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2016年2月27日 (土)

セトモノとセトモノ、そして、D案

ACジャパンが「やわらかいこころをもちましょう」という全国キャンペーンに取り組んでいます。テレビやラジオからのCMで「セトモノとセトモノ」から始まる詩の言葉を耳にされた方も多いのではないでしょうか。たいへん感慨深い言葉であり、私自身の心には強く留まっていました。新規記事の冒頭で、その詩の全文とともにACジャパンがキャンペーンに託しているメッセージをそのまま紹介させていただきます。

セトモノとセトモノと

ぶつかりっこするとすぐこわれちゃう

どっちかやわらかければだいじょうぶ

やわらかいこころをもちましょう

そういうわたしはいつもセトモノ

見ず知らずの人同士が集まる公共の場ではさまざまな「イライラ」の種があります。街の機嫌は壊れやすいもの。ちょっとしたことが許せる気持ちが世の中に少し足りていないかもしれません。幅広い世代から共感を集めている相田みつをさんの詩を引用し、公共の場においておおらかな気持ちでいることの大切さをメッセージします。

このような訴えに対し、大半の方は賛意を示せるはずです。人と人との関係では「おおらかな気持ち」の大切さを受けとめていながらも、国と国との関係ではその気持ちが軽視される場合の多さに悩ましさを感じています。国と国との関係で「やわらかいこころ」や「おおらかな気持ち」などは現実を直視しない夢想家の戯言だと批判されがちです。

これから綴る私自身の「答え」が正しいのかどうか分かりません。少なくとも私自身は正しい方向性だろうと信じています。もともと一人ひとり、培われてきた経験や取り入れてきた知識をもとに正しいと信じる「答え」があるはずです。その「答え」に照らした際、私自身の考え方や問題意識に共感される方、あるいは反発される方、いろいろ枝分かれしていくものと思っています。

念のため、このブログは個人の責任で運営しています。これまでも踏み込んだ考え方を示している時が少なくありませんが、組織を代表した記述ではないことをあらかじめ申し添えさせていただきます。いわゆる左に位置付られる運動を支持する方々の中でも考え方に差異があります。私の言葉に違和感を持たれる方も多いはずであり、個人の責任での発信であることを改めて強調した上、いろいろ思うことを書き進めていくつもりです。

まず論点を提起するための格好の材料として、2月11日の読売新聞夕刊に掲載された『編集手帳』の内容全文を紹介します。相田みつをさんの詩の言葉とは違った意味で私自身の心に留まった文章であり、やはりブログで機会を見て取り上げてみようと考えていました。

日本の【天気】には「空模様」のほかに「晴天」の意味がある。英和辞典で【ウェザー】を引くと「荒天」と載っている。国際情勢の天気を占うにも、どうやら楽観が禁物らしい。「戦争の放棄」をうたった憲法9条は限りなく尊いが、それだけで悲惨な戦禍が避けられる保証はない。日本が戦争を放棄しても戦争が日本を放棄してくれるとは限らないからである。

日本を放棄してもらうには三つの案があるだろう。A案「ナキネイリ」作戦。他国に何をされてもほうっておく。領土が侵されても、これなら喧嘩にならない。B案「コワモテ」作戦。軍備を競う。手を出せまい、と。C案「ナカマ」作戦。日本に悪さをしたら俺たちが黙っていないぞ、という仲間と心を通わせる。安倍内閣が整えた安保法制はこの路線だろう。

不満の人は独自のD案を世に問えばいい。国の姿かたちに思いを致す日である。〈あせ水をながしてならふ剣術のやくにもたゝぬ御代ぞめでたき〉(江戸の狂歌)。平和のおかげで現在の繁栄を築き、「めでたき」心が骨の髄まで徹した国だからこそ、胸を張って汗水を流すことができる。

読んだ瞬間、あまりにも短絡的な比喩を並べ、C案の優位さに誘導しているような印象を抱きました。本題に入る前の一言として、最近、メディアの中立性が取り沙汰されています。現政権を支持するメディアは中立で、反論を加えるメディアは中立ではない、そのような極端な動きが論外であることは言うまでもありません。

精神的自由が経済的自由よりも憲法上優越的地位を持つという原則を踏まえ、表現の自由に対して政府は細心の注意を払う責務があるはずです。誤解を招き、メディアが自己規制してしまうような振る舞いは慎んで欲しいものと願っています。大事な話ですが、ここで本題に入ります。『編集手帳』のA案、B案、C案で言えば、それぞれ極端な特徴を際立たせすぎているものと考えています。

A案に関しては「戦争が日本を放棄してくれるとは限らない」という文脈から平和運動のスローガンでもある「護憲」派を揶揄しているように読み取れます。中には非武装で日本の平和は守れる、そのように考えている方もいるのかも知れません。しかし、例えば最近の記事「北朝鮮の核実験」の中で触れたとおり「戦争をさせない1000人委員会」事務局長の内田雅敏さんもB案、つまり一定の抑止力による安全保障の必要性を認識しています。

私自身をはじめ、いわゆる左だと見られている方々の大半も安全保障のリアリズムを決して軽視していないものと理解しています。C案も同様です。アメリカとの関係も含め、仲間を増やし、友好関係を築いていくことを否定する方は少数派だろうと思っています。ただ仲間同士の連携を強めることで、ことさら仲間ではない国を敵視し、必要以上に刺激していく方向性には自制心が必要だと考えています。

これまで憲法9条という歯止め、集団的自衛権は行使できないという憲法解釈のもと日本は戦争に直接参加せず、他国の人の命を一人も奪うことなく戦後の70年を乗り切ってきました。ただ朝鮮戦争の際には海上保安庁の日本特別掃海隊が機雷除去に携わり、56名の日本人が命を落とされていました。当時、新憲法が制定されて3年、戦時下の朝鮮水域への掃海艇派遣は憲法9条に抵触する恐れがありました。

そのため、日本特別掃海隊のことは30年ほど秘匿されていました。前々回記事のコメント欄で「問題だと思うのは、護憲派と言われる人たちが日本特別掃海隊による朝鮮戦争への事実上の参戦を、まるで無かったかのようにする姿勢」という意見が寄せられていました。制定直後に憲法9条は踏みにじられていたという指摘はそのとおりであり、たいへん重い事実だと思っています。

一方で、憲法9条があったから機雷除去という後方支援にとどまった見方もできます。占領下という特殊な状況でしたが、それこそGHQが主導した憲法を完全にないがしろにするような強要は手控えざるを得なかったものと見ています。集団的自衛権の行使を認めるための解釈の一つとして、既成事実があったという理屈であれば日本特別掃海隊は極めて特殊なケースであり、前例と言えるのかどうか疑問です。

GHQに押し付けられた憲法だから変えるべきという主張をよく耳にしますが、前々回記事の最後のほうに記したとおり明治の自由民権運動から連なる日本国内の下地があった点をはじめ、五百旗頭真防衛大学前校長の「半世紀以上も歩んできた中で制定の経緯を最重要視するのは滑稽だ」という指摘に共感しています。要するに私自身、押し付けられたというネガティブな気持ちを持っていません。

時代情勢の変化の中で改めるべき点があるとすれば、もともと改正条項の96条があるのですから一字一句変えてはいけないとまで言い切れません。しかし、憲法9条2項を改めなければ「自衛隊の存在は違憲だ」という主張に対しては異なる見解を持っています。憲法9条2項があっても国家固有の権能の行使として「必要最小限度の自衛権」は認められるという解釈を支持する立場です。

そもそも条文の解釈は一度できても、何回も変更できるようなものではないはずです。集団的自衛権行使を認めた安保法制の問題点は、このブログの複数の記事を通して訴えてきています。今回の記事は憲法観の切り口から書き進めてきました。たいへん長い記事になっていますので、そろそろ論点を整理しなければなりません。平和運動の中で「護憲」という言葉が、憲法9条さえ護れば平和が維持できるというイメージを発信しているようであれば問題だと考えています。

護るべきものは専守防衛を厳格化した日本国憲法の平和主義であり、強調すべきことは平和主義の効用です。集団的自衛権が行使できない「特別な国」だったからこそ、これまでアメリカ軍と一緒に自衛隊が戦場に立つことはありませんでした。アメリカ側からすれば日米同盟の片務性に対して不公平感を抱いてきたようですが、これからも他国の戦場では自衛隊の活動は後方支援にとどまるため、不公平感が飛躍的に解消されるものではないはずです。

それよりも中東やアフガニスタンなどの地において、日本の平和主義の効用とも言える「中立」というブランドイメージの棄損が進むことを懸念しています。読売新聞『編集手帳』のC案「ナカマ」作戦は旗色を鮮明にし、仲間ではない国と敵対関係を強めていく考え方だとも言えます。私自身は独自な案としてD案「ミンナ、ナカヨク」作戦の大切さに思いを巡らしています。

「ミンナ、ケンカシナイ」という言葉も思い浮かびましたが、ケンカしないためには仲良くする必要があり、つまり対話の道を閉ざさないという提案です。相手側の横暴や脅威を過少評価し、砂に頭を突っ込んで身に迫る危機を見ないようにして安心する「ダチョウの平和」だと批判されそうですが、これまで日本は中国や北朝鮮とも対話を重ねてきています。

力の背景があればこそ対話のテーブルに着けさせられるという見方もあろうかと思います。それでも必要以上に圧力をかけ、お互いが敵対していく切っかけを作っていくような動きは慎むべきものと考えています。そして、D案は理想なのかも知れませんが、初めから放棄してしまってはセトモノとセトモノのぶつかり合いから抜け出すことはできません。日本国憲法の平和主義が「やわらかいこころ」として改めて見直されていくことを心から願っています。

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2016年2月21日 (日)

予算委員会の現状

労働組合の役員にとって多忙な日々、春闘の季節を迎えています。この時期には「春闘の話、インデックス」という記事があるとおり「忙しさが加速する春闘期」や「季節は春闘、多忙な日々」などの記事を投稿しています。公務員組合の春闘は具体的な賃金引き上げを決めるタイミングではありませんが、新年度に向けた人員体制や制度見直しの労使協議の山場にあたります。

団体交渉や長時間に及ぶ執行委員会が続く中、連合や自治労が催す春闘決起集会や討論集会なども目白押しの時期となっています。各産別単組の役員や組合員が一堂に会し、情報を共有し、気勢を上げる決起集会などは内外に団結を示す意味でも貴重な機会だと受けとめています。ただ私どもの組合、とりわけ私自身、動員要請に必ずしも充分応え切れず、たいへん申し訳なく思っています。

そのような現状ですが、このブログだけは途絶えさせず毎週更新しています。「ブログは更新できるのに…」という見られ方をされてしまうのかも知れませんが、週末に自宅で取り組めるため、多忙な時期でも何とかやり繰りできるようになっています。また、このブログは昨年秋の記事「自治労都本部大会での発言」に掲げたような趣旨を託しながら向き合っているつもりです。改めて実際の場面で他の組合の皆さんと直接お会いする機会が少ないことをご理解ご容赦いただければ幸いです。

さて、以前の記事「リベラルじゃダメですか?」に対し、引用・利用は御自由にさんが火曜の昼前から2時間以上かけて22件ものコメントを投稿されていました。内容はハンドルネームのとおり情報提供が中心でした。「コメント欄の話、インデックス」に記しているとおり当ブログは不特定多数の方々との接点を大事にしたいため、コメント欄における制約を極力少なくしています。

投稿されたコメントは即時に反映され、明らかなスパムや極端な商業目的の内容ではない限り、削除することはありません。どのような辛辣な言葉でも、そこに投稿された思いや意味をくみ取ろうと心がけてきています。一方で、意見交換をスムースに行なうため、名前欄の記載は欠かさないようにお願いしています。あわせて匿名での投稿とは言え、ある程度ご自身の意見に責任を持っていただくため、できる限りハンドルネームは固定されるよう協力を求めています。

さらに特定の人物や団体を誹謗中傷するような書き込みは慎むようにお願いしています。中には誹謗中傷かどうか人によって判断が分かれる場合もありますので、その疑いの高い書き込みがあっても私自身の判断で削除したことは一度もありません。常連の方であれば、あくまでもお願いを繰り返し、次回以降の投稿においての協力を求めていくという手順に心がけています。

このような「お願い」も残念ながら人によっては窮屈に感じられた方もいらっしゃったようです。それでも記事本文に関連した書き込みのみを受け付けるコメント承認制や管理人の判断での削除が日常化している他のブログに比べれば自由度の高いコメント欄だと考えています。そのような自由さが大きいため、「コメント欄は玉石混交ですね」という指摘を受けたこともありました。

おかげ様で幅広い視点や見識からのコメントを数多くお寄せいただいているため、「玉」が大半を占めるコメント欄だと感謝しています。加えて、「石」だと思ったコメントが、別な人には「玉」に映る場合もあるはずです。そのような意味合いやスパムの線引きも難しく、寄せられたコメント一つ一つの評価は閲覧された皆さん一人ひとりに委ねる関係性が望ましいことだと考えています。異例なスタイルの連続投稿でしたが、先ほど紹介した引用・利用は御自由にさんからの22件のコメントもそのように受けとめていました。

新規記事のタイトルに掲げた本題に入るまでの前置きが長くなりました。最近の記事のコメント欄では国会の予算委員会の現状について疑問の声が寄せられていました。本来、集中的に議論すべき予算案のことよりも野党が自民党の国会議員の失言やスキャンダルを追及している場面の多さを疑問視する声です。「批判する事が目的になって議案(予算案)が全く見向きもされない現状では、事実上の職務放棄」という厳しい指摘が野党側に突き付けられていました。

昼間、生中継で見る機会は皆無に近く、ネット上の動画で予算委員会を丸ごと見ることも滅多にありません。予算案に直接関連しない質問は全体の持ち時間の中で少しであっても、マスコミが注目度の高いスキャンダル関連の質疑映像だけを編集上、特に切り出しているものと理解していました。しかしながら最近、このブログに寄せられるコメントを通し、持ち時間の配分もスキャンダル追及に重きを置きがちになっている様子が垣間見れています。

もともと「予算委員会はなぜ予算以外の議論をするの?」という疑問の声が上がりがちでした。リンクしたサイトに詳しく解説されていますが、国の予算は国民一人ひとりの暮らしに大きな影響を及ぼします。暮らしへの影響という意味では、どのような問題も関連付けられるため、予算委員会では原則的に審議内容を制限していません。そのため、これまでも予算委員会では政治家のスキャンダル追及が頻繁に行なわれてきました。

政府の予算案は5月頃から各省庁で作り始め、12月までに財務省が原案を作成し、1月の通常国会に提出されます。自治体では「ヨトク」と略されるように常任委員会ではなく、予算特別委員会として通常3月の定例会に設置されます。国の場合、予算委員会は衆議院と参議院それぞれに置かれる常任委員会であり、予算案の審議を目的にしない臨時国会でも開かれる時があります。

法律案とは異なり、予算案は衆議院が先議と決まっています。予算案は国家機関すべての見積もりで内閣の責任で出されるため、答弁に立つべき国務大臣も全員出席が原則とされています。予算案は財務省の緻密な校閲のもとに提出されているため、一箇所の修正が全体に大きな影響を及ぼします。そのため、内閣は原案通りに可決することに強く固執するようです。

予算そのものについて無駄を指摘したり、理由を述べて金額の増減を求めたり、あいまいな表現をただしたりしても、たいてい上手にかわされて終わりです。なので責める側の野党は「こんな内閣の作った予算案を信用できるのか」という格好でスキャンダルや失言を追及したり、「態度がなっていない」などと理事に文句をつけて引き延ばしをはかったりして「成果」を得ようとすることがあります。

内閣にとって3月末までの成立は至上命題。それができないと大変みっともない非力な内閣とみなされるので、野党が強い状況や痛いところを握られている場合は、問題大臣のクビと引き替えに審議促進を非公式に伝えるといった手段に出ることもあるのです。「予算を人質に揺さぶる」という行為です。つまり予算委員会は華々しい割に「出来レース」との指摘もあります。

上記の青字は参考にしたリンク先サイトの解説であり、早稲田塾講師の坂東太郎さんの言葉です。予算委員会について説明してきましたが、このような位置付けのままで良いのかどうか、いろいろな問題をはらんでいるものと思います。とは言え、現状の予算委員会の性格上、与党政治家のスキャンダル追及は野党の立場からすれば避けて通れない役割であることも押さえなければなりません。そのため、「そればかり」という批判が多い一方、「追及の仕方が甘い」という声があることも確かです。

このブログのコメント欄の位置付けでも触れたことですが、それぞれの質問を「玉」と見るのか、「石」と見るのか、やはり人によって受けとめ方は分かれていくような気がしています。自民党議員の失態を追及し、その能力や資質をあぶり出すことで野党側のポイントが高まるのか、予算案以外の質問に終始する野党側にマイナスポイントが付いていくのかどうか分かりません。今のところ潮目が大きく変わる気配を感じ取れていませんが、このような追及の仕方の評価も含め、今後の世論調査や国政選挙において結果が示されていくことになります。

最後に、与野党の政治家に限らず、常識ある社会人として発してはいけない言葉があります。民主党の中川正春元文科相の「首相の睡眠障害を勝ち取ろう」という言葉もその一つでした。このケースに限らず、よく「表現が誤解を招いたとすれば取り消したい」という釈明を耳にします。自民党の丸山和也参院議員の「黒人・奴隷が米大統領に」発言も同様ですが、誤解云々の話ではなく、率直に「不適切な表現でした。取り消します」と謝罪できないのか首をかしげています。

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2016年2月14日 (日)

『安倍晋三「迷言」録』を読み終えて

新書『安倍晋三「迷言」録』を読み終えました。著者は朝日新聞の記者である徳山喜雄さんです。朝日新聞の記者だと言った途端、色眼鏡をかけて見てしまう方も多いのかも知れません。いわゆる左や右の立場に関わらず、前回記事「北朝鮮の核実験 Part2」の冒頭に記したとおり「安倍首相は戦争をしたがっている」と決め付けてしまうような思い込みによる論法は避けなければなりません。

ただ事実は事実として正確に把握し、最も冷静で的確な判断を迫られる内閣総理大臣、そのポストに座る方の振る舞いや資質は公正に評価すべきものと考えています。批判のための批判ではなく、幅広く多面的な情報の一つとして当ブログの新規記事で取り上げながら、いくつかの論点提起に繋げていければと考えています。ちなみに同じような趣旨のもと少し前に「イライラ答弁が目立つ安倍首相」という記事も投稿していました。

「早く質問しろよ!」「国民の理解が深まっていない」「全く正しいと思いますよ。私は総理大臣なんですから」 政治家に失言や暴言はつきものだが、かつてこれほど「迷言」を吐く首相がいただろうか。自分に対する批判は「レッテル貼り」「デマゴーグ」。一方で自らが発する暴言は「言論の自由」。安保法制、戦後70年談話などをめぐる「アベ流言葉」を通して政治・言論状況を読む。

上記はその新書の袖に掲げられた文章です。以前の記事「改めて言葉の重さ」の中で、人によってドレスの色が変わるという話題に接した時、安倍首相のことが頭に思い浮かんだ近況を綴っていました。見る人によって、ドレスの色が白と金に見えたり、黒と青に見えてしまうという話を紹介し、安倍首相に対する評価や見方も人によって本当に大きく変わりがちなことを書き残していました。

この新書のAmazonカスタマーレビューも星5つか星1つに分かれ、中間の2つから4つがありません。「『迷言録』という題名から受ける印象よりも、中味は濃く読みごたえがありました」「実に爽快で的を得ている内容です」と絶賛する感想が示されている一方、「☆一つつけるのもはばかられる。安倍総理の名を使わないと本も出せないのか。人の褌で相撲を取るとはこのこと」という酷評も掲げられています。

今回の記事タイトル「『安倍晋三「迷言」録』を読み終えて」を目にした時、やはり人によって印象は大きく分かれていくのかも知れません。安倍首相を支持されている方々を刺激し、あえて不愉快にさせるようなタイトルは避けることも考えました。特に書評を目的にした記事内容ではないため、書籍名を使わないタイトルも少し考えてみました。結局、そのあたりは過剰に意識せず、最も今回の内容を分かりやすくするタイトルに至っています。

さて、カスタマーレビューの感想にも示されていたとおり安倍首相の数々の「迷言」の紹介にとどめず、安保法制やメディア報道のあり方など多岐にわたる論点が提起された新書でした。そもそも「迷言」という言葉自体に反発される方も多いのかも知れません。「私は総理大臣なんですから」という一例も、違和感を抱く人、何の問題もなく「迷言」とは思わない人、それぞれ受けとめ方が分かれているはずです。

前者の方々が読めば「なるほど」と首肯する箇所が多く、後者の方々が読めば不愉快に感じる箇所が多い新書だろうと思っています。それでも冒頭に述べたとおり決して批判のための批判ではなく、実際に安倍首相が発した言葉を検証することで一国の「最高責任者」の思惑や資質を問うという著者の意図を受けとめています。今回、そのような内容を少しだけ紹介し、最後のほうで最近の話題に対して思うところを添えさせていただくつもりです。

まず国会の委員会中に安倍首相は閣僚席から「日教組、どうするの!」、別な日には「早く質問しろよ!」というヤジを飛ばしていました。前代未聞の珍事であり、首相の品格を大きく失墜させる信じらない行為を重ねていました。このような不規則発言は誰もが「迷言」、あるいは「暴言」と認めざるを得ないのではないでしょうか。

「日教組、日教組!」と連呼したヤジは安倍首相の事実誤認が背景にあった悪質さも指摘されています。さらにネトウヨと呼ばれる人たちが好んで使う「反日」「在日」など罵倒の言葉を思わず連想したという声が、その新書には添えられていました。本来は内閣が倒れるような問題だったのにも関わらず、取り上げ方の大きさが新聞によって異なり、とことん突き詰め切れなかった野党の不甲斐なさも記されていました。

続いて、人によって見方が分かれそうな「迷言」です。国会審議において安倍首相は「我々が提出する法律についての説明はまったく正しいと思いますよ。私は総理大臣なんですから」と「断定口調」で発言していました。「戦争に巻き込まれることは絶対にない」「徴兵制はまったくあり得ない。今後もない」など、その新書には安倍首相が「断定口調」で発言している問題を随所に取り上げていました。

東京オリンピック招致に向けた演説で安倍首相は福島第一原発事故の「状況はコントロールされており、東京にダメージは与えない」と言い切っていました。それに対し、新書では「ふざけんじゃない。原発をコントロールできないから、汚染水にこんなに苦しんでいるんじゃないか」と憤る福島県相馬市の漁業者の声をはじめ、東京電力の技術顧問の「今の状態は、コントロールできていないと我々は考えています」という見方が紹介されています。

「汚染水は垂れ流し状態なのに、他の言い方はできなかったのか。その場しのぎの発言だ」という声も紹介されていましたが、そのとおりだと思います。このブログの記事でも取り上げてきていますが、安倍首相は必要以上に強い言葉で語りがちな点があります。そのような問題意識が一致していたため、私自身、この新書に掲げられた事例の多くは首肯する内容でした。

そもそも「まったく正しい」と言われてしまえば議論が成り立ちません。また、安倍首相が「戦争法案という批判はまったく根拠のない、無責任かつ典型的なレッテル貼りだ」とし、批判されると「レッテル貼りだ」と他者を批判することの多さが紹介されています。多くの国民が反対の声をあげる中、安保法案を強引な手法で採決した後、安倍首相は「国民に丁寧に分かりやすく説明していきたい」と発言していました。

この発言に対し、法政大学の杉田敦教授が「説明とは、決める前に、合意形成のためになされるものでしょう。自らの結論をただ押し付けることを、安倍さんは説明と言っている」と指摘していたことが掲げられていました。このような事例から安倍首相が自分自身の「答え」は絶対正しく、他者の批判は見当外れだと決め付けがちな傾向を感じ取っています。ここで、著者が最も提起したかった点だろうと思う箇所をそのまま掲げさせていただきます。

代表民主制のある種の欠陥は、選挙で衆参両院の多数派を占めれば、次の選挙まで政権党は強行採決という手法をとれば、なんでもできてしまう。いまの自民党のように党内にこれといった反対勢力がなければなおさらである。安倍首相はまさにこの「代表民主制の欠陥」を逆手にとって、合意する道を投げ出した分断・対決型の劇場政治を断行、限りなく「独裁」に近い治政をおこなっているのである。

そして、その最大の武器が「断定口調」「レトリック」「感情語」という「アベ流言葉」である。合意することを放棄しているので、反対勢力を説得する必要はなく、分断し対決する状況をつくるための言葉であればいいのである。政策と民意のずれは各種世論調査が物語っている。安倍首相の発する言葉を引き金とした「政権の暴走」を止める手立てはないのだろうか。

その新書には上記と同様な趣旨の記述が他にも記されています。そのため、著者が「最も提起したかった点」という私の見立ては、それほど間違っていないものと思っています。ただ上記の内容は私自身の問題意識と必ずしも一致していません。些細なニュアンスの違いなのかも知れませんか、安倍首相自身は意図的に分断・対決型の劇場政治や「独裁」に近い治政を行なっていないものと見ています。

数々の発言の問題性は著者とほぼ同じ認識ですが、安倍首相の意図に関する見方は異なっているようです。安倍首相が正しいと信じている「答え」に照らし、様々な言葉を発し、政策や方向性に対する判断を重ねているものと思っています。その上で、前回記事に記したとおり思い込みによる論法は避け、それらの言葉や判断が望ましいものだったのかどうかを問うていかなければならないはずです。

いつものことですが、長い記事になっています。前述したとおり最近の話題に関しても少し触れるつもりでした。中途半端な頭出しは控え、最後に今回紹介した新書に掲載されていた記述内容に絡む憲法観の問題に絞り、端的に取り上げさせていただきます。先日、安倍首相は予算委員会で「占領時代に作られた憲法で時代に合わなくなってきている」と答弁(長谷川豊公式ブログ「2月3日の安倍総理の予算委員会答弁について」参照)していました。

今回紹介した新書の中に「憲法を戦後、新しい時代を切り開くために自分たちでつくったというのは幻想だ」という安倍首相の言葉が掲げられていました。そのため、予算委員会では安倍首相の本音が示されたようですが、たいへん重大な発言であるのにも関わらず、それほど大きな注目を集めていません。それ以上に話題性のある報道が続いていたからでしょうか。

今回、記事の最後に付け加える形になりますが、きっと言葉や内容を補足する機会が必要になるものと考えています。ここでは新書に掲げられていた「押し付け憲法」論を反証する記述を紹介します。「GHQ案には西欧の人権思想だけでなく、明治の自由民権運動での様々な民間草案や、その思想を昭和に受け継いだ在野の『憲法研究会』の案など国内における下地もあった」

「後に憲法制定過程を検証した内閣憲法調査小委員会は報告書(1961年)で、『憲法研究会案は、GHQ案の作成に当たって相当の程度において参照されたことは明らか。日本国内における憲法改正問題の動向に注意を払いつつ起草に当たったことの一つの現れ』との分析を載せている」という説明があり、制定過程に詳しい五百旗頭真・前防衛大学校長の「半世紀以上も歩んできた中で制定の経緯を最重要視するのは滑稽だ」とするコメントも載せていました。

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2016年2月 7日 (日)

北朝鮮の核実験 Part2

北朝鮮が予告していた事実上の弾道ミサイル発射期間は早まり、2月7日から14日までに変更されていました。弾頭ミサイルは主に空気抵抗の少ない高空を飛行するため、核爆弾など重い弾頭を遠くまで運べます。有人航空機に比べるとコストパフォーマンスに優れ、この発射予告は一連の核兵器開発に関わる動きだと見られています。前回の記事は「北朝鮮の核実験」でしたが、書き足したかった内容もあったため、新規記事は「Part2」として書き進めてみます。

パリ同時多発テロが起こった後、フェイスブックのアイコンをトリコロールに変えることで追悼の意を表す動きが広まりました。フリーアナウンサーの長谷川豊さんはご自身のブログで「やめとけよ、偽善者ぶるの」と痛烈にその行為を批判されていました。「毎日のように起きているテロを全部すっ飛ばして、200人以上が犠牲になったロシア機のテロはすっ飛ばして… 今回のフランスのパリの件だけ」というとらえ方からの批判でした。

長谷川さんの訴えたい真意を正確に知るためには、ぜひ、リンク先の記事をご覧ください。ここで紹介した訳は前回の記事「北朝鮮の核実験」の中で私が示した違和感の話に繋がるからでした。確かにパリの犠牲者に哀悼の意を示した時、それ以外のテロによる犠牲者のことは念頭にないのかも知れません。しかし、だからと言って他の犠牲者のことに哀悼の意を抱かないと決め付けられるものなのでしょうか。

いわゆる左に位置付けられる団体は、これまで日本政府やアメリカに向けたデモや抗議集会に取り組んでいますが、確かに中国や北朝鮮に対する具体的な抗議行動は行なっていません。しかし、だからと言って「中国か北朝鮮の団体」という見方に繋げることが適切なのでしょうか。もし、そのように思われる方がいた場合、その根拠を示すのは疑いを持った方のほうだろうとも考えています。

安倍首相は軍国主義者だ」という批判があった時、違和感を抱かれる方も多いのではないでしょうか。安保法制も安倍首相自身は「戦争を未然に防ぐために必要だ」と考えているはずであり、まして「安倍首相は戦争をしたがっている」と決め付けてしまうことの不適切さも指摘しなければなりません。安保法制の問題で言えば、違憲なのかどうかが大きな論点であり、そのような法整備の必要性や功罪が問われていくべき話だと思っています。

同様に「平和フォーラムの背後には北朝鮮」というような陰謀論が前面に出た意見は、やはり「安倍首相は軍国主義者だ」と批判する論法に相通じるものがあるように見ています。平和フォーラムの運動の方向性や具体的な取り組みに対する賛否があって当たり前です。ただ前回の記事で述べたとおり誤った先入観や誤解があった場合、かみ合った議論に繋がりにくく、より望ましい「答え」を見出すことも難しくなるものと考えています。

個々人それぞれ正しいと信じている「答え」があります。その「答え」は様々な体験をはじめ、数多くの知識や情報を得る中で導き出されてきたはずです。他者の思想や考え方に強く共感すれば、そのまま自分自身が正しいと信じる「答え」に置き換わっていたものと思われます。そのような過程が時には「洗脳されている」という突飛な見られ方に繋がることもあり得ます。

左翼運動家を「中国や北朝鮮に洗脳されたスパイ」、あるいは安倍首相の熱烈な支持者を「権力に洗脳されたポチ」というような妄想気味な誹謗中傷を耳にすることがあります。中にはそのような背景や関係性があり、もしかしたら全否定できないのかも知れません。それでも圧倒多数の人たちは自分の頭で考え、自分自身が確信した「答え」に照らし、個々の課題に対しての是非を決めているのではないでしょうか。

その上で、より望ましい「答え」に近付くためには幅広く、多面的な情報に日頃から意識的に接していくことが重要です。ちなみに当ブログの記事本文を通し、多様な考え方や幅広い情報を提供しているものではありません。不特定多数の方々に対し、多面的な情報の一つとして「このような見方があります」という訴えを重ねているつもりです。なお、いつも多様な声のコメントをいただいていますので、コメント欄も含めて考えれば、このブログを通して幅広い考え方や多面的な情報に触れられる機会となっています。

記事タイトルから離れた前置きのような話が長くなりましたが、前回記事の続きとして訴えたかった内容でしたのでご容赦ください。さて、このブログを書き進めていた日曜の午前、北朝鮮がミサイルを発射したという速報に接しました。核実験と同様、安全保障上の脅威を高める暴挙であり、絶対容認できません。ミサイル本体や落下物による直接的な被害もあり得たため、国際社会から強い批判が高まることも必然だろうと思っています。

北朝鮮は人工衛星の打ち上げだと強弁し、国際海事機関(IMO)と国際電気通信連合(ITU)にも通告している正当性を訴え続けるのかも知れません。しかし、仮に人工衛星だったとしても、国連安全保障理事会決議1695、1718、1874への違反となります。北朝鮮は2006年7月にスカッド、ノドン、テポドン2、あわせて7発の弾道ミサイルを日本海に向けて発射したことによって、ミサイル技術に関する活動を制限されているからです。

非難されるべきは北朝鮮であり、この点は大多数の人たちが共有化できる認識だろうと思います。日本政府は万が一に備えて情報の連絡態勢を整え、ミサイルや落下物を迎撃するためにSM3とPAC3を配備していました。迎撃ミサイルシステムの実効性について疑問視する声もあるようですが、被害を最小化するための可能な限りの努力が強く批判を受ける対象にはならないものと見ています。

いずれにしても今後の対応策が大きな論点になるはずです。国際社会が圧力を強めた結果、北朝鮮側が白旗をあげるような展開に結び付けば望ましい話です。しかしながら対立が激化し、武力衝突に至った場合は多大な人的な被害が生じることを覚悟しなければなりません。やはり一触即発な事態を避けるためには制裁一辺倒ではなく、対話の窓口も常に開いておくことが欠かせないものと考えています。

ただ注意しなければならない点として、核兵器の開発を成し遂げたから北朝鮮が目論んだ外交決着を果たせたという構図に繋げてはなりません。それこそ核軍縮の流れに逆行する悪例を重ねることになってしまいます。より効果的な対話と圧力の模索、たいへん難しい北朝鮮との距離感が求められていくものと思っています。そのような難しさを踏まえた上、一つ一つの問いかけに対し、私たち一人ひとり正しいと信じる「答え」を決めていかなければなりません。

日本政府は、国連が2月に設置する核軍縮に関する作業部会に参加する方針を固めた。作業部会は昨秋、メキシコなど核廃絶を強く求める非核保有国の提唱で設置が決まったが、採決では米ロなど核保有国が核兵器の法的禁止の動きを警戒して反対。日本も棄権した。日本は米国の「核の傘」に頼るが、核保有国と非核国との橋渡し役を果たすため、議論に加わる必要があると判断した。

設置されるのは「核軍縮に関する国連公開作業部会」。2月にスイス・ジュネーブの国連欧州本部で議論が始まる。2、5、8月に計15日間会合を開き、10月の国連総会に勧告を出す。作業部会の設置は昨秋の国連総会で国連加盟国の約3分の2にあたる138カ国の賛成で決まった。議題は「核兵器のない世界のための法的措置の議論」などだ。提案したメキシコなど非核国グループは、核兵器の法的禁止の機運を盛り上げようとしており、部会では核兵器禁止条約に向けた議論が本格化するとみられている。【朝日新聞2016年1月28日

その一つとして、上記のとおり核兵器を法的に禁止する動きがあげられます。核兵器を持つ国と持たない国、その影響力の違いには非常に大きな落差があります。核不拡散は結果的に保有国の国際的な地位を高め、不公平な特権だと見られがちです。そのため、ルールを破り、国際的な批判にさらされながらも核保有をめざす国が後を絶たないようになっています。

北朝鮮の核実験やミサイル発射に対する批判を強める一方、すべての国が核兵器を放棄する機運を高めていくことの大切さに思いを巡らしています。日本政府はアメリカに気兼ねしているようですが、広島と長崎の悲劇を繰り返さないためには率先して核兵器の法的禁止に向けて尽力しなければならないはずです。ぜひ、国連の核軍縮に関する作業部会の中では、そのような立場で努力されることを願っています。

今回も長い記事になっていますが、もう少し続けさせていただきます。以前の記事「拉致問題を考える」の中で、在日朝鮮人の方々と懇談した内容を綴っていました。「よく帰るけれど国民は普通に暮らしているんですよ」という言葉が印象に残っています。先日、TBSの番組『報道特集』では東京朝鮮高校ラクビー部の全国大会出場までの苦難や喜びを伝えていました。日本で普通に暮らし、笑い、悩む若者と周囲の大人の姿が映し出されていました。

「報道特集 朝鮮高校 サッカー」でネット検索したところ『かっちんの青商会物語』というブログがトップに掲げられていました。番組の内容や「日本の方々の感想」など詳しくまとめられています。放送された動画も視聴できるようになっていますので、興味を持たれた方はリンク先をご訪問ください。最後に強調したい点として、批判すべきは誤った判断を重ねる北朝鮮の政権です。在日朝鮮人の方々とは多様さやお互いの文化などを認め合いながら普通に接し、言うべきことは率直に言い合える関係性を築いていくことが大事な点だろうと考えています。

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