようなものですね。
結局、労働活動は歴史的にも左寄りの活動であり、そのバッグにあるのは、そういった系統の政党や、その政党の考え方が絶対的な信条となっている。
そう認めちゃいましょうよ。

で、そういった思考のもと、労働活動を、労働組合をやってます。ちゃんと説明するというなら、そこまでちゃんと説明していただきたいものです。
何度も言いますが、特定の考えを、個人の信念としたり、公の(労働)活動以外で主張されるのは、全くの自由であり、妨げるものではありません。故に、特に公務に携わる者の組合活動こそ、中立公平であるべきと申しているのです。
中立公平でなければ、真の平和も成し遂げられないのではないかと思いますが。9条を守る護憲活動より、もっともっと基本的なことであり、遥かに大切なことだと感じませんか?

さて、私はどうかというと、左でも右でもありません。その時、本当に必要な選択を行います。
そこに、右も左もありません。(相当多数の人がそうであると思いますが)

投稿: 下っ端 | 2018年5月 6日 (日) 22時52分

ロケットの内容を見ましたが、まあ品性下劣といいますか
あれを見て喜ぶのはより内向きな方々だけだと思いますね
おそらく、OTSU氏も想像するに、ロケットを見てとても
称賛することも賛同することもないと思いますね。
ただ、我々にとっては匿名であっても、OTSU氏自身は
周囲に知られた存在である以上、なかなか立場があるゆえ
に率直に批判することはできないでしょう。
少なくとも日頃、活動が内向きならないようにと懸念して
る方が、あのような下劣な行為に賛同することはない。
誰であってもデモが暴動になって破壊行為をすることを
批判するのと同じですね。
そのあたりを考慮する必要があるでしょう。

投稿: nagi | 2018年5月 7日 (月) 09時00分

>このブログでは基本的な考え方や立場の異なる方々にも届くような言葉を探し続けています。

>「OTSU」というハンドルネームで、個人の責任で運営しているブログですが、知り合いや組合員の皆さんからすれば匿名での情報発信ではありません。そのため、確かに「公務員だから書けない」こともあるのでしょうが、前述したような問題意識から言葉や表現を選ぶ場面が多くなっています。

この文言と、

>背伸びせず、特段飾らない言葉で自分自身の思いを記しています。

この二つの文言からわかるように、OTSU氏も立場ゆえの
いろんな葛藤があるのでしょう。かつて私も強く求めた
こともありますが、簡単にイエスもノーとも答えることが
できない。それは組織に所属する人ならば誰もがわかる
事柄だと思いますね。単純にOTSU氏がそのような立場から
離れたときに、本当の意味での率直な言葉を聞けたらと
思っています。

投稿: nagi | 2018年5月 7日 (月) 10時32分

三多摩すごいね(凄いね)さん、下っ端さん、nagiさん、コメントありがとうございました。

コメント欄を通し、私からお答えすべき点について即応したほうが望ましいのだろうと理解しています。それでも記事本文を投稿する週末に至っていますので、いろいろ思うことを新規記事の中で綴らせていただくつもりです。

その中で皆さんからの疑問にどこまでお答えできるか分かりませんが、ぜひ、このような関係性の場であることをご理解ご容赦くださるようよろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2018年5月12日 (土) 07時28分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 日本国憲法が大きな岐路に:

« 役に立たない組合はいらない? | トップページ | 再び、ネット議論への雑感 »