一つの運動として
前回記事「共謀罪の構成要件を厳しくしたテロ等準備罪」のコメント欄で、初めて投稿くださったoyabunさんから「自分に有利な情報を優先的に選択し、反対意見を添える程度でも、公平・中立に接していますと主張は可能です」という指摘があり、そこに詐術的なモノを感じてしまうという言葉も添えられていました。誤解されている点が気になったため、私から取り急ぎ次のようにお答えしていました。
「公平・中立に接しています」というお話ですが、私自身の立ち位置や主張は明確にして当ブログを運営しています。私が書き込む記事本文だけで多面的な情報をいつも提供している訳ではありません。マスメディアが取り上げないような主張や情報を発信することで多面的な見方に触れていただければと思い、このブログを続けています。
つまりNHKのように当ブログが「公平・公正の立場を堅持する」という性格を打ち出している訳ではありません。より望ましい「答え」を見出すためには幅広い情報や見方に触れていくことが大切です。そのための一助になれることを願いながらマイナーな情報を提供する場として、このブログを続けています。「誰が」や「どの政党が」に重きを置かない思考に努めたいという記述が誤解を与えていた場合、あくまでも「願望」という調味料を加えず、集団心理のデメリットに陥らないための心構えを記したものです。
いきなり馴染のない言葉を並べてしまいましたが、それぞれ過去の記事タイトルだった言葉であり、リンク先で詳しく私自身の問題意識を綴っています。自分の見たいものしか見ない、自分の立ち位置に好都合な解釈を付与させがち、このような傾向を日頃から戒めています。そのため、手軽に素早くコストをかけずにアクセスできるインターネット上では意識的に幅広い情報に接するように努めています。そのような意味合いで多様な主張や意見に触れられるBLOGOSなどはいつも注目しています。
昨年末に「SNSが普及した結果…」という記事を投稿していましたが、法政大学総長の田中優子さんの「SNSが普及した結果、人は自分と同じ意見や感性にしかアクセスしなくなった。異なる立場の人々の意見と接する機会がなくなり、人々は極端な意見をもつようになっている」という言葉が意外だったことを記していました。私自身、インターネットやSNSの普及は大多数の方が「異なる立場の人々の意見と接する機会が増えている」傾向にあるものと見ていたからでした。
自分自身が正しいと信じている「答え」とかけ離れた主張や情報に触れていくことに貴重さを感じるのかどうか、確かに人によって受けとめ方は大きく分かれていくのかも知れません。このブログを定期的に訪れてくださる皆さんは「異なる立場の意見」に接することに貴重さを感じられる方が多いのだろうと思っています。単なる興味本位や冷笑の対象として当ブログを観察されている方も多いのかも知れませんが、いわゆる左や右に偏らず幅広い立場の方々からご注目いただけていることにいつも感謝しています。
このブログの管理人として、そのような関係性をたいへん貴重なことだと受けとめ、毎週末の新規記事の投稿に臨んでいます。さらに以前の記事に「運動のあり方、雑談放談」というものがありますが、私自身にとって当ブログの運営は一つの運動として位置付けています。運動という言葉を辞書で調べれば「目的を達成するために積極的に活動すること、各方面に働きかけること、選挙運動、労働運動、学生運動」という説明が加えられています。
様々なテーマごとに反対集会やデモ行進が取り組まれていますが、私自身、介護の事情があって参加する機会は限られています。そのため、自宅で取り組める私なりの運動として、このブログに向き合っているとも言えます。特に反対集会やデモ行進が異なる立場の方々に共感を呼びづらく、そこで訴える主張が広がりを得られにくくなっている中、このようなSNSを通した情報発信や意見交換の貴重さを感じ取っているところです。
余計な話かも知れませんが、このような私自身の思い入れも「自己満足な取り組み」「しょせん個人的なブログ」という見られ方をされがちです。それも非常に残念ながら同じ組合の役員からそのように見られている現状もあります。また、異なる立場の方々からすれば一つの運動という言い分に対し、「冗談ではない、そんな運動の場に踏み込んでいるつもりはない」というお叱りを受けてしまうのかも知れません。
このような私自身の言い分が不愉快に感じられるようであれば、ご訪問いただけなくなる関係性だろうと受けとめています。それでも管理人の思惑は思惑として横に置かれ、これからも多くの方々に出入り自由な場としてご訪問いただけることを願っています。 とは言え、一つの運動だと身構えてみても基本的な立場や視点が異なる方々と分かり合うことの難しさを自覚しています。このような自覚もブログを長く続けてきたことによってたどり着いた認識です。
しかしながら深い「溝」も接点を持たない限り、「溝」が埋まる可能性は皆無だと言えます。その接点の一つに当ブログがなり得ているため、これからも心が折れない限り継続していくつもりです。その上で二極化する報道が顕著な昨今、マスメディアが取り上げないマイナーな情報を提供することに力を注いでいます。安倍政権を批判、もしくは擁護する場合も、より正しく、より多面的な情報をもとに判断すべきものと考えているからです。
特に最近、政権側の情報操作や隠蔽体質が目立つようになっています。加計学園の問題に対する私自身の認識は「李下に冠を正さず」の中で綴ったとおりですが、前川前次官のスキャンダルに関しては別な案件として問題があれば処罰されるだけの話だと理解しています。しかしながら官邸側は出会い系バー通いを重視し、前川前次官の「貧困女性の実地調査」という釈明に対し、「女性に小遣いを渡した。さすがに違和感を覚えた」とし、この問題で個人的な資質を貶めようとしていることも明らかでした。ただ正直なところ前川前次官の釈明には違和感がありました。
記者会見の後、その点を知人が前川前次官に問いかけたところ「本当のことですから」と答えていたそうです。このやり取りだけを耳にすれば、ますます違和感が高まってしまいます。しかし、次のような情報に触れていくと「本当のことかも知れない」と思えるようにもなります。『週刊文春』の記事『前川喜平と出会系バーで30回超会った女性「私は前川さんに救われた」』やギッズドアの渡辺由美子さんのブログ『「あったものをなかったものにできない。」からもらった勇気』に目を通すと見方が変わります。真実は断定できませんが、前川前次官に対する印象や資質を判断するためには上記のような情報も加味しなければフェアでないように感じています。
「一つの運動として」という記事タイトルから話は広がりそうですが、もう一つだけ現政権の情報操作だと感じがちな具体例を紹介させていただきます。『国連事務総長と安倍首相会談に関する報道に疑問 特別報告者・共謀罪について、食い違うプレスリリース』というサイトで、国連事務総長は安倍首相に「特別報告者は国連人権理事会に直接報告をする独立した専門家である」と述べ、「国連の立場を反映するものではない」とまで説明していないという事実関係が綴られています。合わせて『日刊ゲンダイ』の記事も参考までに掲げますが、このような傾向が現政権には目立つことを拡散させていただきます。
これぞ“二枚舌”政権の正体見たりだ。国連人権理事会の特別報告者ジョセフ・ケナタッチ氏が共謀罪法案の問題点を指摘する文書を安倍首相宛てに送ったことに対し、安倍首相と菅官房長官のコンビは「国連の総意じゃない」などと猛反論しているが、「無知」にもホドがある。G7サミットでイタリア南部、シチリア島を訪れた安倍首相は、27日に国連のグテレス事務総長と立ち話。グテレス氏から「(ケナタッチ氏の)主張は必ずしも国連の総意を示すものではない」との発言を引き出してニンマリ顔。22日の会見で菅官房長官が「特別報告者は個人の資格で調査報告を行う。国連の立場を反映するものではない」という“裏付け”を得て上機嫌だったのだろうが、全く分かっちゃいない。
そもそもケナタッチ氏の指摘が現時点で国連の総意でないのは当たり前のことだ。日本のプライバシー権の保護状況を調査する義務を負うケナタッチ氏の報告を基に、人権理事会が「問題あり」と判断し、採択されて初めて「総意」となるからだ。調査途上にあるケナタッチ氏の指摘は総理や閣僚が感情ムキ出しで反論するようなことではない。しかも、政府は昨年7月15日、「世界の人権保護促進への日本の参画」と題した文書を公表し、人権理事会の調査に協力姿勢を示している。文書には〈特別報告者との有意義かつ建設的な対話の実現のため、今後もしっかりと協力していく〉と明記されているのだ。特別報告者に協力する――と約束しながら、問題提起されると「個人」扱い。世界もア然ボー然だ。
しかもだ。日本政府は今春、北朝鮮の日本人拉致などの人権問題解決に尽力し、16年まで特別報告者を務めていたインドネシア国籍のマルズキ・ダルスマン氏に旭日重光章を授与している。政権にとって都合のいい人物は絶賛するが、苦言を呈する人物はこき下ろす。まったくデタラメだ。「今回の対応は、分かりやすいダブルスタンダードで、安倍政権らしい考え方と言える。ケナタッチ氏は特別報告者として、日本社会を調査する権限を持っています。しかるべき立場の人物が調査のために送った『質問書』を『国連の総意ではない』と切り捨て、抗議するなど全くの見当外れです」(日弁連共謀罪法案対策本部事務局長の山下幸夫弁護士) 安倍政権から抗議文を送りつけられたケナタッチ氏は、「(抗議文は)中身のあるものではなかった」と憤慨。いやはや、世界中に恥をさらすのはいい加減にしてほしい。 【日刊ゲンダイ2017年5月29日】
| 固定リンク
コメント
これから書くことは、ワタクシが直接事実関係を確認したわけではないので、所詮はその程度の話でしかないのですが。
ケナタッチ氏の報告書の根拠となった法案の英訳に関して、
==「組織的犯罪集団」の定義規定== が誤って英訳されていて、
そもそも「ケナタッチ氏は、正しい法案の条文を前提にして論じていない」という指摘が一部でありまして。
※少くとも日本国政府の公式な英訳では(公式な英語の仮訳ですら)ないわけです。
※まぁ、審議中の法案なので公式な英訳は通常作られていないと思うので、仕方がないでしょうが。
「組織的犯罪集団」の定義は、法案の最重要事項なんだから、ここに誤訳があって、それは法案の英訳としては話にならないだろうと。
そして、そうした誤訳を前提にした「ご懸念」というのは、さすがに「はいそうですか」とはならないだろうと。
となると、攻める反対派に対しても、受ける政府側に対しても「何やってるんだ、まともな議論をして欲しい」としか思えないわけで。
ケナタッチ氏に英訳を渡したのが、法案に反対する運動体の名のある人物という話もあって、
一部運動体が都合の良い英訳をして、ケナタッチ氏の報告書をミスリードさせたのではないか?と・・・。
まぁ、そのなんというか、国連の特別報告者まで都合良く巻き込んで、何を遣ってるんですか、マッタク。という印象が・・・。
ここまで書いたことは、ワタクシが直接事実関係を確認したわけではないので、所詮はその程度の話でしかないのですが。
投稿: あっしまった! | 2017年6月 4日 (日) 16時44分
あっしまった!さん、コメントありがとうございました。
ご指摘のような付随した話があるのかも知れませんが、「国連の立場を反映するものではない」と言っていないのに言ったように情報を伝える姿勢をたいへん危惧しています。この点のみ取り急ぎ一言補足させていただきます。
いつものとおりウイークデイはコメント欄に関われませんが、皆さんのご意見等は毎日拝見しています。このような関係性についても改めてご理解ご容赦くださるようよろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2017年6月 4日 (日) 21時58分
「特別報告者について、事務総長は首相に、特別報告者は国連人権理事会に直接報告をする独立した専門家であると説明しました」
が
「国連人権理事会の特別報告者について、国連とは別の個人の資格で活動しており、その主張は必ずしも国連の総意を反映するものではないという考えを示しました。 」
と報道された話ですね。
まぁ、”国連の総意を反映していない”のは事実だと思いますよ。あくまで、人権理事会に”報告する、人権理事会という国連の組織体からは独立した立場”であって、人権理事会としての意思を示す立場にはないので。
要は”諮問に応える”とか”建議をする”立場であって、人権理事会の意思決定に参与する立場ではないってことで。
とはいえ、「国連の総意」ってのが、人権理事会の意思決定を示す言葉なのか、国連総会の意思決定を示す言葉なのかよく判らんですけどね。
政府の説明も微妙だけど、それを批判する側も・論争を受け止める国民も、”特別報告者”という存在について正しい理解がなされているかどうかは怪しい気がします。
政府の側も、批判する側も、何やってるんだか・・・マッタク。
投稿: あっしまった! | 2017年6月 4日 (日) 22時29分
あっしまった!さん、コメントありがとうございました。
今週末に投稿する新規記事も、今、最も提起したい自分なりの問題意識を綴るつもりです。ここ数週間、他の話題の投稿も考えていながら、結局、現在の政治状況に関わる話を取り上げています。その時々に訴えたいこと、書きたいことを綴るスタイルが私的なブログを長く続ける秘訣かも知れませんのでご理解ご容赦ください。
投稿: OTSU | 2017年6月10日 (土) 07時18分