改めて安保関連法に対する問題意識
昨日、連合三多摩地協が主催した三多摩メーデーに参加しました。第1部の式典の後、毎年、私どもの組合員と家族の皆さんを対象にした独自抽選会を行なっています。抽選会の前、私から次のような要旨の挨拶をさせていただきました。数日前、組合員の方から「熊本地震に対して組合から支援の呼びかけはないんですか」と尋ねられていました。前回記事の冒頭に記したとおり役員段階で、駅頭でのカンパ活動には取り組んでいました。
これまで被災した各県の連合や自治労の繋がりのもとに具体的な支援の取り組みを進めてきていました。今回、受け入れる側の態勢が整っていなかったため、ボランティア派遣の呼びかけなど阪神淡路大震災や東日本大震災の時に比べて組合員の皆さんへの提起が遅れていました。メーデー参加者の皆さんに向け、これから職場カンパやボランティア派遣の募集など随時呼びかけさせていただく予定であることをお伝えしました。
なお、今年も組合員と家族の皆さんを合わせ、500名に及ぶ多くの方々の参加を得られていることを報告できました。全体の参加者も2万人を超える規模で催しています。連合の中央メーデーも5月1日からゴールデンウイークの初日に開催されるようになっています。三多摩メーデーは中央よりも随分前から組合員の「参加しやすさ」を最優先し、ゴールデンウイークの初日に催すように改めていました。
一人でも多くの方の参加を呼びかける催しや取り組みに際し、半強制的な動員要請による参加は望ましいものではありません。組合員の皆さんが「行ってみようかな」と自発的に参加を考えてもらえるような「参加しやすさ」やイベントとしての魅力を高め、取り組む意義などを丁寧に情報発信していく試みが大切なことだろうと思っています。組合活動全体に関わる留意点であり、特に政治的な活動に対してはいっそう丁寧さが必要であることを訴えさせていただきました。
お配りしたA4の抽選券の裏側には7月の参院選挙に向け、自治労組織内参院議員の江崎孝さんを組合が推薦していることを案内していました。このような案内も「なぜ、組合が江崎さんを応援するのか」という丁寧な情報発信の一つであることを挨拶の中で説明させていただきました。私の挨拶の後、式典のステージから私どもの市長にも足を運んでいただき、障害者差別解消法に触れた挨拶を頂戴しました。
市長に続き、衆院議員の長島昭久さんにも駆け付けていただきました。長島さんは民進党の都連幹事長としてステージ上でも挨拶されていました。式典での挨拶の要旨はご自身のFacebookにも取り上げられていますが、「安倍政権の間しか通用しないような単なる政権批判ばかりでは永遠に政権は取れない」という長島さんらしい率直な内容でした。私どもの組合と長島昭久さんとの関係は以前の記事「憲法の平和主義と安保法制」や「民進党、中味に期待」などを通してお伝えしてきています。
前回記事の最後には長島さんのブログの最新記事『「集団的自衛権の行使を容認した政府解釈の変更」再考』を紹介していました。「できれば次回以降の記事で長島さんが提起されている論点等も踏まえ、私なりの問題意識や考え方を整理してみるつもりです」と予告していました。さっそく今回、「改めて安保関連法に対する問題意識」という記事タイトルを付けて書き始めています。本題に繋げる伏線のような記述もありますが、ここまでで相当な長さとなっています。久しぶりに小見出しを付けながら書き進めていきますが、過去の記事の引用が多くなるため、いつもにも増して長文のブログになることをご容赦ください。
「戦争法」という呼び方とレッテル貼りについて
前回記事「『カエルの楽園』から思うこと Part2」のコメント欄で「戦争法」という呼び方を巡って意見が交わされました。記事本文の冒頭に戦争をさせない1000人委員会が取り組んでいる「戦争法廃止を求める統一署名」の宣伝活動について触れていたからでした。「戦争法」と呼ぶことに対し、不快感を示される方、まったく問題がないと考えている方、個々人で受けとめ方は大きく分かれがちです。私自身、このブログの中で「レッテルを貼った非難の応酬は絶対控えるべき留意点」と記し、固有名詞を蔑称で呼ぶことも慎んでいただくよう理解を求めてきています。
そのため、安保関連法に絡む記事を数多く投稿してきましたが、安保関連法を私自身の言葉として「戦争法」と置き換えたことは一度もありません。 一方で、前回記事のように署名用紙の固有名詞として、そのまま使っているケースも複数回あります。最近の記事「安倍首相の改憲発言」の冒頭でも「戦争法廃止を求める統一署名」の宣伝活動について触れていました。同時に私にもマイクを持つ順番が回った際、このブログに綴っているような内容を中心に駅頭を行き交う方々に訴えたことも記していました。
「安倍首相が戦争をしたがっているとは考えていませんが、昨年9月に成立した安保法制には様々な問題点があるのではないでしょうか」という他のメンバーの訴え方とは少し異色な論点提起でした。ちなみに署名用紙そのものには「平和安全保障関連法」と明記されています。さらに国会審議で「戦争法」という呼び方を議事録から削除するよう求められましたが、削除には至らなかったようです。
とは言え、できれば前回記事のコメント欄に寄せられたような批判を避けるため、「戦争法廃止を求める統一署名」を安保関連法の廃止を求める署名活動という言葉に置き換えるべきかどうか少し迷いました。結局、これまでと同様、リンク先の署名の呼称をそのまま使うことを判断していました。その判断に至った補足説明として、ここで以前の記事「安保関連法案に絡む問題意識」に記した私自身の問題意識を改めて掲げさせていただきます。以前の記事内容は赤い文字で掲げていきますが、少しだけ語句や言い回しを改めていくつもりです。
立場や思想などが異なっていても戦火を歓迎する人は皆無だろうと思っています。中には戦火が上がることで「武器が売れる」と喜ぶ人もいるのかも知れません。そのような人々は自分自身が戦場に行かないことを前提にしているはずです。逆に戦場に行くことで収入を得るような人々は戦火をビジネスチャンスだととらえているのかも知れません。しかし、そのような人々は極めて例外であり、通常、誰もが戦争を嫌い、平和を願っているはずです。
もちろん安倍首相もその一人であることをまったく疑っていません。安保関連法案を成立させることで抑止力が高まり、戦争を避けるために必要な法整備であるという説明も虚言や詭弁だとは思っていません。ただ後ほど触れますが、そのことの実効性や評価は別の問題として考えています。安倍首相が戦争を肯定している訳ではないため、反対する側が「戦争をさせない」と声高に叫ぶことには以前から少し違和感を覚えています。
とは言え、この法案が成立し、限定的とは言え集団的自衛権が行使されるようになれば、これまでより日本が戦争に関わる可能性は高まります。そのような意味合いで見れば「戦争をさせない」という端的な反対スローガンも間違いではないため、それほど強く問題視してきた訳でもありません。とても与党議員のように「平和安全法制」とは呼べませんが、私自身は「戦争法案」という言葉も使わないように心がけています。
このことは最近の記事「安保関連法案の論点」の中でも説明していました。固有名詞を別の名前で呼ぶことには注意を払うべきものと考えているからでした。そのように心がけている中で「普通に戦争ができる国」という言葉は多用しています。この言葉は個々人の評価や見方を反映した形容詞であり、「戦争法案」という固有名詞の使い方とは一線を画しているつもりです。さらに私自身のこだわりは「普通に」という言葉に重きを置いています。
現状でも日本は戦争ができる国だと考えています。個別的自衛権の行使となる自衛戦争です。今後、限定行使とは言え、集団的自衛権まで認める場合、国際社会の中で「普通に戦争ができる国」に繋がるものと理解しています。この言葉も他の国は好戦的であるという批判的な意図を含んでいません。あくまでも国際社会の中で認められた自衛権の範囲内の問題でとらえ、普通なのか、特別なのかという意味合いで表現しています。
ちなみに他の国の憲法でも一定の制約を設けている場合があり、日本だけが唯一「特別だ」と強調している訳ではありません。いずれにしても直接的な戦火から距離を置くことができた戦後70年の歩みは誇るべきものであり、これまでのスタンスを変えるのかどうか重大な選択肢として今回の安保関連法案の是非が問われているものと認識しています。要するに「安保関連法案に賛成する者は戦争を肯定している」という見方は論外なことだと考えています。
その逆に反対派は利己的だという見方も同様です。さらにネット上では反対派を「反日」や「他国に操られている」という言葉で貶めるケースも散見しています。事実関係を完全に把握できる訳ではありませんので断定調な書き方は私自身も慎まなければなりません。それでも思い込みや決め付けが先走った「レッテル貼り」は賛成派も反対派も控えることが大事な心構えだと考えています。このような「レッテル貼り」が前面に出た場合、まず理性的な議論が期待できなくなります。
以上のような関係性を踏まえ「この法案の成立が本当に望ましいことなのかどうか」、この言葉に私自身の最も強い問題意識を託しています。問題視している理由は最近の記事「問題が多い安保関連法案」「安保関連法案が衆院通過」「安保関連法案の論点」などを通し、私なりの言葉で訴えてきました。立憲主義や抑止力の問題などの論点について人によって賛否や評価が大きく分かれていくものと思っています。そもそも周辺国の脅威をどのように認識するかどうかで議論の出発点も枝分かれしていくようです。
憲法9条と朝鮮戦争時の日本特別掃海隊
前々回の記事「『カエルの楽園』から思うこと」の中で「憲法9条を守っていれば日本の平和は守れる、そのような見方は一面で正しく、別な一面で誤りだと言えます」と記していました。自衛隊創設前、朝鮮戦争の際に海上保安庁の日本特別掃海隊が機雷除去に携わりました。このような歴史を忘れてはいけませんが、憲法9条という歯止め、集団的自衛権は行使できないという憲法解釈のもと日本は戦争に直接参加せず、他国の人の命を一人も奪うことなく戦後の70年を乗り切ってきたことも事実です。
これまで「セトモノとセトモノ、そして、D案」をはじめ、数多くの記事を通して平和の築き方や安全保障のあり方について自分なりの「答え」を綴ってきました。私自身、憲法9条さえ守れば平和が維持できるとは思っていません。重視すべきは専守防衛を厳格化した日本国憲法の平和主義であり、その平和主義の効用こそ大切にすべきものと考えています。憲法9条を守ろうとしている人たちの中でも考え方は様々なのかも知れませんが、『カエルの楽園』に登場するナパージュのカエルたちのような盲目的な信者は皆無に近いのではないでしょうか。
このような記述を残した際、日本特別掃海隊に言及しながらもあくまで「直接参加していない」とするのは歴史に対する冒涜という指摘を受けていました。このような指摘に対し、私自身の考え方は「セトモノとセトモノ、そして、D案」の中で記していました。過去の記事内容も個々人の「答え」に照らし、かけ離れた価値観だった場合、一つの「答え」という見方にも至らず「何も答えていない」という関係性なのかも知れませんが、今回の記事を通して改めて紹介させていただきます。
これまで憲法9条という歯止め、集団的自衛権は行使できないという憲法解釈のもと日本は戦争に直接参加せず、他国の人の命を一人も奪うことなく戦後の70年を乗り切ってきました。ただ朝鮮戦争の際には海上保安庁の日本特別掃海隊が機雷除去に携わり、56名の日本人が命を落とされていました。当時、新憲法が制定されて3年、戦時下の朝鮮水域への掃海艇派遣は憲法9条に抵触する恐れがありました。
そのため、日本特別掃海隊のことは30年ほど秘匿されていました。前々回記事のコメント欄で「問題だと思うのは、護憲派と言われる人たちが日本特別掃海隊による朝鮮戦争への事実上の参戦を、まるで無かったかのようにする姿勢」という意見が寄せられていました。制定直後に憲法9条は踏みにじられていたという指摘はそのとおりであり、たいへん重い事実だと思っています。
一方で、憲法9条があったから機雷除去という後方支援にとどまった見方もできます。占領下という特殊な状況でしたが、それこそGHQが主導した憲法を完全にないがしろにするような強要は手控えざるを得なかったものと見ています。集団的自衛権の行使を認めるための解釈の一つとして、既成事実があったという理屈であれば日本特別掃海隊は極めて特殊なケースであり、前例と言えるのかどうか疑問です。
GHQに押し付けられた憲法だから変えるべきという主張をよく耳にしますが、前々回記事の最後のほうに記したとおり明治の自由民権運動から連なる日本国内の下地があった点をはじめ、五百旗頭真防衛大学前校長の「半世紀以上も歩んできた中で制定の経緯を最重要視するのは滑稽だ」という指摘に共感しています。要するに私自身、押し付けられたというネガティブな気持ちを持っていません。
時代情勢の変化の中で改めるべき点があるとすれば、もともと改正条項の96条があるのですから一字一句変えてはいけないとまで言い切れません。しかし、憲法9条2項を改めなければ「自衛隊の存在は違憲だ」という主張に対しては異なる見解を持っています。憲法9条2項があっても国家固有の権能の行使として「必要最小限度の自衛権」は認められるという解釈を支持する立場です。
そもそも条文の解釈は一度できても、何回も変更できるようなものではないはずです。集団的自衛権行使を認めた安保法制の問題点は、このブログの複数の記事を通して訴えてきています。今回の記事は憲法観の切り口から書き進めてきました。たいへん長い記事になっていますので、そろそろ論点を整理しなければなりません。平和運動の中で「護憲」という言葉が、憲法9条さえ護れば平和が維持できるというイメージを発信しているようであれば問題だと考えています。
護るべきものは専守防衛を厳格化した日本国憲法の平和主義であり、強調すべきことは平和主義の効用です。集団的自衛権が行使できない「特別な国」だったからこそ、これまでアメリカ軍と一緒に自衛隊が戦場に立つことはありませんでした。アメリカ側からすれば日米同盟の片務性に対して不公平感を抱いてきたようですが、これからも他国の戦場では自衛隊の活動は後方支援にとどまるため、不公平感が飛躍的に解消されるものではないはずです。
憲法の平和主義と日米安保条約
上記の記事の前に「憲法の平和主義と安保法制」があり、次のような記述を残していました。国際社会の中で原則として戦争は認められていません。例外の一つに自衛のための戦争があります。集団的自衛権もその名のとおり自衛のための戦争に位置付けられます。国連加盟国は侵略戦争を放棄しているため、建前上は日本と同様、すべて「平和主義」を希求している国だろうと思っています。
戦争を防ぐため、平和を守るため、抑止力を高めることが大事だと考え、今回のような安保法制に繋がっていることを理解しています。一方で、自国や自分たちの「正義」を武力によって押し通そうとする場面が後を絶たず、残念ながら世界のどこかで戦火が上がり続けています。数多くの戦争への痛切な反省を踏まえ、同じような時期に崇高な理想を掲げ、国連憲章と日本国憲法は制定されていました。しかし、それらの理念と国際情勢の現実とのギャップは埋められないまま、現在に至っていることを否定できません。
憲法9条は草案の段階では、自衛権も認められないと解釈されていました。国会での草案審議を通し、自衛権までは禁止されず、自衛のための「必要最小限度の実力」を保有することは憲法9条に違反しないと解釈されるようになりました。この解釈があり、1950年の朝鮮戦争勃発という事態を受け、警察予備隊が発足し、保安隊から自衛隊に改組されていきました。その上で歴代自民党政権をはじめ、内閣法制局は「必要最小限度」の中に集団的自衛権の行使は認められないと明言してきました。
「平和主義」は日本だけが標榜するものではありませんが、憲法9条のもと国際社会の中で日本は際立った「平和国家」だと認められてきたことも確かです。このような憲法9条の抑制的な「特別さ」は誇るべきものと考えた際、集団的自衛権の行使に道を開き、いつでもどこでも同盟国と一緒に戦争をできる国に変えようとしている安倍首相は「平和主義を踏みにじろうとしている」という批判を受けるべき対象になりがちです。
「日本が攻撃されれば、米国はすぐに助けに行かなければならないが、われわれが攻撃を受けても、日本は助ける必要はない。条約は不公平だ」。2016年米大統領選に出馬している不動産王ドナルド・トランプ氏(69)は25日夜、アイオワ州の集会で数千人を前に演説し、米国の対日防衛義務を定めた日米安全保障条約は不平等だと訴えた。日本をはじめとする諸外国への強硬発言が止まらないトランプ氏。共和党指名争いの首位を独走している背景には、保守層の一部がこうした強気の姿勢に共鳴している面もあるようだ。【時事通信2015年8月26日】
トランプ候補が大統領になる可能性も高まっています。上記は多くのアメリカ人の本音だろうと思います。日米安保条約は集団的自衛権に位置付く性格のものであり、アメリカ側からすれば片務性の不公平感が生じがちです。日本側からすれば沖縄を中心にした米軍基地の負担や「思いやり予算」の問題などの言い分もあります。そのバランスがアメリカ側を納得させ続けられるものではなく、少しでも片務性を解消するため、今回の集団的自衛権行使の問題が浮上しているという見方は間違っていないはずです。
成立した安保法制の中で、これまでと大きく異なり、集団的自衛権行使のもとに後方支援が自衛隊の任務に加わります。後方支援も戦争参加であり、敵対する相手国からの標的になります。それにも関わらず、安倍首相は「戦闘が起こった時は、ただちに(後方支援活動を)一時中止、あるいは退避することを明確に定めている」と説明しています。私自身の誤解なのか杞憂なのか分かりませんが、このような後方支援は「なぜ、日本の軍隊だけ安全な場所にいて、最前線に出てこないのか」「戦闘を前に撤退するのか」という批判の声にさらされてしまうことを危惧しています。
これまで繰り返し述べてきたことですが、戦争や武力衝突の事態に至った際、「限定的」や「必要最小限」という理屈が通じるのかどうか疑問視しています。そのような場面では相手側を圧倒するまで総力を尽くすことになるのではないでしょうか。だからこそ日本国憲法では明文化されていなくても、個別的自衛権までを許容する範囲内とし、専守防衛という明確な線引きが非常に重要な点だったものと理解しています。
昨年5月、安倍首相はアメリカの上下両院合同会議で演説し、日米同盟強化のための安保法制を「この夏までに成就させます」と約束していました。アメリカ側の負担が減る話であり、大歓迎されていました。しかし、いつも懸念している安倍首相の発する言葉の重さに関わることですが、アメリカ側に誤ったメッセージを伝えてしまったようです。過剰な期待感を与えすぎているため、実際の運用面の問題になった際、信頼を裏切る形になりそうな話を耳にしています。
このような問題点を上げていけば尽きることがありません。そもそも武力の行使に前のめりになりがちなアメリカに対し、日本がブレーキ役になる関係性も欠かせないはずです。軍事面での風呂敷は広げすぎず、もう一度、日本国憲法の「特別さ」を前向きに評価し、日本のできること、できないことを率直に謙虚に示した上でアメリカとの信頼関係の維持に努めていくべきではないでしょうか。そのためにも国民の多くが反対していた安保関連法案は、いったん白紙に戻し、違憲の疑いを持たれない範囲内で解決すべき現状の課題を議論して欲しかったものと思っています。
武力で平和は築けない、国際社会の中で日本が果たすべき役割
以前の記事内容を引用しながら赤字に変えず書き進めている箇所がある一方、労力の負担軽減に繋がる転載箇所が多くなっています。もう少し時系列にまとめ、重複した箇所を整理し、読みやすくするつもりでしたが、力及ばずたいへん申し訳ありません。このような構成の記事は例外的なものだと考えています。その上で引き続き「安保関連法案の論点」の中に記した次の箇所はそのまま掲げさせていただきます。
軍備力の増強が抑止力を高めるという見方があります。普通の人は屈強なプロレスラーに殴りかからないという一例が示される時もあります。しかし、そのような例示は際限のない軍拡競争に繋がりがちであり、国際社会の規範による自制力を軽視した「弱肉強食」の発想だと考えています。例示で考えれば、殴りかからなくても拳銃を用意するという発想と同じ危うさとなります。タカ派の政治家は「戦争も辞さず」という発想を持ちがちです。このような発想は論外であり、まず他者の立場をおもんばかり、簡単に相容れない言い分だったとしても率直に耳を傾ける外交姿勢が最も重要であるはずです。
隣接したドイツとフランスは第一次、第二次世界大戦でお互い戦い、多くの犠牲者を出してきました。このような被害を繰り返さないという両国の決意が欧州に新しい流れを生み出しました。第二次世界大戦後、領土や資源の争奪戦を避けるため、両国は石炭と鉄鋼を共同管理する共同体を1951年に作りました。その一歩が欧州連合(EU)まで発展しています。軍事力による強引な他国への介入は混乱や無秩序状態を招きがちです。ISIL(イスラム国)を生み出したイラク戦争などから武力では平和が築けないことを教訓化していかなければなりません。憎しみの連鎖が新たなテロや戦争を招きがちな現実こそ、押さえるべき重要な情勢認識だろうと考えています。
かつてに比べればアメリカの国力にもかげりを見せ始めています。そのような絡みから日本の軍事力に今まで以上の役割を期待し、集団的自衛権行使を検討していくことに歓迎の意を表しているものと見ています。一方で、アメリカ国内では他国の戦争に巻き込まれたくないという意識が高まっているようであり、日本と中国との対立を危惧している側面があることも確かです。
安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を唱えていましたが、祖父の岸元首相から連なる個人的な信念が前面に出た動き方であるように感じています。ただ安倍首相が「戦争をしたがっている、戦前のような軍国主義をめざしている」というような批判は的外れだと思っています。それでも憲法9条の「特別さ」を徐々に削ぎたいという意図は明らかで「普通に自国の平和を維持できる国」、つまり制約のない集団的自衛権行使も含め、いざという時「普通に戦争ができる国」をめざしていることは間違いないようです。
そのような考え方に対し、私自身は日本国憲法の「特別さ」は守り続けるべきブランドだと考えています。そのことによって国際社会の中で日本だからこそ貢献できた役回りがあり、もっともっと「特別さ」をアピールしながら非軍事面での独自な活動に力を注ぐことを望んでいます。アフガニスタンのDDR(武装解除・動員解除・社会復帰)で活躍された伊勢崎賢治さんは、平和国家である日本のイメージは良く、「軍事的下心がない」と認識されていると述べています。そのため、武装解除の交渉がスムーズに進んだことを紹介し、「憲法9条によるイメージブランディングが失われたら日本の国益の損失だ」とも語られていました。
今回、安保関連法案を成立させれば、平和国家のブランドイメージを低下させ、これまで以上に日本もISILのような国際テロの標的にされるリスクが高まっていくものと危惧しています。誰もが戦争を積極的にしようとは考えていないはずです。悲惨な戦争に突入した過去の歴史の分岐点でも同様だったはずです。それにもかかわらず、軍事力の強化が抑止力を高め、戦争を未然に防ぐ手立てだという考え方が根強く支持されがちです。
しかし、国際社会の中で突出した平和主義を唱えた日本国憲法、その「特別さ」は誇るべきものであり、決して否定されるような理念ではありません。したがって、これまでの安全保障政策を大きく転換させ、わざわざ平和国家のブランド力を棄損させる安倍首相の判断は非常に残念なことです。歴史の分岐点とも言える今、よりいっそう平和の築き方について議論を深め、強引な安倍政権の進め方を疑問視する国民の声がもっともっと高まり、問題が多すぎる安保関連法案を白紙に戻せることを強く願っています。
最後に、長島昭久さんからの問題提起
長島さんのブログの最新記事『「集団的自衛権の行使を容認した政府解釈の変更」再考』の中で、次のような論点が提起されています。集団的自衛権の本質は「他衛」であり、「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているものとされている」という1981年5月29日の政府答弁書を紹介し、このような典型的な集団的自衛権の行使は我が国の憲法上認められるものではないと結論付けたことを長島さんは説明されています。
それに対し、長島さんは国際情勢の変化や軍事技術の進歩に鑑み「自衛」の視点から改めて集団的自衛権の概念(定義)を見直す必要性を認識し、 「集団的自衛権と個別的自衛権が重なる部分」(外形的には我が国に対する直接の武力攻撃が発生していないにもかかわらず反撃するという意味で「他衛」と見なされるものの、当該武力攻撃によってもたらされる我が国の国民の生命、自由、幸福追求の権利への侵害に切迫性があり近接性があり、しかも攻撃が直接我が国に及ぶ蓋然性が高いと判断されることから、それへの反撃が「自衛」と解される充分な根拠がある場合)などについて、合憲と判断した閣議決定を肯定的にとらえています。
中途半端な引用では長島さんの真意をしっかり伝え切れない心配もあるため、長島さんのブログ記事の中盤から最後までの箇所を青い文字でそのまま掲げさせていただきます。「集団的自衛権と個別的自衛権が重なる部分」に対し、限定的であれば集団的自衛権が合憲になり得るため、長島さん自身が安保関連法を全否定されたことはありません。その上で、ご自身のブログの最後に記しているとおり法案の中味や政府の説明について長島さんは疑義を示されてきています。
私自身の問題意識も今回の記事の中で強調しているとおり「安保関連法が本当に望ましいものだったのかどうか」という点であり、「集団的自衛権と個別的自衛権が重なる部分」は個別的自衛権の問題として議論を出発すべきものと考えていました。将来的には集団的自衛権の範囲が拡大解釈できるような法制は論外であり、これまで定めてきた個別的自衛権の枠内から逸脱する必要性が本当に迫られているのであれば憲法96条のもとに国民の意思を問うべき重大な問題だったものと考えています。
私は、一昨年7月の閣議決定をもって昭和47年見解の基本的論理を維持しているとの政府の説明も十分成り立つのではないかと考えるのです。すなわち、「外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置」としてならば、そのような自衛の措置は、たとえ我が国に直接武力攻撃が加えられない(つまり、当該武力攻撃に対する反撃行為は個別的自衛権では説明し切れない)ような場合であったとしても、憲法上「容認されるものである」とされたのです。換言すれば、この「47年見解」で違憲と断定された「いわゆる集団的自衛権」とは、「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする」従来の定義に基づく「他衛」のことを指すのであって、それはすなわち、我が国に対する脅威の切迫性や近接性、武力攻撃が我が国へ直接波及する蓋然性が存在しないにも拘らず、我が国が反撃を加えることができる権利と解されるのです。
ところで、たとえ従来の定義に基づく「いわゆる集団的自衛権」のごく一部を認めるような政府解釈の修正であったとしても、本来国家権力を縛るためにつくられた憲法の解釈を国家権力たる政府が自ら変更するのは立憲主義の蹂躙だ、という主張について一言触れておきたいと思います。政府はいかなる理由があろうとも過去の解釈を自らの手で変更してはならないのでしょうか。そんなわけがありません。憲法81条には、国家行為の憲法適合性を判断する終審裁判所は最高裁であると明記されており、最高裁が判断するまでの間は、政治部門(行政府と立法府)が憲法の有権解釈権を有しています。問題は、政治部門が、法規範論理(憲法規範の枠内に収まる論理)に基づいて、過去に積み重ねられた解釈と整合性のある解釈変更の根拠を示せるか否かということです。それをはみ出すようであれば、憲法を改正するしかないことは論を待ちません。
また、政府が従来の解釈を変更することをもって「解釈改憲だ」とする些か乱暴な議論もありますが、政府は、例えば、1954年の自衛隊発足にあたり、憲法9条2項で保有を禁じられた「戦力」の定義を大幅に変更し、自衛隊を合憲としています。これこそ解釈改憲といえ、当時、憲法学者の殆どが自衛隊を違憲と断じました。しかし、今日に至ってもなお自衛隊を違憲とする学者は少数といえます。なぜでしょうか。要は、自衛隊が、憲法の要請する法規範論理の枠内に収まるとの国民のコンセンサスが確立したからなのです。(この現実自体を拒否する方々の議論は、そもそも本論の範疇の外にあるものといわざるを得ません。)
以上要するに、最高裁において、自衛隊を合憲とした政府解釈や自衛隊法が違憲と判断されない限り、また、今回の集団的自衛権をめぐる政府解釈の変更および安保法制が違憲と判断されない限り、少なくともそれらは合憲の推定を受け国家統治の上では有効だということです。これらのプロセス全体を立憲主義というのであって、自分たちの気に入らない政府解釈の変更を捉えて「立憲主義の蹂躙だ」と叫ぶのは、法規範論理というより感情論といわざるを得ません。もっとも、今回憲法違反あるいは立憲主義の蹂躙と主張している学者の多くは、現憲法が認める自衛権の行使は「47年見解」でギリギリ許されると解している節がありますので、それを1ミリでも超える解釈は受け入れがたいのかもしれません。しかし、この点でも、繰り返しになりますが、憲法が要請する法規範論理に基づいて検証、立論していただかねば、議論は最後まで噛み合いません。
もちろん、だとしても、このたびの安保法制の立法過程において、なぜそういった新規立法が必要なのかを示す立法事実を十分に説明し切れなかったり、国際情勢変化や軍事技術の進歩などについて説得力ある説明ができず、国民多数が未だ十分に理解していない段階で、数の力で押し切った政府の責任は重いと考えます。その意味での反発や批判は正当なものといえます。ただし、それを以って「戦争法」だとか、「集団的自衛権は違憲」だとか、「立憲主義を蹂躙するもの」などと批判するのは感情論以外の何物でもなく、いかに憲法学の大家や熱心な政治家や気鋭の学生さんたちが論陣を張ろうとも、それらは学問的にも政策的にも誠実な議論とは言えないのではないかと感じています。
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コメント
すみません。ざっと読ませていただいただけの感想となりますが、ご勘弁下さい。
まず、「名称」問題についてですが、OTSUさんは、私が思っていたよりも、ずっと慎重であったと知りました。と申しますか、私自身、他の人がOTSUさんに貼った「レッテル」の影響を、少なからず受けていたと思います。その点、お詫びしたいと思います。
全体的な印象としては、以前から感じているとおり、OTSUさんが非常にバランスを大切になさる方であり、また非常に慎重で細やかで気遣いのある人であって、それが物の見方、考え方によく表れていると思います。
ここまで絶賛すると、中には私をOTSUさんの回し者か何かのように勘ぐる人もあるかも分かりませんが、私がここまでOTSUさんを誉めるのは、OTSUさんが私の持たないもの、持ちたくても、性格が邪魔をして持てないものを、たくさん持っておられる方だからです。
私もいい歳になりましたから、OTSUさんや他の方より、賢そうに見られたいとかいった気持ちは薄れてきました。ただ単に「それは違うだろ」と思うことについて率直に語りたいだけで、自身の賢さを誇示したいという気持ちは薄れてきたので、OTSUさんについても、このようなかたちで忌憚なく評価できるのだと思います。
ここで論じられているのは、アクチュアルな政治的問題ですが、しかしそれぞれの論者も人間であれば、その政治的判断そのものばかりではなく、「その判断を下した私」の面子が、他者の意見への評価に、少なからず影響することにもなりがちだと思います。
自分の意見が、最終的な正しさを持つというかたちにならないと、自分が他の論者より劣っているように見えてしまうと、どこかで危惧する論者の意識は、多少なりとも働いているものです。
私にそのような意識が完全に消えたとは言いませんが、すくなくとも私がOTSUさんを非常に高く評価し、それを公然と語れるのは、その程度には、自身への固執が薄れてきているという、喜ばしい結果の表れなのだと思っています。
ここのコメント欄にはそぐわないことしか書けませんが、私に書けることでしか、私は貢献できないと思っておりますので、その点ご容赦いただければと思っております。
投稿: アレクセイ | 2016年5月 1日 (日) 15時46分
「国際」について考えていました。OTSUさんの本文とは、ちと離れるかもしれません。というのは、憲法上の「国際紛争」をどうとらえるか、昨今、疑問を覚えるからです。
国家ではない日本国外の愚連隊を、当該地域を統治する政体の機能低下により紛争となっている場合で、それが、日本の国益を間接的に損なうような大規模な事態に発展した場合、これを国際紛争の解決の手段で、日本国が解決できるのかという、きわめて禅問答的な課題です。
一応、ISの場合では、シリア、イラクの国内問題として、外交上は扱っている現状なので、国際…Inter-nationalではあると思います。
しかしながら、海外の認知されていない愚連隊に、憲法の国際紛争が当たるのかどうかは、怪しいのではないのかと思っています。
その場合、先の大戦後の国際ルールでは、国家ありきのルールになっていますから、国家ではないものに対する国際的なコンセンサスが得られているとは考えにくいです。
それらを現状では、テロと読んではいますが、では、歴史上、例えば、モンゴル帝国が国際秩序を脅かすテロだったとは言いにくい面があるように、ISのような愚連隊が版図を広げ、大戦後のルールに沿わない、動かしようのない国家風愚連隊になった場合、現行日本国憲法では国際紛争という状況にないと判断できる余地があると考えています。
憲法であっても、それを破るような、とんてもないリーダーが出現した場合、破られてしまってはどうしようもないという憲法の限界がある中で、少なくとも現憲法で、国家緊急権と憲法犯罪についての規定くらいは盛り込んだ方がよいと考えます。
とてもではないですが、自民党が現在示している改憲草案は飲めそうにもないですし、時代錯誤のような改正条文案もあるので納得しているわけではないですが、作っておいた方がマシというのは確かだと思います。
国政選挙の前に争点が変わってしまうことは、よくあることなので、この夏は、とりあえず家計経済問題が第一にはなると踏んでいますが、選挙互助会だの揶揄されていたり、産別がそっくり連合から抜けてしまうような、極めて流動的な世の中なので、少なくとも、国とは、日本国とは何かということも少し頭のすみに置くような時代が到来したのかなと考えています。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2016年5月 1日 (日) 18時23分
アレクセイさん、でりしゃすぱんださん、前回記事も含め、コメントありがとうございました。
今回、異例な長さの記事となっています。それにも関わらず、目を通していただけたことに本当に感謝しています。また、アレクセイさんからは過分な評価を受け、たいへん恐縮しています。ぜひ、これからもお二人それぞれ貴重な視点や識見からのコメントをお寄せいただければ幸いですのでよろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2016年5月 1日 (日) 22時04分
長島昭久議員の発言は非常に好ましいと思いますね。こうゆう人物が野党のリーダーになってほしいです。
民進党が政権を狙うためには、はっきりと中道左派路線をとる必要があります。いつまでも極左の共産党や社民党と同じようなことを言ってると国民は不安しか感じません。
日本の場合、自民党がリベラル的な政策を提唱してるので、なかなか違いを鮮明にできないのがやっかいですがね。
投稿: nagi | 2016年5月 2日 (月) 08時26分
ブログ主様
今回はいつも以上に気合が入っているのか
ずいぶん長いですね。
では、私も少し長文にチャレンジしましょうかw
【レッテル貼りの件】
私の批評がきっかけでしたかね?
もう、長文読んでて忘れてしまいましたよw
ブログ主様が「戦争法」を使う際に迷われたとか。
万が一、私のコメントがきっかけで、
ブログ主様の視野が広がったのだとしたら
私のコメントも単なる
ノイジーマイノリティでは無かったということで
それなりの意味はあったのかなぁと。
その上で。
>署名用紙そのものには「平和安全保障関連法」と明記されています。
これは、戦争法という言葉がレッテル貼りではないという主張とは、一切関係ありませんよね。
これは、集めた著名が戦争法という言葉を使うことで
効力が無くなることを恐れただけ。
戦争法が法律の固有名詞ではなく
レッテルを貼っているということを
自らが認めている証拠ともとれますよ。
>国会審議で「戦争法」という呼び方を議事録から削除するよう求められましたが、削除には至らなかったようです
これも同じく戦争法がレッテル貼りではない事を
肯定したものではなく
単に表現の自由を考慮したものと捉えてます。
私は、レッテル貼り自体を
完全否定するものではありませんが
ブログ主様がその行為を否定している主張とは
矛盾していますので、説得力がないですよ
という事を書いた訳で。
この長文を読んでも説得力が増した事はないです。
かえって不信感を持ってしまいました。スミマセン。
「カエルの楽園」という本はそもそもにおいて
誤解を恐れず書いてしまえばレッテル貼りの本なんです。
前提そのものが、たとえ話なのですから。
そこに食らいついて「見下した表現だ」と批判することに
私は強い違和感を持ったわけです。
例え話は読者に誤解を与えます。レッテルを貼るから。
しかし、一方で議論の本質を
とても鋭く突くことができます。それがメリットです。
私は、作者の考えは嫌いですが
あれだけの表現力と痛烈な皮肉を込めたセンテンスを
自分で発想することはできません。
あのたとえ話を普通に発想できる方が
「クダラナイ」と主張すれば、理解もできますが
それが出来ない人に同じ言葉を発せられたら
私はドン引きしますね。そんな方とは議論したくもない。
【憲法について】
私はブログ主様が「自衛隊は合憲である」という主張は
これを読んで初めて知りました。
以前も同じように書いていたことがあったのでしょう。
私がきちんと調べてなかったのだと思います。
ほかの部分も含めて、再掲載、ありがとうございます!
私は、共産党になれとは微塵も思っていませんが
日本国憲法を制定した狙いは
何だったかという点を理解する上で
「アメリカに押し付けられたもの」である事を
無視する必要はないと思います。
そう、あくまで憲法の趣旨は何であるかを把握する上で。
憲法は武力による自衛権を保証したものですか?
アメリカは日本を専守防衛のための戦力を
持たせるために憲法9条を作ったのですか?
必要最小限度の実力組織を認めるのなら
なぜ、軍隊を徹底的に解体したのでしょう?
あるいは、幣原はマッカーサーに
「侵略戦争のみを放棄する」事を条件に
天皇の存続を認めさせる事が出来たのですか?
GHQの厳しい検閲下で憲法9条を説明する際
「相手が攻めてきてもやらない」と
子供たちに教えてきた日本は一体何だったのでしょう?
日本国憲法はまだ一字一句、変わっていません。
自衛隊の憲法判断を裁判所がしないのであれば
国益や諸外国の情勢を慮る以前に
私たちの国家運営の基礎となる憲法を
「まっとうな読解力を持って」見つめ直す事が
私は大事だと何度も何度も書き続けてきました。
戦争で辛酸を嘗めた人が日本にはいるのです。
そして、その人たちの一部が半ば宗教的な盲目さで
「9条を守れ!」と叫ぶのです。
自分の人生の経験から、戦争はもうこりごりだと
思った人が、日本にはいる。あるいは、いた。
その人たちが納得できる結論を導くには
「そういう人たちが認めた9条」を
私たちが普通に認めてあげることなのでは?
その上で「完全なる戦争放棄では日本は守れない」なら
変えればよいのです。
もう一度、戦争する覚悟を決めてね。
アメリカだって、変えるだろうと思っていたんですから。
それを、自分たちの都合の良いように解釈し
現実と憲法のかい離を続けるから
集団的自衛権を巡って
あーでもない、こーでもない等と延々とやりあう訳で。
長島さんの御主張も
私は正直「論点はそこではない」と思ってしまう。
憲法と現実の乖離を認めた上で
「日本の安全保障をどうするのか」なのだと。
自衛戦争をする覚悟すらない日本人に
武力による国防を語る資格はないとも。
ほとんどすべての諸外国が
「自衛隊は戦力であり軍隊だ」と認識する中
日本だけが
「必要最小限度の実力組織で、軍隊ではございません」
などという詭弁を使い、ごまかしている現実は
戦争で亡くなった英霊にも失礼だとも。
自衛隊の憲法判断そのものを否定する人は
右の方も左の方も含めて、そう多くないと思います。
仮にそうだとしたら、そこからなんじゃないですか?
裁判所にきちんと判断をさせることが
70年間の国家ぐるみのごまかしに終止符を打ち
平和をめぐる議論の本当のスタートになると
私は思っています。
nagi様がお書きになっておりますが
>自民党がリベラル的な政策を提唱してるので、なかなか違いを鮮明にできないのがやっかいですがね。
そう、こういう政治情勢を見るにつけ
最近、日本人はわざと憲法から目をそらしているのでは?
と思うことがあります。
ブログ主様のお考えも含めて、右も左も。
結局はどちらも
「事なかれ主義」「国防の覚悟なんてアホらしい」が
戦後日本人の深層心理なのかも。
それが平和ということなのかなぁ。
投稿: いまさらですが | 2016年5月 3日 (火) 01時03分
いつもながら言葉使いやプロセスなど
枝葉の議論ばかりで、
どうやって国を守るか?
という大事な部分が理解できませんでした。意図して避けているのだとおもいますが。
以前のやりとりから確か管理人さんは
周辺国の軍事的脅威や圧力の増大は
認識している一方、従来通りの個別的
自衛権で国防は十分という主張だったと
思います。間違っていたらご指摘下さい。
日米同盟が終了した場合はどう対応する
お考えでしょうか?
軍拡競争は嫌だという主張から自衛隊の
増強にも否定的と推測します。そうすると
核等の日本の防衛力を上回る軍事的脅威、
圧力には理不尽な要求であっても従わざる
を得ない状況に追い込まれることを危惧
しています。
平和主義の専守防衛は援軍がいない一国
では無理です。平和主義を守っても他国
に蹂躙されたら意味ないです。
もし平和主義の理想を追うのであれば、
他国を巻き込むことです。
そういう意味で平和主義を唱えるなら
内向き(国内)でなく、
外向き(他国)にやってほしいです。
投稿: たろう | 2016年5月 3日 (火) 12時07分
> いまさらですが様
前回私が、貴兄の文章には「自分の定義を語っているだけで、人を説得するロジックがない」と書いたことから、今回は「長文」に挑まれたようですが、残念ながら、言葉を連ねて長文にしたところで、そこに論理性がなければ、それは論理的な文章ではないし、ロジックのある文章とは言えません。
ハッキリ言って、今回の御文も、長文ではあっても、ロジックのない文章です。
すこし説明しましょう。
>>署名用紙そのものには「平和安全保障関連法」と明記されています。
>これは、戦争法という言葉がレッテル貼りではないという主張とは、一切関係ありませんよね。
ここは、OTSUさんの説明を理解できないまま、見当違いの批判をしているだけです。
『署名用紙そのものには「平和安全保障関連法」と明記』されている、というのは、署名用紙の表題に出てくる「戦争法」という言葉は、この用紙を作った人の価値判断を含んだ「評価名称」であり、そして、その用紙に「平和安全保障関連法」という固有名称が記されているのは、その「評価」が、何を「評価(批評)対象」としているのかを明記している、という意味です。そして、OTSUさんは、その「署名用紙の名称」を「正確に紹介している」ということを語っているです。
仮に、現著者の書いている内容に誤りが含まれていようと、その内容を「紹介・引用」する場合には、その『ママ』引用紹介するのが当然で、その原文を勝手に書き換えてはいけない。
原文に「戦争法」と書いているところを「平和安全保障関連法」と書き換え(差し替え)て「引用」することなど出来ないんですね。
ましてや、原文タイトルが何を意味する「評価名称」なのかは、原文の中できちんと紹介されているのだから、なんら問題はないし、引用紹介行為が「レッテル貼り」になどならないというのは、自明の理です。
もちろん、前回書いたように「評価名称」というものには、たしかに「レッテル効果」はあるでしょう。その意味で「評価しない者は存在しないし、その意味では(誰が見ても)レッテル貼りをしていない(したことがない)人などは存在しない」のですが、「評価」(あるいは「引用・紹介」)の結果として「レッテル効果」が「発生してしまう」のと、初めから「レッテルを貼ることを目的にする」のとでは、やはり意味が違うのです(「避け難いこと」と「狙った行為」の違い)。
そのあたりの区別が、貴兄にはまったく出来ていないんですね。
だから、理路に飛躍があって、ロジックが(通って)ない文章になってしまうのです。
ぜんぶ説明したら、長くなるので、あと一つだけ。
>私は、作者の考えは嫌いですが
>あれだけの表現力と痛烈な皮肉を込めたセンテンスを
>自分で発想することはできません。
>あのたとえ話を普通に発想できる方が
>「クダラナイ」と主張すれば、理解もできますが
>それが出来ない人に同じ言葉を発せられたら
>私はドン引きしますね。そんな方とは議論したくもない。
この一見「謙虚ぶった」ご意見を要約しますと「自分に書けない作品を、身の程知らずにも、批判するな」という、極めて素朴な暴論、ということになります。
小説が書けない文芸評論家は小説家の小説作品を否定的に評価してはならず、政治手腕に欠けた政治評論家が政治家を批判してはならず、運動神経の鈍いスポーツ評論家など論外である。すなわち「おまえには、それを語る資格がない」と、こういった議論は、「批評の何たるか」を考えたことのない「俗耳には入りやすい」のですが、基本的には、全体観を欠いた、近視眼的な、高校生レベルの議論でしかないのです。
投稿: アレクセイ | 2016年5月 3日 (火) 13時01分
>たろう様
>いつもながら言葉使いやプロセスなど
>枝葉の議論ばかりで、
>どうやって国を守るか?
>という大事な部分が理解できませんでした。意図して避けているのだとおもいますが。
『どうやって国を守るか?』というのが『大事な部分』であることは論を待ちませんが、しかし、その『どうやって国を守るか?』という『大事な部分』もまた、『言葉使いやプロセス』によって他者に伝えられるものでしかない、ということを忘れてはなりません。
「言葉」を軽んずる人は、「的確な理解」「的確な思考」「的確な判断」「的確な表現」が出来ません。
なぜなら、それらはすべて「言葉」によってなされる部分が大半だからです。
また、その「大半の部分たる言葉に欠けた人」は「感情(論)」に支配されがちです。
なぜなら、自己の「感情」を検証する「(メタ)言葉」を持たないからです。
言葉を軽んずる者は、言葉に泣く。
現総理や百田尚樹の言葉を痛快だと感じているような人は、「言葉」の鍛錬をしてこなかった人たちであり、その「素朴単純」と言うよりは「未熟さ」によって、いずれ泣きを見なければならなくなるかも知れないのです。
だが、そうなってからでは遅い。
政治もまた「言葉」によってなされるのだということを、決して忘れてはならないのです。
投稿: アレクセイ | 2016年5月 3日 (火) 13時23分
アレクセイ様
わざわざコメントありがとうございます。
『言葉使いやプロセス』も大事だというご意見と、
わたしが「的確なXX」が出来ていないという
ご批判と理解しました。
『言葉使いやプロセス』も大事だという点については
それだけではここ数年の記事の繰り返しであり、
わたしの関心事ではないと述べただけです。
これまでも関連記事は多数あれど、コメント欄で
多くの人から問いに対して納得の得られる回答を
見ていないものですから。
以下は「的確な理解」のためにご教示頂ければ幸いです。
>現総理や百田尚樹の言葉を痛快だと~
言葉の鍛錬をしてこなかった人たちであると
言い切れるのは何故ですか?
「現総理や百田尚樹」を「岡田代表やSealds」に
置き換えても成り立ちますか。
投稿: たろう | 2016年5月 3日 (火) 15時23分
アレクセイ様
以下はわたしの被害妄想だったかもしれません。
その場合はスルーしてください。
>わたしが「的確なXX」が出来ていないというご批判
>と理解しました。
投稿: たろう | 2016年5月 3日 (火) 15時26分
すいません。
例の署名用紙、ワタクシが直接目にした記憶からは、署名用紙のタイトル(表題部)は「戦争法」だったと思うのですが。
もちろん、ご指摘のように、本文には正式な名前が出てきますが。
そして、公務従事者の方ならおわかりいただけると思うのですが、文書の「タイトル(表題)に書かれている言葉」は、行政関係の文書としては、時として本文以上に重視されるのではないですか。本文の内容を一言で表わすものとして。
例えば、意図する法的な手続にとっては正しくない様式(異なる表題の書類)に、その手続に対して法令上求められる正しい内容を書いても、申請・届出としては「補正」を求められたりするではないですか。
となると、本文はどうであっても、タイトルに「戦争法」とある時点で、門前払いされる可能性はあるのと違いますかね。「存在しない法律は廃止できない」って論法で。
ワタクシがあの署名用紙について思うのは、
「タイトルを正式名にして、本文中で戦争法という言葉を正式名を言い換えるような言い回して用いる必要があったのではないか?」
即ち、現状と逆に用語を配する必要があったのではないか?という一点に尽きるのですが。
投稿: あっしまった! | 2016年5月 3日 (火) 17時45分
もう一つ。エントリ本文中以下の部分です。
====================
国会での草案審議を通し、自衛権までは禁止されず、自衛のための「必要最小限度の実力」を保有することは憲法9条に違反しないと解釈されるようになりました。
====================
これは事実誤認かと思います。
確かに、草案審議の過程で第9条第2項に修正が行われましたが、その時の議事録や政府の答弁を見る限り、それでもなお「自衛権も禁止されている」という解釈は揺らいでいません。
警察予備隊の時は、「治安維持のための組織であり、戦力でも自衛権行使のための組織でもない」という解釈で乗り切っています。
講和条約で占領が終ったときは、「独立した以上自衛権は欠くべからずものであり、自衛権発動の結果として安保条約の締結は当然」という答弁が登場します。
所謂「旧安保条約」ですが、「集団的自衛権の行使の結果として」という明文の規定があったりして、これを自衛権発動の当然の結果としています。
つまり、この時期の政府の答弁は「自衛権について個別的と集団的の区別を明確にせず、一括りに”自衛権”」で済ませている気配もあります。
そして、警察予備隊が保安隊に改組されたとき、答弁が揺れたものの最終的に「自衛のためでも戦力を持つことはいわゆる再軍備であり、憲法改正を要する」という解釈で落ち着きます。
んで、保安隊が自衛隊に改組されたとき「日本には自衛権がある。だから自衛のための武力行使は憲法違反でない。よって自衛隊は憲法違反でない。」という理屈が出てきます。
なお、ご紹介の「必要最小限」という文言が登場する解釈は、1981年の「許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲に留まるのであって」というものが初めてです。
従って、「必要最小限度の実力」という解釈は、憲法改正案(現行憲法の案)の審議どころか、1981年まで登場しません。
少くとも、現行憲法の案の審議の時期はもちろん、警察予備隊の時であってさえ「個別的自衛権も否定する」という解釈はマッタク揺らいではいないのです。
投稿: あっしまった! | 2016年5月 3日 (火) 19時42分
なお、現行憲法案の審議中に行われた第9条第2項の修正(いわゆる芦田修正)については、
総司令部や極東委員会の内部では、芦田修正により「日本が defence force を保持しうる」とする見解が有力であったことを示しうる書類があるようです。
一方、当事者である芦田氏は、修正の意図を明らかにはしておらず、後生いわれているような意図を持って修正を図ったのかどうかは、必ずしも明らかにはなっていないはずです。
また、当時の政府も芦田修正にかかわらず、「個別的自衛権を含めて自衛権すべてを否定する解釈を維持して」いました。
少くとも、「現行憲法案の審議中をへて、その時点で、必要最小限度…という自衛権を肯定する解釈が生まれたという事実はない」のです。
投稿: あっしまった! | 2016年5月 3日 (火) 19時52分
連投申し訳ない。m(__)m
直近の投稿の補足と訂正。
第2段落「総司令部」というのは「連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)」のことです。
また第3段落中「後生」とあるのは「後世」の間違いです。
投稿: あっしまった! | 2016年5月 3日 (火) 19時56分
>たろう様
>>現総理や百田尚樹の言葉を痛快だと~
>言葉の鍛錬をしてこなかった人たちであると
>言い切れるのは何故ですか?
「言葉」あるいは「文章」についての鍛錬してきた者とそうでない者との「違い」は、「深読み」が出来るか否かの違いだと言っても良いでしょう。「読みの深さ」の違いです。
例えば「薔薇は美しい」と書いてあるのを読んで「そうだ。私も美しいと思うし、みんなも美しいと思うだろう」というのが、一般的な読みです。しかし、「読み」の鍛錬を経てきた者は「美しいという評価基準は、果たして万人共通のものなのか? そうではないだろう。ということは、ここで語られていることは、語り手が薔薇は美しいと感じているということでしかなく、必ずしも一般性を意味するものではない」といった具合に、慎重に、あるいは多重構造的に「言葉の意味」を捉えます。
これが出来るか出来ないかが、言葉の鍛錬度の違いなのだと言って良いでしょう。
このことを『カエルの王国』に当てはめてみますと、この作品が、かなり「特定の対象」を批判的(当てこすり的)に意識した「寓話」だとします。その場合、その「寓話」は、作者の意図どおりに構成されており、現実の持つ意味多重性が、かなり意図的に排除されて、きわめてわかりやすい、ほとんど単なる「言い換え」に過ぎないものになっているが故に、つまり「意味の単純さ」のゆえに、わかりやすい作品になっている蓋然性が高い。
こうした、わかりやすい作品を読んだ時に、それがわかりやすいが故に、それをそのまま「鵜呑み」にしてしまうのが、言葉の鍛錬を経ておらず、意味多重性に堪えられない読者の「弱さ」だと言えます。
逆に、意味多重性を当然のものとする老練な読者にとっては「意味単一的な作品」は、ある意味では「薄っぺらで、つまらない作品」だと感じられさえするのですね。
『薔薇の名前』の作者で、記号論学者として知られ、先日亡くなったウンベルト・エーコには『開かれた作品』とか『読みと深読み』といった著作がありますが、「読み」あるいは「言葉」の世界というのは、それほど奥深く豊穣なものなのです。しかしまた、それもこれも読者の側の鍛錬があっての深さであり豊かさであって、それがなければ、読者は表面をかい撫ですることしかできず、物事の表面的理解に止まらざるを得ないのです。
で、このように、深められた豊穣な世界理解というのは、スポーツなどとも同じで、鍛錬なくしてはあり得ない(ごく稀な天才は別にして)。つまり、そういう人は、残念ながら一般的ではない。
だからこそ、それをこのように「解説」する人間の存在、つまり評論家・解説者などの存在も必要不可欠なのです。
で、私が上のように言い切れるのは、『現総理や百田尚樹の言葉』は(最初に紹介した『永遠の0』の書評にも書いたとおり)「単層的で、読者に耳当たりの良い言葉」になっていて「現実の深みを欠いている」からです。
つまり、そんなものを「鵜呑み」に出来るのは、「現実の多層性」「意味の多重性」に堪えられない、自身に訓練を課さなかった人たちの「ひ弱さ」に由来するものだとしか言えないからです。
>「現総理や百田尚樹」を「岡田代表やSealds」に
>置き換えても成り立ちますか。
もちろん、成り立ちます。
それは「読者の問題」としてなら、ですが。
「岡田代表やSealds」の言葉にも、意味の単層化はなされています。
そうでないと、一般的な理解は得られないからです。
しかし、言葉の鍛錬を経てきた人間が読めば、「現総理や百田尚樹」の言葉には「表面的な耳当たりの良さの裏に悪された、自己中心的な欺瞞」を読み取るのは容易だし、「岡田代表やSealds」の言葉には「表面的な単純さの裏に秘められた、厳しい現実認識」があるというのもわかるでしょう。
後者で言うと、「憲法を守れ」という「単純なメッセージ」は、じつは「単純に、憲法さえ守れば、日本は平和でいられる」などと言っているのではないんですね。憲法を守っても色々問題は残るんだけれども「今この局面では、憲法を守ることが枢要だ」ということを言っているにすぎないんです。
しかしまた、ぜんぶを説明していたら、一般読者は混乱するし付いてもこれないから「やむなく単純化している」のです。
つまり、同じ「単層化された言葉」であったとしても、「現総理や百田尚樹」の言葉は多分に「欺くための単純化」であり、「岡田代表やSealds」の言葉は「理解を促すための、方便としての単純化」という本質的な違いがある。
しかし、いずれにしろ「単純なメッセージ」しか受け取れない読者は、どっちを向いておろうと『言葉の鍛錬をしてこなかった人たちである』とは言えるのです。
貴兄自身、こういうこと(言葉とその理解をめぐる問題)をお考えになったことがあるのなら、ご自論をお聞かせいただけると幸いです。
なんなら、私の掲示板の方へ存分に書いていただいてもかまいませんよ。
他の方には、リンクを張って紹介すれば済むことでですから。
http://www80.tcup.com/8010/aleksey.html
投稿: アレクセイ | 2016年5月 3日 (火) 21時06分
【誤記訂正】
(誤)しかし、言葉の鍛錬を経てきた人間が読めば、「現総理や百田尚樹」の言葉には「表面的な耳当たりの良さの裏に悪された
(正)しかし、言葉の鍛錬を経てきた人間が読めば、「現総理や百田尚樹」の言葉には「表面的な耳当たりの良さの裏に隠された
投稿: アレクセイ | 2016年5月 3日 (火) 21時15分
あっしまった!様
本日は憲法記念日でしたね。
この日に懐かしい芦田修正の話題を提供下さり感謝です。
調べましたねぇ、これ。
私の調べたところでは
芦田さんは当時
【「芦田修正」の根拠は、自分の日記に記してあるし、さらに国会に密封して保管してある速記録には全部記録されているはずである】と述べています。
そしてこの速記録、つまり秘密議事録が
1995年、遂に公開された訳です。
開けてみたら。。。
なんと芦田修正のことなんてなーんも書いてなかったw
9条2項の「前項の目的」とは
単なる重複を避けるためだったわけです。
芦田さんが憲法制定後についた嘘だったんです。
ただし、芦田さんを単なる「嘘つき親父」と呼ぶのは
かわいそうな気も。
あの当時は、アメリカが日本の軍隊を
必要としていた時代ですし
どうやっても「NO」は言えない日本だった訳で。
当時の芦田さんにどんな背景があって付いた嘘なのかは
なんとなくわかる気も。
問題なのは、
今この論調を再び悪用する輩が増えてきている点。
憲法記念日の今日、改めてその危惧を抱いて寝ますw
投稿: いまさらですが | 2016年5月 3日 (火) 23時55分
アレクセイ様
再度のコメントありがとうございます。
単純化された主張が伝わりやすいということは
一般論としてわかります。ただ以下の主張は
理解できませんでした。(感覚論としか…)
>「現総理や百田尚樹」の言葉は多分に
>「欺くための単純化」であり、
>「岡田代表やSealds」の言葉は
>「理解を促すための、方便としての単純化」
>という本質的な違いがある。
言葉とその理解をめぐる問題には前述のとおり
関心はありませんが、少なくとも主張には
根拠・論拠を示すことが議論の基本と思います。
http://impro-club.com/debate/62
さらにいえば「ピラミッド構造」と「MECE」
http://matome.naver.jp/odai/2139564495156840201
投稿: たろう | 2016年5月 4日 (水) 11時50分
本文も長けりゃコメントも長い。
長文苦手な私は、「無駄に長いのがないといいけど」と思いつつ目をクラクラさせながらひと通り拝読しました。
で、重箱の隅っぽくで気がひけますが、
>あしまった!様
>>当事者である芦田氏は、修正の意図を明らかにはしておらず、後生いわれているような意図を持って修正を図ったのかどうかは、必ずしも明らかにはなっていないはずです
修正の意図について、芦田氏は1951年1月14日付毎日新聞でこう述べています。
<憲法第九条の2項には『前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない』とある。前項の目的とは何をいうか。この場合には国策遂行の具としての戦争、または国際紛争解決の手段としての戦争を行うことの目的を指すものである。武力行使を禁じたものと解釈することはできない。…… 第九条第2項の冒頭に『前項の目的を達するため』という文字を挿入したのは、私の修正した提案であって、これは両院でもそのまま採用された。従って戦力を保持しないというのは絶対にではなく、侵略戦争の場合に限る趣旨である。…… 私の主張は憲法草案の審議以来一貫して変わっていない。新憲法はどこまでも平和世界の建設を目的とするものであるから、われわれが平和維持のために自衛力をもつことは、天賦の権利として認められているのである>
ところが、1995年に公にされた1946年の憲法改正小委員会の議事録を見ると芦田氏は九条2項に「前項の目的を達するため」を追加挿入する理由をこう述べています。
<前項のと云うのは、実は双方ともに国際平和と云うことを念願して居ると云うことを書きたいけれども、重複するような嫌いがあるから、前項の目的を達する為めと書いたので、詰り両方ともに日本国民の世界平和希求の念慮から出て居るのだ、そういう風に持っていくにすぎなかった>
時系列では議事録の方が先になりますが、とにかく、芦田氏は修正の意図を明らかにしています。ただ、それが二つの異なる意図であることから、芦田氏の真意が明らかになっていないとはいえると思います。
なお、重箱の隅ついでに、上記議事録について、いまさらですが様が、
>そしてこの速記録、つまり秘密議事録が1995年、遂に公開された訳です。
開けてみたら。。。なんと芦田修正のことなんてなーんも書いてなかったw
9条2項の「前項の目的」とは単なる重複を避けるためだったわけです。
と述べているのは正確ではありません。
議事録には、芦田修正について、重複を避けるためだったと書かれていたのです。
それを、どういうつもりか、文章を前後をひっくり返して、wマークまで付けて「なーんも書いてなかった」と力説したいのは何故なんでしょう?
「輩」呼ばわりが御自身に降りかからないことを願っております。
投稿: 対人手当 | 2016年5月 4日 (水) 19時54分
対人手当 様
> 二つの異なる意図であることから、芦田氏の真意が明らかになっていないとはいえると思います。
ありがとうございました。
この点、ご指摘の主旨の通りに認識しております。
力点を「少くとも当時の政府においては、芦田修正にかかわらず、すべての自衛権を否定する解釈が維持されていた」という部分においておりましたので、芦田氏の真意に関することについて、大雑把に(というか、手抜きして)書いたのは事実です。m(__)m
投稿: あっしまった! | 2016年5月 4日 (水) 22時41分
対人相手様
ご指摘、ありがとうございます。
私も芦田修正の調べたのが
かなり昔なのでうる覚えなのですが
事実関係を貴殿の書いたことを含めて整理しますね。
1946年 憲法改正小委員会の議事録
1950年 朝鮮戦争勃発
1951年 (貴殿のご紹介した)毎日新聞の修正意図
同年(?)芦田氏の発言
「根拠は、自分の日記に記してあるし
さらに国会に密封して保管してある速記録には
全部記録されているはずである」
1995年 議事録の公開
「双方ともに国際平和と云うことを
念願して居ると云うことを書きたいけれども、
重複するような嫌いがあるから
前項の目的を達する為めと書いた」
この通り、芦田は1946年の時点で
自衛戦力の保持を狙った発言は
一言たりとも発していません。
しかし、朝鮮戦争勃発前後、9条の解釈に自衛戦力の保持を
可能にした修正であったと発言します。
そして、根拠もあると強弁したわけですよ。
(ごめんなさい、正確な発言年月日を記憶してません)
つまりですね、修正時点での真意が不明なのではなく
「気が変わった」
「方便を使った」
「嘘ついた」
というとらえ方が恐らく正確なのではないかと。
この経緯について確か毎日新聞記者上がりの作家が
ノンフィクションの本を出していたと思います。
※当時、自分で読んだ本が何だったか思い出せない^^;
「なーんも書いてなかった」のは
【前項の目的を達するため】が国際紛争を解決する手段
のみにかかるという意図を含んだものであるという内容が
「なーんも書いてなかった」と。
だからこそ、これまで政府は一度たりとも
芦田修正を支持できないのです。
議事録に残ってないことを知っているから。
では何故、芦田さんはこんな事を言ったのか?
容易に想像できるのは
当時の日本は、アメリカに再軍備を迫られていた。
朝鮮戦争してますからね。
憲法9条を盾に吉田茂が参戦を拒んだんだけど
全拒否はできずに、海保による機雷掃海を認めたと。
歴史とは過去との対話であり
完全なる客観性はそもそもありませんが
1946年時点で、芦田修正を意図し、9条が誕生したという
のは、どう考えても無理がありませんか?
投稿: いまさらですが | 2016年5月 4日 (水) 22時46分
ちなみに、極東委員会の資料には
(確か中国だったかな?)
自衛を口実に戦力を持つ可能性を完全に排除するために
文民条項も加えなさいという記述もあり
その際にも「前項の目的」という部分に注目していた
記述があったと思われます。
※確かGHQが上記の注文を受けて、口頭で日本政府に対し「自衛戦争もできない事を表明しなさい」と諭したという話もどこかで読んだ気が。。。
投稿: いまさらですが | 2016年5月 4日 (水) 23時27分
連投すみません。
そうそう、この極東委員会の資料をヒントに
芦田が9条の条文でも
「自衛戦力の保持」解釈ができるという
理論を展開したんではないかと
本で指摘していた記憶が蘇ってきました^^;
投稿: いまさらですが | 2016年5月 4日 (水) 23時33分
>あっしまった!様
>いまさらですが様
私は、データはなるべく生に近い形で提示されるべきであり、要約等する場合にはできるだけ手垢(要約者の価値判断など)が付かないよう行うべきだ、という非常に面倒くさい考えの持ち主なので、つい口を挟んでしまい失礼しました。
人が自分の持つ価値判断に基づいて主張するのは当然ですが、その際に、本来はニュートラルなものであるデータや文言に自分の価値判断を紛れ込ませて主張を行うのなら、それはミスリードに繋がりかねないと考えています。
その意味で、いまさらですが様の前回コメントにある「悪用する<輩>」の<輩>、今回コメントにある「根拠もあると<強弁>」の<強弁>、「毎日新聞記者<上がり>」の<上がり>などは、それ自体にマイナスイメージが付着している言葉であり、それを文中に忍び込ませることで、印象操作によって読み手を特定の価値判断の方向に誘導しようという意図が感じられます。
そのマイナスイメージは、いまさらですが様と同じ考えの方々の間では共有できるものかもしれませんが、私は違和感を覚えました。
さらに、いまさらですが様のコメントの中に幾つか不明な点がありました。
>つまりですね、修正時点での真意が不明なのではなく「気が変わった」「方便を使った」「嘘ついた」というとらえ方が恐らく正確なのではないかと。
「気が変わった」と「方便を使った」と「嘘ついた」では随分(特に最初とあとの二つの間には)違いがあるように思います。それをひとまとめにして「恐らく正確」と言われることに疑問を感じました。
>だからこそ、これまで政府は一度たりとも芦田修正を支持できないのです。
芦田修正は、芦田氏が委員長を務めていた帝国憲法改正小委員会によって行われた条文の修正のことです。そのこと自体を政府が支持するもしないもありません。いまさらですが様の言いたいことついて何となく察しはつきますが、言葉足らずではないでしょうか。
>では何故、芦田さんはこんな事を言ったのか?
この文で始まる段落を拝見しましたが、朝鮮戦争の頃、芦田氏は政治的に影響力のあるポジションには就いていなかったのではないでしょうか。また、吉田首相が海保による機雷掃海を認めたとも述べていらっしゃいますが、これも芦田氏の発言理由の説明としては不十分だと思います。
>1946年時点で、芦田修正を意図し、9条が誕生したというのは、どう考えても無理がありませんか?
コメントの冒頭が私宛てになっているので、これは私への質問なんでしょうが、こうしたことについて、私は前回のコメントで何も触れていないので、唐突に質問されても答えようがありません。
このように見てくると、いまさらですが様は、十分に咀嚼しないまま慌ててコメントを投稿されたように思います。
その後に連投されたコメントを拝見しても同様で、「記述があったと思われます」とか「本で指摘していた記憶が蘇ってきました」といった曖昧な記憶のまま資料を紹介されていらっしゃいますが、何故、資料内容を確認するという手間を惜しんでまで、急いで投稿されるのでしょうか。
「歴史とは過去との対話」というのはその通りでしょうし「完全なる客観性はそもそもありません」というのもその通りでしょう。
しかし、過去との対話を通して歴史に対する客観的な見方を築くために求められる姿勢というものがあると思います。
そうした考えの私にとって、いまさらですが様のコメントは理解の及ばない点の多いものでした。
前回、長文は苦手だといっておきながら、つい長文になってしまいました。御勘弁を。
投稿: 対人手当 | 2016年5月 6日 (金) 00時41分
このGW中に、アメリカの予備選で共和党はトランプ候補にほぼ決まりましたね。本選はどうなるか不明ですが、日本もいろんな可能性について考える必要がありそうですね。
仮にトランプ大統領が誕生した場合に、彼が本当に日米安保条約について過剰な要求をしてきた場合、日本はどうすべきでしょうか。
1. 駐留費用を全て日本が払え
2. 現状以上に集団的自衛権を行使して米軍を助けろ
3. 日米安保条約は解消する
上記のような要求がくるかどうか不明ですが、もし来たら日本はどうすべきなのか悩みますね。
投稿: nagi | 2016年5月 6日 (金) 09時43分
対人相手様
ご指摘、ありがとうございます。
私は自分なりの客観的判断をして
芦田修正の矛盾を書いているので
主観的言葉がおかしいと感じるのなら
その理由があってのことなんでしょう。
それについて議論するつもりもないです。
>どう考えても無理がありませんか?も
貴殿だけに向けたものでもありません。
無理があるんじゃない?という程度のことです。
私が言いたいのは
芦田さんは稀代の大嘘ツキだと思ってますし
それを覆す資料があるなら、ぜひ拝見したい。
私は自分の視野を広げるために
ここに記入しているのであって
自分は正論だ!を主張したいためには書いてません。
日記や速記録に書いていると言った
芦田さんの言葉を証明してみると
結局は東京新聞記者の捏造だったり
議事録公開でなーんも書いてなかった事実を考えると
「おいおい、お前のウソが大変な問題を招いてんだよ!」
と叫びたくなる一方
「ま、あの状況じゃ、しょうがねぇわな」とも思う。
言いたいのは
芦田修正の理屈なんて、微塵も信じることもできないし
ブログ主様が
「専守防衛を厳格化したものが日本国憲法」という
とらえ方を私はしていませんよ!
ってことです。
投稿: いまさらですが | 2016年5月 6日 (金) 13時07分
対人手当様
すみません、わたし、貴殿のお名前を間違えてますね。
大変申し訳ありません^^;
投稿: いまさらですが | 2016年5月 6日 (金) 13時28分
nagiさん、いまさらですがさん、たろうさん、アレクセイさん、あっしまった!さん、対人手当さん、コメントありがとうございました。
本来、コメント欄を通して素早く一問一答に近い形で対応できれば望ましいのだろうと思っています。いろいろな経緯をたどる中、コメント欄から距離を置き、記事本文に集中する形に至っていることを改めてご理解ご容赦願います。ただ今回寄せられたご意見や問いかけなどを念頭に置きながら新規記事に向かわせていただくつもりです。
その中で、あっしまった!さんから『国会での草案審議を通し、自衛権までは禁止されず、自衛のための「必要最小限度の実力」を保有することは憲法9条に違反しないと解釈されるようになりました』という記述は事実誤認ではないかとのご指摘を受けました。ご指摘を受け、重大なミスリードした文章だったことに赤面しています。
すでに詳しい解説を皆さんからお寄せいただいていますが、憲法草案を審議した衆議院憲法改正案特別委員会で、当時の自由党の芦田均委員長によって修正を加えられた「芦田修正」に絡んだ記述でした。憲法9条の草案には「前項の目的を達するため」という一文がありませんでした。この一文が「芦田修正」で入ったことにより、憲法9条は自衛権行使以外の武力行使を禁じているのであって、自衛のための「必要最小限度の実力」を保有することは憲法9条に違反しないと解釈できるようになったという見方があります。
しかし、一文が入った後も当時の吉田茂首相は自衛権まで含めての戦争放棄を国会で答弁していました。したがって、上記のような解釈が定着するのは1950年の朝鮮戦争が勃発した頃からとなります。そのため、憲法草案の審議の段階で『自衛のための「必要最小限度の実力」を保有することは憲法9条に違反しないと解釈されるようになりました』という記事本文の記述は誤りだったと言えます。
池上彰さんの『超訳 日本国憲法』を参考にしながら綴っていましたが、私自身の引用の仕方の致命的な誤りでした。重要な説明や前後に並べなければならない言葉が不足したため、今回のようなご指摘を受けることになりました。読み返して、すぐ疑問に思わなかったことも含め、私自身の認識の不充分さを猛省しています。
事実誤認となる記述を残したことについて、たいへん申し訳ありませんでした。重要な話ですので改めて新規記事の中でも取り上げながら、今回の記事本文の不充分さを補えればと考えています。ぜひ、また多くの皆さんが新規記事に訪れていただければ幸いですので、よろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2016年5月 7日 (土) 09時49分