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2016年3月 6日 (日)

精神的自由と経済的自由

用語の解説や紹介した人物のプロフィールなど、このブログの記事本文中には他のサイトにすぐ飛べるリンクを数多くはっています。最も多いケースは以前投稿した記事へのリンクです。新規記事に綴っている内容の補足として、できれば以前の記事もご覧になっていただければと考えているからでした。それぞれ文字の色はピンクで、下線が引かれ、クリックするとリンク先に飛びます。ちなみに戻った時、その文字の色はブルーに変わっています。

リンクをはる習わしはブログを始めた頃からの自分自身のこだわりでした。文章が長く、文字ばかりのサイトですので、カラーの文字を加えることで少しだけ画面上にアクセントが付くような配慮も意識しています。唐突にどうでも良いような話から入ってしまいましたが、記事本文中のリンクをクリックされる方はそれほど多くないものと思っています。前回記事「セトモノとセトモノ、そして、D案」の中に「精神的自由が経済的自由よりも憲法上優越的地位を持つ」と記し、優越的地位に他のサイトに飛べるリンクをはっていました。

そのリンク先のサイトを閲覧すると精神的自由と経済的自由について、ある程度理解できるようになっています。はるか昔、清水睦先生から憲法の講義を1年間受けていましたが、私自身は正直なところ精神的自由と経済的自由のことをよく知りませんでした。部屋の書棚に当時の書籍が眠っていましたので、本当に久しぶりにホコリをはらいながらパラパラめくってみました。探し方が不充分なのかも知れませんが、索引をはじめ、その二つの言葉は清水先生の著書『憲法』には見当たりませんでした。

自分の浅薄さや不勉強ぶりを棚に上げる形になりますが、精神的自由と経済的自由という言葉はあまり馴染み深いものではないように受けとめています。そのような訳で新規記事のタイトルを「精神的自由と経済的自由」としましたが、受け売りの言葉で説明するよりも手っ取り早く前回の記事本文中にリンクをはったサイトの内容の一部をそのまま紹介させていただきます。

憲法において表現の自由や信仰の自由などの「精神的自由」が、財産権や営業・契約の自由のような「経済的自由」に対して優越的地位にあると解される理由は、精神的自由が維持されていれば、仮に統治権力によって経済的自由が侵害されたとしても、われわれはその事実を知ることができ、またそれを批判したり、それを投票行動によって改めさせたりすることが可能だが、精神的自由が侵害されれば、われわれは統治権力に対してそれを改めさせる機会を失うばかりか、そもそも自分たちの権利が侵害さていることを知ることさえできなくなる恐れがあるからだ。

そうした理由から、裁判所は合憲性を判断する際、統治権力による精神的自由に対する制約を、経済的自由に対する制約よりもより厳しい基準で判断する。これが二重の基準論と呼ばれ、表現の自由などの精神的な自由が経済的自由より憲法上優越的地位を持つと言われる所以だ。もしも安倍首相をはじめ、政権の主要閣僚にこの「精神的自由の優越」や「二重の基準」に対する基本的な理解が欠けていれば、つまり政府による精神的自由に対する制約と経済的自由に対する制約には差異がなく、その両者を同等のものと考えているのであれば、昨今の首相や高市早苗総務相の誤った放送法の解釈の理由は容易に理解できる。

つまり現政権が、言論機関である放送局に対する権力の行使を、例えば営利主義に走った結果、不正な建築を行った建築業者や、偽装表示をしたり食中毒を出した食品メーカーに対する行政処分と同等のものと捉えているのであれば、その政権にとっては放送局にだけ介入しない理由がないことになる。しかし、停波を含めた放送局の表現の自由を制限するような行政処分に対しては、この表現の自由の優越的地位に基づいて厳しい違憲審査基準が適用されることを知っていれば、それが憲法違反と判断される可能性が非常に高いことは容易に理解できるはずだ。

安倍政権がその高いハードルを承知の上で、放送局への介入を繰り返しているのか、あるいは介入する際に、停波などの行政処分までは行わず、行政指導にとどめておけば、違憲審査の対象とはなりにくいことを知った上での確信犯的なものなのかは、定かではない。しかし、政権のトップに立つ安倍首相自身が、表現の自由という価値に対する理解を根本的に欠いていることが露わになった以上、われれれは今後、安倍政権による表現の自由への介入にこれまで以上に警戒心を持つ必要があるだろう。

リンク先のサイトはVIDEO NEWSで「安倍政権が放送局への介入を躊躇しない理由が判明した」というタイトルが付けられています。精神的自由と経済的自由の関係や、そうした自由を保障しつつも、いかにして放送局の公共性を維持していくべきかなどをジャーナリストの神保哲生さんと社会学者の宮台真司さんが議論していました。参考までに「二重の基準論」が説明されている弁護士ドットコムや「憲法をわかりやすく」というサイトのリンクもはっておきます。

前回の記事でも触れたとおり最近、メディアの中立性が取り沙汰されています。現政権を支持するメディアは中立で、反論を加えるメディアは中立ではない、そのような極端な動きが論外であることは言うまでもありません。今回、紹介したサイトの内容のとおり現政権は表現の自由に対し、意図的なのか、自覚が不足しているのか、 メディアが自己規制してしまうような振る舞いも目立っています。

そもそも安倍首相は「(出演した報道番組の中で)私の考えをそこで述べるのは、まさに言論の自由だ」と言い切っています。この件で国会質問を受けた際、安倍首相は「番組の人たちは、それぐらいで萎縮してしまう。そんな人たちなんですか? 情けないですね」という反論を加えています。表現の自由や言論の自由は国民に与えられている権利であり、権力者である安倍首相はそれらの権利を保障させていかなければならない立場です。

安倍首相も国民の一人ですから「私にも言論の自由がある」という主張も分からない訳ではありませんが、自分自身が権力者であるという理解不足を露呈させているように見受けられてしまいます。立憲主義を知らなかった首相補佐官がいましたが、「憲法は権力者が守るべき最高法規」であることは一般的に知れ渡っているように思っています。以前の記事「改憲の動きに一言二言」の中では早稲田大学の水島朝穂教授から立憲主義の考え方や自民党改憲草案の問題点などを伺った話を書きしるしていました。

水島教授の講演で改めて認識を深めた話として、あくまでも憲法は政治権力の専制化や恣意的な支配を制限するもので、国民が守る決まりではなく、権力者が守る決まりであるという点です。そのような根本的な理念が的確に押さえられず、憲法改正の議論が前のめりになるようであれば、立憲主義を軽視した動きとなることを水島教授は危惧されていました。さらに自民党の改憲草案は「権力にやさしい憲法」に繋がる箇所が随所に目立っている点も指摘されていました。

占領下に押し付けられた憲法だと反発し、「憲法改正」を党是としているため、現憲法を軽視しがちな政治家が特に自民党に多いようです。憲法第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」をどのように考えているのか疑問に思うような発言を耳にする時が少なくありません。最近の国会質疑の中では「改憲、在任中に」をはじめ、憲法に絡む安倍首相の大胆な発言が目立っています。

精神的自由の実効性を確保するためには、このような一連の発言を報道機関はもっと大きく取り上げ、論点を明確化すべき責務があるように感じています。実は今回の記事、安倍首相の改憲発言を主題にした内容の投稿を考えていました。いつものことですが、前置き的な入り方のつもりだった「精神的自由と経済的自由」の話が予想以上に広がり、ここまでで相当な長さの記事となっています。そのため、たいへん重要なテーマですが、安倍首相の改憲発言に関する内容は次回以降の記事に送らせていただきます。

最後に、安倍首相も精神的自由と経済的自由という言葉について、よく理解されていなかったようです。立憲主義を知らなかった事例に比べれば、あまり問題視できないように思っています。しかし、「いずれにせよ、そうしたことを今、この予算委員会で、私にクイズのように聞くこと自体が、意味がないじゃないですか」とイライラした切り返しは最高権力者の資質として適切なのかどうか疑問を残し、最近の記事「予算委員会の現状」の最後に記したとおり意味があるのかどうかも国民が評価していくことになるはずです。

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コメント

>表現の自由や言論の自由は国民に与えられている権利であり、権力者である安倍首相はそれらの権利を保障させていかなければならない立場です。

言論・表現の自由は勝ち取るものであると思います
権力者から与えられ、保証されるという認識では結局権力者の都合の良い自由しか保証されません

その意味では「それぐらいで萎縮してしまう。そんな人たちなんですか? 情けないですね」はまさにその通りだと思います
ロシアや中国のように、反権力的な記事が出ても投獄される訳でも、暗殺される訳でもないのに、勝手に政権の意向を汲み取って批判しないという自己規制をしているようでは、どの道政権の監視など期待できません

現在マスコミが仮にそのような雰囲気があるのだとしたら、それは政権側よりマスコミの体質が問題です
ジャーナリズムが根付いていないとしか言いようがありません
政権批判より、そんな情けない自分の会社の体質を問題にすべきでしょう

もっとも、単に安倍政権叩きをしても視聴率や部数が稼げないという理由だと思いますが
安倍政権の支持率が低下したら、いっせいに安倍政権叩きとなるでしょう

投稿: bare | 2016年3月 6日 (日) 17時05分

件の国会質疑は、総務大臣の放送法&電波法を巡る答弁に端を発した「表現の自由(精神的自由の全部でなく)と経済的自由の問題」でしたし、「二重の基準論」も「精神的自由の絶対的優越を認めているものではない」と解していたのですが?
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報道の萎縮の問題は、報道側の体質の問題も多分にあるとワタクシも思います。報道側も都合良すぎ。ぬるいわ~。って印象ですね。
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「尊重し擁護する義務が課せられている、擁護すべき憲法には「改正規定もある」じゃないですか。憲法に規定された改正手続に則って改憲しようとするのは、尊重・擁護の範囲内でないでしょうか。
あと、総理って憲法の規定上絶対に国会議員じゃないですか、現状は「自主憲法制定を結党以来の党是とする政党のトップ」ですよ。「改憲を党是にする政党のトップが改憲を口にするのは、当然」だと思うんですよ。
※改憲の是非・改正案への賛否は別です。
内閣総理大臣としてどうか?というのは、確かに思わなくもないのですが、だったら「質問する側も、例えば党首討論とか、総理が政党のトップとしての立場で発言できる場で話題にしたらどうよ?」とも思ったり。
憲法に規定する改正手続をねじ曲げて成文を改正しようとするなら、第99条違反でしょうが、そうではないのですから。
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なお、ワタクシは、今の自民党改憲草案は、全否定な立場です。第9条の改正は必須だと考えてはいますけど。
もちろん、首相補佐官の「立憲主義云々」の件は、危うさを感じます。帝国憲法でも「立憲主義」は意識されてましたし、伊藤博文氏が著作者である「憲法義解」にも登場する概念ですからね。
あと、某国務大臣の「立憲主義という憲法観をとらない」という憲法観についても、ついて行けそうもないです。

投稿: あっしまった! | 2016年3月 6日 (日) 20時20分

総務大臣の放送法&電波法を巡る答弁に端を発した「表現の自由(精神的自由の全部でなく)と経済的自由の問題」についての質疑応答という経緯である以上、総務委員会で、野党側が放送法の改正案を提出した上で、論じれば良いのにとは思います。
なので、総理の答弁もどうかと思いますけど、「”予算委員会と言う場で”で、クイズのように質問することではない」という点については、総理に同意できます。予算を審議してくれっていう。※ただし、自由権に関する質問が全く意味がないとは思いません。時と場合、経緯に因りけりでしょう。
それと「二重の基準論」も、絶対的優越を認めてるわけでなく、自由権それ自体 -みながひとしく保証されている- という性質上、臨機に相対的なものにならざるを得ない(どちらかが絶対的に優越するものではあり得ない)のであって、「どちらが(常に・絶対的に)優先するか?」という問いかけ自体が、「経緯からするとそもそも”予算委員会でする意味がない”質問」としか思えないんですよね。

投稿: あっしまった! | 2016年3月 6日 (日) 20時31分

bareさん、あっしまった!さん、コメントありがとうございました。

安倍首相の改憲発言について、今回の記事本文を改めて読み返してみると誤解を招きがちな点を省みています。改憲に向けた発言自体を憲法の尊重擁護義務違反だと考えている訳ではありません。その点だけ取り急ぎ補足させていただき、次回以降の記事本文で改憲発言に対する論点を提起できればと考えています。いずれにしても分かりづらい記述が多く、たいへん失礼致しました。

bareさん、名前欄の記載についてご理解いただき感謝しています。ぜひ、これからもお時間等が許される際、投稿いただければ幸いですのでよろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2016年3月 6日 (日) 21時00分

失礼しましたm(__)m
最近、「総理や国務大臣が改憲を口にすること、それ自体」に批判があるという雰囲気を感じていますので、敢えて「発議権は国会にあるとはいえ、総理も国会議員であり、政党のトップだけどなぁ」という意見を投稿しました。
なお、国務大臣に関しては、国会議員から任命されていない国務大臣が発言するのは、第99条との関係で微妙だと考えています。「発議権は国会にあるとはいえ、国会議員から任命された以上は、その国務大臣も国会議員である」と考えてはいます。また、私人としてであれば憲法第21条が及ぶでしょうが、職務上・特別職の公務員の地位を利用してとなれば。

エントリ本論に関しては、「放送法第4条違反を理由に、電波法第76条を適用することは反対」です。
かつて行政手続法が制定される前に、「各省の設置法の所掌事務規定・任務規定を直接の根拠としての行政指導(と言う形態を借りた事実上の不利益処分、届出・申請がなかったことにしてしまう。)」という手法がありましたけど、それに近いものを感じますので。

ただ、報道という権力が今のままで良いとは思っておらず、報道という権力を掣肘する権力(のような何か)が是非必要と考えていますので、放送法第4条を倫理規定と明示した上、電波法第76条の適用がありうる範囲とその適用手続(行政救済手続も含めて)の枠組みを明示した放送法の改正が必要と考えています。
報道という権力が、憲法第21条で保護されていることを良いことに、余りに他者の権利をないがしろにする振る舞いが多く、被害も発生している状況に無自覚すぎて自律も感じられない状況を放置するのは望ましくないと考えているので。

で、この問題で最も深刻なのは、「報道という権力を掣肘する権力が必要であり、それは現状では政府が行うしかない。行政はもっと積極的に報道という権力を掣肘すべし」という考え方を肯定する世論(と言う空気)が結構な力(多数)を持っている。
そういう状況があるということも危ういが、そういう状況があるということそのもの以上に、そのことに「当の報道機関自身が余りにも無自覚・無関心・自律性への無自覚・無関心な態度。そもそも、そういう他者への権利侵害への配慮とか自律という概念自体が欠如してるらしき現状がある」ことにあると考えています。

投稿: あっしまった! | 2016年3月 6日 (日) 21時40分

現在の安全保障において、攻め込まれることが発生した時点で全て終わりと考えることができます。

>「よく他国から攻めこまれたらどうするのか、と言われるが、個別的自衛権で日本は守れる」

攻撃された際の防衛を考えれば、たしかに個別的自衛権でも対応可能かもしれない。しかし戦争を未然に防ぐ抑止力で考えれば、交渉の窓口と並行して、集団的自衛権を有するほうが攻め込まれることは減るであろう。反対される方は、日本が遠地で米国と付随して戦争に巻き込まれることを反対してるのですね? ならば、日本が遠地で戦争に巻き込まれることがなければ、集団的自衛権に反対する余地はないと考えてよろしいのでしょうか。

旗色を明確にすることで日本の中立を無くすとの意見もありますが、世界から見て日本が西側諸国であることは明確だと思うのですがね。

投稿: nagi | 2016年3月 7日 (月) 10時46分

報道機関に対する政府の圧力や介入はするべきではないと思うのですが、すでに巨大な権力と呼べる報道機関に対して誰も手をだすことができない。「表現の自由」「報道の自由」の名のもと、どれほど報道被害が出ても、彼らは反省しない。報道機関どおしのなれあいも酷く。また国民に対して情報の取捨選択を報道機関が支配する現状は、果たして「報道の自由」と胸を張って言える状況なのだろうか。

何日か前に、キャスターが都内で会見をして、電波停止発言に対する怒りを表明した。しかし彼らは権力に対して説明責任を求めるが、報道という巨大権力に属する彼らは説明責任を果たしたことは一度もない。他者を批判すれど自らに対する批判は無視する。

こんなことだから偏向報道と言われ、世論が政府の報道機関に対する圧力を良しとする空気が醸成されていく。結局は報道機関の行動が現在の状況を生み出したのだろうと私は考えます。

投稿: nagi | 2016年3月 7日 (月) 12時23分

個別的自衛権 only とか、専守防衛 only ということは、「自衛権の行使=日常の生活圏が自ずと戦場になる」ということでもあるんですよ。

「集団的自衛権で巻き込まれるのは嫌だけど、個別的自衛権で居住圏が戦場になるのは構わない」というのも一つの見識なのでしょうが、ワタクシとしては、どちらも同じ程度に可能な限り避けたい状況です。

そうすると、少くとも「対話の必要性(いきなり実力行使をするのはハードルが高い)」という認識を相手に抱かせるだけの、構え(剣を飾ること)も必要なんですよ、多分。

前にも触れましたけど、正面から「戦勝国(常任理事国) と 国連憲章上の敵国」という構図を使って、国際社会で堂々と圧してくる国と隣接してるのですから。
こちらも戦勝国(常任理事国)のどこかと結んでおくことは必要なんですよ、「対話の必要性」を相手に感じさせるだけの耐圧力をもつには。

もともと某国の核の傘のもとにある時点で、自ずと旗幟は鮮明ですしね。
中立性なんてのは、スイスみたいに徹底的な自主防衛を図り、ある程度の実績を示さない限りは、最初からないですよ。
現状では、もしかしたら「○○の陣営の中ではマシ」位には”相対的には中立的”かも知れませんけどね。
--
報道は「第0番目の強大な権力」ですからねぇ、いまや。何らかの形で行き過ぎを掣肘する力が必要ですよ。
なを、ワタクシが「報道という強大な権力」を「第4の」ではなく「第0番目」とするのは、
1:権力の主体としての実体がない。
2:行政・司法は、立法あってのことゆえ、立法は第1の権力。そして、立法府の構成や動向に大きく影響を与える報道は、ある意味で第1の権力の親であるから。
です。※個人の主観です。

投稿: あっしまった! | 2016年3月 7日 (月) 17時55分

改憲と99条の関係性は、いたって明瞭です。
憲法の存在意義を軽視する発言や
国政に憲法が優越する様な発言は99条に違反します。
しかし
「憲法の部分的な欠陥を指摘して、改善に向かわせる」
為の改正案は、99条には何ら違反しません。
ここを踏まえて発言すればよいだけ。
昔の石原慎太郎さんの「憲法を破棄せよ」発言は
99条に違反しますが
日米安保を優先するための憲法改正案を政府が作るのは
全く問題ではありません。

尚、私は報道メディアを批判する人たちの事は
正直、あまり信用できませんね。
「メディアが悪い」というのは
「自分の意見とメディアが違う」から感じるのであり
それは、逆に言えば「健全」なのです。
全てのメディアが同じ方向に行けば
それは戦前戦中のプロパガンダと同じで非常に危険。
しかし、もはやこれだけの媒体が存在する
日本において、全てのメディアを同一方向にさせるのは
絶対に無理です。
今や「メディアを選択」できる時代。
嫌なら読まなくても良い。見なくても良い。
情報は、多くのツールで入手できるのですから。
メディアもその事を十分理解しているのだと思います。
「停波発言」なんて
北朝鮮の「明日、核を発射するぞ!」と一緒。
民放5局のどれかを政府の手によって
停波させることは絶対にできません。
そんなことしたら、民衆の反感を買わせるように
該当メディアと他メディアは連合を組んで
死に物狂いで政権を批判するでしょう。
現実問題としては、問題メディアの人事を
影で操ることぐらいでしょうね。

投稿: いまさらですが | 2016年3月 7日 (月) 21時51分

それよりも、私が一番危機感を抱くのは
「憲法を正しく理解」する国民が
少なくなっている事です。
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して
自分たちの安全と生存を守ろうと決意したという
文章を「現実離れした空想論」と解釈する人が
本当に増えてきました。

憲法は
私たちが、権力者の横暴や
怠慢を許さない為のルールです。
権力者が勝手に解釈してはいけないものです。
国民はそれを監視する役割です。
その為には、私たち国民は
憲法を正しく理解する必要があるのです。
理解しないのに、監視できる訳がない。
「ルール違反かどうか分からない」のですから。

この現況を作り上げた
象徴的な存在が「自衛隊と9条」でしょう。
70年に渡る「誤魔化し解釈」が
もう常識となっている。
「慰安婦は強制連行された」と叫び続けて
既成事実化する隣国と同じです。

皆さんは子供たちに
「自衛隊は軍隊じゃないの?」と聞かれて
きちんと説明できますか?
「必要最小限の実力組織」といえば
「ああ、なるほど!」と分かる小学生が
本当にいると思いますか?

この欺瞞に満ちた誤魔化しの連鎖が
憲法を正しく理解することを妨げ
自虐史を生み、憲法と現実の乖離を決定的な
物としてきたんじゃないですか?

その為には、統治行為論と付随的違憲審査制を
声高に叫ぶ裁判所の姿勢を改めさせて
自衛隊の合憲・違憲の論議に
終止符を打たなくてはなりません。

違憲であっても必要なら、初めてそこに
憲法改正の本当の意義が出てくるのだと
私は思っています。

投稿: いまさらですが | 2016年3月 7日 (月) 22時10分

確かに、「政治報道」を理由に、報道という権力を掣肘する権力の必要性を語るつもりはないなぁ。「政局ではなく、政治を報道して欲しい」とは思うけど。

投稿: あっしまった! | 2016年3月 9日 (水) 19時13分

憲法に関する良い記事を見たので紹介します。

>http://agora-web.jp/archives/1672250.html

筆者は改憲派に属すると言ってますが、護憲の人も改憲の人もなるほどと思える記事内容です。

投稿: nagi | 2016年3月 9日 (水) 19時24分

あ~、なるほど。
「徴兵制」と「国民皆兵制」をしっかり区別した上で、後者は前者より厳しいってハッキリ書いてあるのは素晴らしい。(とワタクシは思う。
※「徴兵制」と一言で言っても、緩いものから厳しいものまで幅があるけれど、「兵として徴する」という行政処分が介在するだけ、「一定要件を満たした国民として存在するだけで、何らの行政処分をまたずに、当然に・自然に、兵士になる」という皆兵制よりは緩いから。

「憲法第9条の平和主義故に、国際的孤立の途を歩む」論は、切って捨てるコトは難しいという印象。
身勝手な振る舞い・わがままな振る舞いをする国は、国際社会で孤立する。それは、好戦的な方向を向いていようと、反戦的な方向を向いていようと、同じだろうから。日本は「反戦的な方向に身勝手・わがまま」と受け止められる可能性は排除できないという印象はあるので。

投稿: あっしまった! | 2016年3月 9日 (水) 22時28分

念のため追記。
ワタクシは、改憲論者です。
第9条を改正して、(事実上は軍隊と遜色のない)実力組織を、憲法という名の「統治の枠組み(政治体制)を規定した成文のルール」の中でキッチリ規定する必要があると考えています。

ただし、「皇国史観や第2次大戦擁護の風潮が見える改憲」には、断固反対です。

「憲法という表題の附された条文(を構成する 文字 )の羅列」を「憲法」として扱うのは、人間の営みなのだってのは、その通りでしょうね。

投稿: あっしまった! | 2016年3月 9日 (水) 22時40分

私も北川隆司さんのこの記事、読みました。
憲法を粗悪品だという主張には
うーん・・。と思うところはありましたが
極論に極論で対抗することの危うさを
訴えた部分は共感できましたね。
私個人的には、憲法をもっと理解してほしいと
思ってしまいましたが。
以下は、憲法9条の成り立ちといわれる一説で
1964年の憲法調査会にも公式資料として
提出されたものです。
私はこれを「でっち上げのねつ造資料」とは
どうも思えないのです。
http://www.benricho.org/kenpou/shidehara-9jyou.html

因みに、GHQの検閲中の日本で
子供たちに伝えた、憲法のお話は下記
http://osakanet.web.fc2.com/siryou/kenpou1.html
「相手が攻めてきても戦争はやらない」と書いてます。

投稿: いまさらですが | 2016年3月10日 (木) 00時08分

仮に紹介した資料が真実を語っているのだとしたら
完全に、日本国民は憲法を冒涜してますよね?
であれば、私は
「日本は憲法違反をしていました」
「世界に対して嘘ついてました」
と認めた上で
自衛隊を必要とするならば
「もう日本は、非武装で平和なんか守れない!と
 思うようになりました」と
宣誓し直すべきです。

こういう痛みを伴わない憲法改正は
正直、ズルだと思います。

投稿: いまさらですが | 2016年3月10日 (木) 00時15分

当時の日本が、「天皇の責任追及を避け、天皇制を護持するための憲法しか制定し得なかった」のと「当時の、世界の戦争放棄に向けた新思潮の魁としての日本」というのは、事実だと思います。
※新思潮と書いたのは、各国が固有の軍備を捨てて、例えば常設の国連軍だけを保持する。つまり、世界レベルで、「暴力の合法的な独占」という概念を実現しようとする終戦直後の欧米での平和への思潮。

当時の政府見解として「個別的自衛権をも否定」していましたから、「子どものけんぽう」にしても「新しい憲法の話」にしても、そうした政府見解を当然に前提にする以上「個別的自衛権をも否定」した書き方になるのは当然の帰結ですよね。

こうした政府見解に公然と異を唱え、日本国憲法案の審議中(帝国議会における帝国憲法の改正審議)で、第9条の規定の削除を求めたのが、当時の日本共産党だったわけで。

ただ、現実には冷戦が始り、朝鮮戦争も勃発し、連合国においても「世界の戦争放棄に向けた新思潮が夢想であることが明白になった」結果として、占領下において連合国の路線転換が図られ、ほどなく「個別的自衛権をも否定する解釈」も変更されたわけで。

幣原氏の思想は確かにそうであったろうけど、ただ、現実世界は幣原氏や一部欧米諸国が当時描いた理想の通りには、進まなかったのも事実。

だから、現実世界が現憲法制定時の理想の通りには進まなかったことを正面から受け止めて、路線転換を図る・すなわち憲法第9条を改めて現実世界を正面から受け入れるというのが、ワタクシの存念です。
魁となろうとした新思潮そのものが泡と消えてるんですから、魁けたらんとした志も潰えたわけで。

終戦直後の理想のように、現実の世界は進まなかったんですから。
現実を理想に近づける努力をするにしても、まずは理想通りになっていない現実を直視しないと。所謂「フィットギャップ」は大事です。
その上で、理想に近づくための現実的・漸進的な手段を積み重ねていかないと。

投稿: あっしまった! | 2016年3月10日 (木) 06時22分

第9条や関連する前文一部の改正が行われた(行おうとして改正手続に入った)という事実そのものが、
「もう日本は、非武装で平和なんか守れない!と思うようになりました」
と国際社会にむかって日本国として宣誓し直すことと同義だと思うけどなぁ。
※現時点では、改正手続には入ってない。改正発議を前提とした改正案の審議には入ってないので。

投稿: あっしまった! | 2016年3月10日 (木) 14時46分

私は、これが同じだとは絶対に思えないのです。
それは、今の状態(憲法改正前)が
「日本は戦力をもっていないんです!」って
主張しているからです。
実際に持っていない状態で憲法を改正する事と
もう、持っているから、現実に即して変える事は
全然違うと思うんです。

①「赤信号でも皆、青だっていって渡るなら
  もう信号自体を変えちゃおう」

②「(今は皆、止まっているけど)
  赤信号でも渡る必要があるから
  信号自体を変えて渡りましょう」

③「自分たちは、赤信号でも渡っていました。
  ルール違反を犯してました。ごめんなさい。
  その上で、どうしても必要がある為
  信号自体を変えます。」

結果は同じですよ。
信号を変えるという結論はね。
でも将来に渡って日本を統治する上で
この違いは、決定的だと思うのです。
少なくとも私は
①を、子どもたちに教える事は嫌ですね。

ズルい。醜い。

投稿: いまさらですが | 2016年3月10日 (木) 22時42分

こんばんは。
なんだかな、今のマスコミは信用出来ないな。
高市氏の発言に抗議をしているキャスターたちは
民主党政権の時はどうだったか?
民主党に批判的だったか?
民主党政権を批判するどころか応援団になっていたではないか。
民主党輿石幹事長が”電波止めるゾ”と恫喝した時、
抗議をしたキャスターたちは今と同じような態度をとったか?
だから偏向マスゴミと揶揄されるのだ。

投稿: す33 | 2016年3月10日 (木) 22時48分

現状のままで、曖昧にしておくことは、却って将来に禍根を残す気がするですのん。

正論だけど、それでは、現状が続くだけだろうな、なんとなく思うには。
正論は正論として尊重される必要があるし、正論として認めるけど、正論を吐くだけでは現状は動かないのも、政治的には事実だから、いかにも難しいっす。

なんであれ、改憲するとなると、国内政治としては「これまでの路線の誤りを認め、方向性を改める」というコトにほかならないわけで、
「もう、持っているから、現実に即して変える」って方向性を「卑怯とかずるいとして忌避する」限りは、それは正論だし清く正しい態度だけど、なおさら現状が続くだけでしょう。

ワタクシは、自衛隊ほどの実力組織を、憲法上の明示的根拠なく保持する現状は、放置すべきでないと思うんで。

仮に、個別的自衛権onlyの自衛のための戦闘力を持つとしても、それは憲法で明示的に「個別的自衛権only」と規定すべきであって、「普通の軍隊」とするにしても「個別的自衛権onlyの自衛のための戦闘力」であっても、いずれにしても憲法に明記するために改憲する必要があるという主張なんですよ。

投稿: あっしまった! | 2016年3月11日 (金) 10時41分

各報道機関の民主党政権下と自民党政権下での、同種事案への扱いの乖離のすごさってのは、確かに凄いですからねぇ。

自民を否定したいのか現首相を否定したいのか、それは判りませんけど、「民主党政権下のあの時に、今と同じように扱ってくれていたら、政治的にもう少しは現状と違ったかも」って思うことも多々ありますからねぇ。
当時は「報道機関が、民主党政権の、最期にして最強の応援団」なんて揶揄されてましたけどね。

ワタクシは報道機関に対して、
「政府の動向を正しく(論評と事実を明示的に切り分けて、事実は曲げないで)伝えて、政府に対して賛成する・批判するという判断の材料を視聴者に提供すること」は是非必要だと思うし、それは報道機関だからできることだと思ってる。

けど、報道機関に「反政府運動の主体」であることを求めてはないからねぇ。まして「反自民党運動とか反現首相運動の主体」であったり「そうした運動の旗振り役」なんてのは、報道機関としてでなく、政治運動体として別に行ってくださいって思ったりはしますね。

「電波を使って政治運動を行う特権」を認めたくはないので。政治運動なら、他の政治運動体と同じ土俵で、報道機関の中の人という特権的地位を利用しないで、おやりになるなら良いとおもうですよ。

投稿: あっしまった! | 2016年3月11日 (金) 10時55分

政府の長年に渡る憲法解釈に終止符を打つ方法は
私が思うに一つしかない。
裁判所が判決を出すことです。
まさに、原発停止の仮処分を出したように。
国策を一つの判決で覆せる。
何故なら日本は法治国家だから。
そして、
私たちが違憲審査権を唯一与えた組織は裁判所。

しかし、裁判所は統治行為論と付随的違憲審査制を
声高に叫び、憲法判断を逃げ続けてきた。
私は、何度も書いてますが
これが諸悪の根源だと思っているのです。

裁判所は世論にとても敏感です。
脅威的といっても良いほどに。
だからこそ、憲法判断に消極的であるという主張を
国民が続けることが大事だと何度も書いているのです。

権力者を縛る憲法は、私たちものです。
基本的な人権も
こうやって好きな事を書ける言論の自由も
ぜーんぶ保障してくれている。
私たちには、無くてはならない最高法規。

だからこそ、憲法を語る時は
正論吐いても変わらねぇみたいな
日和見主義のなぁなぁ感覚ではいたくない。
私も自称改憲派ですが
変える必要があるなら、正論で変えるべき。

99条を守り通したいと本気になっている
公務員も、裁判官も、その他の権力者も
日本には数多くいる。
その人たちに、一人の国民として
申し訳が立たないと思うから。

投稿: いまさらですが | 2016年3月11日 (金) 22時14分

確かに「これまでの違反・逸脱を糊塗するためには変えるべきではない」でしょうね。
「現実に生じた必要性を前にして、変える必要があるから変える」のであって。

もちろん、改憲の実施を決めるのは為政者と言う地位にある人物の意思でなく、国民全体の主権者としての政治的意思決定です。
だからこそ、発議の特別多数決 & 国民投票という直接投票という特別の決定方法が用意されてるわけで。
そこからは、国民全体の主権者としての政治的意思から無視できないほどに乖離した改憲提案(内容も動機も)なら、否決されることが想定できますんで。
※折々の為政者も、国民には違いなく、国民が選んだのだという前提があるので、「為政者という地位にある人」という言い回しをしています。

投稿: あっしまった! | 2016年3月11日 (金) 23時44分

そういえば、「統治行為論」と「付随的違憲審査制」を採用したことについて、「最高裁判所裁判官国民審査」などで罷免された最高裁の裁判官はいないのよね。形式的には。

だから、「統治行為論」と「付随的違憲審査制」については、国民全体(主権者)として、積極的に否定する気配を示していなかったと思ってる。積極か、消極か、やむを得ずか、制度的欠陥なのか、何なのか、とにかく受け入れてるということになってる。

なので、国民全体の主権者としての意思表示と、まったく無関係に「統治行為論」と「付随的違憲審査制」が維持されているとは思わないのです、ワタクシは。

念のためですが、国民審査制度自体に何の問題もないとは決して思わないというか、むしろ制度として難点がありすぎると思ってるけれども。

投稿: あっしまった! | 2016年3月12日 (土) 00時24分

あっしまった!さん、nagiさん、いまさらですがさん、す33さん、コメントありがとうございました。

いつも個別のレスに至らず恐縮です。新規記事は「安倍首相の改憲発言」というタイトルで投稿します。ぜひ、またご訪問いただければ幸いですので、よろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2016年3月12日 (土) 15時24分

統治行為論と付随的違憲審査制が
国民の支持を得ているかどうかについては
難しいところですねぇ。
そもそも、知っている人もそんなに多くないのかな?

統治行為論は、砂川判決の事が取り沙汰されたので
知っている人は結構いると思いますけど
付随的違憲審査制の危うさを知る人は、
多分それほど多くないと思います。
そもそも、判例ははるか昔の
警察予備隊違憲訴訟での裁判所の見解ですからねw

私がこれに固執する理由を
ちょっと大げさに書いてみましょう。

投稿: いまさらですが | 2016年3月12日 (土) 22時36分

付随的違憲審査制とはご存知の通り
個人の、個別具体的な損害があって
初めて裁判所が判決を下すというシステムです。
「集団的自衛権は違憲だから、裁判所が判断しろ!」
といっても、判決は下さず、棄却です。
安保法制によって、誰も損害を被っていないから。

という事は、実際に損害を被るまでは
内閣は、どんな法律も国会に提出でき
国会は、数の理論で法案を可決できます。

極端に言えば
「徴兵制」も「核兵器保有法」も「侵略戦争法」だって
簡単にできちゃいます。
でも今まで何故、出来なかったのか?

それは「内閣法制局」が
事前に憲法判断をして
「違憲」と判断すれば、国会に提出しない慣例が
日本にはあったからです。

しかし、これを戦後初めてぶっ壊したのが安倍さんです。
法制局のトップを
「集団的自衛権は合憲」という人に変えちゃった。
これまでは皆「違憲」だったのに。

そう、これをやられちゃうと
付随的違憲審査制の弊害がモロに出るんです。

集団的自衛権を行使した時ってどんな時?
戦争が始まった時ですよね?
今の国家の武器はどんな武器?
何百万人もの人を一度に殺せる兵器がいっぱいある。

そして、裁判所は「実際に損害がでた時」
極端に言えば、何百万人もの死者が出た後にしか
「違憲」「合憲」の判断をしないんですよ?

その時、訴訟を起こせる人がいるのかも
裁判所自体があるかどうかも分かりませんよね?

日本、アホですか?ってなりません?

投稿: いまさらですが | 2016年3月12日 (土) 22時48分

これまでも、「付随的違憲審査制の壁」に阻まれてきた事案は、安全保障関係以外にもそれなりにあったですよ。

でも、付随的違憲審査制を採用する以上、当然のことじゃないですか、事後的にしか違憲審査できないのは。
平安法制を例として付随的違憲審査制の危うさを述べられたのは、大げさでも何でもなく事実としてそうですし、あほですか?と問うても詮無き事ですよ、そういう制度を採用してるんですから。

「付随的違憲審査権しか憲法上認められない」って憲法解釈をしたのは、他ならぬ最高裁の大法廷ですしね。その後、それを理由として国民審査で罷免された裁判官がいないのは先述の通りで。

付随的違憲審査権は、アメリカ型の違憲審査権ですから、歴史的経緯や第81条の解釈からしても、それがしっくり来る解釈だったんでしょうかねぇ。

そんなこんなで「付随的違憲審査制」を放置してきたことの結果として、国民が”主権を持つというコトの責任”として受け入れるしかないでしょう。

これまでずっと、明示的な憲法裁判所の必要性(憲法改正が必要)が一部で提起されても、付随的違憲審査制の弊害が一部で提起されても、とにかく「憲法改正反対」の一言で片付けて(斬り捨てて)きたのは、全体としての国民の責任(憲法改正反対って言う政治的意思決定の結果)ですから。

--
それが嫌なら、今後のために「改憲して憲法裁判所を設置しましょう」よ。
もっとも、今から憲法裁判所を作っても、もう成立している平安法制に遡及効を及ぼせるかどうか?が問題になるかもしれないので、あわせて第9条を改正して「保有する軍事組織の権能の限界(あるいは、私は賛成しませんが、軍事組織・実力組織の不保持)」を定めておきましょうよっていうのが、ワタクシの発想ですから。
「これまでを糊塗するため」ではなく「今後、糊塗しない・させないため」にね。

それと、内閣法制局を憲法の番人扱いしてきたこと自体が、それこそ憲法に反する。というのが、ワタクシの考え。
憲法以下の行政組織法制や、あるいは直接の設置根拠である内閣法制局設置法に照らして、「内閣法制局はあくまでも 内閣の補助機関 でしかない」し、「内閣の最高責任者は、内閣総理大臣」なのですから。

この内閣法制局を事実上憲法の番人として扱うことは、10年以上前から民主党さんもそう言って当時の政府与党を攻撃(批判)してきたし、それはそうだと思っていただけに、平安法制のときの変節ぶりにはガッカリしました。

投稿: あっしまった! | 2016年3月12日 (土) 23時57分

>付随的違憲審査制を採用する以上、当然のことじゃないですか、事後的にしか違憲審査できないのは。

採用する事にしたのは裁判所の勝手な判断です。
全ての裁判所の裁判官が付随的違憲審査制に基づいて
判決を下さなければ、
憲法や法令に違反するものではありません。
単なる通説です。
それを「当然のことではないですか?」は
うーん。。。
少なくとも私は「当然のことではいけない」と
思っているので、国民として批判している。
それだけです。
中央大学の教授がこの問題をまとめてますね。
以下、ご参考まで。

http://www.chukyo-u.ac.jp/educate/law-school/chukyolawyer/data/vol018/05_Yokoo.pdf#search='%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E9%81%95%E6%86%B2%E5%88%A4%E6%B1%BA'

憲法裁判所の設置はどうなんでしょう?
単に、国民が判断を求めている意思に対して
「誰か死なないと判断しないよ」って
結論を出さない裁判所が
その姿勢を改めるだけでいいのでは?

アメリカも付随的違憲審査制ですが
違憲判決はしょっちゅう出してますしね。

最近、日本の裁判所も
これまでの姿勢を改める流れが出てきたわけですから
私に言わせればですが、
一国民として、その流れに期待するのが
「当然のことではないですか?」w

因みに内閣法制局を事実上憲法の番人として扱うことは
憲法に違反するというお話は
一体、何条に違反するのですか?
「憲法に則っているかどうか」を判断するために
内閣組織内に法制局を置くことは
「憲法を遵守して国策を執る」姿勢の表れであり
99条に即したものでは?
内閣法制局のトップを変えて、法制局の方針を変えても
安倍さんが何ら裁かれないのと同じで
そもそも憲法の番人ではない事を証明したわけですよね?
81条に違反するというお話でしたら、
それは単なる言葉遊びかと。

投稿: | 2016年3月13日 (日) 10時19分

おかしいんですよ、絶対。
自衛隊が国外で戦闘行為に入ったら
日本はそれをどう受け止めるの?
軍法すらないんですよ。
軍隊でもなく、戦力じゃないといっている訳ですから。
捕虜規定すらない。
軍法会議すら開かれない。

誰かが死ぬ前に、きちんと憲法判断しないとダメです。
「自分の行為は憲法に違反しているかもしれない」
と疑問を持たせたまま、自衛隊は死ぬんですよ。
実際に死んでから
「あなたの行為は憲法違反です」ってやるの?
そんなのありですか?

三島由紀夫が割腹自殺した事が思い出されますね。

投稿: いまさらですが | 2016年3月13日 (日) 10時36分

ええ、内閣に補助機関として内閣法制局を置くことは、憲法に反しません。
現行法では内閣法制局の憲法解釈は、同設置法による「意見事務」であり、内閣の判断を拘束はしませんので、その限りにおいて合憲でしょう。

しかし憲法上は、行政主体は(狭義の)内閣であって、内閣法制局はその行政主体の補助機関に過ぎない。
のに、主体である内閣の意思決定を、その補助機関である内閣法制局が”拘束できる”のなら、それは行政主体と補助機関という関係が逆転してしまいます。
もちろん、主体である内閣がその意思決定として、補助者である内閣法制局の意見を尊重し、追認し、採用するのは構わないですよ。
でも、つねに”内閣の判断を拘束する・内閣の意思決定は内閣法制局の意見に絶対服従しなければならない”というのであれば、それは違うでしょう。

それは、行政権の主体が内閣にあるとした憲法第65条に反する状況だと考えます。

投稿: あっしまった! | 2016年3月13日 (日) 16時08分

えっ、
通説としても実体としても「付随的違憲審査制」を採用してるじゃないですか。

「付随的違憲審査制」ってのは、事後的にしか違憲審査できない仕組みじゃないですか。
最近アメリカの最高裁が従来より積極的なのは承知しています。でも違憲判断の件数が多いことと、付随的違憲審査制が事後的にしか違憲判断ができないこととは矛盾しません。

だから、付随的違憲審査制の下では当然に、事後的にしか違憲審査できないって言ってるんですよ。

もちろん、「付随的違憲審査制を採用しない」のなら、”当然ではない”ですよ。
でも、最高裁が自ら「付随的違憲審査制を採用してる」って憲法解釈してて、それを改めることもないし、そのことをもって裁判官が罷免されてもない。
ですから、付随的違憲審査制を放棄するのであれば、明示的に憲法の条文を変えないと変らないでしょう。

投稿: あっしまった! | 2016年3月13日 (日) 16時19分

書き忘れましたので、改めて再度の説明を。

内閣法制局を「憲法の番人として扱う」というのは、
「内閣の意思決定は内閣法制局の意見に服従しなければならない」とする考え方です。

件の平安法制の騒動のときに、「内閣が、内閣法制局の解釈を否定した」という主旨の批判があったじゃないですか。
あれは、「内閣の意思決定は内閣法制局の意見に服従(意見として尊重ではなく)しなければならない」という考え方が前提にある批判なわけです。
つまり、内閣法制局の意見を内閣が無視したのは許されないという批判であり、「行政主体が、その補助機関の意見を採用しないのは、許されない」という批判です。

そこでワタクシは、「内閣の意思決定は内閣法制局の意見に絶対服従」すなわち「行政主体が、その補助機関の意見を採用しないことは許されない」という考え方自体が、「行政主体は内閣である」と定める憲法第65条に反すると主張している訳です。

意見は意見であって、権限あるものが、それを採用するかどうかは、権限あるものの裁量であるハズだってことですね。

投稿: あっしまった! | 2016年3月13日 (日) 16時33分

なるほど、65条に則ったものなんですね。
ただ、内閣の行政権に則って法案を提出する訳ですから
法制局が行政権を行使する訳じゃないですよね?
批判に対する批判のような気もしますし
実際に、法制局のトップを「全ての法案を合憲」と
する人事をする方が危険のような気がします。
日本の裁判所は付随的違憲審査制ですし
憲法裁判所はない訳ですから。

>最近アメリカの最高裁が従来より積極的なのは承知しています。でも違憲判断の件数が多いことと、付随的違憲審査制が事後的にしか違憲判断ができないこととは矛盾しません。

そうです、だから私は付随的違憲審査制の中でも
自衛隊の違憲・合憲判断はできるでしょ?って言ってる。

例えば、長沼ナイキ事件の1審判決では
自衛隊の存在について
「世界の各国はいずれも自国の防衛のために
 軍備を保有するのであって、単に自国の防衛のために
 必要であるという理由では、それが軍隊ないし
 戦力であることを否定する根拠にはならない」と
判決文に書いている。
しかし、この判決文は、最高裁にはありません。
回避したんです。意図的に。
逃げた。判断放棄です。
なぜか?
具体的な損害の部分(訴訟の主文)さへ棄却できれば、
それで裁判が終わるからです。
それを可能にするのが
付随的違憲審査制の怖さなんです。

統治行為論と付随的違憲審査制を声高に叫べば
憲法の合否を判断する機関がなくなるんです。
そして、自衛隊に関していえば
それを戦後70年ずっと裁判所はやり続けてきた。

裁判所でさへ、国民のそうした批判に
ようやく最近は見直す姿勢を見せてきた。
(例えば、自衛隊イラク派遣違憲訴訟など)

ですから、付随的違憲審査制を利用して
憲法判断を回避するなんていうやり方に対して
それが当然の事と思う感覚は、私には到底ありません。

投稿: いまさらですが | 2016年3月13日 (日) 23時07分

因みに、裁判官を罷免できる事と
裁判官を選ぶ事は違います。
国民の意思が裁判官の選任に
直接的には結びつかないのです。
選ぶのは内閣です。
例え国民審査で罷免しても、金太郎飴のように
内閣の意思に従う裁判官しか生まれないと考えれば
この制度も、まぁ問題があると言えばそうなのかも。
そしてそう考えると
統治行為論と付随的違憲審査制が
国民の支持を受けているという考え方は
恐らく間違いでしょうね。

投稿: いまさらですが | 2016年3月13日 (日) 23時52分

そう、だから、憲法裁判所を作るという憲法改正を行うという行為を通して、主権者としての明確な意思(附随的違憲審査制を否定すると言う意思)を形にするしかないかなぁって。

----
行政権の行使(内閣の職権の行使)は、内閣の閣議決定という形で行われます。法案の提出も、閣議決定で決まります。※内閣法

ですから、内閣が内閣法制局の見解に絶対に服従しなければならない(内閣法制局の見解にそう形でしか閣議決定はできない)とすると、内閣は内閣法制局の操り人形でしかなく、実質として法制局が行政権を行使していることになってしまう。
それは、第65条に反するのでは?ってこと。

内閣が主体的に内閣法制局の見解を採用して閣議決定を行うのは良いのですよ、でも従属的にかならず内閣法制局の見解を採用しなければならないという発想は、ワタクシは肯定できないってこと。
ただし、内閣法制局の見解を”尊重”はして欲しいですよ、相応の識見を有する存在ですから。でも”絶対服従”するのは行き過ぎ。

もちろん、内閣法制局という組織体の必要性はあるし、とりわけ「審査事務について、存在しないと困るというか収拾が付かなくなる虞がある」のだけど、「意見事務について、絶対的な憲法の番人扱いをするのはおかしい。主体は内閣であって、内閣法制局は補助機関でしょう、あくまでも。」という理屈。

絶対的な憲法の番人は、最高裁判所の役割ですのん。十分機能しているかどうか?という論点はあるけれども。

投稿: あっしまった! | 2016年3月15日 (火) 00時01分

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