集団心理のデメリット
このブログは週に1回、土曜か日曜に更新しています。コメント欄への対応も週末に限らせていただいています。このペースが実生活に過度な負担をかけず、長く続けることができているブログとの距離感だと思っています。週に1回の更新のため、取り上げる題材には事欠きません。一方で、耳目を集めていた話題に触れることができなかった際、その話題に対する私自身の関心の度合いが低いように見られてしまう場合もありました。
「意図的にスルーしている」と言われた時もあり、たいへん戸惑いました。確かにブログに取り上げる題材の選択はその時々の個人的な判断ですが、「取り上げないから軽視している」という訳ではありません。例えば政治的な話題の投稿が続いているため、職務や労働組合の本務を疎かにしているのではないか、そのように誤解されている方は多くないものと考えていますが、念のため、このような説明を改めて加えさせていただきました。
さて、いつも以上に今回は題材選びに悩みました。この1週間、いろいろなことがありました。10月5日月曜は社会保障・税番号制度、いわゆるマイナンバーの施行日でした。水曜には第3次安倍改造内閣が発足しました。組合活動としては日曜に連合地区協議会の「議員団懇談会」があり、衆院議員の長島昭久さんと直接意見を交わす機会を得ていました。火曜午後には連合三多摩の「政策・制度討論集会」に参加し、今年も分科会「子ども・子育て支援新制度スタート~保育の質の確保・向上~」の座長を務めました。
金曜の昼休みには職場委員会を開き、人事評価制度の本格実施に向けた労使協議状況や「人員確保・職場改善要求アンケート」の取り組みなどの報告や提案を行なっています。その夜には昨年に続きフリー懇談会を催し、少人数の参加ながら「組合のニュース自体、あまり読んでいない」という貴重()な意見などを聞くことができました。それぞれのリンク先には関連した以前の記事があるとおり新規記事の題材とすべき重要な内容ばかりです。
特に長島さんと懇談した話は機会を見て、次回以降の記事の中で改めて報告できればと考えています。今回は前回記事(「願望」という調味料)の最後に記した集団心理の話を掘り下げてみます。まず集団心理について説明が必要だと思っていますが、正直なところ私自身が精通している訳ではありません。そのため、受け売りの言葉で書き進めるよりもネット検索して見つけたサイト「集団心理という思考」の中の文章の一部をそのまま紹介させていただきます。
集団心理とは群集心理とも言い、大勢の人が集まり群衆となる事で、個々人が特殊な心理状態となる事で、集団心理が作用すると群衆の結束感(チームワーク)が高まりとてつもなく大きな力となります。良い方向に作用すればとても頼もしいのですが、悪い方向に作用してしまうと大きな問題に発展していきます。集団心理はどこの国においても、教育という現場で巧みに刷り込まれていき、知らず知らずの間に集団心理の中に入っています。集団心理の特殊な心理状態とはいったいどのようなものなのでしょうか?大きくまとめると以下のようなものがあります。
■匿名性が強まる 匿名性とは、自己の言動に対する責任感と個性がなくなることをいいます。TVやネットで見かける匿名希望とは、「責任を持ちたくありません」と言っているようなものです。通常、人は単体行動をしている場合、「個人=私」という意識(理性とも言う)が働いており、悪い事や無責任な事、恥ずかしい事などは出来ないと感じているのですが、それが群集の中の一人となってしまうと、「個人=私」という意識が弱くなってしまいます。例えば一人で裸踊りをやっていればとても恥ずかしいと感じる事でも、大勢で裸踊りをやっていれば自分を特定されにくくなるので、その恥ずかしさは軽減もしくは無くなります。簡単に言うと、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という心理です。
■被暗示性が強まる 被暗示性とは暗示のかかりやすさの事を言います。暗示には逆らえなくする暗示や惹きつける暗示、周囲を遮断する暗示など様々ありますが、群衆の中の一人になると、この被暗示性が高まり暗示にかかりやすくなります。「整列」や「右向け右」、「前ならえ」といったような従った命令も暗示性が強い上での行動です。自分自身の意志を持っている人でさえ、群衆の中では誰かの意見に簡単に乗ってしまったり、その場の雰囲気に従った行動をとってしまいます。また宗教などでよく見られますが、他の人の思いがまるで伝染するように、共通した考えや感情を持ちやすくなります。有名なドイツのヒトラーが大群衆を集めた演説は、観衆の被暗示性が高まるという群集心理を巧みに活用したと言えます。
■感情性が強まる 感情性が強まると物事を論理的に考えられなくなります。つまり冷静でいられなくなるという事です。喜怒哀楽は一人の時よりも、大勢でいる時の方が大きくなりやすいのです。
■大きな力を持っているという錯覚 人は大勢で集まると自分達が強くなったような錯覚を起こします。スポーツの応援や決起集会など、みんな同じ意志で集まっているので、興奮度も高まり更に強くなったという錯覚が高まります。理性の弱い人はこの錯覚をそのまま受け取り、間違った方向へ進んでいきます。
■集団心理のメリットとデメリット 集団心理は作用する形によって、良い面にも悪い面にもなります。ただ集団心理は今の社会心理学においては、メリットよりもデメリットの方が多いとされています。しかし集団心理は学校や会社、軍隊などにおいては統率性をもたらし、スポーツなどではチームワークを形成するなど社会的な面において必要な部分でもあります。
■集団心理のメリット 集団心理が良い方向で作用すると、一つの事に一致団結し協力が生まれていきます。また一人一人の力が弱くても、大勢集まる事で大きな力になります。安心感や爽快感、達成感などといった感覚も一際大きく味わえます。
■集団心理のデメリット 集団心理が悪く作用してしまうと、興奮状態で善悪を判断する思考が出来なくなり、間違った方向であろうと修正することなく、そのまま突き進んでいってしまいます。災害時や戦争時に起きる集団パニックや暴徒化、集団リンチといった事に発展します。
この後に「身近に起こっている集団心理によるイジメ」「集団心理には逆らえない」という記述が続いていますが、今回、前回記事の論点に繋げるための集団心理に関する必要な説明の紹介にとどめています。自分自身の「答え」の正しさを裏打ちするようなサイトや書籍に触れる機会が多く、その入手した情報やモノの見方に「願望」という調味料が混じっていた場合、ますます左右の立場の相違による論調の開きが際立っていくように危惧していることを前回記事の最後に記していました。
さらに同じ考え方や立場の人たちばかりが集まり、持論の正しさを後押しするような講師による勉強会を開いた場合、集団心理の特殊な心理状態に繋がっていくのかも知れません。正しい方向性での一致結束であれば問題ありませんが、「願望」という調味料が混じっていた場合、集団心理のデメリットを警戒していく必要があります。最近の事例として、自民党の若手議員約40人が6月に開いた憲法改正を推進する勉強会「文化芸術懇話会」の中で示された問題発言の数々を思い浮かべています。
「多様な声を認め合うことの大切さ」という記事で取り上げた話ですが、「反日」や「売国」という言葉が飛び交い、出席者から「そうだ、そうだ」という声が上がり、「マスコミをこらしめる」という自民党議員の論外な発言まで飛び出した勉強会でした。普段から仲間内では使っている言葉なのかも知れませんが、メディアに報道されることを見越した場合、あまりにも国会議員としての矜持が疑われる勉強会だったと言えます。問題発言が飛び交っていても、参加者の中から一人も注意する者が現われなかったことは集団心理の状態にそれぞれ至っていたからだろうと見ています。
安保関連法案に反対した国会前の集会の中でも当てはまる事例を思い浮かべています。ある意味でデモや集会そのものが集団心理の特徴を際立たせることを目的にしているため、余計な指摘だとお叱りを受けてしまうのかも知れません。ただ日頃はヘイトスピーチを批判されている方が「戦争法案、ただちに廃案、廃案」と叫ぶ参加者を前にした際、思いがけない激しい言葉を発していくことに少し驚いていました。
立憲主義や憲法の平和主義を踏みにじろうとしている安倍首相に対し、強い憤りを持って集まっている参加者の思いを代弁するように言葉が先鋭化していくのだろうと思っています。特に政治家はTPOに合わせ、空気を読んだ言葉を発することが習わしになっているため、普段とは違う雰囲気を強調されているように見受けられました。法案を巡る最終盤、この国会前集会の熱気は確実に野党側の振る舞いを後押ししたはずです。
採決の際、山本太郎参院議員は喪服での「一人牛歩」で徹底抗戦しました。国会の中では一人だけ浮いた姿となり、世論の評価も決して高かったとは思えません。しかし、深夜まで国会前で採決を見守る反対派の方々にとって山本参院議員の行動は高く評価されたようです。逆に可決後、山本参院議員以外の野党政治家からの報告には今一つ反応が鈍かったことを耳にしています。このあたりは集団心理の特徴的な状態として見ていく必要があるのかも知れません。
私自身、安保関連法案の廃案を願っていた一人です。国会前で連日のように行なわれた反対行動に参加された皆さんに敬意を表しています。一方で、前回記事の「願望」や今回の集団心理という切り口から物事をとらえ直し、より望ましい「答え」を探る努力を重ねていくことの大切さも痛感しています。このような冷静ぶった物言いが「上から目線」のように取られてしまった場合、たいへん残念なことですが、問題提起の一つとして受けとめていただければ幸いです。
問題の多い法案に強い反対の思いを抱き、国会前の群集による熱気に包まれてしまうと「国民の大多数も同じように反対している」と考えがちになります。世論調査の結果、大多数の国民が今国会での成立に反対していたことは確かですが、「同じように反対」だったかどうかは温度差があるはずです。この事実を見誤ると今後の取り組みに対し、より正しい判断に至らなくなる恐れがあります。例えば「廃案」のみをめざした場合、これからも幅広い支持を得られるのかどうか慎重に見極めていくことも必要です。
最後に、安倍首相は「戦争に巻き込まれることはない、戦争を抑止するための法案だ」と「願望」を加味したとも言える説明に終始していました。政府与党内では問題点を訴える政治家が皆無に近いという現状であり、集団心理のデメリットに陥りがちな環境でした。このような中、果たして安保関連法案が国民にとって本当に望ましいものだったのかどうか疑問です。それでも今後、見直すことができないのであれば安倍首相の「願望」通りになることを願うしかありませんが、ぜひ、より望ましい判断を下すためにも一国の最高責任者は真摯に多様な声に耳を傾けて欲しいものです。
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コメント
エントリ本文の最後に、「一国の最高責任者」という表現が出てきたので、改めて考えてみると。
この国の(というか、日本国憲法の下での)統治体制において、「一国の最高責任者って誰」でしょうか?いう話は、以外と深いかも知れないなぁと思ったりします。
内閣総理大臣は、確かに「”行政権”の最高責任者」ですけど、「一国の最高責任者」と100%等値でしょうか?両者を同一視している”だけ”でよいのでしょうか?
安部氏であっても、他の誰かであっても、有権者集団の投票行動(作為・不作為をとわず)がなければ、内閣総理大臣にはなれない政体なわけです。※棄権も不作為の一種だという認識で書いています。
そして、そういう間接制民主主義の制度が機能している程度には、今のこの国は民主的でしょう。
すなわち、選挙結果が忠実に履行されて、政権の担い手が異動する程度には、民主的だろうと思って良いのではないかと。現に、選挙結果が実力(武力や暴力)で否定されるような事態は生じてないので。
※民主的と書いています。民主主義が根付いていると言い切れるかどうか?は、別途考える余地があると思っています。
終局的な責任、無過失で無制限な責任(しかも連帯保証な責任)を負ってるのは、(個々人ではなく)全体としての国民だと思うわけです。
そこで、「首相 = 一国の最高責任者」と定義してしまって(あるいはそういう状況があるなら、それを許してしまっておいて)、「首相(や政府・あるいはその源泉である与党)」を批判する”だけ”で、果たしてそれで済むのか?という思いを抱くわけですよ、ワタクシなどは。
「憲法を遵守する」ってのは、そのとおりだけど、第9条だけが憲法ではないでしょう?統治のルールは、第9条以外の規定に聢とあって、それらの諸規定も遵守されるべき憲法だろうという。
だとすると、「首相 = 一国の最高責任者」という認識自体が、まずどうなのだろうと?「≒の関係」だとは思っていますけどね。
あるいは、第9条に違反する(憲法違反である)ということと、立憲主義を否定するということは、100%等値でしょうか?他の条文や前文からの逸脱は、立憲主義の否定ではないのでしょうか?
とかとか、まぁそのようなコトを考えさせられる一連の流れでした。
「撃って出なければ戦争はない」ってのは不十分で、「撃って出ない。撃たれない。」が揃わないと戦争は起るわけです。
今回は、「撃たれないために」という観点からの論争が必要だったと思うのに、「撃って出なければ戦争はない(という決めつけ)」という論理への是非という構図、あるいは「とにかく、安部氏が気に入らない」という理屈への是非という構図という感じの構図になってしまった感じがして、徒労感が残ります。
現実問題として、「撃たない」のは100%日本のルールですけど、「撃たれない」のは100%他国のルール(日本人を撃たないという他国のルール)ですからね。
例えば、武村正義氏のように、「本来の集団的自衛権 や 今回の法案(極小化された集団的自衛権)には反対。それよりも優先すべきは、自衛隊による個別的自衛権の強化で、対GDP比で2%~3%位は投下する覚悟で、防衛体制を強化拡充して固めるべき。最優先なのは自衛隊の拡充。それが--撃たれないために必要--なこと。」っていう内容の「今回の法案への反対論」もあったし、そういう議論もあってほしかったのですが。
投稿: あっしまった! | 2015年10月12日 (月) 12時43分
「デモ」って「デモンストレーション」であって「デモクラシー」ではないんだよなぁ。と思いつつ、
自分で投稿しておいてアレですけど、恥ずかしながら、先刻のワタクシの投稿は「長すぎ」ですね。
管理人様のお目にとまれば、あとは削除していただいた方が良いのでは?と思うことしきりです。(反省中)
投稿: あっしまった! | 2015年10月12日 (月) 14時04分
よく理解できないので教えていただければ幸いですが
>立憲主義や憲法の平和主義を踏みにじろうとしている安倍首相に対し
この「憲法の平和主義を踏みにじる」って具体的にどの行為を指すんでしょうか。日本は個別的自衛権は有していて、攻め込まれた場合、相手を殺すことも戦争行為であるとOTSU氏も言及していました。
つまり、
個別的自衛権は良い戦争であるから平和主義で
集団的自衛権は悪い戦争だから戦争主義と考えてるのですか?
それとも、
個別的自衛権は最低限の防衛する権利を有するので、平和主義に反しない戦争であると考えるのでしょうか?
私にはどう平和主義を踏みにじってるのかよくわかりません。もともと憲法制定時には、個別的自衛権も否定してたのに、解釈を変えて個別的自衛権を認め、自衛隊も認めたわけですが、この段階では「憲法の平和主義」は踏みにじってないのでしょうか。
ただただよくわからない。それだけです。
投稿: nagi | 2015年10月13日 (火) 19時21分
9条を変えて自衛隊を軍隊にした方が、すっきりしたでしょう。
でも、そんなことをしているうちに、中国にいいようにやられちゃいますよ。
沖縄で辺野古承認を取り消しましたね。
これって、暴挙とは言わないのでしょうか?
主張を通すためなら、何をしてもいいのか?
今国会で議会民主主義の崩壊とまで言った民主党が、どういうコメントを出すか楽しみです。
中国は、最終的には琉球まで手を伸ばそうと企んでいるとか・・・・・
100年掛かるかもしれませんが、中国はじっくり時間を掛けて攻めてくるでしょうね。
さて、沖縄の基地は沖縄を守るために最大の抑止力になりませんか?
米軍の基地を全て撤退させたら、10年で沖縄は中国の自治区になっているかもしれませんね。
私は、沖縄基地反対集会の動員には絶対に行きません。
安保法案反対も、護憲の集会も絶対に行きません。
本来の組合活動のみ、地道にやるだけです。
投稿: 下っ端 | 2015年10月13日 (火) 21時15分
>下っ端氏
改憲したほうが、すっきりするのは間違いないのですが、日本は事実上憲法を変えることができない国です。今回の法案でも反対派が解釈変更でなく改憲しろと主張するのは、改憲が不可能に近いことをよく知ってるからでしょう。
改憲ができないので、長年解釈変更で乗り切ってきたのでしょう。
>私は、沖縄基地反対集会の動員には絶対に行きません。
>安保法案反対も、護憲の集会も絶対に行きません。
個人で行く行かないは自由です。しかし団体での動員には疑問しかありませんね。特に労働組合でそのような活動してるから一般の人が距離を置く、さらに労働問題で組合に加入しようか考えても躊躇するのはこのあたりが理由でしょう。
>本来の組合活動のみ、地道にやるだけです。
労働組合を大切に思う一人として同じ気持ちです。
投稿: nagi | 2015年10月14日 (水) 09時24分
>下っ端氏
>米軍の基地を全て撤退させたら、10年で沖縄は中国の自治区になっているかもしれませんね。
その前に、10年以内に沖縄の米軍基地が全て撤退することそのものが想像できません。
日本国内の米軍基地の内、70%以上が沖縄に存在する現状で、辺野古に基地ができなくとも、普天間飛行場をなくしたとしても微々たる影響しかないと思います。
その程度で抑止力がなくなるとしたら、米軍の兵力も大したことないということになるのではないでしょうか。
また、辺野古は基本的にはヘリポートと飛行場という位置づけであり、辺野古に基地ができなくとも、海兵隊の配備に影響はないと思われます。すでに米軍再編により沖縄から第12海兵連隊司令部等約8,000人及びその家族約9,000人がグアムに移転しています。
辺野古の問題は、日本にとっては公共事業の問題、米側にとっては日本の負担でいかに基地を新設するかということではないかと思います。グァム移転についても、家族住宅を日本負担で約3,500戸建設し、グアムに建設される施設の整備費102.7億円のうち、日本側が60.9億円を支出しています。
そもそも論として、海兵隊配備は対中国というより対テロ戦略における配備と米軍側も言っていますので、対中国の抑止力への影響はほぼ無いと思われます。
以上、長文失礼いたしました。
投稿: ベンガル | 2015年10月14日 (水) 15時39分
ところで、=抑止力=の例えとして時代劇を持ち出すと、
目の前に帯刀した侍がいたとして、
「そもそも抜刀自体を諦めさせる(最低でも躊躇させる)のが=抑止力=」
なのですけど、
「抜刀して構えた刃を納刀させる(斬り付けられるのを未遂ですませる)のが=抑止力=」
だと思ってる人(誤解してる人)って、もしかして、それなりに居られますか?
今の内閣の方針は、「抜刀を諦めさせる(最低でも躊躇させる)のは独力ではムリだから、アメリカ軍と限りなく一体化することで、抜刀を諦めさせる(最低でも躊躇させる)だけの影響力を示そう。それが、戦争を避けることに繋がる」って考え方が=一応は=あるのですけど、その当否や賛否は別として、その意図するところを正しく理解してる人って、割合としてはどの程度なのでしょう。
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話は変わって、海兵隊って、住居と駐車場(地上兵力の在所とヘリ基地)が近接してこそ意味をなすので、ヘリ基地の位置が地上兵力(=部隊の中核)の所在地にも影響します。
というわけで、辺野古(沖縄)にヘリ基地がないなら、海兵隊の地上兵力も(沖縄)から動く必要がありますので、当然、海兵隊の部隊配備に影響してくると思料いたします。
あとは、日本に仕掛けた場合に、必ず(直接・間接は別として)巻き込むことになると言う意味では、そこに(何であれ)部隊が存在するということの意味は皆無ではないかと。
投稿: あっしまった! | 2015年10月14日 (水) 20時44分
長文を自粛したつもりが、やはり長文になっていますが、一応、直近の投稿からの続き。
今のアメリカの世論で、「日本の(某国との)戦争に、アメリカが巻き込まれる」という意見・「日本の戦争に付き合わされる」と言う意見が、それなりの影響力を持っているというのは、そうした「そこに(何であれ)アメリカ軍の部隊が存在する」という現実に裏打ちされた結果でもありますので。
そういう立場に立脚したアメリカの世論(を形成する政治的立場の方々)からすると、「アメリカの戦争に付き合わされる」っていう日本の=自衛権論争=は、それが”あくまでも日本の自衛権についての日本での論争”であるが故に、それなりに心象が悪いでしょうね。
投稿: あっしまった! | 2015年10月14日 (水) 21時52分
上の方のコメントの方に、質問ですけれども、
>日本国内の米軍基地の内、70%以上が沖縄に存在する現状で、
私なんかは、もうこの一行目から誤りというか、誇張があると考えるのですが、例えば、沖縄県が刊行している「沖縄の米軍及び自衛隊基地(統計資料集)」では、
・米軍施設・区域の全国比
全国 133施設 1,027,815千㎡
沖縄 34施設 795,343千㎡
沖縄県の占める比率22.6%
となっており、主張される70%以上というのは米軍専用施設の比率だったりします。そして、一般に米軍基地と言われて、普通に定義されるものとしては22.6%の方が適正かと・・。
先日から、ここのコメントでも話題になっているように、主張に沿うように都合のいい数字を使いたいというのは理解できますが、ちょうど、色々と政府批判のデモの人数が本当かよって数字ばかりが発表されると、せっかくの信じる気も失せてしまうと思うのですよね。
そこら辺は問題ないと思われているのでしょうか?
それとも、自分は絶対に正しいから、疑わずに言うことを聞けの人なのでしょうか。
次の段落からは興味が持てる内容が書かれているだけに、残念に思います。
投稿: | 2015年10月14日 (水) 22時58分
少し補足しますと、
三沢基地は自衛隊の共同使用部分がわずか3%ですが、
米軍専用施設から除外されていますし、横須賀基地は敷地の一部の
海軍施設のみが専用区域とされているなどのことがある訳です。
そして横田基地の取扱もご同様と・・・・。
逆に米軍専用施設なのに自衛隊が使っている施設などもあるので、
沖縄県の占める比率は実は正確には算定できない部分もあるのですが、
仮に22.6%だとしても十分に高い負担な訳です。
デモの人数を控えめに言っても、比率を控えめに言っても、
主張する内容が正しいならば十分に説得力を持ち得るのですから、
それなのに、なぜ眉につばを付けさせるような言葉から主張に入られるのか
ほんと疑問というか、分からないのです。
投稿: | 2015年10月14日 (水) 23時22分
本日(10月15日)の日経朝刊・経済教室の頁に、野中氏による「国会審議、国民に失望感」という表題の文章が掲載されました。ワタクシは、著者の野中氏については詳しくないので、当該論述だけにフォーカスして述べます。
当該論述、とりわけ4段目(第4段落ではなく)辺りからの第3の問題として記される部分です。
最近、ワタクシがこちらで投稿させていただいた一連のコメントに通底する問題意識としては、まさしく コレっ! でして、【今回の、ワタクシの問題意識は、これに尽きる】感じがします。
ただ、言うのは簡単でも、難しいですよねぇ、実際問題として。今回の野党第一党の動向を見ると、当分はここ数年のような政治の有り様がループするんでしょうね。抜け出すには、ハードルが高そうな論点です。
投稿: あっしまった! | 2015年10月15日 (木) 08時22分
たびたび申し訳ありません。
>あっしまった!氏
>というわけで、辺野古(沖縄)にヘリ基地がないなら、海兵隊の地上兵力も(沖縄)から動く必要がありますので、当然、海兵隊の部隊配備に影響してくると思料いたします。
海兵隊の作戦行動は、基本的に強襲揚陸艦を前線基地として想定されています。沖縄の海兵隊の場合は佐世保基地に配備されているボノムリシャールに海兵隊員、LCAC(エアクッション揚陸艦)やLCU(大型上陸用舟艇)、MV-22オスプレイを乗せて現地に赴きます。
現在の上陸作戦は、垂直揚陸作戦から立体的上陸進攻作戦へと変貌しており、海から、空からの作戦行動のために、強襲揚陸艦には、1600名近くの海兵隊員が乗り込み作戦展開します。通常は別々の基地に配備されていることが前提として考えられています。
つまり、辺野古の基地は行動作戦の出撃拠点という位置づけにはなっておらず、辺野古に基地があるなしで海兵隊員の配備に影響があるとは考えられません。
投稿: ベンガル | 2015年10月15日 (木) 09時56分
何度もすみません。コメントが求められているようなのでコメントさせていただきます。
>先日から、ここのコメントでも話題になっているように、主張に沿うように都合のいい数字を使いたいというのは理解できますが、ちょうど、色々と政府批判のデモの人数が本当かよって数字ばかりが発表されると、せっかくの信じる気も失せてしまうと思うのですよね。
防衛省のホームページでは以下のようになっています。
http://www.mod.go.jp/j/approach/zaibeigun/us_sisetsu/sennyousisetum...
全体 82施設・区域 306,226 千㎡
本土 51施設・区域 79,993 千㎡・全体施設に占める割合26.12%
沖縄 31施設・区域 226,233 千㎡・全体施設に占める割合73.88%
私は全体施設に占める割合を申し上げました。都合のいいようにというつもりはありませんが、そのように受け止められたのであれば、謝罪いたします。
私が言いたかったのは、辺野古基地ができるできないで、米軍の配備に大きな影響は無いと申し上げたかったので、そのことだけをコメントすればよかったと反省しています。
申し訳ありませんでした。
投稿: | 2015年10月15日 (木) 10時24分
作戦の拠点が強襲揚陸艦であるが故に、緊急時に佐世保に集結するor揚陸艦と合流する(揚陸艦まで輸送する)ための航空(輸送)兵力が、沖縄の海兵隊遠征軍司令部の近くにないと困るのではないかと思料したわけです。
沖縄に海兵隊の航空(輸送)部隊がないなら、
沖縄に海兵隊の遠征軍司令部を置くことができないのではないか?極端な話、海兵隊の遠征軍を佐世保に移すことと等値ではないか?と、まぁ単なる直感です。
ゆえに、海兵隊の部隊配置(平時の拠点の配置)に、海兵隊の航空(輸送)部隊の位置がリンクしていると思いついたわけでして。
非常時の前方展開に、(佐世保の)海軍部隊の力を借りる必要があるからこそという発想だったわけです。
もちろん、海兵隊のオペレーションに詳しくないが故に、適当に思いついただけなので、そんなことはないなら、ワタクシの見当違いでお恥ずかしい限りということなのです、はい。
投稿: あっしまった! | 2015年10月15日 (木) 10時42分
↑
すみません。米軍「専用」基地のうちの割合です。
投稿: ベンガル | 2015年10月15日 (木) 10時51分
共産党が記者会見で、国民連合政府が政権を取ったら、党綱領の日米安保条約の廃棄を求めないと発言したらしいが、これは駄目でしょう。共産党の共産党しての存在価値を捨てる発言ですよね。これでは政権とれたらなんでもいい。政権取ったら公約なんてまもりませんと言ってるに等しい。
こんなので「国民連合政府」なんて名称は辞めてほしい。
投稿: nagi | 2015年10月15日 (木) 17時21分
この先生の話は本当に興味深いですね。勉強になります。
>http://diamond.jp/articles/-/79962
投稿: nagi | 2015年10月15日 (木) 18時32分
リンク先、拝読しました。
今般の一連の経緯の中で、「所詮は内閣の一部でしかない内閣法制局を、憲法の番人扱い(下手をすると内閣よりも上位な存在だと言わんばかりな扱い)するコトへの違和感」を感じていましたが、
憲法学者の方から、「内閣法制局を憲法の番人扱いにすることへの違和感と解することのできる見解」が表明されるとは、なかなかに興味深いです。
個人的には、当該リンク先の記事で示されたご見解は、全体として腑に落ちるご見解だと思います。今の政権・与党の危うさへのご見解も含めて。
投稿: あっしまった! | 2015年10月15日 (木) 22時41分
記事にでてくる人物はOTSU氏に近い考えの方と思います。国会前にデモした方にこそ読んでほしい記事です。
>http://thepage.jp/detail/20151010-00000002-wordleaf?page=1
投稿: nagi | 2015年10月16日 (金) 08時44分
当該記事に出てくるような運動体への違和感ってのは、外から視ているときも感じてました。
故あって内実に触れる経験もあったのですが、内側からみるとなおさら強く感じたものですた。
運動体の中の人(とりわけ、指導者層・中核層)に、そうした違和感や見方・考え方を、理解(納得ではなく)して貰うのは、相当にハードルが高いとも思います。
所謂「市民運動」や「労働運動」では勝てない。(というか、社会は動かせないし、臨む結果は得られない。)
だから「市民や労働者のではなく、本当の意味で大衆運動として展開できるように運ばないとダメだ」と言うようなことは、何度となく主張してみたのですけど、そのときの反応から受けた印象からは、難しいと思います。
ワタクシの「市民運動や労働運動でなく、広く大衆運動(庶民運動と言ってもよいかな)でなければ」という言い回しもアレな感じで巧い言い方ではないのですが、この両者の概念というか感覚の違いがなかなか理解して貰えないという印象でした。
政治的な運動(闘争)とは「そのじつは、闘争でなく、交渉(政治的な議論)なのだ」って発想は、どうにも受入困難なのだろうなって印象ですね。
投稿: あっしまった! | 2015年10月16日 (金) 14時36分
あっしまった!さん、nagiさん、下っ端さん、ベンガルさん、2015年10月14日(水)22時58分、2015年10月14日(水)23時22分、2015年10月15日(木)10時24分に投稿された方、コメントありがとうございました。
個別にお答えしなければならない問いかけもありましたが、コメント欄に寄せられたご意見を受けとめ、いろいろ思うことを記事本文の中で綴らせていただくつもりです。このような関係性について、いつものことながらご理解ご容赦くださるようよろしくお願いします。
なお、匿名での投稿を基本としていますが、意見交換をスムースに行なうためにもお名前(ハンドルネーム)の記載にはご協力くださるようお願いします。
投稿: OTSU | 2015年10月17日 (土) 21時00分