障害者差別解消法が施行
週に1回、このブログを更新しています。前回の記事「ヒューマンエラーの防ぎ方」は機会を見て取り上げようと考えていた題材です。今回の題材も2月に「障害者差別解消法の施行に向けて」という庁内研修を受けた後、やはり機会を見て当ブログで取り上げようと考えていました。このブログで時事の話題や様々な情報を取り上げる際、不正確な内容は投稿できないため、資料やネット上の関連サイトを確認するように努め、漠然と理解したつもりだったものを改めて自分の頭の中で整理しています。
そのため、ブログに書き込む作業は、ある意味で貴重な自己啓発の機会に繋がっているものと考えています。これまで「社会保障・税番号制度」「子ども・子育て新制度」「生活困窮者自立支援法が施行」 などの記事を投稿してきました。生活困窮者自立支援法の記事を投稿した後、生活保護の面接担当の係長から「ブログを見ましたが、しっかり勉強されてますね」という一言をいただきました。一夜漬けの勉強ですが、的外れな記述ではないことを確かめられ、心強く励みとなる一言でした。
さて、今月1日に障害者差別解消法(正式名称・障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律)が施行されました。前述したとおり自分自身の頭の中を改めて整理するため、一度、障害者差別解消法について当ブログで取り上げてみようと考えていました。加えて、この法律の施行をメディアがあまり注目していないように感じていたため、マイナーなサイトとは言え、一般的には馴染みの薄い障害者差別解消法を少しでも広められればと願いながら今回の記事に至っています。
福祉医療機構が運営する福祉・保健・医療の総合情報サイトの記事『「障害者差別解消法」制定までの経緯と概要について』に分かりやすくまとめられていますが、庁内研修資料なども参考にしながら当ブログでも経緯や概要を書き進めてみます。2006年12月に国連総会本会議で障害者の権利に関する条約が採択(発効は2008年5月)され、日本政府は2007年9月に署名していました。この条約は、障害者への差別禁止や障害者の尊厳と権利を保障することを義務付けた国際人権法に基づく人権条約です。
日本政府は同条約の締結に必要な国内法の整備を進め、2011年に障害者基本法を改正しました。2013年6月19日には障害者差別解消法が成立し、6月26日に公布されました。これらの法整備を経て、2013年12月の参院本会議において障害者の権利に関する条約の批准を承認していました。以上のような経緯のもと障害者差別解消法が2016年4月1日に施行されています。ちなみに障害者差別解消法は障害者基本法第4条(差別の禁止)の実行法に位置付けられます。
障害者の権利に関する条約から障害者差別解消法制定までの流れの中に障害のとらえ方の変化があります。医学モデル(個人モデル)から社会モデルを重視する流れです。医学モデルは身体的・知的・精神的な機能障害を「障害」と定義し、社会的不利を個人の問題とする考え方です。治療や訓練によって一般社会に適応できるよう個人の責任と努力で「普通」になることをめざします。
一方、社会モデルは社会との間の障害物によって、その能力を発揮する機会を奪われた状態を「障害」と定義し、社会的不利の原因を社会の問題とする考え方です。つまり障害は個人の問題ではなく、社会との関係性の中にある問題としてバリアフリーがいっそう重視されています。障害者の権利に関する条約や障害者差別解消法では「合理的配慮」という言葉が示されるようになっています。
障害のある方と社会との間の障害を取り除けば日常生活に支障がなくなります。例えば車椅子を利用する方が電車に乗る時、駅にエレベーターがあり、電車に入る時は駅員に板を渡してもらえば介助者がいなくても一人で移動できます。市役所の窓口では障害のある方の障害の特性に応じたコミュニケーション手段(筆談、読み上げなど)で対応することで必要な手続きは達成でき、日常生活に支障が発生しません。
社会モデルの考え方では、障害のある方と社会との間にある邪魔なもの、社会的な障壁を「障害」としています。社会的障壁とは障害のある方にとって、日常生活や社会生活を送る上で障壁となる次のようなものを指します。①社会における事物(通行、利用しにくい施設、設備など)、②制度(利用しにくい制度、障害があることで免許が取れない制度など)、③慣行(障害のある方の存在を意識していない慣習や文化、手話通訳欠如の状態化など)、④観念(障害のある方への偏見、心ない言葉や視線など)などがあげられます。
具体例として、街中の段差、3センチ程度の段差で車椅子は進めなくなります。書類、難しい漢字ばかりでは理解しづらい人もいます。ホームページ、すべて画像だと読み上げソフトが機能しません。障害者差別解消法では障害者に対し、不当な差別的取扱いと共に合理的配慮の不提供も差別になります。障害者に対する不当な差別的取扱いの禁止は、国や地方公共団体と民間事業者も共に法的義務を負っています。
障害者に対する合理的配慮の不提供の禁止に関しては、国や地方公共団体が法的義務を負っている一方、民間事業者は努力義務となっています。このような法改正の流れを受け、「障害者差別解消法の施行に向けて」という庁内研修があり、私どもの市では障害者差別解消の推進に関する職員対応要領を策定しています。この対応要領は職員の服務規律として順守しなければならないものとなっています。
対象となる障害者は「障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」とし、障害者手帳等の所持者に限らず、見た目で分からないこともあるようです。不当な差別的取扱いの具体例は、障害のあることを理由にサービスの提供や入店を拒む、来庁の際に付添者の同行を求める(もしくは同行を拒む)、補助犬の同伴を拒否することなどがあげられます。なお、障害者を障害者でない方と比べて優遇する取扱い(積極的改善措置)は不当な差別に当たりません。
障害者差別解消法の規定で、行政機関等及び事業者が事務又は事業を行なうに当たり、障害者から社会的障壁の除去の意思表明(求め)があった場合、その実施に伴う負担が過重でない時は障害者の権利利益を侵害することにならないよう障害の特性や具体的場面に応じて社会的障壁を除去しなければなりません。意思の表明は家族や介助者等からでも受け付け、求めがあった場合、合理的配慮の提供が義務付けられます。意思の表明がない場合でも、社会的障壁の除去が明らかに必要な時も同様です。
過重な負担に関する判断の視点としては、①事務又は事業への影響の程度(事業等の目的・内容などの本質を損なわないか)、②実現可能性の程度(物理的・技術的、人的・体制上の制約はないか)、③費用負担の程度(必要な費用は事業の実施に影響を及ぼさないか)などがあげられます。過重と判断した時は、障害者にその理由を説明し、納得を得るように丁寧な対応が求められています。
担当主査による庁内研修では障害の特性ごとの合理的配慮の具体例の説明がありました。この場では個々の説明は省かせていただきますが、まとめとしての講師の言葉を紹介します。障害のある人もない人も共に気持ち良く手続きやサービスを利用していただけるように職務を遂行することは基本です。障害のある人は健常な人に比べて不足しているところがあります。それを補うことで、障害のある人もない人も共に気持ち良く手続きやサービスを利用していただけるようになります。障害のある人の不足しているところを補うこと、これが合理的配慮の提供となります。
講師の言葉は「市の職員として、障害者に対して差別することは、基本的にはないと、申し上げることができます。しかし、知らず知らずのうちに障害者に対して差別をしてしまう可能性があります」と続き、合理的配慮の不提供に対する注意を喚起されていました。さらに「障害は千差万別で、一人ひとり異なります。知らず知らずのうちに障害のある人のプライドを傷付けてしまうことがあるかも知れません」とし、無意識な差別発言に繋げないためには障害や障害のある方々への理解を深める必要性を訴えられていました。
庁内研修の最後には庁舎内に限らず、街中でも障害のある方の困っている様子が伺えたら「何かお困りですか?」という一言をかけることで、障害・障害者理解の啓発や職員自らの障害者差別解消法の実践的な研修に繋がることを説かれていました。障害者差別解消法の説明を中心にした内容に付け加え、最後に最近、目に留まった新聞記事を紹介させていただきます。朝日新聞に『つながる空の下』という東京パラリンピックに向けた記事が連載されています。
その一つとして火曜の朝、『自虐ネタ 障害も「笑い」』という見出しの内容が掲げられていました。ネット上で閲覧できる内容は冒頭の部分だけですが、その続きも登録(無料も可)すれば見れるようになっています。ぜひ、興味を持たれた方はご参照ください。『バリアーはどっちの側に』という副題が添えられ、不倫騒動で渦中の人になった乙武洋匡さんの「障害だけはひとくくりにタブーという現状に違和感があった」という言葉などが掲げられています。
《デブやハゲは笑ってOKで、障害がNGなのはなぜか》 テレビ朝日で昨年末にあった漫才大会「M―1グランプリ」の放送終了後、こんなツイートが流れた。優勝した2人組のトレンディエンジェルはそろって薄毛。その容姿を武器に勝ち上がったのを受けた投稿だ。リツイート(転載)は2千を超えた。お笑い芸人のあそどっぐ(37)=本名・阿曽太一、熊本県合志市=は一人暮らしのアパートでパソコンの画面を見つめた。「僕がもっと面白かったら、このツイートもなかったのかなぁ」
全身の筋力が低下する難病で、顔と左手の親指以外は動かせない。自称「お笑い芸人界初の寝たきり障害者」。ヘルパーの手を借りて横になったまま、毎日、動画投稿サイト「ニコニコ動画」でトークを生放送し、月に1回程度、お笑いライブに出る。つかまり立ちした赤ん坊と自分を比べる自虐ネタなど、障害も笑いの素材だ。舞台に立ち始めて2年。ファンもついたが、登場した途端、客席が凍り付く経験はしばしばだ。「でも、1人笑うと、それが合図のように笑い声が増える。そんな日は快感。逆に、すべったのに『感動した』って言われた時が一番へこむ」
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コメント
本文にある法律の理念には賛同するのですがね。権利は平等でも、義務は平等でないんですよね。
そこが差別につながる温床と思うわけです。一部のレイシストを除けば教育も進み、不当な差別をしようとは思わないはずです。まあ考えがおよばない部分は今後も教育が必要でしょう。問題は障害者もごく普通な人間ゆえに欲望もあれば、犯罪もするということです。障害者を善人で清らかな人扱いしたり、美化したりする行為が差別を生み出す。
さらに、知的障害や精神障害ゆえに犯罪行為があっても処罰されない。一般人にとってこれほど忌避すべき理由はありません。巻き込まれたら一方的に損害を受け、さらに補償もされない。これでは避ける以外の選択肢が存在しませんね。
だから、そのような方をお世話する施設を作ろうとしても激しい反対運動が発生するわけです。
どうしようもないと思うのですがね。
投稿: nagi | 2016年4月12日 (火) 12時07分
主様がこのテーマで書いたことの意図が
私には理解できませんでした。
自治体の組織として障害者をどうとらえるのか?
という視点なのか、
健常者と障がい者との付き合い方を考えているのか?
最後の青文字の部分と、それ以前に書いたことが
どう関連付けているのかが不明ですね。
>合理的配慮の不提供に対する注意を喚起されていました。さらに「障害は千差万別で、一人ひとり異なります。知らず知らずのうちに障害のある人のプライドを傷付けてしまうことがあるかも知れません」
「あぁ、やっちゃってるなぁ」と思ったのは上記の部分。
脳性マヒを持つ私の悪友が人を馬鹿にする時によく使う
健常者の偽善者論法。
机上の空論。
おそらく主様は障がい者と
あまり深くかかわった事がないようですね。
あのですね、障害者が千差万別なんじゃなくて
人が千差万別なんです。
障害のある人のプライドを傷つけるんじゃなくて
人は人を傷つける生き物なんです。
だいたい、その人の背中に背負ったものが
障がいであろうが、過去であろうが、環境であろうが
知らなきゃ誰だって傷つける可能性がある。
もう、この考え自体が「障がい者差別」なんですよ。
障がい者だから特別視するとか
前提として傷つけてはいけないとか
そんな事を考えるほうが間違ってる。
モラルに反した障がい者は山ほどいる。
それをまっとうに叱れない健常者が多すぎるんです。
だから、障がい者はそれに甘える。利用する。
悪用したらダメだとはっきり言うべきなんです。
ただし、障がい者が社会の中でどういうルールで
暮らしているのかを知ることは
共存する必要があるのなら、知るべきです。
「何を助け、何に怒るのか」がわからないから。
障がい者が一番つらいのは
「お前は見たくないから、塀の中から一生出てくんな!」
この潜在意識を健常者の皆様が持っていることなんです。
それに尽きると思います。
投稿: いまさらですが | 2016年4月13日 (水) 22時09分
後天性の障害者・難病患者が困ることは、障害や難病を負ったその時点から、障害者・難病者とレッテル張りをされ、さらには、それまで培ってきた知識や技術がほとんど社会に対し活用されないことにあります。
長い間、企画職を勤めてきた私には、障害を負ってからというもの、障害年金という名の社会保障を受けることができても、地域の偏見に対し説明するという毎度のおなじみのセリフを述べても理解はされません。
社会との接点すら失い、次々と襲い掛かる疾病に耐えしのび、ヤクショからは社会更生プログラムを受けさせられ、クルマで通勤時間が1時間以上かかるおもちゃ工場のガシャポンの再生品(殻割作業)の仕事でもどうですかと言われ、プライドも何もあったもんじゃないです。プライドなど捨てりゃいいといわれればそれまでですが、職業選択の自由アハハーンというのがありますのでね。いちおー。
はっきりいって授産施設や作業所に毛が生えた程度の職場なんて、私らはいらない。文書の封筒詰めとか、清掃業務とか、常時、身体が動けばできるけど、もう少し元企画屋としての知識経験は生かされないのだろうかと思うことしばしばです。
頭は動いているんだが、身体はいつもは動かない。
昔、仕事で、人権問題や外国人問題、特に視覚障害者のみなさんとの交流がありましたが、いまさらですがさんがいみじくもおっしゃったように、人が他人に「差異」を感じることで、自分のアイデンティティーを感じるのであれば、人はもともと千差万別。障害や難病はその一部にしかすぎません。人がメガネをかけているかどうかくらいの違い。程度問題はあります。
ただ、社会状況が閉塞感を覚えてくると、どうしても、障害者やバリアフリーの話が出てきてしまう。これは、政府の悪いくせだと思います。波のように、何年かの周期で障害者がクローズアップされてしまう。
障害者を差別しないように・・・とのことなんでしょうが、法文を読む気にもなりません。まず「差別」は存在しない「差異」が存在することから気付いてほしい。
人と人の間には異なっている部分がある「差異」がある。「差別」が始まるのは「差異」があってのこと。
「差異」を認めすぎると極端な個人主義にいたり、また、「差異」の溝は深まるばかり。ですから、せめて世の中は法的な平等はあるけれども、「差異」は大なり小なり存在するということだけは押さえていただきたいと思います。
障害者の当事者としてはそう思うのです。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2016年4月13日 (水) 22時56分
※これは、後天的な障害(難病)を有する稼働世代のうちの一人の意見です。個々人それぞれで、状況は千差万別・感じ方も千差万別ですので、一般論としては何も言えませんが。
昭和35年法律第123号の実効性の確保が十分でない状態(というより実効性が十分確保された状態というのが、今の日本の社会状況で、成立する余地がないのではないか?と疑われる状態)で、平成25年法律第65号が施行されたとして、さてどうなのだろう?という印象は確かにあります。
そもそも、あらゆる障害者を差別なく包摂する社会ってのは、今の社会経済状況で、実現可能な目標なのかどうか。
もちろん政策論として、「達成可能性ではなく、目標として掲げるべき性質の政策課題」であることは否定できません。
ただ、社会環境として実現可能でない目標を、社会に課してしまう(下からの自然発生ではなく、上から課してしまうと)と、むしろ「歪み」が強化・顕在化した形で、言い換えれば「先鋭化」して、障害をもつ当事者に向かってくる可能性が心配されるので。
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以下は、純粋に一人の感情論ですが、法律の題名が「障害」であって「障がい」でないことを支持します。
実効性を否定するようなことを書いておいてアレですが、ワタクシがこの法律を評価する点です。
「がい」と平仮名表記されることが、却って”強調されてしまう印象”があって、どうにも好きになれません。
「障害○○」という漢字の羅列を「障がい○○」とかくことで、却って”がい”が視覚的に強調される気がして居心地が悪いんです。
繰り返しますが、感じ方は人それぞれであることを前提にしてのワタクシの主観ですけれども。
<旧民主党政権下で「がい」という表記が広まったことについては、苦々しいです。>と言う意見は、ワタクシに限らず、当事者の一定多数にあることは事実ですので。
もちろん、当事者の一定多数に平仮名表記を支持する意見があることも知っています。
個々人の感性ですから、表記の問題は、万人が納得する答えはないでしょう。以上は、あくまでもワタクシの個人的な感情論です。
しかし、表記を変えたら現実が動くわけでもありません。表記を平仮名に変えるよりも必要なコトはあるだろうっていう。
投稿: あっしまった! | 2016年4月14日 (木) 15時36分
追記。
民主党政権下で、「障がい」という表記を用いたことを否定的に書きましたが、古くからの法律用語である「廃疾」よりは、肯定的に受け止めてます。
※もちろん、個人の感情論というか、感性の問題です。
※昭和57年法律第66号により、法令用語としての「廃疾」は「障害」に統一された。
投稿: あっしまった! | 2016年4月15日 (金) 10時42分
「障害」で構わないと思います。わが市も、条例用語、役所の独自ルールとして「障がい」と表記するようになりました。
障碍と書く例もありますが、言葉狩りのような気がしてなりません。役所に提出する書類は、障がいや障害が混ざっていて、当事者としては奇妙に感じられます。
繰り返しになりますが、差別という言葉には、明らかに、人を区別し分離して管理するという少し悪意のようなものを禁じえません。
人は個々で異なっています。異なっていることに価値を見出すのなら、「差別化」という言葉を使わず「差異化」としたほうがよりベターであり、ディバイドよりディファレントへの意識転換を、政府、地方自治体が積極的に進めていただきたいです。
障害者は健常者に対する「別の種類のいきもの」ではなく、それが人間の個性であり、単に他人と異なるという、アイデンティティーの種類であることをもっとアピールする必要があると思います。
これは、障害者、難病者、伝染病患者に限らず、単に、人に与えられる属性に過ぎないのです。国籍という属性、門地という属性、性別という属性etc。それらに対し法的な倫理的な優劣はありません。
ついては、これらは倫理教育の問題でもあり、広く人権の問題と私は捉えています。
個々の人権と公共の福祉の問題はせめぎ合いがあるので、ドロップアウトする前の現役のころ、随分と頭の体操をしましたが、いずれにせよ、障害者に対する負荷については、人権全体の問題として、人間社会において差異をどこまで許容できるかという課題でくくるほうが自然だと思います。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2016年4月15日 (金) 23時24分
nagiさん、いまさらですがさん、でりしゃすぱんださん、あっしまった!さん、コメントありがとうございました。それぞれの立場や視点からの貴重なご意見を伺えることで記事本文の至らなさを補っていただけているものと考えています。
今回の記事は本文に記したとおり馴染みの薄い障害者差別解消法を少しでも広められればと願いながら投稿しています。その上で皆さんのコメントにあったとおり障害者一人ひとりに個性や差異があることを考える事例として朝日新聞の記事を紹介しています。
本文中で研修講師の言葉を引用していますが、上記のような趣旨のもと私自身、問題性を感じていませんでした。そのため「健常者の偽善者論法」や「机上の空論」という指摘に少し戸惑いましたが、そのように受けとめられてしまう要素があることを今後留意していかなければなりません。
身障手帳を持つ家族の介護を日常とし、これまで自治体職員や組合役員の立場から多くの障害者の方々と接してきています。ただ経験豊富な方からすれば「あまり深くかかわった事がない」という見方をされても弁明できない程度の浅いものだろうと思っています。したがって、今回の記事は伝聞調の内容を中心とし、主観的な記述が少なかったこともご理解ご容赦いただければ幸いです。
投稿: OTSU | 2016年4月17日 (日) 07時23分
えっと実はですね、
「障害」でも「障がい」でも「障碍」でも、表記は何でもよいのですが、
そもそも「しょうがい」という言葉で表す事自体の妥当性というものがですね……という命題がある気もするんですよ。
ワタクシが「障害」という表記を好むのは、後天的に「障害状態」に陥ったから。(我が身に降りかかった”障害”だから。)
というコトが影響してるかも知れないなと自覚するところがあるのです。
同時に、先天的に「障害状態」な人にとって、第三者が「障害」と呼ぶものは -自覚的には、何者として認識されているのだろう- って思うので。
それは、他者との”他者との大きな差異”かも知れないし、”あらゆる障壁の原因”かも知れない。
それを「障害」と呼ぶとき、その語感・語意のもつ意味、そのものがそもそもどうなのだろう?っていうようなコトを思ったり。
もちろん、「心身の機能上の、健常者と呼ばれる人の範疇からは外れるほどの、大きな差異(個体差)」や「心身の機能上の、健常者と呼ばれる人の範疇からは外れる、それ故の諸々な障壁」が存在してるのは事実であって、そうしたギャップを包摂できる社会が理想なのは事実です。
ただ、障害者は「障害者であるが故に、健常者と同じように社会生活を送る。そうあるべき。」という命題が、「障害者であるが故に、差別的に課せられた命題」という気もしてまして。
※健常者は「健常者であるが故に健常者と同じように社会生活を送るという命題」はもってないので。
そんなこんなで、法律の目的や主旨はわかるのですけれど、法律ができたからではすまないような、実は深くて広い問題だと思う次第です。
投稿: あっしまった! | 2016年4月17日 (日) 21時12分
あっしまった!さん、コメントありがとうございました。
以前、私も「障がい」と記していた頃がありました。現在は今回の記事本文のとおり「障害」と記しています。今回のようなテーマについて今後も機会を見て取り上げたいものと考えています。その際はまた貴重なご意見やご提言をよろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2016年4月23日 (土) 21時04分