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2015年10月24日 (土)

自治労都本部大会での発言

土曜日、自治労都本部の第63回定期大会が開かれ、代議員の一人として参加しました。久しぶりに方針案討議の中で発言する機会を得ました。書記長時代、ほぼ毎年のように何らかの発言をしてきたことを覚えています。委員長になってからは初めてだったかも知れません。ブログを通して訴えていることは実生活の中でも同様に訴えているつもりです。私どもの組合の中では実践できていますが、自治労都本部の会議ではその機会は限られています。

その意味で貴重な機会を得られたものと考えています。下記のような発言内容に対し、人によって受けとめ方や評価は分かれていくものと思います。単組の中でも事前に発言内容の原稿を見せたところ、書記長からは予想以上の反発を受けました。他の複数の役員からは「バランスが取れていて良いと思います」「委員長らしい内容ですね」という声を受け、ほぼ事前に用意した原稿のとおり発言しています。

今回、いろいろ多忙な時期でもあり、ブログの新規記事の投稿は労力的な負担が減る方式を取らせていただきました。つまり自治労都本部大会で発言した原稿内容の紹介を中心にした新規記事の投稿です。不特定多数の方々にはどのように受けとめられるのか興味もあったため、以下、自治労都本部の大会で発言した内容の全文をそのまま紹介させていただきます。

自治労都本部の方針を支持し、補強する立場で発言させていただきます。実は私自身、都本部の大会での発言はたいへん久しぶりになります。長い間、自治労大会にも参加できていません。介護の事情があるからでした。念のため、決して自治労から距離を置こうと考えている訳ではありませんのでご理解ご容赦ください。一方で、このような事情があり、自治労の様々な取り組みに充分対応できていないため、都本部大会で発言するのもおこがましく思い、控えてきた気持ちがありました。

今回、久しぶりに発言する機会に至った経緯は後ほど説明させていただきます。あえて後に回す理由として、今回の発言は自治労運動に苦言や批判を加えることが目的ではないことを先に強調すべきものと考えているからです。私自身、単組の青年婦人部の幹事を引き受けてから30年以上、自治労運動に関わってきました。その間、仕事だけでは得られない貴重な経験や交流をはかることができました。

平和や人権を大切にする自治労の運動を強く支持し、その運動が広がるよう自分なりに努力してきているつもりです。その一つの試みとして、10年前に個人の責任でブログを始めました。記事本文は毎週1回更新し、コメント欄は即座に反映するフルオープンの場としています。そのことを通し、自治労の運動が外部、もしくは自治労組合員からどのように見られがちなのか、把握できる機会となっていました。

もちろんネット上の声がすべてではありません。ただ手厳しい批判や指摘が匿名だからこそ知り得る本音であることも確かだろうと思っています。安保関連法案を巡る問題の時などが顕著な機会でした。この法制の必要性を訴えるコメントが寄せられる中、自治労の組合員の方からも同様な声が届いていました。世論調査の結果は安保関連法案に反対する国民が多数で、SEALDsに代表されるような画期的な動きがあったことも確かです。

それでも安倍内閣の支持率は40%前後で踏みとどまっています。この4割の中に自治労の組合員も同様な割合で占めていることを認識すべきだろうと思っています。このような認識を持ち、日常的な組合活動を進めるのかどうか、私自身はその必要性を強く認識するようになっています。自民党の改憲草案の中では国防軍と明記されているため、安倍首相が「普通に戦争ができる国」をめざしていると言っても間違いありません。

しかし、安倍首相が「戦争をしたがっている」と批判した場合、あくまでも抑止力を高め、戦争を未然に防ぐための法整備であるという反発を招きがちとなります。自治労組合員の中にも少数ではないはずの法案賛成派や安倍首相を支持する方々にも届く言葉、そのような言葉を意識していくことが大切だろうと思っています。いずれにしても多岐にわたる情報があふれる中、個々人の価値観は多様化しています。

そのため、組合の活動方針と組合員一人ひとりとの問題意識に溝が生じないように注意していかなければなりません。その溝が広がっていくと組合活動全体に対する結集力の低下に繋がりかねません。そのような事態を避けるためには特に政治的な活動の必要性や意義について、日頃から丁寧な情報発信に努めていくことが非常に重要です。よりいっそう「なぜ、取り組むのか」「なぜ、反対しているのか」という説明が欠かせないのではないでしょうか。ぜひ、自治労都本部の運動の中でも、このような問題意識に留意していただけるよう願っています。

続いて、今回の発言に至った経緯です。自治労本部の機関紙『じちろう』10月1日号の4面に掲載された「漫画レーダー」のタイトルは「豪雨と洪水の時代」でした。「集団的自衛権の抜け道で削ったとこだ」とセリフがあり、堤防の一部が決壊した情景を描いていました。安倍首相らの強引な解釈による集団的自衛権に対する風刺画であることは理解できます。しかし、豪雨災害で実際に甚大な被害を受けた方々の気持ちを慮った際、この風刺画が適切だったかどうか強い疑念の声が上がっていました。

私どもの執行委員会の中でも指摘を受け、今回の発言に至っています。本部に直接伝えるべき事例なのかも知れませんが、先ほどの話とともに都本部の大会の中で周知することで、日常の運動を見つめ直すための一つの問題提起とさせていただきました。以上の発言は議案に対し、具体的な箇所を指摘するものではありませんが、趣旨をおくみ取りいただければ幸いですので、よろしくお願いします。

最後に、本日、議案書と一緒に「砂川闘争60周年のつどい」のチラシが配られています。11月5日夜に開かれます。地元住民の反対闘争で基地拡張を阻止した画期的な闘争でした。連日行動が予定されている多忙な時期ですが、ぜひ、多くの方に参加いただけることを願っています。 よろしくお願いします。

最後の「砂川闘争60周年のつどい」の箇所は事前に原稿を用意した訳ではなく、当日、追加した内容でした。この発言の後、特に反発や冷めた雰囲気は感じられませんでした。事前に強く反発していた書記長も「実際に聞いた印象は読んだ時と違いますね」と感想を漏らしていました。方針案の提案者である自治労都本部の副委員長からは「全体的に重要な中味として受けとめ、本部の会議等の中で伝えていきたい」とお答えいただきました。

発言した直後の休憩時間、他の組合の若い役員の方から声をかけられました。言い回しは少し違っていたかも知れませんが「モヤモヤしていたのが晴れました。きれいな言葉で、うまく発言されていたと思います」と話しかけられ、たいへん好意的な評価を寄せていただきました。さらに発言の中で触れたブログにも興味を持たれ、私から「公務員のためいき、ためいきを平仮名で検索できます」と案内する機会にも繋がっていました。

ちなみに私どもの組合の定期大会は11月13日夜に開かれます。都本部よりも歴史が古い回数を表わす70回という節目の大会を迎えます。大会に先がけ、来週火曜日から組合役員の信任投票が行なわれます。昨年の記事「組合役員の改選期、インデックス」に託したような思いのもと引き続き執行委員長に立候補しました。今年も選挙公報に掲げた私自身の原稿内容をそのまま紹介し、最後まで省力化をはかった記事の結びとさせていただきます。

組合役員を長く続ける中で「組合は大事」という思いを強めてきました。経営者側の思惑だけで働き方が決められていった場合、昨今取沙汰されている「ブラック」な話につながりかねません。働く側の視点や声が反映された労働条件の維持向上が欠かせず、そのために様々な労働法制が整えられ、労働組合の役割が重視されています。

働き方の問題に限らず、より望ましい「答え」を見出すためには多面的で多様な考え方や見方をもとに判断していくことが重要です。 偏った意見や情報だけで決めてしまった場合、大きな問題が生じかねません。あらゆる場面で留意すべきことであり、組合組織の中でも同様です。そのため、よりいっそう組合員の皆さん一人ひとりの多様な声が届く組合活動に向けて努力していきます。新たな一年、様々な難題に対し、引き続き組合運動の先頭に立ち、 全力を尽くす決意ですので、よろしくお願いします。

◎ 毎週1回更新しているブログ『公務員のためいき』もご覧いただければ幸いです。

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2015年10月18日 (日)

秋、あれから10年2か月

秋、あれから2か月」というタイトルを付けた以前の記事があります。今、2015年の秋を迎えていますが、その記事の投稿から10年、このブログを始めてからの年月で言えば10年2か月となります。本当に長い年月が過ぎています。毎週末の更新を重ね、投稿した記事の数は600以上となり、寄せられたコメントは1万件を大きく超えています。その10年前の記事には次のような記述が残っています。

多くの組合員に組合の活動などを身近に感じてもらうため、従来の情報宣伝方法に加えてインターネット利用は効果的ではないだろうかと数年前から考えていました。また、一方的な言われ方の公務員バッシングに対して、公務員側の言い分も発信する必要があるのではないだろうかと最近考え始めていました。ただ組合の公式ホームページは不特定多数に発信する困難さや日常的な管理面などの問題が議論となり、すぐに開設できる見込みはありませんでした。

2005年8月、ブログ初心者のまま開設した直後、ネット上に自分の意見を発信できる面白さにはまり、とにかく書き込みたい話を立て続けに投稿していました。開設してから2か月が経ち、改めてブログを始めた理由や経緯を記していました。上記がその記事内容の一部でした。個人の責任で開設し、あくまでも管理人「OTSU」が個人的に運営しているブログですが、組合の公式ホームページの立ち上げが難しく、その代替的な役割をめざしたスタートであることを説明していました。

この開設当初の位置付けのもとに当ブログのことを組合員や知り合いの皆さんらに宣伝してきています。そのため、組合員や知り合いの皆さんらにとって「OTSU」は匿名ではありません。したがって、不特定多数の方々への発信を意識しつつブログでの発言の重さを踏まえながら、私どもの組合の方針や活動を伝える記事内容の投稿に努めています。さらに自分自身ができる等身大の「運動」の一つとしてブログと向き合っているつもりです。

ただ残念ながら『公務員のためいき』の存在さえ知らない組合員も多いようであり、一度も閲覧されていない方々は相当な数に上るものと受けとめています。仮に公式ホームページだったとしても大差のない傾向だったかも知れませんので、あまり一喜一憂せずに淡々と構えています。とは言え、私どもの組合の副委員長らからも「あまり見ていない」と告げられてしまうと非常に寂しく、残念な思いを強めています。

最近、副委員長の一人から「委員長個人のブログなので…」という言葉を耳にし、前述したような経緯や自分なりの問題意識を改めて説明する機会に繋がっていました。決して閲覧を強要する話ではなく、コメント欄に寄せられる意見が貴重であるため、「できれば見て欲しい」という正直な思いを伝えていました。自治労の運動が外部、もしくは自治労組合員からどのように見られがちなのか、ともに問題意識を共有化していかなければならない立場であるため、そのようなやり取りを交わしていました。

副委員長としてはブログに書き込んでいる私自身の主張に対しても腑に落ちない内容があるようでした。私自身のスタンスとして、組合の運動方針の押し付けは絶対避けるように心がけています。特に政治的な活動に関しては、より慎重かつ丁寧に「なぜ、取り組むのか」「なぜ、反対しているのか」という説明に力を注いでいます。その上で、どこまで実践できているのかどうか分かりませんが、最近の記事に託したような「願望」という調味料集団心理のデメリットについて留意するように努めています。

自治労の運動方針を支持している立場ですので、そこから逸脱するような主張はないはずです。それでも自治労の議案書や機関紙の言葉を引用することは皆無に近く、すべて自分なりの問題意識を踏まえた言葉に置き換えてブログ記事の投稿を重ねています。その結果、いわゆる左や右でとらえた時、私自身の主張は「右に傾きがちだ」と見られてしまう場合もあるようです。自治労の機関紙が発する言葉のほうを強く支持している副委員長にとって、そのような意味合いで当ブログの内容は違和感や物足りなさを感じているようでした。

先ほど多くの組合員に組合活動を身近に感じてもらうためにブログを開設したという経緯を記していました。ただ閲覧されている方々が多くないため、組合のニュースや機関誌という紙媒体にもブログの記事内容を頻繁に転用していました。その逆に紙媒体で扱った内容を後からブログ記事に掲げる時もありました。このことはネット上と実際の場面での主張を使い分けていない証しとも言えました。ちなみにネット上に発信した内容が圧倒多数の方々から批判を受けるようであれば、何か大きな問題点があることを認識すべきものと考えています。

今年8月6日付で発行した機関誌の特集記事「戦後70年、平和憲法の曲がり角」は私自身の記名原稿でした。最近のブログ記事の最後に全文をそのまま紹介した内容、ブログ記事を転用して機関誌に繋げた内容、先に機関誌の原稿があってブログに加筆補正した内容があります。参考までに機関誌の内容が分かるブログ記事に飛べるリンクをはった上、それぞれの章の見出しを紹介させていただきます。その前後には「はじめに」「なぜ、組合が反戦平和の課題にも取り組むのか」「おわりに」を今回の記事で初めて紹介します。

はじめに 春闘期に発行する機関誌『市職労報』の誌面を使い、毎年、情勢や諸課題に対する様々な思いを綴ってきました。組合ニュースの紙面だけでは情勢などに詳しく触れられないため、そのような点を補う意味合いから『市職労報』を通して様々な情報を発信してきています。そのことによって、少しでも情勢や諸課題に対する認識が組合員の皆さんと共有化できることを願っています。今回、戦後70年という節目にあたり、平和に関する課題を綴る機会を得ています。

いみじくも国会では集団的自衛権の行使を認める法案の行方が大きな焦点となっています。憲法学者の圧倒多数が「違憲」とし、国民の多数が反対している法案にもかかわらず、安倍政権は現有議席の多数をもって強引に成立させようとしています。平和憲法の曲がり角とも言える今、この誌面を通して私なりの問題意識や情勢認識を書き進めていくつもりです。なお、このような反戦平和の課題に関しては一人ひとり様々な見方や考え方をお持ちだろうと思っています。そのため、より望ましい「答え」を導き出すための議論材料の一つとして受けとめていただければ幸いです。

なぜ、組合が反戦平和の課題にも取り組むのか そもそも論とも言える話から改めて入らせていただきます。労働組合の最も重要な役割は組合員の雇用や生活を守ることです。労働条件の問題は使用者側と労使交渉を通して決めていきます。一方で、組合員の暮らしに大きな影響を及ぼす可能性があったとしても、社会的・政治的な課題は一組合の力だけでは到底関与できない領域となります。そのため、社会的・政治的な課題に対し、歴史的にも国際的にも多くの組合が集まって大きな力を発揮できるようにしてきました。そのような中で私どもの組合は自治労や平和運動センターに結集し、平和で暮らしやすい社会をめざしています。具体的な取り組みとして軍事基地や原発の問題などがあり、それぞれ定期大会で活動方針を確認し、できる範囲内で取り組んでいます。

ただ多岐にわたる情報があふれる中、個々人の価値観は多様化しています。そのため、組合の活動方針と組合員の皆さんとの問題意識に溝が生じないように注意していかなければなりません。その溝が広がっていくと組合活動全体に対する結集力の低下に繋がりかねません。そのような事態を避けるためには政治的な活動の必要性や意義について、日頃から丁寧な情報発信に努めていくことが非常に重要です。「なぜ、取り組むのか」という率直な疑問に答えながら相互理解や信頼関係を高める組合運動がよりいっそう求められているものと考えています。「はじめに」にも記したとおり今回の特集記事が、その一助となれば本望なことです。

おわりに 今回の特集で安保関連法案の問題から横田基地、砂川闘争、戦後70年談話まで幅広いテーマを綴らせていただきました。それぞれ冒頭に記したとおり私自身の思いを託した報告や提起となっています。そのことをご理解いただきながら組合員の皆さん一人ひとり、平和の築き方を考えるための議論材料になり得ることを願っています。なお、この特集記事も個人の責任で運営しているブログ『公務員のためいき』に書き込んだ記事内容を数多く引用しています。不特定多数の方々が閲覧できるサイトである一方、やはり一人でも多くの組合員の皆さんにご覧になっていただきたいものと願っています。そのような願いがあるため、インターネット上に限らず、今回のような紙媒体を通して組合員の皆さんに提起する機会を頂戴しています。そのブログは毎週1回週末に更新しています。ぜひ、機会がありましたら、ご覧いただければ幸いです。

前回記事には多くのコメントをお寄せいただきました。nagiさんからは私自身への問いかけがありましたが、たいへん恐縮ながら次回以降の記事でお答えさせていただきます。今回、下っ端さんの「安保法案反対も、護憲の集会も絶対に行きません。本来の組合活動のみ、地道にやるだけです」という言葉が引っかかり、このような記事内容に繋げていました。下っ端さんは自治労の組合員であるようですが、政治的な課題の集会に行くことを強要する組合のほうが極めて少なくなっているように見ています。

いずれにしても私どもの組合員の中にも下っ端さんと同じように考えている方が多いはずです。もちろんネット上の声がすべてではありませんが、匿名だからこそ知り得る本音であることも確かです。そのことを認識し、日常的な組合活動を進めるのかどうか、その大切さは言うまでもありません。「戦争法案に反対しよう!」という呼びかけの前に「なぜ、安保関連法案が問題なのか?」というアプローチが強く求められているものと思っています。そのような目的をもとに8月に発行した機関誌に上記のような特集記事を寄稿していました。

お読みいただいた方の感想は幸いにも「分かりやすかった」と概ね好意的な評価でした。ただ残念ながら「あれはないよ」と厳しく批判される方の声も耳にしています。その方からすれば私自身が「昔に比べて右寄りになっている」と見なさざるを得ない記事内容だったようです。そのような声があることも謙虚に受けとめていくつもりですが、ブログを閲覧されている常連の皆さんにとって「私が右」という見方は意外に思われるのではないでしょうか。

このブログを開設し、10年2か月、本当に幅広く様々な意見に触れることができました。コメント欄に寄せられた率直な声を受けとめ、記事本文に向き合ってきた年月は貴重な自己啓発の場に繋がっていたものと考えています。私自身、基本的な考え方が変わったという意識はありませんが、多様な「答え」を認め合っていくことの大切さはブログを続けている中で強まっていきました。今回、まとまりのない記事内容になってしまったかも知れませんが、今、思うことを気ままに書き進めさせていただきました。

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2015年10月11日 (日)

集団心理のデメリット

このブログは週に1回、土曜か日曜に更新しています。コメント欄への対応も週末に限らせていただいています。このペースが実生活に過度な負担をかけず、長く続けることができているブログとの距離感だと思っています。週に1回の更新のため、取り上げる題材には事欠きません。一方で、耳目を集めていた話題に触れることができなかった際、その話題に対する私自身の関心の度合いが低いように見られてしまう場合もありました。

「意図的にスルーしている」と言われた時もあり、たいへん戸惑いました。確かにブログに取り上げる題材の選択はその時々の個人的な判断ですが、「取り上げないから軽視している」という訳ではありません。例えば政治的な話題の投稿が続いているため、職務や労働組合の本務を疎かにしているのではないか、そのように誤解されている方は多くないものと考えていますが、念のため、このような説明を改めて加えさせていただきました。

さて、いつも以上に今回は題材選びに悩みました。この1週間、いろいろなことがありました。10月5日月曜は社会保障・税番号制度、いわゆるマイナンバーの施行日でした。水曜には第3次安倍改造内閣が発足しました。組合活動としては日曜に連合地区協議会の「議員団懇談会」があり、衆院議員の長島昭久さんと直接意見を交わす機会を得ていました。火曜午後には連合三多摩の「政策・制度討論集会」に参加し、今年も分科会「子ども・子育て支援新制度スタート~保育の質の確保・向上~」の座長を務めました。

金曜の昼休みには職場委員会を開き、人事評価制度の本格実施に向けた労使協議状況や「人員確保・職場改善要求アンケート」の取り組みなどの報告や提案を行なっています。その夜には昨年に続きフリー懇談会を催し、少人数の参加ながら「組合のニュース自体、あまり読んでいない」という貴重()な意見などを聞くことができました。それぞれのリンク先には関連した以前の記事があるとおり新規記事の題材とすべき重要な内容ばかりです。

特に長島さんと懇談した話は機会を見て、次回以降の記事の中で改めて報告できればと考えています。今回は前回記事(「願望」という調味料)の最後に記した集団心理の話を掘り下げてみます。まず集団心理について説明が必要だと思っていますが、正直なところ私自身が精通している訳ではありません。そのため、受け売りの言葉で書き進めるよりもネット検索して見つけたサイト「集団心理という思考」の中の文章の一部をそのまま紹介させていただきます。

集団心理とは群集心理とも言い、大勢の人が集まり群衆となる事で、個々人が特殊な心理状態となる事で、集団心理が作用すると群衆の結束感(チームワーク)が高まりとてつもなく大きな力となります。良い方向に作用すればとても頼もしいのですが、悪い方向に作用してしまうと大きな問題に発展していきます。集団心理はどこの国においても、教育という現場で巧みに刷り込まれていき、知らず知らずの間に集団心理の中に入っています。集団心理の特殊な心理状態とはいったいどのようなものなのでしょうか?大きくまとめると以下のようなものがあります。

匿名性が強まる 匿名性とは、自己の言動に対する責任感と個性がなくなることをいいます。TVやネットで見かける匿名希望とは、「責任を持ちたくありません」と言っているようなものです。通常、人は単体行動をしている場合、「個人=私」という意識(理性とも言う)が働いており、悪い事や無責任な事、恥ずかしい事などは出来ないと感じているのですが、それが群集の中の一人となってしまうと、「個人=私」という意識が弱くなってしまいます。例えば一人で裸踊りをやっていればとても恥ずかしいと感じる事でも、大勢で裸踊りをやっていれば自分を特定されにくくなるので、その恥ずかしさは軽減もしくは無くなります。簡単に言うと、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という心理です。

被暗示性が強まる 被暗示性とは暗示のかかりやすさの事を言います。暗示には逆らえなくする暗示や惹きつける暗示、周囲を遮断する暗示など様々ありますが、群衆の中の一人になると、この被暗示性が高まり暗示にかかりやすくなります。「整列」や「右向け右」、「前ならえ」といったような従った命令も暗示性が強い上での行動です。自分自身の意志を持っている人でさえ、群衆の中では誰かの意見に簡単に乗ってしまったり、その場の雰囲気に従った行動をとってしまいます。また宗教などでよく見られますが、他の人の思いがまるで伝染するように、共通した考えや感情を持ちやすくなります。有名なドイツのヒトラーが大群衆を集めた演説は、観衆の被暗示性が高まるという群集心理を巧みに活用したと言えます。

感情性が強まる 感情性が強まると物事を論理的に考えられなくなります。つまり冷静でいられなくなるという事です。喜怒哀楽は一人の時よりも、大勢でいる時の方が大きくなりやすいのです。

大きな力を持っているという錯覚 人は大勢で集まると自分達が強くなったような錯覚を起こします。スポーツの応援や決起集会など、みんな同じ意志で集まっているので、興奮度も高まり更に強くなったという錯覚が高まります。理性の弱い人はこの錯覚をそのまま受け取り、間違った方向へ進んでいきます。

集団心理のメリットとデメリット 集団心理は作用する形によって、良い面にも悪い面にもなります。ただ集団心理は今の社会心理学においては、メリットよりもデメリットの方が多いとされています。しかし集団心理は学校や会社、軍隊などにおいては統率性をもたらし、スポーツなどではチームワークを形成するなど社会的な面において必要な部分でもあります。

集団心理のメリット 集団心理が良い方向で作用すると、一つの事に一致団結し協力が生まれていきます。また一人一人の力が弱くても、大勢集まる事で大きな力になります。安心感や爽快感、達成感などといった感覚も一際大きく味わえます。

集団心理のデメリット 集団心理が悪く作用してしまうと、興奮状態で善悪を判断する思考が出来なくなり、間違った方向であろうと修正することなく、そのまま突き進んでいってしまいます。災害時や戦争時に起きる集団パニックや暴徒化、集団リンチといった事に発展します。

この後に「身近に起こっている集団心理によるイジメ」「集団心理には逆らえない」という記述が続いていますが、今回、前回記事の論点に繋げるための集団心理に関する必要な説明の紹介にとどめています。自分自身の「答え」の正しさを裏打ちするようなサイトや書籍に触れる機会が多く、その入手した情報やモノの見方に「願望」という調味料が混じっていた場合、ますます左右の立場の相違による論調の開きが際立っていくように危惧していることを前回記事の最後に記していました。

さらに同じ考え方や立場の人たちばかりが集まり、持論の正しさを後押しするような講師による勉強会を開いた場合、集団心理の特殊な心理状態に繋がっていくのかも知れません。正しい方向性での一致結束であれば問題ありませんが、「願望」という調味料が混じっていた場合、集団心理のデメリットを警戒していく必要があります。最近の事例として、自民党の若手議員約40人が6月に開いた憲法改正を推進する勉強会「文化芸術懇話会」の中で示された問題発言の数々を思い浮かべています。

多様な声を認め合うことの大切さ」という記事で取り上げた話ですが、「反日」や「売国」という言葉が飛び交い、出席者から「そうだ、そうだ」という声が上がり、「マスコミをこらしめる」という自民党議員の論外な発言まで飛び出した勉強会でした。普段から仲間内では使っている言葉なのかも知れませんが、メディアに報道されることを見越した場合、あまりにも国会議員としての矜持が疑われる勉強会だったと言えます。問題発言が飛び交っていても、参加者の中から一人も注意する者が現われなかったことは集団心理の状態にそれぞれ至っていたからだろうと見ています。

安保関連法案に反対した国会前の集会の中でも当てはまる事例を思い浮かべています。ある意味でデモや集会そのものが集団心理の特徴を際立たせることを目的にしているため、余計な指摘だとお叱りを受けてしまうのかも知れません。ただ日頃はヘイトスピーチを批判されている方が「戦争法案、ただちに廃案、廃案」と叫ぶ参加者を前にした際、思いがけない激しい言葉を発していくことに少し驚いていました。

立憲主義や憲法の平和主義を踏みにじろうとしている安倍首相に対し、強い憤りを持って集まっている参加者の思いを代弁するように言葉が先鋭化していくのだろうと思っています。特に政治家はTPOに合わせ、空気を読んだ言葉を発することが習わしになっているため、普段とは違う雰囲気を強調されているように見受けられました。法案を巡る最終盤、この国会前集会の熱気は確実に野党側の振る舞いを後押ししたはずです。

採決の際、山本太郎参院議員は喪服での「一人牛歩」で徹底抗戦しました。国会の中では一人だけ浮いた姿となり、世論の評価も決して高かったとは思えません。しかし、深夜まで国会前で採決を見守る反対派の方々にとって山本参院議員の行動は高く評価されたようです。逆に可決後、山本参院議員以外の野党政治家からの報告には今一つ反応が鈍かったことを耳にしています。このあたりは集団心理の特徴的な状態として見ていく必要があるのかも知れません。

私自身、安保関連法案の廃案を願っていた一人です。国会前で連日のように行なわれた反対行動に参加された皆さんに敬意を表しています。一方で、前回記事の「願望」や今回の集団心理という切り口から物事をとらえ直し、より望ましい「答え」を探る努力を重ねていくことの大切さも痛感しています。このような冷静ぶった物言いが「上から目線」のように取られてしまった場合、たいへん残念なことですが、問題提起の一つとして受けとめていただければ幸いです。

問題の多い法案に強い反対の思いを抱き、国会前の群集による熱気に包まれてしまうと「国民の大多数も同じように反対している」と考えがちになります。世論調査の結果、大多数の国民が今国会での成立に反対していたことは確かですが、「同じように反対」だったかどうかは温度差があるはずです。この事実を見誤ると今後の取り組みに対し、より正しい判断に至らなくなる恐れがあります。例えば「廃案」のみをめざした場合、これからも幅広い支持を得られるのかどうか慎重に見極めていくことも必要です。

最後に、安倍首相は「戦争に巻き込まれることはない、戦争を抑止するための法案だ」と「願望」を加味したとも言える説明に終始していました。政府与党内では問題点を訴える政治家が皆無に近いという現状であり、集団心理のデメリットに陥りがちな環境でした。このような中、果たして安保関連法案が国民にとって本当に望ましいものだったのかどうか疑問です。それでも今後、見直すことができないのであれば安倍首相の「願望」通りになることを願うしかありませんが、ぜひ、より望ましい判断を下すためにも一国の最高責任者は真摯に多様な声に耳を傾けて欲しいものです。

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2015年10月 3日 (土)

「願望」という調味料

インターネットが普及し、たいへん幅広い情報やモノの見方がコストをかけず、容易に入手できるようになっています。一昔前の入手先は新聞、雑誌、書籍などに限られ、その発信者はメディア関係者や有識者が占めていました。他には口コミや参加した講演会などから情報を得るぐらいでした。つまり意識的に手間やコストをかけなければ、幅広く多面的な情報に接する機会が乏しい時代だったと言えます。

より望ましい判断や評価を個々人が下していくためには多様な情報を得ることはもちろん、正しい事実関係を把握していくことが重要です。このあたりは「マイナーな情報を提供する場として」という記事の中で示したとおりであり、このような問題意識を抱えながらブログの更新を重ねています。そのような趣旨のもと前回の記事「主催者と警察発表の落差」も投稿していました。ただ「主催者発表約12万人は実数に近いものと判断していました」と記したことで、意図した趣旨がうまく伝わらなかった点を省みています。

前回の記事で強調したかった点は3万3千人という警察発表が「特定のエリアの一時点における人数」だったという事実です。主催者側は日比谷公園を含む国会周辺全体での反対行動に参加した人数を発表しているのにもかかわらず、警察側の数字を前提にした批判が多かったため、前回のような内容のブログ記事に繋げていました。それでも12万人は主催者が極端に水増しした数字であり、国会周辺の面積等を考慮した場合、現実的な数ではないという指摘が引き続き寄せられていくのかも知れません。

私自身が現場に居合わせた実感としては、仮に12万人を20万人だと言われても疑う理由が見当たらないほどの「人、人、人」に包まれた数時間だったことに間違いありません。つまり「12万人は実数に近いものと判断」と記したことは、あくまでも私自身の感じ方から主催者発表の数字を疑わない立場での記述でした。12万人が絶対正しいと強調するための記事ではなかったことを改めてご理解願えれば幸いです。

国会の質疑で明らかになったとおり警察発表は国会正門前に限った数字であり、前回の記事では安保関連法案に反対の意思を持って国会周辺に集まった参加者の総数が「3万3千人は事実に反する」という点を強調したつもりでした。実際、何万人訪れていたのか、正確な数字を断定することは難しいものと考えています。参考までに詳しく検証されている「8・30反安保法案集会参加者数報道に思うこと」という他のサイトを紹介させていただきます。

いずれにしても正確な参加者数を解明することに固執している訳ではなく、前提とすべき事実認識に隔たりがあるまま対立し合うことの問題点を提起していました。より望ましい判断や評価を個々人が下していくためにも、正しい事実関係を把握していくことが重要であることは前述したとおりです。最近、古谷経衡さんの『左翼も右翼もウソばかり』という新書を購入し、一気に読み終えていました。全体を通し、共感する記述の多い著書でした。

左右両極端のイデオロギーの主張には、多分に「願望」という調味料が混じっていることを私は見逃さない。官邸前抗議集会の例で言えば、左からは「国民、特に若者が反安倍で一致団結していて欲しい」、右からは「反安倍集会をやっているのは一部の左翼団体の構成員であって欲しい」という願望が、いつの間にか「事実」にすり替えられてしまっているのだ。

上記は著書からの抜粋ですが、よく人間は「自分の見たいものしか見ない」と言われ、自分の立ち位置に好都合な解釈を付与させがちになることを古谷さんは説いています。12万人の話で考えれば、参加者数を反対派は「より多く」、賛成派は「より少なく」解釈し、好都合な「事実」にすり替えている顕著な事例の一つだったと言えます。12万人を疑わない私自身も「願望」という調味料を加えている一人だと思いますが、前述した警察発表の「事実」だけは広く伝えたかった点でした。

私の定義する「意志」は「願望」と同様に思念の一種なのだが、全く違うものだ。「願望」は後ろ向きの逃避だが、「意志」は前進性を持つ。現実の世界を冷徹に見つめて、そこから具体的な解決・成功方策を導き出そうとする思念こそが「意志」である。「意志」には戦闘性が含まれている。現実と具体的に戦い、それを変革させるためには、実際的な力と行動計画が必要だ。

目を背けたくなるような事実に直面したとしても、「願望」にすがりつくのではなく、その不利な現実を変革するための知恵や力を出すための「意志」を持つことの大切さを古谷さんは訴えています。著書の中で、ソ連の参戦はないと大本営が判断したことを一例にあげています。ソ連参戦は日本の敗北を決定的なものとするため、「あって欲しくない」という「願望」から事実認識を誤らせたと古谷さんは指摘していました。

ちなみに左翼と右翼のウソとなる具体的な事例が数多く紹介されていましたが、大半はうなづけるものでした。興味を持たれた方は、ぜひ、古谷さんの著書をご覧になってください。今回は正しい事実関係を把握していくこと、幅広い情報を得ていくことの大切さに思いを巡らす機会としています。ここで冒頭に掲げた話を逆説的に考えてみます。現在、ネットから幅広い情報やモノの見方が容易に入手できます。

しかし、必ずしも誰もがそのような手間をかけ、意識的に異質な考え方に触れるように努めている訳でもないようです。逆に自分自身の「答え」の正しさを裏打ちするようなサイトや書籍に触れる機会が多くなっているのかも知れません。さらに入手した情報やモノの見方に「願望」という調味料が混じっていた場合、ますます左右の立場の相違による論調の開きが際立っていくように危惧しています。

このような論点から集団心理の話に広げていくつもりでした。ただ相当な長さになることが見込まれるため、ここで今回の記事は一区切り付けさせていただきます。実は他にも、いろいろ綴りたい話や取り上げなければならない題材が頭の中に浮かんでいました。そのため、次回の記事が集団心理に関する内容にならないかも知れませんがご容赦ください。これからも毎週1回、土曜か日曜に更新していくブログですので、長い目で見てお付き合いいただければ幸いです。よろしくお願いします。

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