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2016年2月27日 (土)

セトモノとセトモノ、そして、D案

ACジャパンが「やわらかいこころをもちましょう」という全国キャンペーンに取り組んでいます。テレビやラジオからのCMで「セトモノとセトモノ」から始まる詩の言葉を耳にされた方も多いのではないでしょうか。たいへん感慨深い言葉であり、私自身の心には強く留まっていました。新規記事の冒頭で、その詩の全文とともにACジャパンがキャンペーンに託しているメッセージをそのまま紹介させていただきます。

セトモノとセトモノと

ぶつかりっこするとすぐこわれちゃう

どっちかやわらかければだいじょうぶ

やわらかいこころをもちましょう

そういうわたしはいつもセトモノ

見ず知らずの人同士が集まる公共の場ではさまざまな「イライラ」の種があります。街の機嫌は壊れやすいもの。ちょっとしたことが許せる気持ちが世の中に少し足りていないかもしれません。幅広い世代から共感を集めている相田みつをさんの詩を引用し、公共の場においておおらかな気持ちでいることの大切さをメッセージします。

このような訴えに対し、大半の方は賛意を示せるはずです。人と人との関係では「おおらかな気持ち」の大切さを受けとめていながらも、国と国との関係ではその気持ちが軽視される場合の多さに悩ましさを感じています。国と国との関係で「やわらかいこころ」や「おおらかな気持ち」などは現実を直視しない夢想家の戯言だと批判されがちです。

これから綴る私自身の「答え」が正しいのかどうか分かりません。少なくとも私自身は正しい方向性だろうと信じています。もともと一人ひとり、培われてきた経験や取り入れてきた知識をもとに正しいと信じる「答え」があるはずです。その「答え」に照らした際、私自身の考え方や問題意識に共感される方、あるいは反発される方、いろいろ枝分かれしていくものと思っています。

念のため、このブログは個人の責任で運営しています。これまでも踏み込んだ考え方を示している時が少なくありませんが、組織を代表した記述ではないことをあらかじめ申し添えさせていただきます。いわゆる左に位置付られる運動を支持する方々の中でも考え方に差異があります。私の言葉に違和感を持たれる方も多いはずであり、個人の責任での発信であることを改めて強調した上、いろいろ思うことを書き進めていくつもりです。

まず論点を提起するための格好の材料として、2月11日の読売新聞夕刊に掲載された『編集手帳』の内容全文を紹介します。相田みつをさんの詩の言葉とは違った意味で私自身の心に留まった文章であり、やはりブログで機会を見て取り上げてみようと考えていました。

日本の【天気】には「空模様」のほかに「晴天」の意味がある。英和辞典で【ウェザー】を引くと「荒天」と載っている。国際情勢の天気を占うにも、どうやら楽観が禁物らしい。「戦争の放棄」をうたった憲法9条は限りなく尊いが、それだけで悲惨な戦禍が避けられる保証はない。日本が戦争を放棄しても戦争が日本を放棄してくれるとは限らないからである。

日本を放棄してもらうには三つの案があるだろう。A案「ナキネイリ」作戦。他国に何をされてもほうっておく。領土が侵されても、これなら喧嘩にならない。B案「コワモテ」作戦。軍備を競う。手を出せまい、と。C案「ナカマ」作戦。日本に悪さをしたら俺たちが黙っていないぞ、という仲間と心を通わせる。安倍内閣が整えた安保法制はこの路線だろう。

不満の人は独自のD案を世に問えばいい。国の姿かたちに思いを致す日である。〈あせ水をながしてならふ剣術のやくにもたゝぬ御代ぞめでたき〉(江戸の狂歌)。平和のおかげで現在の繁栄を築き、「めでたき」心が骨の髄まで徹した国だからこそ、胸を張って汗水を流すことができる。

読んだ瞬間、あまりにも短絡的な比喩を並べ、C案の優位さに誘導しているような印象を抱きました。本題に入る前の一言として、最近、メディアの中立性が取り沙汰されています。現政権を支持するメディアは中立で、反論を加えるメディアは中立ではない、そのような極端な動きが論外であることは言うまでもありません。

精神的自由が経済的自由よりも憲法上優越的地位を持つという原則を踏まえ、表現の自由に対して政府は細心の注意を払う責務があるはずです。誤解を招き、メディアが自己規制してしまうような振る舞いは慎んで欲しいものと願っています。大事な話ですが、ここで本題に入ります。『編集手帳』のA案、B案、C案で言えば、それぞれ極端な特徴を際立たせすぎているものと考えています。

A案に関しては「戦争が日本を放棄してくれるとは限らない」という文脈から平和運動のスローガンでもある「護憲」派を揶揄しているように読み取れます。中には非武装で日本の平和は守れる、そのように考えている方もいるのかも知れません。しかし、例えば最近の記事「北朝鮮の核実験」の中で触れたとおり「戦争をさせない1000人委員会」事務局長の内田雅敏さんもB案、つまり一定の抑止力による安全保障の必要性を認識しています。

私自身をはじめ、いわゆる左だと見られている方々の大半も安全保障のリアリズムを決して軽視していないものと理解しています。C案も同様です。アメリカとの関係も含め、仲間を増やし、友好関係を築いていくことを否定する方は少数派だろうと思っています。ただ仲間同士の連携を強めることで、ことさら仲間ではない国を敵視し、必要以上に刺激していく方向性には自制心が必要だと考えています。

これまで憲法9条という歯止め、集団的自衛権は行使できないという憲法解釈のもと日本は戦争に直接参加せず、他国の人の命を一人も奪うことなく戦後の70年を乗り切ってきました。ただ朝鮮戦争の際には海上保安庁の日本特別掃海隊が機雷除去に携わり、56名の日本人が命を落とされていました。当時、新憲法が制定されて3年、戦時下の朝鮮水域への掃海艇派遣は憲法9条に抵触する恐れがありました。

そのため、日本特別掃海隊のことは30年ほど秘匿されていました。前々回記事のコメント欄で「問題だと思うのは、護憲派と言われる人たちが日本特別掃海隊による朝鮮戦争への事実上の参戦を、まるで無かったかのようにする姿勢」という意見が寄せられていました。制定直後に憲法9条は踏みにじられていたという指摘はそのとおりであり、たいへん重い事実だと思っています。

一方で、憲法9条があったから機雷除去という後方支援にとどまった見方もできます。占領下という特殊な状況でしたが、それこそGHQが主導した憲法を完全にないがしろにするような強要は手控えざるを得なかったものと見ています。集団的自衛権の行使を認めるための解釈の一つとして、既成事実があったという理屈であれば日本特別掃海隊は極めて特殊なケースであり、前例と言えるのかどうか疑問です。

GHQに押し付けられた憲法だから変えるべきという主張をよく耳にしますが、前々回記事の最後のほうに記したとおり明治の自由民権運動から連なる日本国内の下地があった点をはじめ、五百旗頭真防衛大学前校長の「半世紀以上も歩んできた中で制定の経緯を最重要視するのは滑稽だ」という指摘に共感しています。要するに私自身、押し付けられたというネガティブな気持ちを持っていません。

時代情勢の変化の中で改めるべき点があるとすれば、もともと改正条項の96条があるのですから一字一句変えてはいけないとまで言い切れません。しかし、憲法9条2項を改めなければ「自衛隊の存在は違憲だ」という主張に対しては異なる見解を持っています。憲法9条2項があっても国家固有の権能の行使として「必要最小限度の自衛権」は認められるという解釈を支持する立場です。

そもそも条文の解釈は一度できても、何回も変更できるようなものではないはずです。集団的自衛権行使を認めた安保法制の問題点は、このブログの複数の記事を通して訴えてきています。今回の記事は憲法観の切り口から書き進めてきました。たいへん長い記事になっていますので、そろそろ論点を整理しなければなりません。平和運動の中で「護憲」という言葉が、憲法9条さえ護れば平和が維持できるというイメージを発信しているようであれば問題だと考えています。

護るべきものは専守防衛を厳格化した日本国憲法の平和主義であり、強調すべきことは平和主義の効用です。集団的自衛権が行使できない「特別な国」だったからこそ、これまでアメリカ軍と一緒に自衛隊が戦場に立つことはありませんでした。アメリカ側からすれば日米同盟の片務性に対して不公平感を抱いてきたようですが、これからも他国の戦場では自衛隊の活動は後方支援にとどまるため、不公平感が飛躍的に解消されるものではないはずです。

それよりも中東やアフガニスタンなどの地において、日本の平和主義の効用とも言える「中立」というブランドイメージの棄損が進むことを懸念しています。読売新聞『編集手帳』のC案「ナカマ」作戦は旗色を鮮明にし、仲間ではない国と敵対関係を強めていく考え方だとも言えます。私自身は独自な案としてD案「ミンナ、ナカヨク」作戦の大切さに思いを巡らしています。

「ミンナ、ケンカシナイ」という言葉も思い浮かびましたが、ケンカしないためには仲良くする必要があり、つまり対話の道を閉ざさないという提案です。相手側の横暴や脅威を過少評価し、砂に頭を突っ込んで身に迫る危機を見ないようにして安心する「ダチョウの平和」だと批判されそうですが、これまで日本は中国や北朝鮮とも対話を重ねてきています。

力の背景があればこそ対話のテーブルに着けさせられるという見方もあろうかと思います。それでも必要以上に圧力をかけ、お互いが敵対していく切っかけを作っていくような動きは慎むべきものと考えています。そして、D案は理想なのかも知れませんが、初めから放棄してしまってはセトモノとセトモノのぶつかり合いから抜け出すことはできません。日本国憲法の平和主義が「やわらかいこころ」として改めて見直されていくことを心から願っています。

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コメント

>「半世紀以上も歩んできた中で制定の経緯を最重要視するのは滑稽だ」という指摘に共感しています。

その理論で言うと、集団的自衛権行使容認もあと数十年もしたら「制定の経緯を最重要視するのは滑稽だ」となりますから、問題視する必要はありません
すでに共同通信の世論調査でも、安全保障関連法を廃止すべきではないという世論の方が上回っています

私は改憲派でも護憲派でもありませんが「結果良ければ全て良し」という理論には反対です
民主主義は結果より過程を重視する制度のハズであり、過程は重視しないとなると民主主義は崩壊します

>それでも必要以上に圧力をかけ、お互いが敵対していく切っかけを作っていくような動きは慎むべきものと考えています。

現状認識が間違っているか、時代遅れです
「必要以上に圧力を掛ける」など、今の日本と自衛隊では不可能になっています

「日本は中国と比べて軍事力が年々相対的に弱体化している」
中国の軍事費は既に日本の4倍で、しかもさらに毎年10%の大軍拡中という現実を知っていれば、日本が圧力を掛けるなどというズレたことは言えないと思います
日本は圧力を受けている側であり、その圧力は年々強まることはあっても弱まることは(中国が崩壊でもしない限り)ありません

そして中国との軍事力の差が広がり続ければ、いずれ中国側が話し合いをする必要も無いと判断するようになります
南沙諸島で中国は大規模な軍事拠点を作り続けています
それは領有権を争っているベトナムやフィリピンの海軍力・空軍力が中国と比べて手も足も出ないくらいの規模しか無いので、話し合いをする必要が無いと中国が判断しているためです

投稿: | 2016年2月27日 (土) 11時29分

憲法9条ですが、以下のように改憲する。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる侵略戦争と、武力による威嚇又は武力の行使による他国への侵略行為を、永遠に放棄します
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、自衛権の行使としてのみ保持する。

国家として自衛権を明確化したうえで、侵略行為を二度と起こさないよう誓いを立てる。
自衛権には当然、集団的自衛権も入ります。
そこは、先進国として世界に対する責務であるはずです。

矛盾するところは、日本の平和主義を生かしたまま解消させる。
護憲派の人から見ると、このような意見はどうなのでしょうか?

投稿: 下っ端 | 2016年2月27日 (土) 18時07分

2016年2月27日(土)11時29分に投稿された方、下っ端さん、コメントありがとうございました。

記事本文に綴ったとおり様々な考え方があろうかと思っています。どのような「答え」が正しいのかどうかも簡単に決められないものと考えていますが、より望ましい「答え」を探していくための一つの機会に繋がれば本当に貴重なことです。その意味で私自身の「答え」とは異なる見方やご意見を伺えることをたいへん感謝しています。

2016年2月27日(土)11時29分に投稿された方へ、IPアドレスからこれまで複数回投稿くださっている方だと受けとめています。前回の記事本文に綴ったとおり意見交換をスムースに行なうためにも名前欄の記入やハンドルネームの固定についてご協力くださるようよろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2016年2月27日 (土) 21時56分

こんばんは。
平和が大切、平和が大切、と叫びながら
中国の侵略には何も声を上げないのは
どう言う事ですかね?
特に護憲派の皆さんは。

投稿: す33 | 2016年2月28日 (日) 21時26分

まずは、国連においては「国連憲章上は、日本は 今も 国連の敵国のままである」という事実を踏まえないと、特定の常任理事国相手の外交は上手くいきません。
「ある常任理事国の一国が日本と手を結んでる」という事実がもつ意味は、特定の文脈ではとても大きいのです。
※そもそも国連とは、「連合国(枢軸国の対戦相手である戦勝国の意味)」であり、99%以上の加盟国は、「連合国」と翻訳し認識しているコトを前提に。「国際連合」と翻約しているコト自体が、日本的な「国連幻想」な面もあるので。

軍事的な面だけでなく、国際政治(外交)においても「国連の常任理事国(圧力を掛けてくる某国) と 国連憲章の敵国条項による敵国(日本)」との間の問題という構図があることは無視できません。

で、平安法制がC案を具現化したものであることは、事実ですよ。賛否は別として。戦後、日本国政府は「第9条第1項について限定放棄説、第9条第2項について全面放棄説」を採ってましたけどね。

> 精神的自由の優越的地位

精神的自由ではなく、「表現の自由のの優越的地位」の話だと思うのですが、これは、必ずしも、表現の自由だけが特別に(いかなる場合でも絶対的に)価値の高いものだとするのではないですけどもね。
精神的自由が経済的自由に必ず優越するなら、事業者に対する営業妨害とか信用毀損・名誉毀損という概念は、成立しないですから。

> 憲法9条があったから機雷除去という後方支援にとどまった見方

この考え方は難しいと思います。
占領政策によって陸海軍が解体された結果、海保の掃海隊しか出せるものはなかったので。
憲法第9条が あっても・なくても、海保の掃海隊しか出せませんでした。
言い換えれば、機雷除去しかできることはなかったのです。憲法第9条に関係なく。
なお、海保の装備も、占領政策によって、かなり制限されていて満足なものではありませんでしたし。

> 必要以上に圧力をかけ、

これは、むしろ「必要以上に圧力を受けないために、応分の構えはいる。掛けられる圧力の強さによって、応分の構えがいかなる程度で済むのかはかわる。今は構えが不足している」という印象ですね、ワタクシは。

> 他国の人の命を一人も奪うことなく戦後の70年を乗り切ってきました。

これは事実です。ただし、「自国民の命を軍事的な理由によって一人も失うことなく戦後の70年を乗り切ってきた」のは、「他国の人の命を一人も奪うことなく乗り切ってきたことが理由ではない」ということも事実でしょう。

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必要以上に圧力を掛けることを肯定はしませんが、必要な程度の耐圧力(抑止する力)は必要です。
必要な耐圧力がどの位なのかは、相手方の圧力の強さ次第です。相手の圧力が強ければ、必要な程度の耐圧力も強くする必要があります。
独力で十分な耐圧力を持てるならそれで良いのですが、そうでなければC案を採るしか術はないでしょう。
ワタクシが見るところ、異論はあるでしょうが、今の日本が独力で十分(相応)な耐圧力を持つことは不可能です。それは軍事的な面だけでなく、最初に述べたような外交上の構図があるからです。

投稿: あっしまった! | 2016年2月28日 (日) 23時35分

訂正です。直近のワタクシの投稿中、国連について

> 99%以上の加盟国は、「連合国」と翻訳し認識している

と書きましたが、これはウソです。
「99%以上の加盟国」だと数字が合いません。「ほとんどすべての加盟国は」と訂正します。m(__)m

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参考までに、
国連=本質的に連合国(戦勝国)の連合体という話にからんでですが、

スイスが国連に加盟しなかったのは、中立を保ち「連合国(戦勝国)側には与しない。もちろん枢軸国(敗戦国)側にも与しない」という意思表示だったのですから。
国連に加盟するのは、連合国側に参加することであり、それは中立を放棄することに繋がるって思考様式だったです。

スイスは、今でも国民皆兵で武装中立を維持してますが、WW2中は、領空を侵犯する軍用機は、連合国側・枢軸国側を問わず、手当たり次第に「領空侵犯にともなう撃墜」を行ってきた国ですからね。

投稿: あっしまった! | 2016年2月28日 (日) 23時47分

かつてアメリカの公民権運動で活躍したキング牧師のように夢を語ることは重要です。昨今の政治家は本当になさけない。

>OTSU氏
>、憲法9条2項を改めなければ「自衛隊の存在は違憲だ」という主張に対しては異なる見解を持っています。憲法9条2項があっても国家固有の権能の行使として「必要最小限度の自衛権」は認められるという解釈を支持する立場です。

よいことだと思います。ただ、自衛隊は多くの憲法学者が違憲だと主張しています。安保法制反対の理由として、多くの憲法学者が違憲と主張してるとOTSU氏ピックアップしていましたが、これはよいのでしょうか?
相反する内容で一方のみ採用するのはダブスタのような気がしますね。もちろん安保法制を反対するのは問題ありません。ただ、その理由に憲法学者の違憲を持ち出すのは都合の良い意見のつまみ食いのように見えてしまいます。

それと日本のリベラル勢力の大部分は自衛隊の廃止や縮小を主張していますよね。共産党、旧社会党、社民党など。さらに日本の平和運動のナショナルセンターたる平和フォーラムも2008年の運動方針で自衛隊の縮小を方針化していました。ならば、リベラルの大部分は自衛隊に否定的であると言えます。
ならば、記事のA案は揶揄も誹謗でもなく、現状を正しく表してると思いますね。OTSU氏がそのような認識ではないことは理解しております。

結局のところOTSU氏がいうとこのろD案「ミンナ、ナカヨク」には賛同しますが、実例として何か成し遂げるこができるのかが平和運動団体にかかってると思います。そうでないと何か意図があって活動をしてるとしか見えないと思う人は増えるでしょうね。

投稿: nagi | 2016年2月29日 (月) 12時39分

公務員は憲法尊重擁護義務があるのだから徹底的に合憲であることを主張するしかないのでは?

投稿: いまさらですが | 2016年3月 1日 (火) 02時04分

当該の職務に直接従事する立場なら、「合憲」と主張するしかないでしょうね。

ただ、「違憲なものを違憲だからダメだ」ということについては、「現行の憲法を尊重擁護するゆえに、違憲なものを認められない」という考え方もあり得るかもですよ。

法令の執行を職務として命じられた場合は、合法な命令であれば、合憲として職務命令に従う必要があるでしょうけど。

投稿: あっしまった! | 2016年3月 1日 (火) 13時13分

私にも本記事からOTSU氏の平和を願う気持ちがよく伝わってきます。現実から乖離した考えや手法を主張するのではなく、理想を掲げ社会のゆるやかな変革を求めてるように思えます。

ただ、どうしても憲法9条に対するこだわりというか固執もうかがえます。私にしてみれば、条文にこだわるあまり現実を失うと言いますか。例えるなら「仏つくって魂いれず」と表現できます。

このあたりは譲れないことだと思うのですが、真に重要なのは条文の言葉ではなく、その平和理念だと思います。

ただ、人間は「ミンナ、ナカヨク」はどれほど望んでも可能ではないと思うので、現実的な妥協策として「ミンナ、ケンカシナイ」のほうが実現の可能性を感じます。この部分の方法論では間違いなくOTSU氏と考えが一致しないと思いますがね。

投稿: nagi | 2016年3月 2日 (水) 14時37分

自衛隊が違憲・合憲かも判断されない中で
政府は「合憲だ」と主張した。
そして法案は可決された。
直接実務と関係ない公務員は批判出来て
直接実務に関係のある公務員は批判できない。
ん?公務員の立場によって
憲法解釈が異なっていいの?
なんか矛盾してません?
----上記は単なる私の皮肉です。
私のこの皮肉は
戦後70年、憲法と現実の乖離を生みまくった
公務員を含めた権力者の責任を問ういているんです。
自衛隊が戦力である事を、皆が知っているのに
それを国ぐるみで「誤魔化し続けた」結果
憲法改正の意味さへ失わせた。
これが、今の日本の諸悪の根源だと思っています。
そう、全ての公務員は既に99条違反者なんです。
少なくとも、そういう自覚を持ってほしいなと
私は思っているのです。

投稿: いまさらですが | 2016年3月 2日 (水) 23時21分

ちなみに、
このブログの主様の主張は至極、全うなんです。
それを批判するつもりは毛頭ございません。
しかし、自衛隊の存在は違憲でも合憲でもないんです。
これが日本の状態であり、
諸悪の根源だと私は思っているんです。

自衛隊は違憲だと判決文に書いた地方裁判官は
事実上抹殺され、統治行為論と付随的違憲審査制を
振りかざす裁判官たちが判断を避け続けてきた。
でも、私たち国民は
裁判所にしか違憲審査権を与えていない。
この矛盾を解決しなければ
自衛隊の存在をめぐって
いつまでも結論の出ない
喧々諤々の日本人たちを生むだけなんです。
その上で憲法改正をしても
それは砂上に城を立てる事と同じです。

投稿: いまさらですが | 2016年3月 2日 (水) 23時45分

公務員たる人が、
私人として「違憲であると思うという」のと、
公務員の地位を利用して or 職務上、「違憲であるから、法律は存在しないものとして振る舞う」
との違いが矛盾だといわれてしまうと、まぁ、そう見えるよなぁ…としか言いようがないというか。

理屈としては並立しうると、ワタクシは、思ってますけどね。公務員といえども、私人としては憲法第21条が及ぶし、違憲の法律を廃止しようとするのも憲法尊重擁護義務の一つのあり方だと思っているので。

念のためですが、「正当な制定手続を経て成立した法律ですから、違憲判決が確定するまでは有効に存するという推定のもと、(私人としての領域の外では)振る舞っていただく必要があるのは当然」でしょう。公務員法にも(広義の)法令を遵守する義務が規定されてるので。

現状について、行政職員を憲法第99条違反と責める気には、正直ならないんですよ、ワタクシは。憲法改正の発議は「国会の専権」ですので、「国会議員の責任を問いたい」というのは思いますけど。
なお、国民主権・間接民主制という政治体制下では、「国会議員の責任を問う = 有権者の政治的選択の責任が問われる、国民全体の問題」という認識があって、その上で「国会議員の責任を問いたい」と敢えて言っています。

投稿: あっしまった! | 2016年3月 3日 (木) 13時42分

あっそうそう、
いわゆる「平安法制と憲法を巡る論点」についてですけれど、
ワタクシの漠然と思うところに一番近いと考えるのは、
藤田宙靖氏が、「自治研究 第92巻 第2號」に寄稿された「覚え書き-集団的自衛権の行使容認を巡る違憲論議について」
で述べられている諸々のことです。

学識ある方の、当該記事で述べられているような種々の論点での議論が、聴いてみたかったって思うんですよね。

投稿: あっしまった! | 2016年3月 3日 (木) 13時50分

す33さん、あっしまった!さん、nagiさん、いまさらですがさん、コメントありがとうございました。

それぞれの問いかけに対し、この場で具体的なレスに至らないことをご容赦ください。ただお寄せいただいたコメントに内包する論点等については頭の中に留めながら今後投稿していく記事本文を通して順次取り上げていければと考えています。そのようなコメント欄の位置付けについて改めてご理解くださるようよろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2016年3月 6日 (日) 06時20分

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