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2015年8月29日 (土)

安保関連法案に絡む問題意識

少し前まで気温35度を超える猛暑日が続いていました。まだ8月だと言うのに一転して、秋が深まったような25度にも届かない涼しさに変わっています。株価も世界的に急落しています。さらに下がっていくのかどうか不透明感が漂っています。一方で、下降線をたどっていた安倍内閣の支持率は戦後70年談話の内容が一定の評価を得たためか、ここにきて下がり方は鈍化しているようです。安保関連法案の行方とともに内閣支持率が今後どのように動くのか気になるところです。

さて、前回記事「8月30日に全国100万人行動」の最後に「実は今回のブログ記事、全国100万人行動のことは前置き的な取り上げ方とし、そこから個人的な問題意識に繋げていくつもりでした」と記していました。明日日曜の行動を控え、今回の記事を通して安保関連法案に絡んだ自分なりの問題意識を書き進めてみます。これまでの記事の中で訴えてきた内容の焼き直しとなるはずですが、前回記事の最後に掲げた次の一文に尽きるような思いを改めて整理してみるつもりです。

誰もが世界中から戦火が消えることを願い、戦争で人を殺したくない、殺されたくないと考えているはずです。安保関連法案に賛成する者は戦争を肯定している、反対する者は利己的な「一国平和主義」という決め付けは論外です。この法案の成立が本当に望ましいことなのかどうか、そのような視点や立場から判断し、専守防衛を大原則としている日本国憲法の「特別さ」を大切にしていくことが強く求められているのではないでしょうか。

前回記事で紹介したとおり上記は、私どもの組合員の皆さんに8月30日の行動への参加を募った時の組合ニュースからの抜粋です。短い文章ですが、今、私自身が考えていることを凝縮したものとなっています。補足や解説という訳ではなく、この文章から派生していく個人的な思いを綴ることで改めて私自身の安保関連法案に対する立ち位置や問題意識を示させていただきます。

まず「誰もが…」は文字通りの話であり、立場や思想などが異なっていても戦火を歓迎する人は皆無だろうと思っています。中には戦火が上がることで「武器が売れる」と喜ぶ人もいるのかも知れません。そのような人々は自分自身が戦場に行かないことを前提にしているはずです。逆に戦場に行くことで収入を得るような人々は戦火をビジネスチャンスだととらえているのかも知れません。

しかし、そのような人々は極めて例外であり、通常、誰もが戦争を嫌い、平和を願っているはずです。もちろん安倍首相もその一人であることをまったく疑っていません。安保関連法案を成立させることで抑止力が高まり、戦争を避けるために必要な法整備であるという説明も虚言や詭弁だとは思っていません。ただ後ほど触れますが、そのことの実効性や評価は別の問題として考えています。

安倍首相が戦争を肯定している訳ではないため、反対する側が「戦争をさせない」と声高に叫ぶことには以前から少し違和感を覚えています。とは言え、この法案が成立し、限定的とは言え集団的自衛権が行使されるようになれば、これまでより日本が戦争に関わる可能性は高まります。そのような意味合いで見れば「戦争をさせない」という端的な反対スローガンも間違いではないため、それほど強く問題視してきた訳でもありません。

とても与党議員のように「平和安全法制」とは呼べませんが、私自身は「戦争法案」という言葉も使わないように心がけています。このことは最近の記事「安保関連法案の論点」の中でも説明していました。固有名詞を別の名前で呼ぶことには注意を払うべきものと考えているからでした。そのように心がけている中で「普通に戦争ができる国」という言葉は多用しています。この言葉は個々人の評価や見方を反映した形容詞であり、「戦争法案」という固有名詞の使い方とは一線を画しているつもりです。

さらに私自身のこだわりは「普通に」という言葉に重きを置いています。現状でも日本は戦争ができる国だと考えています。個別的自衛権の行使となる自衛戦争です。今後、限定行使とは言え、集団的自衛権まで認める場合、国際社会の中で「普通に戦争ができる国」に繋がるものと理解しています。この言葉も他の国は好戦的であるという批判的な意図を含んでいません。あくまでも国際社会の中で認められた自衛権の範囲内の問題でとらえ、普通なのか、特別なのかという意味合いで表現しています。

ちなみに他の国の憲法でも一定の制約を設けている場合があり、日本だけが唯一「特別だ」と強調している訳ではありません。いずれにしても直接的な戦火から距離を置くことができた戦後70年の歩みは誇るべきものであり、これまでのスタンスを変えるのかどうか重大な選択肢として今回の安保関連法案の是非が問われているものと認識しています。前置きのような話が長くなって恐縮ですが、要するに「安保関連法案に賛成する者は戦争を肯定している」という見方は論外なことだと考えています。

その逆に反対派は利己的だという見方も同様です。さらにネット上では反対派を「反日」や「他国に操られている」という言葉で貶めるケースも散見しています。事実関係を完全に把握できる訳ではありませんので断定調な書き方は私自身も慎まなければなりません。それでも思い込みや決め付けが先走った「レッテル貼り」は賛成派も反対派も控えることが大事な心構えだと考えています。このような「レッテル貼り」が前面に出た場合、まず理性的な議論が期待できなくなります。

以上のような関係性を踏まえ「この法案の成立が本当に望ましいことなのかどうか」、この言葉に私自身の最も強い問題意識を託しています。問題視している理由は最近の記事「問題が多い安保関連法案」「安保関連法案が衆院通過」「安保関連法案の論点」などを通し、私なりの言葉で訴えてきました。立憲主義や抑止力の問題などの論点について人によって賛否や評価が大きく分かれていくものと思っています。そもそも周辺国の脅威をどのように認識するかどうかで議論の出発点も枝分かれしていくようです。

「日本が攻撃されれば、米国はすぐに助けに行かなければならないが、われわれが攻撃を受けても、日本は助ける必要はない。条約は不公平だ」。2016年米大統領選に出馬している不動産王ドナルド・トランプ氏(69)は25日夜、アイオワ州の集会で数千人を前に演説し、米国の対日防衛義務を定めた日米安全保障条約は不平等だと訴えた。日本をはじめとする諸外国への強硬発言が止まらないトランプ氏。共和党指名争いの首位を独走している背景には、保守層の一部がこうした強気の姿勢に共鳴している面もあるようだ。【時事通信2015年8月26日

上記は多くのアメリカ人の本音だろうと思います。日米安保条約は集団的自衛権に位置付く性格のものであり、アメリカ側からすれば片務性の不公平感が生じがちです。日本側からすれば沖縄を中心にした米軍基地の負担や「思いやり予算」の問題などの言い分もあります。そのバランスがアメリカ側を納得させ続けられるものではなく、少しでも片務性を解消するため、今回の集団的自衛権行使の問題が浮上しているという見方は間違っていないはずです。

今回の法案が成立した場合、これまでと大きく異なり、集団的自衛権行使のもとに後方支援が自衛隊の任務に加わります。後方支援も戦争参加であり、敵対する相手国からの標的になります。それにも関わらず、安倍首相は「戦闘が起こった時は、ただちに(後方支援活動を)一時中止、あるいは退避することを明確に定めている」と説明しています。私自身の誤解なのか杞憂なのか分かりませんが、このような後方支援は「なぜ、日本の軍隊だけ安全な場所にいて、最前線に出てこないのか」「戦闘を前に撤退するのか」という批判の声にさらされてしまうことを危惧しています。

これまで繰り返し述べてきたことですが、戦争や武力衝突の事態に至った際、「限定的」や「必要最小限」という理屈が通じるのかどうか疑問視しています。そのような場面では相手側を圧倒するまで総力を尽くすことになるのではないでしょうか。だからこそ日本国憲法では明文化されていなくても、個別的自衛権までを許容する範囲内とし、専守防衛という明確な線引きが非常に重要な点だったものと理解しています。

今年5月、安倍首相はアメリカの上下両院合同会議で演説し、日米同盟強化のための安保法制を「この夏までに成就させます」と約束していました。アメリカ側の負担が減る話であり、大歓迎されていました。しかし、いつも懸念している安倍首相の発する言葉の重さに関わることですが、アメリカ側に誤ったメッセージを伝えてしまったようです。過剰な期待感を与えすぎているため、実際の運用面の問題になった際、信頼を裏切る形になりそうな話を耳にしています。

このような問題点を上げていけば尽きることがありません。そもそも武力の行使に前のめりになりがちなアメリカに対し、日本がブレーキ役になる関係性も欠かせないはずです。軍事面での風呂敷は広げすぎず、もう一度、日本国憲法の「特別さ」を前向きに評価し、日本のできること、できないことを率直に謙虚に示した上でアメリカとの信頼関係の維持に努めていくべきではないでしょうか。そのためにも国民の多くが反対している安保関連法案は、いったん白紙に戻し、違憲の疑いを持たれない範囲内で解決すべき現状の課題を議論していくことが肝要だろうと思っています。

前回記事のコメント欄でnagiさんから興味深いサイトをご紹介いただきました。「解釈改憲」自体が悪だと言えることなのかというテーマについて、憲法学者である慶応義塾大学の山元一教授のインタビューをまとめた記事でした。山元教授は安保法制の違憲論に対して「違和感を感じる」と語っています。このような見方があることも受けとめた上、今回の記事では「この法案の成立が本当に望ましいことなのかどうか」という問題意識を前面に出していました。最後に、山元教授の言葉の中で最も共感した箇所をそのまま紹介させていただきます。

今回のような解釈を行い、法案の成立を目指す安倍内閣は、「戦後レジームからの脱却」というスローガンを掲げています。この言葉は、日本国憲法の意義を否定し、過去の戦争が侵略戦争であったことを否定的にとらえるという意味で使っています。しかし、本来的な「戦後レジーム」は、国連体制によって形作られた国内外の秩序のことをいうはずです。敗戦国扱いされ、アメリカから憲法を押し付けられ、真正面から軍事力を持てなくなったことに不満があるから、これを変えたいという動機だけが透けて見えますが、これは隣国との緊張感を高めるだけで、本来的にあるべき姿から外れています。このような状況では、国連体制によって作られている「戦後レジーム」から導かれる概念である「積極的・能動的平和主義」や「集団的自衛権の行使」を提案するため、憲法解釈を変更していく主体として、安倍政権は全く適任ではないと考えます。

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2015年8月23日 (日)

8月30日に全国100万人行動

第189回通常国会の会期が95日間延長され、会期245日は1981年開会の第96回国会を1日上回り、通常国会としては戦後最長となります。その国会の会期末は9月27日です。国会には会期不継続の原則があり、会期中に議決に至らなかった案件は次の会期に継続しないというルールです。国会の意思は各会期ごとに独立したものであるという会期独立の原則に基づき、会期終了前に継続審議の議決がされない限り、会期中に議決されなかった案件は廃案となります。

廃案後、次期以降の会期に再び同一内容の議案を上程することは可能ですが、通常は検討の上、訂正が加えられることになります。憲法学者の圧倒多数が「違憲である」という懸念を示し、多くの国民が反対している安保関連法案ですが、廃案に追い込めるのかどうか正念場を迎えています。この法案に対する世論調査から判断できる民意と現在の国会での議席数には「ネジレ」が生じています。

与党が過半数を占めているため、会期末までに参議院で採決、もしくは60日ルール(衆議院で3分の2以上で再可決)を許してしまった場合、違憲の疑いがある法律を成立させてしまうことになります。逆に考えれば、参議院で採決できない、60日ルールを適用することも望ましくない、そのように政府与党が危機感を持った場合、今回の安保関連法案は前述したとおり廃案となります。

問題が多すぎる法案に対する直接的な民意を踏まえ、立憲主義をないがしろにするような事態を避けるためにも、いったん白紙に戻し、仕切り直しすることが強く求められているのではないでしょうか。このような展開に繋げていくためには法案に反対している国民一人ひとりの明確な意思表示が必要です。その意思表示の一つとして反対集会やデモ行進がありますが、どれほどの影響力を与えているのかどうか懐疑的に見ている方も少なくありません。

1960年安保闘争の時、岸首相は「国会周辺は騒がしいが、 銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には声なき声が聞こえる」と語っていました。漫画家の小林よしのりさんはブログ記事「デモは安倍首相のナルシシズムをくすぐる」の中で「安倍首相は岸信介の真似をして悦に入りたいのだから、 国会周辺がデモで物々しくなればなるほど、自信を深めるだけだろう」とし、「国会周辺に集結して声を上げるデモに、どれほどの効果があるのだろう?」という疑問を呈しています。

私自身も以前投稿した記事「運動のあり方、雑談放談」の中で「運動を目的化していないだろうか」「労力対効果という面から問い直す必要性はないだろうか」という問題意識を示していました。しかし、集会やデモを必ずしも軽視している訳ではなく、特に来週8月30日に取り組まれる全国一斉行動には大きな期待を寄せています。様々な団体や個人が呼びかけ、全国で100万人、東京で10万人の参加をめざした安保関連法案の廃案を求めた行動です。

東京では午後2時から国会議事堂を包囲する取り組みが提起されています。自治労をはじめ、平和フォーラム関係団体は国会議員会館前に結集する手はずとなっています。火曜日に発行する私どもの組合ニュースを通し、この行動への参加を組合員の皆さんにも募っていく予定です。当初、私自身は日程の都合がつかなかったのですが、たいへん大きな取り組みであるため、何とか国会議員会館前に足を運べるように調整しています。

「安倍は退陣!」――大学生グループ「SEALDs」の活動をきっかけに、安保法案に反対する国民の声は日増しに大きくなっている。いまや若者だけでなく、主婦、高齢者、中年と“老若男女”が声をそろえた。今月30日には国会前での10万人デモに加え、何と全国各地で抗議集会を同時に開き、計100万人の参加を呼びかけているのだ。いくら独善的といわれる安倍首相でも、100万人の声を無視することはできないのではないか。「8・30全国100万人大行動」の主催団体のひとつ「解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会」に所属する高田健氏(70)はこう言う。

「100万人集会は、私たちの団体の他に2団体が力を合わせ、7月中旬ごろから計画を進めてきました。全都道府県に関連団体があり、電話やメール、ネットで参加者を募っているところです。100万人集めるのはそう簡単なことではありませんが、各地域の方々の反応はいい。皆、廃案に向け、ヤル気がみなぎっています。小さな村だと、都会と違って人の集まる場所は多くありません。それでも、『スーパーマーケットなど、なるべく人目に付く場所でプラカードを掲げたい』と言ってくれる方もいます」 1960年の安保闘争では、国会前に30万人のデモ隊が押し寄せ、当時の岸内閣を退陣に追い込んだ。全国で100万人が「安保法案反対」の声を上げれば、安倍首相も敬愛してやまない祖父に倣い、退陣するしかないのではないか。【日刊ゲンダイ2015年8月14日

いつも政権に批判的なメディアの記事ですが、100万人近くが一斉に反対の意思を示した場合、確かに安倍首相も無視することが難しくなるはずです。実は今回のブログ記事、全国100万人行動のことは前置き的な取り上げ方とし、そこから個人的な問題意識に繋げていくつもりでした。ここまでで相当長い記事となっていますので、これ以上、話を広げずに今回の記事は区切りを付けることにしました。最後に、組合員の皆さんからの参加を募った組合ニュースの一文を紹介し、終わらせていただきます。

誰もが世界中から戦火が消えることを願い、戦争で人を殺したくない、殺されたくないと考えているはずです。安保関連法案に賛成する者は戦争を肯定している、反対する者は利己的な「一国平和主義」という決め付けは論外です。この法案の成立が本当に望ましいことなのかどうか、そのような視点や立場から判断し、専守防衛を大原則としている日本国憲法の「特別さ」を大切にしていくことが強く求められているのではないでしょうか。

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2015年8月15日 (土)

戦後70年、終戦記念日に思うこと

戦後70年、70回目の終戦記念日を迎えました。「終戦」よりも「敗戦」という言葉を使うべきではないかとの意見もあります。アメリカやイギリスにとっての対日戦勝記念日は降伏文書の調印があった9月2日であり、国際法上の戦争状態の終結はサンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日であるという見方もあります。それでも玉音放送で日本の降伏が国民に公表された日、1945年8月15日が日本人にとって特別な日であることに間違いありません。

その前日に日本政府はポツダム宣言の受諾を連合国側に通告していました。しかしながら米軍は8月14日と15日にも「フィナーレ爆撃」と呼んだ空襲を20都市ほどに加え、2,400人以上もの犠牲者が出ていました。さらに玉音放送の日にも特攻の出撃があったことを知り、それぞれ失わなくて良かったはずの尊い命の一つ一つだったのではないかという不条理さに思いを巡らしています。

8月15日以降も樺太や千島、朝鮮半島ではソ連軍との戦闘が続き、多くの犠牲者を出していました。戦後、過酷な抑留生活を強いられた方や異国の地に残されてしまった子どもたちが多くいました。原爆による後遺症をはじめ、戦争のもたらした傷痕は何年も多くの方々を苦しめています。日本人に限らず、戦争の惨禍や悲劇に今も苦しまれている方々も多いはずです。そのような方々にとって、まだ戦争は終わっていないのかも知れません。

昨年、このブログでは「69回目の終戦記念日」という記事を投稿していました。それ以前、終戦記念日について直接的な題材とした記事の投稿がありません。バックナンバーを振り返りながら確かめてみましたが、そのことを自分自身、あまり認識していませんでした。この時期に戦争と平和に関する記事を多数投稿していましたが、終戦記念日をピンポイントに取り上げた内容は意外にも昨年が初めてでした。

8月15日前後に投稿したバックナンバーを振り返ってみると国家公務員に対する人事院勧告が示される時期であり、その内容に絡む記事の投稿が目立っていました。ちなみに今年の人事院勧告は8月6日に示され、今年度の月例給を平均で0.36%(1,469円)引き上げ、一時金を0.1月分引き上げて年間4.2月分とする内容です。2年連続で月例給と一時金ともにプラス勧告されたのは24年ぶりとなります。このことは直近まで経済状況が改善されてきた証しであるものと受けとめています。

安倍首相はデフレ脱却のため、たびたび経営者側に賃上げを要請しています。その基本姿勢は公務員の賃金に対しても貫かれているようであり、人事院勧告を値切るような言動を示されたことはありません。公務員の賃金を引き下げることを声高に訴える政党や首長も目立つ中、このあたりに関しては公務員組合の役員の一人として素直に安堵しながら評価すべき姿勢だと思っています。

前回の記事「安保関連法案の論点」の中でも記したことですが、「安倍政権の法案だから反対している訳ではありません」という立場で安倍首相が進めていることを見定めていこうと心がけています。そのような立場を表明した上で、昨日発表された戦後70年の安倍首相談話に対する感想を添えさせていただくつもりです。リアルタイムで記者会見の模様を見ることはできませんでしたが、発表後に示されていた数々の論評に触れる前、あまり予見を持たないようにしながら全文に目を通してみました。

率直な感想として、よく練られた文章だと感じました。それこそ深読みせず、言葉だけで伝わってくる印象は悪くありません。ただ焦点化されていたキーワードの「侵略」や「お詫び」が盛り込まれたことをニュースを通して事前に把握していましたが、最初、どこに記されていたのか分かりませんでした。「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」「痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました」という文脈で使われていたことを読み返してみて分かりました。

この点について、侵略という文言は「日本のことを言っているのか、一般論として言っているのか定かではない」「反省やお詫びについての首相の認識が明確ではない」などという指摘を受けています。確かに主語の曖昧な箇所が多く、英文を見ると「I」より「We」のほうが多く使われています。閣議決定した談話であり、国民を代表した安倍首相の言葉という位置付けでもあるため、「We」が多いことは理解できます。ただ「We」と「Japan」の主語も使い分けられ、「aggression」の前は「We」であり、意識的に主語を曖昧にしている可能性も高いようです。

他に「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という言葉が取り沙汰されています。「もう日本は謝罪しません」という意図を深読みされ、批判の対象になっています。この言葉だけ取り上げれば加害者の立場となる日本側が、あえて口にすることが適切だったかどうか賛否は大きく分かれるはずです。

この言葉の後には「しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります」と続くため、後ほど触れるドイツのヴァイツゼッカー元大統領の「過去に目を閉ざす者は結局、現在に対しても盲目となる」という有名な言葉の趣旨に繋げていく意図を読み取ることもできます。

中国や韓国のメディアは安倍首相の談話に対し、前述したような論点での批判の論調を高めています。それでも今のところ中国と韓国、それぞれの政府から即座に激しい反発を受けていないことも確かです。その意味合いで考えれば、安倍首相個人の信条を抑え気味にし、多くの国民が共有できる談話をめざしたことは正解だったようです。さらに安倍首相を支持されている方々からも、今回の談話の内容が高く評価されていることをインターネット上から散見できます。

特に「先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という言葉が好評ですが、逆に「しかし」以下の「謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ」まで読み取っているのかどうか心配になります。もともと安倍首相を好意的に見られている方々は、談話の内容を都合良く解釈しすぎているようにも感じがちです。いずれにしても支持者を落胆させなかったという点でも、安倍首相は狙い通りの談話が発表できたものと自負されているのではないでしょうか。

談話の内容について細かく見ていけば、いろいろ指摘すべき点も多いのだろうと思います。しかし、大事なことは今回の談話に示された言葉に沿って、日本人全体が歴史の教訓を深く胸に刻み、これからも不戦の誓いを堅持していく姿勢だと考えています。そのためにも談話の最後にある「積極的平和主義」の中味が、今、日本人一人ひとりに問われています。言うまでもなく、安保関連法案の成否の問題です。前回記事のコメント欄に記したことですが、レッテル貼りや陰謀論は論外とし、冷静で真摯、かつ慎重な議論が重ねられていくことを願っています。

長い記事になっていますが、最後に今回の記事の補足的な意味合いとして、私どもの組合の機関誌の特集記事から「戦後70年談話について」という章の内容をそのまま紹介します。この機関誌の原稿をまとめている時、安倍首相の70年談話がどのような内容になるのか予想できませんでした。歴史修正主義者と見られがちな安倍首相だからこそ、明解な言葉を盛り込む必要があるものと考えていました。明解な文章かどうか評価は分かれていますが、焦点化されていた言葉は盛り込み、安倍首相に自制を求めていた読売新聞が前向きに評価できる内容の談話に至ったようです。

ドイツと日本の戦後

ナチスと戦前の日本を比べることを問題視する声があります。ただ歴史を直視するという論点については同根のものがあるものと見ています。ドイツのヴァイツゼッカー元大統領の「過去に目を閉ざす者は結局、現在に対しても盲目となる」という有名な言葉が語り継がれています。戦後40年、「荒れ野の40年」という題名を付けられたヴァイツゼッカー元大統領の演説が行なわれた頃、ドイツでは「いつまでもナチスについて謝罪し続けるのはうんざり」という国民の感情が高まっていました。釈明の余地のないユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)の歴史に対し、「悪いのはナチスであり、ヒトラーだった」という峻別は付けやすかったはずです。それでも連続性のある国家としての責任があり、ナチスの暴走を許したドイツ国民の責任に今後も向き合っていくことの必要性をヴァイツゼッカー元大統領は演説の中で訴えていました。

今年3月にはドイツのメルケル首相が来日しました。その際、メルケル首相は講演の中で日本人に向けて次のようなメッセージを送っていました。日本が歴史問題で中国や韓国と対立していることに触れ、ナチスによるホロコーストの歴史を背負うドイツが「過去ときちんと向き合った」ことで国際社会に受け入れられ、かつて敵国だった近隣諸国との和解に至ったとし、日本も「歴史に向き合うべき」だと述べていました。加害者となるドイツは基本的な姿勢を変えず、現在に至っているため、メルケル首相が日本へ助言できるような立場に繋がっているものと受けとめています。そのドイツも30年前に加害者側が謝罪していくことを「もうそろそろ良いだろう」と考え、被害者側の感情を逆撫でする可能性があったことを押さえなければなりません。

中には悪質な被害者が相手の弱みに付け込み、理不尽なユスリをいつまでも続けるケースもあろうかと思います。しかし、一般的には被害者側の明確な赦しがない限り、加害者側はずっと謝罪する気持ちを持ち続けていかなければなりません。裁判や処罰を受けた後も、加害者が勝手に「もう謝る必要はない」と考えることは不誠実な関係性だろうと思っています。戦後70年談話に際し、70年も経ったのだから「謝罪は不要、未来志向で」と日本が一方的に考えることは、やはり問題が大きいものと考えています。以上の論点は、日本とドイツの置かれた立場が基本的に同じであり、同根であるという認識です。一方で、日本とドイツでは事情が異なる論点も押さえていかなければなりません。南京大虐殺や従軍慰安婦の問題をはじめ、日本人の中でも事実認識に大きな隔たりが生じている事例の多さです。

南京大虐殺はなかったのか

「南京で大虐殺はなかった」という言葉を耳にします。以前、そのような言葉を耳にした場合、身勝手な歴史修正主義者の発言だと思っていました。今はそのように考える方々の理由も分かるようになり、その方々が信じている歴史も、ある一面での事実だったものと認めるようになっています。例えば、30万人という数字は事実ではないのかも知れません。伝わっている残虐な場面で誇張や偽りも数多く含まれているのかも知れません。人道面でのモラルの高い日本兵が多かったことも事実だったろうと思います。

今年2月、産経新聞は紙面のトップを使い、南京虐殺を全面的に否定する記事を4回にわたって連載していました。産経新聞の記事で、南京陥落後に入城した現在98歳の元日本兵が「虐殺を見ていない」と語っていることを伝えています。しかし、南京城に入る門はいくつかあり、国際安全区のあった南側の中華門から入った日本軍が虐殺に接していないことはよく知られている話でした。そもそもJR山手線が囲む面積の3分の2程度の南京城内で、等しく虐殺があった訳ではないようです。そのため、産経新聞は今回、意図的に中華門から入った元日本兵にだけ「都合のいい事実」を語らせているという指摘も受けていました。

このように「南京大虐殺はなかった」と言い切れるほどの確証はないはずであり、単に「大虐殺はなかった」と規模の問題にすり替えるような姿勢であれば、あえて加害者側の立場である日本人が積極的に口にすべき言葉ではないように考えています。侵略についても同様です。「自衛のための戦争だった」「当時の国際法に則った併合や建国であり、インフラ整備などで日本人は尽くしてきた」という見方があります。ある面での事実だったかも知れませんが、やはり加害と被害という関係性が明確な中、日本人の側から強調すべき言葉ではないはずです。

村山談話を踏襲した明解な言葉が必要

戦後50年の村山談話は、社会党の村山首相の意思が強く反映されたことも確かです。しかし、自民党の閣僚も了解し、閣議決定した政府の公式見解という位置付けであったことも間違いありません。読み返した際、決して卑下しすぎた印象はなく、見解や評価の分かれる表現があったとしても、明らかな事実誤認に繋がるような言葉はなく、自民党の閣僚が反対しなかったことも理解できます。謝罪と反省が強調された村山談話は中国や韓国から評価され、戦後60年の小泉談話にも村山談話の歴史認識は受け継がれていきました。

過去、安倍首相は「村山さんの個人的な歴史観に日本がいつまでも縛られることはない。その時々の首相が必要に応じて独自の談話を出すようにすればいい」と発言していました。特に「侵略」という表現には著しい嫌悪感を持たれているようです。現在は「安倍内閣として侵略や植民地支配を否定したことは一度もない」という言い方に徹していました。ただ「侵略」や「おわび」などを盛り込むかどうかについて「(村山首相談話などと)同じことなら談話を出す必要がない。(過去の内閣の歴史認識を)引き継いでいくと言っている以上、これをもう一度書く必要はない」と述べ、否定的な見解も重ねていました。

この問題では、安倍首相寄りと見られている読売新聞の社説でも「政治は、自己満足の産物であってはならない」と訴えていました。「侵略された」「謝罪が不足している」と問題視しているのは中国や韓国など一部の国だけだと指摘する声を耳にすることがあります。しかしながら過去の関係性の深さを斟酌しなければならず、最も近い国々と険悪な関係が続くことを決して「是」とすべきではありません。安倍首相は個人的な信条や熱烈な支持者の声を踏まえた談話を出したいものと考えているのかも知れませんが、日本の国民にとって何が最も大事なのか、この論点を重視した判断に至ることを心から願っています。歴史修正主義者というレッテルを貼られがちな安倍首相だからこそ、あえて意識的に明解な言葉を盛り込む必要があるものと考えています。

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2015年8月 9日 (日)

安保関連法案の論点

このブログのコメント欄で常連だったnagiさんから久しぶりにコメントをお寄せいただきました。まず細谷雄一さんの「日本ではなぜ安全保障政策論議が不在なのか」という記事の紹介があったため、さっそく当該サイトに記された主張や考え方を拝見してきました。細谷さんが集団的自衛権の必要性を認め、国際社会が国連憲章に基づいて軍事的強制措置を執った際に日本もその一員として協力していくべきだと考えていることなどを読み取ってきました。

細谷さんに限らず、そのように考えている方々は多いはずです。ただ気になった記述も多々ありました。「他国の平和を実現することに無関心な国民も世界ではほかにいないのではないか」「自分たちが戦争に巻き込まれるのはいやだけれども、他国民の命がどれだけ失われても自分たちには関係がない」などという記述です。現在国会で審議中の安保関連法案に反対している日本人は押しなべて、そのような利己主義に陥っているという見方を細谷さんは示されていました。

最近、自民党の武藤貴也衆院議員が安保法制に反対する学生団体SEALDsに対し、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づくものだとツイッターで発言していました。武藤議員は発言を撤回せず、ご自身のブログで「国民に課せられる正義の要請」という新規記事を投稿し、「世界中が助け合って平和を構築しようと努力している中に参加することは、もはや日本に課せられた義務であり、正義の要請だと私は考えます」という補足説明を加えていました。

武藤議員のツイッターでの発言はメディアをはじめ、与党内からも厳しい批判の声が上がっていました。しかし、武藤議員のブログのコメント欄は少し趣きが異なっていました。「全面熱烈応援する」「これからも信念を貫き通してくれることを期待しています」など武藤議員を支持する意見のほうが目立っていました。やはり個々人の考え方や視点の違いによって、本当に同じ事象を見ていても評価が変わってくることを改めて認識する機会となっています。

ちなみにSEALDsの中心メンバーは武藤議員の発言に対し、「戦争が嫌だというのは、個人の考えだけでなく、みんなの思いでもあるのに」「怒りもあるが、それ以上に権力を持つ政治家が語る言葉なのか。私たちは平和主義の下で誰も戦争に行かせたくないと主張していて、利己主義とは違うのだが」と疑問を投げかけていました。そもそも安倍首相は「戦争法案ではない」「徴兵制はあり得ない」と答弁していますが、その説明を打ち消すような発言に見なされてしまうのではないでしょうか。

この武藤議員の話題を掘り下げていけば際限なく書き進めそうです。今回、安保関連法案に関わる論点をもう少し広げていくつもりですので、反対派は利己的なのかどうかという総論的な意味合いでの問題提起に繋げていきます。なお、後ほど問題が多い安保関連法案について自分なりの考え方を改めて詳述させていただきます。これまで当ブログで綴ってきた内容の焼き直しですので、あくまでも補足的な説明として位置付けています。そのような構成を考えていることを最初にお伝えした上で、今回の記事を通して訴えたい論点を端的に箇条書きにしてみます。

  1. 「他国民の命がどれだけ失われても自分たちには関係がない」という言葉は「戦争をしたがっている」と同様のレッテルをはった見方だと思っています。誰もが戦争を積極的にしようとは考えていないはずであり、世界中から戦火が消えることを願い、戦争で人を殺したくない、殺されたくないと考えているはずです。安保関連法案に賛成する者は戦争を肯定している、反対する者は利己的な「一国平和主義」という決め付けは避けるべき論点だと考えています。
  2. 反対派側の圧倒多数も個別的自衛権の必要性を認めています。様々な具体例での問題に対し、まず個別的自衛権の範囲内で解決できるかどうかが肝要だと思っています。情勢変化のもと集団的自衛権の行使まで必要とされているのであれば、憲法9条の改正を国民投票に付すべきだと考えています。この手順を軽視した今回の動きは憲法が権力を縛るという立憲主義をないがしろにした行為だと見ています。 
  3. フルスペックの集団的自衛権ではなく、限定的だから現行憲法の範囲内だと説明されています。そもそも戦争や武力衝突の事態に至った際、「限定的」や「必要最小限」という理屈が通じるのかどうか疑問です。そのような場面では相手側を圧倒するまで総力を尽くすことになるのではないでしょうか。だからこそ日本国憲法では個別的自衛権までが何とか許容される範囲だとされ、専守防衛という明確な線引きが非常に重要な点だったはずです。 
  4. 個別的自衛権を行使する際も戦争だと思っています。国連憲章で認められた自衛戦争であり、個別的自衛権の行使は「戦争ではない」という言葉が発せられているようであれば不適切な表現です。集団的自衛権も国際社会の中で認められた戦争であり、その行使まで可能とする今回の法案は「普通に戦争ができる国」をめざすことだと思っています。 
  5. 平和フォーラムについて「反日の組織だと思っている」と言われれば不本意ながらも仕方ありませんが、「売国反日フォーラム」という呼び方は誹謗中傷の類いだと受けとめています。あえて固有名詞を蔑称で呼ぶことと個々人の評価や見方を反映した形容詞の使い方には大きな差異があるものと考えています。「普通に戦争ができる国」という言葉は個々人の評価や見方の問題だと言えますが、固有名詞となる安保関連法案を「戦争法案」と呼ぶことを私自身は控えるように心がけています。 
  6. 安倍首相や礒崎首相補佐官は集団的自衛権行使の必要性を隣家の火事の消火活動に例えていましたが、例え話としては不適切だと批判されていました。要するに火事の消火は絶対必要なものであり、皆で協力し合うことが当たり前だからです。利害関係や憎しみが絡み合い、敵対する相手のある戦争は大義や正義が立場によって変動します。このような複雑さが避けられない中、平和国家としてのブランド力を発揮していく方向性こそ、めざすべき日本の役割だと考えています。

以上の論点について、あくまでも私なりの問題意識を示させていただきました。人によって見方や評価は様々であり、手厳しい批判や指摘を受けるのかも知れません。ぜひ、ご理解願いたい点は安倍政権の法案だから反対している訳ではありません。逆に安倍首相や自民党政権を支持されている皆さんも本当に今回の安保関連法案が、このまま成立して良いのかどうか、少しだけでも立ち止まって考えていただければたいへん幸いなことです。

最後に、と言うよりも、ここからも相当な長さの文章が続きます。先ほど述べたとおり今まで当ブログで綴ってきた内容を整理して紹介することで、上記の箇条書きの内容では言葉が不足している点などの補足的な説明に繋がればと考えています。実は来週火曜日に私どもの組合の機関誌を発行します。戦後70年という節目にあたり、平和に関する課題を特集した記事を寄稿していました。そのうちの「問題が多い安保関連法案」の章の転用であり、労力的にはあまり負担がかからない紹介の仕方でした。

昨年7月1日、安倍政権は集団的自衛権の行使を認める閣議決定を行ないました。その閣議決定に基づき、10に及ぶ既存法の改正案を一括りにした平和安全法制整備法と新法の国際平和支援法(国際紛争に対処する他国等の後方支援を随時可能にする)を提案し、今国会での成立を企図しています。この法案を成立させることで「抑止力が高まり、戦争を防げる」と安倍首相らが信じていることは間違いないようです。しかし、本当にその通りなのか、国民にとって望ましい法整備なのかどうか、私自身は強い疑問を抱いています。そもそも違憲の疑いが濃厚と言われている法案を強引な解釈で「合憲」と説明すること自体、論外な話だと思っています。

■「普通に戦争ができる国」をめざすのかどうか

国連憲章によって外交の延長線上として宣戦布告さえすれば合法だった戦争が、現在、国際社会の中で原則禁止されています。例外として、自衛のためと国連安全保障理事会が認めた場合の戦争だけを合法としています。集団的自衛権は前者に当たり、同盟国などが武力攻撃を受けた際に共同で対処できるものです。後者は集団安全保障と呼ばれ、国連の枠組みで武力攻撃を行なった国を制裁する仕組みです。ちなみに国連安全保障理事会が「平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」に限って、国連憲章第51条で集団的自衛権の行使を認めています。

その中でも日本国憲法は国際社会の中では異質なものに位置付けられます。これまで専守防衛を大原則とし、個別的自衛権に限って武力行使ができる「特別さ」を守り続けてきました。この「特別さ」があるため、ベトナム戦争やイラク戦争などに直接参戦することなく、結果的に戦後一度も戦争しない国として誇ることができています。したがって、集団的自衛権の行使に踏み出すことは「普通に戦争ができる国」をめざすことに繋がる話だろうと見ています。

政府の憲法解釈に長年携わってきた阪田雅裕元内閣法制局長官は「集団的自衛権の行使が許されることは今の国際法で許される戦争がすべてできることになり、9条をどう読んでも導けない、文章の理解の範疇を超えているものは解釈ではなく、無視と言うべきものではないか」と語られています。明らかに憲法9条の解釈は個別的自衛権の行使までが限界であり、集団的自衛権の行使まで容認することは日本国憲法の平和主義を捨て去る局面だと考えています。

日本をとりまく安全保障環境が変わったため、時代情勢に合わせた憲法解釈の変更が必要である、そのような主張を耳にします。情勢の変化があり、ルールを変える必要な場合があることはその通りだと思います。しかし、解釈が情勢変化のもとにその都度変更できるという理屈には違和感を抱いています。それも内閣の意思で憲法の根幹を解釈で変えていく行為は権力を縛るという立憲主義をないがしろにした暴挙だと言わざるを得ません。

■集団的自衛権に踏み出すことの危うさ

湾岸戦争以降、日本の人的貢献のあり方について取沙汰されてきましたが、今回の法案が成立すると自衛隊の活動範囲は飛躍的に広がります。しかしながら今後、自衛隊が後方支援に携わる機会が増えた場合でも「なぜ、日本の軍隊だけ安全な場所にいて、最前線に出てこないのか」と批判を受けるようになるはずです。安倍首相は「戦闘が起こった時は、ただちに(後方支援活動を)一時中止、あるいは退避することを明確に定めている」と説明していますが、それこそ「戦闘を前に撤退する卑怯者」という批判の声にさらされる話となります。

そもそも戦争や武力衝突の事態に至った際、「限定的」や「必要最小限」という理屈が通じるのかどうか疑問です。そのような場面では相手側を圧倒するまで総力を尽くすことになるのではないでしょうか。だからこそ日本国憲法では個別的自衛権までが何とか許容される範囲だとされ、専守防衛という明確な線引きが非常に重要な点となっていました。残念ながら憲法9条があれば自国の平和は守れるという現状でもありませんので、個別的自衛権の必要性は認めなければなりません。今回、法案審議を通し、様々な具体例が示されていますが、基本的に大半は個別的自衛権の範囲内で語れるような気がしています。

安倍首相は湾岸戦争やイラク戦争のようなケースでの日本の参戦はないと明言しています。そうであれば、わざわざ集団的自衛権という概念を持ち出す必要があったのかどうか疑問視しています。これまで平和憲法のもとの自衛隊であるため、海外での直接的な参戦は控えられてきたと言えます。今後、国内的な解釈によって憲法9条の「特別さ」を削げるのであれば、他国から「なぜ、日本は出てこない。日本だけ血を流さない」という声が示された時、直接戦闘に参加できない説明に苦慮していくものと考えています。

■武力で平和は築けない

軍備力の増強が抑止力を高めるという見方があります。普通の人は屈強なプロレスラーに殴りかからないという一例が示される時もあります。しかし、そのような例示は際限のない軍拡競争に繋がりがちであり、国際社会の規範による自制力を軽視した「弱肉強食」の発想だと考えています。例示で考えれば、殴りかからなくても拳銃を用意するという発想と同じ危うさとなります。タカ派の政治家は「戦争も辞さず」という発想を持ちがちです。このような発想は論外であり、まず他者の立場をおもんばかり、簡単に相容れない言い分だったとしても率直に耳を傾ける外交姿勢が最も重要であるはずです。

隣接したドイツとフランスは第一次、第二次世界大戦でお互い戦い、多くの犠牲者を出してきました。このような被害を繰り返さないという両国の決意が欧州に新しい流れを生み出しました。第二次世界大戦後、領土や資源の争奪戦を避けるため、両国は石炭と鉄鋼を共同管理する共同体を1951年に作りました。その一歩が欧州連合(EU)まで発展しています。軍事力による強引な他国への介入は混乱や無秩序状態を招きがちです。ISIL(イスラム国)を生み出したイラク戦争などから武力では平和が築けないことを教訓化していかなければなりません。憎しみの連鎖が新たなテロや戦争を招きがちな現実こそ、押さえるべき重要な情勢認識だろうと考えています。   

■国際社会の中で日本が果たすべき役割

かつてに比べればアメリカの国力にもかげりを見せ始めています。そのような絡みから日本の軍事力に今まで以上の役割を期待し、集団的自衛権行使を検討していくことに歓迎の意を表しているものと見ています。一方で、アメリカ国内では他国の戦争に巻き込まれたくないという意識が高まっているようであり、日本と中国との対立を危惧している側面があることも確かです。

安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を唱えていましたが、祖父の岸元首相から連なる個人的な信念が前面に出た動き方であるように感じています。ただ安倍首相が「戦争をしたがっている、戦前のような軍国主義をめざしている」というような批判は的外れだと思っています。それでも憲法9条の「特別さ」を徐々に削ぎたいという意図は明らかで「普通に自国の平和を維持できる国」、つまり制約のない集団的自衛権行使も含め、いざという時「普通に戦争ができる国」をめざしていることは間違いないようです。

そのような考え方に対し、私自身は日本国憲法の「特別さ」は守り続けるべきブランドだと考えています。そのことによって国際社会の中で日本だからこそ貢献できた役回りがあり、もっともっと「特別さ」をアピールしながら非軍事面での独自な活動に力を注ぐことを望んでいます。アフガニスタンのDDR(武装解除・動員解除・社会復帰)で活躍された伊勢崎賢治さんは、平和国家である日本のイメージは良く、「軍事的下心がない」と認識されていると述べています。そのため、武装解除の交渉がスムーズに進んだことを紹介し、「憲法9条によるイメージブランディングが失われたら日本の国益の損失だ」とも語られていました。

今回、安保関連法案を成立させれば、平和国家のブランドイメージを低下させ、これまで以上に日本もISILのような国際テロの標的にされるリスクが高まっていくものと危惧しています。誰もが戦争を積極的にしようとは考えていないはずです。悲惨な戦争に突入した過去の歴史の分岐点でも同様だったはずです。それにもかかわらず、軍事力の強化が抑止力を高め、戦争を未然に防ぐ手立てだという考え方が根強く支持されがちです。

しかし、国際社会の中で突出した平和主義を唱えた日本国憲法、その「特別さ」は誇るべきものであり、決して否定されるような理念ではありません。したがって、これまでの安全保障政策を大きく転換させ、わざわざ平和国家のブランド力を棄損させる安倍首相の判断は非常に残念なことです。歴史の分岐点とも言える今、よりいっそう平和の築き方について議論を深め、強引な安倍政権の進め方を疑問視する国民の声がもっともっと高まり、問題が多すぎる安保関連法案を白紙に戻せることを強く願っています。

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2015年8月 2日 (日)

支持率が上がらない民主党

前々回記事「安保関連法案が衆院通過」 のコメント欄で多くの方から貴重な提起や指摘をお寄せいただいていました。私自身、土曜と日曜に限ってブログに関わるようにしているため、せっかくの問いかけもコメント欄では充分に対応できないまま失礼しがちです。前回記事「8月9日に市長選と市議補選」の冒頭でそのような現状を補うため、コメント欄に寄せられた論点に対し、機会を見ながら新規記事の本文を通して私なりの考え方を掘り下げていくことをお伝えしていました。

今回、寄せられていた論点すべてを網羅できるものではありませんが、私なりの問題意識を綴る機会に繋げてみます。いろいろ取り上げたい話題が数多くあり、論点が散漫にならないよう記事タイトルを決めてから書き始めています。前々回記事のコメント欄では安保関連法案に反対している民主党の対応に焦点が当たりがちでした。特に衆院安保特別委員会での採決の際、民主党の議員がプラカードを持ち込んだ場面に強い批判の声が寄せられていました。

安保関連法案を強引に成立させようとしている安倍政権への支持率が報道各社の世論調査で軒並み急落しています。一方で民主党をはじめ、野党に対する政党支持率が目に見えて上昇しているかと言えばそのようになっていません。民主党に関しては委員会室へのプラカードの持ち込みなど「反対の仕方」に問題があるからでしょうか。今回の記事タイトルに掲げたとおり支持率が上がらない民主党について、安保関連法案への対応ぶりを通して私なりの見方を書き進めてみるつもりです。

まずプラカードの件について、前々回記事のコメント欄で私からは「委員会室へのプラカードの持ち込みは明確に禁止されていなかったようですが、確かにその行動の評価は大きく分かれがちです。たいへん大きな問題がはらむ法案を強引に採決される際、強い反対の意思をアピールする方法の一つとして、私自身は絶対ダメだったという評価ではありません。やはり個々人の法案に対するスタンスの違いによって評価は変わってくるように見ています」と答えていました。

このレスに対し、今後も容認するような立場への違和感や「事案は非常に重たく、重大なものです。違憲性が正面から問われるような大事な大事な議案です。だからこそ、欠席して、騒ぎ立て、散らかしっぱなしにするその姿勢を批判するんです」という指摘などを受けていました。それぞれのコメントが理性的で説得力あるものであり、あっしまった!さんの意見には「モヤモヤしていたものが晴れました」と強く賛同する声を実生活の場面でも耳にしていました。

いわゆる左や右に偏っていない方々まで苛立たせてしまう民主党の国会での対応は反省すべき点が多々あろうかと思います。衆議院事務局の委員会担当者は「国会法48条に委員長は議事の整理をし、秩序を保持する」と記され、過去の議院運営委員会で「節度をもってやりましょう」という申し合わせがあり、プラカードの持ち込みは「ダメともいいとも書いてありません」と説明しています。

ルールやモラルを守ることは当然であり、国会議員の責務や役割がテレビカメラを意識したパフォーマンスの行使でないことは間違いありません。確かに国会での審議を通して与党案の矛盾や問題点を追及し、修正や廃案に追い込むことが国会議員や政党の望ましい姿だと言えます。しかし、安倍首相の答弁には断定調が多いようですが、「なぜ、そのように言い切れるのか」という理由や根拠の乏しさが目立っています。

そもそも憲法学者の圧倒多数が「違憲」とし、首相補佐官の法的安定性を軽視した発言が取り沙汰され、国民の多数が反対している法案にもかかわらず、政府与党は現有議席の数の力で押し切ろうとしています。このような局面において、圧倒的な議席を有している与党に対し、どのように野党が振る舞えば問題の多い法案を阻止できるのかどうか知恵を絞り、できる限りの力を注ぐことも大事なブレーキ役を期待された野党の役割だろうと思っています。

その知恵や力がプラカードでは確かに残念な話であり、民主党への批判がインターネット上では飛び交っていました。一方で、プラカードを掲げたことを評価する声も耳にしています。もっともっと与党の横暴さを浮き彫りにするためには、長時間討論や牛歩戦術なども駆使すべきだったのではないか、そのような意見も聞こえていました。「無責任」批判にひるまず、「違憲」「法案撤回」で押し通し、相手側の議論の土俵に乗る必要はないというエールも多かったようです。

よく「対案を示さずに反対だけしているのは無責任だ」という批判を耳にします。しかし、ダメなものはダメであり、その案に反対すること自体が立派な「対案」になる場合も多いのではないでしょうか。現状認識の問題に繋がりますが、Aの道か、Bの道か、Cの道を選ぶのか、前に進まなければ問題だと考えている方々にとって、A、B、C、いずれかの道を選ばなければ無責任だという話になります。

ただAの道には問題があり、Bか、Cかを選ぶことの判断材料にも乏しい場合、現在の場所にとどまることに問題がないと判断できれば、Aを選ぶことだけを反対する関係性となります。分かりやすい例えかどうか自信がありませんが、対案がないことへの批判は前述したとおり「ためにする批判」であるように感じています。最近、民主党の岡田代表が下記のような「民主党の対案」という見解を示しています。

我々の「対案」ということに意味ですが、「考え方」という意味では、すでに4月に我々の考え方は出ています。したがって、対案なく批判だけしているというのは間違いです。周辺事態法についても、PKO法についても、我々がどう考えるかということは、その中に明らかにしています。第2に、しかし集団的自衛権の行使に関しては、我々は対案を持ちません。それは、集団的自衛権の行使が違憲の疑いが濃いということで、我々は基本的に個別的自衛権で対応する、あるいは周辺事態法で、自衛権の行使に至らない、後方支援で対応するということにしているからです。

したがって、この部分について、当然のことながら対案は作ってありません。それは当然のことで、対案があるということは、集団的自衛権の行使を一部認めるということですから、私たちはそういう立場には立っていないということを申し上げておきたいと思います。周辺事態法やPKO法に関しては、「考え方」が4月にまとまり、法案化の作業も粗々整ってきています。したがって、必要があれば、いつでも提出できる状況に来ているということも申し上げておきたいと思います。

ただ、それを参議院の委員会審議の冒頭から提出するということは、私は避けるべきだと考えています。まず、国民の皆さんの8割が、政府の説明は不十分というなかで、しっかりと政府案の疑問点、問題点を指摘し、議論するということが、我々野党に求められた役割だと考えるからです。したがって、最初からPKO法や周辺事態法の対案を出すということはありません。今後、参議院で議論していく中で、タイミングを計るということになります。

これは、もっぱら国会戦術上の問題でもあり、先般のNC(『次の内閣』)において、私、参議院議員会長の郡司さん、特別委員会筆頭理事の北澤さん、細野政調会長、高木国対委員長、この5名に出すか、出さないか、出すとしたらタイミングをどうするかということは、一任を受けました。これは党として決定したことです。したがって、早く出せとか、出さないとか、そういう議論は党の中で、個人的なご意見はあるかもしれませんが、すでに方針は党として決定している、その方針に基づいて、粛々と対応していくということは申し上げておきたいと思います。

いずれにしても、「対案」を出せ、出せということしか言えない政府・与党は非常に残念に思います。まずは、政府が責任を持って出した法案を、きちんと説明しきる。聞かれたことにきちんと答える。「そんなことはありません、リスクは高まりません」ということで強弁したり、答弁が二転三転したりする、そういう姿勢を国民の皆さんは見ていて、政府の説明は不十分と言っておられる。何も分からないで言っているのではなくて、安倍総理はじめ政府の答弁をしっかりと見たうえで、不十分だと言っておられるということを、総理をはじめ政府側もきちんと認識されたほうがいいと思っています。

上記の見解に対し、BLOGOSに寄せられているコメントは辛辣な声のほうが目立っています。「民主党は少なくとも前の政権を担った政党です。自分たちが政権を取ったならどうするという案もなしに支持が増えると思っていらっしゃるとすれば末期的だと思います」「支持率が伸びていないという事は、結局野党が政権を担うにふさわしい政党と思われていない」「民主党が本気で政権目指してるなら、そこをまず真面目に取り組むべきだと思うんですが、結局批判することだけで終わってしまう野党になってしまっています」という指摘が多いようです。

ただ対案を示せば支持率が上昇するというものでもありません。維新の党は衆院審議で対案を提出して「責任政党」をアピールしましたが、支持率は2%前後で低迷したままです。東京新聞の本音コラムで山口二郎さんは「反対ばかりでは政権政党になれないと考える政治家が、対案作成を通して野党再編成を目指すとも言われている。これこそ野党の自殺行為である。予算に関わる話なら、対案を出して修正を勝ち取るという戦法もある。しかし、立憲民主主義を破壊する政府与党に対して中途半端な対案を提示すれば、政府にとっては格好の援軍となる」と訴えています。

このように対案に関しても賛否ありますが、私自身、岡田代表が示しているような見解に違和感はなく、参院本会議で北沢俊美元防衛相が「この法案は憲法違反だ。国民が求めているのは対案ではなく、廃案だ」と言い切ったとおりの対応を支持しています。とは言え、プラカード持ち込みの問題をはじめ、民主党に幅広い支持が集まるかどうかで言えば、いろいろ不充分さは今後も指摘されていくのかも知れません。

それでも岡田代表らの発想や判断は決して現実離れしたものではなく、国民の多数からも支持を得られるものだと考えています。もう一度、民主党が政権交代に向けて有力な受け皿として認められるのかどうかは信頼感の問題だと思っています。個々の政策に対する評価は国民の中でも賛否が分かれがちです。どちらの政策判断が国民の多数から支持を得られるのかどうか、そのことばかり重視した場合、それこそポピュリズム政党に陥ってしまいます。

立憲主義や平和主義を尊重する政党かどうか、基本的な理念や方向性で自民党との対抗軸を打ち出していくことが重要です。その上で一度政権を担った経験や教訓を生かし、より望ましい現実的な政策判断を積み重ねていける政党として国民からの信頼感を得られるのかどうか、このような関係性が大きな鍵になっていくように考えています。そのような信頼感が高まるようであれば、おのずと民主党に対する支持率も上がっていくのではないでしょうか。

そのためにも最近の記事「長島昭久さんとの関係」の中で綴ったとおり「左」に偏り過ぎだと見られても政権交代は難しいため、「リアリズムとリベラリズム」を兼ね備えた長島さんのような政治家を包み込んだ政党であって欲しいものと願っています。もう一つ強い要望として、党内ガバナンスの問題があります。個々人の意見が自由闊達に示せない組織も問題ですが、党内で議論すべき話が外部に発信され、まとまりのなさを印象付けていくことには少し注意して欲しいものと感じています。

民主党内が、安全保障関連法案に反対して「徴兵制の復活」をあおる手法や表現を巡り、収拾がつかなくなってきている。法案に反対する党のパンフレットは、徴兵制の記述に関して党内の保守系議員の批判を受け改訂したが、微修正にとどまった。党内には、「抵抗野党」とのイメージが染みつくことを懸念する声も出ている。民主党は21日付で、パンフレットを改訂した。徴兵制復活に関するページで、出征兵が女性に見送られるイラストを削除し、女性が子どもを抱きかかえるイラストに置き換えた。

ただ、「集団的自衛権の行使を禁止してきた 従来の憲法解釈を閣議決定で変更し、限定的行使を可能としました」「そのようなことが許されるなら、徴兵制も同じです」との文言は、そのまま残された。保守系議員からは依然として「徴兵制復活など、今の日本ではありえない。非現実的だ」と批判が相次いでいる。「いつかは徴兵制?募る不安。」とのタイトルが、共産党の機関紙「しんぶん赤旗」に掲載された「徴兵制!? 広がる不安」と似ているため、「共産党と足並みをそろえているように見えてしまう」と懸念の声が出ている。【読売新聞2015年7月26日

安倍首相は「徴兵制の導入はまったくあり得ない。今後も合憲になる余地はまったくない。子どもたちが兵隊にとられる徴兵制が敷かれることは断じてない」と繰り返し、「政権が代わっても導入はあり得ない」と言い切っています。しかしながら「長年の憲法解釈を変更し、歴代内閣が使えないとしてきた集団的自衛権の行使を認めたのは首相で説得力がない」という指摘は最もであり、隣の韓国には徴兵制が敷かれているとおり「非現実的だ」と決め付けることもどうかと思っています。そのように考えた際、上記のパンフレットは必ずしもNGではなく、淡々と対応すべき事案だったように見ていました。

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