問題が多い安保関連法案
土曜の午後、三多摩平和運動センターが呼びかけた「三多摩集中行進」に参加しました。4か所の集合場所で、それぞれミニ集会を行なった後、同じ目的地まで4コースに分かれて400名以上の参加でデモ行進に取り組んでいます。メインとなるスローガンは「戦争関連法案の制定に反対しよう!」でした。ミニ集会の際、私もマイクを持つ機会がありましたが、本当に一言だけにとどめてしまいました。マイクを持たれた他の方々もあまり長く話されず、ミニ集会は予定した時間よりも早く終わっていたため、もう少し自分なりの問題意識を添えれば良かったかなと後から考えていました。
安全保障関連法案に対し、今回のブログ記事に託すとおり訴えたい論点が数多くあります。今週発行する組合ニュースの裏面には「問題が多い安全保障関連法案に反対の声を」という見出しを付け、文責を明らかにしながら私自身の言葉で組合員の皆さんにいくつかの論点を提起しています。ただ限られた紙面ですので、説明が不足しているような箇所も多いように感じています。このブログの利点は字数制限のないことであり、今回の記事はその原稿をベースにし、大幅に加筆しながら私自身の問題意識を綴らせていただくつもりです。
さて、昨年7月1日、安倍政権は集団的自衛権の行使を認める閣議決定を行ないました。その閣議決定に基づき、下記のとおり10に及ぶ既存法の改正案を一括りにした平和安全法制整備法と新法の国際平和支援法(国際紛争に対処する他国等の後方支援を随時可能にする)の成立を今国会で企図しています。この法案を成立させることで「抑止力が高まり、戦争を防げる」と考えられている方も多いのだろうと思っています。しかし、本当にその通りなのか、国民にとって望ましい法整備なのかどうか、このことが法案審議を通して最も重視していくべき論点だと考えています。
①自衛隊法(武器使用基準の大幅緩和) ②武力攻撃事態法(武力攻撃事態等に加え、存立危機事態への対処も規定) ③周辺事態法(地理的概念をなくし重要影響事態法へ改定) ④PKO(国連平和維持活動)協力法(駆け付け警護などの業務拡大と武器使用基準の緩和) ⑤米国行動関連措置法(存立危機事態へ対処) ⑥海上輸送規制法(存立危機事態へ対処) ⑦捕虜取り扱い法(存立危機事態へ対処) ⑧特定公共施設利用法(米軍以外の外国軍隊も対象) ⑨船舶検査活動法(日本周辺海域に限らず適用可能) ⑩国家安全保障会議設置法(存立危機事態等も審議対象に)
湾岸戦争以降、日本の人的貢献のあり方について取沙汰されてきましたが、今回の法案が成立すると自衛隊の活動範囲は飛躍的に広がります。しかしながら今後、自衛隊が後方支援に携わる機会が増えた場合でも「なぜ、日本の軍隊だけ安全な場所にいて、最前線に出てこないのか」と批判を受けるようになるはずです。安倍首相は「戦闘が起こった時は、ただちに(後方支援活動を)一時中止、あるいは退避することを明確に定めている」と説明していますが、それこそ「戦闘を前に撤退する卑怯者」という批判の声にさらされる話となります。
そもそも戦争や武力衝突の事態に至った際、「限定的」や「必要最小限」という理屈が通じるのかどうか疑問です。そのような場面では相手側を圧倒するまで総力を尽くすことになるのではないでしょうか。だからこそ日本国憲法では個別的自衛権までが何とか許容される範囲だとされ、専守防衛という明確な線引きが非常に重要な点となっていました。その上で、あくまでも平和憲法のもとの自衛隊であるため、海外での直接的な参戦は控えられてきたと言えます。今後、国内的な解釈によって憲法第9条の「特別さ」を削げるのであれば、他国から「なぜ、日本は出てこない。日本だけ血を流さない」という声が示された時、直接戦闘に参加できない説明に苦慮していくものと考えています。
ここまで書き進めたところで、よく投げかけられる疑問や批判について考えてみます。改めて新しい文章を綴るよりも手っ取り早く昨年5月の記事「もう少し集団的自衛権の話 Part2」の中で箇条書きにした私なりの問題意識や「答え」をそのまま掲げさせていただきます。今回の記事の流れの中で、あえて再掲する必要のない箇所もあろうかと思いますが参考までにご容赦ください。特に12番目は昨年末、唐突に解散され、たいへん残念ながら安倍政権が国民から「信任」された結果となっています。
- 政府の憲法解釈に長年携わってきた阪田雅裕元内閣法制局長官は「集団的自衛権の行使が許されることは今の国際法で許される戦争がすべてできることになり、9条をどう読んでも導けない、文章の理解の範疇を超えているものは解釈ではなく、無視と言うべきものではないか」と語られています。私自身も憲法第9条の解釈は個別的自衛権の行使までが限界と考え、このブログの直近の記事で記したとおりフリーハンドで集団的自衛権の行使まで容認することは日本国憲法の平和主義を捨て去る局面だと考えています。
- 日本をとりまく安全保障環境が変わったため、時代情勢に合わせた憲法解釈の変更が必要である、そのような主張を耳にします。情勢の変化があり、ルールを変える必要な場合があることはその通りだと思います。しかし、解釈が情勢変化のもとにその都度変更できるという理屈には違和感を抱いています。それも内閣の意思で憲法の根幹を解釈で変えていく行為は権力を縛るという立憲主義をないがしろにした暴挙だと考えています。
- 安倍首相が示した具体例などを検討する際、集団的自衛権という概念を持ち出す必要があるのかどうか疑問視しています。個別的自衛権や警察権の延長、正当防衛や緊急避難という定義に照らし、具体例に対する解決策を検討していくべきではないでしょうか。そもそも安倍首相は湾岸戦争やイラク戦争のようなケースでの日本の参戦はないと明言しています。そうであれば、わざわざ集団的自衛権という概念を持ち出さず、上記1.2.のような不信を少しでもやわらげた議論を提起すべきものと考えています。
- 慎重姿勢の公明党や世論の風向きを意識し、安倍首相は集団的自衛権に対して「限定容認」の姿勢を打ち出したのかも知れません。しかし、本音のところでは安倍首相や自民党のめざすべき先は自衛軍であり、国際的には異質な憲法第9条の「特別さ」を削ぎ、「普通の国」になることだろうと見ています。その意味で最初は「限定的」に踏み出し、「アリの一穴」を徐々に広げていく意図があるように考えています。
- これまで軍隊ではなく、あくまでも平和憲法のもとの自衛隊であるため、海外での直接的な参戦は控えることができました。今後、国内的な解釈によって憲法第9条の「特別さ」を削げるのであれば、ますます他国から「なぜ、日本は出てこない。日本だけ血を流さない」という声が示された時、参戦できない説明に苦慮していくものと考えています。
- 憲法第9条があれば自国の平和は守れるという現状でもありませんので、個別的自衛権の必要性は認めています。「日本人だけ血を流さなければ良いのか、日本人の手だけ血に染まらなければ良いのか」という声を耳にする時があります。もちろん否です。一国平和主義ではなく、理不尽な血が流されない国際社会の実現を願っています。その上で、集団的自衛権が行使できない日本国憲法の「特別さ」を活かし、もっともっと日本の役回りやブランドイメージを高めることに力を注ぐべきものと考えています。
- イラク戦争などの教訓から武力で平和が築けないケースを想定しなければなりません。憎しみの連鎖が新たなテロや戦争を招きがちです。軍備力の増強が抑止力を高めるという見方があります。普通の人は屈強なプロレスラーに殴りかからないという一例が示される時もあります。しかし、そのような例示は際限のない軍拡競争に繋がりがちであり、国際社会の規範による自制力を軽視した「弱肉強食」の発想だと考えています。
- 隣接したドイツとフランスは第1次、第2次世界大戦でお互い戦い、莫大な犠牲者を出してきました。このような被害を繰り返さないという両国の決意が欧州に新しい流れを生み出しました。第2次世界大戦後、領土や資源の争奪戦を避けるため、両国は石炭と鉄鋼を共同管理する共同体を1951年に作りました。その一歩が欧州連合(EU)まで発展しています。「戦争も辞さず」という発想を論外とし、まず他者の言い分にも耳を傾ける外交姿勢が最も重要であるものと考えています。
- かつてに比べればアメリカの国力にもかげりを見せ始めています。そのような絡みから日本の軍事力に今まで以上の役割を期待し、集団的自衛権行使を検討していくことに歓迎の意を表しているものと見ています。一方で、アメリカ国内では他国の戦争に巻き込まれたくないという意識が高まっているようであり、日本と中国との対立を危惧している側面があるものと考えています。
- アメリカから日本に対し、集団的自衛権を行使できるように求めた圧力が強まっているようには思えません。そのように考えた時、安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を唱えていましたが、祖父の岸元首相から連なる個人的な信念が前面に出た動き方であるように感じています。ただ安倍首相が「戦争をしたがっている、戦前のような軍国主義をめざしている」というような批判は的外れだと言えます。しかし、憲法第9条の「特別さ」を徐々に削ぎたいという意図は明らかで「普通に自国の平和を維持できる国」、つまり制約のない集団的自衛権行使も含め、いざという時「普通に戦争ができる国」という姿をめざしているものと考えています。
- 今の日本国憲法は「異常」だと考えている方も多いのかも知れません。直近の記事でも記してきたことですが、私自身、日本国憲法の「特別さ」は誇るべきものだと思っています。それでも憲法第96条の定めに沿って衆参両院議員の「3分の2以上」の発議があり、憲法改正の国民投票が行なわれた結果、第9条の「特別さ」がなくなってしまうのであれば、それはそれで国民の選択だろうと考えています。
- 安倍政権の信任を問うことを目的に衆議院が解散されることも想定していかなければなりません。その際、どのような濃淡になるのかどうか分かりませんが、憲法解釈による集団的自衛権行使の問題も自民党の公約に掲げられるはずです。そのような局面に備え、集団的自衛権行使の問題をはじめ、野党第一党の民主党には自民党との対抗軸を明確に打ち出せる政治勢力の中心になってもらいたいものと考えています。
上記のような問題意識のもとに私自身は、日本国憲法の「特別さ」は守り続けるべきブランドだと考えています。そのことによって国際社会の中で日本だからこそ貢献できた役回りがあり、もっともっと「特別さ」をアピールしながら非軍事面での独自な活動に力を注げることを望んでいます。このように記すと「9条さえあれば平和が守れるのか」という批判を受ける場合があります、しかし、専守防衛のもと個別的自衛権は認めた上での話であり、そのような批判は論点がずれているように感じています。集団的自衛権まで行使するのかどうかの論点に際し、前述したように「限定的」な行使であれば新たな問題を生じさせていくだけだろうと考えています。
仮に限定的なケースを想定するのであれば、個別的自衛権の延長線上で是非を判断することも可能だったのではないでしょうか。例えば刑法上、正当防衛や緊急避難という定義があります。差し迫っている侵害が第三者に向けられていた際、その第三者を助ける行為でも正当防衛は成立します。このような概念のもとの議論であれば憲法第9条の理念の空洞化に歯止めをかけることができ、国内外に余計な波紋を広げずに済むような気がしていました。それでも安倍首相が集団的自衛権に対してフリーハンドを得たいと考えるのであれば、上記箇条書きの11番目のとおり国民投票の道を選ぶことが立憲主義の大原則だったはずです。
今回の法整備はアメリカとの関係性の強化に繋がるという見方があります。先月、安倍首相はアメリカ上下両院合同会議で演説し、日米同盟強化のための安保法制を「この夏までに成就させます」と約束しています。アメリカ側の負担が減る話であり、大歓迎されたことには間違いありません。しかし、いつも懸念している安倍首相の発する言葉の重さに関わることですが、アメリカ側に誤ったメッセージを伝えてしまっているようです。民主党の衆院議員で元防衛副大臣の長島昭久さんがインタビュー記事「遠くは抑制的、近くは現実的」の中で次のように語っていました。
私は5月の連休中にワシントン、ニューヨークへ行ってきたので、最新の状況は把握している。問題は2つで、1つは地球規模で日米協力ができると意気込んでいる人たちがいるが、それが本当に日本の国益かどうか、米国に対してしっかり発信していかなければいけない。もう1つは、集団的自衛権が行使できるようになったと喜んでいる人たちがいるが、自公両党が合意した集団的自衛権の行使は、言ってみれば個別的自衛権にちょっと毛が生えたようなもの。米側からすれば期待を大きく下回る代物で、これが運用、さらに現場の作戦面に落ちてきたときに、「なんだ、そんなものか」ということになるのではないか。安倍首相は米議会演説などでかなり大風呂敷を広げてきたので、私は非常に心配している。だから、私は「実態をよく見てください」「過剰な期待をすると裏切られますよ」と説明してきた。これ以上やるのなら、憲法改正が必要になるだろうと思う。
そのインタビューの中で長島さんは、セオドア・ルーズベルト米大統領の「Speak softly,and carry a big stick(外交は柔らかにやるが、いざという時の備えはきちっとやっておく)」という言葉を紹介しています。その言葉に対比し、安倍首相は「speak loudly(声高)」であり、声高に挑発する外交は少し自重されるよう訴えています。このブログによく登場いただいている長島さんは、いわゆる左や右でとらえれば民主党の中でも「右」寄りと見られています。一方で、自治労に所属する私どもの組合は「左」に位置付けられがちです。
その両者に推薦関係があるため、時々、違和感や批判的な意見が寄せられていました。そのため、あえて意識的に当ブログの中で長島さんについて触れてきた経緯があります。昨年末の記事「衆議院解散、民主党に願うこと Part2」の中では次のような記述を残していました。まず民主党の海江田前代表が集団的自衛権の行使は「専守防衛の形骸化だ」と批判されていた話を紹介した後、連合地区協議会の議員懇談会に出席した機会に長島さんと次のような意見を交わしたことを報告していました。
長島さんから「自衛権の限界を基本法で明記すべき」という考え方が示された際、私から「日本国憲法の特別さを前提にするのであれば、民主党内での意見はまとまっていくのではないでしょうか」と尋ねていました。さらに「自民党の改憲草案では国防軍を目指しているため、自民党と民主党との違いも明らかであり、ぜひ、憲法の平和主義を大切にしていくような党内議論を進めていただければ幸いです」という要望まで添えていました。長島さんからは肯定的な返答をいただき、先に紹介した海江田代表の見解も照らし合わせながら、私にとって有意義な機会だったことを思い返しています。
衆院安保特別委員会は月曜、水曜、金曜に開かれています。民主党は法案の成立阻止に向け、長島さんも含めて各委員が問題点を追及しています。確かに自衛権の具体的な限界については民主党内で温度差があるように見ています。その温度差は私自身と長島さんとの「答え」にも見られる論点です。しかし、長島さんが「安倍政権が示している安保法制の全体像と、民主党が目指す全体像にはズレがある」と指摘されているとおり今回の安保関連法案には数多くの問題があるという認識は一致しているものと考えています。
長島さんは安保特別委員会における質問の冒頭、安全保障の要諦は「やりすぎてもいけない、やらなさすぎてもダメ」とし、脅威は「意図と能力のかけ合わせ」であり、脅威を取り除くためには相手の意図をやわらげる外交力の重要性を訴えられていました。このような言葉は大きくうなづけるものであり、安倍首相の「speak loudly(声高)」と同様に「やりすぎ」をたしなめる立場での質問だったものと理解しています。
とりまく情勢に対する認識について、私自身の考え方は以前の記事「普通に戦争ができる国について」の中で綴っていました。抑止力の強化は軍拡競争に繋がる側面もあるため、個別的自衛権に限った「特別さ」を維持するほうが望ましいという考えを示していました。今回、安保関連法案を成立させれば、ますます平和国家のブランドイメージを低下させ、よりいっそう日本もISILのような国際テロの標的にされるリスクが高まっていくものと危惧しています。
アフガニスタンのDDR(武装解除・動員解除・社会復帰)で活躍された伊勢崎賢治さんは、平和国家である日本のイメージは良く、「軍事的下心がない」と認識されていると話されています。そのため、武装解除の交渉がスムーズに進んだことを紹介し、「憲法9条によるイメージブランディングが失われたら日本の国益の損失だ」とも語られていました。そもそも軍事力で平和が築けないことはイラク戦争などを通して教訓化されてきたはずであり、わざわざ平和国家のブランド力を棄損させる安倍政権の判断は非常に残念な話です。
たいへん長い記事になりました。最後に、立憲主義の観点からの問題も強調しなければなりません。下記の報道のとおり衆議院憲法審査会で参考人質疑が行なわれ、自民党が推薦した学識経験者も含め、この一連の法案を3人全員が「違憲」という見解を述べています。いずれにしても国民の多数が疑問視している中、現在の国会内での数の論理を振りかざした強行採決は絶対許されません。そのためには戦争への道に繋がりかねない安保関連法案に疑義を抱く国民一人ひとりが、何らかの形で反対の声を発していくことが本当に大切な局面だと考えています。
衆議院憲法審査会で参考人質疑が行われ、安全保障関連法案について、「従来の政府見解では説明がつかない」という指摘や「憲法9条に明確に違反している」といった意見が出され、出席した3人の学識経験者全員がいずれも「憲法違反に当たる」という認識を示しました。衆議院憲法審査会で行われた参考人質疑では、出席した3人から、後半国会の焦点となっている安全保障関連法案について意見が出されました。この中で、自民党、公明党、次世代の党が推薦した、早稲田大学法学学術院教授の長谷部恭男氏は、「集団的自衛権の行使が許されることは、従来の政府見解の基本的論理の枠内では説明がつかず、法的安定性を大きく揺るがすもので憲法違反だ。自衛隊の海外での活動は、外国軍隊の武力行使と一体化するおそれも極めて強い」と述べました。
民主党が推薦した、慶応大学名誉教授で弁護士の小林節氏は、「仲間の国を助けるため海外に戦争に行くことは、憲法9条に明確に違反している。また、外国軍隊への後方支援というのは日本の特殊概念であり、戦場に前から参戦せずに後ろから参戦するだけの話だ」と述べました。維新の党が推薦した、早稲田大学政治経済学術院教授の笹田栄司氏は、「内閣法制局は、自民党政権と共に安全保障法制を作成し、ガラス細工と言えなくもないが、ぎりぎりのところで保ってきていた。しかし今回の関連法案は、これまでの定義を踏み越えており、憲法違反だ」と述べました。 【NHKニュースWeb2015年6月4日】
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コメント
>自民党が推薦した学識経験者も含め、この一連の法案を3人全員が「違憲」という見解
このことをお粗末なミスとか痛快とか喜んでいる方も居られるようですが、
与党から推薦された学識経験者の経歴を見ると「違憲」と言うことは
簡単に予想できたことだと感じています。
最近の政治家を見てみると、ミスというのも有り得る話とも思いますが、
そこまでお粗末なのかという逆の思いも持っています。
だから何かしらのシナリオがあるのでは疑ってみたくなるのですよね。
例えば、
・今回の件を理由に一度「安保関連法案」を廃案にする
↓
・謙虚になどと弁明しつつ消沈してみせて、中国を安堵させる
↓
・意図的に包囲網を緩めて日中融和などを演出してみせる
↓
・表面上は日中の距離が近づくが、中国は調子に乗る(*)
↓
・今まで以上に、中国が南シナ海で好き勝手を強める
↓
・日米とも手が出せないように演出して見せる
↓
・中国がさらに調子に乗り、東シナ海でも好き勝手を強める
↓
・この時点で日本国民の危機感を煽る(ここまでで約1年経過)
↓
・2016年7月衆参同日選挙に踏み切って与党大勝
↓
・2016年11月米国大統領選挙で共和党勝利
↓
・日本国憲法を一気に改憲、米国も賛同
↓
・保守政党がガッチリ政権を固めて好き勝手を始める
などという感じで。
恐らくは考えすぎの御伽噺の類だろうとは思います。
(*)でも、韓国をけん制する意味でも効果があり一石二鳥だったりもします。
投稿: s | 2015年6月10日 (水) 22時42分
安保法制議論については、sさんのおっしゃられているように、何かの仕掛けがあるのではないかと思っています。
今国会に限った話ではないですが、結構法案が通過していないんです。
会期末を控え、この調子だと、審議未了が続出しそうなんです。
ちゃっかり、通信関係の国際協力の株式会社作ってみたりというのはやっています。
なんだか、この期に及んでカジノ法も審議したいみたい。
安保法制で時間をつまんで、通せるものはロクな審議なしで通してしまう。
あるいは、安保法制の話は憲法論議に結び付けるだけにしてしまうというのが、ストーリーとしてあるのではないかと思います。
「現行法体系でできないものは憲法を改正するしかない!」って。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2015年6月12日 (金) 16時32分
sさん、でりしゃすぱんださん、コメントありがとうございました。
いろいろ深読みできるような動きに対し、確かに興味深い見方だと思います。なお、新規記事は労働者派遣法改正案について投稿する予定ですが、こちらも一部で党利が絡みながらの動きも目に付き始めています。そのあたりも含めて綴ってみるつもりです。ぜひ、これからもご注目いただければ幸いですので、よろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2015年6月13日 (土) 08時20分
自分たちの要求が拒まれるのならば、
結局は、暴力に頼るというのはどうかと思います。
国会議員のレベルが段々と発展途上国に戻っているような気がします。
>http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20150613-00000708-fnn-pol
今回の件で、異なる見解による問題は議論では解決できないと
選良の方々が、自ら証明してしまったことはとても残念です。
又は、議論のルールは自分の都合で無視しても良いと、身を持って示したという事でしょうか。
何にせよ、力には力で対抗するのが正しいと野党側も認めたと解釈すべき事態で、
それならば、力を集団的に保障できる集団的自衛権も、結局は正しいとなってしまいます。
投稿: s | 2015年6月13日 (土) 11時38分
sさん、コメントありがとうございました。
「旧態依然」という批判も受けてしまったようですが、圧倒的な「数の論理」に対抗するため、以前から見かけた光景だと言えます。確かに議論には議論で対抗することが筋だと私も考えています。当然、物理的な圧力で結果的に相手を傷付けた場合、その行き過ぎは強く批判しなければなりません。そのような点を大前提として、国民に向けて問題点を強くアピールする一つの手段として騒然とした場面を作り出すこともあり得るように感じています。さらに国民からの賛否や評価が分かれがちとなるため、時と場合を選びながら慎重な判断が欠かせないものと思っています。
投稿: OTSU | 2015年6月13日 (土) 20時30分
時に「数の理論」と言い、時には「民意」と言いますが、
その違いが私には解らないのです。
管理人も、自分の意に沿う場合には「民意」に従うことを求めていましたが、
今回のような場面では「数の理論」への対抗に「騒然」が必要と言います。
この「数」の差は民意で生まれた結果の筈で、その線引きが解らない。
ここの判断基準は、色々と解らないことだらけで困ります。
投稿: s | 2015年6月14日 (日) 00時22分
sさん、コメントありがとうございます。
政権選択の総選挙や直接民主制の首長選の結果が大きな方向性に対する民意となります。しかし、具体的な個々の政策判断すべてを白紙委任している訳ではありません。そのための議会での審議があり、議案を提案する側が謙虚に反対意見にも耳を傾け、場合によって撤回や大幅な修正を加えることが健全な民主主義のあり方だと考えています。もちろん議論を尽くした上、最後は多数決で決着していくことも民主主義の基本だと受けとめています。
しかしながら個別の議案に対し、議会の外側の民意は反対の声が高く、直近の選挙での議席数との「ネジレ」が生じる場合も決して少なくありません。その際、提案者側のペースで結果が見えている採決に機械的に応じていった場合、それはそれで強く反対している「民意」との温度差を表出させてしまうように感じています。念のため、大前提は昨日コメントしたとおりであり、今回のような「騒然さ」を推奨している立場ではありません。さらに上記のような問題意識は都合よく変動させていないものと自分自身では認識しています。
投稿: OTSU | 2015年6月14日 (日) 07時24分
>解釈が情勢変化のもとにその都度変更できるという理屈には違和感を抱いています。それも内閣の意思で憲法の根幹を解釈で変えていく行為は権力を縛るという立憲主義をないがしろにした暴挙だと考えています。
そもそも、集団的自衛権を「権利はあるが行使できない」としたのも、内閣法制局という一行政機関の解釈です
つまり「内閣の意思」でしかありません
内閣の政策が憲法違反かどうかを決めるのは、政治家でも学者でも、ましてや内閣法制局でもありません
あくまで最高裁判所です
そして最高裁判所は集団的自衛権は違法だという判決を出したことはありません
>あくまでも平和憲法のもとの自衛隊であるため、海外での直接的な参戦は控えることができました。
朝鮮戦争では機雷掃海のため、自衛隊はまだありませんでしたが日本特別掃海隊が結成され、最前線に派遣され掃海任務を行っています
事実上参戦しており、戦死者も出しています
残念ながら現実の脅威の前には、平和憲法があっても参戦を防げなかったことが歴史的に証明されています
投稿: | 2015年6月14日 (日) 18時07分
2015年6月14日(日)18時07分に投稿された方、コメントありがとうございました。
最高裁が最終的な判断を下すことはご指摘のとおりですが、伊達判決を受けての砂川事件判決が与党の解釈に対して「お墨付き」を与えているとは到底考えられません。その上で「違憲」の可能性が極めて高い今回の法案を強引に通そうとすることは立憲主義や憲法順守義務に反していると言わざるを得ません。確かに個々人で今回の動きについて様々な見方があろうかと思いますが、私自身は記事タイトルに掲げたとおり「問題が多い安保関連法案」だと受けとめています。
なお、これからもコメントをお寄せいただけれる場合は名前欄への記入について、ぜひ、ご理解ご協力くださるようよろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2015年6月14日 (日) 20時05分
最高裁が憲法の番人と言われるのですが、違憲立法審査権・・・具体的な立法審査を逐一、最高裁で行っているということは寡聞にして聞きません。
つまり、なにかの利益相反関係になって、初めて地裁・高裁等に提訴されて、三審制でようやく最高裁に上訴されて、最高裁判決がでて判例となる。時間がとてもかかります。
憲法裁判所が必要ならば、違憲立法審査権フル活用した強大な組織を最高裁内に作る。それを企画するのは最高裁です。やっているでしょうか?
結局、違憲ではないとされたものは国会に提出さえされません。事前審査権限は、閣法ならば内閣法制局、衆法ならば衆議院法制局、参法ならば参議院法制局が担当します。
ヤクショの場合、それぞれの府省に審査担当(文書課など)が存在し、トリプルチェックくらいになっていて、チェックをやっている間に与党のチェック(根回し)もやって、大臣決裁、事務次官会議、閣議決定、国会提出に至ります。
今回の安保法制は閣法(政府提出法案)なんです。内閣法制局がOKを出して閣議決定したということは、「政府」は違憲ではないと判断したということです。
違憲行為が行われて、利益相反行為が行われた場合、提訴・判決をもって最終的に判断します。
仮に、違憲状態のまま行為が進んだ場合、もう、その行為は行われているわけですから、違憲判決が確定するまでは「やったもん勝ち」になります。憲法を破ることはたやすいんです。
やったもん勝ちにならぬように、憲法に「歯止め」をかける条文があればいいのですが、現行憲法では規定がありません。
いわゆる「国会緊急権」などのことで、憲法を犯したときの罰則も何もない。
でりしゃすぱんだは加憲論者だと言われることがありますが、そうではないんです。
例えば「9条」、小中学生に予備知識を与えずに「素直に」読ませてみて、どうやったら集団的自衛権ができると読めますか?こねくり回したら読めるんです。逆さにしたって読めないんです。
現行憲法は、日本語があやふやで、解釈は国会・政府・裁判所、学者、法曹、書士、みんな違う。論理的な硬さがなく「義務教育の国語の教材にさえできない条文」という情けない日本語が書かれているのです。
このままでいいですか。時代によってテキトーに読まれてしまう憲法。私はいいとは思いません。護憲の立場は変です。日本語も変容する。
民主政権下でできた自民党の原案もむちゃくちゃです。民主党はそのころ原案をWeb上で出していたとは認識していません。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2015年6月15日 (月) 04時47分
「今までの憲法解釈を変えてはならない」
現在の憲法解釈では、核武装も「自衛の範囲なら合憲」だと解釈されています
自衛のためなら核武装さえ許容できると、とっくの昔に解釈しているのですから、自衛ためなら集団的自衛権も行使容認されるのは自然なことだと思います
というか私には集団的自衛権容認より、核武装も可能という現解釈の方がよっぽど重大だと思います
現憲法解釈は変えてはならないという人たちは、日本の核武装の道を残せと言っていることになります
個人的には核武装に必ずしも反対ではないので別に構いませんが
個別的自衛権も集団的自衛権も、あくまで自衛の範囲の話であり、自衛の範囲を超える場合の武力行使には集団安全保障が必要となります
投稿: hayaike | 2015年6月15日 (月) 05時16分
>違憲行為が行われて、利益相反行為が行われた場合、提訴・判決をもって最終的に判断します。
私も憲法裁判所が無いのは欠陥だと思ってます、
>内閣法制局がOKを出して閣議決定したということは、
>「政府」は違憲ではないと判断したということです。
内閣法制局長官の答弁ははっきり合憲とは言ってないね。
日本語に限らず自然言語で記述された法律(文書)の解釈に幅が出るのは仕方ないです。
だから議論なり判例なりで解釈が決まっていくのだけど、今回はそれを無視している。
自民の説明はオレオレ合憲だからなあ。普通はあんな説明は恥ずかしくてできないのだが
高村正彦なんて主張が支離滅裂だけどどうしちゃったのかね。
犯罪を犯しても有罪が確定するまではやってよいという今の内閣は本当に幼稚だ。
投稿: ハルチャンド | 2015年6月15日 (月) 11時31分
でりしゃすぱんださん、hayaikeさん、ハルチャンドさん、コメントありがとうございました。
いろいろな見方や情報に触れられる機会は非常に貴重なことだと思っています。本来、個々の論点について私自身からも逐次レスすべきところなのかも知れませんが、そのようなきめ細かい対応がはかれず申し訳ありません。特にhayaikeさんにはハンドルネームを付けていただき、他の記事に対してもコメントを頂戴していますが、手応えの薄い場になっている現状について合わせてご理解ご容赦願います。
投稿: OTSU | 2015年6月20日 (土) 20時43分
拙い意見で申し訳ありません。場違いな気もします。
今更ですが、常任理事国が国連憲章を守らないというのはどうなんでしょう。その事実から彼らの資質を問い、国連憲章の強制力を強める。という道は無いのでしょうか。
核ミサイルからして国連憲章違反でしょう。
それと9条についてですが、皆さん自虐的だとか、他国の良識まかせの理想論だとか言われます。戦後70年も経つのにいまだに隣国は被害者づらです。総理は謝罪や賠償や経済援助を挙げ、平和国家としての歩みを強調しますが
、これからも事あるごとに言われ続けるのでしょう。
それならば加害国としての反省という立場から、国の最高規範である憲法によって自らの手足を縛る、という姿勢は国家の反省を示す最上級のものにはならないでしょうか。
中国共産党の存在理由は抗日の立役者です。日本を悪者にし続けなければなりません。日本の侵略行為そのものは
事実だと思いますが、時代背景だった。と認識してます。
誰だって「お前が悪い」と言われ続けたくはありません。しかし、
加害国が反省の意で自らの武力を封印すると宣言したら、
いまだ被害国を名乗る国々は逆の事ができるでしょうか。
9条の堅持を加害国の反省として宣言するならば、被害国を道義的に縛ることができるのではないでしょうか。
それは自虐ではなく、鉄の自制心だと思うのです。
投稿: 難しいことわかりません | 2015年6月29日 (月) 21時09分
難しいことわかりませんさん、コメントありがとうございました。
ご指摘のとおり国連そのものに問題点や不充分な点が多いことは否めません。それでも一定の役割を果たしてきていることも確かだろうと思っています。
池田信夫さんの『戦後リベラルの終焉』を読み進めているところですが、1948年頃から冷戦が始まっても軽武装で軍事費を節約した吉田茂首相は次のように回顧していたことが記されています。憲法第9条は日本を警戒するアメリカやアジア諸国に対する「間近な政治的効果に重きを置いたもの」だったと語っていました。
このような経緯があり、自衛隊創設以降も個別的自衛権の行使までを限界としてきた自民党が今回のような解釈変更を強行する、たいへん大きな問題だと考えています。
なお、同じ内容のコメントの誤送信だと判断できますので、後から送られたほうを一つ削除したことをお伝えします。
投稿: OTSU | 2015年7月 4日 (土) 21時13分