戦後70年、終戦記念日に思うこと
戦後70年、70回目の終戦記念日を迎えました。「終戦」よりも「敗戦」という言葉を使うべきではないかとの意見もあります。アメリカやイギリスにとっての対日戦勝記念日は降伏文書の調印があった9月2日であり、国際法上の戦争状態の終結はサンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日であるという見方もあります。それでも玉音放送で日本の降伏が国民に公表された日、1945年8月15日が日本人にとって特別な日であることに間違いありません。
その前日に日本政府はポツダム宣言の受諾を連合国側に通告していました。しかしながら米軍は8月14日と15日にも「フィナーレ爆撃」と呼んだ空襲を20都市ほどに加え、2,400人以上もの犠牲者が出ていました。さらに玉音放送の日にも特攻の出撃があったことを知り、それぞれ失わなくて良かったはずの尊い命の一つ一つだったのではないかという不条理さに思いを巡らしています。
8月15日以降も樺太や千島、朝鮮半島ではソ連軍との戦闘が続き、多くの犠牲者を出していました。戦後、過酷な抑留生活を強いられた方や異国の地に残されてしまった子どもたちが多くいました。原爆による後遺症をはじめ、戦争のもたらした傷痕は何年も多くの方々を苦しめています。日本人に限らず、戦争の惨禍や悲劇に今も苦しまれている方々も多いはずです。そのような方々にとって、まだ戦争は終わっていないのかも知れません。
昨年、このブログでは「69回目の終戦記念日」という記事を投稿していました。それ以前、終戦記念日について直接的な題材とした記事の投稿がありません。バックナンバーを振り返りながら確かめてみましたが、そのことを自分自身、あまり認識していませんでした。この時期に戦争と平和に関する記事を多数投稿していましたが、終戦記念日をピンポイントに取り上げた内容は意外にも昨年が初めてでした。
8月15日前後に投稿したバックナンバーを振り返ってみると国家公務員に対する人事院勧告が示される時期であり、その内容に絡む記事の投稿が目立っていました。ちなみに今年の人事院勧告は8月6日に示され、今年度の月例給を平均で0.36%(1,469円)引き上げ、一時金を0.1月分引き上げて年間4.2月分とする内容です。2年連続で月例給と一時金ともにプラス勧告されたのは24年ぶりとなります。このことは直近まで経済状況が改善されてきた証しであるものと受けとめています。
安倍首相はデフレ脱却のため、たびたび経営者側に賃上げを要請しています。その基本姿勢は公務員の賃金に対しても貫かれているようであり、人事院勧告を値切るような言動を示されたことはありません。公務員の賃金を引き下げることを声高に訴える政党や首長も目立つ中、このあたりに関しては公務員組合の役員の一人として素直に安堵しながら評価すべき姿勢だと思っています。
前回の記事「安保関連法案の論点」の中でも記したことですが、「安倍政権の法案だから反対している訳ではありません」という立場で安倍首相が進めていることを見定めていこうと心がけています。そのような立場を表明した上で、昨日発表された戦後70年の安倍首相談話に対する感想を添えさせていただくつもりです。リアルタイムで記者会見の模様を見ることはできませんでしたが、発表後に示されていた数々の論評に触れる前、あまり予見を持たないようにしながら全文に目を通してみました。
率直な感想として、よく練られた文章だと感じました。それこそ深読みせず、言葉だけで伝わってくる印象は悪くありません。ただ焦点化されていたキーワードの「侵略」や「お詫び」が盛り込まれたことをニュースを通して事前に把握していましたが、最初、どこに記されていたのか分かりませんでした。「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」「痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました」という文脈で使われていたことを読み返してみて分かりました。
この点について、侵略という文言は「日本のことを言っているのか、一般論として言っているのか定かではない」「反省やお詫びについての首相の認識が明確ではない」などという指摘を受けています。確かに主語の曖昧な箇所が多く、英文を見ると「I」より「We」のほうが多く使われています。閣議決定した談話であり、国民を代表した安倍首相の言葉という位置付けでもあるため、「We」が多いことは理解できます。ただ「We」と「Japan」の主語も使い分けられ、「aggression」の前は「We」であり、意識的に主語を曖昧にしている可能性も高いようです。
他に「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という言葉が取り沙汰されています。「もう日本は謝罪しません」という意図を深読みされ、批判の対象になっています。この言葉だけ取り上げれば加害者の立場となる日本側が、あえて口にすることが適切だったかどうか賛否は大きく分かれるはずです。
この言葉の後には「しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります」と続くため、後ほど触れるドイツのヴァイツゼッカー元大統領の「過去に目を閉ざす者は結局、現在に対しても盲目となる」という有名な言葉の趣旨に繋げていく意図を読み取ることもできます。
中国や韓国のメディアは安倍首相の談話に対し、前述したような論点での批判の論調を高めています。それでも今のところ中国と韓国、それぞれの政府から即座に激しい反発を受けていないことも確かです。その意味合いで考えれば、安倍首相個人の信条を抑え気味にし、多くの国民が共有できる談話をめざしたことは正解だったようです。さらに安倍首相を支持されている方々からも、今回の談話の内容が高く評価されていることをインターネット上から散見できます。
特に「先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という言葉が好評ですが、逆に「しかし」以下の「謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ」まで読み取っているのかどうか心配になります。もともと安倍首相を好意的に見られている方々は、談話の内容を都合良く解釈しすぎているようにも感じがちです。いずれにしても支持者を落胆させなかったという点でも、安倍首相は狙い通りの談話が発表できたものと自負されているのではないでしょうか。
談話の内容について細かく見ていけば、いろいろ指摘すべき点も多いのだろうと思います。しかし、大事なことは今回の談話に示された言葉に沿って、日本人全体が歴史の教訓を深く胸に刻み、これからも不戦の誓いを堅持していく姿勢だと考えています。そのためにも談話の最後にある「積極的平和主義」の中味が、今、日本人一人ひとりに問われています。言うまでもなく、安保関連法案の成否の問題です。前回記事のコメント欄に記したことですが、レッテル貼りや陰謀論は論外とし、冷静で真摯、かつ慎重な議論が重ねられていくことを願っています。
長い記事になっていますが、最後に今回の記事の補足的な意味合いとして、私どもの組合の機関誌の特集記事から「戦後70年談話について」という章の内容をそのまま紹介します。この機関誌の原稿をまとめている時、安倍首相の70年談話がどのような内容になるのか予想できませんでした。歴史修正主義者と見られがちな安倍首相だからこそ、明解な言葉を盛り込む必要があるものと考えていました。明解な文章かどうか評価は分かれていますが、焦点化されていた言葉は盛り込み、安倍首相に自制を求めていた読売新聞が前向きに評価できる内容の談話に至ったようです。
■ドイツと日本の戦後
ナチスと戦前の日本を比べることを問題視する声があります。ただ歴史を直視するという論点については同根のものがあるものと見ています。ドイツのヴァイツゼッカー元大統領の「過去に目を閉ざす者は結局、現在に対しても盲目となる」という有名な言葉が語り継がれています。戦後40年、「荒れ野の40年」という題名を付けられたヴァイツゼッカー元大統領の演説が行なわれた頃、ドイツでは「いつまでもナチスについて謝罪し続けるのはうんざり」という国民の感情が高まっていました。釈明の余地のないユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)の歴史に対し、「悪いのはナチスであり、ヒトラーだった」という峻別は付けやすかったはずです。それでも連続性のある国家としての責任があり、ナチスの暴走を許したドイツ国民の責任に今後も向き合っていくことの必要性をヴァイツゼッカー元大統領は演説の中で訴えていました。
今年3月にはドイツのメルケル首相が来日しました。その際、メルケル首相は講演の中で日本人に向けて次のようなメッセージを送っていました。日本が歴史問題で中国や韓国と対立していることに触れ、ナチスによるホロコーストの歴史を背負うドイツが「過去ときちんと向き合った」ことで国際社会に受け入れられ、かつて敵国だった近隣諸国との和解に至ったとし、日本も「歴史に向き合うべき」だと述べていました。加害者となるドイツは基本的な姿勢を変えず、現在に至っているため、メルケル首相が日本へ助言できるような立場に繋がっているものと受けとめています。そのドイツも30年前に加害者側が謝罪していくことを「もうそろそろ良いだろう」と考え、被害者側の感情を逆撫でする可能性があったことを押さえなければなりません。
中には悪質な被害者が相手の弱みに付け込み、理不尽なユスリをいつまでも続けるケースもあろうかと思います。しかし、一般的には被害者側の明確な赦しがない限り、加害者側はずっと謝罪する気持ちを持ち続けていかなければなりません。裁判や処罰を受けた後も、加害者が勝手に「もう謝る必要はない」と考えることは不誠実な関係性だろうと思っています。戦後70年談話に際し、70年も経ったのだから「謝罪は不要、未来志向で」と日本が一方的に考えることは、やはり問題が大きいものと考えています。以上の論点は、日本とドイツの置かれた立場が基本的に同じであり、同根であるという認識です。一方で、日本とドイツでは事情が異なる論点も押さえていかなければなりません。南京大虐殺や従軍慰安婦の問題をはじめ、日本人の中でも事実認識に大きな隔たりが生じている事例の多さです。
■南京大虐殺はなかったのか
「南京で大虐殺はなかった」という言葉を耳にします。以前、そのような言葉を耳にした場合、身勝手な歴史修正主義者の発言だと思っていました。今はそのように考える方々の理由も分かるようになり、その方々が信じている歴史も、ある一面での事実だったものと認めるようになっています。例えば、30万人という数字は事実ではないのかも知れません。伝わっている残虐な場面で誇張や偽りも数多く含まれているのかも知れません。人道面でのモラルの高い日本兵が多かったことも事実だったろうと思います。
今年2月、産経新聞は紙面のトップを使い、南京虐殺を全面的に否定する記事を4回にわたって連載していました。産経新聞の記事で、南京陥落後に入城した現在98歳の元日本兵が「虐殺を見ていない」と語っていることを伝えています。しかし、南京城に入る門はいくつかあり、国際安全区のあった南側の中華門から入った日本軍が虐殺に接していないことはよく知られている話でした。そもそもJR山手線が囲む面積の3分の2程度の南京城内で、等しく虐殺があった訳ではないようです。そのため、産経新聞は今回、意図的に中華門から入った元日本兵にだけ「都合のいい事実」を語らせているという指摘も受けていました。
このように「南京大虐殺はなかった」と言い切れるほどの確証はないはずであり、単に「大虐殺はなかった」と規模の問題にすり替えるような姿勢であれば、あえて加害者側の立場である日本人が積極的に口にすべき言葉ではないように考えています。侵略についても同様です。「自衛のための戦争だった」「当時の国際法に則った併合や建国であり、インフラ整備などで日本人は尽くしてきた」という見方があります。ある面での事実だったかも知れませんが、やはり加害と被害という関係性が明確な中、日本人の側から強調すべき言葉ではないはずです。
■村山談話を踏襲した明解な言葉が必要
戦後50年の村山談話は、社会党の村山首相の意思が強く反映されたことも確かです。しかし、自民党の閣僚も了解し、閣議決定した政府の公式見解という位置付けであったことも間違いありません。読み返した際、決して卑下しすぎた印象はなく、見解や評価の分かれる表現があったとしても、明らかな事実誤認に繋がるような言葉はなく、自民党の閣僚が反対しなかったことも理解できます。謝罪と反省が強調された村山談話は中国や韓国から評価され、戦後60年の小泉談話にも村山談話の歴史認識は受け継がれていきました。
過去、安倍首相は「村山さんの個人的な歴史観に日本がいつまでも縛られることはない。その時々の首相が必要に応じて独自の談話を出すようにすればいい」と発言していました。特に「侵略」という表現には著しい嫌悪感を持たれているようです。現在は「安倍内閣として侵略や植民地支配を否定したことは一度もない」という言い方に徹していました。ただ「侵略」や「おわび」などを盛り込むかどうかについて「(村山首相談話などと)同じことなら談話を出す必要がない。(過去の内閣の歴史認識を)引き継いでいくと言っている以上、これをもう一度書く必要はない」と述べ、否定的な見解も重ねていました。
この問題では、安倍首相寄りと見られている読売新聞の社説でも「政治は、自己満足の産物であってはならない」と訴えていました。「侵略された」「謝罪が不足している」と問題視しているのは中国や韓国など一部の国だけだと指摘する声を耳にすることがあります。しかしながら過去の関係性の深さを斟酌しなければならず、最も近い国々と険悪な関係が続くことを決して「是」とすべきではありません。安倍首相は個人的な信条や熱烈な支持者の声を踏まえた談話を出したいものと考えているのかも知れませんが、日本の国民にとって何が最も大事なのか、この論点を重視した判断に至ることを心から願っています。歴史修正主義者というレッテルを貼られがちな安倍首相だからこそ、あえて意識的に明解な言葉を盛り込む必要があるものと考えています。
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コメント
なんというか、本題というより、枝の部分の話*だけ*に真剣に反応してしまいますけど。
ワタクシは「終戦」というよりは「敗戦」だろうと思いますし、政治・行政という観点で考えるときは8月15日ではなく9月2日を重視します。
法律論で行けば、降伏(休戦)協定は9月2日に締結されていることから、降伏(敗戦・戦闘終結)の日は9月2日であることを前提にする必要があると思うので。
もちろん8月15日が、国内的には特別な日であることは間違いないですし、同日を終戦の日として扱う、そうした習慣に異議を唱えるつもりはありません。自身もそういう日として8月15日を迎えます。ただ、8月15日を終戦とするのは、基本的に日本と朝鮮半島だけのような気もします、戦勝国は9月2日or3日を戦争終結の日としてますし。
北方領土問題で、旧ソ連側の理屈として「9月2日まで降伏は成立していない」というものがあり、外形的・形式的には(実態としては?ですけど)間違いではないところが難儀なのだろうなと思ったりもします。あくまでも降伏決定を国民に伝えたのが8月15日、相手が降伏を受け入れて正式に降伏が成立したのが9月2日ですから。
なお国内法をみると、引揚者関係の法律では8月15日を、戦没者遺族・戦傷病者・未帰還者・平和条約国籍離脱者、残留邦人関係の法律では9月2日を、それぞれ区切りとしてます。この行政領域を考えるには、9月2日が基準日として非常に大事になります。
そうしたことからも、やはり「9月2日」を重視する習慣が身についてますね、ワタクシなどは。(少数派というか異端だろうなぁという自覚はあります、汗)
投稿: あっしまった! | 2015年8月15日 (土) 15時10分
私は18時からリアルタイムで談話を聞いておりました。
その後、批判なども出ているようですが、私は素直に、伝えるべき事は伝えたと受け取れました。
例えば、村山談話から後退した・・・・といった指摘が内外であるようですが、そもそも歴代内閣の談話についても、「こうした歴代内閣の立場は今後も揺るぎない」と明確に述べています。
であるならば、村山談話も小泉談話も含んだ上での安部談話ではないのでしょうか?
そんな、揚げ足を取るような指摘に、意味があるとは思えません。
何度も何度も同じ謝罪を続けることが大切なのでしょうか?
言葉ではなく行動で示すことが、真の信頼を勝ち取る方法です。
少なくとも、戦後70年の日本を振り返ってみても、どこにも恥じることなく世界の平和に貢献してきましたし、世界中からの信頼も得ているでしょう。
私は、安全保障法案が平和を脅かすとは考えません。
そのような法案があろうと無かろうと、大切なのは私たちの信念と行動ではないのでしょうか?
法案が成立したら、日本は戦争をする国になるのですか?
日本って、そんな程度の平和国家だったのでしょうか?
自分達の周辺で考えてみていただきたいです。
口ばかりで行動が伴わない。
知識はあるけれど、全然成果を出さない。
そんな部下や同僚、上司っていませんか?
そういう人達は、周辺から認められ、信頼されていますか?
守るべきことは守り、やるべき事はしっかりやる。
行動こそ、真の信頼を勝ち取る、唯一の方法であるはずです。
憲法9条があろうと無かろうと、安全保障法案が成立しようとしなかろうと、日本は世界中のどの国よりも平和を愛し、平和を願い、戦争を起こさない国である。
私はそれこそが、日本の誇りであると考えております。
投稿: 下っ端 | 2015年8月15日 (土) 20時37分
あっしまった!さん、下っ端さん、コメントありがとうございました。
あっしまった!さん、本題以外でもいろいろな情報や意見に触れられることを貴重な機会だと考えています。これからもお時間等が許される際、気軽に投稿いただければ幸いですのでよろしくお願いします。
下っ端さん、私自身も安保関連法案が成立しても、すぐ戦争が始まる、もしくは巻き込まれるとは考えていません。その上で前回記事に綴ったとおりの問題意識から今回の法案に反対しています。さらに「言葉ではなく行動で示すことが、真の信頼を勝ち取る方法」という指摘もその通りですが、今回、これからの行動の方向性や中味が問われているものと思っています。
もう一点だけ気になる見方があります。この法案に反対している人々は「口ばかりで行動が伴わない。知識はあるけれど、全然成果を出さない」と決め付けられているように読み取れてしまいます。実際、そのように見ているのであれば、ぜひ、もう少し異質な意見に対しても寛容になっていただければ幸いです。たいへん勝手な言い分かも知れませんが、このコメント欄でよく知っている下っ端さんだからこそお願いしています。気に障ってしまいましたら誠に失礼致しました。
投稿: OTSU | 2015年8月15日 (土) 21時29分
誰が正しく、誰が間違っている。
どれが正論で、どこが過ちか。
人は人それぞれ、自由に意志を持ち、発言をすることが出来ます。
それこそが基本的人権であり、民主主義であり、平和であります。
故に、正誤を主張したり、批判を通す気は毛頭ありません。
管理人さんやその他多くの人が、どのように考え、言葉を述べようと、それは全て尊重すべきことであり、保障されるべき言論の自由であります。
私は私の平和について述べました。
それが、平和に繋がる最善の道であると信じるからです。
投稿: 下っ端 | 2015年8月15日 (土) 22時10分
下っ端さん、おはようございます。コメントありがとうございました。
昨夜の私からのレス、下っ端さんの主張を頭から否定する意味合いで投稿していません。いつも多様な意見を認め合った場にすることを願っているため、もし誤解を与えたようでしたら申し訳ありません。それぞれの見方や考え方があり、自分自身の「答え」が絶対正解であるという前提で記していません。改めて自分なりの問題意識を一言補足しただけのつもりでした。
後段の文章を「もう一点だけ気になる見方があります」と接続させてしまいましたが、その一点だけ気になっていたため、昨夜のレスに至っていました。私自身も「口ばかりで行動が伴わない」「周辺から認められ、信頼されていますか?」という残念な見られ方をされているように感じたため、釈明させていただきました。ただ「もう少し異質な意見に対しても寛容に」も誤解を招く余計な言葉だったようです。たいへん失礼致しました。
投稿: OTSU | 2015年8月16日 (日) 06時30分
首相談話は、作文がお上手だったなぁという印象です。あまり揚げ足もとるところもないし、非常にうまく文章を練ったあと、ブラッシュアップしている感があります。
内容については、賛否中立いろいろあるのでしょうが、ちょっと軽いなぁという印象です。
今上陛下が、どうやって、お言葉を練りこんだのかわからないところではあるのですが、ぎりぎりの線まで練りこんでいて、心情的には陛下のお言葉のほうがひととして胸にくるものがあったような気がします。
官邸はしっかりしろよといいたいところですが、安倍さんの吐血疑惑が出ているくらいなので、ちょっとお疲れかもしれません。それは、議員先生みんなそうでしょう。ゆるんでいる人もいらっしゃいますが。
いろんな意味で、大きな案件目白押し。安保が終われば経済・地方創生・マイナンバー。マイナンバーなど、たぶん、不手際が続出するのかなと思います。なにせ、最後は人海戦術でしょうから。
私としては、タイの連続爆破など、日本でも昔あった消火器爆弾みたいなことが起こらないか心配。社会不安が増大しているので、よその国とはいえ親日国ですから、注視したいと思います。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2015年8月19日 (水) 22時53分
首相談話は、読んだけど 30点再提出 と考えます。
歴史に残る文書には思えません。
70年を振り返っての談話なのだろうに、
短期日の国内国際状況を鑑みて作文しました感が強いです。
外野がうるさいからキーワードを入れました。
でも自分は侵略は認めませんから、間接的に言及するのみです。
日露戦争を正当化しているように読める。
「歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎない」と言っているのに
「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、
謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と今後は謝りませんよ。と言ってる。
「私たちは、」以下が言いたいことなんでしょう。でも言行不一致だ、
「我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、
平和的・外交的に解決すべきである。」って集団的自衛権と矛盾する。
「女性の人権がうんぬん」日本政府はほとんど何もしてないように見える。
投稿: ハルチャンド | 2015年8月22日 (土) 14時45分
でりしゃすぱんださん、ハルチャンドさん、コメントありがとうございました。
70年談話も人によって評価が大きく分かれているようです。そのような傾向を特に驚かないようになっています。その上で心がけている点がいくつかあります。今のところ新規記事の内容は漠然としていますが、そのような点について書き進めたい思いがあります。ぜひ、またご覧いただければ幸いですので、よろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2015年8月22日 (土) 21時27分