セトモノとセトモノ、そして、D案
ACジャパンが「やわらかいこころをもちましょう」という全国キャンペーンに取り組んでいます。テレビやラジオからのCMで「セトモノとセトモノ」から始まる詩の言葉を耳にされた方も多いのではないでしょうか。たいへん感慨深い言葉であり、私自身の心には強く留まっていました。新規記事の冒頭で、その詩の全文とともにACジャパンがキャンペーンに託しているメッセージをそのまま紹介させていただきます。
セトモノとセトモノと
ぶつかりっこするとすぐこわれちゃう
どっちかやわらかければだいじょうぶ
やわらかいこころをもちましょう
そういうわたしはいつもセトモノ
見ず知らずの人同士が集まる公共の場ではさまざまな「イライラ」の種があります。街の機嫌は壊れやすいもの。ちょっとしたことが許せる気持ちが世の中に少し足りていないかもしれません。幅広い世代から共感を集めている相田みつをさんの詩を引用し、公共の場においておおらかな気持ちでいることの大切さをメッセージします。
このような訴えに対し、大半の方は賛意を示せるはずです。人と人との関係では「おおらかな気持ち」の大切さを受けとめていながらも、国と国との関係ではその気持ちが軽視される場合の多さに悩ましさを感じています。国と国との関係で「やわらかいこころ」や「おおらかな気持ち」などは現実を直視しない夢想家の戯言だと批判されがちです。
これから綴る私自身の「答え」が正しいのかどうか分かりません。少なくとも私自身は正しい方向性だろうと信じています。もともと一人ひとり、培われてきた経験や取り入れてきた知識をもとに正しいと信じる「答え」があるはずです。その「答え」に照らした際、私自身の考え方や問題意識に共感される方、あるいは反発される方、いろいろ枝分かれしていくものと思っています。
念のため、このブログは個人の責任で運営しています。これまでも踏み込んだ考え方を示している時が少なくありませんが、組織を代表した記述ではないことをあらかじめ申し添えさせていただきます。いわゆる左に位置付られる運動を支持する方々の中でも考え方に差異があります。私の言葉に違和感を持たれる方も多いはずであり、個人の責任での発信であることを改めて強調した上、いろいろ思うことを書き進めていくつもりです。
まず論点を提起するための格好の材料として、2月11日の読売新聞夕刊に掲載された『編集手帳』の内容全文を紹介します。相田みつをさんの詩の言葉とは違った意味で私自身の心に留まった文章であり、やはりブログで機会を見て取り上げてみようと考えていました。
日本の【天気】には「空模様」のほかに「晴天」の意味がある。英和辞典で【ウェザー】を引くと「荒天」と載っている。国際情勢の天気を占うにも、どうやら楽観が禁物らしい。「戦争の放棄」をうたった憲法9条は限りなく尊いが、それだけで悲惨な戦禍が避けられる保証はない。日本が戦争を放棄しても戦争が日本を放棄してくれるとは限らないからである。
日本を放棄してもらうには三つの案があるだろう。A案「ナキネイリ」作戦。他国に何をされてもほうっておく。領土が侵されても、これなら喧嘩にならない。B案「コワモテ」作戦。軍備を競う。手を出せまい、と。C案「ナカマ」作戦。日本に悪さをしたら俺たちが黙っていないぞ、という仲間と心を通わせる。安倍内閣が整えた安保法制はこの路線だろう。
不満の人は独自のD案を世に問えばいい。国の姿かたちに思いを致す日である。〈あせ水をながしてならふ剣術のやくにもたゝぬ御代ぞめでたき〉(江戸の狂歌)。平和のおかげで現在の繁栄を築き、「めでたき」心が骨の髄まで徹した国だからこそ、胸を張って汗水を流すことができる。
読んだ瞬間、あまりにも短絡的な比喩を並べ、C案の優位さに誘導しているような印象を抱きました。本題に入る前の一言として、最近、メディアの中立性が取り沙汰されています。現政権を支持するメディアは中立で、反論を加えるメディアは中立ではない、そのような極端な動きが論外であることは言うまでもありません。
精神的自由が経済的自由よりも憲法上優越的地位を持つという原則を踏まえ、表現の自由に対して政府は細心の注意を払う責務があるはずです。誤解を招き、メディアが自己規制してしまうような振る舞いは慎んで欲しいものと願っています。大事な話ですが、ここで本題に入ります。『編集手帳』のA案、B案、C案で言えば、それぞれ極端な特徴を際立たせすぎているものと考えています。
A案に関しては「戦争が日本を放棄してくれるとは限らない」という文脈から平和運動のスローガンでもある「護憲」派を揶揄しているように読み取れます。中には非武装で日本の平和は守れる、そのように考えている方もいるのかも知れません。しかし、例えば最近の記事「北朝鮮の核実験」の中で触れたとおり「戦争をさせない1000人委員会」事務局長の内田雅敏さんもB案、つまり一定の抑止力による安全保障の必要性を認識しています。
私自身をはじめ、いわゆる左だと見られている方々の大半も安全保障のリアリズムを決して軽視していないものと理解しています。C案も同様です。アメリカとの関係も含め、仲間を増やし、友好関係を築いていくことを否定する方は少数派だろうと思っています。ただ仲間同士の連携を強めることで、ことさら仲間ではない国を敵視し、必要以上に刺激していく方向性には自制心が必要だと考えています。
これまで憲法9条という歯止め、集団的自衛権は行使できないという憲法解釈のもと日本は戦争に直接参加せず、他国の人の命を一人も奪うことなく戦後の70年を乗り切ってきました。ただ朝鮮戦争の際には海上保安庁の日本特別掃海隊が機雷除去に携わり、56名の日本人が命を落とされていました。当時、新憲法が制定されて3年、戦時下の朝鮮水域への掃海艇派遣は憲法9条に抵触する恐れがありました。
そのため、日本特別掃海隊のことは30年ほど秘匿されていました。前々回記事のコメント欄で「問題だと思うのは、護憲派と言われる人たちが日本特別掃海隊による朝鮮戦争への事実上の参戦を、まるで無かったかのようにする姿勢」という意見が寄せられていました。制定直後に憲法9条は踏みにじられていたという指摘はそのとおりであり、たいへん重い事実だと思っています。
一方で、憲法9条があったから機雷除去という後方支援にとどまった見方もできます。占領下という特殊な状況でしたが、それこそGHQが主導した憲法を完全にないがしろにするような強要は手控えざるを得なかったものと見ています。集団的自衛権の行使を認めるための解釈の一つとして、既成事実があったという理屈であれば日本特別掃海隊は極めて特殊なケースであり、前例と言えるのかどうか疑問です。
GHQに押し付けられた憲法だから変えるべきという主張をよく耳にしますが、前々回記事の最後のほうに記したとおり明治の自由民権運動から連なる日本国内の下地があった点をはじめ、五百旗頭真防衛大学前校長の「半世紀以上も歩んできた中で制定の経緯を最重要視するのは滑稽だ」という指摘に共感しています。要するに私自身、押し付けられたというネガティブな気持ちを持っていません。
時代情勢の変化の中で改めるべき点があるとすれば、もともと改正条項の96条があるのですから一字一句変えてはいけないとまで言い切れません。しかし、憲法9条2項を改めなければ「自衛隊の存在は違憲だ」という主張に対しては異なる見解を持っています。憲法9条2項があっても国家固有の権能の行使として「必要最小限度の自衛権」は認められるという解釈を支持する立場です。
そもそも条文の解釈は一度できても、何回も変更できるようなものではないはずです。集団的自衛権行使を認めた安保法制の問題点は、このブログの複数の記事を通して訴えてきています。今回の記事は憲法観の切り口から書き進めてきました。たいへん長い記事になっていますので、そろそろ論点を整理しなければなりません。平和運動の中で「護憲」という言葉が、憲法9条さえ護れば平和が維持できるというイメージを発信しているようであれば問題だと考えています。
護るべきものは専守防衛を厳格化した日本国憲法の平和主義であり、強調すべきことは平和主義の効用です。集団的自衛権が行使できない「特別な国」だったからこそ、これまでアメリカ軍と一緒に自衛隊が戦場に立つことはありませんでした。アメリカ側からすれば日米同盟の片務性に対して不公平感を抱いてきたようですが、これからも他国の戦場では自衛隊の活動は後方支援にとどまるため、不公平感が飛躍的に解消されるものではないはずです。
それよりも中東やアフガニスタンなどの地において、日本の平和主義の効用とも言える「中立」というブランドイメージの棄損が進むことを懸念しています。読売新聞『編集手帳』のC案「ナカマ」作戦は旗色を鮮明にし、仲間ではない国と敵対関係を強めていく考え方だとも言えます。私自身は独自な案としてD案「ミンナ、ナカヨク」作戦の大切さに思いを巡らしています。
「ミンナ、ケンカシナイ」という言葉も思い浮かびましたが、ケンカしないためには仲良くする必要があり、つまり対話の道を閉ざさないという提案です。相手側の横暴や脅威を過少評価し、砂に頭を突っ込んで身に迫る危機を見ないようにして安心する「ダチョウの平和」だと批判されそうですが、これまで日本は中国や北朝鮮とも対話を重ねてきています。
力の背景があればこそ対話のテーブルに着けさせられるという見方もあろうかと思います。それでも必要以上に圧力をかけ、お互いが敵対していく切っかけを作っていくような動きは慎むべきものと考えています。そして、D案は理想なのかも知れませんが、初めから放棄してしまってはセトモノとセトモノのぶつかり合いから抜け出すことはできません。日本国憲法の平和主義が「やわらかいこころ」として改めて見直されていくことを心から願っています。
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