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2016年4月24日 (日)

『カエルの楽園』から思うこと Part2

年間を通し、組合役員として顔を出すべき催しや取り組みが数多くあります。専ら自分の所属する組合の取り組みですが、自治労、連合、平和運動センターなどからの参加要請も相当な数に上ります。それらの要請に対し、私自身、事情があって充分応え切れていません。そのため、平日夕方に取り組まれる地元のターミナル駅前での宣伝活動には極力参加するように努めています。

火曜夕方の三多摩平和運動センターが呼びかけた駅頭宣伝行動は、1か月ぐらい前に要請があった段階で手帳に予定を書き込んでいました。戦争をさせない1000人委員会が取り組んでいる「戦争法廃止を求める統一署名」の宣伝活動でした。翌日の水曜には連合三多摩が呼びかけ、熊本地震における被災地支援のカンパ活動がありました。こちらは緊急な呼びかけでしたが、他に予定が入っていなかったため、同じ駅頭で同じ時間帯での行動に連日参加していました。

さて、前回の記事は「『カエルの楽園』から思うこと」でした。今回、久しぶりに記事タイトルに「Part2」を付け、前回記事の補足となるような内容を書き進めてみるつもりです。まず前回記事の中で「一人ひとり、これまで経験してきたことや吸収してきた知識の積み重ねによって、それぞれ正しいと信じる価値観やモノの見方が培われているはずです。そのような価値観に照らし、マスメディアの報道ぶりの評価が人によって大きく異なっていくようです」と記していました。

その文脈において、やはり私が綴った前回の記事内容も個々人の「答え」に照らした中で率直な評価を受けているものと考えています。一方で、このブログのコメント欄常連の皆さんは理性的な書き込みをされる方ばかりで、いつも落ち着いた場になっていることを本当に感謝しています。その上で幅広い視点や立場からのご意見やご指摘を受けることは非常に貴重なことですが、時々、こちらの意図している主旨が正しく伝わっていないような懸念も生じています。

私自身の平和や安全保障への思いは過去のブログ記事を通し、膨大な字数の書き込みを積み重ねてきました。その際、様々な事例や考え方を紹介しながら不特定多数の方々にも届くような言葉での発信に努力してきたつもりです。毎回、それらに記した内容を再掲することは到底あり得ないため、最近の記事「セトモノとセトモノ、そして、D案」の紹介をはじめ、平和の築き方安全保障のあり方という言葉にリンクをはっていました。ただリンク先を参照される方が少数であることも承知しています。

さらに過去の記事内容も個々人の「答え」に照らし、かけ離れた価値観だった場合、一つの「答え」という見方にも至らず「何も答えていない」、もしくは「議論の対象にさえならない絵空事」という評価を下されがちなことも覚悟しています。念のため、私自身の「答え」の正しさを主張しているのにも関わらず、それを認めてもらえないことを嘆いている訳ではありません。そもそも平和の築き方や安全保障のあり方に絶対的な「正解」は簡単に見出せないものと思っています。

肝心なことは理想視すべき目標を掲げ、その目標に沿って具体的な局面ごとに現実的な判断を加えていく営みではないでしょうか。ただ理想視すべき目標をはじめ、目標に向けた道筋や手段に対する評価は人によって大きく異なっているものと考えています。前回記事のコメント欄でnagiさんが示したA案「戦争、戦争に関係する存在(軍隊、兵器)を直接的にも間接的にも否定し、廃棄する。紛争は国連等を中心とした団体による話し合いにより解決を目指し平和な世界を構築する」は、まさしく理想視すべき目標です。

しかしながら現実の国際社会の中でA案は程遠い現状です。そのため、大半の国がB案「戦争、戦争に関係する存在(軍隊、兵器)を直接的にも間接的にも否定せず、戦争に至らない程度に抑止力を利用し、結果として平和状態の維持を目指す」という現実的な対応をはかっています。平和主義者だからA案、戦争肯定派はB案という括り方は問題であり、私自身の認識は理想視すべき目標はA案であり、B案は現実的な判断として認めざるを得ない姿だと考えています。

国連に警察的な意味合いでの軍事力を集中させるというA案の修正型も含め、A案は絶対にあり得ないと断言される方も多いはずです。それはそれで認め合っていくべき考え方であり、そのような方々を一括りに戦争肯定派と批判することだけは避けなければなりません。同時にA案を理想視すべき目標と考える方々を一括りに批判することも適切ではありません。さらにB案の中味、抑止力のあり方を巡っては、それこそ人によって考え方に大きな隔たりが生じていくはずです。

それぞれのリスクとリターン、プラス面とマイナス面を冷静に議論できることが重要であり、お互いレッテルを貼った非難の応酬は絶対控えるべき留意点だろうと思っています。ここで参考までに興味深いサイトの記事を紹介します。杉谷和哉さんの『「右」と「左」はなぜ分かり合えないのか?』というタイトルが付いた論評です。「人々は自分のイデオロギーと合致するものを肯定的に捉え、そうでないものは否定的に捉える。これは当たり前のように聞こえるが、深刻な事実でもある」の後、次のような記述が続きます。

このような党派性にも関わらず、多くの論者は自身が「中立客観的、冷静に、そして科学的な根拠をもって」いるものだとして主張を展開している。右であろうと左であろうと、相手はイデオロギーによって目が眩んでいる状態だと考えている人が多いように思われる。お互いに、膨大なデータやエビデンス、事実を並べ立て、相手の主張がいかに間違っているか、相手がいかに荒唐無稽か、相手がいかに嘘つきかということを暴きたてようとしている。そして、彼ら彼女らは、最後に「これだけのことが明らかになっているのに、未だに自分たちと反対の立場をとっているのは、頭がおかしいか、宗教の信者(合理的、理性的な話が通用しない人)にでもなってしまったのだろう」と言うのである。

普段、私自身が抱えている問題意識を分かりやすく論評されていたため、ブックマークし、機会を見て記事本文で紹介しようと考えていました。上記の文章の後に「実際にはある個人の事実認識の能力には限界がある。どれ程努力を重ねたとしても、客観的に世界を把握することは困難であり、科学的な根拠を求めたとしても、それすら曖昧で、いくらでも解釈しようがある」という言葉などが続きます。最後のまとめとして次の文章が掲げられていますが、大きく首肯できる内容でした。

むしろ問題なのは、「あいつらは特定のイデオロギーに囚われて何も見えなくなっている。私はそれができるのだ」という思い込みである。こうなってしまうと、相手との対話どころか、自分の考えに賛同しない人を徹底的に攻撃するしかなくなってしまう。右と左の話が全く合わなくなっているように感じられるのは(右派が語っている日本と左派が語っている日本が同じ国とは思えない)、お互いにお互いを話が分からない、対話できない存在なのだと決め付けていることに起因している。

そもそも、政治や政策に関わることは、全て事実で白黒分けられるようなことばかりではない。そこには価値観やイデオロギーが介在して当たり前なのである。社会に関わることを、データや事実だけで、全くの争い無く決めることができるという発想こそ、警戒しなければならない。右と左の話が全く合わなくなってきているのは、お互いにお互いが、誰もが同意できる強靭な根拠に基づいて話をしているのだという思い込みにその原因があると考えられる。

記事タイトルに「Part2」を付けながら、ここまで百田尚樹さんの著書『カエルの楽園』に触れないまま長い記事になりつつあります。前回記事のコメント欄の内容を受けとめた「Part2」という点でご容赦ください。ここからは著書の中味に沿って書き進めてみるつもりです。Amazonカスタマーレビューで星5つの好評価が群を抜いていることは事実です。寓話の内容に対する評価はもちろん、百田さんの主張に賛同されている方々が多いことも確かだろうと見ています。

ただ綴られている内容が明らかであるため、百田さんの考え方を支持していない方々は著書自体を手にしないはずです。したがって、批判するレビューが少ない点については少し割り引いた見方も必要だろうと思っています。そのような関係性の中で百田さんの考え方を基本的に支持していない私が著書を読み、特に違和感のあった箇所は次のような内容でした。あくまでも寓話ですが、百田さんが現実の場面でそのように考えているということを前提に指摘させていただきます。

ウシガエルは、あらゆるカエルを飲み込む巨大で凶悪なカエルで、凶暴、危険、醜悪、根っからの嘘つきと記されています。このウシガエルは中国に見立てられ、ナパージュのカエルたちを脅かす存在です。現実の場面でもウシガエルと中国の脅威を同一視しているのでしょうが、そこまで中国を邪悪な国として敵視していることに違和感がありました。脅威であることは否定できませんが、対話不能の存在として見なしていくのかどうか、情勢認識に温度差があるようです。

日刊ゲンダイ』に三枝成彰さんのインタビュー記事「安倍政権は教養のなさを反省すべき」が載っていました。「21世紀になって他国を奪って占領したのは、プーチン大統領のロシアだけですよ。もっとも、あれはやらざるを得なかった。理解するつもりはありませんが、理由は分かります」「この時代に他国への侵略は起こらない。中国だって、あまりむちゃなことはできないでしょう」という認識を示されています。わざわざ「教養のなさ」という言葉を使うことは問題だと思っていますが、次のような見方は首肯できるものがあります。

戦前の日本が進んだ道は、当時としては誤りではなかったかもしれない。正義だったかもしれない。でも、正義だったことが悪にもなり、悪が正義にもなる。実際に戦前は善だったことが戦後、悪になったんです。それがまた最近になって「善だった」といわんばかりになっている。それが本当かどうか、歴史を勉強して見極める教養が必要なんですよ。

話が本筋から離れがちで恐縮です。前回記事の補足と位置付けながら他のサイトを紹介することで、かえって論点を広げてしまっているかも知れません。そろそろまとめなければなりませんが、「三戒」つまり憲法9条を守っていれば平和は守れる、そのような短絡的な見方を物語の軸にしていることに強い違和感を抱いていました。ウシガエルたちに攻め込まれている際、「スチームボード、帰れ!」と叫び、助けようとしたワシを追い返してしまった場面には驚きました。

そのワシは抑止力の象徴としての在日米軍に見立てられていました。また、自衛隊に見立てられているナパージュのハンニバル兄弟への行き過ぎた仕打ちも考えられませんでした。憲法9条を大切にしたいと思っている人たちを一括りに揶揄しているようであり、お互い対話できない存在だと決め付けているような印象を受けていました。理想視すべき目標、抑止力のあり方、情勢や歴史認識など個々人に差異があって当たり前です。しかし、せめて相手を見下す姿勢だけは排していきたいものと考えています。

当初、これまでの記事の焼き直しとなったかも知れませんが、前回記事のコメント欄に寄せられた問いかけに沿って安全保障に関する考え方を改めてまとめてみるつもりでした。ちょうど私どもの組合も推薦している民進党衆院議員の長島昭久さんがご自身のブログで『「集団的自衛権の行使を容認した政府解釈の変更」再考』という最新記事を投稿されていました。できれば次回以降の記事で長島さんが提起されている論点等も踏まえ、私なりの問題意識や考え方を整理してみるつもりです。

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コメント

ご無沙汰しております。

>Amazonカスタマーレビューで星5つの好評価が群を抜いていることは事実です。寓話の内容に対する評価はもちろん、百田さんの主張に賛同されている方々が多いことも確かだろうと見ています。
ただ綴られている内容が明らかであるため、百田さんの考え方を支持していない方々は著書自体を手にしないはずです。したがって、批判するレビューが少ない点については少し割り引いた見方も必要だろうと思っています。

とのことですが、まったくそのとおりだと思います。

百田尚樹に馬鹿っぽさやハッタリがましさは、すでに知れ渡っておりますから、まともな読書人は百田の本など読まない。読むのは、安倍晋三支持者か、ベストセラーしか読まないエンタメ読者でしょう。
私自身は、貴兄とはちがって、『永遠の0』1冊で二度と読むまいと思いましたから、『カエルの楽園』は手にも取っていません。
私の場合、政治的興味以前に、文学読みとしてのプライドがありますから、作品を先入観を持って読むことは、自身に厳しく戒めており、すでに百田の悪い評判は聞いていても、作品は別扱いで客観的な評価に努めました。しかし、『永遠の0』は、どう考えても百田の偏った政治性と、悪意ある印象操作が露骨な作品で、小説としても低俗です。

下に紹介したのは、ブックオフオンラインに投稿したレビューです(というのも『永遠の0』なんかは、ブックオフで買う人も多いので)が、私の後には「真正保守」を名乗る人も『単なるメロドラマです。ストーリーは支離滅裂、真正保守にとっては有害な本です。』と断じていますね。
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典型的な「大衆文学」(アレクセイ) 投稿日:2015/01/08 12:10:20

「ブックオフオンライン年間ランキング2014」のトピック欄では、本書を「純文学」に分類しているが、「純文学」という言葉がまともに機能していた時代に、「純文学」と対になる言葉として使われていた言葉は「大衆文学」または「通俗文学」「娯楽文学」である。

こうした二分法に従うなら、本書は典型的な「大衆文学」であり「通俗文学」「娯楽文学=エンターティンメント」であって、「純文学」とはとうてい呼び得ない作品だ。

もちろん「純文学」が高等であり、「大衆文学」や「通俗文学」「娯楽文学」が下等だということではない。
両者は「目指しているもの」が違うのである。

つまり、「純文学」とは物事の本質を何らかの形で剔抉して描こうとすることを主眼とした「書き手の問題意識」に重点が置かれた作品であり、「大衆文学」や「通俗文学」「娯楽文学」は何よりもまず「より多くの読者に娯楽を提供する」ことを目的として書かれた「読者本位」の小説だと言えるだろう。
つまり、「純文学」は作者が自身の問題意識に忠実であらねばならない小説ジャンルであるが、「大衆文学」や「通俗文学」「娯楽文学」は、まず多くの読者を楽しませなければならず、そのために作者は自身の思想信条や本音を二の次として、時にそれを偽ることも許される小説ジャンルなのである。

そうした意味で『永遠の0』は、典型的な「大衆小説」あるいは「通俗文学」「娯楽文学」であって、その意味において成功した、昔の言葉でいえば「時代と寝た」小説だと言えるだろう。

投稿: アレクセイ | 2016年4月25日 (月) 11時03分

初めに断っておきます。
これから書く意見は
今流行りの「ノイジーマイノリティ」の類かも。
よって、気に入らなければ削除願います。

前回の私の意見は主様の表現方法を見習い
オブラートに包んだ書き方をしたつもりです。
しかし、主様が最近良くお書きになる
「主旨が正しく伝わっていないような懸念」を
払拭するためにも、今回は率直に書いてみようかとw

ブログ主様は、やっていることと、主張していることが
見事に矛盾しているんですよ。代表的な例が下記です。

①冷静な議論を推奨する趣旨で書いた下記のコメント
>お互いレッテルを貼った非難の応酬は絶対控えるべき留意点だろうと思っています。

②今回の冒頭の行為である
>「戦争法廃止を求める統一署名」の宣伝活動

戦争法案というレッテル貼りを推奨してるのは誰??

私としては、もう悲しくなるし
そんな貴方に百田さんの批評されてもね。。。と。
前回の私の意見に「違和感」と書いたのはこういう事。

「違和感」
「決めつけ」
「拡大解釈」
「概念の歪曲解釈」
百田さんの著書で感じた貴殿の感想を
そのままお返ししたいなと。
私は百田さんの本は好きでも嫌いでもないですが
百田さんの考えはどちらかというと嫌いな類です。
三島由紀夫のほうがずっと高尚で純粋です。
彼には自制心というネジが3本ぐらい抜けてますがw

それでもこんな批評は、百田さんに失礼な気がします。

丁寧に、言葉を選んで、慎重に、誤解のないように
お書きになっている事は十分理解しています。
しかし、主様の主張内容は、多くの尾ひれを付けただけで
中身が伴っていない気がします。

投稿: いまさらですが | 2016年4月25日 (月) 23時45分

以前に指摘された方がいましたが、「戦争法廃止を求める統一署名」の戦争法って名称の法律は存在しないことはいいのですか? この方法がOKならば、私が以前になんどもひつこく言った、

〇〇〇〇フォーラム(平和フォーラム)

と言ってもなんら問題はなくなりますよね。

せめて戦争法(平和安全法制等)と但し書きを入れるべきなんではないでしょうか。法律の名称は固有名詞だと思うのですがね。

こんなやり方では賛同は集まらないと思うですがね。
例え二千万人から署名が集まったとしても、正式な名称を使用しない方法は詐欺と変わらない。私はそのように判断します。

投稿: nagi | 2016年4月26日 (火) 19時44分

こちらの議論をこまめに読んでいるわけではないので、上の議論を読み違えていたらご免なさい。

ブログ主さんは「レッテル貼り」に反対しているにもかかわらず、「戦争法廃止を求める統一署名」という名称を容認できるのは、自己矛盾ではないか、という批判のようですが、これはそう単純な問題ではないと思います。

つまり、「(正当な)評価」と「レッテル貼り」に、明確な線引きは出来ない、ということなんだと思います。

「ある内容を有する法律」があって、これを「戦争法」と名づけるか「平和法」と名づけるかは、所詮は恣意的なものであり、命名者が正直に「内容」に沿った名前を付けるという保証はない。

「ゴキブリコロリ」という名称の商品も、必ずしも「ゴキブリコロリ」とはいかないのだが、売るためには「多少の修辞は許される」ということで、そういう「内容に必ずしも忠実ではない(恣意的に誇張された)名称」が与えられてしまう。

しかし、その商品を、その名前のとおりに「ゴキブリコロリ」だと信じて買わされた人とか、それが「恣意的な誇大広告」だとあらかじめ知ってる人は、それは「名称に偽りあり」であり、せいぜい「ゴキブリたまにコロリ」だと「評価」し、「「ゴキブリコロリ」は、正しくは「ゴキブリたまにコロリ」だ。みんな名称に騙されて「ゴキブリたまにコロリ」なんか買うんじゃないぞ」と騒ぎ始める。

したがって、「戦争法」という名前は、もちろん当該法の「正式名称」ではなく「評価(的形容)」です。
「戦争法廃止を求める統一署名」の趣意書の中にはきっと、「戦争法」と批判的に形容された批評対象の「正式名称」の紹介があるでしょう。それがないと、何を「批評」しているのかが分からないからです。

つまり、何を「批評」の対象としているのかを明確にしているのならば、「批評」「評価」は避けられない。しかしまた、その「評価」が「不適切な評価」だと「評価」する人は、その「評価」を「レッテル貼り」だと「評価」するでしょう。
要は、他者の語る「評価」が「忌憚のない正直な低評価(酷評)」なのか「作為的な低評価(レッテル貼り)」なのかは、他人には窺い知れない、ということです。

したがって、「レッテル貼りはいけない」という主張は、「主観的な一般論(心構え)」としては正しいけれども、「批評・評価しない人」が存在しないように、誰から見ても「レッテル貼りをしない人」というのは存在しない、ということです。

投稿: アレクセイ | 2016年4月27日 (水) 13時36分

>アレクセイ氏

>これはそう単純な問題ではないと思います。

このコメント欄では単純な問題です。以前のコメント欄でのやりとりで、私が「平和フォーラム」という団体を評価して、この団体の活動は平和活動ではない。だから〇〇フォーラムと呼びました。プログの管理人であるOTSU氏からは、批判はいくらしてもかまわないが、名称は正式な名称で呼んでほしいと意見がありました。その後もいろいろあったわけですが、結局は、OTSU氏が言われるように批判はしても、名称は正式な名称を使うことが、まあ暗黙のルールになったしだいです。

だから例示のあった、「ゴキブリコロリ」が効果が薄く「ゴキブリ平気」であったとしても、その商品を非難する時は「ゴキブリコロリ」と呼ぶ必要があります。

投稿: nagi | 2016年4月27日 (水) 14時15分

いや、それは双方が「名称」と「評価」の区別が、出来ていないだけですよ。その点が、単純な間違いなんです。

「私は「平和フォーラム」の実質を「〇〇フォーラム」だと評価するから、そう呼ぶ」と言った場合、「〇〇フォーラム」というのは、当該フォーラムの「固有名称」ではなく「評価」ですから、そのような「評価」を語るのは、評価者の自由であり、そこで筋違いに妥協する必要はなかったわけです。
で、その筋違いの妥協には、「名称」と「評価」の区別が出来ていなかった、という難点があったわけです。

投稿: アレクセイ | 2016年4月27日 (水) 20時16分

もちろん「〇〇フォーラム」という「評価」が、評価としての根拠を充分に論理的に示し得ていないものだったのならば、それは単なる「レッテル貼り」だと非難されても仕方がありません。

逆に言えば、第三者が論理的に充分に納得しうる根拠を示した上での評価として「〇〇フォーラム」という表現を採用したのであれば、それが「レッテル貼り」や「誹謗中傷」ではないと自身確信しているのに、その表現を差し控える(自粛する)必要はありません。また、すべきでもない。

もちろん「充分に論理的な根拠」というのも、読み手によって「充分」か「不充分」かは当然ちがってきますが、それは避けられないことであり、どれだけ広く納得を得られる根拠提示をできるかが、評価者には問われるわけです。

言い変えれば「お前はバカだ」「いや私はバカではないから、バカって言うな」というのは、議論じゃありません。大人のすることでもない。

大人なら「あなたはこれこれの根拠によって、多くの人がバカだと正当に評価するであろう人間だから、私も客観的事実として、あなたをバカと呼ぶ」と批判し、批判された方は「あなたの示した根拠は、これこれという理由によって恣意的なものでしかなく、とうてい客観的評価でも正当な評価でもありません。したがって、その誹謗中傷を止めてください」というようなやりとりが必要だと思います。

で、どちらの評価が正しいかは、読者個々に委ねられるしかありません。
もちろん、その読者が裁判官である場合もあるでしょうが、原理は同じです。

投稿: アレクセイ | 2016年4月27日 (水) 20時37分

あ、あのう、レッテル貼りという行為は
客観的な名称を主観的に勝手に判断し
相手の意図するしないにかかわらず
呼び方を変えて表現することなんだと思いますよ。

申し訳ありませんが
戦争法なんて法律はありません。
これは事実です。

私は別にそれを否定するつもりはありませんが
ブログ主様はこうした行為を
「絶対控えるべき留意点だ」としているのです。

バカだというのは客観的な名称ではありません。
法律には、客観的な名称があります。
アレクセイ様のご意見は
詭弁以外の何物でもありません。


投稿: いまさらですが | 2016年4月27日 (水) 21時11分

議論の途中で失礼いたします。
OTSU氏がおっしゃっているのは、各団体や個人の名称を、批判する意味をこめて別の呼称で呼ぶのは蔑称ではないか? またはレッテル貼でないか? だから、「このブログではやめていただきたい。」ということだと理解しています。
当然、その呼び名と、団体が活動している内容との乖離がある場合、その批判を行うことについては問題ないと思います。

一方で、「戦争法」という呼称についてですが、政府は、「平和安全法制」と呼び、マスコミは「安全保障関連法案」や「安保関連法案」との標記や表現が多いように思われます。しかし所詮これらの呼称も通称名であり、正式には、「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律(平成27年9月30日法律第76号)」、通称平和安全法制整備法と「国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律(平成27年9月30日法律第77号)」、通称国際平和支援法の総称ということになると思います。しかし、この法律案の名称も法案を作った側、つまり権力者がつけた名称です。

そもそも、ときの権力者は批判されるのが当然ですし、批判されなければ独裁政治です。
私は、権力者がつけた法律の名称を批判的に呼称を変えて読んでも「レッテル貼」とは違うと思います。こられの批判は、権力者に対する国民の権利だと思いますし、この法案に「平和」とつけていること自体が問題だと思われているようですから。

また、署名用紙でその趣旨その意思が伝わらなければ賛同も得られない。それだけのことではないでしょうか?
正式な法律名と言われても、署名活動の署名用紙に正式な法律名をすべて書き入れることは物理的に無理だと思いますし、マスコミが使う「安全保障関連法」は一般的かもしれませんが、これも通称名。また、「戦争法」という呼称が団体や個人の名誉を傷つけるといった差別的な表現でもないと思われますが、いかがでしょうか?

投稿: ベンガル | 2016年4月28日 (木) 11時41分

>そもそも、ときの権力者は批判されるのが当然ですし、批判されなければ独裁政治です。

私もその通りだと思います。

例えば、民主党政権前に後期高齢者医療制度の話がありました。当時の民主党を初めとする野党は「平成の姥捨て山制度」と呼んで非難しました。そしてこの法案を廃止すると公約にも入れました。その後どうなったかはみなさんご存じですね。

この時の問題点は、名称を変えて非難することにより制度の問題を議論するのではなく、世論を誤った方向にミスリードしたことにあります。結局、反対し続けた民主党が政権を取った後も廃止されることなく現在に至ります。

今回の「平和安全法制等」も、名称を変えて世論をミスリードさせるのではなく、国の安全保障をどうするか議論する方向に行ってほしいと願っています。

投稿: nagi | 2016年4月28日 (木) 14時49分

記事タイトルにある『カエルの楽園』について。

ブログ主様は2週続けてこの本を取り上げていますが、そこまで熱心に取り上げるような本なんでしょうか。

やしきたかじん夫妻をテーマにした『殉愛』で、激しい非難を浴びた著者が、ホームスタジアムに逃げ帰り、自分のサポーター向けに書いたのがこの本でしょう。

「例え話と現実情勢の関係性を描写する表現力、そして皮肉のセンスにおいて天才的な本だ」と書いてらした方もいましたが、私には安易な置き換えとご都合主義的な図式化が目立つだけの本としか思えませんでした。『永遠の0』に比べたら、やっつけ仕事もいいところです。

生き物が登場する寓話としてはオーウェルの『動物農場』が思い浮かびますが、とても比較にはならないでしょう。

薄い膜から透けて見える著者の政治的メッセージを取り上げるのなら、同様のメッセージを放つ人は大勢いるので、『カエルの楽園』という枠にこだわらず、ストレートにその政治的メッセージをブログ記事として取り上げたほうが、もうちょっと簡潔かつストレートにブログ主様の主張が届いたのではないかと思いました。

投稿: 対人手当 | 2016年4月28日 (木) 23時56分

アレクセイさん、いまさらですがさん、nagiさん、ベンガルさん、対人手当さん、コメントありがとうございました。幅広い視点からのご意見等を伺え、たいへん感謝しています。

特に今回の記事の冒頭に記した「戦争法廃止を求める統一署名」の呼称を巡り、いろいろな見方や評価をお寄せいただきました。ベンガルさんから詳しく説明していただきましたが、署名用紙そのものには「平和安全保障関連法」と明記されています。ちなみに国会審議で「戦争法」という呼び方を議事録から削除するよう求められましたが、削除には至らなかったようです。

ただ今回指摘があったとおり「戦争法」と呼ぶことに対し、不快感を示される方、まったく問題がないと考えている方、個々人で受けとめ方は大きく分かれがちです。私自身、このブログの中で「レッテルを貼った非難の応酬は絶対控えるべき留意点」と記し、固有名詞を蔑称で呼ぶことも慎んでいただくよう理解を求めてきています。そのため、たいへん多くの記事を重ねてきましたが、安保関連法を私自身の言葉として「戦争法」と置き換えたことは一度もありません。

一方で、今回記事の冒頭の記述のように署名用紙の固有名詞として、そのまま使っているケースは複数回あります。できれば今回寄せられたような批判を避けるため、安保関連法の廃止を求める署名活動という言葉に置き換えるべきかどうか少し迷いました。結局、これまでと同様、今回のようなケースではリンク先の呼称をそのまま使うことを判断していました。

以上のような説明も、さらに補足が必要とされるのかも知れません。新規記事は安保関連法に対する私自身の問題意識を改めて詳述する予定です。その記事を通して「戦争法」という呼称問題についても触れてみるつもりです。ぜひ、また新規記事にご訪問いただければ幸いですので、よろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2016年4月30日 (土) 07時28分

議論が盛り上がって、私も嬉しいです。

私の議論のポイントを、ここで簡単に説明しておきますと、それは「固有名称と評価名称を混同するな」という、ただそれだけです。そして「固有名称が実態を正しく反映させているとは限らないからこそ、評価名称というものも必要になる」ということですね。

で、この議論は「論理的な是非論」であって「政治論」ではありません。
つまり「論理的におかしいものは、おかしいとしか言いようがない。それとこれは別物だから、厳格に区別せよ」という「原理論」であって、「まあそうはいっても、お互いが自分の見解に固執したら、世の中は回らないよ」という「現実政治論」とは、まったく別次元のものです。

だからこそ、私はOTSUさん自身、やや「固有名称と評価名称を混同」がちだと評価し、そのあたりはしっかり考えて欲しいと思う反面、現実政治論としては「レッテル貼りは止めましょう」という、あまり厳密ではない理想論も、しごく肯定的に評価できるのです。
言い変えれば「客観的に厳密に検討すれば、レッテル貼りをしていない人はいない。けれども、レッテル貼りは止めようよと言う人は、現実には必要だ」と考えるわけです。

つまりこれは、役割分担なんですね。
私は物事を厳密に検討し腑分けしたい。しかし、それだけでは世の中は回らないから、そっちへ多少妥協する人がいても、それを責めるつもりはない。
しかしまた、現実への妥協を認めるからと言って、厳密な思考をしなくていいと認めているわけではありません。厳密に思考して理非曲直を理解した上で、それを現実の中でどう具体化していくかという過程での、節度ある妥協は認めうるし評価しうる、と言っているのです。

以下は、個別的コメント。

> いまさらですが様

「あ、あのう」といった書き出しは、どこかで使い古されたレトリックですね(笑)。

貴兄のご意見は、単にご自分の定義を語っているだけで、ご意見を普遍化するロジックが無く、結論としての(私アレクセイの意見が)『詭弁』だという評価も、所詮は「レッテル貼り」にしかなっていません。まさに「ロジックが無い」からです。

ここの読者を「口調(文体)的レトリック」だけで説得できる(煽動できる)と思うのは、ちょっと考えが甘いと思いますよ。
論理的説得が苦手なのかも知れませんが、それならもっと真摯に語った方がいい。でないと、逆効果にしかならないからです。

> ベンガル様

ご意見に合意します。
権力は、放置しておくと、実質だけではなく名称(言葉)までも占有にしようとします。
「黒を白と言い包める」ために。

対人手当さんがオーウェルの『動物農場』を引き合いに出しておられますが、そういう「言葉の専制」こそがオーウェルが描いた全体主義権力の恐怖の最大要素だと言えるでしょう。
あったことをなかったことにし、なかったことをあったことにし、嘘も百編つけば本当になるという洗脳を行う。そしてそれを現場で助けるのが、『動物農場』におけるスクィーラーみたいな「口先男」です。
ま、どこにでも、こういう「実のない人間」っているんですよね。

> 対人手当様

百田は『カエルの楽園』を、オーウェルの『動物農場』を意識して書いたのでしょうが、それは比較するも愚かな「劣化コピー」でしかないと思います。ま、それは数年を待たず歴史が証明するでしょう。

そもそも『カエルの楽園』は「今の日本人大衆」にしか通用せず、オーウェルのそれのような超歴史性や超地域性を持たないであろうというのは明白で、もとから「志が低い作品」なのです。その意味で『カエルの楽園』もまた、日本限定で「時代と寝ようとしている小説」なのでしょう。

それにしても、今どきの読者は『動物農場』なんかはなかなか読まないと思うので、『カエルの王国』に触発されて読むことになるのだったら、『カエルの王国』も「前座」として、まんざら存在価値がなかったわけでもないと思います。
ちなみに私は、『動物農場』よりも『1984』の方がずっと好きです。

投稿: アレクセイ | 2016年4月30日 (土) 14時39分

アレクセイさん、コメントありがとうございました。

新規記事は今夜のうちに更新する予定です。「戦争法」という呼び方をはじめ、安保関連法に対する自分なりの問題意識を改めて整理してみました。たいへん長い記事となりますが、ご覧いただければ幸いです。

投稿: OTSU | 2016年4月30日 (土) 18時37分

別に、「あの法律」でも「例の法律」でも、構わないのではないかと思います。

問題は、中身なのであって、諸氏におかれては、「件の法律」については官報や法令データベースには目を通してらっしゃると多分に推定いたしますし、そうでなくとも、閣法なのですから、国会に提出されるときは、閣議決定の主旨説明も簡単に手に入るわけですから、名称云々で盛り上がるのも結構ですが、とにかく中身なのだろうと。

極端な、センセーショナルな言葉だけがあふれる世の中にあって、私たちは、中身を垣間見る努力さえをも省力化してよいのか?と思います。

なんにしても、いわゆる「できる規定」の塊みたいな法律であって、「やらないこともできる」という選択肢が政府に与えられています。これは、国民の代表たる国会の議員先生が多数決で決めたことです。

平和、安全、保障、戦争という言葉に置き換えられていても、中身が中身ですから、「カラ条文」になってもよいわけですし、実施に当たっては予算措置も必要。予算は国会の議決事項。それに、政権を誰に任せるのか、世論形成をどう構築していくのか、これは時の国民世論で、かなり動きます。

できるようにしてしまった、現政権の判断の是非はあるでしょうが、国政選挙が控えていることですし、条文発動のスイッチを押すことができるのは誰になるのか、もちろん、押す機会がなければないにこしたことはないのですから、高等教育や自己研鑽がこれだけ広まった日本において、クレバーな選択を期待したいと思うのは私だけでしょうか?

投稿: でりしゃすぱんだ | 2016年5月 1日 (日) 08時33分

> でりしゃすぱんだ様

> 問題は、中身なのであって、諸氏におかれては、「件の法律」については官報や法令データベースには目を通してらっしゃると多分に推定いたしますし、そうでなくとも、閣法なのですから、国会に提出されるときは、閣議決定の主旨説明も簡単に手に入るわけですから、名称云々で盛り上がるのも結構ですが、とにかく中身なのだろうと。

こうおっしゃりたい気持ちはわかります。
肝心なのは、中身であって名称ではない、と。

しかし『諸氏におかれては、「件の法律」については官報や法令データベースには目を通してらっしゃると多分に推定いたします』という「推定」は、たぶん正しくありません。すくなくとも、私はそこまではやっていません。

こちらに書き込みをしているような政治意識の強い方たちに限定すれば、そういう方も比較的多いのは事実でしょうが、政治や法律に興味を持っている人でも、そこまで(マニアックに)読んでいる人というのは、一握りでしかないので、現実問題としては「名称」は「掴み」として無視できない影響力が持つのです。
また、そうでなければ「名は体を表す」なんて言葉が説得力を持つこともないでしょう。

例えば、文学マニアであればそれぞれに、『動物農場』くらい「当然読んでいるでしょう」とか、『悪霊』や『死霊』あるいは『火刑法廷』や『夏への扉』や「城崎にて」くらい「当然読んでいるでしょう」などと、つい言いたくなりますが、実施には、これらの作品をぜんぶ読んでいる人は(プロの文芸評論家を含めて)極めて稀だというのが現実です。なにしろ、人間に出来ることは限られていますからね。
その意味で「名称」は「インデックス」として重要なのです。すべての「中身」を確認してから判断している時間など、現実には、人には与えられていないからです。
「『虚無への供物』も読まずにミステリを語るな」という式の言い方は、一面の真実ではあれ、極めて傲慢な現実把握だと言えるでしょう。皆が皆、そこまで暇ではないのです。

そして、政治的選択をするのは、ここに出入りする『諸氏』だけではなく、学歴や教養にも、与えられた時間にも、極めて幅広い差異のある、日本の有権者全員なのです。

投稿: アレクセイ | 2016年5月 1日 (日) 15時11分

アレクセイ様

私が言わんとすることは、お分かりいただいているようでありがたいです。

奥歯に物が挟まったような物言い、申し訳ありません。

投稿: でりしゃすぱんだ | 2016年5月 1日 (日) 17時35分

私のような頭の悪い人間がこういう本を読むと書いてる事が真実だと思ってしまうんですよ
実際には作者の考えが書かれているだけで
その作者が事実と思っている事が事実かどうかはわからないじゃないですか
そしてちょっと調べてみると作者が誤認誤解しているというような内容の文がソース付きで出てくるんですよ
そしてああ書いてある事がすべてでは無いんだなと私は思えましたがそういう事を知らずに読んでそうかそうだったのかと感嘆する人もいて実はこうなんだよ!とみなに触れ回る人もいるじゃないですか
そういうのが悲しいですよね


投稿: おにぎり野郎 | 2016年5月21日 (土) 09時44分

でりしゃすぱんださん、アレクセイさん、おにぎり野郎さん、コメントありがとうございました。

このブログを通し、多面的な情報をもとに物事を評価していくことの大切さを訴えさせていただいています。そのような意味合いでの新規記事の投稿を考えています。ぜひ、またご訪問いただければ幸いですのでよろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2016年5月21日 (土) 21時15分

私が生まれる前の昭和30年代に日米安全保障条約に対して、多くの学生が「安保反対」と運動してました(これは事実)。今の70代、団塊の世代の方々の運動です。当時、「安保を読んだ人」と「反対する人」がいると言われた法律です。この時も「戦争反対、安保反対」としたスローガン(レッテル貼り)が残っています。
現在の戻りますと、安保関連法案に対して、「法案を読んだ人」と「戦争法(レッテル貼り)として反対する人」に分かれるのではと思ってます。いかがでしょうか?

投稿: jun-kyo-ju | 2016年12月 8日 (木) 19時52分

jun-kyo-juさん、コメントありがとうございました。

すべての法案に言えることですが、法案そのものは読まずに情報を得て賛否を判断するケースが多いものと思っています。大事な点は読む読まずに関わらず、より正確な情報を把握した上で物事を評価していくことだと考えています。

そのような問題意識のもとに最近の記事を投稿しています。新規記事もその延長線上で書き進めてみる予定です。ぜひ、引き続きご訪問いただければ幸いですのでよろしくお願いします。

なお、すでにご覧になっているのかも知れませんが、安保関連法に対する私自身の評価は当ブログを通し、たいへん数多くの記事を残しています。そのまとめのような記事を参考までにご紹介させていただきます。

2016年4月30日(土) 改めて安保関連法に対する問題意識
http://otsu.cocolog-nifty.com/tameiki/2016/04/post-6ba3.html


投稿: OTSU  | 2016年12月10日 (土) 07時12分

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