いがみ合わないことの大切さ、インデックス
このブログを長く続ける中で多用する言い回しがいくつかあります。「多面的な情報」という言葉などが代表的なものです。同じモノを見ていても、見る角度や位置によって得られる内容が極端に違ってきます。一つの角度から得られた情報から判断すれば明らかにクロとされたケースも、異なる角度から得られる情報を加味した時、クロとは言い切れなくなる場合も少なくありません。
クロかシロか、真実は一つなのでしょうが、シロをクロと見誤らないためには多面的な情報をもとに判断していくことが非常に重要です。そして、より望ましい「答え」を見出すためにも、幅広く多面的な情報に触れていくことが欠かせません。他に「いがみ合わないことの大切さ」というものがあります。そのことを主題にした過去の記事がどれほどあったのか、人の記憶は当てにならないため、Googleの検索サイトで確認してみました。
すると思った以上に「いがみ合わないことの大切さ」という言葉をタイトルに付けた記事が並んでいました。そのため、久しぶりにインデックス記事に取りかかってみることにしました。このところインデックス記事は「非正規雇用の話、インデックスⅡ」を最後に半年以上投稿していません。次のような便利さを個人的には意識しているため、今回、今年3月以来のインデックス記事として書き進めてみます。
カテゴリー別に検索できる機能を使いこなせず、これまで「自治労の話、2012年夏」のように記事本文の中にインデックス(索引)代わりに関連した内容のバックナンバーを並べています。その発展形として「○○の話、インデックス」を始めていました。その記事の冒頭、インデックス記事のバックナンバーを並べることで「インデックス記事のインデックス」の役割を持たせています。カテゴリー別のバックナンバーを探す際、自分自身にとっても役に立つ整理の仕方であり、時々、そのような構成で新規記事をまとめてきました。
これまで投稿したインデックス記事は「平和の話、インデックス」「職務の話、インデックス」「原発の話、インデックス」「定期大会の話、インデックス」「年末の話、インデックス」「旗びらきの話、インデックス」「春闘の話、インデックス」「コメント欄の話、インデックス」「非正規雇用の話、インデックス」「定期大会の話、インデックスⅡ」「年末の話、インデックスⅡ」「平和の話、インデックスⅡ」「組合役員の改選期、インデックス」「人事評価の話、インデックス」「図書館の話、インデックス」「旗びらきの話、インデックスⅡ」「憲法の話、インデックス」「人事院勧告の話、インデックス」「非正規雇用の話、インデックスⅡ」で、「いがみ合わないことの大切さ」に関わるバックナンバーは次のとおりです。
- 2008年 8月10日 チベット問題とオリンピック
- 2013年 9月22日 汝、隣人を愛せよ
- 2014年 1月12日 いがみ合わないことの大切さ
- 2014年 1月19日 いがみ合わないことの大切さ Part2
- 2014年 1月26日 いがみ合わないことの大切さ Part3
- 2014年 7月26日 再び、いがみ合わないことの大切さ
- 2017年 9月23日 安全保障を強い言葉で語ることの是非
「いがみ合わないことの大切さ」という言葉を使っていた訳ではありませんが、その主旨に関連し、頭に思い浮かんだバックナンバーが1番目と2番目の記事でした。前述したとおり人の記憶、と言うよりも私自身の記憶は当てにならないため、主旨に合致した内容は他にも多数あるのかも知れません。それでも今回のインデックス記事をまとめるにあたり、上記7点に絞ってみました。
ちなみに最後の記事にも「いがみ合わないことの大切さ」という言葉がタイトルに付いていません。今回の記事を投稿する切っかけとなったバックナンバーであり、そのあたりについては後ほど説明させていただきます。まず1番目の記事を選んだ訳は、チベット仏教の最高指導者と「国家元首」の顔を持つダライ・ラマ14世の姿勢や言葉を紹介していたためです。ダライ・ラマ14世は中国でオリンピックが開かれることに賛意を示し、チベットの独立問題に対しても現実的な提案を示し、次のような言葉を発していました。
怒りは、怒りによって克服することはできません。もし人があなたに怒りを示し、あなたも怒りでこたえたなら、最悪の結果となってしまいます。それとは逆に、あなたが怒りを抑えて、反対の態度―相手を思いやり、じっと耐え、寛容になる―を示すと、あなた自身穏やかでいられるばかりか、相手の怒りも徐々に収まっていくでしょう。
2番目の記事の内容は、ある程度タイトルから推察できるのではないでしょうか。この記事ではNHK大河ドラマ『八重の桜』の一場面を紹介していました。同志社大学の創立者として有名な新島襄学校長は「私がめざす学校は学問を教えるだけでなく、心を育てる学校です。自分を愛するように目の前にいる他者を愛すること」を教えたいという気持ちを涙を流しながら熊本バンドと呼ばれた生徒たちに訴えました。その際、新島学校長は「自分自身を愛するように、汝、隣人を愛せよ」という聖書の一文も添えていました。
「おのれのために他者を排除する者は断固として許さない。我が同志社は、いかなる生徒も決して辞めさせません。その信念がある限り、私が辞めることもありません。どうか、互いを裁くことなく、ともに学んでいきましょう」と呼びかけました。その記事の最後のほうで、次のような私自身の思いも付け加えていました。キリスト教が世界中に広く普及し、「汝、隣人を愛せよ」という教えも知れわたっているはずですが、残念ながら戦争がなくなる見通しは立っていません、という言葉です。
具体的な話から書き進めていますが、「いがみ合わないことの大切さ」という思いを強めてきたのは当ブログを通した経験が大きな影響を与えていました。かつて一つのブログ記事に対し、100件以上のコメントが寄せられることも珍しくありませんでした。不特定多数の皆さんからの率直な声に触れられる機会につながっていましたが、私自身の立ち位置を明らかにした記事内容であるため、たいへん辛辣な言葉での書き込みが多かったことも確かです。
自分の「答え」が最も正しいと考えていた場合、異なる「答え」に対し、厳しい口調での追及型のコメントになりがちです。しかし、立場や視点が違う方々から少しでも共感を得るためには、よりいっそう言葉遣いの丁寧さが求められているものと考えています。攻撃的な姿勢や蔑んだ言葉が目立った場合、どうしても相手を身構えさせ、本質的な論点に行き着く前の感情的な応酬になりかねません。両者それぞれ自分自身の「答え」が絶対正しく、両極端な意見がぶつかり合った場合、お互い罵り合い、いがみ合う関係性につながっていきます。
そうなってしまうと、相手側の言い分の中に共感できる内容が含まれていても全否定する関係になりがちです。このような関係性が憎しみ合いの芽となり、現実の場面で異端者を排除や抹殺するという極端な事例につながりかねません。そのため「差異」を認め合えるかどうか、分かり合えなくても、いがみ合わないようにできるかどうかが最も重要なことだと考えるようになっています。日常生活における身近な人間関係から労使交渉をはじめ、国対国という外交の場面でも思いを巡らしている問題意識だと言えます。
このような問題意識があり、最近の記事「安全保障を強い言葉で語ることの是非」を通して訴えたような論点につなげていました。圧力は平和的に解決するため、対話のテーブルに着かせるための手段であることを訴えた記事内容でした。その記事の中には「怒りが強い言葉につながり、怒りの矛先となる中心人物は排除すべき対象であり、打倒すべき対象になります」「利害関係が対立した場合、暴力で決着を付けることはもっての外です」という私自身の言葉があり、nagiさんから下記のコメントが寄せられていました。
今回の記事と対比して「平和運動を強い言葉で語ることの是非」としてみてはいかがでしょうか。フランス、ドイツ等で右翼政党が躍進し、アメリカでは自国優先主義が台頭してます。そしてそれに反対する人々の運動は、同じように怒りと憎悪に満ちています。憎悪と憎悪がぶつかればそこには暴力しか生まれません。北朝鮮問題で対話が必要と言うように、対立する問題においても対話が必要ではないのでしょうか。きっとそのようなことをOTSU氏も危惧されてるのかなあと思ったしだいです。
このコメントに対し、nagiさんのご指摘のとおり「強い言葉」の問題意識の先に様々な事例も思い浮かべていることをお答えし、機会を見て記事本文で取り上げることを約束していました。記事タイトルを「平和運動を強い言葉で語ることの是非」とはしませんでしたが、平和運動に限らず、強い言葉で語ることのマイナス面を常に意識しています。ケース・バイ・ケース、TPOによるのかも知れませんが、立場や考え方が異なる相手だったとしても敵視していく関係性に至ることだけは極力避けたいものと考えています。
違いは違いとして指摘し合いながら、どちらの「答え」が正しいのか、理性的な言葉を尽くして相手を納得させられるかどうかが大切なことだろうと認識しています。お互い納得し合えないまま、どちらかの「答え」に決めた際も、いがみ合わない関係性を保つことが欠かせないはずです。ちなみに当ブログを通し、安倍首相や小池都知事を批判する記事内容を投稿しています。しかし、あくまでも私自身が「それは違う」と思った具体的な言動や判断に対する批判意見であり、極端な話としてご本人たちを前にしても直接訴えられるような言葉を尽くしているつもりです。
このような話は甘い認識であり、強大な権力を持っている側と対峙していくためには怒りとともに体を張った具体的な行動が迫られる場面もあるという指摘を受けるのかも知れません。確かに前述したとおりTPOの問題もあろうかと思いますが、仮に目的が正しくても暴力やテロは論外だと考えています。そもそも自分自身、怒りの沸点は高いほうですが、時々、感情的な言葉で切り返してしまう場面もあります。理想と現実は容易に一致できないのかも知れませんが、自戒をこめながら必要な心構えとして「いがみ合わないことの大切さ」を改めて訴えさせていただいています。
前々回記事「衆院選と組合役員選挙」の中で「主義主張や立場が違う相手を敵対視しがちな傾向はよく見受けられる話です。選挙戦の場合、そのような傾向が特段目立つようになります。しかしながら私自身、どのような場面においても立場や考え方の違いは違いとして理解しながら、そのことで相手を敵対視するような関係性は避けたいものと考えています」と記していました。顔見知りの候補者と会話した近況を伝えた際、添えていた問題意識です。誰との会話だったのか、私の周囲の方々はすぐ分かったはずです。
このブログによく登場いただいてる衆院議員の長島昭久さんとの会話でした。今年4月、長島さんは民進党を離党していました。10月の衆院選までに野党の再編があった訳ですが、結局、組織的には長島さんとの推薦関係は切れていました。それでも長島さんの立ち位置が変わった訳ではないため、長島さんのほうから拒まれない限り、少しでも意見を交わせる機会は貴重なことだと受けとめています。敵か、味方かという二項対立に陥らず、幅広い立場の方々と接点を持つことこそ、平和運動にとっても有益なことだろうと考えています。
最後に、気になったニュースを紹介します。最近の記事「衆院選公示前、今、思うこと」の中で、枝野代表の街頭演説の内容に共感する点が多々あったことを記していました。その枝野代表が率いる立憲民主党には、自民党との明確な対立軸を打ち出しながらも幅広い支持を得られる可能性が秘められているものと見ています。今後のよりいっそうの奮闘を期待しているからこそ注文を付けさせていただきます。「自民党からの懐柔を防ぐ」などというネガティブな発想ではなく、自分たちの主張を広げる一つの機会として自民党議員とも忌憚のない対話を重ねて欲しいものと思っています。
立憲民主党が2日に開いた国対役員・筆頭理事合同会議で、自民党議員との「飲み会自粛令」ともとれる異例のお触れが出た。党関係者によると、国対幹部が各委員会の理事らに「党が費用を出すのでまずは野党の理事同士で交流を深めよう。自民党とは野党の結束が固まった後にやるべきだ」と呼びかけた。自民党からの懐柔を防ぐ狙いがあるとみられる。「分断と排除の政治」(枝野幸男代表)を忌避する政党にしては、ちょっと度量が狭い?【産経新聞2017年11月2日】
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コメント
私が疑問に思うのは、平和団体なのに普通の市民からの
賛同を得られない団体っておかしくない? です。
これが、ユニセフや赤十字ならそのような疑問はないと
思うのですが。
よくネットで特定市民やプロ市民と言うような揶揄する
発言を見ますが、一部の思想信条をもつ方々ばかりが
集まって、より先鋭化する団体が、何をもって多様な価値観
や共生する社会の導き手となることができるのでしょうか。
日本にはそのような団体以外の平和活動を担う存在はいない
のでしょうか。平和運動というのはそれほど先鋭化するもの
なのでしょうか。
自身が幸福でない人が他人を幸福をすることにできないと
言いますが、常に敵対的で憎悪に満ち満ちた団体が主導する
運動でどうやって平和を構築するのか、人々に平和を語る
のか不思議でなりません。
ちょうど記事にダライ・ラマ14世の話しがでてきたので
その違いを感じてしまいますね。
沖縄の米軍基地前で、ヤンキーゴーホームや「死ね」って
叫んでいる平和運動家の方をネットで見ましたが、どうやっ
て他者に「死ね」と叫んで築くことができる平和とはどの
ようなものか教えていただきたいものです。
投稿: nagi | 2017年11月 7日 (火) 11時23分
前回の記事のコメント欄でOTSU氏より、私がコメントした
国会質問時間のことを触れておられました。
民進党は日本維新の会の質問時間を議員数ではるかに少ない
社民党より少ない割り当てとしました。
維新の会が与党でも野党でもないと発言したからだそうです
が、これは野党第一党の横暴ではないですか?連立を組んで
いないかぎり維新の会は野党の枠組みでしかありません。
たとえ政策が民進党と異なっても、自民党と近くても
それが質問時間の割り当てを減らす正当な理由とは思えません
すでに野党側が質問時間を恣意的な運用をしてる以上、
議席に応じて分配するほうが、平等で公正だと思いますね。
すくなくとも野党と与党で5:5にするべきでしょう。
そうすれば与党も首相におもねるような質問ばかりではなく
意味ある質問もできるし、野党も政策を無視したアピールば
かりすることないでしょう。少なくとも国会はクイズ大会を
したりカメラ映りを気にする場でもありません。
投稿: nagi | 2017年11月 7日 (火) 17時51分
まぁ、与党の質問時間を増やすことが正しいかどうか?は判らないんですが、
野党の質問時間を減らすことについては、
正しいと言うか、少なくとも、
「現状の野党(特に選挙前野党第1党)のありようを見る限り、現状の時間枠は必要ない」
とは思いますね。
特に、地上波でのTV中継のある”予算委員会”が酷い。
一言でいうと「いいから、予算を審議しておくれ」って話で、
「まともに”予算”を審議しないで、特別会計がブラックボックスとかレッテルを貼ってくれるな!!」とか、
「特別会計も財政投融資も一般会計とセットで、予算委員会の議案なんだよ。まともに予算を審議しないから(まともに予算書を吟味しないから)、埋蔵金とかいう現を抜かした話を議員さん自身が信じ込めるんだ」
って話に行き着くとおもうですよ。
「まともに仕事をしてくれ」って話ですね。
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国会では、
与党の長が行政府の長を兼ねるという形で、”立法府(特に与党)と行政府(内閣)が事実上一体化して機能する仕組み”である議院内閣制の性質上避けられない部分もあるんですけど、「内閣 vs 野党」という構図が殆どじゃないですか。
せっかくの立法府なんだから、そうではなくて「与党 vs 野党」っていう構図の論戦がもっとあっても良いと思うんですよ。
予算案については、内閣が調製・提出するんで「内閣 vs 野党」という構図は避けられないとしても、法案審議だと「与党が議案提出者に為れば、与党 vs 野党っていう構図ができるんじゃないか?」っていう。
もともと、内閣提出法案だって、事前に与党と詰めてるわけで、これは野党もそう仰ってる。
であれば、内閣が案を作ったとしても、議案としては与党が国会に提出する形にすればどうか?と。総理大臣は与党の党首でもあるので。
で、国会法第7章の各規定を字義通りに解釈して、「内閣を参考人として位置づけ」て、「与党(提出者) vs 野党」を主体とした国会論戦をすればどうか?という。
なぜなら、現憲法下での議院内閣制において、国会は「内閣(行政権)の”製造者”であり”監督者”」であることが期待されるわけであって、「単に内閣の”監視者・批判者”というだけでは足りない・十分ではない、必要ではあるが」と考えるからです。
投稿: あっしまった! | 2017年11月 7日 (火) 23時31分
日本維新の会の質問時間を削った件って、
極端な言い方ですけど、
「野党でなければ、質問する権利がない」
的な理屈で、維新の会への会派としての質問時間の割当を、当時の野党第一党が”奪い取った件”でしょ。
国会での質疑時間って、「国会議員であれば、質疑に参与する権利がある」のが本来の姿であって、
「野党固有の権利であって良いはずがない」んですけどね。
すなわち「与党でも野党でもなく是々非々で自党の路線を歩むことを、野党第一党が排除しようとすることが許されて良いはずがない」もののハズなんですけどねぇ。
「連立を組んでない(与党ではない)ことが明らかである」のに、「野党第一党と共同歩調を取らない者は野党ではない。野党でなければ、質疑に参与する権利はない」みたいな理屈で、国会論戦から排除しようとするんであれば、
現政権よりもよほど「国家社会主義ドイツ労働者党」に親和性があるというか、質的には近い。(手法がではなく、思考様式・論理の構造が)
ですよ。
非常に「傲慢」かつ「有権者を無視した態度」ですよ。「自分たちに賛意を示さない者は有権者でなく、同調しない他党(非与党)は国会に存在してはならない」と言わんばかりですもん。
私は、兼て「野党第1党という権力」のあり方・使い方について批判してきましたけど、この件はまさしく「野党第1党という権力」を見せつけた形ですんで。
選挙前野党第1党と、その流れをくむ議員さんたちの「政権・与党に立ち向かう弱者」と「野党第1党という権力者」の立場を都合良く使い分けるそのあり方には賛成できないんですよ。
コアな支持層以外は退きますから、これって。
これじゃぁ、左寄りの集団の言動が、結果的に右寄りの集団の養分になるって構造は続きますよ。
支持者も、そういう換言をなんでされないんでしょうね。
立憲主義を掲げ、現憲法を護るのであれば、「意見の異なる他党(しかも非与党)に対して、国会討論の場での発言を出来なくする」ってのは根本的に矛盾でしょう。
国会審議ってのは、野党の為にあるんじゃなくて、国会議員の為にあり、すなわち有権者を代表する者を通して有権者全員の為にあるんですから。与党に投票した者も、他党(非与党)に投票した者も、有権者であり民意なんですよ。
「他党(非与党であっても)を支持する者は有権者でないし、そんなものは尊重すべき民意ではない」なんてのを、態度で示したらあきませんでしょう。
投稿: あっしまった! | 2017年11月 8日 (水) 18時15分
>左寄りの集団の言動が、結果的に右寄りの集団の養分になるって構造は続きますよ。
この言葉に尽きると思いますね。
野党に肩入れする方々も発言がぶれてたりダブスタだったり
するのがとても目立ってしまう。ちゃんと与党にも野党にも
厳しい方の発言は無視されてしまう。
このような構図はネットを軽んじる伝統メディアが一番の
害悪なんでしょうね。
しかし全世代を通じてネット利用者は増えるばかりです。
特に若年層に限れば9割を超えてきますね。ネットは過去の
発言や行為、そして伝統メディアの不自然な情報の編集や
カットもあばいてしまいます。それがまずますメディア離れ
を起してます。まあ悪循環ですね。
若年層から見れば、自民党がリベラルで立憲民主や共産党が
保守に見えるというのはとても興味深いし、正しい解釈なん
でしょう。
まあ山尾議員のようなふてぶてしい方もおられるので
今後どうなるか楽しみです。もっとも山尾議員は今後何を
発言しても1ミリも説得力がなく、かつ批判をしても全て
自分に跳ね返ってしまいますがね。
投稿: nagi | 2017年11月 8日 (水) 18時57分
哀しいかな、自民の歴史はアメリカ資金援助の歴史で、
社会党に端を発する自称リベラルの歴史はソヴィエト・中国・北朝鮮資金援助の歴史で、
サンデーモーニングのコメンターによる北朝鮮擁護の歴史もネット上では腐る程出て来るし、
ガソリーヌ・パコリーヌ・フリン・山尾女史も超巨大ブーメラン直撃中ですし、
自民党では上に上がれない、出馬出来ないと、自民党を出て来て今に至る無所属の会の面々を見ていると、
保守という表現がなされると分かる程、反対の為の反対をする事でレーゾンデーテルを主張せざるを得ないトコまで追い込まれているし、
自称リベラル、実態は原発ふっ飛ばした史上最悪の内閣の面々ですしね。
彼等が何か主張する度に、マスゴミが隠す悪行を、ネットで突き付けられて、
それって、いがみあうって事なんでしょうか?
OTSU氏の主張が良く分からない、独自路線なので、分かりやすく書き記して頂きたいものです。
投稿: oyabun | 2017年11月 8日 (水) 19時48分
今週の記事に関連する興味深い記事を紹介します
>http://diamond.jp/articles/-/148744
投稿: nagi | 2017年11月 9日 (木) 08時38分
今週の記事とは関係ありませんが、先日の日経新聞に公的
年金の運用益が大幅な黒字で5期連続で黒字であると報道が
ありました。
以前に赤字の時は野党が批判ばかりしてましたが、黒字に
なると沈黙する。結局、この問題についてちゃんと考えて
ないことが浮き彫りになっただけですね。
黒字であり、運用益がでてる時こそ、冷静に運用について
考え議論できるタイミングです。それをしないのならば
やはりテレビ受けしか考えてないなあと見えます。
OTSU氏は以前の記事で、年金運用に強い危機感を表明して
ましたが、いろんな人に知ってもらいたいですね。
本当にこのままでいいのか、ポートフィリオを見直すべき
か、順調に運用益がでてる時こそ議論をしてもらいたい。
それができないなら野党の質問時間など減らせばよい
投稿: nagi | 2017年11月10日 (金) 11時47分
nagiさん、あっしまった!さん、oyabunさん、コメントありがとうございました。
このコメント欄を通し、個々にお答えしたほうが相互の意見交換はスムースなのだろうと思っています。ただ申し訳ありませんが、そのような丁寧さから一歩引いている現状についてご理解ご容赦くださるようお願いします。
特にoyabunさんから「OTSU氏の主張が良く分からない、独自路線なので、分かりやすく書き記して頂きたいものです」という直接的な問いかけもいただきました。たいへん恐縮ながら今回の記事本文に綴ったとおりで独自路線という意識もないつもりですが、今回の記事本文に託したような論点については機会を見て改めて深掘りさせていただきます。
投稿: OTSU | 2017年11月11日 (土) 07時45分