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2015年8月 9日 (日)

安保関連法案の論点

このブログのコメント欄で常連だったnagiさんから久しぶりにコメントをお寄せいただきました。まず細谷雄一さんの「日本ではなぜ安全保障政策論議が不在なのか」という記事の紹介があったため、さっそく当該サイトに記された主張や考え方を拝見してきました。細谷さんが集団的自衛権の必要性を認め、国際社会が国連憲章に基づいて軍事的強制措置を執った際に日本もその一員として協力していくべきだと考えていることなどを読み取ってきました。

細谷さんに限らず、そのように考えている方々は多いはずです。ただ気になった記述も多々ありました。「他国の平和を実現することに無関心な国民も世界ではほかにいないのではないか」「自分たちが戦争に巻き込まれるのはいやだけれども、他国民の命がどれだけ失われても自分たちには関係がない」などという記述です。現在国会で審議中の安保関連法案に反対している日本人は押しなべて、そのような利己主義に陥っているという見方を細谷さんは示されていました。

最近、自民党の武藤貴也衆院議員が安保法制に反対する学生団体SEALDsに対し、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づくものだとツイッターで発言していました。武藤議員は発言を撤回せず、ご自身のブログで「国民に課せられる正義の要請」という新規記事を投稿し、「世界中が助け合って平和を構築しようと努力している中に参加することは、もはや日本に課せられた義務であり、正義の要請だと私は考えます」という補足説明を加えていました。

武藤議員のツイッターでの発言はメディアをはじめ、与党内からも厳しい批判の声が上がっていました。しかし、武藤議員のブログのコメント欄は少し趣きが異なっていました。「全面熱烈応援する」「これからも信念を貫き通してくれることを期待しています」など武藤議員を支持する意見のほうが目立っていました。やはり個々人の考え方や視点の違いによって、本当に同じ事象を見ていても評価が変わってくることを改めて認識する機会となっています。

ちなみにSEALDsの中心メンバーは武藤議員の発言に対し、「戦争が嫌だというのは、個人の考えだけでなく、みんなの思いでもあるのに」「怒りもあるが、それ以上に権力を持つ政治家が語る言葉なのか。私たちは平和主義の下で誰も戦争に行かせたくないと主張していて、利己主義とは違うのだが」と疑問を投げかけていました。そもそも安倍首相は「戦争法案ではない」「徴兵制はあり得ない」と答弁していますが、その説明を打ち消すような発言に見なされてしまうのではないでしょうか。

この武藤議員の話題を掘り下げていけば際限なく書き進めそうです。今回、安保関連法案に関わる論点をもう少し広げていくつもりですので、反対派は利己的なのかどうかという総論的な意味合いでの問題提起に繋げていきます。なお、後ほど問題が多い安保関連法案について自分なりの考え方を改めて詳述させていただきます。これまで当ブログで綴ってきた内容の焼き直しですので、あくまでも補足的な説明として位置付けています。そのような構成を考えていることを最初にお伝えした上で、今回の記事を通して訴えたい論点を端的に箇条書きにしてみます。

  1. 「他国民の命がどれだけ失われても自分たちには関係がない」という言葉は「戦争をしたがっている」と同様のレッテルをはった見方だと思っています。誰もが戦争を積極的にしようとは考えていないはずであり、世界中から戦火が消えることを願い、戦争で人を殺したくない、殺されたくないと考えているはずです。安保関連法案に賛成する者は戦争を肯定している、反対する者は利己的な「一国平和主義」という決め付けは避けるべき論点だと考えています。
  2. 反対派側の圧倒多数も個別的自衛権の必要性を認めています。様々な具体例での問題に対し、まず個別的自衛権の範囲内で解決できるかどうかが肝要だと思っています。情勢変化のもと集団的自衛権の行使まで必要とされているのであれば、憲法9条の改正を国民投票に付すべきだと考えています。この手順を軽視した今回の動きは憲法が権力を縛るという立憲主義をないがしろにした行為だと見ています。 
  3. フルスペックの集団的自衛権ではなく、限定的だから現行憲法の範囲内だと説明されています。そもそも戦争や武力衝突の事態に至った際、「限定的」や「必要最小限」という理屈が通じるのかどうか疑問です。そのような場面では相手側を圧倒するまで総力を尽くすことになるのではないでしょうか。だからこそ日本国憲法では個別的自衛権までが何とか許容される範囲だとされ、専守防衛という明確な線引きが非常に重要な点だったはずです。 
  4. 個別的自衛権を行使する際も戦争だと思っています。国連憲章で認められた自衛戦争であり、個別的自衛権の行使は「戦争ではない」という言葉が発せられているようであれば不適切な表現です。集団的自衛権も国際社会の中で認められた戦争であり、その行使まで可能とする今回の法案は「普通に戦争ができる国」をめざすことだと思っています。 
  5. 平和フォーラムについて「反日の組織だと思っている」と言われれば不本意ながらも仕方ありませんが、「売国反日フォーラム」という呼び方は誹謗中傷の類いだと受けとめています。あえて固有名詞を蔑称で呼ぶことと個々人の評価や見方を反映した形容詞の使い方には大きな差異があるものと考えています。「普通に戦争ができる国」という言葉は個々人の評価や見方の問題だと言えますが、固有名詞となる安保関連法案を「戦争法案」と呼ぶことを私自身は控えるように心がけています。 
  6. 安倍首相や礒崎首相補佐官は集団的自衛権行使の必要性を隣家の火事の消火活動に例えていましたが、例え話としては不適切だと批判されていました。要するに火事の消火は絶対必要なものであり、皆で協力し合うことが当たり前だからです。利害関係や憎しみが絡み合い、敵対する相手のある戦争は大義や正義が立場によって変動します。このような複雑さが避けられない中、平和国家としてのブランド力を発揮していく方向性こそ、めざすべき日本の役割だと考えています。

以上の論点について、あくまでも私なりの問題意識を示させていただきました。人によって見方や評価は様々であり、手厳しい批判や指摘を受けるのかも知れません。ぜひ、ご理解願いたい点は安倍政権の法案だから反対している訳ではありません。逆に安倍首相や自民党政権を支持されている皆さんも本当に今回の安保関連法案が、このまま成立して良いのかどうか、少しだけでも立ち止まって考えていただければたいへん幸いなことです。

最後に、と言うよりも、ここからも相当な長さの文章が続きます。先ほど述べたとおり今まで当ブログで綴ってきた内容を整理して紹介することで、上記の箇条書きの内容では言葉が不足している点などの補足的な説明に繋がればと考えています。実は来週火曜日に私どもの組合の機関誌を発行します。戦後70年という節目にあたり、平和に関する課題を特集した記事を寄稿していました。そのうちの「問題が多い安保関連法案」の章の転用であり、労力的にはあまり負担がかからない紹介の仕方でした。

昨年7月1日、安倍政権は集団的自衛権の行使を認める閣議決定を行ないました。その閣議決定に基づき、10に及ぶ既存法の改正案を一括りにした平和安全法制整備法と新法の国際平和支援法(国際紛争に対処する他国等の後方支援を随時可能にする)を提案し、今国会での成立を企図しています。この法案を成立させることで「抑止力が高まり、戦争を防げる」と安倍首相らが信じていることは間違いないようです。しかし、本当にその通りなのか、国民にとって望ましい法整備なのかどうか、私自身は強い疑問を抱いています。そもそも違憲の疑いが濃厚と言われている法案を強引な解釈で「合憲」と説明すること自体、論外な話だと思っています。

■「普通に戦争ができる国」をめざすのかどうか

国連憲章によって外交の延長線上として宣戦布告さえすれば合法だった戦争が、現在、国際社会の中で原則禁止されています。例外として、自衛のためと国連安全保障理事会が認めた場合の戦争だけを合法としています。集団的自衛権は前者に当たり、同盟国などが武力攻撃を受けた際に共同で対処できるものです。後者は集団安全保障と呼ばれ、国連の枠組みで武力攻撃を行なった国を制裁する仕組みです。ちなみに国連安全保障理事会が「平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」に限って、国連憲章第51条で集団的自衛権の行使を認めています。

その中でも日本国憲法は国際社会の中では異質なものに位置付けられます。これまで専守防衛を大原則とし、個別的自衛権に限って武力行使ができる「特別さ」を守り続けてきました。この「特別さ」があるため、ベトナム戦争やイラク戦争などに直接参戦することなく、結果的に戦後一度も戦争しない国として誇ることができています。したがって、集団的自衛権の行使に踏み出すことは「普通に戦争ができる国」をめざすことに繋がる話だろうと見ています。

政府の憲法解釈に長年携わってきた阪田雅裕元内閣法制局長官は「集団的自衛権の行使が許されることは今の国際法で許される戦争がすべてできることになり、9条をどう読んでも導けない、文章の理解の範疇を超えているものは解釈ではなく、無視と言うべきものではないか」と語られています。明らかに憲法9条の解釈は個別的自衛権の行使までが限界であり、集団的自衛権の行使まで容認することは日本国憲法の平和主義を捨て去る局面だと考えています。

日本をとりまく安全保障環境が変わったため、時代情勢に合わせた憲法解釈の変更が必要である、そのような主張を耳にします。情勢の変化があり、ルールを変える必要な場合があることはその通りだと思います。しかし、解釈が情勢変化のもとにその都度変更できるという理屈には違和感を抱いています。それも内閣の意思で憲法の根幹を解釈で変えていく行為は権力を縛るという立憲主義をないがしろにした暴挙だと言わざるを得ません。

■集団的自衛権に踏み出すことの危うさ

湾岸戦争以降、日本の人的貢献のあり方について取沙汰されてきましたが、今回の法案が成立すると自衛隊の活動範囲は飛躍的に広がります。しかしながら今後、自衛隊が後方支援に携わる機会が増えた場合でも「なぜ、日本の軍隊だけ安全な場所にいて、最前線に出てこないのか」と批判を受けるようになるはずです。安倍首相は「戦闘が起こった時は、ただちに(後方支援活動を)一時中止、あるいは退避することを明確に定めている」と説明していますが、それこそ「戦闘を前に撤退する卑怯者」という批判の声にさらされる話となります。

そもそも戦争や武力衝突の事態に至った際、「限定的」や「必要最小限」という理屈が通じるのかどうか疑問です。そのような場面では相手側を圧倒するまで総力を尽くすことになるのではないでしょうか。だからこそ日本国憲法では個別的自衛権までが何とか許容される範囲だとされ、専守防衛という明確な線引きが非常に重要な点となっていました。残念ながら憲法9条があれば自国の平和は守れるという現状でもありませんので、個別的自衛権の必要性は認めなければなりません。今回、法案審議を通し、様々な具体例が示されていますが、基本的に大半は個別的自衛権の範囲内で語れるような気がしています。

安倍首相は湾岸戦争やイラク戦争のようなケースでの日本の参戦はないと明言しています。そうであれば、わざわざ集団的自衛権という概念を持ち出す必要があったのかどうか疑問視しています。これまで平和憲法のもとの自衛隊であるため、海外での直接的な参戦は控えられてきたと言えます。今後、国内的な解釈によって憲法9条の「特別さ」を削げるのであれば、他国から「なぜ、日本は出てこない。日本だけ血を流さない」という声が示された時、直接戦闘に参加できない説明に苦慮していくものと考えています。

■武力で平和は築けない

軍備力の増強が抑止力を高めるという見方があります。普通の人は屈強なプロレスラーに殴りかからないという一例が示される時もあります。しかし、そのような例示は際限のない軍拡競争に繋がりがちであり、国際社会の規範による自制力を軽視した「弱肉強食」の発想だと考えています。例示で考えれば、殴りかからなくても拳銃を用意するという発想と同じ危うさとなります。タカ派の政治家は「戦争も辞さず」という発想を持ちがちです。このような発想は論外であり、まず他者の立場をおもんばかり、簡単に相容れない言い分だったとしても率直に耳を傾ける外交姿勢が最も重要であるはずです。

隣接したドイツとフランスは第一次、第二次世界大戦でお互い戦い、多くの犠牲者を出してきました。このような被害を繰り返さないという両国の決意が欧州に新しい流れを生み出しました。第二次世界大戦後、領土や資源の争奪戦を避けるため、両国は石炭と鉄鋼を共同管理する共同体を1951年に作りました。その一歩が欧州連合(EU)まで発展しています。軍事力による強引な他国への介入は混乱や無秩序状態を招きがちです。ISIL(イスラム国)を生み出したイラク戦争などから武力では平和が築けないことを教訓化していかなければなりません。憎しみの連鎖が新たなテロや戦争を招きがちな現実こそ、押さえるべき重要な情勢認識だろうと考えています。   

■国際社会の中で日本が果たすべき役割

かつてに比べればアメリカの国力にもかげりを見せ始めています。そのような絡みから日本の軍事力に今まで以上の役割を期待し、集団的自衛権行使を検討していくことに歓迎の意を表しているものと見ています。一方で、アメリカ国内では他国の戦争に巻き込まれたくないという意識が高まっているようであり、日本と中国との対立を危惧している側面があることも確かです。

安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を唱えていましたが、祖父の岸元首相から連なる個人的な信念が前面に出た動き方であるように感じています。ただ安倍首相が「戦争をしたがっている、戦前のような軍国主義をめざしている」というような批判は的外れだと思っています。それでも憲法9条の「特別さ」を徐々に削ぎたいという意図は明らかで「普通に自国の平和を維持できる国」、つまり制約のない集団的自衛権行使も含め、いざという時「普通に戦争ができる国」をめざしていることは間違いないようです。

そのような考え方に対し、私自身は日本国憲法の「特別さ」は守り続けるべきブランドだと考えています。そのことによって国際社会の中で日本だからこそ貢献できた役回りがあり、もっともっと「特別さ」をアピールしながら非軍事面での独自な活動に力を注ぐことを望んでいます。アフガニスタンのDDR(武装解除・動員解除・社会復帰)で活躍された伊勢崎賢治さんは、平和国家である日本のイメージは良く、「軍事的下心がない」と認識されていると述べています。そのため、武装解除の交渉がスムーズに進んだことを紹介し、「憲法9条によるイメージブランディングが失われたら日本の国益の損失だ」とも語られていました。

今回、安保関連法案を成立させれば、平和国家のブランドイメージを低下させ、これまで以上に日本もISILのような国際テロの標的にされるリスクが高まっていくものと危惧しています。誰もが戦争を積極的にしようとは考えていないはずです。悲惨な戦争に突入した過去の歴史の分岐点でも同様だったはずです。それにもかかわらず、軍事力の強化が抑止力を高め、戦争を未然に防ぐ手立てだという考え方が根強く支持されがちです。

しかし、国際社会の中で突出した平和主義を唱えた日本国憲法、その「特別さ」は誇るべきものであり、決して否定されるような理念ではありません。したがって、これまでの安全保障政策を大きく転換させ、わざわざ平和国家のブランド力を棄損させる安倍首相の判断は非常に残念なことです。歴史の分岐点とも言える今、よりいっそう平和の築き方について議論を深め、強引な安倍政権の進め方を疑問視する国民の声がもっともっと高まり、問題が多すぎる安保関連法案を白紙に戻せることを強く願っています。

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コメント

> 戦後一度も戦争しない国

これは違うと思います。
「戦後一度も他国に攻め込んだことのない国・戦争を仕掛けたことのない国」であり、「戦後一度も他国から攻め込まれたことのない国」ではあっても、「戦争をしない国」ではなかったと思います。

攻め込まれれば応戦することは出来たのですから、「戦争が出来る国」であったことに違いはありません。領土を巡る戦争は防禦によって始るのです。

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戦前の日本も「戦争=攻める」という固定観念が強く、守勢に立った瞬間一気に崩れました。
実は、この「戦争=攻める」という固定観念が今でも抜けていないのではないか?ということを、今回の反対派のご見解を聞くと感じます。

攻められて始る・仕掛けられて始る戦争(個別的自衛権を行使する)のも「戦争をする」ことです。それが出来るのなら、「戦争が出来る国」です。

「攻め込まれて始る、仕掛けられて始る戦争」というむしろ攻め込んで始る戦争よりも幾分現実性のある”戦争”という概念が欠落しているように感じます。

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なお、ワタクシは、「攻め込んで始る戦争・仕掛ける側としての戦争」への関与を抑止してきたのは、憲法第9条だと思います。
しかし、「攻め込まれて始る戦争・仕掛けられる側としての戦争」への関与を抑止してきたのは、安保条約だと思います。
いくら9条があっても、攻め込まれたら戦争に為るんですから。本当に攻め込もうとする相手は、9条があるからといって諦めたりはしません。

なお、アメリカから視て、安保条約の発動による日本の防衛は、集団的自衛権の行使です。そういう片務的な集団的自衛権の行使が、今のアメリカ世論の下で許されるかどうか?

アメリカによる集団的自衛権の行使がなくて、日本独力で対応可能かどうか?
可能とすればどれほどの防衛費を要するか?
対応可能でないとするなら、アメリカによる片務的な集団的自衛権の行使をアメリカ世論に納得して貰う為に、日本が出来ることは何か?

こういう論点を正面から考えることは、今必要なことだろうと思います。

もちろん、その答えとしては、今の法案が絶対正しいとは思いません。今の法案に問題がないとは思いません。
フルセットでなく局限された集団的自衛権だとしても、憲法問題は避けられないでしょう。

しかし「戦争は嫌だ」といって議論に蓋をする・理屈抜きで脊髄反射的に拒絶する、そういう態度には、ワタクシは否定的です。
とある事故で問題となった「事故は起きないという決めつけ」と、今回の事案での「仕掛けられて始る戦争は、起らないという決めつけ」は、その神話性と決めつけが破られたときの結果の大きさにおいて、同質の問題だろうと思うからです。

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本来なら、「個別的自衛権を起点に拡張していく方向」で論じられるべき命題だったと思います。「集団的自衛権を起点にしてしまった」ことが、まっとうなこの国の安全保障議論の芽を潰してしまった気がして、残念です。
一方で、今議論の芽を潰してしまうと、暫くは議論の種を蒔くことは出来ないとも思います。
しかし、次に議論の種が蒔けるのは、おそらくはコトが起きた後だろうと思います。
ですから、今の段階で議論の芽を潰すのもリスキーだろうと思っています。

投稿: あっしまった! | 2015年8月 9日 (日) 20時09分

あっしまった!さん、以前の記事も含め、コメントありがとうございました。

今回の記事に改めて記したとおりですが、私も「集団的自衛権を起点にしてしまった」ことが大きな誤りだと思っています。いずれにしてもレッテル貼りや陰謀論は論外とし、冷静で真摯、かつ慎重な議論が重ねられていくことを願っています。

ぜひ、これからもお時間等が許されるようでしたら幅広い見識からのコメントをお寄せいただければ幸いですので、よろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2015年8月 9日 (日) 22時25分

あっしまった!氏のコメントに深く同意します。残念ながら反対してる方々は、議論の余地もなく白紙撤回を主張してるのでどうにもなりませんね。もともと歩み寄る余地も、譲歩する気も、さらに議論することもなく「絶対」反対と言うならば、政府の対応もしかたないなあと思ったりしてます。

>「他国民の命がどれだけ失われても自分たちには関係がない」

この内容はレッテル貼りと言えないでしょう。大多数の人の本音はこうではないでしょうか。特に日本人は。「対岸の火事」って言葉があるように野次馬根性はあるが、自分に被害がなければ日常のニュース、テレビの向こうの出来事とだれもが思うことでしょう。そうでなければ、迷惑施設の反対運動などおきるはずがありません。「それは必要と思うが、ここには作るな、余所でやれ」なんて本音を聞くこともあります。

島国ゆえの国防不感症なのか、単純に無関心なのかどうかは不明ですがね。

それと、学生団体SEALDsですが、ここのHPを見ると、某フォーラムと内容が同じなので、興味がなくなりました。

いつか国が滅んで憲法だけが残ったら、無形遺産にでも登録されるのだろうかw

投稿: nagi | 2015年8月13日 (木) 11時58分

ワタクシのこの法案についてのスタンスは、以前のエントリのコメント欄で先ず表明したとおりですので、
どうしてもそうした立場からの引用が多くなるのですが、
緒方貞子氏(UNHCRのトップとJICA理事長を各10年つとめられた方)が、
嘗て「日本だけが『繁栄の孤島』となることはできない」と仰ったことがあるのですが、
昨今も「日本人だけが危ない所に行かず、自分たちだけの幸せを守っていけるような時代は、もう終った」という主旨の発言をされてます。
国際情勢が昔とは違うという認識をもっておられるのでしょう。

日本では国際平和の象徴みたいに言われる国連ですけど、
その機関のひとつ(UNHCR)のトップを2期つとめられた方の見解だけに、
国際社会の中の日本という観点から、相応に重みがあるとも思います。

もちろん、別の見解をもたれる国際経験豊かな識見の持ち主も居られると思います。

追記:国が滅んで憲法だけが残るようなことがあったら、国際組織から遺産には登録されないでしょう。登録を申請する立場の政府が、国が滅んだ時点で消滅してますから。(汗)

投稿: あっしまった! | 2015年8月13日 (木) 16時54分

あっしまった!さん、nagiさん、コメントありがとうございました。

コメント欄を通し、きめ細かい対応に至らず、いつも申し訳ありません。終戦記念日である今日中に新規記事を投稿する予定です。その中で今、いろいろ思うことを書き込むつもりですのでご覧いただければ幸いですので、よろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2015年8月15日 (土) 07時08分

白紙撤回を主張されている方の中に、閣法の中身をどれだけ理解している人がいるのか、疑問です。
白紙撤回を主張するのも、それは主張なので、言うだけただですから、言わないよりマシと言えるかもしれません。
今回の閣法は、「できる規定」が主となるので、やらないという判断もできます。
司法制度が「やっちまったあと」の利害関係調整しかしないようになっているので、「やっちまった」ら、あとの祭りというのは理解できます。
できる規定であるので、もし、とちくるったリーダーが現れて、なんでもありになった場合の想定がされていない。実はここがいちばんの欠点だと考えています。
現行憲法には、そうした、国家的大罪を犯したリーダーへの罰則がない。また、国家として戦闘被害にあった際などの、国家緊急権の規定がない。さらに、憲法の解釈権は立法時にしかなく、裁判所は事前審査を行わない。
憲法に規定するのは難しくても、現行憲法の範囲内で、一般法の中で規定することもできるような気がします。
しかしながら、政府が立案するのではなく、こういった国家統治機構にかかわる問題は、衆参で企画立案し、政党が説明責任を全面的に果たすことが良いと思います。せっかくの三権分立ですから。
平和安全法制にしても、閣法ですから、本来は衆法で、まったくの政治主導で行われるのが適当だったはずであり、国会の立法企画立案機能の欠如さは、落胆せざるを得ないと思います。

投稿: でりしゃすぱんだ | 2015年8月21日 (金) 02時40分

最高裁自体が、過去に「最高裁には、法案段階はもちろん法律となっても個別具体的な事例が発生していない段階で違憲審査する権限はない。」っていう大法廷での判断を出してるんですよね。

なので、終局的な違憲審査を担う最高裁が、「憲法で認められた違憲審査権の範囲は狭い」という憲法解釈をしてしまっている状態です。

ですので、法律レベルで事前の違憲審査という手続を作るにしても、「事前の違憲審査を認める法律(法案)自体の違憲性」という問題が登場し得るし、これについては、明確な最高裁の判例があるということを前提にする必要があります。

そうすると、憲法裁判所による違憲審査のような事前審査型の違憲審査を望むなら、やはり憲法を変える必要があるかも知れません。

投稿: あっしまった! | 2015年8月23日 (日) 20時42分

が、法案に反対されている方は、憲法改正という行為自体(内容ではなく行為自体)にも反対な雰囲気である以上、どうしようもないというか。

もっとも今から憲法を変えて憲法裁判所を作っても、遡及効の問題があるので、今回の法案には意味がないかも知れませんが。

違憲かどうか?という命題をたてて、その答えを確定させるなら、現憲法下で法律にした上で具体的事案の発生を待って違憲審査をするしかないのが現実のような気がします。

審議段階では、何処まで行っても「疑い」でしかない、というか「違憲だ or 違憲の疑いが強い」という個人の主張でしかないので。

以上は、でりしゃすぱんだ氏の直近の投稿に触発されて思う所を書いてみました。直接の応答という訳ではありませんので、念のため。

投稿: あっしまった! | 2015年8月23日 (日) 20時56分

あっしまったさん。
私もそう思います。憲法の限界を、裁判所で決めてしまっています。あと、高度の政府の判断という言葉もよく聞かれます。
政府が憲法解釈をコペルニクス的だか何だか解釈を変えることができるのならば、裁判所であってもできると強弁してもよいような気がします。
憲法裁判所の話はよく出てきます。ただ、現状の裁判所の判事さんたちを充てるならば、相当訓練しなければならないでしょう。社会生活の現実もよく知らないような人たちが、法のYes/Noを決めるテクニックだけ覚えてきても使えない。かといって、法曹関係者が政府や立法府に入り込んでいるかというと、ごくごく一部。法曹関係者よりも、法制局職員の方がよく知っていたりするのです。
何が正しくて、何が正しくないのか、誰のために正しいのか、よくわからなくなってきているこの頃ではあると思います。

投稿: でりしゃすぱんだ | 2015年9月 3日 (木) 22時29分

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