マスコミの特性と難点 Part2
今回も前回記事「マスコミの特性と難点」を補足する意味合いでタイトルに「Part2」を付けました。前々回記事「改憲の動きに思うこと Part2」の冒頭に記したとおり字数が多くなりそうな回答はコメント欄でなく、記事本文を通してお答えするようにしています。前回記事に対し、あっしまった!さんの現状を強く憂慮されたコメントをはじめ、複数の方から様々な論点が提起されていました。その中の一つ、hodoさんから寄せられたコメントが気なっていました。
OTSU氏は、郷原信郎氏等の意見から、一方の当事者である加戸元知事の発言をマスコミが取上げないことについては「妥当な判断」だと思われるのですかね? 郷原氏の意見を引合いにだして、『「疑惑が晴れた」との報道をしなくてもよい』との意見を表明することで、「一方の当事者の発言を黙殺することの是非」についての判断については不問とする行為は、非常に恣意的ではないでしょうか。OTSU氏が「自分が見たくない、報道されて欲しくないもの」について意図的に上手に蓋をしているつもりであれば、その人間の貧しさに溜息がでます。
「一方の当事者の発言を黙殺することの是非」についての判断が問われていますが、私自身の認識は前回記事の中で次のように述べています。「マスコミの多くが加戸前知事の発言を大きく取り上げていないという見方も特に不自然ではありません」と記しています。ただ事実認識としてマスコミが加戸前知事の発言を完全に黙殺した訳ではなく、大きく取り上げなかったという重点の置き方が問われているものと思っています。その上でマスコミの特性を説明し、政権に対する支持率が高い時であれば「ゆがめられた行政がただされた」という大見出しが新聞紙上に掲げられていた可能性について書き添えていました。
加戸前知事の発言が加計学園問題の論点から外れていると見ている者からすれば、そのような見出しの付け方は政権に対する「忖度」であり、意図的な世論誘導につながりかねないものと思いがちです。今回、その逆の構図となっているため、安倍政権を支持されている方々から「意図的な世論誘導だ」という批判が起きているように見ています。過去の記事「卵が先か、鶏が先か?」の主題とした「マスコミが世論を作るのか、世論がマスコミの論調を決めるのか」という関係性や特性が思い浮かび、前回記事「マスコミの特性と難点」の投稿に至っていました。
そもそもマスコミは客観的な事実だけを淡々と伝えている訳ではなく、記者や編集者、コメンテーターらの意見や主観を添えた報道の仕方が主流となっています。マスコミに求める「公正・中立」のあり方は深い議論に至る場合があるため、その是非や評価まで前回記事では扱っていません。あくまでもマスコミ報道は決して無味乾燥ではなく、そのような特性があるという現状を記していました。だからこそ、より望ましく、より正しい「答え」を見出すためには一つの経路からの情報だけを鵜呑みせず、意識的に幅広く多面的な情報に触れていくことの大切さを訴え続けています。
このような問題意識のもと当ブログの位置付けを説明する「多面的な情報の一つとして」「二極化する報道」「マイナーな情報を提供する場として」などの記事を投稿してきました。誤解を受ける時がありますが、最近の記事「一つの運動として」の冒頭に記したとおり私自身の立ち位置や主張は明確にして当ブログを運営しています。したがって、私が書き込む記事本文だけで多面的な情報をいつも提供している訳ではありません。マスコミが取り上げないような主張や情報を発信することで多面的な見方に触れていただければと思い、このブログを続けています。
いずれにしてもhodoさんからは「意図的に上手に蓋をしているつもりであれば、その人間の貧しさに溜息がでます」という辛辣な批判を受けていました。私自身、加戸前知事の発言が加計学園問題の論点から外れていると見ている者の一人です。そのように見ていないnagiさんからマスコミを批判するコメントを受け、私自身の「答え」にあたる前回記事を綴っています。「論点から外れている」という見方の違いを説明しなければ、マスコミが大きく扱わなかったことの疑問は解消されないものと考えています。
ネット上を検索したところ弁護士の郷原信郎さんが詳しく理性的に説明されていました。いつものパターンですが、私自身の言葉で説明するよりも郷原さんのブログ『加計学園問題のあらゆる論点を徹底検証する』の該当箇所をそのまま掲げさせていただきました。hodoさんからすれば加戸前知事の重要証言もリンクをはるだけではなく、郷原さんと同じようなバランスで紹介していたら不本意な批判が少しは緩和されていたのでしょうか。
ただ前述したとおり「私が書き込む記事本文だけで多面的な情報をいつも提供している訳ではありません」という事情についてもご理解を求めていかなければなりません。さらに週に1回の更新ですので、このブログを通して取り上げたい話題が数多くありながら充分対応できていない現状です。必然的に扱う題材も限られていますが、「取り上げないから軽視している」「意識的に避けている」という批判を受けてしまう時があり、たいへん悩ましいものがあります。
コメント欄に関しても以前は、ほぼ毎日対応し、基本的に一問一答で皆さんと意見を交わしていました。「コメント欄雑感、2012年春」を投稿した頃から私自身のコメント欄参加を徐々に控え始め、人によって評価が大きく分かれがちな難しいテーマに関しては記事本文を通してお答えするように努めています。このような運営方針に変わってからもnagiさんからは数多くのコメントをお寄せいただいています。ただ以上のような事情にご理解いただき、「十問一答」にとどまるような関係性についてご容赦願っているところです。
いつものことですが、ブログを書き始めると思っていた以上の長い記事になりがちです。hodoさんからのコメントのレスにあたる内容だけで終わっても良いぐらいの長さになりつつあります。ここから論点や話題が広がりそうですが、もう少し書き進めてみます。「報道しない自由」というマスコミを批判する言葉があります。マスコミ各社や編集者の責任による編集権の範囲内での優先順位からの取捨選択は、ある程度認めなければなりません。あくまでも当ブログにおいてもご理解ご容赦願っている範囲内の話です。
どちらか一方に肩入れしすぎて重要な情報や言葉を省き、それこそ意図的な世論誘導に至るようでは問題です。言うまでもありませんが、隠蔽、虚偽、捏造などは論外であり、様々な情報を掌握し、情報を発信する政権側に対しては、よりいっそう厳格な姿勢が求められています。それにも関わらず、最近の安倍政権では「嘘でしょう?」と疑わざるを得ない情報が発信され続けています。事実関係を問われた際に「記憶がない」という言葉をよく耳にしていますが、皮肉にもこのような答えのほうが「嘘は付けないのだろうな」という誠実さの片鱗を感じるようになっています。
安倍晋三首相は25日午前、参院予算委員会の閉会中審査で、学校法人「加計学園」による獣医学部新設計画について、事業主体が同学園だと初めて知ったのは1月20日の国家戦略特区諮問会議だったと改めて表明した。しかし、民進党の蓮舫代表は通常国会の答弁と整合性がとれないと追及。首相は「整理が不十分だった。厳密さを欠いていた」と釈明し、前の答弁を事実上修正した。 【毎日新聞2017年7月25日】
安倍首相は閉会中審査で初めて「李下に冠を正さず」という言葉を使いました。そのタイトルのブログ記事の中で不勉強ながら私自身、国家公務員の倫理規程で禁止されている利害関係者と飲食やゴルフに行くことについて、特別職公務員である安倍首相は対象外だと記していました。しかし、大臣規範の中に一般職国家公務員と同じように関係業者との接触を禁止する項目が定められていました。安倍首相も最近、大臣規範のことを知り、上記報道のような「加計学園と知ったのは今年1月20日」という答弁に切り替えたのではないかと疑われています。
マスコミ報道にあたって決め付けた批判は避けなければなりませんが、安倍首相の答弁が変わった際、大臣規範のことを添えるかどうかで事実関係の見方は変わります。閉会中審査で与野党の質問時間の配分が争点となりました。当初、自民党は「5対5にしない限り開催は拒否する」と反発していました。野党は「2対8」を要求していましたが、最終的に「3対7」で折り合いました。議席数の少ない野党の質問時間が多い配分に違和感を持ちがちですが、通常の予算委員会が「2対8」であることを知ると野党の要求も納得できるようになります。
このような問題で国会審議の時間を割くと「安全保障や国民生活で、もっと大事なことがあるのに」という声が寄せられます。確かに優先順位はあろうかと思いますが、加計学園の問題をはじめ、今、最も問われているのは正しい情報が適切に開示されているのかどうかです。そのことで疑念が高まり、政権の支持率が下降線をたどっているように思っています。より望ましい「答え」を国民一人一人が見出していくためにはマスコミの報道のあり方も重要ですが、それ以上に情報の発信元となる政権の体質や姿勢は非常に大きいものと考えています。
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