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2018年5月27日 (日)

組合民主主義について

連日、注目すべきニュースや話題がメディアから伝えられています。このブログにとって、いろいろな思いを託しながら新規記事につなげられる題材が目白押しの昨今だと言えます。ただ当ブログを続けている目的を踏まえた際、地味な話題となりますが、何よりも優先的に取り上げるべき話として今回の記事を書き進めることにしています。

とは言え、少しだけ最近、特に思いを強めている見方を紹介させていただきます。事実関係は一つなのでしょうが、関係者の主張が大きく食い違う場面が見受けられます。遠慮や忖度は必要なく、事実のみ語ろうとする言葉は重く、説得力を感じることができます。一方で、事実を知っていながら、事実とは異なる説明をしなければならない方々の言葉だった場合、「記憶がない、覚えがない」という曖昧な語尾が多くなりがちです。

そして、事実とは異なる説明を加えていることを自覚していながら、断定調に事実関係を否定される方も中にはいるのかも知れません。そのような場合、「覚えがない」という歯切れの悪い弁明をされている方々のほうが、まだ良心の欠片が残っているのだろうと想像しています。あえて具体例は示しませんが、いろいろ思い当たることが多い昨今なのではないでしょうか。

念のため、あらかじめ説明を加えさせていただきます。このブログの文章も「思っています」という語尾が多く、場合によって歯切れの悪い印象を与えてしまっています。インターネット上であるブログでの発言の重さを強く意識し、いつも言葉や表現を選んでいることは確かです。ただ「思っています」という語尾は多様な「答え」があることを自覚した上、あくまでも私自身の意見の表明であり、結論を押し付けるような関係性を避けるためのものです。

〇か×か、二者択一の問いかけに対し、〇でも×でもない「答え」を説明する時があります。このような時、はぐらかしているような印象を与えがちですが、決して何か遠慮や忖度が働いている訳ではありません。自分自身の判断として、〇や×だけでは答えられない設問内容だと理解し、正直な思いを答えた結果だと言えます。その上で、これまで〇を×に偽るような対応は一度もないことを強調させていただきます。

さて、このブログは組合員の皆さんに組合活動を身近に感じていただければと願いながら続けています。同時に不特定多数の皆さんからも公務員の組合活動を少しでも理解を得られればと願っています。逆に圧倒多数の方々から批判を受け、まったく理解を得られないような組合活動であれば、組合員の皆さんから共感を得ることなど程遠い話となります。仮にそのような場合、現状の組合活動のあり方や進め方などを率直に見直す機会につなげていかなければなりません。

前回記事「等身大の組合活動として」のコメント欄でも、複数の方から組合活動や私自身の対応への手厳しい批判や問いかけがありました。私自身や私どもの組合を特定して批判しているものではないという補足をいただく場合があります。下っ端さんからも「管理人さん個人を批判しているのではありません。公務員としてあるべき姿を、公務員皆さんに求めているだけです」という言葉が寄せられています。

ある程度、そのような関係性であることを私自身も理解し、公務員やその組合が共通して抱える問題点であるものと受けとめながら当ブログと向き合っているつもりです。それでも前回記事の中で「ここまで断定調に批判されてしまうと、見ている景色そのものが違うのではないかと考え始めています」と記し、下っ端さんの目にしている実際の事例が自治労に属する組合共通のものであるのかどうか確かめたいという気持ちを強めています。

最近の記事「JR東労組の組合員が大量脱退」の中で、私どもの組合活動の現状を説明していました。職場動員のあり方などJR東労組との違いを説明し、かつては私どもの組合も同じような強要する雰囲気があったことを記していました。特定の思想に関わる政治方針を公務員の組合が持つべきではないという主張であり、下っ端さんからすれば「見ている風景が違うのかどうかなど、どうでもいいです」という説明が加えられています。

しかし、事実関係を正確に共有していないのであれば、かみ合った議論から離れかねません。下っ端さんが「公務員である以上、常に、いかなる時も、景色など関係なく、公務員である必要があるのです。私達は」と記していましたが、私自身も公務員としての自覚と責任を持って職務を励行しています。組合活動においても公務員であるという自覚を忘れたことはありません。過信や勘違いで組合活動を進めていないため、政治方針を掲げていることだけで強く批判され続けていることに違和感を抱いています。

このブログの中で、基本的な考え方や視点が異なっていた場合、同じ事象に接していても人によって評価が分かれがちなことを頻繁に指摘しています。一方で、偏った見方や情報だけでは望ましい「答え」を見出しづらく、多面的な情報に触れていくことの大切さを訴えてきています。したがって、もう少し批判の対象となっている具体的な事例を下っ端さんから示していただければ、より実りある議論につなげていけるのかも知れません。

いずれにしても「見ている景色そのものが違うのではないか」という私自身の言葉が、あっしまった!さんやnagiさんからは異論を排除するように理解されてしまったようですが、下っ端さんとの議論を強引に打ち切るような意図は一切ありません。もし私自身の問題として、もしくは私どもの組合の問題として、改めなければならないような具体例がある場合、率直に指摘していただければ幸いだと考えています。

個別の具体例は関係なく、オールorナッシングの総論的な問題として、平和や人権など政治方針を一切下ろすべきという指摘に集約される話だった場合、改めて今回の記事を通して説明を加えさせていただきます。前回記事のコメント欄に次のような選択肢での問いかけが寄せられていました。組合の政治活動の必要性や有益さを理解した上で反対している組合員には、どのように対応するかどうかという問いかけでした。

  1. 理解するまで説明を続ける。
  2. そのような組合員は無視する。
  3. 反対する組合員は追放する。
  4. 理解されない活動を撤回する。

今回も恐縮ながら私自身の「答え」は上記以外のものとなります。「1」に近いのかも知れませんが、「引き続き理解を求めていく」という「答え」です。結果的に理解いただくことは難しいのかも知れませんが、説明することを放棄するようでは「2」の無視に近い現状になりかねません。当たり前なことですが、政党や政治団体ではありませんので、政治的な方針に対する考え方が異なろうと組合員の追放や排除などあり得ません。

例えば自治体においても住民全員が賛同していなくても、原発再稼働や住基ネット接続などを拒むという政治的な判断を首長らが下すケースもあります。そのような場合、自治体の方針に反対する住民も転出することなく、住民税を納めています。不本意であっても選挙を経て担っている首長や議員の判断に委ねるという関係性があるからです。そのような自治体の方針が住民の多くから支持を失うようであれば、次の選挙で首長らが代わり、政策判断も変わっていくことになるはずです。

少数意見の尊重についてですが、下っ端さんから「野党の意見を聞かず、自民党が数の力で強行採決することは、民主主義の冒涜」という激しい言葉で批判していたという指摘を受けています。この言葉も私あてなのかどうか分かりませんが、私自身は国会での強行採決に関して「安保関連法案が衆院通過」や「民進党に望むこと」などを通して綴ったとおりの問題意識を示しています。強引さを批判した記述は残していますが、決して「民主主義の冒涜」だと批判したことはありません。

多数決は少数意見が排除されるシステムですが、どうしても結論を出さなければならない時に行なう民主主義の一つの形だと考えています。重要な点は多数派が少数意見にも耳を傾け、必要な見直しをはかりながら合意形成をはかることです。採決しなければならない時も、採決すること自体は反対しないという理解を少数派から得ることも大切です。方針が決まった後も、多数派は少数派の意見を意識しながら対応していくことも欠かせません。

選挙で信任された議席数による多数決だけが民主主義ではなく、上記のような少数意見の尊重も民主主義の大事な点だと言えます。なお、少数意見があるからと言って、決まっている方針や活動を保留することが少数意見の尊重ではありません。100%の総意は容易ではなく、一定の活動が必要な組織の構成員にとって認めざるを得ない関係性だろうと理解しています。

その際、日常的な活動を進める上で「少数意見の抹殺」などと思われないような配慮が求められています。組合の政治活動の話に焦点化した場合、組合員の政治意識の多様化を踏まえ、組織として決まった方針だから「従うのが当たり前」という強要は避けるべきものと考えています。さらに強要と受けとめられるような手法や雰囲気にも留意しなければなりません。組合方針を堂々と批判する組合員を異端視しないことも大切です。

自分自身、長く組合役員を担う中で一定の政治活動の必要性を認めてきています。その上で、特に執行委員長になってから上記のような問題意識のもとに組合員の皆さんと接しています。「改憲に反対しよう」という結論の押し付けではなく、「なぜ、反対するのか」という理由の説明を重視してきています。ちなみに私自身の発する「丁寧に」は、様々な異論があることを尊重した上で、粘り強く説明を重ねていく関係性を意識した言葉です。

政治課題に関する集会参加の呼びかけも組合ニュースを中心としながら個々の組合員の意思を尊重し、職場割当の動員要請は行なっていません。単組としての動員力の弱さを自治労都本部からお叱りを受けたとしても、持続可能な等身大の組合活動として重視している心構えです。このような「答え」もナッシングを主張されている下っ端さんを納得させるものではないはずです。

「労働組合が政治活動に関与することは歴史的にも国際的にもスタンダートな姿だと言えます」と記しました。その言葉に対し、下っ端さんからは「集団的自衛権を保持することは、歴史的にも国際的にもスタンダートな国家の姿だと言えますよね。では、政治活動同様、集団的自衛権も憲法にしっかりと明記しましょうよ。まさか、こっちはいいけどこっちはダメなんて、そんなご都合主義な考えはお持ちじゃないですよね?」という問いかけがありました。

日本国憲法は「集団的自衛権は認めない」という解釈のもと、ご指摘のとおり国際的なスタンダードな姿とは一線を画していました。その「特別さ」を私自身は望ましいものだと考えているため、解釈で容認した安保関連法は非常に問題だと思っています。もし多くの国民が国際的にはスタンダートな姿を望むのであれば、真正面から国民投票に付すべきという考えでもありました。改められる手段がある限り、将来にわたって現状を固定できるものではありません。

組合の政治活動も同様です。私は自分自身の信じている「答え」のもと私どもの組合活動に対して責任を果たしていきます。ぜひ、下っ端さんもその強い問題意識のもとご自身の所属する組合の中で変革に向けた力を発揮していただければと考えています。この言葉を添える際、注意しなければならないことがあります。下っ端さんの今後のコメント投稿を自制させるような意図は一切ありません。

自治労に関係する多くの方々もご覧いただいているはずのブログですので、下っ端さんの発信する主張が意義あるものとなっていく可能性もあります。私自身、幅広い意見や異論を歓迎している立場ですので、下っ端さんからのコメントが減るようでは残念なことです。ただ強調したい点として、現実の場面の変化を求めていく場合、自分の足元から試みていくことが近道なのだろうと思っています。

そもそも当ブログを通し、下っ端さんの主張を全面的に私自身が賛同したとしても、すぐ組合方針を変えられる訳ではありません。執行委員会で議論し、大胆な方針変更の議案を準備し、定期大会で確認を得られた時に変えられる運びとなります。あっしまった!さんからご理解いただいているようですが、仮に執行委員長の一存で重要な方針が変わってしまうようでは組合民主主義から程遠い姿だと言えます。

「そこまで、する気がない」というお考えかも知れません。それでも組合役員の担い手不足の問題と絡みながら、多様な政治意識を持つ組合員の皆さんの執行部への参画は非常に重要な問題となっていくはずです。万が一、それこそ特定の政治的な考え方を重視する組合役員ばかりの執行部体制になった場合、組合員の皆さんとの意識の乖離がますます広がっていきかねません。外形的に組合民主主義が担保されていたとしても、望ましい組合組織とは言えないような気がしています。

思った以上に長い記事となりました。それでも前回記事のコメント欄に寄せられた問いかけなどに対し、すべて網羅できていないはずです。単発で終わるブログではありませんので、不足した点は次回以降の記事で補っていければと考えています。最後に、「コトバンク」に掲げられていた「組合民主主義」という言葉の説明を紹介し、今回の記事を終わらせていただきます。

労働組合を民主主義的に運営する原則。労働組合運動における組織原則の一つで、組合幹部の独善主義的、官僚主義的な組織運営に対する概念として用いられる。労働組合は、思想、信条を異にする広範な労働者が自らの要求に基づいて団結し闘争する大衆組織である。したがって、労働組合が資本家ないしは使用者に対抗し、自らの経済的・社会的地位の向上を図るためには、組合員の強固な意思統一と団結を最大限に確保することが不可欠である。

そのためには組合の組織運営が組合員全体の意思を反映し、その行動が民主主義的な手続を経て決定する組合民主主義の原則が確立されていなければならない。現行の労働組合法(昭和24年法律174号)が役員選挙、同盟罷業、規約改正について組合員の全員投票を労働組合規約に明記することを義務づけている(5条)のも、組合民主主義を法律によって確保しようとしたことにほかならない。

組合民主主義を確立するためには、労働組合は少なくとも、(1)使用者や政党など政治団体の組合への干渉を排除し、大衆組織としての自主性を確立していること、(2)すべての組合員が労働者としての民主的権利のほか、組合活動全般に実質的かつ平等に参加できる権利が保障されていること、(3)組合組織を日常的に動く組織にし、幹部闘争から大衆闘争への原則を確立していること、などの条件を満たしていなければならない。

決定に際して少数グループの意見が多数グループによって絶えず否定されることは組織分裂に通ずるおそれがあるため、単純多数決によらず各層の意見を反映するよう、議決方法や代表者数が配慮されている。このような組織運営のあり方を組合民主主義と呼んでいる。選任された役員は執行委員会を形成し、組合員代表からなる中央委員会あるいは代議員会にはかりながら業務を遂行する。

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2018年5月19日 (土)

等身大の組合活動として

「この人には何を言っても無駄だ」「このサイトでコメントしても意味がない」などと思われ、まったく反応がない場になるようではブログを続けている意義も薄れることになります。いつも申し上げていることですが、基本的な視点や立場が異なる方々から幅広いご意見を伺えることは貴重な機会だと思っています。

このブログにコメントをお寄せくださる皆さん、それぞれ何らかの思いを持って時間を割かれていただいていることに心から感謝しています。ただ私自身に対して「聞いているだけで変わろうとしない」という批判も受けがちであり、かみ合わない議論や「暖簾に腕押し」感に嫌気をさしてコメント欄から去られた方も少なくありません。

主張すべき点は主張するという目的で始めたブログでもあるため、意見対立を意図的に避けるような対応は考えていません。したがって、今回の記事内容が批判意見を繰り返されている方々の苛立ちをやわらげられるかどうか分かりませんが、前回記事「再び、ネット議論への雑感」に寄せられていたコメントを念頭に置きながら書き進めてみます。

まず土曜の朝、私からコメント欄に「組合が腐敗していくのも当然のことです」「執行委員長という立場が、本当は理解できるはずのことを曇らせてしまうのですかね」などという極めて不本意で残念なコメントが寄せられてしまっていることについて「決して容易な試みとは思っていませんが、新規記事を通して少しでも不名誉な見られ方が払拭できるように努めていければと考えています」と記していました。

すると早々に下っ端さんからは「>極めて不本意で残念なコメント そう受け止められることは想定したうえでのコメントです。では、私から。組合が本来の目的を逸脱した、組合と関係のなり活動をすることに対して、極めて不本意で残念と考えている組合員からのコメントとお受け止めください」というコメントが寄せられていました。

「組合と関係のない活動」というご指摘だと思いますが、関係のないと決め付けて「極めて不本意で残念」という下っ端さんの考え方を問題視するつもりはありません。繰り返し述べてきていますが、そのように考えている自治労組合員が少なくないことを認識すべき機会だととらえています。

私が「極めて不本意で残念」だと感じた点は「執行委員長という立場が、本当は理解できるはずのことを曇らせてしまうのですかね」というご指摘についてです。推測をもとに他者を蔑む言葉であり、まして不愉快に感じることを想定したコメントだと伺い、ますます残念に思います。それほど下っ端さんの目にしている組合活動は批判を受けざるを得ない実態なのでしょうか。

もう一つの残念な「組合が腐敗していくのも当然のことです」という言葉はnagiさんからのものですが、その前段に下っ端さんから次のようなコメントが寄せられていました。ここまで断定調に批判されてしまうと、見ている景色そのものが違うのではないかと考え始めています。これから掘り下げていく論点を明確化するため、その時に下っ端さんから寄せられたコメント全文をそのまま紹介させていただきます。

組合は、組合活動だけ行っていればよかったのに。いつの間にか組織は大きくなり、力を得た組織はもっと力を求めるようになり、政党を支持し、国政に進出も果たし、気が付いたらは必要のないほどの力を得てしまった。組織や権力は絶大な力を発揮し、自分達の発言力や影響力は目に見えて大きくなり、まるで、正義を貫く大きな力を天から授かったと過信するほどの、勘違いを生み出してしまった。

本当はただ、働く仲間達の明日に希望を灯す、助け合い運動でしかなかったのに・・・・・一度手にした権力は、力は、組織は、もう手放せませんよね。だって、力に酔いしれ、本来の目的も忘れ、「正義と平和」いう言葉に都合よく言い替えた、ただの過信と思い込みを振りかざすだけの結末。そんな滑稽な姿に見えてしまうのは、私だけでしょうか。そんな悲しい結末を想像してしまうのは、私だけでしょうか。

下っ端さんがとらえられている組合活動は職場課題に特化したものだと理解していますが、これまで組合活動の中に一定の政治活動も含まれていることを説明しています。職場内の労使交渉だけでは組合員の利益を守れない場面もあるため、労働組合が政治活動に関与することは歴史的にも国際的にもスタンダートな姿だと言えます。

確かに特定の政党や政治家と支持協力関係を築くことで、組合組織としての「政治力」を得ることができます。しかし、その力は「組合員のため」に活用することを目的にしています。仮に政治活動から距離を置いた時、組合員全体にマイナスの影響を及ぼすことも考えられます。いずれにしても一度手にした権力は手放せない、過信と思い込みを振りかざすというような見方こそ、思い込みが先走っているように感じがちです。

また私自身の「目が曇っている」と言われてしまうのかも知れませんが、一定の政治活動の必要性を認めている立場からは違和感を抱かざるを得ないコメント内容でした。一方で、下っ端さんのように「政治活動から一切手を引くべき」と考えている自治労組合員が相当数に上ることは重く受けとめています。だからこそ政治活動の必要性や有益さを組合員の皆さんに対し、よりいっそう丁寧に周知していく試みが欠かせないものと考えています。

加えて、職場課題と政治活動に対する力点の置き方を主客逆転させないことはもちろん、組合ニュース等での周知の仕方にも注意を払っています。政治課題での各種集会は数多く取り組まれ、自治労都本部を通して通知が届きます。それらの情報を執行委員会の段階では共有化しますが、組合員の皆さんへの周知はメリハリを付けながら絞り込んでいます。

「参加希望者がいなくても、このような国会前での行動に取り組んでいることを組合ニュースを通して組合員に知らせるべきではないか」という意見を示す組合役員もいます。一人でも多くの参加者を募りたいレベルの集会ではない限り、掲載することで逆に印象を悪くしかねないケースを想定し、アピールを目的にニュースの紙面を割くことはありません。全面撤退を唱えている方々からすれば「その程度」という話かも知れませんが、以上のような判断に至る背景は当ブログのコメント欄での声を意識しているからです。

ここから実際の組合活動における話にもつなげていきます。4年前、「市議選まであと1か月」というブログ記事を投稿していました。今回も市議会議員選挙まで1か月を切るタイミングに差しかかり、火曜日に開いた職場委員会で私どもの組合の対応方針を確認しています。来月6月17日が投開票日で、定数28名に対し、50名ほどが立候補を予定し、かつてない激戦が見込まれています。

これまで私どもの組合の元委員長を推薦し、緊密な協力関係を築いてきました。今期で勇退されますが、市議会に緊密な連携をはかれる議員の存在の貴重さは変わりません。そのため、自治労都本部が推薦を決めた無所属での立候補を予定している候補者を私どもの組合も推薦します。その候補者は自治労方針を尊重し、私どもの組合と緊密に連携しながら政治活動を進めたい意向を示されています。

このような点を受けとめ、今後、その候補者を市議会に送り出せるよう可能な限りの力を尽くしていきます。ただ選挙に関わる方針は組合員の皆さんへ押し付けるべきものではなく、その重要性や意義を訴え続けることによって、ご理解やご協力を求めていくべきものだと考えています。今回の記事に関連した最近の動きとして、参考までに紹介させていただきました。

このブログを通しては「政治活動から一切手を引くべき」という強い訴えがある中、実際の場面では上記のような動きを進めています。とは言え、現在の私どもの組合の力量等を踏まえ、長年市議を務められた元委員長の後継者を組織内から送り出すという選択肢は早い段階で見送っていました。その上で等身大の組合活動として、市議選に臨む方針案を提起し、職場委員会で確認を得ることができています。

最後に、今回も長々と綴ってきましたが、組合の政治活動自体を批判されている方々に少しでも「なるほど」と思っていただけるのかどうか自信はありません。特に下っ端さんから寄せられたコメントに対してお答えしてきたつもりですが、場合によって失礼な記述箇所も散見しているかも知れません。容易に分かり合えないものと思いますが、閲覧されている不特定多数の方々を意識しながら、お互い言葉の「競い合い」ができれば幸いだと考えています。

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2018年5月12日 (土)

再び、ネット議論への雑感

かなり前に「ネット議論への雑感」という記事を投稿していました。今回の記事を書き進めるにあたり、まずタイトルをどうしようかと考えました。前々回記事「役に立たない組合はいらない?」と前回記事「日本国憲法が大きな岐路に」のコメント欄に何人かの方から私自身の姿勢に対し、手厳しい意見や指摘が寄せられていました。

そのため、書きたいこと、書かなければならないこと、いろいろ頭の中に思い浮かんでいます。土曜の朝には「コメント欄を通し、私からお答えすべき点について即応したほうが望ましいのだろうと理解しています。それでも記事本文を投稿する週末に至っていますので、いろいろ思うことを新規記事の中で綴らせていただくつもりです」と記していました。

皆さんから寄せられている疑問に対し、どこまでお答えできるか分かりませんが、インターネットを通した議論に思いをはせながらパソコン画面に向かっています。ただ具体的なタイトルにつなげられるような題材や論点が絞られている訳ではなく、また書き進めるうちに話が広がることも見込まれていました。

そのようなことを考えているうちに「ネット議論への雑感」というタイトルの記事を思い出し、今回の記事に「再び」を付けて書き始めています。以前の記事の中には次のような記述を残していました。このブログのコメント欄に関し、大多数の人たちが匿名によるコメント投稿となる「掲示板」的な場として、様々な議論に触れられることを歓迎しています。

その匿名の利点は、飾らない本音の議論ができることだと思っています。遠慮のない言葉や誹謗中傷の応酬となるリスク、「諸刃の剣」的な側面がつきまといますが、おかげ様で殺伐とした雰囲気になることが極めて少なく、これまで続けてくることができています。ひとえにコメント欄での常連の皆さんのご理解やご協力の賜物だと感謝しています。

そもそも匿名で発信できるということは、立場などの成りすましや都合良く情報を操作することも可能となります。それはそれでモラルの問題となりますが、このようなネット上の私的な場では特に何か問われるものではありません。誰がどのような立場で書いたかは、それほど大きな問題ではなく、その人が書き込んでいる言葉、つまり内容がどのように他の閲覧者の皆さんの共感を呼ぶのか、逆に反発を招くかどうかの関係性だろうと考えています。

このブログを続けていく限り、これからも以上のような思いを念頭に置いていくことになります。当然、実質的には匿名となっていない私自身の発信する内容も同様な関係性だろうと考えています。閲覧されている皆さんから共感を得られるのか、批判や冷笑の対象となるのか、発信する内容はもちろん、一言一句が大事なことに変わりありません。

ただ注意しなければならない点として、実際に面と向かった場面でも意思疎通の行き違いがあります。それこそ言葉だけの意見交換となるネット上では実際の場面以上に思いがけない行き違いが生じがちです。書き手側の言葉不足や表現力に問題がある場合、もしくは読み手側の早とちりや誤読が原因になることも考えられます。

さらに議論を成立させるために必要な前提が人によって異なることにも留意しなければなりません。このあたりは以前の記事「このコメント欄の限界と可能性」を通して詳述していました。例えば「自治労」という組織に対する基本的な事実認識が異なっていた場合、提起されている問題意識や論点がうまくかみ合わないケースも目立ってしまいます。

加えて、自治労は所属している組合一つ一つの連合体であるため、個々の組合のカラーが大きく違う場合も見受けられます。そのため、同じ自治労の組合員同士でも普段見ている組合活動の風景が違う中で、ネット上で議論しているケースもあり得ます。その上で、どの組合も共通している点については当ブログを通し、自信を持って断定している言葉があります。

前々回記事「役に立たない組合はいらない?」の中で、決して特定の団体のために余計な組合活動があるのではなく、すべて「組合員のため」を目的としています、という言葉です。政治活動も同様ですが、この言葉の意味合いが誤解を招いているようです。もちろん特定の政党や政治家のために組合活動がある訳ではありません。しかし、特定の政党や政治家を自治労や各単組が支持することを否定している言葉ではありません。

特定の政党や政治家と支持協力関係を築くことが「組合員のため」になり、「組合員のため」になることを第一義的な目的として一定の政治活動にも力を注いでいるという説明を繰り返しているつもりです。政治活動から一切手を引くべき、特定政党の支持はやめるべき、いろいろな考え方があろうかと思っていますが、これまで自治労や私どもの組合方針は政治的な立ち位置を明らかすることが多くなっています。

そのような方針に対し、このブログのコメント欄では批判的な意見が目立ちがちです。その中で、たいへん残念で不本意な指摘まで受けてしまっています。「自分たちの主張は正しく、受け入れられて当然。より、訴えを強化して、知ってもらわないといけない」と考え、現実世界では通用しない脳内世界で私たちが判断しているという指摘です。「施策の方針・考え方が十分に理解されているからこそ、正しい理解に基づいてそれに対する拒絶反応が生じている」とは、思いもよらないと思います、という言葉にも寂しさを強めていました。

政治的な個々の方針に対して組合員の中に幅広い見方があることを人一倍認識しています。しかしながら私自身、組織的な手続きを経て確認した組合方針を誰よりも守らなくてはならない立場です。その方針の基本的な方向性を正しいと信じている立場でもあり、だからこそ「なぜ、取り組むのか」という丁寧な説明の必要性を重視してきています。このブログを開設した目的も、そのような説明の機会の大切さを感じているからです。

このような立場性をご理解いただいていると思われる常連の方から無記名アンケートで「過半数の回答を単組の方針にしてはどうでしょう」という問いかけがあったため、正直なところ驚きと落胆が織り交ざりました。問いかけではなく、「私が単組の委員長であれば、このようにして自治労方針を改めていきます」と結ばれていれば、その是非を私がコメントする立場ではなく、話が広がることもなかったはずです。

ちなみに組合員全員を対象にした無記名の投票として、組合役員の信任投票ストライキ権の批准投票があります。それぞれ投票率は90%を超え、全役員信任が70%以上で、最高位となる私自身の信任率は90%を超えています。批准投票での賛成率も90%に届いています。政治方針を含めた組合活動を直接評価する投票ではありませんが、組合員の皆さんからの信頼度をはかる大きな目安としています。

ネット議論への雑感として、もう少し書き進めなければなりません。人それぞれが培ってきた経験や得てきた知識によって基本的な考え方は枝分かれしていきます。その基本的な考え方の違いから同じ事象に接していても、物事に対する評価や賛否が大きく分かれがちです。当たり前なことかも知れませんが、個々人それぞれが正しいと信じている評価や賛否、つまり「答え」が唯一無二のものとなります。

その「答え」から極端に離れた考え方や見方に接した場合、どうしても批判的な口調になりがちな方々が多くなることも仕方のない関係性だろうと思っています。このブログにおいても私自身の「答え」に対して痛烈な批判が繰り返されたケースは数え切れません。私の「答え」が変わらないことに苛立ち、コメント欄から離れて行かれた方も多いようです。その点は以前の記事「出入り自由な場として」の中で記しているとおりです。

〇か×かで問いかけられ、どちらか明確に応答しない時があります。〇か×か明確化した回答を求めている方に対し、答えをはぐらかしているような印象を与えてしまっているようです。それでも〇か×かだけでは答えられないケースが多いことも確かです。安倍首相に対する批判の仕方について、私自身はそのような手法や表現方法は取らないと言い切れる場合でも、他の方が試みることまで絶対駄目だと判断できないケースもあります。

常連の皆さんの多くからはご理解いただいている点ですが、このような答え方の正しさを押し付けるつもりもありません。あくまでも冒頭に述べたとおり私自身が書き込んでいる言葉や内容がどのように閲覧者の皆さんの共感を呼ぶのか、逆に反発を招くかどうかの関係性だろうと考えています。そもそも当ブログにおいて「答え」を一つに絞ることは目的にしていません。

多様な意見や情報に触れ合えることの貴重さを感じ取りながら、実生活の場面での判断材料や参考情報につなげていければ何よりなことです。もちろん「なるほど」と思えるコメントに接した時は自分自身の旧来の考え方を改める機会にしていくつもりです。その逆に私自身が発信している主張に対し、一人でも多くの方から少しでも「なるほど」と思っていただけるようであれば本当に幸いなことです。

最後に、直近のコメントを意識した記事本文としていますが、今回、どなたのお名前も上げないまま書き進めてきました。一般論の話とするよう意図したものであり、もし取り上げ方で失礼さを与えているようでしたら申し訳ありません。また、コメント欄で示されていた具体的な政党の話など、すべて網羅できていませんが、機会を見ながら次回以降の記事本文で扱っていければと考えています。

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2018年5月 5日 (土)

日本国憲法が大きな岐路に

5月3日の憲法記念日、全国各地で憲法をテーマにした様々な集会が催されました。「憲法を生かす全国統一署名」の取り組み団体が呼びかけた有明防災公園での「9条改憲NO!平和といのちと人権を!5.3憲法集会2018」には主催者発表で6万人が集まりました。私どもの組合からも役員を中心に数名が参加していました。

私自身は地元の市民団体が主催した憲法集会に参加しました。労働組合のつながりを考えれば有明の集会のほうに行くべきだったのかも知れませんが、時間的に都合が付きやすかったことに加え、弁護士の澤藤統一郎さんの講演「憲法を支える平和的生存権」に興味があったため、地元の集会のほうを選ばさせていただきました。

ブックマークし、ほぼ毎日訪問しているブログの一つが「澤藤統一郎の憲法日記」でした。弁護士の視点から憲法を切り口にした多様な題材を鋭く論評され、歯に衣着せぬ書きぶりが特筆できるブログだと言えます。日頃からブログに関心を持っていたため、澤藤さんから直接お話を伺える集会はたいへん貴重な機会だと考えました。

ちなみに平和的生存権とは日本国憲法から導き出される人権の一つで「平和のうちに生活する権利」のことを指します。澤藤さんは「平和も手段的価値であって、人権としての平和的生存権こそが目的価値ではないか。平和を制度の問題ととらえるのではなく、国民一人ひとりが、平和のうちに生きる権利を持っていると人権保障の問題として再確認する」と語られています。

この平和的生存権を根拠とし、日本政府が湾岸戦争時に90億ドルもの戦費を負担したことの違法性などを裁判で争ってきたという話も添えられていました。その日のうちに澤藤さんは「憲法記念日に平和的生存権を語る」というタイトルでブログを投稿されていました。講演内容の資料も掲げられていますので、ぜひ、興味を持たれた方はリンク先をご参照ください。

講演の冒頭の自己紹介の際、澤藤さんは「弁護士は市民社会から与えられた自由がある。誰にもペコペコしない。公務員であれば遠慮して書けないことも弁護士は何でも書ける」とし、DHCとのスラップ訴訟の体験談などを紹介されていました。言論の自由の重要さを強調された上、このような自由があるからこそ、消費者支援など弱者の立場での裁判に全力で取り組めるという弁護士の立場性や強みを語られていました。

澤藤さんが投稿している興味深い記事内容は当ブログの中でも時々紹介していました。「何でも書ける」と語られている澤藤さんの最近の記事「朝鮮半島の平和は困る ― 9条改憲の好機を逃してしまいそう」などもウイットに富み、鋭く世相を風刺した内容だろうと思っています。私自身は興味深く閲覧でき、権力者に対し、このような批判の仕方も許容できる範囲だろうと見ています。

一方で、安倍首相を支持されている方々が目を通せば、揶揄した書きぶりに対して強い嫌悪感を示されるのかも知れません。嫌悪感が示された瞬間、書かれている本質的な批判内容の是非や評価まで至らない可能性が高くなるはずです。このような関係性を避けるため、このブログでは基本的な考え方や立場の異なる方々にも届くような言葉を探し続けています。

「OTSU」というハンドルネームで、個人の責任で運営しているブログですが、知り合いや組合員の皆さんからすれば匿名での情報発信ではありません。そのため、確かに「公務員だから書けない」こともあるのでしょうが、前述したような問題意識から言葉や表現を選ぶ場面が多くなっています。このような事情については以前の記事「ブログでの発言の重さ」の中で詳しく説明していました。

あえて対立点を際立たせない書き方が多く、寄せられたコメントに対しては断定的なレスが少ないため、分かりづらい点があることを自覚しています。意識的に「思っています」「考えています」という語尾を多くし、多様な「答え」があることを前提に私自身の考えや問題意識を発信しています。その上で「公務員だから」ではなく、異なる「答え」をお持ちの方々を挑発するような言葉や表現は極力避けるように心がけています。

もう一つ、分かりづらくしている大きな理由があります。前述したとおり個人の責任で運営しているブログですが、組織の看板を背負いながら発信している側面もあります。私どもの組合も、自治労も、おおらかな組織ですので、個人的な発言の自由度は高いほうです。それでも組合委員長という立場を忘れることはなく、組合役員や組合員の皆さんが当ブログを見た際、「あれっ?!」という違和感や不信感を与えるような記述は控えています。

とは言え、それほど窮屈さを感じることはなく、個人的な思いを存分に発信してきているつもりです。基本的な方向性として自治労や平和フォーラムの方針を受けとめられる立場であるため、このブログを通して発信している内容はすべて自分自身の率直な思いばかりです。組織の一員だからと言って「白だと思っていることを黒だ」と偽って発言したことは一度もありません。

当然、自治労や平和フォーラムの個々の方針と自分自身の考え方がすべて一致している訳ではありません。違いは違いとして必要であれば当ブログの中で問題提起しています。そのような際、ブログだけの発信にとどめず、なるべく実際の場面でも同様な趣旨の発言を行なうように心がけています。その一例として「自治労都本部大会での発言」という記事なども投稿していました。

前回記事「役に立たない組合はいらない?」を通し、労働金庫全労済の取り組みをはじめ、余計な組合活動はなく、すべて「組合員のため」を目的としていることを強調させていただきました。組合の政治活動も同様です。向き合い方に注意は必要ですが、余計な活動とは考えていません。だからこそ当ブログを通し、その必要性や取り組み方に対する発信を重ねてきています。

前回記事の中で「どのような活動をどの範囲まで取り組むのか、それぞれの組合が加入されている組合員の皆さん同士の議論を通して決めていく問題だろうと考えています」とも記しています。この記述を踏まえたコメントだったのかも知れませんが、下っ端さんから無記名アンケートの提案がありました。政治活動に関わる個別の選択肢に対して無記名アンケートで過半数を得た「答え」を組合方針にしていくという発想自体を頭から否定するものではありません。

しかし、組織的な手続きを経て確立している既存の組合方針がある中、現職の組合委員長の立場から「妙案ですね。実施に向けて検討します」と答えられる訳がありません。前述したとおり匿名の関係ではない内外の組合関係者が閲覧された際、大きな戸惑いを与えることになります。そもそも私自身、一定の政治活動は必要であるものと考えているため、その必要性について組合員の皆さんに対して理解を求めていくことに力を注いでいる立場です。

いつものことですが、長い記事になりつつあります。記事タイトル「日本国憲法が大きな岐路に」から離れた内容が広がってしまいました。ブログのサブタイトルに「雑談放談」と掲げているとおりですのでご容赦ください。記事タイトルの変更も考えましたが、憲法記念日の話題から入っているため、そのままとしています。それでも匿名のブロクではない実情に絡めた意味合いからも本題につなげていくつもりです。

私どもの組合員の皆さんに組合活動を身近に感じてもらうため、このブログを開設したことを「秋、あれから10年2か月」などの記事の中で説明してきました。ただ組合員の皆さんの大半が当ブログを閲覧されているかどうかで言えば、そのような現状には至っていないように受けとめています。そのため、これまで組合のニュースや機関誌という紙媒体にもブログの記事内容を頻繁に転用していました。

その逆に紙媒体で扱った内容を後からブログ記事に掲げる時もありました。このことはネット上と実際の場面での主張を使い分けていない証しとも言えます。ちなみにネット上に発信した内容が圧倒多数の方々から批判を受けるようであれば、何か大きな問題点があることを認識する機会にすべきものと考えています。要するに組織の内側だけしか支持を得られないような情報発信では「運動」の広がりが期待できないことを感じ取っています。

このような関係性のもとに毎年3月末、春闘期に発行する機関誌『市職労報』の中の私自身の記名原稿はブログ記事の転用が多くなっています。組合ニュースの紙面だけでは情勢などに詳しく触れられないため、そのような点を補う意味合いから「春闘期、情勢や諸課題について」という特集記事を通して様々な情報を発信してきています。そのことによって、少しでも情勢や諸課題に対する認識が組合員の皆さんと共有化できることを願っています。

人事評価制度や時間外勤務の問題など労使協議課題を中心にした内容となっていますが、今年、日本国憲法を巡る論点についても少し誌面を割きました。「憲法を生かす全国統一署名」に取り組んだ際、私自身の文責として署名活動の目的や趣旨などを組合ニュースと職場委員会資料に書き残していました。今回『市職労報』の特集記事とは別に「日本国憲法が大きな岐路に」というコラム記事とし、もう少し私自身の問題意識を補足させていただく機会を得ました。

以下はその原稿の全文となります。当初、この原稿を紹介した後、直近の情勢や日本国憲法を巡る動きなども書き加えていくつもりでした。澤藤さんの「公務員であれば遠慮して書けない」という話から当ブログの位置付けについてまで内容が広がってしまいました。たいへん長い記事となっていますので、今回は「日本国憲法が大きな岐路に」というコラムの原稿紹介をもって一区切りつけさせていただきます。

           *            *

今、日本国憲法が大きな岐路に差しかかっています。国際社会の中で際立った平和主義のもとの「特別さ」を守っていくのかどうか、私たち一人ひとりの判断が求められようとしています。「憲法を生かす全国署名」にご協力いただいた際、職場委員会資料等を通し、私自身の記名原稿をお示ししていました。今回、その時の内容をさらに補足する位置付けとして書き進めてみます。

史上初めて米朝首脳会談が開かれる見通しです。これまで安倍首相は「必要なのは対話ではない、圧力を最大限強めることだ」と繰り返してきました。国際社会の中でルールを破っているのは北朝鮮であり、各国が足並を揃えて一定の圧力を加えていくことは必要です。

しかし、圧力は平和的に解決するための手段であり、あくまでも対話のテーブルに着かせるための手段だと言えます。それにも関わらず、安倍首相は必要以上に強い言葉を発し、わざわざ日本が真っ先に標的になるリスクを高めているように思えてなりません。ミサイル防衛によって「万全の態勢で国民を守る」と安倍首相は力をこめます。

しかしながら迎撃能力に100%の保障はありません。追い込まれて自暴自棄になった北朝鮮が東京を狙って核ミサイルを発射し、都心上空で爆発した場合、死傷者は400万人に達する見込みです。この400万人という試算の中に自分自身や家族、知人の姿を想像すれば北朝鮮を追い込みすぎることのリスク回避に全力を尽くす政府や政治家を最大限支持すべきなのではないでしょうか。

現在、北朝鮮情勢の緊迫化などを受け、来年度の防衛予算は過去最大規模の5兆2千億円に及ぶ見通しです。抑止力を重視しすぎた場合、敵対する国同士、疑心暗鬼となって際限のない軍拡競争に陥りがちです。そもそも仮想敵国としたソ連、現在のロシアとは対話を土台にした外交関係を築いています。核兵器の保有で言えばロシア、中国、NPT(核拡散防止条約)未加盟のインドとも対話することができています。

対話できる関係、つまり敵対関係ではないため、核兵器による切迫した脅威を感じるようなことがありません。このような対話をできる関係を築くことがお互いの「安心供与」であり、外務省のホームページにも掲げられている「人間の安全保障」につながる考え方だと思っています。

防衛審議官だった柳沢協二さんは、脅威とは「能力」と「意思」の掛け算で決まるものだと話されています。日本が考えるべきは「ミサイル発射に備える」ことではなく、「ミサイルを撃たせない」ことであり、米朝の緊張緩和に向けて働きかけることが何よりも重要であると訴えていました。憲法9条を持つ日本こそ、このような立ち位置のもとに核兵器禁止条約にはすべての国が賛同するように働きかけを強めるなど国際社会の中で「平和国家」というブランド力を高めていって欲しいものと心から願っています。 

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