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2016年4月30日 (土)

改めて安保関連法に対する問題意識

昨日、連合三多摩地協が主催した三多摩メーデーに参加しました。第1部の式典の後、毎年、私どもの組合員と家族の皆さんを対象にした独自抽選会を行なっています。抽選会の前、私から次のような要旨の挨拶をさせていただきました。数日前、組合員の方から「熊本地震に対して組合から支援の呼びかけはないんですか」と尋ねられていました。前回記事の冒頭に記したとおり役員段階で、駅頭でのカンパ活動には取り組んでいました。

これまで被災した各県の連合や自治労の繋がりのもとに具体的な支援の取り組みを進めてきていました。今回、受け入れる側の態勢が整っていなかったため、ボランティア派遣の呼びかけなど阪神淡路大震災や東日本大震災の時に比べて組合員の皆さんへの提起が遅れていました。メーデー参加者の皆さんに向け、これから職場カンパやボランティア派遣の募集など随時呼びかけさせていただく予定であることをお伝えしました。

なお、今年も組合員と家族の皆さんを合わせ、500名に及ぶ多くの方々の参加を得られていることを報告できました。全体の参加者も2万人を超える規模で催しています。連合の中央メーデーも5月1日からゴールデンウイークの初日に開催されるようになっています。三多摩メーデーは中央よりも随分前から組合員の「参加しやすさ」を最優先し、ゴールデンウイークの初日に催すように改めていました。

一人でも多くの方の参加を呼びかける催しや取り組みに際し、半強制的な動員要請による参加は望ましいものではありません。組合員の皆さんが「行ってみようかな」と自発的に参加を考えてもらえるような「参加しやすさ」やイベントとしての魅力を高め、取り組む意義などを丁寧に情報発信していく試みが大切なことだろうと思っています。組合活動全体に関わる留意点であり、特に政治的な活動に対してはいっそう丁寧さが必要であることを訴えさせていただきました。

お配りしたA4の抽選券の裏側には7月の参院選挙に向け、自治労組織内参院議員の江崎孝さんを組合が推薦していることを案内していました。このような案内も「なぜ、組合が江崎さんを応援するのか」という丁寧な情報発信の一つであることを挨拶の中で説明させていただきました。私の挨拶の後、式典のステージから私どもの市長にも足を運んでいただき、障害者差別解消法に触れた挨拶を頂戴しました。

市長に続き、衆院議員の長島昭久さんにも駆け付けていただきました。長島さんは民進党の都連幹事長としてステージ上でも挨拶されていました。式典での挨拶の要旨はご自身のFacebookにも取り上げられていますが、「安倍政権の間しか通用しないような単なる政権批判ばかりでは永遠に政権は取れない」という長島さんらしい率直な内容でした。私どもの組合と長島昭久さんとの関係は以前の記事「憲法の平和主義と安保法制」や「民進党、中味に期待」などを通してお伝えしてきています。

前回記事の最後には長島さんのブログの最新記事『「集団的自衛権の行使を容認した政府解釈の変更」再考』を紹介していました。「できれば次回以降の記事で長島さんが提起されている論点等も踏まえ、私なりの問題意識や考え方を整理してみるつもりです」と予告していました。さっそく今回、「改めて安保関連法に対する問題意識」という記事タイトルを付けて書き始めています。本題に繋げる伏線のような記述もありますが、ここまでで相当な長さとなっています。久しぶりに小見出しを付けながら書き進めていきますが、過去の記事の引用が多くなるため、いつもにも増して長文のブログになることをご容赦ください。

「戦争法」という呼び方とレッテル貼りについて

前回記事「『カエルの楽園』から思うこと Part2」のコメント欄で「戦争法」という呼び方を巡って意見が交わされました。記事本文の冒頭に戦争をさせない1000人委員会が取り組んでいる「戦争法廃止を求める統一署名」の宣伝活動について触れていたからでした。「戦争法」と呼ぶことに対し、不快感を示される方、まったく問題がないと考えている方、個々人で受けとめ方は大きく分かれがちです。私自身、このブログの中で「レッテルを貼った非難の応酬は絶対控えるべき留意点」と記し、固有名詞を蔑称で呼ぶことも慎んでいただくよう理解を求めてきています。

そのため、安保関連法に絡む記事を数多く投稿してきましたが、安保関連法を私自身の言葉として「戦争法」と置き換えたことは一度もありません。 一方で、前回記事のように署名用紙の固有名詞として、そのまま使っているケースも複数回あります。最近の記事「安倍首相の改憲発言」の冒頭でも「戦争法廃止を求める統一署名」の宣伝活動について触れていました。同時に私にもマイクを持つ順番が回った際、このブログに綴っているような内容を中心に駅頭を行き交う方々に訴えたことも記していました。

「安倍首相が戦争をしたがっているとは考えていませんが、昨年9月に成立した安保法制には様々な問題点があるのではないでしょうか」という他のメンバーの訴え方とは少し異色な論点提起でした。ちなみに署名用紙そのものには「平和安全保障関連法」と明記されています。さらに国会審議で「戦争法」という呼び方を議事録から削除するよう求められましたが、削除には至らなかったようです。

とは言え、できれば前回記事のコメント欄に寄せられたような批判を避けるため、「戦争法廃止を求める統一署名」を安保関連法の廃止を求める署名活動という言葉に置き換えるべきかどうか少し迷いました。結局、これまでと同様、リンク先の署名の呼称をそのまま使うことを判断していました。その判断に至った補足説明として、ここで以前の記事「安保関連法案に絡む問題意識」に記した私自身の問題意識を改めて掲げさせていただきます。以前の記事内容は赤い文字で掲げていきますが、少しだけ語句や言い回しを改めていくつもりです。

立場や思想などが異なっていても戦火を歓迎する人は皆無だろうと思っています。中には戦火が上がることで「武器が売れる」と喜ぶ人もいるのかも知れません。そのような人々は自分自身が戦場に行かないことを前提にしているはずです。逆に戦場に行くことで収入を得るような人々は戦火をビジネスチャンスだととらえているのかも知れません。しかし、そのような人々は極めて例外であり、通常、誰もが戦争を嫌い、平和を願っているはずです。

もちろん安倍首相もその一人であることをまったく疑っていません。安保関連法案を成立させることで抑止力が高まり、戦争を避けるために必要な法整備であるという説明も虚言や詭弁だとは思っていません。ただ後ほど触れますが、そのことの実効性や評価は別の問題として考えています。安倍首相が戦争を肯定している訳ではないため、反対する側が「戦争をさせない」と声高に叫ぶことには以前から少し違和感を覚えています。

とは言え、この法案が成立し、限定的とは言え集団的自衛権が行使されるようになれば、これまでより日本が戦争に関わる可能性は高まります。そのような意味合いで見れば「戦争をさせない」という端的な反対スローガンも間違いではないため、それほど強く問題視してきた訳でもありません。とても与党議員のように「平和安全法制」とは呼べませんが、私自身は「戦争法案」という言葉も使わないように心がけています。

このことは最近の記事「安保関連法案の論点」の中でも説明していました。固有名詞を別の名前で呼ぶことには注意を払うべきものと考えているからでした。そのように心がけている中で「普通に戦争ができる国」という言葉は多用しています。この言葉は個々人の評価や見方を反映した形容詞であり、「戦争法案」という固有名詞の使い方とは一線を画しているつもりです。さらに私自身のこだわりは「普通に」という言葉に重きを置いています。

現状でも日本は戦争ができる国だと考えています。個別的自衛権の行使となる自衛戦争です。今後、限定行使とは言え、集団的自衛権まで認める場合、国際社会の中で「普通に戦争ができる国」に繋がるものと理解しています。この言葉も他の国は好戦的であるという批判的な意図を含んでいません。あくまでも国際社会の中で認められた自衛権の範囲内の問題でとらえ、普通なのか、特別なのかという意味合いで表現しています。

ちなみに他の国の憲法でも一定の制約を設けている場合があり、日本だけが唯一「特別だ」と強調している訳ではありません。いずれにしても直接的な戦火から距離を置くことができた戦後70年の歩みは誇るべきものであり、これまでのスタンスを変えるのかどうか重大な選択肢として今回の安保関連法案の是非が問われているものと認識しています。要するに「安保関連法案に賛成する者は戦争を肯定している」という見方は論外なことだと考えています。

その逆に反対派は利己的だという見方も同様です。さらにネット上では反対派を「反日」や「他国に操られている」という言葉で貶めるケースも散見しています。事実関係を完全に把握できる訳ではありませんので断定調な書き方は私自身も慎まなければなりません。それでも思い込みや決め付けが先走った「レッテル貼り」は賛成派も反対派も控えることが大事な心構えだと考えています。このような「レッテル貼り」が前面に出た場合、まず理性的な議論が期待できなくなります。

以上のような関係性を踏まえ「この法案の成立が本当に望ましいことなのかどうか」、この言葉に私自身の最も強い問題意識を託しています。問題視している理由は最近の記事「問題が多い安保関連法案」「安保関連法案が衆院通過」「安保関連法案の論点」などを通し、私なりの言葉で訴えてきました。立憲主義や抑止力の問題などの論点について人によって賛否や評価が大きく分かれていくものと思っています。そもそも周辺国の脅威をどのように認識するかどうかで議論の出発点も枝分かれしていくようです。

憲法9条と朝鮮戦争時の日本特別掃海隊

前々回の記事「『カエルの楽園』から思うこと」の中で「憲法9条を守っていれば日本の平和は守れる、そのような見方は一面で正しく、別な一面で誤りだと言えます」と記していました。自衛隊創設前、朝鮮戦争の際に海上保安庁の日本特別掃海隊が機雷除去に携わりました。このような歴史を忘れてはいけませんが、憲法9条という歯止め、集団的自衛権は行使できないという憲法解釈のもと日本は戦争に直接参加せず、他国の人の命を一人も奪うことなく戦後の70年を乗り切ってきたことも事実です。

これまで「セトモノとセトモノ、そして、D案」をはじめ、数多くの記事を通して平和の築き方安全保障のあり方について自分なりの「答え」を綴ってきました。私自身、憲法9条さえ守れば平和が維持できるとは思っていません。重視すべきは専守防衛を厳格化した日本国憲法の平和主義であり、その平和主義の効用こそ大切にすべきものと考えています。憲法9条を守ろうとしている人たちの中でも考え方は様々なのかも知れませんが、『カエルの楽園』に登場するナパージュのカエルたちのような盲目的な信者は皆無に近いのではないでしょうか。

このような記述を残した際、日本特別掃海隊に言及しながらもあくまで「直接参加していない」とするのは歴史に対する冒涜という指摘を受けていました。このような指摘に対し、私自身の考え方は「セトモノとセトモノ、そして、D案」の中で記していました。過去の記事内容も個々人の「答え」に照らし、かけ離れた価値観だった場合、一つの「答え」という見方にも至らず「何も答えていない」という関係性なのかも知れませんが、今回の記事を通して改めて紹介させていただきます。

これまで憲法9条という歯止め、集団的自衛権は行使できないという憲法解釈のもと日本は戦争に直接参加せず、他国の人の命を一人も奪うことなく戦後の70年を乗り切ってきました。ただ朝鮮戦争の際には海上保安庁の日本特別掃海隊が機雷除去に携わり、56名の日本人が命を落とされていました。当時、新憲法が制定されて3年、戦時下の朝鮮水域への掃海艇派遣は憲法9条に抵触する恐れがありました。

そのため、日本特別掃海隊のことは30年ほど秘匿されていました。前々回記事のコメント欄で「問題だと思うのは、護憲派と言われる人たちが日本特別掃海隊による朝鮮戦争への事実上の参戦を、まるで無かったかのようにする姿勢」という意見が寄せられていました。制定直後に憲法9条は踏みにじられていたという指摘はそのとおりであり、たいへん重い事実だと思っています。

一方で、憲法9条があったから機雷除去という後方支援にとどまった見方もできます。占領下という特殊な状況でしたが、それこそGHQが主導した憲法を完全にないがしろにするような強要は手控えざるを得なかったものと見ています。集団的自衛権の行使を認めるための解釈の一つとして、既成事実があったという理屈であれば日本特別掃海隊は極めて特殊なケースであり、前例と言えるのかどうか疑問です。

GHQに押し付けられた憲法だから変えるべきという主張をよく耳にしますが、前々回記事の最後のほうに記したとおり明治の自由民権運動から連なる日本国内の下地があった点をはじめ、五百旗頭真防衛大学前校長の「半世紀以上も歩んできた中で制定の経緯を最重要視するのは滑稽だ」という指摘に共感しています。要するに私自身、押し付けられたというネガティブな気持ちを持っていません。

時代情勢の変化の中で改めるべき点があるとすれば、もともと改正条項の96条があるのですから一字一句変えてはいけないとまで言い切れません。しかし、憲法9条2項を改めなければ「自衛隊の存在は違憲だ」という主張に対しては異なる見解を持っています。憲法9条2項があっても国家固有の権能の行使として「必要最小限度の自衛権」は認められるという解釈を支持する立場です。

そもそも条文の解釈は一度できても、何回も変更できるようなものではないはずです。集団的自衛権行使を認めた安保法制の問題点は、このブログの複数の記事を通して訴えてきています。今回の記事は憲法観の切り口から書き進めてきました。たいへん長い記事になっていますので、そろそろ論点を整理しなければなりません。平和運動の中で「護憲」という言葉が、憲法9条さえ護れば平和が維持できるというイメージを発信しているようであれば問題だと考えています。

護るべきものは専守防衛を厳格化した日本国憲法の平和主義であり、強調すべきことは平和主義の効用です。集団的自衛権が行使できない「特別な国」だったからこそ、これまでアメリカ軍と一緒に自衛隊が戦場に立つことはありませんでした。アメリカ側からすれば日米同盟の片務性に対して不公平感を抱いてきたようですが、これからも他国の戦場では自衛隊の活動は後方支援にとどまるため、不公平感が飛躍的に解消されるものではないはずです。

憲法の平和主義と日米安保条約

上記の記事の前に「憲法の平和主義と安保法制」があり、次のような記述を残していました。国際社会の中で原則として戦争は認められていません。例外の一つに自衛のための戦争があります。集団的自衛権もその名のとおり自衛のための戦争に位置付けられます。国連加盟国は侵略戦争を放棄しているため、建前上は日本と同様、すべて「平和主義」を希求している国だろうと思っています。

戦争を防ぐため、平和を守るため、抑止力を高めることが大事だと考え、今回のような安保法制に繋がっていることを理解しています。一方で、自国や自分たちの「正義」を武力によって押し通そうとする場面が後を絶たず、残念ながら世界のどこかで戦火が上がり続けています。数多くの戦争への痛切な反省を踏まえ、同じような時期に崇高な理想を掲げ、国連憲章と日本国憲法は制定されていました。しかし、それらの理念と国際情勢の現実とのギャップは埋められないまま、現在に至っていることを否定できません。

憲法9条は草案の段階では、自衛権も認められないと解釈されていました。国会での草案審議を通し、自衛権までは禁止されず、自衛のための「必要最小限度の実力」を保有することは憲法9条に違反しないと解釈されるようになりました。この解釈があり、1950年の朝鮮戦争勃発という事態を受け、警察予備隊が発足し、保安隊から自衛隊に改組されていきました。その上で歴代自民党政権をはじめ、内閣法制局は「必要最小限度」の中に集団的自衛権の行使は認められないと明言してきました。

「平和主義」は日本だけが標榜するものではありませんが、憲法9条のもと国際社会の中で日本は際立った「平和国家」だと認められてきたことも確かです。このような憲法9条の抑制的な「特別さ」は誇るべきものと考えた際、集団的自衛権の行使に道を開き、いつでもどこでも同盟国と一緒に戦争をできる国に変えようとしている安倍首相は「平和主義を踏みにじろうとしている」という批判を受けるべき対象になりがちです。

「日本が攻撃されれば、米国はすぐに助けに行かなければならないが、われわれが攻撃を受けても、日本は助ける必要はない。条約は不公平だ」。2016年米大統領選に出馬している不動産王ドナルド・トランプ氏(69)は25日夜、アイオワ州の集会で数千人を前に演説し、米国の対日防衛義務を定めた日米安全保障条約は不平等だと訴えた。日本をはじめとする諸外国への強硬発言が止まらないトランプ氏。共和党指名争いの首位を独走している背景には、保守層の一部がこうした強気の姿勢に共鳴している面もあるようだ。【時事通信2015年8月26日

トランプ候補が大統領になる可能性も高まっています。上記は多くのアメリカ人の本音だろうと思います。日米安保条約は集団的自衛権に位置付く性格のものであり、アメリカ側からすれば片務性の不公平感が生じがちです。日本側からすれば沖縄を中心にした米軍基地の負担や「思いやり予算」の問題などの言い分もあります。そのバランスがアメリカ側を納得させ続けられるものではなく、少しでも片務性を解消するため、今回の集団的自衛権行使の問題が浮上しているという見方は間違っていないはずです。

成立した安保法制の中で、これまでと大きく異なり、集団的自衛権行使のもとに後方支援が自衛隊の任務に加わります。後方支援も戦争参加であり、敵対する相手国からの標的になります。それにも関わらず、安倍首相は「戦闘が起こった時は、ただちに(後方支援活動を)一時中止、あるいは退避することを明確に定めている」と説明しています。私自身の誤解なのか杞憂なのか分かりませんが、このような後方支援は「なぜ、日本の軍隊だけ安全な場所にいて、最前線に出てこないのか」「戦闘を前に撤退するのか」という批判の声にさらされてしまうことを危惧しています。

これまで繰り返し述べてきたことですが、戦争や武力衝突の事態に至った際、「限定的」や「必要最小限」という理屈が通じるのかどうか疑問視しています。そのような場面では相手側を圧倒するまで総力を尽くすことになるのではないでしょうか。だからこそ日本国憲法では明文化されていなくても、個別的自衛権までを許容する範囲内とし、専守防衛という明確な線引きが非常に重要な点だったものと理解しています。

昨年5月、安倍首相はアメリカの上下両院合同会議で演説し、日米同盟強化のための安保法制を「この夏までに成就させます」と約束していました。アメリカ側の負担が減る話であり、大歓迎されていました。しかし、いつも懸念している安倍首相の発する言葉の重さに関わることですが、アメリカ側に誤ったメッセージを伝えてしまったようです。過剰な期待感を与えすぎているため、実際の運用面の問題になった際、信頼を裏切る形になりそうな話を耳にしています。

このような問題点を上げていけば尽きることがありません。そもそも武力の行使に前のめりになりがちなアメリカに対し、日本がブレーキ役になる関係性も欠かせないはずです。軍事面での風呂敷は広げすぎず、もう一度、日本国憲法の「特別さ」を前向きに評価し、日本のできること、できないことを率直に謙虚に示した上でアメリカとの信頼関係の維持に努めていくべきではないでしょうか。そのためにも国民の多くが反対していた安保関連法案は、いったん白紙に戻し、違憲の疑いを持たれない範囲内で解決すべき現状の課題を議論して欲しかったものと思っています。

武力で平和は築けない、国際社会の中で日本が果たすべき役割

以前の記事内容を引用しながら赤字に変えず書き進めている箇所がある一方、労力の負担軽減に繋がる転載箇所が多くなっています。もう少し時系列にまとめ、重複した箇所を整理し、読みやすくするつもりでしたが、力及ばずたいへん申し訳ありません。このような構成の記事は例外的なものだと考えています。その上で引き続き「安保関連法案の論点」の中に記した次の箇所はそのまま掲げさせていただきます。

軍備力の増強が抑止力を高めるという見方があります。普通の人は屈強なプロレスラーに殴りかからないという一例が示される時もあります。しかし、そのような例示は際限のない軍拡競争に繋がりがちであり、国際社会の規範による自制力を軽視した「弱肉強食」の発想だと考えています。例示で考えれば、殴りかからなくても拳銃を用意するという発想と同じ危うさとなります。タカ派の政治家は「戦争も辞さず」という発想を持ちがちです。このような発想は論外であり、まず他者の立場をおもんばかり、簡単に相容れない言い分だったとしても率直に耳を傾ける外交姿勢が最も重要であるはずです。

隣接したドイツとフランスは第一次、第二次世界大戦でお互い戦い、多くの犠牲者を出してきました。このような被害を繰り返さないという両国の決意が欧州に新しい流れを生み出しました。第二次世界大戦後、領土や資源の争奪戦を避けるため、両国は石炭と鉄鋼を共同管理する共同体を1951年に作りました。その一歩が欧州連合(EU)まで発展しています。軍事力による強引な他国への介入は混乱や無秩序状態を招きがちです。ISIL(イスラム国)を生み出したイラク戦争などから武力では平和が築けないことを教訓化していかなければなりません。憎しみの連鎖が新たなテロや戦争を招きがちな現実こそ、押さえるべき重要な情勢認識だろうと考えています。

かつてに比べればアメリカの国力にもかげりを見せ始めています。そのような絡みから日本の軍事力に今まで以上の役割を期待し、集団的自衛権行使を検討していくことに歓迎の意を表しているものと見ています。一方で、アメリカ国内では他国の戦争に巻き込まれたくないという意識が高まっているようであり、日本と中国との対立を危惧している側面があることも確かです。

安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を唱えていましたが、祖父の岸元首相から連なる個人的な信念が前面に出た動き方であるように感じています。ただ安倍首相が「戦争をしたがっている、戦前のような軍国主義をめざしている」というような批判は的外れだと思っています。それでも憲法9条の「特別さ」を徐々に削ぎたいという意図は明らかで「普通に自国の平和を維持できる国」、つまり制約のない集団的自衛権行使も含め、いざという時「普通に戦争ができる国」をめざしていることは間違いないようです。

そのような考え方に対し、私自身は日本国憲法の「特別さ」は守り続けるべきブランドだと考えています。そのことによって国際社会の中で日本だからこそ貢献できた役回りがあり、もっともっと「特別さ」をアピールしながら非軍事面での独自な活動に力を注ぐことを望んでいます。アフガニスタンのDDR(武装解除・動員解除・社会復帰)で活躍された伊勢崎賢治さんは、平和国家である日本のイメージは良く、「軍事的下心がない」と認識されていると述べています。そのため、武装解除の交渉がスムーズに進んだことを紹介し、「憲法9条によるイメージブランディングが失われたら日本の国益の損失だ」とも語られていました。

今回、安保関連法案を成立させれば、平和国家のブランドイメージを低下させ、これまで以上に日本もISILのような国際テロの標的にされるリスクが高まっていくものと危惧しています。誰もが戦争を積極的にしようとは考えていないはずです。悲惨な戦争に突入した過去の歴史の分岐点でも同様だったはずです。それにもかかわらず、軍事力の強化が抑止力を高め、戦争を未然に防ぐ手立てだという考え方が根強く支持されがちです。

しかし、国際社会の中で突出した平和主義を唱えた日本国憲法、その「特別さ」は誇るべきものであり、決して否定されるような理念ではありません。したがって、これまでの安全保障政策を大きく転換させ、わざわざ平和国家のブランド力を棄損させる安倍首相の判断は非常に残念なことです。歴史の分岐点とも言える今、よりいっそう平和の築き方について議論を深め、強引な安倍政権の進め方を疑問視する国民の声がもっともっと高まり、問題が多すぎる安保関連法案を白紙に戻せることを強く願っています。

最後に、長島昭久さんからの問題提起

長島さんのブログの最新記事『「集団的自衛権の行使を容認した政府解釈の変更」再考』の中で、次のような論点が提起されています。集団的自衛権の本質は「他衛」であり、「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているものとされている」という1981年5月29日の政府答弁書を紹介し、このような典型的な集団的自衛権の行使は我が国の憲法上認められるものではないと結論付けたことを長島さんは説明されています。

それに対し、長島さんは国際情勢の変化や軍事技術の進歩に鑑み「自衛」の視点から改めて集団的自衛権の概念(定義)を見直す必要性を認識し、 「集団的自衛権と個別的自衛権が重なる部分」(外形的には我が国に対する直接の武力攻撃が発生していないにもかかわらず反撃するという意味で「他衛」と見なされるものの、当該武力攻撃によってもたらされる我が国の国民の生命、自由、幸福追求の権利への侵害に切迫性があり近接性があり、しかも攻撃が直接我が国に及ぶ蓋然性が高いと判断されることから、それへの反撃が「自衛」と解される充分な根拠がある場合)などについて、合憲と判断した閣議決定を肯定的にとらえています。

中途半端な引用では長島さんの真意をしっかり伝え切れない心配もあるため、長島さんのブログ記事の中盤から最後までの箇所を青い文字でそのまま掲げさせていただきます。「集団的自衛権と個別的自衛権が重なる部分」に対し、限定的であれば集団的自衛権が合憲になり得るため、長島さん自身が安保関連法を全否定されたことはありません。その上で、ご自身のブログの最後に記しているとおり法案の中味や政府の説明について長島さんは疑義を示されてきています。

私自身の問題意識も今回の記事の中で強調しているとおり「安保関連法が本当に望ましいものだったのかどうか」という点であり、「集団的自衛権と個別的自衛権が重なる部分」は個別的自衛権の問題として議論を出発すべきものと考えていました。将来的には集団的自衛権の範囲が拡大解釈できるような法制は論外であり、これまで定めてきた個別的自衛権の枠内から逸脱する必要性が本当に迫られているのであれば憲法96条のもとに国民の意思を問うべき重大な問題だったものと考えています。

私は、一昨年7月の閣議決定をもって昭和47年見解の基本的論理を維持しているとの政府の説明も十分成り立つのではないかと考えるのです。すなわち、「外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置」としてならば、そのような自衛の措置は、たとえ我が国に直接武力攻撃が加えられない(つまり、当該武力攻撃に対する反撃行為は個別的自衛権では説明し切れない)ような場合であったとしても、憲法上「容認されるものである」とされたのです。換言すれば、この「47年見解」で違憲と断定された「いわゆる集団的自衛権」とは、「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする」従来の定義に基づく「他衛」のことを指すのであって、それはすなわち、我が国に対する脅威の切迫性や近接性、武力攻撃が我が国へ直接波及する蓋然性が存在しないにも拘らず、我が国が反撃を加えることができる権利と解されるのです。

ところで、たとえ従来の定義に基づく「いわゆる集団的自衛権」のごく一部を認めるような政府解釈の修正であったとしても、本来国家権力を縛るためにつくられた憲法の解釈を国家権力たる政府が自ら変更するのは立憲主義の蹂躙だ、という主張について一言触れておきたいと思います。政府はいかなる理由があろうとも過去の解釈を自らの手で変更してはならないのでしょうか。そんなわけがありません。憲法81条には、国家行為の憲法適合性を判断する終審裁判所は最高裁であると明記されており、最高裁が判断するまでの間は、政治部門(行政府と立法府)が憲法の有権解釈権を有しています。問題は、政治部門が、法規範論理(憲法規範の枠内に収まる論理)に基づいて、過去に積み重ねられた解釈と整合性のある解釈変更の根拠を示せるか否かということです。それをはみ出すようであれば、憲法を改正するしかないことは論を待ちません。

また、政府が従来の解釈を変更することをもって「解釈改憲だ」とする些か乱暴な議論もありますが、政府は、例えば、1954年の自衛隊発足にあたり、憲法9条2項で保有を禁じられた「戦力」の定義を大幅に変更し、自衛隊を合憲としています。これこそ解釈改憲といえ、当時、憲法学者の殆どが自衛隊を違憲と断じました。しかし、今日に至ってもなお自衛隊を違憲とする学者は少数といえます。なぜでしょうか。要は、自衛隊が、憲法の要請する法規範論理の枠内に収まるとの国民のコンセンサスが確立したからなのです。(この現実自体を拒否する方々の議論は、そもそも本論の範疇の外にあるものといわざるを得ません。)

以上要するに、最高裁において、自衛隊を合憲とした政府解釈や自衛隊法が違憲と判断されない限り、また、今回の集団的自衛権をめぐる政府解釈の変更および安保法制が違憲と判断されない限り、少なくともそれらは合憲の推定を受け国家統治の上では有効だということです。これらのプロセス全体を立憲主義というのであって、自分たちの気に入らない政府解釈の変更を捉えて「立憲主義の蹂躙だ」と叫ぶのは、法規範論理というより感情論といわざるを得ません。もっとも、今回憲法違反あるいは立憲主義の蹂躙と主張している学者の多くは、現憲法が認める自衛権の行使は「47年見解」でギリギリ許されると解している節がありますので、それを1ミリでも超える解釈は受け入れがたいのかもしれません。しかし、この点でも、繰り返しになりますが、憲法が要請する法規範論理に基づいて検証、立論していただかねば、議論は最後まで噛み合いません。

もちろん、だとしても、このたびの安保法制の立法過程において、なぜそういった新規立法が必要なのかを示す立法事実を十分に説明し切れなかったり、国際情勢変化や軍事技術の進歩などについて説得力ある説明ができず、国民多数が未だ十分に理解していない段階で、数の力で押し切った政府の責任は重いと考えます。その意味での反発や批判は正当なものといえます。ただし、それを以って「戦争法」だとか、「集団的自衛権は違憲」だとか、「立憲主義を蹂躙するもの」などと批判するのは感情論以外の何物でもなく、いかに憲法学の大家や熱心な政治家や気鋭の学生さんたちが論陣を張ろうとも、それらは学問的にも政策的にも誠実な議論とは言えないのではないかと感じています。

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2016年4月24日 (日)

『カエルの楽園』から思うこと Part2

年間を通し、組合役員として顔を出すべき催しや取り組みが数多くあります。専ら自分の所属する組合の取り組みですが、自治労、連合、平和運動センターなどからの参加要請も相当な数に上ります。それらの要請に対し、私自身、事情があって充分応え切れていません。そのため、平日夕方に取り組まれる地元のターミナル駅前での宣伝活動には極力参加するように努めています。

火曜夕方の三多摩平和運動センターが呼びかけた駅頭宣伝行動は、1か月ぐらい前に要請があった段階で手帳に予定を書き込んでいました。戦争をさせない1000人委員会が取り組んでいる「戦争法廃止を求める統一署名」の宣伝活動でした。翌日の水曜には連合三多摩が呼びかけ、熊本地震における被災地支援のカンパ活動がありました。こちらは緊急な呼びかけでしたが、他に予定が入っていなかったため、同じ駅頭で同じ時間帯での行動に連日参加していました。

さて、前回の記事は「『カエルの楽園』から思うこと」でした。今回、久しぶりに記事タイトルに「Part2」を付け、前回記事の補足となるような内容を書き進めてみるつもりです。まず前回記事の中で「一人ひとり、これまで経験してきたことや吸収してきた知識の積み重ねによって、それぞれ正しいと信じる価値観やモノの見方が培われているはずです。そのような価値観に照らし、マスメディアの報道ぶりの評価が人によって大きく異なっていくようです」と記していました。

その文脈において、やはり私が綴った前回の記事内容も個々人の「答え」に照らした中で率直な評価を受けているものと考えています。一方で、このブログのコメント欄常連の皆さんは理性的な書き込みをされる方ばかりで、いつも落ち着いた場になっていることを本当に感謝しています。その上で幅広い視点や立場からのご意見やご指摘を受けることは非常に貴重なことですが、時々、こちらの意図している主旨が正しく伝わっていないような懸念も生じています。

私自身の平和や安全保障への思いは過去のブログ記事を通し、膨大な字数の書き込みを積み重ねてきました。その際、様々な事例や考え方を紹介しながら不特定多数の方々にも届くような言葉での発信に努力してきたつもりです。毎回、それらに記した内容を再掲することは到底あり得ないため、最近の記事「セトモノとセトモノ、そして、D案」の紹介をはじめ、平和の築き方安全保障のあり方という言葉にリンクをはっていました。ただリンク先を参照される方が少数であることも承知しています。

さらに過去の記事内容も個々人の「答え」に照らし、かけ離れた価値観だった場合、一つの「答え」という見方にも至らず「何も答えていない」、もしくは「議論の対象にさえならない絵空事」という評価を下されがちなことも覚悟しています。念のため、私自身の「答え」の正しさを主張しているのにも関わらず、それを認めてもらえないことを嘆いている訳ではありません。そもそも平和の築き方や安全保障のあり方に絶対的な「正解」は簡単に見出せないものと思っています。

肝心なことは理想視すべき目標を掲げ、その目標に沿って具体的な局面ごとに現実的な判断を加えていく営みではないでしょうか。ただ理想視すべき目標をはじめ、目標に向けた道筋や手段に対する評価は人によって大きく異なっているものと考えています。前回記事のコメント欄でnagiさんが示したA案「戦争、戦争に関係する存在(軍隊、兵器)を直接的にも間接的にも否定し、廃棄する。紛争は国連等を中心とした団体による話し合いにより解決を目指し平和な世界を構築する」は、まさしく理想視すべき目標です。

しかしながら現実の国際社会の中でA案は程遠い現状です。そのため、大半の国がB案「戦争、戦争に関係する存在(軍隊、兵器)を直接的にも間接的にも否定せず、戦争に至らない程度に抑止力を利用し、結果として平和状態の維持を目指す」という現実的な対応をはかっています。平和主義者だからA案、戦争肯定派はB案という括り方は問題であり、私自身の認識は理想視すべき目標はA案であり、B案は現実的な判断として認めざるを得ない姿だと考えています。

国連に警察的な意味合いでの軍事力を集中させるというA案の修正型も含め、A案は絶対にあり得ないと断言される方も多いはずです。それはそれで認め合っていくべき考え方であり、そのような方々を一括りに戦争肯定派と批判することだけは避けなければなりません。同時にA案を理想視すべき目標と考える方々を一括りに批判することも適切ではありません。さらにB案の中味、抑止力のあり方を巡っては、それこそ人によって考え方に大きな隔たりが生じていくはずです。

それぞれのリスクとリターン、プラス面とマイナス面を冷静に議論できることが重要であり、お互いレッテルを貼った非難の応酬は絶対控えるべき留意点だろうと思っています。ここで参考までに興味深いサイトの記事を紹介します。杉谷和哉さんの『「右」と「左」はなぜ分かり合えないのか?』というタイトルが付いた論評です。「人々は自分のイデオロギーと合致するものを肯定的に捉え、そうでないものは否定的に捉える。これは当たり前のように聞こえるが、深刻な事実でもある」の後、次のような記述が続きます。

このような党派性にも関わらず、多くの論者は自身が「中立客観的、冷静に、そして科学的な根拠をもって」いるものだとして主張を展開している。右であろうと左であろうと、相手はイデオロギーによって目が眩んでいる状態だと考えている人が多いように思われる。お互いに、膨大なデータやエビデンス、事実を並べ立て、相手の主張がいかに間違っているか、相手がいかに荒唐無稽か、相手がいかに嘘つきかということを暴きたてようとしている。そして、彼ら彼女らは、最後に「これだけのことが明らかになっているのに、未だに自分たちと反対の立場をとっているのは、頭がおかしいか、宗教の信者(合理的、理性的な話が通用しない人)にでもなってしまったのだろう」と言うのである。

普段、私自身が抱えている問題意識を分かりやすく論評されていたため、ブックマークし、機会を見て記事本文で紹介しようと考えていました。上記の文章の後に「実際にはある個人の事実認識の能力には限界がある。どれ程努力を重ねたとしても、客観的に世界を把握することは困難であり、科学的な根拠を求めたとしても、それすら曖昧で、いくらでも解釈しようがある」という言葉などが続きます。最後のまとめとして次の文章が掲げられていますが、大きく首肯できる内容でした。

むしろ問題なのは、「あいつらは特定のイデオロギーに囚われて何も見えなくなっている。私はそれができるのだ」という思い込みである。こうなってしまうと、相手との対話どころか、自分の考えに賛同しない人を徹底的に攻撃するしかなくなってしまう。右と左の話が全く合わなくなっているように感じられるのは(右派が語っている日本と左派が語っている日本が同じ国とは思えない)、お互いにお互いを話が分からない、対話できない存在なのだと決め付けていることに起因している。

そもそも、政治や政策に関わることは、全て事実で白黒分けられるようなことばかりではない。そこには価値観やイデオロギーが介在して当たり前なのである。社会に関わることを、データや事実だけで、全くの争い無く決めることができるという発想こそ、警戒しなければならない。右と左の話が全く合わなくなってきているのは、お互いにお互いが、誰もが同意できる強靭な根拠に基づいて話をしているのだという思い込みにその原因があると考えられる。

記事タイトルに「Part2」を付けながら、ここまで百田尚樹さんの著書『カエルの楽園』に触れないまま長い記事になりつつあります。前回記事のコメント欄の内容を受けとめた「Part2」という点でご容赦ください。ここからは著書の中味に沿って書き進めてみるつもりです。Amazonカスタマーレビューで星5つの好評価が群を抜いていることは事実です。寓話の内容に対する評価はもちろん、百田さんの主張に賛同されている方々が多いことも確かだろうと見ています。

ただ綴られている内容が明らかであるため、百田さんの考え方を支持していない方々は著書自体を手にしないはずです。したがって、批判するレビューが少ない点については少し割り引いた見方も必要だろうと思っています。そのような関係性の中で百田さんの考え方を基本的に支持していない私が著書を読み、特に違和感のあった箇所は次のような内容でした。あくまでも寓話ですが、百田さんが現実の場面でそのように考えているということを前提に指摘させていただきます。

ウシガエルは、あらゆるカエルを飲み込む巨大で凶悪なカエルで、凶暴、危険、醜悪、根っからの嘘つきと記されています。このウシガエルは中国に見立てられ、ナパージュのカエルたちを脅かす存在です。現実の場面でもウシガエルと中国の脅威を同一視しているのでしょうが、そこまで中国を邪悪な国として敵視していることに違和感がありました。脅威であることは否定できませんが、対話不能の存在として見なしていくのかどうか、情勢認識に温度差があるようです。

日刊ゲンダイ』に三枝成彰さんのインタビュー記事「安倍政権は教養のなさを反省すべき」が載っていました。「21世紀になって他国を奪って占領したのは、プーチン大統領のロシアだけですよ。もっとも、あれはやらざるを得なかった。理解するつもりはありませんが、理由は分かります」「この時代に他国への侵略は起こらない。中国だって、あまりむちゃなことはできないでしょう」という認識を示されています。わざわざ「教養のなさ」という言葉を使うことは問題だと思っていますが、次のような見方は首肯できるものがあります。

戦前の日本が進んだ道は、当時としては誤りではなかったかもしれない。正義だったかもしれない。でも、正義だったことが悪にもなり、悪が正義にもなる。実際に戦前は善だったことが戦後、悪になったんです。それがまた最近になって「善だった」といわんばかりになっている。それが本当かどうか、歴史を勉強して見極める教養が必要なんですよ。

話が本筋から離れがちで恐縮です。前回記事の補足と位置付けながら他のサイトを紹介することで、かえって論点を広げてしまっているかも知れません。そろそろまとめなければなりませんが、「三戒」つまり憲法9条を守っていれば平和は守れる、そのような短絡的な見方を物語の軸にしていることに強い違和感を抱いていました。ウシガエルたちに攻め込まれている際、「スチームボード、帰れ!」と叫び、助けようとしたワシを追い返してしまった場面には驚きました。

そのワシは抑止力の象徴としての在日米軍に見立てられていました。また、自衛隊に見立てられているナパージュのハンニバル兄弟への行き過ぎた仕打ちも考えられませんでした。憲法9条を大切にしたいと思っている人たちを一括りに揶揄しているようであり、お互い対話できない存在だと決め付けているような印象を受けていました。理想視すべき目標、抑止力のあり方、情勢や歴史認識など個々人に差異があって当たり前です。しかし、せめて相手を見下す姿勢だけは排していきたいものと考えています。

当初、これまでの記事の焼き直しとなったかも知れませんが、前回記事のコメント欄に寄せられた問いかけに沿って安全保障に関する考え方を改めてまとめてみるつもりでした。ちょうど私どもの組合も推薦している民進党衆院議員の長島昭久さんがご自身のブログで『「集団的自衛権の行使を容認した政府解釈の変更」再考』という最新記事を投稿されていました。できれば次回以降の記事で長島さんが提起されている論点等も踏まえ、私なりの問題意識や考え方を整理してみるつもりです。

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2016年4月17日 (日)

『カエルの楽園』から思うこと

4月14日夜、マグニチュード6.5、最大震度7を記録した熊本での地震は前震で、16日午前1時25分頃に起こったマグニチュード7.3の地震が本震でした。震度7は気象庁震度階級における最上限の数字であり、マグニチュード7.3は阪神淡路大震災と同じ規模となります。その後も激しい揺れの余震が続き、たいへんな被害が生じています。被災された方々に対し、心からお見舞い申し上げます。私自身が支援できることは限られていますが、せめて当ブログの新規記事の冒頭でお見舞いの一言を取り急ぎ述べさせていただきました。

さて、百田尚樹さんの著書で最初に読んだのは『永遠のゼロ』でした。ストーリーの面白さが印象に残っています。そのため、コミック版全5巻も手にしていました。私が手にした当時は戦争を美化する作品だという批判は目立っていませんでした。したがって、先入観なく読み終えた訳ですが、私自身は戦争を美化するような印象を感じ取っていません。どちらかと言えば戦争は忌み嫌うものという読後感があったように覚えています。

その後、『モンスター』なども読んでいましたが、実際の場面での百田さんの直情的な発言を耳にするようになり、徐々に小説と作者とのイメージのギャップが気になるようになりました。そのため、ここ数年、百田さんの著書は手にしていませんでした。ただ最近、いろいろな意味で興味がわいた『カエルの楽園』だけは一度読んでみようと思い、久しぶりに百田さんの著書を購入し、数日で読み終えていました。

初め、この新規記事は最近のパターンである「『カエルの楽園』を読み終えて」というタイトルを付けて取りかかっていました。これまでの「『〇〇〇』を読み終えて」という記事も書評にとどめていた訳ではありません。今回も『カエルの楽園』を読んだ感想を踏まえ、私自身が思うことを書き進めていきました。書き進めていくうちに話が広がりそうな見通しとなり、途中で記事タイトルを「『カエルの楽園』から思うこと」に変えていました。

蛇足のような話から入ってしまいましたが、それほど『カエルの楽園』はいろいろ考えさせられる論点が含まれていたことを強調できます。寓話としての面白さを認めた上、登場するカエルたちが容易に実在の人物や団体に置き換えられるため、作者である百田さんの視点や問題意識が手に取るように分かりました。ただ納得できる点がある一方、極端な見方や意図的な表現方法の多さも目立ち、全体を通した私自身の感想は「違和感」という言葉にたどり着きます。

最大の悲劇は、良心的な愚かさによってもたらされる。ベストセラー作家が全力で挑んだ、衝撃の問題作。安住の地を求めて旅に出たアマガエルのソクラテスとロベルトは、平和で豊かな国「ナパージュ」にたどり着く。そこでは心優しいツチガエルたちが、奇妙な戒律を守り穏やかに暮らしていた。ある事件が起こるまでは―。平和とは何か。愚かなのは誰か。著者自らが「私の最高傑作」と断言。大衆社会の本質を衝いた、G・オーウェル以来の寓話的「警世の書」。

著作権はもちろん、ネタバレに注意した内容紹介を心がけるためには書籍を宣伝する上記の言葉やAmazonカスタマーレビューに掲げられた感想の紹介が最適です。リンク先のAmazonカスタマーレビューでは星5つが200を超え、星4つ以下を圧倒しています。その中でトップに掲げられた感想をそのまま紹介します。長い文章でしたので一部のみの紹介を考えましたが、やはり全文を紹介することで私自身の「違和感」との対比に繋がるものと思い直していました。

安全保障や歴史、政治に興味の無い人にどうしたら、そういう問題に興味を持ってもらえるのだろう、、どうしたら、今の平和ボケした方々に保守のスイッチを入れられるのだろうと常々考えていますが(笑) これを読んで、その手があったかと思いました。この小説の登場人物たちは、皆カエルです。彼らの暮らす自然環境は危険がいっぱい、カラスなどの他の動物や、ときには別の種類のカエルにさえ食べられてしまう事もあります。常に死の危険と隣り合わせです。

主役のソクラテスとロベルトは冒頭で、侵略を受けた母国を抜け出し、命からがらナパージュという国に辿り着きます。そこは非常に安全な場所で、皆が平和に暮らしている、まさにカエルの楽園でした。しかし、その国の事情を調べていくうちに、ソクラテスはこの国の何かが間違っていると、疑念を抱きます。かたや、ロベルトはこの国の精神は素晴らしいと絶賛し、その精神こそがこの国の平和を実現していると信じます。果たして、ソクラテスとロベルト、どちらの見解が正しいのか。二人は国の行く末を見守りますが・・・。

この小説で描かれるナパージュというカエルの楽園の結末は、ゾッとするものがあります。普段、そういう問題に関心が無い人でも、読んでいてさすがに気付かれると思いますが、ナパージュという国は明らかに今の日本の姿です。カエルの楽園を通して、戦後日本を客観的に見る事ができ、かえって今私たちが暮らしている国の状況を良くご理解頂けるのではないでしょうか。もともと安全保障などに関心を持っておられる方が読んでも、改めて危機感をさらに強くさせる事でしょう。

ナパージュという国の顛末、それは情報弱者である大半の国民達が、情報発信者にとって都合の良い情報のみを与え続けられる事により、正常な政治判断ができなくなってしまった事が原因により起こります。それは、まさに今の日本で起こりつつある事です。この作品はデリケートなテーマを扱っていながらもベストセラーとなり、それを快く思っていない者(おそらく極左の方)によって、作者のサイン会に爆破予告がされるというショッキングな事件が起こりました。しかし、マスメディアにはこの事件はほとんどマトモに取り扱われていませんでした。意図的にではないかと思えるほどに・・・。

百田さんの新刊『カエルの楽園』発売記念サイン会に対し、男性から「爆破予告」の脅迫電話がありました。幸い爆発物は発見されず、サイン会は無事に終了したようですが、このような脅迫行為は絶対容認できません。いわゆる左や右の立場に関わらず、どのような目的や意図があろうとも言語道断な犯罪行為です。ただ事件に対するマスメディアの扱いが小さいことを憂慮されていますが、的確な見方なのかどうかは疑問に思っています。

「情報弱者である大半の国民達が、情報発信者にとって都合の良い情報のみを与え続けられる」という見方も同様ですが、視点や立場が変われば、そっくりそのまま逆転するような話だと考えています。「願望」という調味料集団心理のデメリットをはじめ、「卵が先か、鶏が先か?」 や「精神的自由と経済的自由」という記事を通して私なりの問題意識を綴ってきています。それぞれの問題意識や論点が同じ内容のものではありませんが、次のような言葉に要約できます。

一人ひとり、これまで経験してきたことや吸収してきた知識の積み重ねによって、それぞれ正しいと信じる価値観やモノの見方が培われているはずです。そのような価値観に照らし、マスメディアの報道ぶりの評価が人によって大きく異なっていくようです。他者との意見交換の際も同様です。他者の意見や考え方が自分自身の価値観からかけ離れていた場合、異なる意見に対する反発にとどまらず、他者の人格まで見下すような傾向を垣間見る時があります。

決め付けた言い方は慎まなければならず、そのような見方自体が適切ではなく、ごく少数の人に当てはまる傾向であることも確かです。私自身にも当てはまる可能性を自省しながら書き進めさせていただきます。『カエルの楽園』を読み、その傾向の強さが気になりました。百田さんの価値観に照らし、見下す対象は徹底的に愚かに描き、称賛している対象の登場人物には読者の感情移入を誘う正しさや聡明さを託しています。

ナパージュには「カエルを信じろ、カエルと争うな、争うための力を持つな」という「三戒」があります。ナパージュのカエルたちは「三戒」のおかげで平和が守られていると信じていました。「三戒」は憲法9条を想定していることが一目瞭然でした。百田さんは「三戒」を大切にしているナパージュのカエルたちの愚かさを描き、悲劇的な結末を見せることで現実の場面で憲法9条を守ろうとしている人たちを揶揄していることが分かります。

ネットを検索したところ「『カエルの楽園』の安易さがスゴい!」という論評を目にしました。「平和主義者たちが叫ぶ『9条を守れ』の声をのさばらせておくのはこんなにコワイ結果を招くのか!」という感想が出ることを期待し、百田さんが『カエルの楽園』を書いたのだろうと論じています。若いカエルの集団フラワーズはSEALDsであることが明らかですが、「オタマジャクシからカエルになったばかりの若いカエルたちで、お尻にシッポが残ったままです」と説明し、稚拙な集団であることを強調した描き方には悪意まで感じられたようです。

上記のサイトを紹介しましたが、表現方法や言葉の使い方などは必ずしも私自身が共感や賛意を示しているものではありません。Amazonカスタマーレビューでは絶賛する声が多数を占める中、このような見方もあるということを参考までに示させていただきました。予想したとおり長い記事になりつつあります。『カエルの楽園』の内容に対し、まだまだ指摘したい点も少なくありません。それでも今回の記事タイトルに掲げた私自身の「思うこと」に絞り、もう少し書き進めてみます。

物事の評価は〇か、×か、単純に決められない場合が多いはずです。憲法9条に対する評価も同様です。憲法9条を守っていれば日本の平和は守れる、そのような見方は一面で正しく、別な一面で誤りだと言えます。自衛隊創設前、朝鮮戦争の際に海上保安庁の日本特別掃海隊が機雷除去に携わりました。このような歴史を忘れてはいけませんが、憲法9条という歯止め、集団的自衛権は行使できないという憲法解釈のもと日本は戦争に直接参加せず、他国の人の命を一人も奪うことなく戦後の70年を乗り切ってきたことも事実です。

これまで「セトモノとセトモノ、そして、D案」をはじめ、数多くの記事を通して平和の築き方安全保障のあり方について自分なりの「答え」を綴ってきました。私自身、憲法9条さえ守れば平和が維持できるとは思っていません。重視すべきは専守防衛を厳格化した日本国憲法の平和主義であり、その平和主義の効用こそ大切にすべきものと考えています。 憲法9条を守ろうとしている人たちの中でも考え方は様々なのかも知れませんが、『カエルの楽園』に登場するナパージュのカエルたちのような盲目的な信者は皆無に近いのではないでしょうか。

寓話に目くじらを立てても仕方ありませんが、集団的自衛権に反対する人たちは愚かで、国を滅ぼすという見方はあまりも短絡的すぎるものと思っています。さらに『カエルの楽園』に綴られている内容が多くの人に支持されている悩ましさも軽視できません。いずれにしても基本的な立場や視点が異なっていても、正確な事実認識の突き合わせを重視しながら思い込みや偏見を排した議論が欠かせないものと考えています。そのような意味合いで『カエルの楽園』に綴られている内容の多くは私自身にとって「違和感」が付きまとっていました。

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2016年4月10日 (日)

障害者差別解消法が施行

週に1回、このブログを更新しています。前回の記事「ヒューマンエラーの防ぎ方」は機会を見て取り上げようと考えていた題材です。今回の題材も2月に「障害者差別解消法の施行に向けて」という庁内研修を受けた後、やはり機会を見て当ブログで取り上げようと考えていました。このブログで時事の話題や様々な情報を取り上げる際、不正確な内容は投稿できないため、資料やネット上の関連サイトを確認するように努め、漠然と理解したつもりだったものを改めて自分の頭の中で整理しています。

そのため、ブログに書き込む作業は、ある意味で貴重な自己啓発の機会に繋がっているものと考えています。これまで「社会保障・税番号制度」「子ども・子育て新制度」「生活困窮者自立支援法が施行」 などの記事を投稿してきました。生活困窮者自立支援法の記事を投稿した後、生活保護の面接担当の係長から「ブログを見ましたが、しっかり勉強されてますね」という一言をいただきました。一夜漬けの勉強ですが、的外れな記述ではないことを確かめられ、心強く励みとなる一言でした。

さて、今月1日に障害者差別解消法(正式名称・障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律)が施行されました。前述したとおり自分自身の頭の中を改めて整理するため、一度、障害者差別解消法について当ブログで取り上げてみようと考えていました。加えて、この法律の施行をメディアがあまり注目していないように感じていたため、マイナーなサイトとは言え、一般的には馴染みの薄い障害者差別解消法を少しでも広められればと願いながら今回の記事に至っています。

福祉医療機構が運営する福祉・保健・医療の総合情報サイトの記事『「障害者差別解消法」制定までの経緯と概要について』に分かりやすくまとめられていますが、庁内研修資料なども参考にしながら当ブログでも経緯や概要を書き進めてみます。2006年12月に国連総会本会議で障害者の権利に関する条約が採択(発効は2008年5月)され、日本政府は2007年9月に署名していました。この条約は、障害者への差別禁止や障害者の尊厳と権利を保障することを義務付けた国際人権法に基づく人権条約です。

日本政府は同条約の締結に必要な国内法の整備を進め、2011年に障害者基本法を改正しました。2013年6月19日には障害者差別解消法が成立し、6月26日に公布されました。これらの法整備を経て、2013年12月の参院本会議において障害者の権利に関する条約の批准を承認していました。以上のような経緯のもと障害者差別解消法が2016年4月1日に施行されています。ちなみに障害者差別解消法は障害者基本法第4条(差別の禁止)の実行法に位置付けられます。

障害者の権利に関する条約から障害者差別解消法制定までの流れの中に障害のとらえ方の変化があります。医学モデル(個人モデル)から社会モデルを重視する流れです。医学モデルは身体的・知的・精神的な機能障害を「障害」と定義し、社会的不利を個人の問題とする考え方です。治療や訓練によって一般社会に適応できるよう個人の責任と努力で「普通」になることをめざします。

一方、社会モデルは社会との間の障害物によって、その能力を発揮する機会を奪われた状態を「障害」と定義し、社会的不利の原因を社会の問題とする考え方です。つまり障害は個人の問題ではなく、社会との関係性の中にある問題としてバリアフリーがいっそう重視されています。障害者の権利に関する条約や障害者差別解消法では「合理的配慮」という言葉が示されるようになっています。

障害のある方と社会との間の障害を取り除けば日常生活に支障がなくなります。例えば車椅子を利用する方が電車に乗る時、駅にエレベーターがあり、電車に入る時は駅員に板を渡してもらえば介助者がいなくても一人で移動できます。市役所の窓口では障害のある方の障害の特性に応じたコミュニケーション手段(筆談、読み上げなど)で対応することで必要な手続きは達成でき、日常生活に支障が発生しません。

社会モデルの考え方では、障害のある方と社会との間にある邪魔なもの、社会的な障壁を「障害」としています。社会的障壁とは障害のある方にとって、日常生活や社会生活を送る上で障壁となる次のようなものを指します。①社会における事物(通行、利用しにくい施設、設備など)、②制度(利用しにくい制度、障害があることで免許が取れない制度など)、③慣行(障害のある方の存在を意識していない慣習や文化、手話通訳欠如の状態化など)、④観念(障害のある方への偏見、心ない言葉や視線など)などがあげられます。

具体例として、街中の段差、3センチ程度の段差で車椅子は進めなくなります。書類、難しい漢字ばかりでは理解しづらい人もいます。ホームページ、すべて画像だと読み上げソフトが機能しません。障害者差別解消法では障害者に対し、不当な差別的取扱いと共に合理的配慮の不提供も差別になります。障害者に対する不当な差別的取扱いの禁止は、国や地方公共団体と民間事業者も共に法的義務を負っています。

障害者に対する合理的配慮の不提供の禁止に関しては、国や地方公共団体が法的義務を負っている一方、民間事業者は努力義務となっています。このような法改正の流れを受け、「障害者差別解消法の施行に向けて」という庁内研修があり、私どもの市では障害者差別解消の推進に関する職員対応要領を策定しています。この対応要領は職員の服務規律として順守しなければならないものとなっています。

対象となる障害者は「障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」とし、障害者手帳等の所持者に限らず、見た目で分からないこともあるようです。不当な差別的取扱いの具体例は、障害のあることを理由にサービスの提供や入店を拒む、来庁の際に付添者の同行を求める(もしくは同行を拒む)、補助犬の同伴を拒否することなどがあげられます。なお、障害者を障害者でない方と比べて優遇する取扱い(積極的改善措置)は不当な差別に当たりません。

障害者差別解消法の規定で、行政機関等及び事業者が事務又は事業を行なうに当たり、障害者から社会的障壁の除去の意思表明(求め)があった場合、その実施に伴う負担が過重でない時は障害者の権利利益を侵害することにならないよう障害の特性や具体的場面に応じて社会的障壁を除去しなければなりません。意思の表明は家族や介助者等からでも受け付け、求めがあった場合、合理的配慮の提供が義務付けられます。意思の表明がない場合でも、社会的障壁の除去が明らかに必要な時も同様です。

過重な負担に関する判断の視点としては、①事務又は事業への影響の程度(事業等の目的・内容などの本質を損なわないか)、②実現可能性の程度(物理的・技術的、人的・体制上の制約はないか)、③費用負担の程度(必要な費用は事業の実施に影響を及ぼさないか)などがあげられます。過重と判断した時は、障害者にその理由を説明し、納得を得るように丁寧な対応が求められています。

担当主査による庁内研修では障害の特性ごとの合理的配慮の具体例の説明がありました。この場では個々の説明は省かせていただきますが、まとめとしての講師の言葉を紹介します。障害のある人もない人も共に気持ち良く手続きやサービスを利用していただけるように職務を遂行することは基本です。障害のある人は健常な人に比べて不足しているところがあります。それを補うことで、障害のある人もない人も共に気持ち良く手続きやサービスを利用していただけるようになります。障害のある人の不足しているところを補うこと、これが合理的配慮の提供となります。

講師の言葉は「市の職員として、障害者に対して差別することは、基本的にはないと、申し上げることができます。しかし、知らず知らずのうちに障害者に対して差別をしてしまう可能性があります」と続き、合理的配慮の不提供に対する注意を喚起されていました。さらに「障害は千差万別で、一人ひとり異なります。知らず知らずのうちに障害のある人のプライドを傷付けてしまうことがあるかも知れません」とし、無意識な差別発言に繋げないためには障害や障害のある方々への理解を深める必要性を訴えられていました。

庁内研修の最後には庁舎内に限らず、街中でも障害のある方の困っている様子が伺えたら「何かお困りですか?」という一言をかけることで、障害・障害者理解の啓発や職員自らの障害者差別解消法の実践的な研修に繋がることを説かれていました。障害者差別解消法の説明を中心にした内容に付け加え、最後に最近、目に留まった新聞記事を紹介させていただきます。朝日新聞に『つながる空の下』という東京パラリンピックに向けた記事が連載されています。

その一つとして火曜の朝、『自虐ネタ 障害も「笑い」』という見出しの内容が掲げられていました。ネット上で閲覧できる内容は冒頭の部分だけですが、その続きも登録(無料も可)すれば見れるようになっています。ぜひ、興味を持たれた方はご参照ください。『バリアーはどっちの側に』という副題が添えられ、不倫騒動で渦中の人になった乙武洋匡さんの「障害だけはひとくくりにタブーという現状に違和感があった」という言葉などが掲げられています。

《デブやハゲは笑ってOKで、障害がNGなのはなぜか》 テレビ朝日で昨年末にあった漫才大会「M―1グランプリ」の放送終了後、こんなツイートが流れた。優勝した2人組のトレンディエンジェルはそろって薄毛。その容姿を武器に勝ち上がったのを受けた投稿だ。リツイート(転載)は2千を超えた。お笑い芸人のあそどっぐ(37)=本名・阿曽太一、熊本県合志市=は一人暮らしのアパートでパソコンの画面を見つめた。「僕がもっと面白かったら、このツイートもなかったのかなぁ」

全身の筋力が低下する難病で、顔と左手の親指以外は動かせない。自称「お笑い芸人界初の寝たきり障害者」。ヘルパーの手を借りて横になったまま、毎日、動画投稿サイト「ニコニコ動画」でトークを生放送し、月に1回程度、お笑いライブに出る。つかまり立ちした赤ん坊と自分を比べる自虐ネタなど、障害も笑いの素材だ。舞台に立ち始めて2年。ファンもついたが、登場した途端、客席が凍り付く経験はしばしばだ。「でも、1人笑うと、それが合図のように笑い声が増える。そんな日は快感。逆に、すべったのに『感動した』って言われた時が一番へこむ」

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2016年4月 3日 (日)

ヒューマンエラーの防ぎ方

今年も新入職員の皆さんが入所された4月1日の昼休み、研修会場に組合として挨拶に伺いました。入所当日の夜、組合の説明を兼ねた歓迎会を催している自治体職員組合が多いことも聞いていましたが、さすがに当日の開催はどうだろうかとためらいがありました。ただ今回、1週間の研修期間中、4月1日が唯一の金曜日だったため、私どもの組合も入所日当日、新人歓迎オリエンテーションを催すことにしました。急な誘いに新人の皆さんがどれだけ出席してもらえるのか心配しましたが、研修参加者全員に会場まで足を運んでいただきました。

昼と夜、組合を代表した私からの挨拶は配布した資料の中に歓迎の言葉を添えていたため、簡潔に短めな内容に努めました。会の出席者全員が自己紹介する時間もあり、その際はブログ「公務員のためいき」のことにも触れ、新規記事のタイトルは「ヒューマンエラーの防ぎ方」と予告していました。新人の皆さんが訪れてくださることも少し意識し、久しぶりにブログの題材をガラッと変え、仕事の進め方について考えてみます。

最近、元ANA(全日本空輸株式会社)の整備士だった田口昭彦さんの『ANAが大切にしている習慣』という新書を読み終えました。「TEAM ANA」について実例を多く紹介しながら、全員が共有できる具体的な目標を立てることの大切さ、望ましいリーダーのあり方など幅広い内容が綴られています。今回、この新書の中の「ヒューマンエラーを防ぐ」や他のサイトの記事などを参考にしながら、主にダブルチェックの問題を掘り下げてみるつもりです。

「ヒューマンエラーは人間が行動すれば必ず起こるもの」という見方を田口さんは示されています。ヒューマンエラーの多くはヒヤリハットです。事故は起こらなかったけれど「ヒヤリとした」「ハッとした」という経験で済むことがほとんどで、大事に至らなかっため記憶には残りません。怪我や事故が1件あれば、その裏には300件の「ヒヤリ」があると言われています。ハインリッヒの法則と呼ばれるものですが、ヒヤリハットが起きたら、なぜ起きたのか、なぜ重大な事故にならずに済んだのかを検証することが欠かせません。

このヒヤリハットを振り返ることで、自分自身の行動を変える切っかけになり、事故を防ぐことができると田口さんは述べられています。 人は“人”であるが故にヒューマンエラーを起こします。しかし、事故や不具合を防ぐのも“人”です。当たり前のことをしっかり行なう習慣があれば、連鎖したヒューマンエラーのチェーンをどこかで切ることができ、事故は防止できる、このように田口さんは説かれています。

犯しやすい間違いや勘違い、ミス、エラーにはいくつかの要因に分けられます。航空業界にはSHELモデルという事故や事象の要因分析の手法があるそうです。 ソフトウェア(Software)、ハードウェア(Hardware) 、環境(Environment)、個人的要素 (Liveware)、 それぞれの頭文字をとっています。新書には時刻表を見て駅に行ったけれど、乗ろうと考えた列車は出発した後だったという事象が例示されています。

時刻表の文字が小さくて見間違えたとすればハードウェア、その時刻表が改正前のものであればソウトウェア、周囲の照明が暗くて見間違えたとすれば環境の問題だと分析できます。このような事象を防ぐため、文字の大きさが問題であればルーペを使うか、大きな文字の時刻表を使えば良いことになります。ダイヤ改正の問題であれば最新版の時刻表から確認すれば良く、周囲が暗かったら明るい所で読めば良いということになります。

エラーを引き起こす要因は多種多様に絡み合っていきますが、何が要因となってエラーが発生したのかを分析し、次に生かすようにしていけばヒューマンエラーによる事故や不具合は少なくなることを田口さんの新書には記されています。作業者の確認不足や失念、ルールを守らなかったことによってトラブルが発生します。田口さんはルールの意味を認識させることを重視しています。

なぜ、そのルールがあるのか、そのルールを守らなかった場合、どのような影響や危険なことが起こり得るのか、チーム全員が納得し、守らなかった時のリスクを想像できれば人はルールを守るようになります。特定の組織が決めたルールには時代の流れや社会の変化によって、現実にそぐわなくなっているものがあります。そのため、一部の現場だけに通用する「裏ルール」が作られるケースもあります。

しかし、「裏ルール」や「裏マニュアル」は楽をしたいために自分たちで勝手なルールをどんどん作っていきがちになり、事故や不具合を起こす要因になることが指摘されています。現状にそぐわなくなっているルールやマニュアルは、実際に使う人の意見を反映させ、ブラッシュアップさせていくことの必要性を田口さんは訴えています。さらにマニュアルは分からない時や忘れた時に引っ張り出して見るものではなく、「繰り返し行なううちに、そうするのが当たり前」というように習慣化するまで徹底させることが大切だと記しています。

もちろん習慣化される前に「分かっているつもり」という思い込みや勘違いが厳禁であることは言うまでもありません。その新書には事故に繋がりやすいハリーアップ症候群を防ぐため、「あと何分かかるんだ」「早くしろ」という言葉をリーダーは慎み、「焦って5分や10分縮めても仕方ないから落ち着いてやれ」 と言うほうが望ましいことや、時間に余裕を持たせたタイムマネジメントの習慣を身につける必要性など、ヒューマンエラー対策に関する興味深い内容が報告されています。

前述したとおり今回の記事は田口さんの新書の内容にとどめず、ネット上で見つけたサイトの記事も紹介しながら話を進めていきます。続いて「実務担当者のためのヒューマンエラーを防ぐポイントと対策事例」を紹介します。このサイトをご覧になれば、視覚的に分かりやすく整理されているため、当ブログの長々とした記事内容を読む必要がないのかも知れません。とは言え、リンク先まで参照されない方が多いものと思われますので、「ヒューマンエラーを防ぐためのポイント」の箇所だけはそのまま掲げさせていただきます。

  • ヒューマンエラーを防ぐ心構えとして、まず重要なのは「自分の仕事は完璧ではない」と認識することです。自分が作ったものに対して、間違いがあるという前提に立って、必ず確認を行ないましょう。
  • 次に、手作業はなるべく軽減するようにしましょう。人間による手作業が介在するとミスが起こる可能性が高くなります。例えば集計作業を行なうのであれば電卓で1つ1つ計算するよりも、Excelを使ったほうが間違いも少ないですし、業務効率の改善にも繋がります。
  • 最後に、ダブルチェックを行なうことです。作業を行なった人だけでなく、第三者に確認してもらうことが大切です。自分で作業をしていると思い込みや考え違い、見落としが発生します。冷静な第三者の目が入ることにより、自分では気付かなかったミスを発見することが出来るのです。

実は昨年の11月に今回のような記事内容をブログで取り上げてみようと考えていました。プリントアウトしていた参考資料に印刷日「2015/11/09」が入っていたため、それから半年近く経っていることに気付いていました。私が所属している収納課では住民あての催告書や通知書等の誤送を防ぐため、第三者の目によるダブルチェックの徹底化がはかられています。個人情報の取り扱いは万全を期し、取り違えた書類を送ることなどあってはなりません。

そのような事態を未然に防ぐため、担当が取り扱った封筒を閉める前に別な職員に中を確認してもらう、このようなダブルチェックが日常化されています。上記「ヒューマンエラーを防ぐためのポイント」の3点目にあるとおりダブルチェックの有用性は疑っていません。ただ正直なところ煩瑣な職務に新たな負荷をかける方法に少し違和感があったため、印刷日の11月9日にネット上でダブルチェックの問題について調べてみました。その時、印刷したサイトの資料は2件あり、「ダブルチェック再考」と「仕組みに逃げるな」でした。

すると私自身の違和感を表わした言葉として、1件目の「本当に忙しいときはダブルチェックができなくなります。忙しいほどエラーが起きやすいと思うのですが、とくに慣れた業務ですと意図しなくとも、形式的なチェックになります。目で見てはいるのだけれども見ていない」であり、2件目の「仕組みをつくることは、ただただ仕事を増やし、残業を増やし、生産性を低くしていくのです」が目に留まっていました。

このような言葉を並べると単に「面倒くさい」「忙しくなるから嫌だ」というように受けとめられてしまう場合もあり、たいへん悩ましい話となります。誤解されないように強調しなければなりませんが、個人情報の取り扱いをはじめ、市役所の仕事においてヒューマンエラーを防ぐために労力を惜しむつもりは毛頭ありません。違和感や問題意識として、封入した通知書等のダブルチェックを他の職員に依頼することの適否に考えを巡らしています。

ここで田口さんの新書に戻ります。エラーコントロールには相互チェックも大事ですが、人間には相互依存したがる性質があり、甘えの気持ちが出てチェック漏れの出る可能性を田口さんは触れています。これを回避するため、「TEAM ANA」では下記のようなセルフインスペクションという制度を取り入れているそうです。作業の担当者本人が自覚と責任をもって作業を最後まで終わらせる仕組みです。作業の節目において、次の行動に移る前に直前の作業に間違いないか確認する方法で、ストップルックと呼ばれています。

ヒューマンエラーが絶対にあってはならないような作業に対して、一般的には「ダブルチェック」や「トリプルチェック」が行われる。一人ではなく、二人、三人と多重でチェックをすることで、見落としを防ごうとするものである。これに対して、ANAグループの整備部門では、作業をした整備担当者本人が確認作業も行う「セルフインスペクション」という原則をとっている。

理由はシンプルで、本人で行うほうが「自分の仕事」という自覚が高まり、結果としてチェックの精度も高まると判断したからである。「セルフインスペクション」には、「人を信じて任せる」というANAの思想が込められている。そのうえで、個人には「自ら責任をもってやり遂げなければならない」という責任感も求められる。チームで力を合わせるためには、個人個人の能力の向上と、それを基本としたお互いの信頼関係が重要だ。

通知書等を送付する際のダブルチェックの話が出た時、セルフインスペクションのことは知りませんでしたが、私自身は「セルフダブルチェック」の徹底化のほうが望ましいのではないかという意見を示していました。ただ一人ひとりに確かめていませんが、他の職員は提案されたダブルチェックの方法に違和感がなく、逆に安心感に繋がるような受けとめ方でした。そのため、あまり個人的な意見には固執せず、提案された方法に従ってきています。

年間を通して全体的に多忙な職場になっているため、忙しくしている職員にダブルチェックをお願いすることをためらう時も少なくありません。それでも今ではダブルチェックも定着し、日常の風景に溶け込んでいるようです。ちなみにダブルチェックの結果、「取り違えています」というヒヤリとした指摘を受けたことも、指摘したこともなく、半年近くが過ぎようとしています。

いずれにしてもルーチンワークにおけるヒューマンエラーを防ぐための第一義的な責任と役割は担当者本人にあり、相互依存からのエラーは避けなければなりません。その上で第三者によるダブルチェックは、自覚を促す啓発やチームとしてのコミュニケーションをとる一つのツールに繋がっている側面があることも見直し始めています。

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